犬って被るものだっけ?

可愛い可愛いと褒められる度に、トレイシーはへらりと笑う。ありがとうと返しながら、疲労を感じていた。
仲間たちに撫でられ抱きつかれ、ハンターに面白がられ、すっかりと揉みくちゃにされているせいだ。
見られたくない人物はホールにはいないらしく、気が緩んだのもある。あれだけ抵抗していたから少し拍子抜けだ。
そういえばルカはシーズンのことを知らないのかもしれない。自分が伝えているとみんな思っていたのだろう。それならそれで好都合だ。衣装はお披露目以外は着る着ないは個人の自由だ。この後これも仕舞い込んでしまえばいい。
ふと、先ほどイライから聞かされた話が頭をよぎる。ルカが自分の性別を知っていた、その事実には驚いた。驚いたけど、トレイシーは『だったらこのまま知らないフリを貫こう』と考える。
自分が気付かない限り、彼はこの関係を崩すことはないはずだ。
だったら、このままでいい。このままでいたい。

「失礼」

トレイシーがそう思っていた矢先に、今一番聞きたくない声が人垣の向こうから響いた。見たくないのに、視線がそちらを向いてしまう。
人をかき分けて現れた見慣れた囚人服。逃げようとトレイシーの脳が判断するより先に、しっかりと手首を掴まれる。痛みは無いけれど、絶対に逃す気はない強さだ。
恐る恐る見上げると、無表情のルカが口を開いた。
「来てくれ」
「ルカっ……!」
頼むような口調なのに、有無を言わせない強さで腕を引かれる。力の差は歴然で、トレイシーが踏ん張る間も無かった。ずるずると引きずられるようにホールから連れ出される。
「あっ……!」
慣れないヒールと、大股で歩いていくルカについて行けず、トレイシーが躓きかける。なんとか体勢を立て直すが、今の拍子に捻ったのか、足首がズキズキと痛み始めてしまう。
「うっ」
「…………」
小さく呻いたトレイシーに、ルカは無言のまま振り返った。彼女の前に屈み込み、片腕に座らせるようにして抱き上げた。トレイシーは突然高くなった視界に驚いて、ルカの頭にしがみつく。
「ひゃっ!」
「そのままじっとしててくれ」
「ルカ!どこ行くの……!」
「…………」
トレイシーの問いに答えず、ずんずんとルカは歩いていく。抱え上げられたトレイシーに逃げ道はない。ただただしがみつくことしかできない。
ルカが扉を開いたのは、書斎だった。普段二人が過ごすことが多かった場所だ。
ルカは使われなくて久しい、大きな暖炉の上にトレイシーを下ろすと、すかさずその両脇に手をついた。一切の逃げる隙は与えてくれない。
トレイシーはルカの顔が見れず、咄嗟に目を瞑る。頭の中はパニックだ。あそこにルカがいるとは思っていなかったので、これは想定してなかった。
今、どうするのが正解なのかが分からない。
このまま気が置けない友達でいたいと願ったばかりなのに、いきなりそれが崩されるとは思っていなかった。さっきまで考えていた、知らない振りもなにも無い。
「トレイシー」
「!」
名前を呼ばれて、びくりと肩を震わせる。悪いことをしたわけでも無いのに、目が開けられない。ただただルカがどう言う反応をするのかが分からないのが怖い。
本当についさっきまで、ルカは自分を男と思っていると信じていたのだ。それを覆された上に、こんな格好で対面する事になるとは思っていなかった。
ぎゅっとトレイシーが膝の上で手を握りしめていると、そこに手を重ねられ、更に荷重がかかる。
トレイシーが不思議に思って目を開くと、ルカの頭が視界に入る。トレイシーの膝に懺悔するように、ルカが伏している。
「……すまなかった、騙す気はなかったんだ」
「え?」
「怒っているんだろう?私が、君が女性なのを気づいて黙っていたことに」
顔を上げたルカは、へにょりと眉を下げた表情をしている。トレイシーが弱い、落ち込んだ犬のような顔だ。
どう言うつもりでホールから連れ出されたのか全く分からなかったトレイシーは、混乱して何も反応を返せなかった。本当にこの男は先が読めない。無表情だったから、何か怒っているのかとすら思っていたのに。
「クラークから聞いたんだろう?」
「う、うん。さっき聞いた……」
「君が同性のように接することを望んでいたから、その通りにしていただけなんだ。騙すつもりは無かった。君が気づいていないとは思っていなかった。本当だ」
「う……」
ルカが真剣に謝るほど、トレイシーは居た堪れない気持ちでいっぱいになる。勘違いしてたのは自分だけだという事実が、辛い。
トレイシーは幼い頃から機械油に塗れていたので、まず女の子として扱われることがなかった。女の子として大事にしてくれたのは父親だけだ。この先もそうなんだとトレイシーは思っていた。「年頃になれば」と言う人もいたが、成人してもそれは変わらなかった。
荘園にやってきてからも状況は変わらなかった。多少は勘のいい人もいたけれど、大概は性別を間違えられる。否定する必要もないのでなるように任せていた。
まさか、それがこうなるとは。お姉さん方の「今だけよ、それ」という発言を鼻で笑っていた自分の愚かさにのたうち回りたい気分だ。
「それは、もういいよ……騙されたとか思ってないし」
「本当か?」
「本当だってば!」
「絶交なんて言わないか?」
「言わないよ!」
「絶対に?」
「絶対に」
「……良かった」
「…………?」
もう一度、膝に顔を伏せたルカの声音が、違って聞こえた気がしてトレイシーは眉を寄せる。でもきっと気のせいだと考える。
それよりも、今は暖炉の上から降りたい。書斎の暖炉は飾りが大きいせいで、高さがあるのだ。なんでよりにもよってルカはここに自分を乗せたのか。身動きが取りづらくて仕方ない。
もぞもぞとしているトレイシーに気付いているのかいないのか、ルカは顔を伏せたままだ。
「君に放電してしまったことも謝りたい。本当にすまなかった」
「もー、何とも無かったからいいってば。ただ二度としないでよ。痛かったんだから」
「ああ」
ルカが顔を上げる。もういつも通りの飄々とした表情に戻っている。なにも変わっていないことに、トレイシーはホッと胸を撫で下ろす。膝に乗せた両手を上から握られてることは、少しだけ気になったが。
トレイシーは抱いた違和感が吹き飛ぶように、努めて明るい声を出す。
「ルカ、ちょっとやつれた?なんか、こんなに会わなかった事が無いから変な感じ」
「そうだな。でもお陰で私はゆっくり考える事が出来たよ」
「?なにを?」
「君の言う通り、二度とあんな事をしでかさないように私なりに方法を考えたんだ」
する、と頬を撫でられる。今日のルカはグローブをしていなかった。大きな手は頬から離れる事はなく、親指がトレイシーの耳に触れる。
ルカが不意に触れてくる事は今までもあった。すぐに払い除けたり、手を伸ばされた時点で叩き落としたりとトレイシーは妙な雰囲気になる前にそれを阻止して来た。
ところが、今回は両手を膝に抑えられている。暖炉の上は奥行きもないので、仰け反って逃れることもできない。
トレイシーは内心の焦りを隠す為に顔を顰めて、不機嫌そうな声を出す。
「ルカ!撫でるのやめてって言ってるでしょ。犬じゃないんだから!」
「……私はずっと君が望む通りに耐えて来たよ。それが友の為だと思ったからね。でもそれだと君が危険なんだ」
「危険?なんで?」
きょとんとした顔をするトレイシーの問いには答えず、ルカは柔らかい笑顔を向ける。まだ満足に歩けない仔犬を見守るような、そんな表情だ。
「可愛いなぁ、君は」
「それっ、むぐ」
トレイシーが抗議の声を上げようとすると、耳を撫でていたルカの親指が唇に押し当てられた。下手に開くと口に指が入ってきそうで、トレイシーは口を噤むしかない。
「駄目だよ、トレイシー。今度は君が耐える番だ。そうじゃないと不公平だろう?」
「んむむ!」
トレイシーが首を激しく振ると、ルカの手はあっさりと離れた。
この男は本当になにがしたいのか全然わからない。トレイシーはルカを睨みつける。
「もう、危険とか不公平とか!なんのなの!」
「私は不満が溜まると帯電してしまうんだ。君が触るな可愛がるなと言うから耐えていたらああなったんだ」
「わ、私のせいだって言うの」
「まさか。悪いのは私さ。けれど、また帯電して事故が起きてしまうかもしれない。それなら我慢しない方が安全だ。それに私は君を犬のように思ったことはないよ。女の子を可愛いと言うことはおかしくないだろう?」
「うう……」
小首を傾げるルカに、「なんか悪いことした?」と不思議がっている近所の大型犬の姿が重なる。図体がでかいくせに、何故こうもあざといんだろう。
トレイシーは男同士の可愛いは馬鹿にされていると思っていた。対等に扱われている感じがしなくてとにかく嫌だった。マイクは「そんなことないよ」と言っていたけれど、ルカに言われるのはとにかく下に見られているように感じていた。
でも全てが自分の勘違いだった今、ルカからの賛辞を拒否する理由は消えてしまった。消えたけれど、益々むず痒さは増してしまう。
「トレイシー。私ばかり我慢するのは不公平じゃないか。友達なのに、対等じゃないと思わないか?」
「それはっ……そうだけど」
トレイシーは熱い耳を手で覆って、声を絞り出す。
「それでも、私は……その、嫌なの……!今までと同じがいい!」
「どうして嫌なんだ?」
「どうしてって」
「さっきは、嫌がってなかった」
ルカにやんわりと両手を掴まれ、耳から外される。トレイシーはぷいと顔を背ける。
そんなことをしても、林檎のように赤くなった頬はルカから丸見えなのだが。
「可愛い格好だと、似合ってるとみんなに言われて君は笑っていたじゃないか」
「あれは社交辞令だもん。目くじら立てる必要もないでしょう」
むすりとした顔でトレイシーがそう返せば、ルカは俯いて猫のように喉を鳴らし、肩を震わせた。
暖炉に座らされたトレイシーは、ルカより少し高い位置に目線がある。だから今のように下を向かれると顔が見えない。いつもなら下から覗き込んで様子を窺えるのに。それが少し不安になる。
ルカは勢いよく顔を上げると声を上げて笑い出す。そして両手でトレイシーの頬を覆う。
突然のルカの行動に、トレイシーは首を竦める。首はトレイシーの弱点なのだ。
「ひゃうっ……」
「ああ、トレイシー。それはつまり、私の言葉はお世辞ではないということか」
「‼︎」
「本心で言っていると、君は最初からわかっていた訳か」
「ち、ちがっ……!馬鹿にされてる気がしただけで……!」
慌てて取り繕おうとするトレイシーの言葉も聞かず、ルカは目を細めて赤い頬をなぞる。逃げ場を求め、トレイシーがうろうろと視線を彷徨わせるのにくつくつと笑う。
――可哀想だけど、今日は逃がしてあげられない。
「お、男が可愛いって言われて喜ぶのは変だって思って!」
「それなら『今の君』はどう思ったんだ?」
「それは、その……」
もごもごと口ごもるトレイシーは顔が熱くなりすぎて、目も潤んでしまっている。
色が白いトレイシーは顔が赤くなりやすい。感情の変化がわかりやすい反面、なにが原因で赤くなっているのかの判別がつきにくい事がある。怒っているのか恥ずかしがっているのか、ルカには見分けられなかった。
だがマイクとの会話でようやくその違いに気づいた。
トレイシーの潤んだ眼尻をなぞって、またぽろりと本心の言葉が漏れる。
「可愛い」
「可愛くない!」
ぎゅっと目を瞑って否定するトレイシーに、ルカは不機嫌になるどころか益々笑みを深くする。
――どうして気付かなかったんだろう。この子はずっとこうなることを避けるために、必死に友達であろうとしたのか。
でもそれは、自分が格別に鈍かったから成り立ったことだ。自覚してしまった今は、いじらしい抵抗をされても手の中でひよこが暴れてるようにしか思えない。
首を竦めて、両手を膝の上できつく握りしめているトレイシーに、ルカは流石に可哀想かと一度手を外してやる。
トレイシーはルカが離れた気配に、目に見えて安堵した顔になる。しかしルカが変わらず柔らかい表情を浮かべているのを見て、慌てて自身の両手で頬を覆う。
弱い箇所に触れられたくないが故の行動だったが、ルカの目には恥じらうような可愛い仕草に映ってしまう。少女の格好をしているから尚更だ。
トレイシーはにこにこしているルカに、苛立った声で叫ぶ。
「その顔やめてよ!」
「どんな顔だ?」
「にやにやするな!どうせ格好褒めてるだけでしょ!」
「おや?なら目くじらを立てることでもないんだろう?」
「っ本心じゃない癖に!揶揄ってるだけに決まってる!」
トレイシーがそう叫ぶと、ピタリとルカが笑う声が止んだ。暖炉に手をつき、ぐっと顔を寄せるルカにトレイシーは慌ててその肩を両手で押し返す。
どこも触れられていないのに、距離が近すぎる。上からの視線なら俯いて知らんぷりが出来るのに、これじゃその手も使えない。
それでも諦めずにルカを押し返そうとするトレイシーの右手を掴み、ルカは淑女にするように口付けた。
「無駄だよ。なにをしても可愛い。君が聞かなかっただけで、ずっと言っているよ私は」
ルカの一度閉じた目が開かれると、そこに柔らかさはなく、強い眼光に変わる。トレイシーは手を引き抜こうとしてそれも叶わないことに気付き、ひゅっと喉を鳴らす。
明らかにルカの纏う空気が変わった。なにか、自分はルカの地雷を踏み抜いたらしい。
「私の言葉は否定するのに、他の人間の言葉は受け入れるのか」
「ル、ルカ……」
「揶揄う?私が?君はどうしたら聞いてくれるんだ?その服が悪いのか?」
「ちょ、落ち着いてってルカ!」
まずい。非常にまずい。ルカの目が変だ。
するりと胸元に伸ばされたルカの手に、トレイシーは咄嗟に左手を絡ませた。右手は使えないから、ぎゅっと相手の中指を握り込んで動きを止めようとする。
当然、力で敵うわけがないので一時凌ぎだ。トレイシーはルカが動く前に何か言わねばと、頭をフル回転させる。
何を自分はやらかした?何がルカの琴線に触れたのか。彼の言葉を否定したことだろうか。しかしいつものことのはずなのに。残念そうにはするけれど、そこで引き下がる。
でも今日は違う。どこで怒らせてしまったんだろうか。何が違ったんだろうか。何でルカが変わった?
もしかして、否定じゃなくて、疑ったことだろうか?
うんうんとトレイシーが考えている間も、ルカの眼光は不穏さを漲らせていている。ルカが口を開いたのを見て、トレイシーはええいままよと叫ぶ。
「トレ」
「恥ずかしいの!」
「………………うん?」
「ルカにかっ……『それ』言われると恥ずかしくて!他の人は平気なのに!ルカは本当だから恥ずかしくて駄目なの!」
赤い顔で首を振りながら叫ぶトレイシーに、ルカの目にあった険しさが緩む。ぱちぱちと瞬いて、不思議そうな顔で眉を顰める。
「それは何故だ?」
「………………………………………………」
「トレイシー?」
本音を叫んで脱力したトレイシーの手を解放すると、本当に恥ずかしかったのか、暖炉の上で膝を抱えて蹲ってしまった。
あれだ。体を丸めて外敵から身を守る、アルマジロにそっくりだ。この場合、外敵は私かとルカは苦く思う。
当初の予定では、ちゃんとトレイシーに謝って、誤解を解いて、それから告白をする気だったのだ。
しかし、自分が知らされてないトレイシーのイベントで仲間達は賑わっているわ、当人が出てきたと思えば見たこともない可愛らしい格好をしているわ、触るな言うなと自分は禁止されたのに他の連中に可愛い可愛いとベタベタ触らせているわで大変に不愉快になったのだ。
一週間だ。一週間こっちはトレイシーと会っていないのにだ。自分が悪いとはいえ、我慢の限界だ。
とりあえず冷静になる為にもと不快な光景からトレイシーを遠ざけたのに、否定どころか自身の本心まで疑われ憤ってしまった。
だが、そんな気持ちもこのアルマジロのせいですっかり霧散してしまった。
耳が真っ赤になったトレイシーの反応を待っていると、そろりと頭が持ちあがり、空色の目が膝から覗く。
「………………………………わ、笑わない?」
「笑う様な内容なのか」
「わかんない…………」
「いいから話してくれ」
ルカに促され、トレイシーは顔を上げた。話そうと口を開いて、また閉じるのを繰り返す相手を、ルカはじっと待ってやる。
マイクにも言われたことだ。自分たちは会話が足りないと。今こそきちんと話をすべきだ。
トレイシーはルカがずっと話を聞こうとする姿勢を崩さないのを見て、漸く想いを口に出す。
「……色があったの、昔は。私は人の言葉に色が感じられたの。優しい人達、特にあの人からの言葉はあったかい色だった。他人は白くて、嫌いな人は冷たくて、怖い人は黒くて。そう感じていた事があった。
あの人、お父さんの口から出る『可愛い』は本当に暖かくて綺麗な色で好きだった。
でもあの人がいなくなったら、色がなくなってしまった。分からなくなった。だれが親切なのか嘘なのか、分からない。色がないからなんとも思わない。だからそんなこと、もうとっくに忘れてたのに……」
トレイシーが言葉を切って、恨めしそうにルカを睨む。いや、当人は睨んでるつもりなのだろうが、ルカにはただ巣穴から外を窺うリスにしか見えない。
「私か?なにかしたか?」
「ルカが最初に可愛いって言った時に、色があったの」
「ふうん?それはそれは。どんな色か気になるな」
「…………………」
「トレイシー?」
「…………………」
「なんだ?なにか悪い色だったのか?」
「…………………」
ルカの問いに、トレイシーはだんまりを決め込む。ぐぐと膝を抱える手に力が籠るのを見て、ルカはふむと顎を撫でた。
「黒や冷たい色、なら君は友達でいてくれるわけがないな。白が他人ならこれも違う。暖かい色であってほしいところだが、それなら何故君は黙っているんだろう。当てはまらない色だったのか、それとも認めたくない色だったのか」
「…………ルカ、勘がいいからやりにくい」
「それはどうも」
「そうだよ、もうなんか訳が分からない色だった。極彩色っていうの?もうゾワゾワするし恥ずかしいしで、なんなのこいつって思ったもん……」
あの時のことは忘れられない。トレイシーが最初に危機感を覚えた瞬間だから、当然か。
なんだか横から熱心な視線を感じるな、と思ったらルカがぼそりと「可愛い」と呟いたのだ。その途端感じた色に驚いてそちらを向けば、蜂蜜の様な表情で目で、ルカが自分を見下ろしてる。
そこでトレイシーは、ルカから感じた色の意味に気付いてしまった。まずいと思った。それは友達に、自分に向くはずがないものだ。誤魔化さなきゃと思ったトレイシーは咄嗟に「可愛いは、ダメ!」と叫んでいたのだ。ルカが自分に好意的なのは分かっていたけれど、友好までだ。それ以上は嫌なのだ。
その後も警戒はしていたけれど、普段のルカからはそんな素振りは見えない。あれは自分の勘違いだったのかもしれないとトレイシーはこっそり安心していた。自意識過剰だったのかも。そんな訳ないに決まってるのに。それでも念の為に、禁止事項は増やしておいた。
しかし、ルカはトレイシーが忘れた頃にぽろっと「可愛い」と口にするのだ。その度にトレイシーはあの色を感じて冷や汗をかく。伸びる手を叩き落として、空気が変わらない様に努める。
今は誤魔化せているけれど、いつか性別に気付かれたら。その時に向けられる感情が変わってしまったら。
幸い、ルカは自分と同じく人間付き合いが上手くはなかった。友人もいないし、自分の感情にも疎い。それならこのままでいられるかもと期待していたのだ。友達だから、男同士と思われてるからまだ大丈夫と思っていたのに。
トレイシーが全て話終わると、ルカは盛大にため息をついてトレイシーの膝に額を押し付ける。
「君、人の事言えないじゃないか」
「?何が?」
「私が君の性別に気づいていたように、君は私の好意に最初から気づいていた訳だろう……」
「う……そう、なる、かも?」
「はあ。モートンは、流石コミュ力お化けと言われるだけあるな……彼の言うとおりだった」
ルカはマイクに言われたトレイシーの恋愛観の事を思い出す。そして自分が彼女にとっての危険要素だと言われていたことも。
推測の域を出ないと言いながら、彼の予測は全て大当たりだった訳だ。
「……ところでルカ」
「なんだ?」
名前を呼ばれて、ルカはトレイシーの膝から頭を上げる。トレイシーは居心地悪げにそわそわと足を擦り合わせる。
「そろそろ、ここ降りたいんだけど」
「駄目だよ」
「なんでよ」
「本題がまだだから」
「はあ?」
トレイシーは思い切り顔を顰めて、口を尖らせる。
本題がなんだかは分からないが、こんな不安定なところで話を続ける必要がどこにあるのか。
トレイシーがルカを無視して暖炉から降りようとすると、両脇を抱えて暖炉の上に位置を戻される。
「ちょっと!」
「足を捻っているのに、飛び降りたら危ないだろう」
「…………」
そういえばそうだったとトレイシーは思い出す。さっきここまで連れてこられる道中で、自分は躓いていたんだった。思い出した途端に痛み出す右足首に、トレイシーは大人しくするしかない。
だがそれなら尚更、話をするのはルカの背後にあるソファーセットでも良かったはずだ。そこなら飛び降りる必要もなかったのに。どうしてこんな、トレイシーが身動きの取れない場所で話をしようと思うのか。
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