番外編2.5 狼さんのご褒美


「……おかしいな」
ルカは目を開き、そう呟いた。
横たわった状態で、人の体温を抱え込んで数時間。当然眠くならないわけがない。ルカもついつい、眠気を耐えられず、寝入ってしまっていた。
目が覚めた今、ルカの目の前にはすっかり冷めてしまった銅製の湯たんぽが転がっている。そしてぴったりとルカにくっついているブランケットの塊。
先程は否定していたが、やはり寒かったのだろう。温かくなくなった湯たんぽの代わりに、新たな熱源を求めてブランケットお化けはシーツの壁を越えて、しっかりとルカに抱きついている。
痛み止めが良く効いているのか、ぽかぽかとした体温が丁度いいのか、ブランケット越しにすよすよと穏やかなトレイシーの寝息が聞こえてくる。
「直接は駄目だって言った筈なんだが」
トレイシーも頷いていたのに。しかし、そういえば不調の期間はトレイシーは我慢が効かないとお医者先生が言っていたなとルカは思い出す。
起きている時は絶対に正面から甘えて来なかったのに、人が寝入っている隙にこれだ。勝手に腕の中に潜り込んで気持ち良さげに寝入っている。
呼んでも近づいてこないのに、目が覚めると腹の上で丸くなっている飼い猫の話を本で読んだ事がある。今、その飼い主の気持ちがルカにはよく分かる。
「全く、困った子だなぁ」
ルカはそう呟きながら、ブランケットの塊を起こさないようにそっと抱き締める。口では困ったと言いながら、表情は緩みっぱなしだ。
「これでは動けないよ」
トレイシーの細い腕はしっかりとルカの体に巻きついている。といっても寝入って時間が経っているので、動けばすぐにでも解ける程度の力だ。それをルカは動けないと嘯く。こんな時くらいしか、トレイシーが自分からルカに抱きついて来る事は無いのだ。だったら思う存分、この状況を堪能しなければ。
それに、薬が切れたらまたトレイシーはしばらく痛みに苦しむ事になる。だったら今のうちに出来る限り休ませてやりたい。
湯たんぽ役のルカがブランケットの塊を撫でていると、ふるりと腕の中でトレイシーが肩を震わせた。眠っているトレイシーは温かいが、トレイシー自身は薄手のブランケットとルカの体温だけでは寒いのだろう。ルカは体を捻り、ベッドの隅に追いやられていた掛け布団を取ろうと腕を伸ばした。
すると、ルカに巻きついた腕に力が籠った。視線を胸元に向けると、ブランケットの下から緑の目が二つ、こちらを睨んでいる。
「起こしてしまったか?すまな」
「どこ行くの」
「は……?」
「どこ、行くの」
「……どこにも、行く予定はないが……?」
戸惑いながら、ルカはそう答えた。しかしトレイシーはぐっと顔を顰めると「嘘!」と叫んでルカの服を握りしめる。嘘と言われても、ただ掛け布団を取ろうとしただけなのにとルカは頰を掻くしかない。
「嘘ではないよ。今日は君の気が済むまで付き合うから信じてくれ」
「ダメ。あんたの言うことは信じないんだから」
そう言ってより一層強い力でしがみつき、ぐりぐりと額を擦り付けるブランケットお化け。絶対に離れないという行動のいじらしさに、ルカは両手でお化けを抱き寄せる。
――ああもう、なんでやることなすこと、全てがこんなに可愛いんだ君は!
「はあ……」
堪らずにルカはため息を吐いてしまう。とてもトレイシーを可愛がりたい。今すぐに。しかし不調の彼女に無体は働けない。だけど辛い。本当に辛い。
じっと疑り深い目をこちらに向けているトレイシーは、今すぐルカがどこかに行こうとしていると本当に思っているのだろうか?そんなわけがないのにとルカ平常心を装って含み笑う。
「うん、そうやって捕まえていてくれ。君の気が済むように」
そう言って金色の前髪を払い、トレイシーの額にルカは触れるだけの口付けを落とした。




面倒を見るように頼まれたとはいえ、エミリーはトレイシーの部屋でルカが一夜過ごすことだけは絶対に許さなかった。こればっかりは我儘放題のトレイシーも渋々と毎度折れてくれる。
夜が更ければルカは自室へと戻り、また翌日に必要なものを持ってトレイシーの部屋を訪ねる。
それがいつも二日三日続く。酷いときは四日間寝たきりな事もあったそうだが、荘園に慣れた今は滅多にない事だ。
痛みと体調不良が酷い時期を過ぎれば、あとは多少の不調はあれどもトレイシーも日常生活を過ごす分には問題がなくなる。だからその数日間だけ、お世話係をルカは担当しているのだ。
今朝はルカが今回のトレイシーの世話係を始めて三日目になる。手の甲で扉をノックすれば「はーい」と返事がある。
いつも通りの元気なトレイシーの声。どうやらお猫様のお世話は昨日までで終わりのようだ。それにルカはほんの少しだけ残念な気持ちになる。
彼女の不調を願っているわけでは決してないが、いつもイヤイヤしてばかりのトレイシーが自分から甘えて来てくれるのが嬉しくないわけがないのだ。その時間が終わってしまった事は、惜しく感じてしまう。
扉を開ければ、見慣れた作業着を着ているトレイシーが振り返る。ルカと目が合うと少しだけトレイシーは気まずげにしているが、それに気づかない素振りでルカは「おはよう」と挨拶をする。
「おはよ」
「具合はどうだい?」
「うん……完全にいいとは言えないけど、まあ平気かなって」
「だったら、これはまだ必要だね」
ルカはそう答えながら水差しと痛み止めの薬の袋を乗せた盆をテーブルに置く。
いつも通りに動けるようになっただけで、相変わらず頭痛や腹部の痛みはあるという話を聞かされている。女性って大変なんだなとルカも染み染み感じてしまう。
「空腹で服用するのは良くないだろうから、何か口にしてからの方がいい」
「そうする。……ありがとう」
「ああ」
トレイシーが口にした礼には、今薬を持って来たことだけではない感謝の思いが籠っている。それをルカも承知しているが、短く言葉を返すだけでそれ以上の事は口にしない。
トレイシーが不調な期間の話は、その時間が過ぎ去ったら互いに一切言及しない。
トレイシーは自制が効かず、ルカに甘える自分に対して悶絶したくなるので思い返したくない。ルカは、折角厳しいお姉様の一人であるエミリーからお世話係を任命されているのに、当の本人から拒否られてしまったらあのご褒美とも言える素晴らしい時間を失ってしまう。
だから二人はあの時間については、なにも言わない。他言しない。そう暗黙のルールで決めたのだ。

そして、もう一つ恒例の約束事がある。

「さて、ではトレイシー」
にっこりと笑ったルカは、部屋にある椅子に腰掛け、膝を叩いた。それにトレイシーは視線を彷徨わせて、まごまごとしている。
トレイシーの名をもう一度呼んで、ルカが両手を広げる。それに対し、トレイシーはとても逃げたそうな顔でちらちらと扉を見ている。
「トレイシー、往生際が悪いよ。今度は、君の番だよな?」
「うう……」
ルカの言葉に、トレイシーは漸く観念してルカの側に歩み寄る。ルカに湯たんぽ役を強要したので、今度はトレイシーが「ぬいぐるみ」になる番だ。
これは世話をしてもらった報酬とも言える。いつものスキンシップとも違う、完全なる無抵抗が要求される。勿論、いつもの「約束」は絶対遵守の上でだ。
今までならトレイシーもこんな抵抗をせずに大人しくしていたのだが、少し前のルカの「君を性的に見ている」という本音が脳裏をちらつき、どうしても身構えてしまうのだ。
「じゅ、十分だけだからね!」
「構わないよ、たっぷり堪能するとも」
おずおずと近づいてきたトレイシーの手を取り、ルカは強引ではない程度の力で引き寄せると自身の膝の上にトレイシーを横向きに座らせる。両手でトレイシーの華奢な体を抱き締め、髪に顔を埋める。これはいつも、ルカがスキンシップの最初にする行動なのでトレイシーも慣れている。
――ここまではいいのだ、ここまでは。
ルカが徐にトレイシーの髪を撫で、掻き上げた髪の毛を耳に掛ける。そして露わになった耳に唇を寄せ、ちゅっと音をさせて口付ける。一度だけでなく、何度も何度も執拗に。
「んっ……!」
耳は弱い箇所なので、トレイシーは咄嗟に身を捩ろうとしたが、しっかりとルカの片腕に捕まえられているのでそれも叶わない。せめてもの思いで顔を背けるが、そうすれば今度はニットから剥き出しになった首筋に唇を押し付けられる。音を立てて、何度も吸い付かれる。
首は本当に弱いので、普段はルカには触らせない。だからここぞとばかりにルカは堪能する。
ニットの襟口を指先で引き下げ、細い首筋に鼻先を押し当てる。
「っ!」
「……可愛い」
触れる度に肩をびくつかせ、必死なトレイシーにルカは楽しげにそう囁いた。
ルカの手がするりと動き、トレイシーの肩甲骨をなぞり上げる。さわりと総毛立つ感覚にトレイシーが身を硬くしていると、長い指が首の後ろから背筋をゆっくりと撫で下ろす。服越しなのに、なんとも不穏な動きをする手にトレイシーはふるりと身を震わせる。歯を食い縛って反応をしないように耐えたが、ルカはトレイシーが耐え忍ぶ姿すら楽しんでいる様だ。
以前ならルカはこの時間をトレイシーを純粋に可愛がる事に全力を注いでいた。欲を感じさせないように耐えいてたというのは、こういう事かとトレイシーは思い知らされる。こんないやらしい触れられ方をされるなんて思っていなかった。
ルカはとても自身の欲望を隠すのが上手い。その隠れていた部分が何かの拍子に露わになると、ルカは開き直ってその内容を曝け出す様になる。トレイシーが見なかったことにしようとしても、眼前に突きつけてくるので逃げようがない。
脇腹をなぞり上げる大きな手が、胸の際どいラインに触れるのでトレイシーは咄嗟に脇を締め、不埒な動きをする手先を止める。
「トレイシー?」
ルカが咎めるように、トレイシーの顎を優しく掴んで視線を合わせる。報酬の時間は抵抗してはいけないのだ。トレイシーは慌てて言い訳を口にする。
「く、擽ったいの!だからつい……仕方ないでしょ!」
「ふうん?そうかそうか。それは、仕方がないね」
くつくつと笑いながら、ルカは行動を阻まれた手を滑らせ、トレイシーの薄い腹を服の上から撫で下ろし、小指の先を臍の窪みに沈ませる。
普段はベルトで覆われているが、まだトレイシーはベルトを装着していなかった。思わぬ場所を刺激され、ぞくりと身を震わせたトレイシーは耐えきれずに、小さく呻いた。
「んぅっ……」
「どうしたんだ?これも擽ったい?」
ルカの問いかけに、トレイシーはこくこくと頷いた。なんだか、そわっとする。擽ったいかどうかなんてどうでも良くて、とにかく止めて貰いたい一心だった。
――いつものスキンシップの時なら叩いて直ぐに止めらるのに!
肩を聳やかし、赤い顔で必死に声を抑えようと頑張っているトレイシーに、ルカはにぃと意地悪く口角が釣り上がるのが止められない。
トレイシーのお世話中に庇護欲は充分満たしたので、我慢していたキュートアグレッションを発散したい。今回はいつも以上に耐えていたものが多かったのだ。トレイシーをいじめて追い詰めるのも非常に愉快だ。
それに、短くとも貴重なこの時間を楽しまなくては。あれも禁止これも駄目とすぐに言い出すトレイシーが、無抵抗でいてくれるのだ。
トレイシーなりにけじめを付けているつもりの様なのだが、ルカにしてみれば世話係の時間も大変ではあるが密かな楽しみでもある。自分にだけ甘えてくる想い人との時間など、ご褒美以外のなんだと言うのだろう。
ルカにはご褒美にご褒美が重なっている状態なのだが、トレイシーはそれに思い至らない。ルカに迷惑を掛けているものと思っているのだろう。それならそれでいいかとルカは黙ったままでいる。
ふうふうと呼吸が荒いトレイシーの頰を撫でて、ルカはトレイシーの耳の裏に鼻を押し付けくく、と笑う。
「本当に、可愛いなあ……君は」
「うう、ううう……!」
きっと「可愛くない!」といつもの通りに叫びたくなるのを耐えているのだろう。呻くトレイシーは本当に悔しげだ。
どうにか距離を取ろうとトレイシーがじりじりと身を逸らして逃げるので、ルカは落ちないようにとトレイシーの腹に回していた手に力を込め、体を抱き寄せる。
その際に、臍に触れていた指もそのままだったので、思い切り窪みにルカの指が食い込んでしまう。
「ふきゃあっ!」
「!」
びくんと肩が跳ね、トレイシーが今までと違う悲鳴を上げた。その反応に驚いたのはルカもだった。抱き寄せたのは反射の様なものだったので、今のは意地悪をする気も何も無かったのだ。擽ったがっているとはいえ、そんな悲鳴が上がるとは思っていなかった。
「……………………」
「……………………」
ぱたりと両手で変な声を出してしまった口を塞ぐトレイシーと、抱き寄せた状態で硬直してしまったルカ。
ツーッと背中に汗が伝ったのはトレイシーだ。だって、ルカの指は今新しく発覚した弱点に食い込んでいる。引き剥がしたいけど口から手を離せば変な声が出る。これでは動くことができない。
ルカが次に何をしてくるのか分からない。これ以上、微かな刺激を受けるのも怖くて、トレイシーは呼吸も最低限にしてじっとしている。この状態でも背筋がぞくぞくとして、気分も体もおかしくなりそうで仕方がない。こんなの知らない。こんな感覚になった事がない。一体、何をしてくれているのかこの男は。
「っ……く………ぅん……」
「……………………………………」
ルカはただただじっと金色の頭を見下ろしている。少しだけ、気づかれない程度に微かに小指を動かす度に、トレイシーがふるりと体を震わせ、なんとも悩ましげ息を漏らすので、目を三日月の形に細めた。――成程、臍も弱いのか。それはいいことを知った。
しかし、あんまりいじめ過ぎると次のスキンシップを逃げられるようになってしまう。ルカはあっさりと手を離すとぽんぽんと背中を撫で、トレイシーを宥めにかかる。途端にはっ、と息を吐き出すトレイシーにくくくとルカは笑ってしまう。呼吸まで止めてたのか。
「驚かせてしまったかな。ああ、そんな泣かなくてもいいだろうに」
「な、泣いてない!」
トレイシーの顔を覗き込めば、感情の昂りのせいで今にも雫が溢れそうになっている。潤んだ目尻にルカが幾度も口付けるので、トレイシーは目を瞑るしか無い。
「んー、よしよし、いい子いい子」
「くっ……ちょ、調子に乗ってぇ……!」
トレイシーの顎の下を猫にするように撫でながら、ルカは髪に頬擦りをする。
トレイシーがどんなににゃーにゃー鳴いてもこの時間はルカのものなのだ。譲る気はない。十分と言ったら十分、一秒も漏らさずに堪能する。
トレイシーの膝を撫でていたルカの手がそろりそろりと膝の内側へと移動し、内股へと上昇を始める。またもや不埒な行動をし始めた手に、トレイシーはぴたりと膝を閉じて脚を抱え込んだ。それ以上の侵略を許すわけには行かない。
「おや」
「く、擽ったいの」
「そうか。うんうん。擽ったいのか。よーく覚えておくよ」
「?」
ルカは先程から、トレイシーが擽ったがる度にとても嬉しそうにしている。それ以上触れて来ないのはいいのだが、なんだかぞわぞわと嫌な予感の様なものを覚える。ルカが感情の見えない状態で緩く微笑んでいる時は、大抵トレイシーにいいことは起きないのだ。
得体の知れないものを見る目を自分に向けているトレイシーに、ルカは小首を傾げ、楽しげに口を開いた。
「君はとっても擽ったがりだね。素直に教えてくれてとても嬉しいよ」
「は……?どういう意味……?」
「ああ、大丈夫だよ。悪いようにはしないから。私としてはとても必要な情報なんだ。君の擽ったい箇所が知れているのは」
「な、なんで?」
「うん?聞きたい?本当に?」
にたりと笑うルカに、トレイシーの嫌な予感は増すばかりだ。だが、先延ばしにした所で擽ったい場所が知られていることは変わらない。だったら遅かれ早かれ知ることに違いない。だったら早いこと知っておいた方が気分的にはましだ。
そう考えたトレイシーが頷くと、ルカはくすりと笑って声を顰めて囁く。
「擽ったいのは神経が過敏な部位と言うことなんだ。つまり、刺激に弱いんだ。痛みにも快楽にもね。だから恋人として触れ合う時にきっと役立てて上げるよ。今以上に」
「………………………………」
ルカの言葉の意味を理解するのに、数秒。脳に浸透するのに数秒。動きが止まっていたトレイシーの顔があっという間に林檎の様に真っ赤に染まる。いつものように叫んで暴れ出すかなとルカが観察していると、トレイシーはきゅっと膝を抱え込み、蹲って動かなくなってしまった。そんなトレイシーの行動に、ルカはふく、と噴き出してしまう。――いつでもどこでも丸くなるな、このハリネズミ。
顔も膝に埋めて、今すぐ消え入ってしまいたそうに小さく小さくなり、首筋まで真っ赤になっているトレイシーに、ルカは新鮮な気持ちになる。今まで直接的な言葉は言ったことはなかったが、恥ずかしさが極まるとこの子はこういう反応をするのか。
「………ふむ」
ルカは蹲っているが為に、眼前に晒し出されているトレイシーの頸をじっと見つめる。
最初の頃、トレイシーは弱点である耳に触れる事を禁じられていたが、なんだかんだ慣らしたので今はキスも許される様になった。しかし、首に関しては今も気軽に触れることを許してくれない。頸は特に触られたくないらしく、隙を見ては慣らそうとしているのだが、触れようとする気配だけですぐに振り払われるし怒られるしでその機会を与えてくれない。
その頸が、ルカの目の前に無防備に差し出された状態になっている。そして今ならある程度の事は許される。むくむくと湧き上がる悪戯心を抑えきれず、ルカはそろりと顔を近づける。
頸にキスをしようか、噛みついてやろうか。それとも――――
「十分‼︎」
「うがっ」
突然、びょんと頭を起こしたトレイシーの後頭部がルカの顔面に直撃する。油断していたルカは鼻を強かに打ち付け、その痛みで悶絶する。
中々の石頭であるトレイシーは全くダメージを受けていないらしく、そそくさとルカの膝から降りる。そうして、ぱんぱんと手を叩きながら報酬の時間の終了を宣言する。
「十分経った!終わり!もう終わり!はい、ここまで!」
「っ……」
「お腹減ったしご飯にしよう!そうしよう!やー、とってもワッフルが食べたい気分かも!バターがたっぷりのね!」
顔を抑えているルカに構わず、トレイシーは帽子を被るとゴーグルとベルトを掴み、ベッドに転がっていた湯たんぽを抱えて「じゃ!先に行ってるね!」と早口で捲し立て、逃げるように部屋を飛び出して行った。
「………………」
一人部屋に残されたルカは、暫く顔を覆って俯いていたが、やがて椅子から立ち上がると地を這うような恨みがましい声で呟いた。

「あんの悪魔……本当にいつか覚えていろ……」





ノックの音にエミリーが入室を促すと、ひょこりと顔を出したのはトレイシーだった。
意外な人物の登場に、エミリーは目を瞬かせる。今回も生理で三日は寝込むと思っていたのに二日で起きてくるとは。
掛けていた眼鏡を外し、エミリーは椅子から立ち上がった。
「もう大丈夫なの?」
「うん。今回はそんなに酷くなかったから。といってもまだ痛み止めは必要だけど」
「そうね。今日の分はバルサーさんに渡しておいたのだけど、あと二日分も用意しておくわ」
「よろしく。あと、これ返しにきた」
トレイシーが銅製の湯たんぽを取り出すと、エミリーはそれを受け取りながら、ふうと溜息を吐く。
「ねえ、トレイシー。今まで口を出さないで来たのだけれど。あなた達とても複雑な関係を続けているようね」
「えっと…………」
言葉に詰まるトレイシーに、エミリーは首を振る。
「詳細が聞きたい訳ではないわ。ただね、若いあなたがするにはなかなか高度な駆け引きをしているみたいだから」
「そんな事、してないけど」
「どうかしら?少なくとも彼の方は挑戦的な印象があるわ」
「それは、うん……否定しない」
現状維持を望んでいたトレイシーとは裏腹に、ルカはずっと関係を変えようと躍起になっている。
トレイシーは絶対に友人の関係を変えないと言い張っていたし、そのつもりでいたのに、先日とうとう関係の変化の可能性を認めてしまった。
折れる気は毛頭トレイシーにはなかったのだ。しかしルカがあんまりに落ち込んで不貞腐れて見せるので、その様が可愛くて可哀想で、ついつい絆されてしまったのだ。
普段は自信満々で勝気で、がんがんと遠慮なしに攻めてくる癖にあの男、時折見せるあざとさがとても罪深い。
――しょんぼりした犬みたいな態度をされると弱いんだよなあ。
トレイシーがその様を思い出しながら苦笑を浮かべていると、エミリーが険しい表情で口を開く。
「あのね、トレイシー。これはただの老婆心と思ってくれて構わないけれど、覚えておいて。あなたはとても賢い子よ。人の醜さも分かっているのでしょう。でもね、それでもとても若いの。そしてあなたは女の子達が通る経験を飛ばしてきてしまった。それなのに、とても変わった男性を選んでしまったのよ。それ自体は個人の自由だと思うわ。思うけれど、どんなに風変わりでも男性は男性なの。あまり調子に乗っていると、いつかしっぺ返しに合うわ」
「調子に、乗るっていうのは……?私、なにか間違えてる?」
いつになく真剣なエミリーからの忠告に、トレイシーは不安気に顔を曇らせる。
エミリーは、ルカの膝枕で眠りについていたトレイシーの姿を思い返す。安心し切った顔で、決して離れないようにとしがみついていた姿は、一番最初に自身の機械人形だけを「よすが」としていた頃のトレイシーにそっくりだった。
当初のトレイシーは、ルカに「誰か」を重ねているところがあった。だから彼だけは特別で、弱っている時に縋って甘えていたのだ。そしてルカ自身もそれを分かっている。分かった上でその立場を上手く利用している。
エミリーの目には二人の関係は絶妙なバランスの上で成り立っているように見える。それは何かの拍子に均衡が崩れてもおかしくないものだ。このままの関係でいたいらしいトレイシーと、それを崩したがっているルカでは、後者の方が圧倒的に有利だ。長いこと均衡を保って耐えているようだが、いつかは崩れる。必ず。
エミリーとしては、長い事面倒を見てきた少女達が不利になるようなことは避けてあげたい。成人の恋の駆け引きに首を突っ込むようなことはしないが、多少の助言はしても許されるはずだ。
おどおどしているトレイシーに、エミリーはふっと小さく笑う。
「そんなに難しい事じゃないわ。どんなに従順に見えるワンちゃんでも、男性はどこで狼さんになるか分からないから、気をつけてね。あなたは女の子だって事を忘れちゃいけないわ」
「う……」
人生の先輩からの言葉に、トレイシーはあからさまに狼狽えた。
これは今初めて聞いた訳ではない。似たようなアドバイスは周りから何度も何度もされて来た。されていたのに、トレイシーがその意味を理解していなかったのだ。
私には関係ない話と軽んじた結果、ルカが現れた。そうして忠告を踏襲するように、あれよあれよと言う間に追い詰められて今に至る。
先日、とうとう「貧相な体型の自分は性的には見られるわけがない」と高を括っていたラインを飛び越えられた。いや、正確には大分前からそういう目で見られていたのだと知った。
パトリシアから何度も繰り返された、薄着で男の部屋に行くな、夜中に男を部屋に入れるなというお叱りは全く間違っていなかった。
ベッドに組み敷かれて、抵抗できなかった恐怖は忘れていない。感情の読めない顔で、でも欲望がちらつく瞳で見下ろされた時に、みんなが言っていた言葉の意味をトレイシーは漸く理解した。
それでも、まだ「ルカは自分にそんな酷いことはしない、するわけない」と思っている自分がいる。友達を信じたい気持ちが消えない。どこまで許されるのかを確かめたくなってしまう。
だから生理の体調不良を言い訳に、我儘放題をしてしまうのだ。世話係中のルカは、告白前のように優しくて攻めて来ない。それに甘えたくなってしまう。
挙動不審になっているトレイシーに、エミリーは目を細めた。
「……既に、何かあったみたいね」
「うんと、その。一応、そういう風に見てるって警告はされてて。それで、自覚してくれって」
「あら」
エミリーはきょとんとした表情になる。ルカがトレイシーに何かしでかしたのかと警戒していたのだが、そうではなく態々自らの危険性を告げて、トレイシーに注意を促しているとは。
――少し、バルサーさんを誤解していたのかしら。
エミリーは頰に手を当てて、首を傾げた。電撃の件から、彼には少し厳しい目を向け過ぎていたのかもしれない。あまり良い人間には見えないから、つい先入観を持ってしまっていた。
密かにそう反省しているエミリーだったが、それらの警告をルカがトレイシーを組み敷いた上でやっていた事や、日常的に過度なスキンシップを繰り返している事は当然知らない。
トレイシーも「友達」のルカにしてやられた事実を、他者には決して話さない。なんだか告げ口をしたような、負けたような気分になるので言いたくないのだ。張らなくていい意地を張るのがトレイシーの悪い点なのだが、その事実を知っているのは今の所ルカだけだ。
「バルサーさんは、そう言っているのね。だったら、トレイシーもきちんと対応するのよ?ドーヴァルさんからあなたの行動は聞いているんだから」
「ううっ……」
エミリーにじろりと睨まれ、トレイシーは縮こまる。
パトリシアもルカの告白を聞いていた人物なので、マイクと同じくルカとトレイシーの関係性を正しく理解している。トレイシーが取る、ただの友達としての距離感を、無防備すぎると何度も何度も口酸っぱく注意され説教をされていた。
真面目に聞いていなかったせいで、ルカにまで「我慢しているんだ、これでも」と苦言を呈されているし、ちゃんと気をつけなくてはいけないのかも知れない。
「ちゃんと、自衛して節度ある行動をする。これからは気をつける」
「ええ、そうね。いい心がけだわ」
「うん。ルカを湯たんぽにしたり、お腹の上に乗って寝たりするのはもうやめるね。でも寝惚けたら間違えちゃうかもしれないけど」
「寝惚け……?え、それはどういう」
「あ!朝ごはん遅くなっちゃうからもう行くね!薬、後で取りに来るねー!」
「ちょっと、トレイシー?まさかあなた、バルサーさんと一緒に寝……」
エミリーの言葉は続いていたが、トレイシーは部屋を出るとしっかりと扉を閉じた。
久々に感じる空腹が胃を刺激するので、足早に食堂へと向かう。もうトレイシーの頭の中は、バターたっぷりのワッフルの事しか残っていなかった。





パトリシアは談話室へ向かう道すがら、エントランスを通り抜けようとして、奇妙な行動をしている男に眉を顰めた。
「なにをしているんだ?バルサー」
「……ちょっと、放電を」
囚人服の男は階段の親柱を素手で掴み、そこに額を押し付けてじっとしている。側から見れば、階段を熱心に拝んでいる異様な光景なのだが、放電と言われるとルカの特異体質もあるので、そういうものなのかと思うしかない。
「あ、おはよーパトリシ……ってなにやってんの、ルカ」
階段の上から現れたマイクは、朗らかに朝の挨拶をしようとしていたが、やはりルカの異様な行動の方に目が行ってしまったらしい。胡乱げな顔でそう尋ねている。「放電らしい」とパトリシアが告げると、マイクはなんだか呆れたような笑い顔になり、階段の中途に座り込んだ。
「まーたかい」
「また?」
パトリシアが不思議そうな顔をしているので、マイクは頬杖をついて説明を始める。
「ルカってば不満が溜まると電気も溜め込んじゃうんだって。それが、ほらあのトレイシーの強電事件」
「ああ、あれか」
「またなんでそんな蓄電しちゃったの?今度は何に不満になってんのさ。どうせトレイシーなんだろうけど」
「それ以外に何があると?」
不機嫌極まりない声を出すルカに、マイクは肩を竦めた。
――昨日までは、異常なくらいにご機嫌だったのに。
手摺にくっついたまま動かないルカに、パトリシアは首を傾げる。
「それで、本当に放電出来ているのか?ただの静電気対策じゃないか?」
「まあ、そうなんだが。それでも多少は意味はあるんだ。土の方が放電効率はいいけれど」
「それにしても、なんでこんな人目につくところでそんなことしてるのさ」
「歩いてるうちに色々と思い出してしまってな。一度冷静になろうかと」
「冷静になる方法が特殊だな……」
パトリシアは少し、同情するような顔になる。エミリーと同じくルカに厳しめの彼女だが、苦痛を常に纏う身として通じるものを感じているようだ。
一方のマイクはじっとりとした目でルカを見上げている。
「一体、何を思い出してたんだか」
「うん。私の惚気は多方面に迷惑をかけているらしいので、今はやめておくよ」
疑いの目を向けてくるマイクに、ルカはそう言ってはぐらかした。
先ほどまでのあれこれをこの二人に知られるわけにはいかない。パトリシアは恋人になるまでは過度な行動をすることを良しとしないし、マイクは親切だがルカを変態認定しているところがある。
しかし、マイクは立ち上がると態とらしい溜息を吐いた。
「はん、今更何言ってるのさ。玉砕するか成就するか、見届けるくらいはするよ」
マイクの言葉にルカは苦笑いをしながら顔を上げた。マイクはルカのやることに呆れはしても、なんだかんだ付き合いがいい。パトリシアも「骨くらいは拾ってやろう」と続ける。ルカが玉砕する方で話を進められるのは困るが、気持ちはありがたい。
三人がそんなやりとりをしていると、回廊の扉が開き、話題の中心でもあるトレイシーが姿を現わす。トレイシーはマイクとパトリシアに気付くと明るい顔で「おはよう」と挨拶をした。
「おはよ。トレイシー、もう貧血はいいの?」
「うん、ゲームも明日から出れるよー」
「……朝食は?」
「え?今から食べるよ」
質問に小首を傾げて答えるトレイシーに、パトリシアはずいと顔を近付ける。
「きちんと、食事を取るんだろうな?」
「んえ?」
「『貧血』なのにパンケーキやらスープだけで済ませるつもりではないだろう?」
「えーっと……」
貧血を力強く主張するパトリシアは、トレイシーが休んでいた本当の理由を知っている。ここぞとばかりに責めてくるのは、血肉になる栄養素を摂取しろといつもいつも言われているのに、それをトレイシーが疎かにしていたせいだろう。
軽くワッフルで朝食を済まそうと思っていたトレイシーは、うろうろと視線を彷徨わせる。朝から重いものは食べたくない気分なので、なんとかパトリシアの指摘から逃れたい。
しかし、トレイシーの思惑を知った上で、裏切り者が口を開いた。
「ドーヴァル」
「なんだ?」
「彼女はバターの入ったワッフルが食べたいと言っていた」
「ル、ルカっ!」
手摺に凭れて、しれっとした顔で告げ口をするルカに、トレイシーは慌てて声を上げるがもう遅い。
パトリシアはにっこりと微笑んで、「ほほう」と頷いている。
「もうデザートまで決めているのか、感心だ。ならその前に主食を食べなくてはね、トレイシー」
「トレイシーはこの二日、まともな食事を取れていなかったよ。スープに、りんごを少し齧った程度だったような」
「!それは、尚更しっかりと肉と野菜を食べさせないと」
「あはは……」
真剣にぶつぶつと呟き始めたパトリシアに、トレイシーは笑って誤魔化しながら冷や汗をかく。――これは痛み止めより胃薬が必要だったかも。
「ステーキサンドとかどう?」
「流石に食あたりを起こす可能性がある。トレイシーは小鳥のような量しか食べないだろう」
「だったらシチューがいいんじゃないかな?肉も野菜も取れるよ」
「悪くない」
当人そっちのけで朝食の献立を決め出したマイクとパトリシアに、トレイシーはうんざりとした顔になる。薬を飲むのに、軽く何か食べようと思っていただけだったのに。あれだとまたもや胃がはち切れんばかりに食べさせられそうだ。
押し殺した笑い声にそちらを睨みあげれば、ニヤニヤと意地悪く微笑むルカの顔がある。トレイシーは白黒模様の胴体に肘鉄を叩き込む。
「どういうつもりさ!余計な事言って!」
「痛いな。事実を言っただけじゃないか」
「絶対、さっきの腹癒せの癖に!」
「おやあ?私に腹癒せされる心当たりがあるのかな?」
ルカの胸ぐらを掴み、声を潜めてトレイシーはそう責め立てた。それに対してルカは目を細めている。顔は笑っているが、大分苛立っているようだ。
トレイシーの顔を覗き込み、ルカは表情を消して囁く。
「……九分しか経ってなかったよな?」
「うっ……」
ぎくりと体を揺らし、トレイシーは後退る。報酬の終了時間をフライングしていたことがバレている。正確には四十秒程度なのだが、危険な雰囲気を察して逃げ出した事は紛れもない事実だ。
挙動不審なトレイシーに対し、ルカはにこりと微笑んだ。
「今回は目を瞑ってあげよう。だからこのくらいの可愛い報復は甘んじて受けてもらおうか」
「あう……」
「私が『友達思い』で良かったなあ?トレイシー」
トレイシーは、ぐうの音も出ない。掠れた声で「仰る通りで」と返すのがやっとだ。
ルカの線引きはくっきりしていて、二人きりの時の甘やかさは公の場では全く出て来ない。別人のような切り替え具合にトレイシーの方が翻弄されてしまう。
散々こちらを振り回してきたトレイシーががっくりと肩を落としている姿に、ようやっとルカも溜飲が下がる思いだ。悪魔にやられっぱなしでは非常に面白くない。
「おーい、二人とも。何やってんの。早くしないと朝ごはんが昼ごはんになっちゃうよ」
マイクとパトリシアの方を見れば、既に食堂の扉の前にまで辿り着いている。互いにやりとりに夢中になり過ぎて、置いて行かれていたようだ。
ルカとトレイシーが二人に駆け寄ると、パトリシアが訝し気な表情になる。
先ほどまでは機嫌が悪いルカと元気いっぱいのトレイシーだったのに、今はルカが満面に笑み、トレイシーはしょんぼりと肩を落としている。
――ほんの少し目を離している間に、一体何が?
純粋に疑問に思ったパトリシアは、それをそのまま尋ねてみる。
「お前達、なんだか様子が変だが、何かあった?」
「…………」
「…………」
ルカとトレイシーは黙って互いを一瞥し、しれっとした態度で首を傾げた。そうして同時に口を開いた。
「別に?なんでもないよ」
周囲に「仲良し」とされる二人は、異口同音にそう答えたのだった。



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