犬って被るものだっけ?

朝のゲームがない日のトレイシーは、夜明けまで起きている事が多い。一度作業を始めてしまうと、切りのいいところまでと思いつつも止められなくなるからだ。寝よう寝ようとは思っているのだが、自分ではどうにもならない。
そこから寝ると起きるのは昼頃になる。食事もおかしな時間になることが多いので、面倒くさがって抜いてしまうことも多い。
けれど食事を三回以上抜くとエミリーが怖い顔で部屋までやってくるので、そこだけは守るように気をつけている。
そんなトレイシーだったが、その日は朝から食堂に朝食を取りに出ていた。ゲームはない日なのだが、きちんと夜に寝たので珍しくこの時間に目が覚めたのだ。
もさもさとパンを齧りながら、どうしようかなとトレイシーはスープのカップを揺らす。今日はルカの謹慎が終わる日だ。
部屋まで行くべきだろうか、それとも来るのを待つべきだろうか。それを考えていたら何も手につかなかったのだ。
聞いた話だとルカは謹慎中、かなり落ち込んでいたらしい。ここは気にしてないよって迎えに行くべきなんだろうか。でも部屋に来て欲しくないっぽかったし、どうしよう?
答えが出ないままぼーっと空になった皿を見つめていると、ぐいと襟首を掴まれる。
「んあ⁈」
「なんで今日に限って起きてるんだ」
猫の子のように摘まれて、なんだなんだと思っていると苛立った声が降ってくる。上を見上げると目を細めている白皙の美青年が立っていた。機嫌は大分よろしくない。
「なになに、ジョゼフ」
「こっちにいたぞ」
じたばたとしているトレイシーを他所に、ジョゼフが背後に声をかける。掴まれた襟首を引き剥がそうと躍起になっていると、やや遅れて何かを突く音が近付いてくる。
「まったく、寝てる間にふん縛って連れていこうと思っていたのに……お前さんの勘の良さと来たら」
「バルク?え、なんなの本当に」
なんだか穏やかではない内容に、ジョゼフの手から逃げようとトレイシーは踠く。よく分からないけど嫌な予感がする。
ひたすら無駄な抵抗をしているトレイシーを見下ろして、ハンター二人は顔を見合わせる。
「……この様子だと、忘れているな」
「まあそんなこったろうと思った」
「もう!さっきからなんなの二人とも!」
心底馬鹿にしたように首を振るジョゼフとバルクに、トレイシーは目を釣り上げて怒鳴る。突然人の食後に現れて、その態度はなんなんだ。
バルクは哀れなものを見るような目で、トレイシーの頭を突く。
「あのビリビリ小僧の電撃を喰らったせいで記憶も飛んでるんだろう」
「そんな厄介な攻撃だったのか、あれは」
「もー!だから何の話してるのさ!」
しみじみと人の顔を覗き込んでいるハンター二人に、トレイシーは噛み付く勢いで叫ぶ。
と、そんな三人の横から呆れた声が響いた。ジョゼフとバルクと一緒にトレイシーを探していたイライだった。
「主役が見つかったんなら早く連れてきてください」
「イライ?なにその色の服」
「その主役が完全に今日の予定忘れとるぞ」
トレイシーが首を傾げるのと、バルクが槌の柄でトレイシーの頭を小突くタイミングが同じだった。まるで頭を差し出すかのような動作に、コンという音が重なる。
「痛あ!」
「いい音がしたな」
「あの、たんこぶ出来たら困るんで控えめにお願いします」
トレイシーが頭を抑える。槌じゃない方でも結構痛い。
痛みに呻くトレイシーを、大人しくてこれ幸いとばかりにジョゼフが小脇に抱える。
「主役確保」
「まあ概ね予定通りか」
「ううう……」
すたすたと歩き出した三人の目的は同じらしい。しかし先ほどから話題に出ている「予定」や「主役」という言葉が何のことか、トレイシーにはさっぱり分からない。
何故だか逃げ出すと思われているらしいけれど、イライが関わっているなら危険なことではない筈。一体何を自分は忘れているのだろうか。
トレイシーはすぐ隣を歩いているイライに目を向ける。
「今日ってなんかあったっけ?」
「あるんだよ。トレイシー寝込んでたから予定ずれ込んだんだけど」
「んん?」
「……本当に忘れてたんだね。いや覚えてたら逃げ回るからいいんだけど」
イライが説明してくれた内容は、確かに一ヶ月前にナイチンゲールから通達されていた事だった。トレイシーはあまり興味がない事なのですっかり忘れていたのだ。
しかし思い出したところで特に逃げ出すような事柄ではない。何をみんな警戒しているのか。
首を捻っているトレイシーの前に、イライが一枚の紙を開いてみせる。
それを見たトレイシーは目を見開いて固まった。


「くっ、この!暴れるな!じゃじゃ馬め!」
「なんで見せたんじゃ!」
「こんなに嫌がるとは思ってなくて!」
「離せえええええええええ!!!!!」





リビングの植木に水やりをしていたエマは、気配を感じて顔を上げた。久々に見る顔がおずおずと部屋の中を覗き込んでいるので、エマはくすりと笑う。
「そんなところにいないで、どうぞなの!ルカさん」
「ああ……すまない」
ルカは招かれるがまま室内に入ったが、きょろきょろと辺りを見回している。エマは彼がピアノを弾きにきたのかと思っていたのだが、そうではないらしい。
だったら何を探しているのかと思い、ああとエマは手を叩く。
「トレイシーちゃんなら、今はいないの!」
「今日はゲームはないと思ったのだが」
「違う御用なの!うふふ、ルカさんも楽しみにしてて欲しいの」
「?ああ」
楽しみとは何だろう?ルカはその内容を尋ねたいところだったが、エマは如雨露の他にスコップの入ったバケツを抱えているのでこの後もまだ作業があるのだろう。流石に呼び止めるのは悪い気がして、ルカは部屋を出ていく彼女を黙って見送った。
誰もいなくなったリビングで、ふらりとピアノの椅子に腰掛ける。
――そうか、いないのか。
ルカは少し緊張していたのだが、目的の人物がいないと分かり気が抜けた。
マイクとの対話のあと、ルカはトレイシーとの関係をどうすべきか考えていた。謹慎の終わりまでずっとだ。
現状維持をすれば隣にはいられるが、また同じような事が起こるかもしれない。しかしならば離れられるかと言えば否だ。彼女が他の奴と親しくしているのを見るだけでどろりとした感情が湧いてしまう。
だったら一層の事、この想いを告げてしまうのがいい。友と思っていた相手だから彼女はきっと戸惑うだろうが、マイクの言う事を信じるなら望みはある。
「はあ……」
ルカはピアノの鍵盤に目をやり、溜め息をついた。今はとても叩く気にはなれない。
告白することは潔く決めたわけだが、やはり緊張はする。そして告白前に、彼女の誤解を解くことから始める必要がある。いや、何よりまずは謝罪をしなくては。
トレイシーに拒絶された場合の事を考えると、胃の腑が鉛の様に重くなる。というより、もうすでに痛い。
ただ待っていると碌なことを考えない。トレイシーが現れるまで何か他のことでもしていようかと、ルカはリビングから食堂側の扉を開いた。
丁度扉の前を通りがかったナワーブとウィリアムがそんなルカに気付き、歩み寄って来る。
「ルカ!やっと出所したのか」
「なかなかいうな、君……」
「ジョークのつもりで嫌味ではないと思うぞ」
開口一番のウィリアムのセリフにルカは皮肉かとも思ったが、本人はにっかりと笑っているので確かにそのつもりはなさそうだ。
ナワーブはルカの全身を見回して、うんと頷く。
「……きのこは生えてねえみたいだな」
「モートンにもカビが生えそうと言われたよ」
「違いねえ。持ち直したみたいで良かったぜ。ルカ、マジで落ち込みすぎて湿気でどうにかなるんじゃねえかと」
「その節はどうも。凄腕のカウンセラーのおかげでどうにかなったよ」
ルカは苦笑しながら二人に礼を言う。謹慎中のルカを気にして、食事以外にもウィリアムとナワーブはちょくちょく確認に来てくれていたのだ。
見ると、ナワーブは丸めたシーツを脇に抱え、ウィリアムも布の入った籠を抱えている。洗濯室に向かう最中だったようだ。
「忙しそうだな。手伝おうか?」
「ああ、いい、いい。俺らはリネン集めてこいって言われただけだからな。これで終わりだしよ」
「お前当番じゃねえだろ。それより、いいのか?」
「何がだい?」
ナワーブの問いに、ルカは目を瞬かせた。先ほどエマも意味深な笑いを浮かべていたが、なにか自分は忘れていることがあるんだろうか。
顳顬に手を当てるルカだったが、ウィリアムはナワーブを肘で突く。
「トレイシーだろ、わざわざ自分で教えると思えねえけど」
「ああ……それもそうか。というかあいつも忘れてそうだな」
「なんの話をしているんだ?」
ルカがそう尋ねると、説明が面倒になったナワーブが上の階を指す。
「直接見に行った方が早いと思う。バンケットホールに行け」
「??ああ……」
リネンを抱えた二人と別れ、ルカは言われた通りに上階のホールへと向かう。
バンケットホールはパーティーなどの特別な催しでしか使われない、広い空間だ。普段は鍵が掛かっており、入ったとしても何もない。
そんなところにトレイシーがいるのだろうか?何のために?疑問に思うことしかないが、今はなにも答えはわからない。
ルカが階段を上がると、確かにナワーブの言う通りホールは開放されており、人が集まっているようだ。賑わった様子の室内に、何事だろうと開け放たれた扉に近付く。内側で何かを話していたノートンとマイクがルカに気付いて振り返る。
「あれ、バルサーもう解放されたんだ?」
「ご挨拶だな、キャンベル」
ノートンの嫌味をルカは鼻で笑う。磁石の事故で味方をハンターの元に吹き飛ばしては、謹慎を常習的に喰らう男が何を言う。
にやにやとしているノートンを無視して、ルカはマイクに尋ねる。
「これはなんの集まりなんだ?トレイシーがいると聞いたんだが」
「なにってそりゃ……あ!そうか、ルカ来てからは初めてか!」
マイクがはっとした顔でそう叫ぶ。ノートンも「ああ」と納得した顔で手を打ちつける。
「バルサーってシーズンの切り替えの後で来たんだ。それは知らないはずだ。トレイシーも忘れてたらしいし」
「普通は自分の番忘れなくない?」
「あの子の場合は不思議じゃないと思うけど……」
「話が全く見えないんだが?」
いい加減、この事態の説明をしてほしい。ルカもついつい苛立たしげな声になってしまう。
「ごめんごめん。あれだよもうすぐ」
「ぎゃー‼︎」
眉間に皺が寄り始めたルカに、マイクが謝りながら説明しようとしたところで、ホールにトレイシーの声が響き渡った。





イライはほとほと困り果てていた。
なんとかナイチンゲールの協力のもと、トレイシーを着替えさせることはできた。しかし今度はシーツに包まって出てこない。器用にびっちりと包まって、シーツの端っこを握り込んでいるので剥がすのも難しい。主役がこれではお披露目どころではない。
「暴れられるより持ち運びには便利」と来る時同様、ホールへの道中もトレイシーを小脇に抱えているジョゼフは気にしていないが、このシーツお化けをどうしたものかとイライは歩きながら悩んでいる。
「ジャックにシーツを切り裂かせればいいだろう」
「それ中身までいきませんか」
バルクがこともなげに言うのを、イライはげんなりとした顔で止める。ホールが地獄絵図に変わりかねない。
すぐ実力行使に出るハンター陣に期待は出来ないので、どうにかトレイシーを説得できないかとイライはシーツお化けに話しかける。
「トレイシー」
「やだ!」
「……なにがそんなに嫌なんだい」
「この服が嫌なの!他の人にしてって言ったのに!」
「そうはいかないよ、君の番なんだから」
「エマとかヘレナとかいるじゃん!」
「彼女達にも決まった順番があるんだよ、きっと。それに似合っているよ?」
「嘘だ!似合わない!」
「似合っとるぞ」
「似合っているが」
トレイシーの言葉に間髪入れずにバルクとジョゼフがそう答える。二人とも特に興味はなさそうなので煽てる意図はなく、ただ淡々と事実を述べているだけのようだ。
そのあまりにも冷静な答えにトレイシーもぐっと唸る。無関心だからこそ、その言葉が本心なのは理解出来るのだ。
「……似合っても嫌」
「赤子か。意味の分からん愚図り方をするな」
苦し紛れのトレイシーの拒絶に、バルクが心底面倒臭そうにため息を吐く。どうするかと同僚を見上げれば、ジョゼフはふむと顎を撫でて小首を傾げた。
「手は、無いこともない。切り裂くよりは平和だろう、多分」
「ほほう。ならそれでいいか」
――良いわけがない。絶対不穏な方法だ。
イライは朝、平和な方法と言って二人がトレイシーを連れ出すために殴って昏倒させようとしていたのを知っている。女性に対してとんでもないと慌てて止めたのだが、次の案が寝てる間に縛って連れて行くというものだったのにも頭を抱えた。
バルクは誰に対してもこうだが、ジョゼフはもう少し女性に対して丁寧な印象がある。何故トレイシーの扱いだけちょっと雑なんだろう、とイライは思う。
ジョゼフ曰く平和な方法を実践される前に、なんとかトレイシーを説得できないかとイライは白い塊に話しかける。
「トレイシー、なんでその服がそんなに嫌なんだい?スカートは他にも衣装あるよね」
「………………」
「ん?」
トレイシーがボソボソと何か言っているが、よく聞こえない。イライはシーツに耳を寄せる。
「ルカに、見られるのが嫌なの」
「……なんでだい?」
イライは不思議に思い、そう尋ねる。二人とも仲が良いはずだ。
トレイシーは、シーツ越しでも分かる不貞腐れた声で答える。
「ルカは私のこと男と思ってるのに、こんな格好見せられないよ」
「え?いやいや。それはないよ」
イライの即座の否定に、トレイシーはむっとする。自分の方がルカといるから、彼のことは分かっている。なんでそれを他人が否定するのかと苛立ちを覚える。
思わずぶっきらぼうな声を出してしまう。
「なんで、イライにそんなことが分かるのさ」
「初めて会った時に彼に聞かれたんだよ、『人形師の彼女はどこに?』って。だからバルサーさん、トレイシーが女の子って知ってる筈だよ」
「…………え?」
イライに言われた内容を、理解するのに数秒かかった。もう一度問い返そうとトレイシーがしたところで、体が高く持ち上げられる。
何故だか分からないが、トレイシーを小脇に抱えていたジョゼフが、頭上にトレイシーの体を担ぎ上げているようだ。何をする気か分からずトレイシーが身を固くしていると、ぱっと支えの手を離された。
腹の底から血の気が引く浮遊感に、トレイシーは思わず悲鳴を上げてしまう。
「ぎゃー‼︎」
「うわああ!」
隣でその一部始終を見ていたイライも声を上げる。まさかジョゼフが頭上から人間を落とすとは思っていなかったのだ。ぽかんと見守ってしまったのが間違いだった。
トレイシーの手が緩んだ隙に、ジョゼフが強引にシーツを毟り取る。小柄な体躯が床に叩きつけられる前に、イライがなんとかトレイシーの下に滑り込んだ。
「解決」
「おー、その手があったか」
「何すんだあああ!」
シーツを広げて見せるジョゼフに、バルクが手を叩く。呑気な年寄り組にトレイシーが怒鳴る。イライの支えがなかったら無事じゃ済まされなかった。骨の一本二本は折れていたかもしれない。
「危ないじゃん!」
「無事だっただろう」
「イライのお陰でだよ!」
しれっと悪びれないジョゼフにトレイシーは食ってかかる。もしイライが間に合わなかったらどうする気だったのか。
じいちゃん呼びが気に入らなかったのか、マッサージチェアを作ったのが気に入らなかったのか、カメラをデコレーションしたのが気に入らなかったのか、とにかくジョゼフはトレイシーの扱いが雑だ。
「トレイシー!なんともない?」
「大丈夫、ありがと」
「良かった……平和な方法って言った時点で疑うべきだったよ」
「悪足掻きするからだろう。ほれ、もう諦めろ」
シーツを奪われ、新しい衣装姿を晒すトレイシーがうぐぅと唸る。もう目の前にはバンケットホールの扉がある。
尻込みするトレイシーに構わず、ぐいぐいとその背をバルクが押す。さっさと新しい衣装を見せて終わらせればいいだけなのに、トレイシーが無駄な抵抗をするのでこちらも無駄な時間と労力を使っているのだ。
「早くせんか」
「ちょ、待ってって」
「もう何度も聞いたわ、待てるか」
「もうなにしてるの、早く入って来なさいよ」
バルクとトレイシーが押し問答をしていると、ホールの内側から扉が開かれた。声がするのに中々入ってこないメンバーに焦れて、マーサが出て来たのだ。
そのマーサの後ろから、ウィラが顔を出した。バルクに押し出されたトレイシーと視線が絡む。ウィラはトレイシーの全身を眺めて驚いたように口に手を当てる。
「あら、可愛い」
「本当に!トレイシー、見違えたわ」
「え、えへ」
ぎこちなく笑うトレイシーに気づかず、ウィラは他の三人の格好にも視線を向ける。
イライの落ち着いた黄色の衣服に、ジョゼフの薔薇色の上着、バルクのターコイズカラーの作業着。普段は暗色を纏う三人が明るい色の衣服を身につけているのを見てくすりと笑う。
「みんなも素敵な色合いね」
「そうかな。ありがとう」
「さ!トレイシーも!みんな待ってるわよ。その可愛い格好早く見せてあげて!」
「え、ちょっと、マーサ待って……!」
手を掴んでぐいぐいと進んでいくマーサに、踏みとどまる間も無い。トレイシーは引っ張られるがまま、ホールの中へと足を進めるのだった。





ノートンは右手を翳して声の方に目を凝らしたが、トレイシー当人が来たわけでは無いらしい。何かごたついているのだろうか。
「どうしたんだろ?」
「分からないけど、朝も相当トレイシー暴れてたらしいからまだ揉めてるのかも」
「暴れる?一体なんの話をしているんだ?」
マイクとノートンの会話に、ルカの不機嫌な声が割り込む。地を這うどころか、雷が落ちる前のごろごろ音のような声になっている。気のせいかパリパリという静電気すら感じる。
状況が分からない上にトレイシーが暴れたと聞いてルカは今にも飛び出していきそうだ。マイクは咄嗟にルカの両肩を掴んだ。
「分かった分かった、説明するから待って待って」
「なんかちょっと見ない間に大分短気になったね」
マイクに代わり、ノートンがルカの道具袋に繋がる落下防止を掴む。これで飛び出していくのは止められるだろう。
目が据わっているルカを宥めて、マイクは中断した説明の続きをする。
「荘園の住人全員の中から四人に、期間限定でシーズンの服っていうのが送られるんだ。その四人の中の一人が必ず『主役』に選ばれる、一回だけね。もうすぐその十一回目のシーズンが来るんだ。で、それが今回トレイシーなんだよ。シーズンの期間が変わる前に、いっつも衣装のお披露目をやってるんだ。今日はその日ってわけさ」
「大体、交代の一ヶ月前に告知されるんだけど、その時は選ばれた四人と主役が誰かってことしか教えてもらえない」
マイクの説明にノートンが補足する。それを聞いてルカはなるほどと思う。それをトレイシーは忘れていたというわけか。自身の衣服に無頓着な彼女らしい。
しかし、いくら無頓着とはいえ、新しい衣服が嬉しく無いわけがない。何故「暴れる」だの「揉める」だのという不穏な単語が出てくるのだろうか。
ルカが首を捻っていると、マイクが「あー」と言いづらそうにもぐもぐと口を動かす。そのマイクの態度から、なにか自分に関わることなのはルカにも分かった。
「なんだ?言ってくれモートン」
「や、その。僕、昨日イライにシーズンのデザイン画見せてもらったんだけど。その時にトレイシーに先に見せない方がいいよって言ったんだよね」
「どうしてだ?」
「そりゃ」
「ほら、早く!」
「待ってってマーサ!」
マイクの声を遮り、ホールに響く高い声。やっと主役のトレイシーが現れたと、あちらこちらからその一点に視線が集まった。
うきうきとした足取りでホールの中心に進み出たマーサは、まだ及び腰なトレイシーの肩を後ろから押してやる。トレイシーは不安そうにしているけれど、みんなの反応を見れば自信がつくはずだと思ったのだ。
「ほら、顔上げて」
「うう……」
肩を窄めて俯くトレイシーの頬を、ウィラが後ろから両手で挟んで上げさせる。
なにも聞かされていなければ、ここにいるのがトレイシーだとすぐに認識できる者は少なかっただろう。
可愛らしい、お菓子の装飾があしらわれたアプリコットカラーのワンピース。ふんだんに使われた白いフリルにシフォンジョーゼットの姫袖。編み上げの白いニーソックスに服とお揃いのストラップシューズはおどおどとした仕草をより幼気に見せる。猫の耳を模したヘッドドレスに無骨さの無い、丸いゴーグルは癖を抑えた髪型にとてもよく似合う。
「キャンディー少女」と名付けられた衣装は、トレイシーの少年のような潔癖さも相俟って、天真な愛らしさをより引き立たせる。
わっとホールのあちらこちらから称賛の声が上がるのを見ながら、ノートンも「おおー」と声を漏らす。これはいい意味で予想を裏切られた。
前にトレイシーに来たのは偽笑症や機械人形師といった、可愛らしさとは無縁の格好いいデザインだった。今回もそういう系統かと思っていたら、これだ。
「ああいうのもいいね。トレイシーには女の子女の子したやつは来ないのかと思ってた」
「素材はいいから似合うんだって。勿体無いなって僕は思ってたよ」
マイクがちらとルカを伺うと、目を見開きトレイシーの方を凝視している。こちらの声は聞こえてはいないようだ。ふっと短い溜息をついて、マイクは正面に向き直った。
――そういう反応にもなるよねえ。あれ可愛いもん。
だからデザイン画見た時、絶対これトレイシー嫌がるなって思ったんだけど。
なにせ、マイクは擦れ違いの実態を知っているが、トレイシー本人は知らないままだ。まだルカが自分を同性と思ってると、頑なに信じている。当人でもない人間が間に入るとより拗れる気がしたので、マイクはそこは何も伝えていない。
そしてトレイシーはノートンと同じく、自分に来る衣装の系統は決まっていると高を括っていた筈だ。しかし、こちらの思惑を裏切るのがここの荘園の主だ。見事にトレイシーが来て欲しくない、完璧なタイミングで可愛らしい衣装を贈ってきた。まだ、このままの関係でいたいと望む二人を嘲笑っているようだ。
前々から思ってたけどここの主、絶対性格と根性と意地が悪いんだろうなとマイクが顔を顰めていると、疲れた様子のイライがやって来る。新衣装のお披露目のはずなのに、何故かイライは草臥れて見えた。
「あれ、イライ向こうはいいの?」
「もう主役連れてきたから僕の役目は終わったよ」
ノートンの問いに、肩を竦めて見せるイライ。朝から自由人のバルクやジョゼフと行動を共にしていたので、もう充分だろうと避難してきたのだ。これ以上の厄介ごとは勘弁だ。
「二人は話聞いてくれないし、トレイシーは駄々っ子だし……」
「それはまた、お疲れ様だね」
「マイクの言うこと聞くんだったって後悔してるよ」
「見せるなって言ったのに、なんでデザイン見せちゃったのさ」
「とっても可愛かったから喜んでくれるかと思ったんだけどなあ。まさかあんな暴れるほど嫌がられるとは思ってなくて」
イライはそこでルカに視線を向ける。目がトレイシーの方向に釘付けになっている青年に思わず笑ってしまう。
「?なんで笑ってんのイライ」
「いやあ。トレイシーがあんまりあの服嫌がるから、なんでそんなに駄々こねてるのか聞いたんだよ。そしたらバルサーさんは自分を男と思ってるはずだから見られたくないって言うんだ」
「ああ、うん」
それはマイクも知っている。こんなことなら先に事実を伝えておいた方が良かったかも、と少し後悔している。
ノートンはにやにやと笑いながら「へえ」とルカを一瞥する。
「こんなに長期間気付かない奴いたら、ナワーブとウィリアムの三ヶ月って記録塗り替えるんじゃない?」
「ああ、それはない。彼は最初から知ってたよ、トレイシーが女の子って」
「なんだ」
つまらなそうな顔になるノートンに、イライは苦笑する。
ノートンは上流階級の雰囲気のある人間を面白く思っていない節がある。ルカも言動の端々に上流階級特有の品の良さと傲慢さが滲むことがあるので、彼は気に入らないようだ。
「あんなくっついてるから知らないのかと思ってた。マイクは知ってた?」
「こないだ知った、というかルカから聞いた」
「それでトレイシー本人は知らないんだ?面白すぎるでしょ」
「他の人間からそれ聞いたら拗れるかなって思ってさ。言わなかったんだよね」
「おっと、それなら余計なことしたかな?」
マイクの発言に、イライはしまったという表情になる。
「バルサーさんは最初からトレイシーが女性って知ってたよって、教えちゃったんだけど……」
「なんだ」
会話を遮るように、飛んできた声にイライとマイクがルカの方に視線を送る。
ルカは、もうトレイシーの方を見ていなかった。三人の方をじっと見て口元を覆い隠している。
なにを考えているのかわからない男に、マイクは何と声をかけるのが正解か思い付かず、口を開けない。
ルカが口元を覆っていた手を下ろす。露になった口角は上がっている。

「なんだ、知っているのか」

ルカが呟いた。
笑みを浮かべているようにも見えたが、細められた目からは何の感情も読み取れない。怒っているのか喜んでいるのか、全くわからない。
「ふむ、なら作戦を変えるか」
「ルカ……?」
「話は早い。感謝するよクラーク」
くすりと笑うとルカは、マイクの問いかけにも答えずスタスタとホールの中央に歩いて行く。
ルカを取り巻く空気があまりに普段と違いすぎて、マイクは見送ることしかできなかった。
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