逆位置の御呪い(ナワトレ)
ゲームの待機ロビーに入ったナワーブは、そこにいた先客に足を止める。向こうも部屋に入ってきたナワーブに気付いたのか、緩慢な動作で顔を上げる。
「……おはよ」
「ああ」
眠たげに目をしょぼつかせたトレイシーが、か細い声で挨拶をする。
夜更かし常習犯のトレイシーがこんな早い時間のゲームに参加するのは珍しい。ナワーブもまさかトレイシーに会うとは思っていなかった。
迷ったのは数秒で、ナワーブはトレイシーのすぐ隣の椅子を引いた。そしてそこにどっかりと腰を下ろす。
彼女には聞きたい事もあるし、御守りの礼を言うべきだと思ったのだ。
「!」
トレイシーはナワーブのその行動に軽く目を見開いた。残っていた眠気も吹き飛んだ。
普段の彼であれば、この場合は不必要にトレイシーに近づいてこない。一番離れた所に座って、他の人間が来るまで目を閉じている事が多い。
話しかけてくるな。そう全身から滲み出ているようで、トレイシーもなるべくナワーブの気に障らない様にと静かに仲間達を待つ。
そのナワーブが、わざわざ自分の隣に座ったのだ。これは何かしら自分に用事があるに違いない。違いないのだが、正直にいえばトレイシーはナワーブがちょっと怖い。出来たら二人きりで話すのは遠慮したい。
本人はそのつもりはないのかも知れないが、こっちを見てると睨まれてる気分になるし、ゲーム終わりに舌打ちされるとトレイシーは自分が責められているようで居た堪れないのだ。
機敏に動き、仲間を率先して助けに走るナワーブにとって、鈍臭くてすぐにハンターに倒されてしまう自分などお荷物でしかないだろう。そう思われても仕方がないとトレイシーは思っている。
だから、ちょっとでも動けるようになれればと朝のゲームに参加しようと思ったのだ。
トレイシーはリモコンを弄る振りで手元を見つめながら、早く他の誰かが来てくれることを祈った。
「……なあ」
「!な、なに?」
話しかけられた事にうっかりと声が裏返ったが、慌てて取り繕う。トレイシーが内心ドキドキとしながらナワーブの次の言葉を待つ。
「珍しいな、お前が朝から予定外のゲームにいるの」
「あ……その、ちょっと練習とかしないとなって。最近、足引っ張っちゃってるし」
「は……?」
俯いてそう答えるトレイシーに、ナワーブは片眉を跳ね上げた。
トレイシーが足を引っ張る?二人分の活躍をするこいつが?
確かに少し、ハンターに追いかけられるのは苦手かも知れないが、それを補って余りある恩恵を仲間にもたらしている。
大体、人には得意分野というものがある。ナワーブは兎に角あのゾッとする音を出す機械に触れたくない。その暗号解読を進めてくれるトレイシーの存在は有難い。だから代わりにハンターの前に躍り出るくらい、安いものだと思っている。
どこかしょんぼりとして見えるトレイシーを、ナワーブはジロリと睨む。
「何故、そんな事を?」
「え?」
「お前が足手纏いって言った奴がいるのか」
「あ……えっと」
「誰だ?」
「ち、違う!違くて!」
徐々に眉間の皺が深くなっていくナワーブに、トレイシーはぶんぶんと横に首を振る。ナワーブ本当に顔怖い。目つきも怖い。
ナワーブは何か思い違いをしている様だが、誰かに何かを言われた訳ではない。トレイシーが勝手にそう感じているだけだ。ただ、「何故そう思ったのか」と聞かれれば、その原因は目の前にいるのだが。
ナワーブは眉間の皺こそ消えたものの、探るように目を細めている。
「違うなら、なんで急にそんな事を気にし出したんだ。お前、戦績も悪くはないだろうが」
「あ、や、その!サベダーさん、ちょっと前にとっても強くなったし、最近みんなを助けに行く事もぐんと増えたでしょ。だから、私走るの苦手だし、迷惑かけない様に頑張ろうかなーと」
モゴモゴと申し訳なさそうにしているトレイシーに、ナワーブは呆れて溜息をついた。倒されても拘束されても、機械人形で仕事をしてる奴がよく言う。
ナワーブは新しく荘園に来た者達が、動けない主にお構いなしで稼働し続ける機械人形に驚いている姿を見ている。何度も何度もだ。特に初見ハンターの反応が面白い。
そんな事が出来るのはトレイシーだけだ。それに、トレイシーはゲームにいるだけで仲間の解読力を上げるのだ。これだけ貢献しているのに、迷惑とは。
なぜこいつはこんなにネガティブな考え方をするのだろうかとナワーブは頬杖をつく。トレイシーは手の中のリモコンを弄りながら、身を小さくしている。
「お前の運動神経じゃ、頑張ってどうにかなるもんでもねぇだろ」
「そうなんだけど、でも、でもサベダーさん最近あんまり思ったようなゲーム出来てないんじゃないかなって。昨日も不機嫌そうだったし……」
ナワーブはトレイシーの言葉にフードを掴み、深く被り直す。図星を突かれたのだ。
顔を隠し、見た目の寝不足は誤魔化せても、ゲームの不調は誤魔化せていなかった。避けられた負傷、誤った一瞬の判断。後から後から、こうしていればという思いが湧き上がる。
「だから、ちょっとでも私も頑張って舌打ちされる回数減らせればなーって」
「あれは俺のせいだから意味ねぇぞ」
「え?」
ナワーブは卓上に組んだ手に、鼻の頭を押し付けた。――あれはお前にではなく、俺の不甲斐なさに出た舌打ちだったんだが。
こっそりとトレイシーを見れば、手元のリモコンを握り込んでじっと息を潜め、縮こまっている。まるで、巣穴に隠れた小動物だ。
そうか、こいつがこんなに俺に萎縮してんのは俺の普段の行動が原因か。まさか、トレイシーが自分が責められていると解釈していたとは。
ナワーブは今まで、自身より若く幼い存在と接する機会は少なくはなかった。弟妹もいたし、兵役時代もそうだった。しかしトレイシーの様な酷くか弱く臆病な存在は初めてだ。
今度から舌打ちに気をつけよう。こいつのいない所でするようにしよう。ナワーブはそう反省する。
ナワーブは出来る限り、なるべく穏やかに聞こえる様にトレイシーに話しかける。
「なあ」
「な、なに?」
「蜘蛛の巣の飾り、なんだったか……ドリーム何ちゃらっての、作ってくれただろ。お前ら」
「え、あ、うん。ドリームキャッチャーね」
「悪夢を捕まえるんだったか。すげえ手が込んでたから礼を言っとこうと思ってな」
「へ……」
トレイシーはぱちぱちと目を瞬かせる。ぽかんと口を開いてこちらを見る顔はどこか幼く見える。
まさか礼を言われるとは思っていなかったのだろう。だからってそんなに驚くことは無いんじゃなかろうか。
トレイシーはナワーブの気まずげな雰囲気を察してへらりと笑い、手を振る。
「あはは、喜んでもらえて嬉しい。作り出したらみんなついつい気合入っちゃって。私も自分の趣味に走っちゃったんだけど」
「そうか。でもお陰で、よく寝れたぜ」
「……………………え。ええ⁈本当にあれ効いたの⁈」
がたりと椅子を蹴倒してトレイシーは立ち上がった。「神頼み」と言うのだから、当然作ったトレイシーだって御守りは気休め程度にしか考えていなかったのだ。
非科学的な、とかそんな事を言うつもりはないが、まさか本当に悪夢に効くなんて思って作ってはいない。
ナワーブはトレイシーのその反応にふく、と笑ってしまった。お前も信じてなかったのかよ。
「効いたかどうかは分からねえな。お前らの面白い『神頼み』に気が抜けただけかも知れねぇし」
肩を震わせているナワーブに、トレイシーは取り繕うように咳払いをした。椅子を立ててそこに座り直すとむっすりとした顔で肘をつく。
「別に、本当にお守りが効いたと思ったわけじゃないし!病は気からって言うし、カヴィンだってそう言ってたからね。サベダーさんが寝れたならいいけど、ちゃんとエミリーに診てもらった方がいいよ」
「……ああ」
トレイシーがカヴィンの名を呼んだので、ナワーブは片眉を跳ね上げた。
――おかしい。昨日まであいつも「アユソさん」呼びだったのに。
いつの間にかカヴィンはファーストネーム呼びな上に、呼び捨てになっている。それになんだか、トレイシーの話振りから察するに、とても親しげに感じる。
ナワーブはそれが面白くなかったが、表立った態度には出さなかった。
「そうだな。お前に不眠が見抜かれてたなら、先生にも俺の不調は筒抜けだったろうし」
「うーん、そうかも?ウィリアムは気付いてなかったけど、エミリーなら気付いててもおかしくないよね」
「俺としては上手く隠せてると思ったんだがな……」
「サベダーさん、最近欠伸多いし、反応ちょっと変だったし。あと、目元隠しても無駄っていうか……ほら、イライも目隠ししてるけど、顔色は見えてるでしょう?」
トレイシーの口から「イライ」と出たことで、ナワーブは眉間にぐっと皺を寄せた。
ついこないだまでイライも「クラークさん」と呼んでいた筈なのに。いつの間にかこちらもファーストネーム呼びになっている。
――俺だけずっと、ラストネーム呼びで他人行儀なのはなんでだ。
ウィリアムは自分と違って陽気だし、コミュニケーション能力も高いし、面倒見もいい。最初からトレイシーもウィリアムには懐いていたから、彼らが親しげなのは仕方がないと思っていた。
ナワーブは、自身がお世辞にも親しみやすいとは言えないタイプなのは自覚している。トレイシーが自分に対してはどこか緊張していてぎこちないことも知っている。
だが、後から来た連中とは次々と打ち解けるのに、いつまでも自身へのその態度が変わらないことは不満に思っている。
上流階級らしさの滲み出る、とっつきにくい雰囲気のフレディやセルヴェに対しては分かるが、もう少し自分には馴染んでくれてもいいのではないのか。
舌打ちが多いせいか。睨んでいるつもりはないのだが、目つきが悪いのか。それとも口数が少ないのが怖いのだろうか。黙っていると怖いとはよく言われるが。
何が悪いのかと考え込んでいるナワーブの眉間に皺が寄る。俯けばフードの端から鋭い眼光しか見えなくなる。こうなると、もうトレイシーには話しかけられる雰囲気ではなくなる。
今の今まで和やかに話していた筈なのに、ナワーブは黙り込んでしまうと、こうだ。何を考えているか分からないから、怒らせてしまったのかと不安になる。
――やっぱり怖いんだよなあ、サベダーさん……
テーブルクロスの皺を見つめて、トレイシーは誰か来て欲しいと切実に願う。そろそろこの空気の中に二人きりなのも限界だ。
もうこうなったらハンターでもいい。訪問して欲しい。今ならどんな恐ろしい姿のハンターでも、拍手で出迎えられる自信がトレイシーにはあった。
「トレイシー」
「ふひゃ!」
ハンターの椅子と、出入り口ばかりを気にしていたトレイシーは名前を呼ばれた事に驚いて、妙な悲鳴をあげてしまう。
「ふひゃ?」と訝しげな顔で繰り返すナワーブに慌てて背筋を伸ばす。変な声が出た事は忘れて欲しい。
「な、なに?」
「……これを当人に聞くのはどうかと思うんだが、何が悪いのか教えて欲しい」
「悪いって……な、何が?」
「俺が怖いんだろう、お前」
「っ!」
ナワーブがちらりと視線を向ければ、トレイシーは青褪めた顔でうろうろと視線を彷徨わせる。まるで猟犬に追い詰められたリスの様だ。
如何にも小動物っぽいもんなあこいつ。ナワーブはそう考えながら、テーブルに片肘をつく。
「うん?」
「あの……えっ、と……」
「責めてるわけじゃねえよ。ただ、どこが悪いのか聞いてんだ。俺には何が原因か、さっぱり分からねえから。お前とは同じゲームになる回数も多いのに、一向に馴染まないのは大方俺のせいだって事だけは、感じてる……」
そう自身で言いながら徐々に項垂れ、語尾が小さくなっていくナワーブにトレイシーは目を瞬かせた。この元軍人は他人に興味ない冷たいタイプと思っていたのだが、どうやらトレイシーの態度に落ち込んでいるらしい。
トレイシーは慌てて首を横に振る。
「ち、違うよ。サベダーさんが悪いとかそういう訳じゃ……」
「じゃあ、怖くねえのか?今すぐこの場から逃げたそうに見えるんだが」
「うっ……」
中々に痛い所を突いてくる。逃げるまでは行かないけれど、二人きりは辛いと感じていたのは事実だ。トレイシーは、つい小さく呻いてしまったのを咳払いで誤魔化した。
挙動不審な少女に、ナワーブは困ったように眉尻を下げる。
「お前、わかりやすいな」
「だ、だって!なんで急にそんなこと言い出すの、サベダーさん……」
「それだ、それ」
「え?」
「なんで俺だけずっとラストネーム呼びなんだよ。ずっと俺にだけ壁がある気がするんだが」
「あ、えっと。その、馴れ馴れしくされるの嫌なのかなって。最初、そう言ってたから」
「……………………そうだったか?」
ナワーブは記憶を辿るが、そんな事をトレイシーに言った覚えは無かった。しかし、自分が覚えていないだけで何かそう思わせるような発言があったのだろうか。
首を傾げているナワーブに、トレイシーはぼそぼそと小さく言葉を続ける。
「ウィリアムに言ってた……馴れ馴れしくするなって。お前らと不必要に馴れ合う気はないって。お仲間ごっこなら勝手にやってろって」
「………………………………」
ナワーブは黙って組んだ手の上に額を押し付けた。
――言った。それは確実に言った。
ここに来たばかりの頃に、お節介なウィリアムと激突した時に出てしまった言葉だ。言われた当人は全く聞く気もなければ本当に忘れている筈だ。
あの頃は、こんな荘園にいる連中なんて信じられるかと全員が余所余所しい態度を取っていた時期だ。コミュニケーション能力が突き抜けていたウィリアムとエマがその状況を改善してくれたが、その中でもナワーブは特に頑なだった。
一時期はこいつ殺そうかと考える程に、ウィリアムを鬱陶しく思っていたのだ。当時はそれは酷い態度だった。
それでもめげなかったウィリアムに、ナワーブの方が折れた。こいつなら仕方ないと思うようになって、今に至る。
何があっても「ま、気にすんなよ!」とにっかり笑う男なので、ナワーブもそういうもんかと思うことにしたのだ。
――まさか、過去の自分の言動を真剣に受け止めてしまった人間がいるとは。
ナワーブは過去の自分を恨みながら、どう言い訳をしたものかと思考を巡らせる。
「あー、あのな……あれは、勢いで出た言葉であって、気にしなくていいと言うか。そもそも言われたウィリアムがあれなんだぞ。お前にそんな事言わねぇよ」
「そ、そうなの?でもサベダーさん、私なんかに名前呼ばれて嫌じゃない?」
「なんでそんな事思うんだ」
暗い表情でそう言うトレイシーに、ナワーブは顔を顰めた。
「私なんか」と自分を卑下するトレイシーが、ナワーブには面白くない。いくら自分の人相が悪いからって、そこまで萎縮しなくてもいい筈だ。
「俺は仲間に壁作られる方が悲しい」
「え……」
ナワーブの言葉に、トレイシーは呆気に取られた顔になる。ナワーブはトレイシーのその反応に、フードを引っ張り目元を隠した。
今更ながら、気恥ずかしい事を言ってしまったと思ったが、どうせなら全て言ってしまおうと覚悟を決める。
「俺に言わせりゃ、あまりにも他の奴と俺への態度が違うから、お前に嫌われてんのかと思ってたんだが」
「そ、そんな訳ないじゃん。いっつも助けてもらってるもん。感謝こそすれ嫌う訳ない」
「でも怖がってるだろ」
「それはそうだけど!」
「勢いよく肯定したな……」
「だ、だって、サベダーさんいっつも怖い顔してるし、目が怖いし、舌打ち怖いし、何考えてるか分かんないし、黙ってて怖いし、いるだけで怖いし!」
「遠慮無しで言うな、お前……」
ナワーブはトレイシーからの「怖い」の連呼に、少しだけ気分が落ち込んだ。
怖がられてるのは分かっていたが、いるだけで怖いと思われてたのか。
しょんぼりとしているナワーブだったが、普段動かさないせいで表情筋が死んでいるのでトレイシーはその変化には気づかなかった。
「足手纏いならいない方がましだって言ってた……」
「セルヴェに対してな。高飛車な態度に腹が立ったもんで」
「俺のやる事に口出しするなら役に立ってからにしろって言ってた」
「言い争いになった時にマーサに言ったやつ。なんでそんな事まで覚えてんだ」
「俺に構うなってよく言ってた……」
「お医者先生にな。今は絶対言わねえよ」
怪我を心配するエミリーに反抗した結果、笑顔で消毒液をぶっかけられたものだ。あの先生の恐ろしさは、今はナワーブも身に染みているので絶対に逆う気はない。
ナワーブが刺々しかったのは最初だけで、ゲームを通して仲間意識ができてしまった後は、態度も軟化していった。
始めはゲーム中も独断で動いていたナワーブがマーサやウィリアムの様に仲間を助けに動く様になり、後から来たメンバーは口数の少ない無愛想だが仲間思いの男とナワーブを認識する様になった。
だが、ナワーブの最初の態度の悪さを見てしまったせいで、トレイシーにはすっかりと「ナワーブは怖いもの」と刷り込まれてしまっていたらしい。
身から出た錆とはいえ、当初の自分の行動に首を絞められることになるとは。ナワーブはどうしたものかと途方に暮れる。
「こ、怖いのは怖いけど、サベダーさんが悪い人じゃないのは分かってる。分かってるけど……それに今更過ぎて呼び方変えるのも変かなあって。なんでサベダーさんも突然そんな事言い出したの。何も興味なさそうな鉄仮面みたいな顔してるからそんな事どうでもいいと思ってるもんだと」
「勢いでずけずけ言うな、お前。今更とは言うが仕方ないだろう、気になったんだ。嫌われてるなら仕方ないと思ってたんだが、そうでもないようだから思いきって聞いてみたんだ」
普段からは考えられないほどに饒舌なナワーブに、トレイシーはただただ目を丸くする。ナワーブとこんなに会話をした事もないが、見ている限りでもナワーブは短くしか言葉を発さない印象があった。
ナワーブは動きの鈍い自分の事は眼中にないか、足手纏いと思ってるとトレイシーは考えていたのだ。まさか壁があると落ち込まれたりするとは思っていなかった。
怖い怖いとは言ってしまったが、最初から単独で動き、強いナワーブはトレイシーの目にはとても格好良い人間に見えた。
逆立ちしてもナワーブの様にはなれないのは仕方ないが、だからこっそりと憧憬を覚えてトレイシーはよくナワーブを見ていたのだ。その為に彼の不調にも誰よりも早く、気付くことが出来た。
そのナワーブに、「仲間」と言われた事が少し嬉しい。トレイシーはむずむずとした思いが抑えきれず、テーブルの下で膝を擦り合わせる。
「それで、お前の誤解は解けたって事でいいよな?」
「え?ああ……うん」
「だったら、分かるよな」
テーブルに片肘をつき、トレイシーに体を向けたナワーブはすっかりと「待ち」の体勢だ。表情は変わっていないのに、どこか楽しげな空気を感じる。
トレイシーはぐうと口の中で唸り声を押し殺す。ナワーブが何を期待しているかは分かる。分かってはいるが、「さあ呼べ」と言わんばかりの態度をされると非常にやりにくいものがある。
「えっと……ナワーブ、さん?」
「ダメだ、やり直せ」
「えええ……」
「やり、直せ」
頑張ってトレイシーがファーストネームで呼んだのに、ナワーブはまだ気に入らないと言う。むすりとした顔でやり直しを要求される。敬称がついているのが嫌なのか。一応トレイシーなりに尊敬の念を込めたのに。
トレイシーが俯いていると、頬に痛いほどの視線を感じる。呼ぶまでナワーブに引く気はないのは分かった。分かったけどちょっと勇気を溜める時間がトレイシーには欲しい。
トレイシーは息を吸い込み、か細く息を吐き出すと、きゅっと口を引き結んだ。
「ナワーブ」
「………………」
名を呼ぶだけで、何故そんなに緊張するんだか。意を決した面持ちのトレイシーに、ナワーブは苦笑いを浮かべる。
それでも他人行儀な呼び方から変わったことにホッとする。ちりちりと感じていた疎外感が薄れた思いだ。
「うん、その方がいいな」
「サベ、ナワーブがいいならいいけどさあ……」
「早く慣れろ」
また元の呼び方に戻りかけるトレイシーに、ナワーブはふく、と笑う。
まだ少しぎこちないが、それでも壁は取り払われたと思える。
ドリームキャッチャーを切っ掛けに、ナワーブとトレイシーの間にあった、ぎこちなさは多少改善されていった。トレイシーから話しかける事も増えたし、ナワーブが声を掛けてもトレイシーが固まることは少なくなった。
ついこの間まで、直接ナワーブに話しかけられないと言っていたトレイシーの変化に、ウィリアムは「短期間の間に何があった」と首を傾げていたものだ。
いい意味で遠慮がなくなったトレイシーだったが、やっぱりナワーブが怖いのはそのままの様で、未だにビクビクされている事にナワーブは気付いていた。
完全に慣れるにはまだ段階が必要らしい。それでも新しい人間が来た時に、人見知りをするトレイシーがナワーブを盾にすることも増えたのでそれはそれで良しとしよう。以前のトレイシーならナワーブの後ろに隠れることはしなかった。多少は馴染んでくれた証だろう。
ナワーブの寝不足の原因だった悪夢も、あれ以来見ていない。悪夢どころか、夢も見ずにナワーブはぐっすりと眠れる様になった。あの連日の不調自体が現実ではなく、夢であったかの様にさえ思えてくる。
悪夢は精神的なものやストレス、気を張っていたが故の緊張などが原因なのだろうが、今は自分は安定しているとナワーブも感じられている。
その感謝をカヴィンに伝えると、「あれ、効いたのか……」とドリームキャッチャーの言い出しっぺである当人までもが驚いていたので、ナワーブは暫く笑いの虫が収まらなかった。
あれから暫く経つが、ナワーブの部屋の壁にドリームキャッチャーはぶら下がったままだ。
もう悪夢は見ないのでお役御免ではあるのだが、殺風景な部屋にある唯一の色なので、まあいいかとナワーブはドリームキャッチャー達をそのままにしている。
単なる彩りとしてだけでなく、いい効果もあるのだ。気分がささくれ立つ時、気持ちが沈んでどうしようもない時にドリームキャッチャーを眺めると少しだけ気分が和む。
だからナワーブは、部屋に来た仲間に首を傾げられようと、ウィリアムにニヤニヤされようと、イライのフクロウに飾りを突かれようと、ドリームキャッチャーをそのまま飾り続けている。