犬って被るものだっけ?

目に入った光景に、アンドルーはまず唖然とした。そして慌てて犯行に及ぼうとしている人物を止めに入った。
「早まるなレズニック、その状態は無理だ!」
「んえ?」
呼び止められたトレイシーは中腰のまま上を見上げる。焦ったアンドルーが階段の手摺りから身を乗り出しているのを見て、顔を輝かせる。
「あ、アンドルー丁度いいところに」
「それで落としても事故には見せかけられない」
「んん?」
「やるなら窓からにしろ」
アンドルーの真剣なアドバイスに、トレイシーは抱えていた『荷物』から手を離した。
「……もしかしてルカにとどめ刺そうとしてる?」
「まだ生きてるのか?」
「なんで死んでると思ったのさ」
トレイシーは階段の途中でアンドルーを睨み上げる。
仁王立ちをしているトレイシーと、その足元の『荷物』――ぐったりとしているルカ。
トレイシーは脱力しているルカの両脇に腕を入れて、ずるずると体を引き摺って歩いていたのだ。アンドルーが目撃したのはその体勢のまま、トレイシーが階段を降りようとしているところだった。
アンドルーの目には、それが階段からルカを突き落とす算段をしているようにしか見えない。
「事故死に見せかけるなら階段はやめておいた方がいい。殴打した凶器の痕跡は隠せない。高所から落とすか死体自体を隠すか」
「私の撲殺前提なのはなんでなの」
勝手に人を犯人に仕立て上げないでほしい。処理の仕方を真面目にアドバイスするのもどうなんだとトレイシーは肩を竦める。
大体、そうだとしてもこんな堂々と真昼間から殺人の後始末をしたりしないし、証拠なんか残さない。
しかしアンドルーは当然という顔で小首を傾げる。
「そいつ、いつかやらかすとは思っていた」
「何をさ」
「事故に見せかけなくても、正当防衛なら痴情のもつれでも罪に問われないと思う」
「違う!違うよ!話してたら頭痛いって倒れたの!」
トレイシーは首と手を振って否定する。
表情の乏しいアンドルーが言うと、本当にやばい現場を目撃されたような気分になるのでやめて欲しい。ジョークなら愛想笑いでもするけれど、本気で隠蔽方法を提案してくれそうで困る。
大体痴情もなにも、友達のルカと自分じゃ起きようがないじゃないかとトレイシーは思う。
ルカは記憶障害だけでなく、厄介な頭痛持ちでもある。事故の後遺症なので治しようがなく、鎮痛剤もいろいろ試しているが効かなくなってしまってるものが多く、あまり効果がないらしい。
どんよりとした天気の日は特に症状が酷く、今日のように突然倒れることもある。
「取り敢えず、医務室まで連れて行こうかと」
「いや、無理だろ」
アンドルーは小さい技師の全身を見やり、首を振る。ここまで引きずってきた体力は褒めてやるが、そもそも持ち上げられない時点で絶対階段は越えられない。ここは三階で、医務室は一階なのだ。
他の人間に協力を仰ぐか、エミリーを呼ぶという手もあっただろうに、何故こんな困難な行動を起こしたのか。
「引っ叩いてみたのか?」
「べちべちしたけど起きなかった」
「べちべち……?」
アンドルーが首を捻ると、トレイシーが掌で強めにルカの頬を叩く。確かにべちべちという音はしている。実際はかなり痛そうだが。しかしルカは全く反応しない。
「ね?」
「あんた結構容赦ない」
「私だってこんなおっきい奴運びたくないもん」
「人を呼べばいいだろ……」
「じゃ、手伝ってよ」
「はああ……」
ここで無視をするわけにも行かないので、アンドルーは渋々ルカを運ぶのを手伝ってやることにする。
と言ってもトレイシーとアンドルーでは身長差がありすぎるので、結局はアンドルー一人でルカを背負うことになる。通りがかってしまったのが運の尽きだなとアンドルーは諦めの境地だ。
トレイシーは重い荷物から解放されて、うんと伸びをする。
「あー中腰辛かったから助かった!」
「どこから引きずってたんだ……こいつの部屋か?」
「違う、そこの書斎。最近ルカ、部屋に行こうとするとのらりくらり話変えて入れてくれないんだよねぇ。なんか隠したいものでもあるのかな」
目を細めてルカを睨んでいるトレイシーに、アンドルーは苦い顔をする。
「詮索はしないんだろ、『ここ』では」
「わかってるよ、しないよ。でも気になっちゃうのは仕方ないでしょ。『入れたら後悔する』とか言われたらさ」
「後悔?入ったらではなく?」
「そう。どう言う意味かって聞こうとしたら、頭押さえて倒れたんだ」
余程聞かれたくない何かがあったのかもしれない。アンドルーには関係ない上に興味もない事だが。
まず、自分なら他人を部屋に入れたくない。隠すも何も、自分の領域を赤の他人に侵されるのは我慢がならない。人の部屋を行き来している連中も、誰でも部屋に入れてしまうこの人形使いの事も理解できない。
況してや異性を自身の領域に入れるなど、男はともかくとして、女性なら怖いと思わないのだろうか。
アンドルーは脇を歩いているトレイシーを見下ろす。
「僕からすれば、あんたの方が変だ。よく他人の出入りを気にせずにいられる」
「元々家がお店だったから、かな?」
「流石に夜は閉まってるだろ」
あまりに不用心すぎるので、この子供が実は女性で成人しているという事実を知った時、アンドルーは本当に信じられなかった。化粧っ気もなく髪も短い、機械油の匂いが染み付いた女がいるのかと驚いた。
それに発明家を名乗る、この如何にも怪しい男と親しくしている神経も分からない。囚人服なのも胡散臭いし、上流階級の生まれなのも気に入らない。金の為でなければアンドルーはこの類の人種とは極力関わりたくないと思っている。
発明家や博士なんて名乗ってる連中は、頭のネジがぶっ飛んでいる側のやつが多い。
アンドルーの言葉に、トレイシーは声をあげて笑う。そしてくるくると頭の横で指を回して見せる。
「それで言うなら、私もネジが飛んでいる側じゃない?」
「……イカれてるとは思う。けどまたそれとは違う」
アンドルーの言葉の意味を問う前に、二人は医務室に辿り着いた。
トレイシーがノックをしてみるも、室内からは返事はなかった。基本的に医務室は出入り自由なので、二人は気にせずに中に入る。誰もいないなら遠慮する必要もないだろう。
アンドルーは診察台にルカを転がし、ふうと息を吐く。それなりに距離があったので流石に疲れた。細い癖に無駄に上背があるので、ルカは重いのだ。
数十メートルの短い距離とはいえ、よくトレイシーはこの男を抱えて移動できたものだ。
アンドルーが肩を回している間に、トレイシーはえっちらおっちらと落ちかけているルカを診察台の真ん中へと移動させている。甲斐甲斐しいことだと思いながら、一応アンドルーは去ることだけは伝える。
「僕はもう行く」
「ああ、うん。アンドルーありがとう。助かったよ!」
天真な眼で礼を言うトレイシーを見つめ、アンドルーは眉を顰めた。
やっぱり、この人形使いは幼いと思う。恐らく彼女自身が思っているよりもずっと。
頭のネジがぶっ飛んでる連中は、目的の為なら手段も回り道も犯罪も厭わない。それをアンドルーは見て来たし、関わってしまったこともある。ルカはそいつらと、どこか同じ匂いを感じるのだ。
「友達」という名目で二人が一緒に行動をし始めて一ヶ月半が過ぎた。荘園内でそれを知らないものはいない。しかしその距離感に疑問を抱いている人間は自分だけではない筈だ。
余計なことだとは思ったが、アンドルーは忠告の為に口を開いた。
「あんた、そいつを信じ過ぎない方がいい」
「え?」
「頭のネジがぶっ飛んでる奴の行動は分からない」
「それ、ルカの事言ってるの?」
「あんたが判断しろ。僕は言ったからな」
何か言おうとしているトレイシーを無視して、アンドルーは扉を閉じた。僅かな良心からの忠告はしてやった。それ以上親切にしてやる義理はアンドルーにはない。
去っていく墓守の靴音を聞きながら、トレイシーは頬を掻いた。
「……と、言われたけども」
信じるも信じないも、トレイシーにはルカという男の事がさっぱり分からないのだ。
一月以上一緒にいるので、ルカが何が好きで何が苦手かくらいは分かる。一緒に発明の話や設計図の話をするのも楽しい。ゲームにも一緒に参加したことはある。
しかし、ルカは記憶が曖昧だと言って自身の話を全くしない。何故刑務所にいたのかなんて、鬼門過ぎてこちらからはとても聞けない。
育ちがいいのは立ち振る舞いから感じられるのだが、それを指摘されること自体を嫌がっているように思う。
だからトレイシーには全くルカの事がわからないのだ。
「はあー……」
トレイシーは診察台の端に腰掛け、膝を抱き抱える。
ルカは目覚める気配はないし、エミリーもいつ戻ってくるか分からない。事情を説明するためにもここで待つしかないだろう。
抱えた膝に左頬を押し付け、トレイシーは目を閉じる。
ルカは過去を語らないのに、トレイシーの話は聞きたがるのだ。
別に隠していることではないし、他のみんなにも話していることだ。だけど一方的に過去を知られるのは不公平だと感じずにはいられない。
本当にルカが全てを忘れているのか、怪しいところはある。アンドルーの言う通りに全部を信じられる程善人には見えない。
――それでも、友達だからなあ。
トレイシーは目を開けて、少し熱くなった頬に手を当てる。
機械弄りに夢中な自分と、それを好きにさせている父に、子供には友達が必要だという大人はたくさんいた。その時は必要ないと思っていたが、憧れがなかったわけではない。
まさか、こんなところでそれが叶うとは思っていなかったけれど。
「!」
トレイシーは服を引かれる感触に顔を上げた。振り返ると大きな手がベルトを鷲掴んでいる。
ルカが起きたのかと思ったが、目は閉じられたままで意識が戻ったわけではなかった。寝ぼけて手近な物を掴んだらしい。
――そんなことある?子供じゃあるまいし。
トレイシーは呆れながら、そろそろと診察台から足を下ろす。ベルトを掴む力は緩かったので、診察台から離れればルカの手も外れるだろうと思ったのだ。
ところが、腰を浮かせた途端にベルトにぐぐと荷重が掛かり、トレイシーは立ち上がれなくなってしまった。
「もう!なんなの⁉︎」
中腰で振り返り、トレイシーは苛立たしげにベルトに掛かった手を掴んだ。

「うぁ……っ!」

その瞬間、青い閃光が走った。
両腕に痺れたような衝撃が走り、遅れて痛みが襲う。びくりと体が痙攣したのを感じながら、ぐらりと揺れた視界。その視界には目を見開いたルカの顔があった。
他人事のように前のめりに傾ぐ体を止められず、何が起きたのかトレイシーには分からなかった。
「トレイシー!」
ベルトを掴んでいた手が、倒れかけた体を止める。しかし内臓が圧迫されたことにより、不快さでトレイシーは喘いだ。
脱力した体を診察台の上に引き戻されるが、回る視界と痛みと気持ち悪さで、トレイシーは目を瞑ることしか出来なかった。
「んぐっ……ぅ」
「すまない!すまない!トレイシー」
ルカの慌てた声に、トレイシーは自分が彼の強電流を浴びせられたことに気付いた。どこかで見たことある光だなあとは思っていた。まさか自分が食らうことになるとは思ってなかったけれど。
強電流は静電気をものすごく強くしたような感じだ。漏電でピリピリとした感電を体験したことはあるけれど、これはもう二度と喰らいたくない。
流石にハンターに食らわせているような強さでは無かったので、気絶するほどではないけれど。
目を開けると顔を真っ青にしたルカが、絶望したような表情でこちらを見下ろしている。そんな悲観的にならなくてもいいのにと、トレイシーは小さく笑う。
仰向けのまま、まだ起き上がれないけれど、トレイシーはルカの腕を叩いた。
「な、何すんのさ、痛いじゃん……」
「違うんだ、君を傷つけるつもりは……!取られてしまうと思って」
「取られる、って?私のベルト、何と…間違えたの」
揶揄うようにトレイシーが問えば、ルカはぐっと眉間に皺を寄せて黙り込んだ。これは不機嫌なのではなく、困っている時の顔だ。
そんな言いたくないようなものなのかとトレイシーが思っていると、ルカはうろうろと視線を泳がせながら、ゆっくりと口を開いた。
「それは」
「今の光はなに⁈」
エミリーがものすごい剣幕で医務室に飛び込んで来た。ルカの強電流は強い音と光を放ったので外にいた彼女もすぐに異変に気付いたのだ。
エミリーは医務室内を見回し、ルカとトレイシーを見て、すうと眦を吊り上げた。大体の状況は理解できた。
「バルサーさん、トレイシーを部屋まで運んでくださる?その後お話があります」
「はい……」
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