犬って被るものだっけ?

トレイシーがむすりとした顔をしているので、ルカはおかしくてくつくつと笑ってしまう。
この一ヶ月半、相手を見ていたのはトレイシーだけではない。ルカもトレイシーの行動はよく見ていた。だから彼女がなかなかに勘がよく、危険を察知して逃げるのが早いのも知っている。
今もとても逃げたそうにしている。きっとそうするだろうなと思ったから、逃げられない場所に連れてきたのだ。
「……ルカ、話があるなら早くして」
なかなか本題に入らないルカに、トレイシーはもじもじとスカートの裾を弄る。早く終わらせてこれを着替えたいと思っているのに。
焦れて話を催促してみるも、ルカは緩く微笑んだままだ。
「ちょっと、聞いてる⁈」
「ああ、すまない。可愛いなあと思って」
「かっ、……う……ううう……」
反射で「可愛くない」と叫ぼうとしたものの、さっきの豹変したルカを思い出して言葉を飲み込む。声に出しては言いたくないが、なかなか怖かったのだ。
それでも恥ずかしさは変わらないので、トレイシーは唸り声を上げる。そうでもしないと叫んで転がりまわりたくなるのだ。
トレイシーがふるふる耐えて唸っている姿は、仔猫の威嚇の様に見える。本当に、何をしていても可愛いとルカは目元を緩ませる。
気づいていなかった以前とは違い、今はトレイシーの態度の意味がわかっている。攻撃的な態度は恥ずかしさの裏返しだった。そう思えば苛立たしく思っていた事実も、なにもかもが可愛らしく思えてしまう。現金なやつだと我ながら呆れてしまうが、こればかりは仕方がない。
「トレイシー、君は知らないだろうけど、私はこれでも耐えている方なんだ」
「ど、どこが⁉︎好き放題やってると思うけど⁉︎」
「それが本当なら私は君を膝に乗せて抱き締めているよ、そこのソファーで」
「ひっ……!」
「その反応は傷つくぞ……?」
自分の体を抱きしめるようにして縮こまるトレイシーに、ルカは苦笑する。血の気が引いた顔を見るに、まだ恋情を理解できていないのかもしれない。
ルカは一瞬考えて、わざとらしいくらいにしおらしい、しゅんとした顔になる。
「君は私に触れられるのを露骨に避けるけれど、そんなに私が嫌なのか?」
「あ……!違うの、そうじゃなくて!ルカが嫌とかじゃないの!ひ、膝に乗せるとか言うから想像しちゃったんじゃん!子供じゃあるまいし、おかしいでしょ!だから別に嫌いなわけじゃ……っていうか、そもそもなんでそんなことしようと思うのさ!」
弁明している間に、目に見えてニヤニヤし出したルカに、トレイシーは眦を吊り上げる。さっきのしおらしい顔はわざとか!
怒って肩を拳で叩くが、ルカの表情は崩れない。揶揄ってるのかとも思うけれど、これは禁句だ。さっきのようになられたら困る。
トレイシーがじっと睨んでいると、ルカは機嫌を取るようにトレイシーの拳を掴んだ。
「私はずっと、君を可愛いと思っていたし、触れたいし撫でたいとも思っていたよ。友でいたいと君が願うから脈がないのかと思って封じていたけれど。どうやら話を聞くとそうでもないらしい。だからやはり伝えることにする。トレイシー、私は君が欲しいし、抱き締めたい」
「ふぇっ……」
ルカの告白に、怯えた様な声を出すトレイシー。しかしその顔は青褪めてた先ほどとは違い、赤く染まっている。
掴んでいたトレイシーの手を開かせて、ルカは自身の頬に押し当てる。呆然と自分を見ている相手に全ての感情を乗せて微笑む。
「君が好きだ。愛おしいと思う」
「ふぎぃ……!」
耳まで赤くなったトレイシーが、取られた腕を引っ込めようとする。それをルカはしっかりと掴むと、見せつけるように手のひらに唇を落とす。
「ひああ」とか細く叫び、トレイシーは蹲って顔を隠そうとする。どうにかルカから逃れようと必死だ。
ここに来て、漸くトレイシーは自分がここに乗せられた理由に気付いた。逃げ道を封じる為だったんだ。もっと早くわかってたら、どうやってでも逃げていたのに!
あの雰囲気から、流れるように告白までされるとは思っていなかった。
今度はどこで間違った?なんでおかしくなってしまったの?こうならないようにってずっと気をつけていた筈なのに。
トレイシーは蹲ったまま、どうしようと考える。
友達のまま、今のままでいたかっただけなのに、どうしてこうなったんだろう。告白されたら返事をしなきゃいけないんだろうか。断ったら、終わってしまう?全部なくなる?でも、受け入れたら絶対変わってしまう。それも嫌だ。絶対嫌だ。でも、だったら、どうしたら正解なんだろう。全然分からない。
「ううう……うー……」
「………………」
トレイシーが蹲ってぐるぐると悩んでいる間、ルカは唸っているトレイシーを慎重に観察していた。
見たところ、困ってはいるがルカの告白を拒絶する気はなさそうだ。そして彼女が何を悩んでいるかは大方予想が出来た。謹慎期間中、散々自分も悩んだことだったからだ。
ルカは幸い、マイクという相談相手に背中を押されて決心がついたし、考える時間がたっぷりあった。トレイシーは誤解の件も含めて全てが一気に押し寄せてきてしまったのだから、それは混乱する筈だ。
――まあ、同情はするけれど待つ気は全くないが。
トレイシーはうんうんと唸りながら悩んでいる。こうなると声をかけるまで戻ってこない。
ルカはそんなトレイシーを抱き上げると、ソファーに腰掛けた。先程の願望通りに蹲ったままのトレイシーを膝に抱えて満足げに息を吐く。柔らかな髪に頬擦りしてか細い体を抱き締める。ずっと耐えてきたけど、ようやく叶った。
トレイシーはというと、ルカに好き放題されているのに思考の海に沈んでいるので全く気付かない。
ちょっとだけ、こんなことなら幾らでも触れる機会はあったなとも考えたけれど、相談相手からの「ケダモノ」呼ばわりを思い出してルカは首を振った。
流石に、こちらの気持ちを伝える前はそんな行為は許されないことだろう。
「うん?」
「戻ってきたかい」
蹲った状態から顔を上げたトレイシーが、パチパチと瞬く。きょろきょろと辺りを見廻し、最後にルカの方を錆びついた機械人形のような動作で振り返る。
「な、なに、やってるの……?」
「君の考えが纏まるまで待っていようと思って。纏まったかな?」
ルカは如何にも自分は大人しく待っていたという顔で首を傾げている。トレイシーははく、と口を動かす。
「僕、なんかした?」と壊した玩具を土に埋めて誤魔化してた近所の犬が、こんな顔をしていた。この野郎とトレイシーは思う。
とぼけた顔をしている癖に、しっかりと腰に腕が回されているし、脚が肘掛けの方向に向いているので伸ばしても床に届かない。暖炉の上からは降ろされたが、結局逃げられないのは変わらない。
トレイシーは両手でルカの顔を押し返して距離を離そうとする。
「さ、触っていいとは言ってない!」
「痛い痛い、トレイシー。容赦ないな」
「勝手になにやってんの⁈」
「君は本当に猫みたいな反応をするな……駄目だよ、話が終わるまで逃さない。ここで君を放したら絶対逃げ回るだろう?きちんと話をしよう」
「うぐ……」
行動を先読みされて、トレイシーは呻いた。正直、話をするより一人で考える時間が欲しいところなのだが、ルカは待ってくれる気はなさそうだ。
冷静になるためにも距離を空けて欲しいのに、まさか抱え込まれているとは思ってなかった。これじゃ全然集中出来ない。トレイシーに出来るのは、ルカの胸を押し返して接触する部位を減らすことくらいしかない。
嫌でも他人の体温を感じてしまうし、顔が火照るのを止められない。こんなことなら暖炉の上の方が数倍マシだったのにとトレイシーは恨めしく思う。ルカはなんだか覚悟が決まってるみたいだけど、こちらは何も心の準備ができていないのだ。
今までも並んで雑魚寝をしたり、くっついて一枚の設計図を書いたり、ルカを背もたれに作業をしたりと触れ合うことは多かった。
でもあんな告白をされて、動じない程自分は鈍感ではないのだ。大体こんな接触は友人同士でやることではない。そんなこと、自分は分かっているし、絶対にこの男もわかっている。
トレイシーはふと数日前にアンドルーに言われた言葉を思い出す。「そいつを信じ過ぎるな」だっただろうか。あの忠告、もう少し真剣に聞いておくんだったと後悔する。――もう遅いのだけれども。
トレイシーは突っ張っていた腕の力を緩めると、一度深呼吸をしてから、ルカをゆっくりと見上げる。向こうが好き勝手にやるなら、こちらも今の希望は伝えておかないと駄目だ。
「全然、何も纏まってないけど……私はやっぱり、今までのままがいい。変わりたくない。それに、好きとかそういうのは、よく分かんない。ルカには悪いけれど……私はそういうの、全然想像出来ないよ。その、こんなことされても……困るというか、正直どうしたらいいか分からなくなるっていうか」
「ふうん?」
告白を、直接ではないけれど断っているようなものなのに、ルカは特に不機嫌になることも悲しむ様子もない。話を聞いているのかいないのか、空いている手でトレイシーの髪を梳き、適当な相槌を打っている。
トレイシーはどうにかルカを傷つけないようにと言葉を選んでいるのに、考えの読めない顔で微笑んでいる相手に、少し不気味なものを覚える。
「……ルカ、話聞いてる?」
「ああ、聞いているよ。聞こえないわけがない」
「本当に?」
「勿論。ただ、嬉しくてね」
「……なんで?」
ルカと同じ想いは返せない。そうトレイシーは言っているのに。
トレイシーが不思議そうに首を傾げると、ルカは優しい動作で彼女の顔にかかった髪を払ってやる。
トレイシーは、ルカが触れようとすると過剰に反応するが、一度慣らしてしまうとすんなりと受け入れてしまうところがある。こんなに単純で大丈夫かとも思うが、そこがまた可愛らしくて仕方ない。
「分からない、困ってしまう。君はそう言うが、拒絶の言葉は言わないんだなと思ってね」
「それはっ、ルカに悪いかなって」
「ふうん?やだ、ダメ、触るなと散々言われた覚えがあるんだが?」
「だって!何回言ってもやめないからでしょ!」
「だったら、トレイシー」
ルカはゆっくりとした動作で、トレイシーの髪に触れていた手を背中へと移動させる。そして華奢な体を抱き寄せて、薄紅色の耳に顔を寄せる。
「どうして今は、拒絶しない?」
「ひうっ……!」
びくんと跳ねた体に、ルカは静かに笑みを深くする。慌てて耳を覆うトレイシーだがもう遅い。耳が弱点なのはルカには丸わかりだ。
けれどルカはそんな事には気付いていない素振りで話を続ける。
「君が嫌だというなら受け入れよう。私は今までもそうしてきた筈だ。知っているだろう?」
「………………」
「簡単なことだよ。言葉を選ぶ必要もない。いつも通りに言ってくれるだけでいい。そうすれば終わらせてあげよう」
ルカはそう言うと抱きしめた腕はそのままで、トレイシーの髪にすりと頬を寄せる。終わらせると宣言した通りに、思い残すことがないように。そう思っているような動作だ。
トレイシーは耳を塞いだまま、身を縮こまらせてじっと動かない。どうするべきなのかを必死に考えているが、答えが出ないのだ。下手に動けば、それが「答え」になってしまうかも知れない。
ルカはあやふやな返答を認める気はないのだ。是なのか、否なのか。それしか求めてない。
きっと、嫌だ離せと言えば解放してくれるのだろう。でも、それは宣言通りの「終わり」だ。それを選べば、ただの「仲間」になる。ルカはいつもと変わらない態度で離れていく。そんな気がする。
トレイシーは両手で胸元の服を握りしめる。そうでもしないと、そこにぽっかりと穴が空いてしまいそうだ。ルカが離れてく。それは、それだけは嫌だ。
だからと言って、ルカの告白を受け入れられるかと言えば、それも簡単なことではない。ルカの事は好きだ、一緒にいると楽しい。でもそれは「ルカ・バルサー」という人間としてだ。
異性として見られていると思うと、身が竦んでしまう。異性として意識しろと言われれば、心臓が破裂しそうだ。嫌なのではない、怖いのだ。
未知のものなんて、普段なら探究心が刺激されるはずだ。けれどこれは、これだけは違う。だってこれは、変わってしまうのは自分もだ。何もかもが変わる。
トレイシーは、ブラウスを握る手に力を込める。
何もかもが変わって、その先にあるものが、怖い。恋愛関係になれば、交わすのはふわふわとした感情だけじゃない筈だ。蜂蜜の様な甘さの眼差しに、欲が見える時が来る。
――ああ、そうかとトレイシーは気付く。
私は、自身が女性として欲望の目で見られるのが怖いのだ。他でもない、大事だと思った相手が、「男」に、恐怖の対象になるのが嫌なのだ。
「………………」
カタカタと腕の中で震え出したトレイシーを、ルカは目を細めて見下ろす。ぎゅっと自身の服を握りしめて、小さくなっている少女にゆるりと口角が上がる。ちょっとだけこのまま押し切ってしまいたい気持ちが起こるが、ルカはそれを押し留めた。
少し期待したけれど、恋情を自覚するのはトレイシーにはまだ早過ぎたようだ。この子は少し、恋愛面に潔癖なところがある。
――仕方ない、そろそろ逃げ道を呈示してあげよう。
ルカは掌をトレイシーの背中に当てて、ぽんぽんと叩いてやる。子供をあやす様な行為だが、ゆっくりと何度も繰り返しているうちに、トレイシーの震えが小さくなっていく。
強張った体を宥めるように、背中を撫でてやる。欲を隠して、親愛だけが伝わるように。そうしていれば、トレイシーの緊張が緩み、手が縋る様にルカの服に伸びる。それを見ながらルカは穏やかに聞こえる声で囁く。
「トレイシー、すまない。気が急いてしまった。いきなり答えを出せ、だなんて無茶に決まっているのに」
「ルカ……」
「君の感情を考えずに無神経過ぎた。どうか嫌いにならないでくれ」
「な、ならないよ、嫌いになんて」
トレイシーがルカの服の胸元をギュッと握り込む。先ほどまであれほど距離を取ろうとしていたのに、今は引き剥がされまいとするようだ。いや、ルカが離れて行かないようにしているのか。

ルカはずっと見ていたから知っている。トレイシーは欲深い子だ。そしてここまでのやり取りで分かったこともある。
トレイシーは失った愛を無意識にずっと求めている。そしてルカとの友愛はその穴を十分すぎるほど満たしたのだろう。きっとあの人形を作ることも諦めはしないけれど、この繋がりも彼女は手放したくはないのだ。
けれど、トレイシーは同時にとても臆病だ。欲しいのは無償の愛で、欲が絡むことを望んでいない。未知の恋愛感情には怯えてしまう。
だからルカの感情の変化に敏感に反応していたのだ。自身も恋情を全身で現しているのに、自覚しないのだ。
愛されたいけれど、愛されたくない。
異性のルカは怖いけれど、友のルカは欲しい。
側にいて欲しいけれど触れられたくない。
好きだけど、気付きたくない。
なんて我儘なのだろうか。それが当然の様に叶うと思っている傲慢さも呆れてしまう。
――まあ全部手に入れようとしているのは、こちらもだが。

背中を撫でる手に、トレイシーは懐かしい気分になる。悪夢を見た夜には大きい手にこうされていた、そんな記憶が脳裏を過る。
追い詰めるような空気が消えたことに安堵して、そろりとトレイシーは顔を上げる。そうして静かなルカの目を見て、口を開く。
「ルカ、あのね。ルカの気持ちにはすぐに答えられないけど、でもね。終わるのは嫌だ、ルカと一緒にいたいと思う」
「ふうん?私といたいのに、それは答えではないんだ」
「う、えと……ち、違う」
ぐい、と近づいてきた顔にトレイシーは仰け反って距離を取る。と言っても、抱き込まれているのであまり意味はなしていないが。
「と、友達は平気なの。友達のルカは。でも、こ……のルカは、無理。怖い。嫌いとかじゃなくて怖いの。だから想像したくない」
「…………」
ルカはぶるりと体が震えるのを感じた。腕の中で「恋人」という単語を言うのも恥ずかしがるトレイシーに、どうしてやろうかという気持ちが一瞬湧いた。すぐ平静を装ったが、少し危なかった。
「ルカ?」
「ああ、すまない。少し考え事をしていた。トレイシー、怖いというのなら仕方がない。君がそう思わなくなるまでとことん付き合おう、友として」
「え?」
「私の一方的な感情を押し付けてしまっただろう?だから申し訳なくて。大丈夫、人目がある場では君に合わせるよ。君といたいのは私も同じだ」
「それは、今まで通りにしてくれるってこと?でもそんなこと出来る?」
トレイシーは信用出来ないと半目でルカを見上げる。
さっき自分は耐えていると言っていた癖に、気付けば願望通りに人を膝に抱き上げている。ルカはトレイシーがダメと言った内容を、結果的に何一つ守ってくれていない。
ルカは無害そうな顔で微笑んで、付け加えた。
「そうだな、出来うる限りで」
「………………」
「信用していない顔だ。でも耐えているのは本当だよ。君が受け入れてくれるまで無理強いはしない。『私』を怖いと思わなくなるまで、いくらでも付き合おう」
「………………」
宥める様に言うルカの言葉に、トレイシーは引っかかるものがあった。
なぜだろう、自分は是とは言っていないのに、彼を受け入れる前提で話が進んでいないだろうか?そういう関係になりたくないって話をした筈なのに、無かったことにされている。
こちらの意見を聞き入れているふりをしながら、言葉の隙をついて、ルカの都合のいい流れに引き摺り込まれている。
人が悩んでいるのに涼しい顔をしている男に、トレイシーは一言言ってやりたかった。なんでも思い通りになると思うなと。
しかし、ルカは言った。自分からは無理強いはしないと。いくらでもトレイシーに付き合うとも。ということは、受け入れるかどうかはトレイシー次第ということだ。
トレイシーはこの関係の名を「友達」から変えるつもりはないし、ルカのいいようにされるつもりもない。絶対にだ。
「それなら、付き合ってもらう。ルカが言ったんだからちゃんと守ってよ」
「勿論。分かっているとも」
そう言いながら、ルカは掬い上げたトレイシーの髪に唇を落とした。早速なにをするのかとトレイシーはルカの顔を両手で押し返す。
「ちょっと!話が違う!どこが分かったわけ⁈」
「痛い痛い、目はやめてくれトレイシー」
「いきなり約束破るからでしょ!」
「いいや?破ってなんかいないよ」
「は?」
動きが止まったトレイシーの手から逃れ、ルカはにこりと笑う。如何にも胡散臭そうなその表情に、トレイシーはなんだか嫌な予感を覚える。
「私は人目のあるところでは君に合わせる、と言ったんだよ。ここには誰もいないだろう?」
「んなっ!」
「それにトレイシー、私は言ったよ。今度は君も耐える番だと。私がまた君を傷つける事がない様に、協力してくれないと」
「協力……?」
「ああ。二人の時は私に大人しく可愛がられてくれ」
「!!!!」
言うが早いか、ルカはトレイシーを抱き竦める。抵抗する間もなかった。慌ててトレイシーがルカの脇を叩くも、相手はどこ吹く風だ。
身動きできないほど密着しているルカの体温に、トレイシーは顔が熱くなっていく。数秒で早くも限界を迎え、トレイシーは叫んだ。
「ちょっと!やめてやめて!無理!これ無理!」
「んー?」
「聞こえないふりすんなぁ!」
じたばたと踠くトレイシーだが、本気で嫌がっているわけではない事はもうルカには分かっている。本当に嫌なら歯も爪も使って全力で抵抗をするはずだ。
にゃーにゃーとただただ恥ずかしがっているのだと思えば、益々可愛がりたくなってしまう。
こちらはトレイシーが怖がるから、欲を孕んだ感情を隠す様に努力しているのだ。このくらいの楽しみは譲ってくれていいだろう。
それに逃げ道は見せてあげたけど、逃がしてあげるとは言っていない。
「ううう……」
しばらくはジタバタと無駄な抵抗を続けていたトレイシーだったが、元々体力が無いのですぐに力尽きてしまった。くったりとした体を抱き込んでくすくすと笑うルカに、トレイシーは不満気に鼻を鳴らす。
「やっぱり、好き勝手やってるじゃん……どこが我慢してるのさ」
「しているよ?言ったらやりたくなってしまうから言わないが」
親愛を越えないように。内面が幼い彼女が、耐えられる範囲で。ここまで築いた信頼が崩れない様に。
ルカは慎重にそのラインを見極める。いずれは慣らしてみせるが、今はまだその気配を見せてはいけない。
例えば、唇にキスがしたいとか。
例えば、閉じ込めてしまいたいとか。
例えば、肌に触れたいとか。
愛欲の片鱗を見せたらこの子は怯えてしまう。それはルカの本意ではない。できる事なら正面から受け入れて欲しい。
だからまだまだ我慢はしなくては。触れられる様になっただけ大分進歩したけれど、それでも先は長い。二人の時だけと限定したが、これくらいの接触は容認してもらわなくては、また充電されてしまう。
とは言え今後、トレイシーが大人しく膝に抱き上げられてくれるとは思えないので、今のうちに思い切り堪能させては貰うが。ルカは名残惜しげにトレイシーを抱く腕に力を込める。
「ルカ、ルカ」
ぺしぺしと腕を叩かれ名を呼ばれ、ルカは渋々とトレイシーを囲っていた腕を解いた。あまりしつこくして嫌われてしまうことだけは避けなくては。絶交しないという言質は取ったが、覆されてしまうかもしれない。
ルカが細い肩を掴んで体を離してやれば、トレイシーはぎゅっと瞑っていた目を開き、ちらちらとルカに視線を向けては逸らすという行為を繰り返す。何か、言いたい事があるようだ。
「トレイシー?」
「あ、あのね、ルカ」
きゅっと自身のブラウスを掴み、トレイシーが口を開く。
ずるずると流されないように、ルカにこれだけはきっちりと言っておかなくてはとトレイシーは覚悟を決める。
「やっぱりね、これ以上は……絶対無理。考えただけで怖いから、やって欲しくないの。ルカを嫌いになりたくないの。キ、キスとか、そういうのは絶対やだ……」
「それは、私が怖いから?」
こくん、とトレイシーが頷く。途方に暮れた顔で自分を見上げる少女に、ルカは堪らなく庇護欲を掻き立てられた。トレイシーの乱れた髪を撫でてやりながら、ずるいなあとルカは思う。この顔をされてしまうと、何もできなくなる。
「分かった、とれ」
「だからね!その、やっていいいのは撫でたりとか、ハグとか、こ、こういうのとかまでだから!そこまでは、我慢する!でも、それ以上はダメだから!絶対だから!」
「……は」
「あ!二人の時だけってのも絶対に守ってよ!みんながいる時は触っちゃダメ!」
「んん?」
びっと鼻先に指先を突きつけられて、ルカはポカンとした顔になる。言われた内容を脳が処理するのに少し時間がかかった。
撫でる、抱きしめる、抱っこはいいと。これは、トレイシーから破格のお許しが出た、と判断していいのだろうか。まだこちらからは何も言っていないのに、まさかそんな事を言われるとは思ってなかった。やだやだと言われて終わると思っていたので、どう丸め込もうかと算段を立てていたのに。
よく何を考えているかわからないと言われるが、ルカからすればトレイシーだって何をしでかすかわからない存在だ。大人しくされるがままにならない、ゲームの盤面をひっくり返す才覚は本物だと思う。
とはいえ、これをそのまま受け入れると「ここまで」と言い切られてやり辛くなってしまう。どうしたものかとルカは考える。
「…………ルカ」
「…………」
「ちょっと」
「…………」
ルカが反応せずに黙っているので、トレイシーはそわそわとした気持ちでルカの首枷から下がる鎖を睨む。すっかりとルカの膝から降りる機会を失っているので、早く話を終わらせたい。その為にもとにかく何か早く言ってほしい。
人が勇気を出して触っていい条件を出したのに、何をぐずぐずしているのだろう。ルカの事だから、流されたらそのままなし崩しで自分に都合のいい方向に話を持っていくに違いない。だから先に譲れないところを決めたのだ。
何を考えてるのかわからないけれど、それじゃ足りないとでも言うつもりかもしれない。もし、そう言われても折れるつもりは絶対にないけれど。
そこでふと、トレイシーは気付く。――ルカに考える時間与えたらダメじゃない?
目の前にぶら下がっている鎖を見つめる。これを今すぐ思い切り引っ張って、考えの邪魔をした方が良いのでは?
思い立つがまま、トレイシーは首枷の鎖を掴んだ。しかしほぼ同時にその手をルカに掴まれた。
「あ」
「こら、引っ張る気だったな?」
含み笑いをしながら、ルカはトレイシーの手を鎖から外して握り込む。その余裕綽々の表情に、遅かったかとトレイシーは唇を噛む。正反対に、ルカはトレイシーの指を撫でながら機嫌顔だ。
「そうか、抱っこまではいいと。嬉しいよ、今まで君は触らせてもくれなかったから。当然『可愛い』も解禁してくれるだろう?」
「うう……改めて確認されると嫌……」
「そうか、ありがとう」
「また勝手に話進めてる……!」
ぎりぎりと悔しそうな顔をしてはいるものの、トレイシーお得意の「ダメ」が出ないので「OK」ということだろう。恥ずかしがりのトレイシーの為に、きちんと意図を理解してやる必要がルカにはある。
ぐぐ、と唇を噛み締めているトレイシーの頬をルカはむにむにと突く。
「そんなに噛み締めたら痕になってしまうよ」
「……うるさい」
トレイシーの頬を撫でていた手が、口元に移動する。ついてしまった歯型を確認するように、ルカは唇の上を親指で何度もなぞる。そこをじっと見つめながら、ルカはぽそりと呟く。
「キスは駄目、か」
「!」
ルカの少し低くなった声に、トレイシーは慌てて口を覆い隠した。そのあまりに素早い行動に、ルカはくつくつと笑い声を漏らす。ついうっかり、欲を見せてしまったらこの反応だ。
両手を口に当てたまま、猜疑の目でこちらを見るトレイシーは、全身の毛を逆立てた子猫のようだ。そんなに警戒しなくても、無体は働かないと言っているのに。ルカは自身の信用の無さに少しだけ落ち込んだ。
「大丈夫、君が怖がることはしない。キスはされたくないんだろう?分かっているさ」
「本当に?」
「勝手にはしないよ。絶交されたくない」
これは紛れもない、ルカの本心だ。しっかりと目を見て答えれば、トレイシーがそろそろと口を覆う手を下ろした。
ああ、分かってくれたのかとルカも安堵して、トレイシーの額にキスを落とす。途端、トレイシーが「んなあああ!」と悲鳴をあげて額を覆う。
「?猫の真似かい?」
「違う違う違う!今わかってるって言わなかった⁉︎言ったよね⁈言った側から何してんの⁉︎」
「……?私がなにかしたか?」
ぱちぱちと目を瞬かせ、ルカは首を傾げる。本当に不思議そうな顔をしているのを見て、トレイシーはぱっくりと口を開く。
――この顔は本当に分かってない。ということは、今のは無意識でやったという事だ。しかし無意識とはいえ、「キスはしない」と宣言した舌の根も乾かぬうちにしでかす事なのかと問い正したい。
トレイシーはゴーグルで額を隠しながら、ルカを詰る。
「今、キスしたでしょ!」
「…………ああ。したね。つい」
「しないって言ったくせに!」
「それは、悪かった。だけど私は親愛のつもりだったんだ。君が恐れるような意図はない。ここにはしてないだろう」
唇をなぞるルカの指にぞくりと痺れるような感覚が起きる。トレイシーは不自然ではない動作で、指から逃れる為に顔を背けた。
「口じゃないけどキスした……嘘つき」
「唇以外はいい事にしてくれないか」
「しないよ!するわけないでしょ!」
しれっと自分の希望を口にするルカの胸に、トレイシーは握った拳を振り下ろす。しかし怒ったような口振りとは裏腹に、ルカがトレイシーの顔を覗き込んでみれば、ほんのりと頬が赤い。トレイシーは満更でもなさそうな顔をしている。親愛のスキンシップというのは気に入ったようだ。
素直じゃないところも大変愛らしい。だけどルカはそれだけでは満足できない。引き出せる条件は全部引き出しておきたい。
ルカはゆっくりとした動作でトレイシーの肩を抱き寄せて、ぐりぐりと額を擦り付ける。その、動物が親に甘えるような仕草に、トレイシーはつい手を伸ばしてしまう。
ルカは時折、あの近所にいた犬を思い出させる。まだ父が生きていた頃の、良い思い出の一部を。あの犬は老犬で、トレイシーが幼い頃に亡くなってしまったし、飼い主もすぐに引っ越してしまった。今はいない。だから人の醜さを見た後も、いつまでもトレイシーには綺麗なままの思い出なのだ。
トレイシーがルカの頭を撫でる。目を閉じてそれを大人しく受け入れてる姿は、耳を倒して撫でられていたあの子にそっくりだ。
――やっぱり、可愛い。
なんでこんな、図体のデカい男にそんなことを思ってしまうんだろう。トレイシーは自分でも不思議で仕方がないのだが、ルカを見ているとそう感じてしまうのだ。駄目だ駄目だといいながら、悲しそうな顔をされるとつい甘やかしてしまいたくなる。ルカがそれを分かっててやっていることも、気付いている。それでもどうにも弱いのだ。
大人しくされるがままだったルカが、頭を撫でるトレイシーの手を掴む。そして手のひらに唇を押し当てた。さっきも同じことをされたのに、今度はトレイシーは逃げようと言う気が起こらなかった。込められた感情が違うからか。
ルカはトレイシーの手を頬に当てて、小さく息を吐く。
「……今のも、駄目?」
「あ、う……手は、いい……」
トレイシーの言葉を待って、ルカはもう一度感謝の意味を込めて掌に口付ける。
そして今度はトレイシーのゴーグルを外し、額の髪を掻き分ける。
「おでこもしたいな。私には君の体で一番近いし、丸くて可愛いからずっと我慢してたんだ」
「さっきしたじゃん……」
「君が駄目というなら、あれが最後だろう。私に祝福の機会を与えて欲しい」
「その言い方は、ずるいよ……」
「うん」
観念したように目を閉じたトレイシーに、ルカは額にキスを落とす。
さらさらとキャラメル色の髪に指を差し入れて、ルカは小鳥のように首を傾げる。
「髪は?」
「おでこが良くて髪がダメなんて言わないよ、もー……好きにして」
「そうか」
何が嬉しいのか、ルカはにこりと笑うとトレイシーの髪を掬い上げ口付ける。
トレイシーは居心地悪げに、膝を擦り合わせる。まさか、ルカはこうやって一個一個許可を取る気なのだろうか。トレイシーはまさかなと思っていたが、ルカは止まらなかった。するりとまろい頬を撫でて、「頬は?」と尋ねてくるのだ。
――本当に全身やる気なのか!それなら冗談ではない!
「も、もう!口以外は!いいから!やめてそれ!」
「おや、いいのか?」
「………………変なとこはダメ」
一応、釘を刺しておく。「変なとこって?」と聞いてきたら引っ叩いてやるとトレイシーはルカを睨む。全部いいと言うと、ルカのいいようにされるに決まっている。
ルカはすんなりと「分かった」と言うと頬に軽いキスを落とす。
ちょっとむず痒いけど、これでルカの気が済むならいいか。そう思っていたトレイシーのうなじに、ちりちりとした嫌な予感が走る。
咄嗟にトレイシーは上半身を逸らして、ルカの口を両手で塞ぐ。
「耳と首は!変なとこに入るから‼︎」
「………………」
今まさに耳を狙っていたルカは心の中で舌打ちをする。先手を打たれたか。折角トレイシーの弱い場所を知れたのに。






顔色を青くしたり赤くしたり首を振ったり頭を抱えたりと大忙しの青年に、見てるだけなら面白いなとパトリシアは思う。パトリシアに面白がられているマイクはというと、ガラスのコップを扉に押し当てて、書斎内部の会話に聞き耳を立てている最中だ。
これは決して、疾しい気持ちでしている行動ではなく、ルカに連れ去られたトレイシーの安否を測るための行為なのだ。だからパトリシアも黙って見ているのだ。
ただならぬ様子だった二人をマイクとパトリシアは追ってきたのだが、ルカが鍵のかかる自室ではなく万人が出入りできる書斎に入って行ったので、一先ず様子を見ることにしたのだ。
それでも何かあっては事なので、いつでも突入できるように待機している状態だ。
ところがどんどん顔色が悪くなりながら頬が赤くなっていくマイクに、パトリシアは凭れていた壁から離れ、青年の脇に屈み込む。
「どうした?マイク。突入するか?」
「や、今の所は大丈夫そう」
「どちらかというとお前が大丈夫じゃなさそうだが」
「人間の多面性に人間不信になりそうだし、結構仲良いと思ってた相手のこういうの聞くの精神に来るなって」
「何が起きているんだ?」
「恋人になるか、友達のままでいるかでイチャコラしててる……」
「は?」
パトリシアに何言ってるんだお前と言う顔をされても、それが事実なのだから他にどう説明しろと言うんだ。
マイクは扉に押し付けていたコップを外し、ぺったりとそこに座り込む。中の様子では暫く放置してても危険はなさそうだ。パトリシアもマイクに並んで座り込むと、頬杖をつく。
「それで、これはどういう状況なんだ?」
「うーん…まず、僕らの勘違いからなんだけど」
マイクはトレイシーの『誰か』の人形の話だけを上手に除外して、自分が知っている事情をパトリシアに話して聞かせた。
ルカが最初からトレイシーを女性と認識していたこと、トレイシーはルカの好意に気付いて自覚させないように努めていたこと、互いにすれ違っていた事実、それに気付いた後も、トレイシーが恋愛を恐れて尻込みしていること。
全ての事情を聞いた後、パトリシアは顳顬を両手で抑えた。やっぱりきっかけはフィオナの発言のせいか……注意しようにも、あの時は既に種を蒔かれた後だったのか。初心なトレイシーの方ばかりに気を取られていて、ルカの方はノーマークだった。
もっと真剣にトレイシーには女性の身の安全について言い聞かせておくんだった。心のどこかで、あの少女にはまだ恋愛事は起きないのではと思っていた自分を呪う。パトリシアに何の責任があるわけでもないが、年長者として、他に慕われている身としてはついつい面倒を見たくなってしまうのだ。これはエミリーも通じるものがあると言っていた。
パトリシアは室内の様子を窺っているマイクに、ふと覚えた疑問を投げかける。
「そういえば、マイクは何故バルサーとトレイシーをそんなに気にかけるんだ?」
「一度乗りかけた船っていうか。話せないけどこうなったの多少なりとも僕のせいなとこもあるから、何かあったらこう、夢見が悪いなって……」
トレイシーに告白してしまえとルカをけしかけたのは自分だ。それが何故こんな最悪のタイミングになったのかと思う。
トレイシーの秘密を初日からルカの前に晒してしまったのもマイクのせいだし、トレイシーの泣き声を聞かせてしまったのもマイクのせいだ。普通に出会ってても今と変わらなかったかも知れない。けれどルカに特殊な興味を持たせてしまったのはやはり自分のせいなのだ。
それにケダモノ発言は撤回したが、さっきの表情といい、どうにもルカは「やべえ奴」という感覚が止まないのだ。時々見せる狂気のせいかも知れない。どこまでが彼の天然の性質で、どこからが計算なのかもわからない。
――だからトレイシーだといいように丸め込まれちゃう気がするんだよなあ……
あのルカを「わんこみたいで可愛い」といううら若い機械技師を思い出しマイクはため息をつく。
「……代わろうか?」
「お願いしていい?」
表情の芳しくないマイクに代わり、パトリシアが室内に聞き耳を立てる。
しかしその表情が段々と歪んでいき、眉間の皺が深くなっていく。最終的に額を覆って扉から耳を離したパトリシアが無言でマイクを見る。
「どう?」
「…………どこにキスしていいかで揉めてるんだが、これは、どういうやり取りなんだ?恋人同士になったのか?それにしては妙だが」
「うーん、それが友達同士のやり取りらしいんだ、信じられないことに」
「そんなわけあるか」
「恋人になったんなら良かった良かったで引き上げてるよ、僕も。出歯亀する必要ないじゃん。まだ友達のままでいたいってトレイシーが言い出して、ルカがその交換条件をいろいろ出してるっぽい?」
「聞いてる限り、そんな対等な内容に聞こえないんだが。乗り込んで締め上げた方が良くないか?あの男」
「やや、落ち着いて!一応、一応一方通行ではないから一応!多分、トレイシーに合わせてるんだと思うから!多分!多分だけど!」
「擁護になってないぞ」
すっくと立ち上がったパトリシアにマイクは慌てる。扉を蹴破るつもりなのではと危惧したが、パトリシアは腕を組んで廊下の先に視線を向ける。すぐに突入する気はないらしい。マイクはほっと胸を撫で下ろす。
マイクからすれば、ルカとトレイシーが平和にくっつくならくっついてくれた方がいい。トレイシーは恋愛自体を怖がっているだけで、ルカの事は確実に好きな筈だ。
それに、嫉妬で燃える目を向けられるのも結構堪える。あと本当に怖い。トレイシーは見てないだろうけど、ルカから向けられるこっちは溜まったものではないのだ。
ただ、ルカはどうやらマイクが思っていたよりも安全な男ではなさそうなので、一線を越えそうな時はトレイシー側につくつもりではあるけれど。
さもないと、あの金色の人形に恨めしそうに夢枕に立たれる気がする。
「マイク」
「え、なに」
「待つのは構わないが、そろそろマスターキーが来そうなんだが」
廊下の向こうを見ていたパトリシアが顎をしゃくる。マイクが耳を欹てれば、確かになにか騒がしいものが近づいてくる。
でもマスターキーって?とマイクは首を傾げる。
「バルサーは今日まで謹慎していたわけだが、理由は?」
「トレイシーに、ゲーム外で攻撃しちゃったから、だね」
「そうその反省を促すためだ。で、反省した筈のバルサーはなにをした?」
「……トレイシー攫ってったね、みんなの前で」
「では謹慎命じたのは?」
「我らが天使ダイアー先生、だね?」
「その天使が『マスターキー』片手にこっちに向かっているわけだが」
「!」
それを聞いたマイクの顔が引き攣る。
――マスターキーってあれか‼︎
エミリーはそれはそれは普段は優しいお医者様だが、怪我や病気を隠そうとするメンバーや女性の敵及びエマの私物を盗むクリーチャーには本当に容赦がない。
注射が嫌で部屋に立て籠った時に、扉を斧で叩き割られたことは未だにマイクにはトラウマだ。あれ以来、注射より斧を持って微笑むエミリーの方が数倍怖いので大人しく接種を受けるようにしている。
マイクは書斎のドアノブを掴むと、思い切り扉を叩いた。
「ルカ、トレイシー、取り込み中悪いんだけど、今すぐ出てきて!今すぐ!大惨事になる前に!」
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