ナワトレ新作2本試し読み

色無き芙蓉 試し読み


――カーテンが風にそよぐ。
閉め切っていた窓が開け放たれている。
そしてその窓辺に一人、男が腰掛けている。

赤い、血とワインの色の衣に、月光を紡いだ白髪。胸に開いた穴に伝承の石を宿す男。先ほどまで美しい死体でしかなかった存在。
物言わぬ肉の塊であった筈の男は、人ならざる気配を纏ってトレイシーにうっそりと微笑みかける。

トレイシーはゆっくりとソファーから立ち上がる。
この領域が、自分ではない存在に支配されている事を感じ取る。

「訪ねて来てやったぞ、人形」
「……招待した覚えはないんだけど」

トレイシーは困ったように眉根を寄せながら、頬に片手を添える。

「お客さんをおもてなし出来るようなもの、ここには無いんだよね」
「気にするな。お前を死なせに来ただけだ」

赤い来客が窓辺に立ち、窓の外から蛇の様にうねりながら藤蔓が室内に侵入してくる。
藤の蔓はゆらゆらと伸び進み、窓枠は太い枝で埋め尽くされてしまう。伸びた藤蔓はトレイシーの足元にまで到達している。
赤い男はトレイシーのすぐ側にまでやって来ると、顎を掴んだ。

「どうしてやろうか?」
「諦めて欲しいんだけどなあ」

トレイシーは苦々しい顔で呟く。

「厄介な死神に取り憑かれちゃった……」

楽しげに、赤い死神は微笑んだ。







 夜闇に沈んだビルの屋上を、白衣の男達が駆けていく。彼らは皆、大袈裟なデザインの防毒マスクを被り、個人を特定出来ない様になっている。
 顔は見えないが、それでも何かに追われているのか酷く怯えているのが分かる。彼らは頻りに周囲を見回しながら、ビルからビルへと飛び移り、走り続ける。
 息は切れ、どこをどう走っているのか自分達にも分からない。回収予定の地点はもう押さえられている。通信機の電波は途絶え、ただの箱と化している。上からの指示は仰げない。異変に気付いた回収部隊が動いてくれる事を祈ることしか彼らには出来ない。それまで、なんとしても逃げ切らなくてはならない。
 白衣の面々はアタッシュケースを抱えている人物を囲み、守りの陣形を保ちながら進んでいく。例え自身が命を落とそうとも、このケースだけは奪われるわけには行かないのだ。
 遠くへ。追手を振り切ったと安心できるところまで。奴らの探知範囲外まで出てしまえば。
 そう祈るような気持ちで走り続けていた彼らの目の前に、ばさりと黒い影が降り立った。
「!」
「よっこいしょっと」
 足を止めた白衣の面々が息を呑む。各々が手にしていた銃を一斉に黒衣の影に向ける。しかし肝心の影の主は緊迫した空気をまるで感じていないのか、呑気に膝の埃を払っている。黒のロングコートに特殊な単眼スコープを装着した男は、ゆったりとした態度だがどこか隙がない。肩には金色の機械仕掛けの鳥が止まっている。
 白衣の男達の視線が一身に自分に集まっていることに気づくと、彼はにこりと笑う。
「こんばんは。そんなに慌てて、どちらに行くご予定で?」
「………………」
 隣人の様な気さくさで話しかける黒服の男に対し、白衣達は何も答えない。答えぬまま、男を一定の距離で取り囲み、銃を突きつける。
 それを見たスコープの男は困ったように首を傾げる。
「うーん、お話をする気分では無さそうだ」
 黒服に向けられた銃口達が光を放つ。連続した銃撃音が夜空を切り裂き、銃弾は全て男へと命中する。
「!」
 立ち込めていた硝煙が消えると、黒衣の男の代わりに、開かれた黒の傘が白衣達の視界に現れる。盾の様にこちらに向けられた傘地から、パラパラと弾丸が落ちる。
「はあ……」
 黒い傘を差し向け、その中棒を肩に凭せた人物は先ほどの男ではなく、小柄な女に変わっている。黒いハットに黒い燕尾服を身に纏った女は、面倒くさそうに溜息を吐きつつ、片手にある妙な機械を操作する。
 白衣達は再び銃を女に向かって構えようとしたが、鋭い音を立てて飛んできた矢に腕や肩を切り裂かれ、銃を弾かれてしまう。
「っ!」
「ぅっ……」
 矢の飛んできた方向に男達が視線を向ける。月明かりを受け、銀色の機械人形達が弓を構えている。引き絞られた弦を見るに、一撃目は牽制の為に態と急所を外されていたが、次は当てるという意志を感じる。到底、動くことは出来なくなった。
 それでもじりじりと逃走を諦めずに後退りをしている白衣達に、女は傘を閉じると背後を振り返る。
「イライ」
「はいはい」
 最初の黒服の男が女の後方から進み出る。歩きながら被っていたフードと単眼のスコープを取り外すと、その下から金色の瞳が現れた。
 逆光なのにも関わらず、暗がりに浮かぶ二つの眼に足元から這い上がる恐怖を感じ、白衣達は目を逸らそうとした。が、視線を逸らせない。では遮ればと思ったが、腕も動かない。恐れ、ではない。本当に動かないのだ。どんなに力を込めても足も動かせない。
――あの眼のせいだ。あの金色の魔物の眼のせいだ。
 どうにかしてあの眼から逃れなくてはと思うのに、叶わない。じわじわと体の感覚が消えていくのを感じ、白衣達は必死に踠く。いや、踠こうとした。
「ぐ……!」
「……ぁ……!」
 必死に叫ぼうとするが、それも叶わない。体が石になってしまう、そんな恐怖を感じながら、やがて思考する力も奪われてしまう。
 数分もすれば、立ったまま固まる白衣達はうんともすんとも言わなくなった。その姿はまるで生々しい彫像の様だ。
 スコープを装着しながら、金眼――イライは首を振る。
「宝物だけで満足してくれれば、ここまでしなかったのに」
「あり得ないでしょ。そんな感傷に浸ってないで、仕事して仕事」
「分かったよ、トレイシー」
 黒スーツの女――トレイシーはごそごそと白衣の男のポケットを探っていく。通信機を見つけては全てを背後に放り投げる。それを機械人形達が回収し、四方に持ち去って行く。
 こちらの痕跡を残すわけには行かないので、消失ポイントを悟られないようにバラバラの地点で通信機を破壊する必要があるのだ。
 イライも白衣のリーダー格からアタッシュケースを回収し、中身を開いて確認する。そうして背後を振り返ると口元に手を当てて叫ぶ。
「イソップー!宝物、これで合ってる?ダミーとかだったりしない?」
「ちょっ、ちょっと、待ってくれない……?こっち、全力で走って来たんだけど……⁉︎」
 ぜいぜいと荒い呼吸をして、イライに呼ばれたもう一人の黒服――イソップはずり落ちた黒ジャケットを肩に羽織り直した。青いシャツの袖で額の汗を拭いながら、ふらふらと歩み寄ってくる。
 そんな疲労困憊のイソップをまじまじと見つめて、イライは不思議そうに首を捻った。
「どうしてそんなにイソップは疲れているのかな?」
「あんたのせいでしょうか!」
 白衣の男の服を探りながら、トレイシーがじろりとイライを睨んだ。イソップも恨めしげな目を向ける。
 トレイシーが割り出した白衣の男達の逃走経路、それが自身に近いと気付いたイライが、「足どめをする」と先行してしまったのだ。比較的近くにいたトレイシーが急いで現場に駆けつけたのだが、正に今イライが蜂の巣になる寸前というところだったので慌てて割り込んだ。
 しかし僅かにトレイシーの介入が間に合わず、イライは数発銃弾に撃たれてしまった。
 重傷を負ったイライを、イソップが自身の異能で蘇生させたのだが、イソップのいた場所は現場からかなりの距離があったので、彼は全力でビルの上を駆け抜けなければならなかった。
 蘇生した人間はイソップの元に来てしまうのだ。だが、敵対組織の連中を生捕りで制圧するには、イライの異能が必要不可欠だ。なにせ奴らは捕まるとわかれば自害をしてしまう。その前に拘束しなくてはならない。だから少しでも現場に近い場所へと走る羽目にあったイソップは、こんな状態になっている訳だ。
 呼吸が漸く落ち着いてきたイソップは、乱れた髪を掻き上げ、呟くように言う。
「絶対足止め役、トレイシーさんがやった方が良かったよね」
「まあまあ。トレイシー来る前に逃げられちゃったかも知れないじゃないか。それに二人が間に合うのは『視えて』たし。……ちょっと撃たれちゃったのは痛かったけど」
「未来視えてるなら尚更改善しようとか思わないわけ?痛覚が鈍いからって死なないわけじゃないんだからね」
 一瞬とはいえ瀕死になった癖に、へらりと笑って平然としているイライに、トレイシーは厳しい口調で注意した。
 イソップはアタッシュケースの前にいたイライを押し除け、中身を確かめる。ケースの中は段になっており、いくつかの装飾品の一番下に女性用のサークレットが収まっていた。銀製のサークレットは硫化で変色して黒くなってしまっていたが、中央に嵌っている紫の石はイソップが手を翳すと不穏な輝きを放ち始める。ただの骨董品ではない事を証明していた。
 手で触れれば、ぞわりと嫌な気配が腕を伝う。馴染みがあり、嫌悪の対象である深淵の力を感じ取る。
「間違いないよ、これが本物だ」
「こっちも見つけた」
 イソップがサークレットを慎重に取り出している横で、トレイシーは端末を放り投げた。白衣の男の一人から抜き取ったものなのだろう。放物線を描き、自身の手に収まった白い端末をイライが操作すると、中からは見慣れた人物達について書かれたレポートが出てきた。
「わあ。機密情報がたっぷりじゃないか」
「イライとイソップのもあるよ」
「最悪だ……」
 ぎゅっと眉間に皺を寄せるイソップの背中をトレイシーが叩く。
「人気者の宿命だねー。まあ、漏洩は防げたんだしさ」
「はあ……誰、この端末持ってたの」
「この人」
「ちょっとこれ持ってて」
 サークレットをトレイシーの手に置き、イソップは白い手袋を外す。端末を所持していた白衣の男の首に、素手で触れる。
 するとそれまで彫像の様に固まっていた男の体がびくり揺れ、見る間に肌の色が黒く変わっていく。数度全身が痙攣したかと思うと、黒い塊は靄へと変わり、空気中に霧散していってしまった。そこに人一人の人間がいた痕跡は影も形もない。
 このレポートをまとめた人間なら、自分達の素性を知っている可能性がある。うっかり生かして、現状を「あちら側」に伝えられては堪ったものではないのでこの世から消えてもらうしかない。
 何事もなかったように手袋を嵌め直すイソップの顔は、心なしか若返って見えたが、イライもトレイシーも全くその事は意に介さない。トレイシーは指に引っ掛けたサークレットをくるくると回しながら首を傾げる。
「残党まだまだ出てくるねえ。頭を潰しただけじゃ駄目だったかな」
「当然じゃないの?彼らの強欲さとしぶとさは僕らが一番分かってる」
「違いないね。いつまで経ってもしつこい人達だ」
 イライは顔では笑って答えながら、手にしていた端末を真っ二つにへし折った。トレイシーはそれを横目に、冷たい目でぽそりと呟く。

「本当にご苦労様な事で。…………もうあの『精神病棟』は残っていないのに、ね」







「ああ、トレイシー!素敵!きっとやってくれると思っていたわ!」
「喜んでもらえて何より……」
 紫の石が嵌ったサークレットを手に、女は嬉しげな声を上げている。トレイシーはソファーにだらしなく寝転んだまま、依頼主である女に口先だけでそう答えた。
――そのうちに取りに来るだろうと思っていたけど、まさかその日のうちにやってくるとは思ってなかった。久々に動いたので、暫く家でだらけてから連絡すればいいかと思っていたのに。
「だって、早く欲しかったの。素敵な色でしょう?染まり具合も、素晴らしいわ……」
「ちょっと私には分からないかな……」
 うっとりとサークレットを見つめる女に、トレイシーはハイヒールを脱ぎながら小さくそう呟いた。
 深淵と呼ばれる異界の闇が、世界を侵食するようになって長い長い時が経った。
 最初の頃、人々はそう予言した者達の話を虚言癖の戯言と笑い飛ばしていた。しかし住み慣れた場所が闇に沈み、次々と見慣れぬ魔物が現れ、深淵に触れ気が狂う者達が後を絶たず、侵食された生物が、隣人が化け物に変わる姿を目の当たりにし、現実と思い知らされたのだ。
 トレイシーが所属するネストは、元々凶悪犯罪を取り締まる組織だったが、現在は世界が深淵に沈むのを阻止する為の財団になっている。制服が黒で統一されている為に「カラス」と呼ばれている事もある。
 対して、鏡の前でサークレットを額に当てがい、鼻歌を歌っている女――マルガレータはアビス、深淵をこの世の救いと考え、信仰している団体に属している。属す、というよりも彼女自身が信仰されていると言っても過言ではないのだが。
 マルガレータは、肉感的なボディラインを惜しげもなく強調したスーツを身に纏っている。黒地に金の装飾が入った服は決して彼女を下品には見せず、寧ろ女王の様な風格を与えている。
 顔も非常に美しいが、左眼は金と黒の入り混じった謎の植物に侵食され、顔の半分を埋め尽くしてしまっている。美しいが、悍ましい。深淵の闇を顔に埋め込んだ女は「悪の花」と呼ばれ、信仰と恐怖を各々の人の心に呼び起こす。
 敵対している様にしか思えない二つの組織だが、アビスは深淵を信仰し、侵食した物品を蒐集して仲間を集うという行動をしているだけなので、ネストも仲間ではないが、完全な敵という訳でもないという微妙な関係を保っている。時と場合によって、敵対することも協力することもある。
 今回の白衣の男達の情報と、深淵に汚染された宝物の在り方を持ち込んだのはマルガレータなのだ。
 トレイシーはジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイを外しながらマルガレータに尋ねる。
「それ、回収してくれるんだよね?」
「もちろん!貴女達が持っていても処理に困るでしょう?あの人の美術館にちゃんと飾ってあげるわ。あ、今度見に来てくれてもいいのよ?」
「遠慮します……」
 名案と言わんばかりに瞳を輝かせるマルガレータに、トレイシーは首を振って拒否を示す。彼女の言う美術館はアビスの本拠地にある。つまりは異界だ。行ってしまったら戻って来れない。
 トレイシーはスラックスを脱ぎながら、疲れた顔をマルガレータに向けた。
「それ所蔵してる博物館と交渉して、アサイラムの残党の調査もして、内通者の割り出しして……なんか美味しいところだけマルガレータに持ってかれた感じなんだけど」
「嫌だわ。私がそんな、不利益な取引を持ちかける訳ないじゃない。最高の報酬を用意したわ」
 紅い唇で蠱惑的に微笑む女が差し出した封筒。厚みのあるそれをトレイシーは受け取りながら、目を細める。
「最高の報酬?本当かなあ。そんな事言って、またうちを利用しようって言うんじゃないの?」
「信じて頂戴。今回は純粋な情報提供よ」
「ふーん……」
 トレイシーは信じていない顔で封筒の中から書類の束を取り出す。そして中身を読み進めているうちに訝しげだった表情が、真剣なものに変わっていく。
 マルガレータはソファーの肘掛けに座ると、歌う様に語り出す。
「死に至る伝染病が猛威を振るった時代、王様は病人が出た村々を全て封鎖して人の出入りを禁じた。彼らが全て死に絶え、病が消える事を願って。それから数年が経ち、病の脅威を人々が忘れた頃、あちらこちらの夜会に見慣れない、赤いドレスの女性達が現れるようになるの。そして、夜会の場にいた者達が数日以内に次々と血と死の疫病に倒れた。赤は死の色として恐れられたわ。王様は赤い女達の正体を突き止めるよう命じるの。兵士が彼女達の跡を追うと、病により滅びた村のその奥、深い谷へと女性達は消えていく。谷は死者とされた者達の享楽の宴の場となり、そこには赤い死神が君臨していた」
「……割とよくある御伽話に聞こえる」
「そうね。でも昔話、地域の伝承というものは馬鹿にできないの。そこに教訓や真実が潜んでいることがあるもの。少なくとも疫病と村の封鎖は実際にあったことだわ。死の谷も実在する」
「それで、この赤い宝石の話になるの?」
 トレイシーが手元の書類を指で叩いた。書面にはモノクロで色はついていないものの、大きな石に向かい、祈りを捧げる人々とマントを纏った骸骨が描かれている。
「ええ。元々は村の守り神のような扱いを受けていたみたい。それが村人達の恨みや怒りを込めた呪いを受けて、死神になったんですって。実は王様はその宝石が欲しくて、村人達が死滅するのを狙ったんじゃないかとも言われていたそうね」
「……マルガレータも狙ったんでしょ」
 トレイシーが目を細めてそう問えば、彼女はにっこりと笑って頬に手を添える。
「だって大きな宝石なんて、素敵でしょう?欲しくなってしまうわ。それに曰くつきなら、きっと深淵の力に染まったら素晴らしい美術品になると思うの。一説では不老不死になれる霊薬、賢者の石だったんじゃないかともあったわね」
「そんなに欲しいのに、私に譲ってくれるんだ?情報」
「そうねえ。ただの呪われた宝石だったら、良かったんだけど。その死の谷、深淵の力ととても相性が悪いの。私のお花も枯れかけちゃうし、ペットたちも動けなくなってしまうし」
「!それって」
 マルガレータの話に、トレイシーは目を見開いた。深淵の花が枯れ、魔物が入れないのならば深淵の侵食が及ばない場所ということだ。しかし希望を見出すトレイシーに、マルガレータは首を横に振って見せた。
「残念ながら、人は住めないわ。死の谷と言ったでしょう。毒の霧が蔓延しているの。ガスマスクも効かないわ。調査に向かった人員は全滅よ、私以外ね」
「あー……そういう事。だからそっちは手を引くと」
「ええ。でも貴女は興味があるでしょう?」
 手元の書類にトレイシーは目を落とした。情報はあるが、内部にまで調査が及んでいないので、赤い石が本当にあるかどうかは分からない。それでも深淵の影響を跳ね除ける要因は、非常に気になる。深淵の侵食と、日々戦うネストにはこの賢者の石は救いになるかもしれない。
 それだけではなく、トレイシーのずっと抱えている望みを叶えるヒントになってくれるかもしれない。
 トレイシーは書類を綺麗に揃えると、封筒の中に丁寧に戻した。
「じゃ、これはありがたく頂戴するね」
「気に入ってもらえて良かったわ」
「はい、じゃ帰って帰って」
 トレイシーは猫の子を追い払うように手を振り、ごろりとソファーに横になった。シャツ一枚の霰もない姿で寛いでいるトレイシーに、マルガレータは不満げに唇を尖らせた。
「もう、本当になんて格好してるの!トレイシー」
「シャツ着てるだけいいでしょー……自分の家でくらい自由にさせてよ……」
「私というお客様がいるでしょ」
「…………………………」
 トレイシーは黙ったまま、ソファーの肘掛けからこちらを見下ろしているマルガレータの顔をじっと見つめた。トレイシーは微かに微笑んで、手を伸ばす。
「マルガレータは、とっても綺麗になったねえ」
「…………貴女は、ずっと綺麗だわ」
 頬に触れるトレイシーの手を好きにさせながら、マルガレータもトレイシーの冷え切った頬を撫でる。そうして囁いた。
「でも、ごめんなさい。私には美しいと思えない」
「うん」


「君は、それでいいんだよ」






 
 
『彼女の言い分は僕にも理解できるところはある』
 耳に装着した通信機から聞こえる声に、トレイシーは苦笑する。
『人は死ぬからいいんだ。容姿もいつかは衰えるものだよ』
「イソップは、そう言うと思ったよ」
『アビスに染まるのは全然理解出来ないけど。あの人と交流するのやめたら?』
『それはそう』
「もう、イライはそろそろ機嫌直してよー……」
 いつもの朗らかな声ではなく、どこか硬い声の賛同に、トレイシーは困った顔になる。数日前からイライはとても機嫌が悪い。ぶつぶつと文句を言い続けている。
『人には能力過信するなって言っておいて』
「今回は仕方ないんだってば。他に手がないんだからさあ」
 トレイシーは慎重な足取りで断崖の縁に立ち、下を見下ろす。
 眼下の深い渓谷には霧が立ち込め、日の光を浴びて錦の雲海を形成している。木々も所々が紅葉しており、思わず見惚れてしまいそうな絶景が広がっている。ここが死の谷と知らなければ、いつまでも眺めていたくなる。
 トレイシーは少しだけ音質の悪くなった通信機を指で押さえつけて、口を開く。
「――着いたよ」
『もうノイズ入ってるけど、谷に降りた?』
「まだ崖の上だけど。機器類は使えないっていうのは本当なんだね」
 ポケットから計測器を取り出したトレイシーはインジケーターを確認する。こちらはまだ正常に動いているらしく、エラー表示にはなっていなかった。但し、表示された数字に眉を顰めた。
「霧の毒性は、ここでもうアウト表示だけど」
『それは誰も近付けない筈だ』
「取り敢えず、降りてみるね」 
『本当に行くのかい?』
 心配そうなイライの声に、トレイシーは見えないと分かりつつもひらひらと手を振る。
「こんな時くらいしか私の異能役に立たないんだから、イライは心配しすぎ!」
『トレイシーさんが楽観的過ぎると思うんだけど……言っとくけど何かあっても誰もそこには回収に行けないんだからね?』
「分かってる分かってる」
『到底分かってる人の返事じゃない……』
 きっと、イソップは苦虫を噛み潰したような、渋い顔をしているんだろうなあとトレイシーは忍び笑いつつ、ぱんと手に持っていた長傘を開いた。
 心配してくれている二人には悪いが、トレイシーとしては、今回の死の谷の調査が楽しみで楽しみで仕方がなかったのだ。マルガレータから貰った資料によれば、賢者の石は「死神の霊廟」にある可能性が高いのだそうだ。
――死神の霊廟って事は、死神に関するものが何かあるのかもしれない。もしかしたら死神の死体でも残っているかも。
 赤い疫病をばら撒いた死神。どんな姿をしているのだろう。あの絵の通りに骸骨なのか、それとももっとずっと悍ましい姿だったりするのだろうか。
「私以外の死神なんて、初めて見る……!」
『?トレイシー?何か言った?』
「なんでもないー!」
 うきうきとした足取りで、トレイシーは崖の上から飛び降りた。

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