番外編2.5 狼さんのご褒美
「酒解禁おめでとう!ルカ!」
デミがグラスを掲げると、ホセもそれに倣う。ルカは苦笑いをしながら同じようにグラスを掲げた。
「ああ、ありがとう。と言っていいのかな?」
「いやあ、長かったじゃないか。三ヶ月!三ヶ月も酒が飲めないだなんて!」
「一日の禁酒でも辛いのに……」
「君達は休肝日を真面目に設けるべきだと思う」
しみじみとルカに憐れみの眼差しを向ける二人に、ルカは逆に呆れた目を向ける。
毎日毎日浴びるように酒を飲んでいるホセと酒好きのデミならば兎も角、ルカには飲酒の日課は無い。正直禁酒に関しては対して罰にもなっていなかった。それよりトレイシーの抱っこ禁止令一ヶ月の方が辛かった。
三ヶ月前、ルカは飲み会の場にてトレイシーとの約束違反をした。
スキンシップは二人きりの時だけという話だったのに、仲間達の前でトレイシーを膝に抱えて寝るという行動を取ったがために、トレイシーの怒りを買ってしまったのだ。
そこから禁酒令と抱っこ禁止令を言い渡されていたのだが、漸く先日お許しが出たのだ。
因みに膝抱っこだけは、二週間で限界を迎えたルカが、しつこくしつこくトレイシーに解除を求めたので、早く禁が解かれていた。
酒解禁を聞きつけたデミとホセが、早速飲むぞとルカを捕まえ、この酒盛りが始まったのだ。
ルカがまだ二口三口グラスに口をつけただけなのに、ホセは二杯目を飲み干している。ただただ酒を飲む口実にされたな、とルカはそっと溜息をついた。
「ちょっと何?その溜息は。お酒が美味しくなくなるわよ?」
「いやあ……」
目敏いデミに、ルカはへらりと笑って誤魔化そうとしたが、ホセが訳知り顔で肩を叩く。
「相変わらず、君の小悪魔に翻弄されているんだろう」
「小悪魔…………あー、なるほど」
ホセの言葉に、デミもにや、と笑う。あ、これ酒の肴にされるやつとルカは思ったが、二人の間に挟まれている状態なので逃げ出すことは不可能だった。
ホセにがっしりと肩を組まれ、デミはといえば、中身が少し減っただけのルカのグラスに酒を継ぎ足す。
「あれからどうなの、トレイシーと進展はあった?」
「……相変わらず鉄壁の防御だよ、彼女は」
デミの問いに、ぐしゃりと前髪を崩しながら、ルカは首を振る。
ルカにとってトレイシーは、か弱く幼気な少女の姿をした悪魔だ。
初めて告白をした時に、トレイシーは身を縮めて震えたり、真っ赤になって固まったり、どう見ても一杯一杯に見えたのだ。友達のままと彼女は言い張っていたが、すぐにその関係を突き崩せる自信がルカにはあった。
ところが、だ。トレイシーは一筋縄では行かなかった。小動物の図太さで、ルカのアピールを躱し、誤魔化し、こちらの惚れた弱みすら利用する。どこまでが彼女の純粋な無垢さで、どこからが計算なのかが全くわからない。
追い詰めている筈なのに、どこかしらに抜け穴を見つけて逃げていく。トレイシーはルカに「私に合わせるって言ってた癖に!」と怒るがルカにしてみれば「いい加減私の限界も察してくれ」というのが本音なのだ。
肩を落としているルカに、デミは両手で頬杖を付きながら問いかける。
「ルカってトレイシーに塩対応をされている事多いけど、よくめげないでいられるもんだね」
「私にだって、心が折れかける事はある……あの悪魔は本当に酷いんだ」
「あんだけ惚気といてよく言うな……」
ホセは手酌で自身のグラスに酒を継ぎ足しながら、そうぼやいた。
うっかりと失言したが為に、ルカのトレイシー惚気一時間半コースに付き合わされた事が、ホセにはある。あれだけでもフラフラになったのに、彼の惚気経験者であるマイク先生曰く「一時間程度の惚気で生温い」との事だった。
しかも毎度内容が違うらしい。どれだけ溜め込んでいるんだこの男。
うんざりとしているホセに対し、デミはうきうきとした顔で身を乗り出した。
「なになに?惚気って」
「やめてくれ、その話題は是非、私がいないところでたっぷりと楽しんでほしい……私が、いないところで」
ホセが何度も釘を刺すので、ルカは首を捻った。
惚気たつもりはなかったのだが。ただ、偶にどうしようもなくトレイシーの可愛さを人に自慢したくて自慢したくて、堪らなくなってしまうだけなのだが。
「よく分からないが、気をつけるよ」
「そうしてくれ」
「しっかし長い片思いよねえ。トレイシーも見た感じ、脈はあるとは思うけどさ。本当にルカってば意外と一途なんだなあってウィラとも言ってたのよ」
「ああ、まあ……この関係もそう悪いことだけでは無いんだ」
「?」
くく、と何かを思い出して笑うルカに、デミはなんの事かと問おうとする。しかしそれをノック音に遮られた。三人が振り返ると、休憩室の扉が開いた。その先にはエミリーが立っている。
「盛り上がっているところ、ごめんなさい。バルサーさんはいるかしら?」
「なにかな、先生」
ルカがカウンターの椅子を回すと、エミリーは困り顔で告げる。
「いつものよ。お願いしていいかしら?」
「ああ、勿論。構わないさ」
エミリーの表情は優れないのに、頼まれたルカは満面の笑みで頷くと椅子から立ち上がった。「では、私はここで失礼するよ」と二人に言い置いて、ご機嫌な足取りでルカは去って行ってしまう。スキップでもしそうなルカの後ろ姿を、ホセとデミはポカンとした顔で見送る。
「エミリー、一体何を頼んだの?」
空になった椅子に腰掛けたエミリーに、デミはそう問いかける。
今の今まで怠そうにしていた男が、あんなに軽やかな足取りで一体何をしに行ったのか。
「うーん……猫ちゃんのお世話と言ったところかしら」
エミリーはそう言って意味深に微笑んだ。デミとホセは顔を見合わせ、首を捻った。
ノックをしても返事がなかったのでルカが部屋の扉を開くと、顔面に向かってクッションが飛んでくる。予想していた事だったので、空いていた手でそれをルカは受け止めた。
「おっと」
「遅い!」
クッションをルカに投げた犯人、トレイシーは顰めっ面でそう叫んだ。
「うう……」
しかし、体を起こしていられたのはそこまでだった様で、トレイシーはへなへなとベッドの上に倒れ込んだ。
蹲るトレイシーの額には脂汗が滲んでいる。そんなに具合が悪いのに、八当たりを優先したのかとルカは内心呆れてしまう。顔色の悪いトレイシーにクッションを返してやれば、トレイシーをそれを抱え込んで丸くなった。
「無茶をするな。何故大人しく寝てられないんだ、君は」
「ルカが、遅いのが悪い……」
「すまない、これでも急いだんだ。寒くないか?ブランケットを」
「いい、いらないっ!」
「そうか、なら薬は?」
「…………」
無言で首を振るトレイシーの顔色は青褪めている。ルカはタオルでトレイシーの額の汗を拭ってやる。
「ほら、ちゃんと横になるといい。辛いだろう?痛いところは?」
「……お腹痛い。腰も」
「体が冷えてしまうよ。湯たんぽもあるが」
「いらないっ!」
今日のトレイシーはイヤイヤ期の気分の様だ。その日、その時によって態度が違うのだ。とても甘えてくる事もあれば、ずっと泣き続けている事もある。イヤイヤしている時は、欲しいものも嫌というので見極めるのが難しい。
「分かった。君の好きにするといい。辛くなったら言ってくれ」
「ううっ……」
トレイシーはルカの言葉を聞いているのかいないのか、枕の位置を調整していたルカの服を掴んで握り込んだ。中腰の状態で動けなくなったルカは、ふうとため息をついた。
ルカが荘園に来てから半年過ぎた頃の事だ。
トレイシーが二ヶ月に一度くらいの頻度で、二日三日、部屋に引き篭もる事があるのにルカは気付いた。
彼女の体があまり強くない事は聞いていたので、そういうものなのだろうとルカは思っていたのだが、それにしてはおかしいことがあった。どうも、具合が悪くなる周期があるらしい。エミリーとそういう会話をしている姿を見たこともある。
気にはなったのだが、どうにも聞いてはならない空気感があるので、ルカはトレイシーに何か持病があるのか、とくらいしか聞くことは出来なかった。もちろん、否定されて終わったのだが。
引き篭もった後のトレイシーはいつも通りにしているので、あまり踏み込むことではないのかな、とルカも気にしない事にしていたのだ。
しかし、気にしていなかったことが仇になった。
ルカは選りに選って「問題の日」と気付かずに、トレイシーの部屋を訪ねてしまったのだ。
扉をノックしても返事がないのはいつもの事なので、何も考えずに扉を開いたルカは、ベッドの上でぐったりとしているトレイシーに慌ててしまう。
『トレイシー⁉︎どうしたんだ⁉︎』
『うう……ルカ……?』
抱き起こしたトレイシーは汗だくで、顔色は真っ青だった。どう見ても異常だ。腹部を庇う様にして蹲るトレイシーは、小さな声で訴える。
『ルカぁ……痛い……痛いよぉ……』
『!』
今すぐ医務室へ、とルカは思ったのだが、トレイシーは抱えて動かされる事すら辛そうだったので断念する。だったらエミリーを呼ぼうとしたのだが、トレイシーはルカの服を握り込んでしまっている。
『トレイシー、先生を呼んでこないと』
『やだ……やだ……』
『ほら、手を離して』
『やだぁ……!』
ルカが宥めようとしても、トレイシーは首を振って嫌がるばかりで、手を離そうとしない。それでもこの状態のトレイシーを放って置けないので、無理矢理服を掴む手をルカは剥がしにかかる。
『ルカ、やだ、行っちゃやだ』
『すぐ戻るから』
弱々しく抵抗するトレイシーは可哀想だったが、なんとか服から手を離させる。最後の指を剥がしたところで、トレイシーが絶望に染まった表情になる。
なんでそんな顔をするのかとルカが不思議に思っていると、トレイシーはシーツを被って泣き出してしまった。声を上げて子供の様に泣いているので、ルカは狼狽えてしまう。人を呼びに行くどころではない。
『ト、トレイシー?』
『あっち行け!お前なんか知らない!嫌い!大っ嫌い!』
恐る恐る声をかけてみるものの、聞いた事もないような金切り声で叫び、トレイシーはより大きな声で泣き出してしまう。
想い人に嫌いと言われたことにルカも精神ダメージを負ったが、それよりも今はこの情緒不安定なトレイシーの方が気掛かりだった。今の今までルカに縋っていたのに、突然突き放す。この豹変っぷりはなんなのだろう。
『ふええええん!』
『…………………』
『うえ、えええ!』
トレイシーの泣き声を聞きながら、ルカはぐっと口元を抑えた。それどころじゃないのは分かってる。分かってるけど、ルカは眉間に皺を寄せる。
――どうしよう、めっちゃくちゃ可愛い。泣いてるトレイシー可愛い。
マイクには軽蔑の眼差しで「ケダモノ」と吐き捨てられるだろうが、ルカは元々トレイシーの泣いてる姿に惚れたので、こうやって泣かれるとちょっと堪らないものがある。「絶対僕以外の人間に言うなよ、変態」とのアドバイスをマイク先生にいただいているので言わないが。
『いやいや……』
ルカは首を振って雑念を払う。今はそれどころじゃないんだ。
医務室に行くよりも、このわんわん泣いているトレイシーをどうにかしなくてはならない。
ベッドに腰掛け、まん丸のシーツの塊にルカは触れる。しかし、すっかりと臍を曲げてしまっているトレイシーは『触んな!』とルカの手を払い除ける。
『嫌い嫌い!みんな嫌い!あっち行け!』
『そんなこと言わないでくれ、トレイシー』
『知らない!』
ルカが手を伸ばすと容赦なく叩かれる。シーツから覗いているトレイシーの目はすっかりと吊り上がり、ぎらぎらとしてルカへの敵意に満ちている。さっきまであんなに、助けて欲しそうに縋っていたのに。今は野良猫でも相手にしている様だ。
『………………』
野良猫。そうだ。
今は野良猫の様だが、その前のトレイシーはルカに縋っていた。子猫が親猫に向けるようなか細い声で、眼差しでルカを見ていた様に思う。
――もしや、私に助けを求めていたのに、無理矢理引き剥がしたのが悪かったのでは?
ルカとしてはトレイシーを心配しての行動だったのだが、トレイシーは縋ったのを拒絶されたと思ってしまったのか。だからあんな顔をして泣き出してしまったのか。
情緒不安定な人間は極端な思考に走る。ルカに拒絶されたと思い込んだトレイシーは、全てが敵になった様に思えて、この針山ハリネズミモードになってしまったのだろう。
そうなれば、トレイシーが敵意というよりも傷付いた目を向けている事にもルカは気付いた。
触ろうとすると払い除けられるので、ルカはシーツの塊に話しかける。
『すまない、トレイシー。私が悪かった。許してほしい』
『うるさい!聞かない!』
『トレイシー聞いてくれ。君に拒絶されたら辛いよ』
『…………』
『君が心配なんだ。だから先生を呼ぼうとしたんだ。でもそうだな、君の意見を聞くべきだった』
『…………』
『トレイシー、君に嫌われたら悲しい』
『…………』
『具合が悪いんだろう?そんなに泣いたらもっと悪くなってしまうよ?』
『…………』
語りかけながら、ルカはシーツの塊を撫でる。今度は手を払われることはなかった。
ぐすぐすと鼻を啜る音はするが、泣き声は止んでいる。シーツの塊は何も答えないが、じりじりとルカに近づいてきている。
そんなところまで野良猫の様だなとルカは含み笑いをしながら、トレイシーの背中を撫でてやる。
そのやりとりを続けている間に、トレイシーはじりじりとルカと距離を詰め、気付けばルカのすぐ側でルカの服を掴んで丸くなっている。
『寝ていた方が楽なのかい?』
『…………うん』
『そうか。私は出て行った方がいい?』
『………………』
ふるふるとトレイシーは首を横に振る。ルカはそうかと囁いて、トレイシーの前髪を払ってやる。
顔色は相変わらず青いままだったが、気分は落ち着いて来た様だ。
ルカも漸く分かった。今のトレイシーはとても甘えたい気分なのだ。先程のはルカが対応を間違えたので、癇癪を起こしたと言う訳か。
気をつけなくては、あの怒り様は恐らく二度の失敗は許されない。慎重にルカは問いかける。
『痛いと言っていたが、どこが痛いんだい?』
『お腹……あと、腰と、頭』
『そんなにか。なんだろう、風邪かな?』
体中が痛くなるのは、風邪が酷くなる時にもある事だ。虚弱体質なトレイシーなら悪化してしまうかも知れない。
そう心配したルカは、腕を伸ばして掛け布団を手繰り寄せる。そうして丸くなったトレイシーの体を包んでやる。原因は分からないが、体を冷やすのは良くないと判断したのだ。
トレイシーの額に触れ、発熱具合も確かめてみる。少し熱い様にも思うが、熱が出ていると思えるほどではない。
『熱は、無いかな?酷くなってからでは遅いしな……やはり先生を』
『…………ない』
『うん?』
『風邪じゃない』
扉に目を向けたルカの服をしっかりと握り締め、トレイシーはそう言い切った。「風邪じゃないと思う」ではなく、きっぱりと否定するトレイシーに、ルカは訝しげな顔を向ける。以前に持病はないと言っていた筈なのに。
それについてルカは問いただそうとしたが、トレイシーは突然、のしのしと座っているルカに乗り上がる。勝手に人の膝を枕にすると、満足した様に蹲って目を閉じてしまう。
『トレイシー?動けないんだが……』
ルカがそう言うと、ギロリときつい眼差しを向けられる。――あ、これは枕に徹せと言うことか。
両手を上げ、抵抗しない意思をルカが伝えると、トレイシーは掛け布団に包まって本格的に寝に入ってしまった。
やがて、トレイシーの寝息が聞こえるようになったので、ルカは困ったように天井を見やる。
――本当に動けなくなってしまった。どうしよう。
ルカの足が痺れるのが先か、トレイシーが目覚めてくれるのが先か。体が痛いと言っていたから、トレイシーも深く眠る事は出来ていないと思うのだが。
困り果てたルカが腕を組んで悩んでいると、扉をノックする音が鳴った。
『トレイシー?具合はどう?お水とお薬を持ってきたのだけど、今入っても良いかしら?』
こちらを窺う様な控えめな呼び声は、エミリーのものだった。しかし、肝心のトレイシー当人は夢の中だ。
仕方なくルカは扉の向こうに呼びかける。
『あー、先生。彼女は今眠ってて……その、動けないので勝手に入ってもらえると』
『………………』
エミリーは言われた通りに扉を自分で開いた。そうして苦笑いをしているルカと、その上に乗っている布団の塊に目を見開いた。
驚いていたのは数秒で、エミリーの穏やかな眼差しが険しい色を帯びる。
『バルサーさん?どうしてここに?今日はトレイシーは休みって聞いていなかったの?』
『その、申し訳ないんだが、忘れていたもので』
『……あなたの記憶力じゃ仕方ないわね。で、どうしてそんな事になっているのかしら?』
エミリーは強電事件以来、ルカがトレイシーと必要以上に一緒にいる事にいい顔をしない。もう絶対にあんなミスは犯さないとルカは誓っているが、あれから自分に対するエミリーの態度が少し厳しくなった事にルカも気付いている。
ここは誠実に答えねばと包み隠さず、ルカは全ての事情を説明した。部屋を訪ねたらトレイシーが倒れていた事、突然の癇癪と情緒不安定な態度、不調を訴えるトレイシーの機嫌を損ねない様にしていたらこうなってしまった事。
話を聞き終わったエミリーの目からは厳しい色は消え、いつも通りの穏やかな医師の顔に戻る。彼女は水差しの乗った盆をテーブルに乗せると、ほうと溜息をついた。
『風邪ではないと彼女は言うんだが、確かに熱はないし』
『ええ、そうよ。それは風邪ではないの』
『先生も言い切るなら、理由が分かっているのか。けれどもトレイシーは持病は無いと聞いていたのだが』
『うーん、持病……持病ではないというか、体質というか……どうしようかしら』
『?』
『本当なら、速攻であなたをここから叩き出してこの事は忘れろって言うべきなんでしょうけど、この状況が……』
白衣の天使はいつもの朗らかな表情とは真逆に眉を顰めて、酷く渋い顔でぶつぶつと何事かを呟いている。
なんだかエミリーがとても難しい顔をしているので、そんなに厄介な問題を抱えているのかとルカはトレイシーの顔を覗き込む。
蒼白なトレイシーの頰を撫で、額の髪を払い、気遣わしげにしているルカをエミリーはじっと胡乱げな目で見つめる。
『一応確認をするのだけれど、あなた達は特別な関係だったりする?』
『それは……友人関係かな、まだ一応は』
『何か、勿体ぶる言い方ね』
トレイシーに告白の答えを延期されて、数ヶ月。ルカとしてはいずれは変わってもらう関係の予定ではあるが、今約束を破ってしまうとトレイシーに絶交されてしまう危険性がある。なので友達という印象を周囲には与え続けなくてはならない。
しかし、このお医者様だけは、どうにも本音を誤魔化せる気がしない。今も疑惑の目を向けられているので、ルカは頰を掻きながらどう答えたものかと悩んでしまう。
『現状はそうなんだ。少なくとも彼女はそうだと言い張る筈さ。それ以上は私からは言えないんだ。分かって貰えると有り難いな、先生』
『…………とても説得力がある説明だこと』
しっかりとルカにしがみついて寝入っているトレイシーに、その背や頰を優しく撫でているルカ。とてもただの友人同士の行動には見えない。しかしエミリーは、皮肉を言うだけに留めた。
エミリーは自身の頬を摩りつつ、困ったように眉根を下げる。
『どうしようかしら。その子のプライバシーに関わる事だけど、正直私たちもお手上げだし……これからの可能性もありそうだし、一方的ではなさそうだし……』
『先生?先程からなにを悩んでいるんだ?なんだか難しい顔で私を見ているが』
『あなたの処遇をどうするかを考えているのよ。こんな事初めてだから本当なら一も二もなく頼りたいところなのだけれど、あなたは寝ぼけてトレイシーを攻撃した前科があるのだもの。信用していいのかどうか……』
『その件に関しては、本当に申し訳ないと思っている。だがあれはもう原因も判明しているし、二度と起こさない対策も出来ているのでどうか安心して欲しい』
『それならいいのだけれど』
少し疑わしげにエミリーはしていたが、それでもルカの言葉を一先ず信じることにしたようだ。
一応の信用を得ることが出来たのでルカはホッとする。この状態のトレイシーを放置して出て行けと言われたら、気になって仕方がなくなってしまう。
安堵の息をついているルカに、しかしエミリーはきっと鋭い目を向ける。
『時にバルサーさん。あなた、女性に関しての知識はどの程度お有りかしら』
『どの程度、とは』
『場合によっては長い説明が必要になるわ。月に一度、女性の身に起こるつきのものについてのお話をね』
『それは、知識としては知っているんだが……それが今、何の関係が』
『今その子がなっているのよ』
『………………うん?』
『今、トレイシーは所謂「女の子の日」で具合と機嫌が悪いの。言ったでしょう、体質だって。症状の個人差が大きいのよ。その子は大分、人よりつきのものが始まるのが遅かったみたいで、十九歳だったかしら?そのせいで二ヶ月に一度と生理不順気味だし、症状も特に重くてね。つきのものが始まって数日は動くことも辛いらしくて』
『先生』
『なにかしら?』
勢いよく片手を上げたルカに、エミリーは小首を傾げる。ルカは非常に居心地の悪い顔で、言葉を絞り出す。
『これは、私が聞いていいことなのか……?』
『だから悩んでいたのよ、私も。プライバシーに関わるって言ったじゃない』
『だったら何故』
『あなたがこの部屋にいたからよ』
『は……?』
『その子、とても臆病で警戒心が強いでしょう。つきのものが始まって体調が悪くなると、それがとても酷くなるのよ。部屋に誰も入れてくれないし、人が近づくのも嫌がるわ。だから眠っている時か、少し機嫌がましな時に薬や水なんかを届けていたのよ。だから今のあなたの状況が私には驚きなの。トレイシーの部屋にいる上に、そうやって動けない様にくっついているんだもの』
『……………………』
ルカは、無言で膝に乗り上げているトレイシーを見下ろす。
癇癪を起こして出ていけとは言われたものの、思えば部屋を出ようとするルカをあの手この手でトレイシーは引き留めていた。寝ている間にルカが出て行かないように、この寝辛そうな体勢になったのか。
最初からトレイシーが縋って甘えた態度をとっていたことを思うと、ルカはじわりと噴き出す感情に、口を手で抑えた。そうでもしなければ叫んでしまいそうになる。
誰にも懐かない野良猫が、自分にだけあんな甘えた声で縋りついてきたのかと思うと、ルカは堪らない気分になってしまう。感情の制御が効かずに顔に熱が集まる。どうしようもない多幸感で胸がはち切れそうだ。
例えその感情が恋情ではなく親愛や父性を求めての事であっても、自分だけと言われて嬉しくないわけがない。
『っ…………ぅっ……!』
『……バルサーさん、感極まっているところ悪いのだけれど、本題はここからなのよ』
『っ、ああ、ああ、すまない。続けてもらって構わない』
『トレイシーの体調不良、その子自身のその機嫌も原因なのよ。痛み止めがあればある程度の症状は軽くなるのだけど、トレイシーったら次は数時間空けるように言ってもすぐに効果が切れると薬を飲んじゃうのよ。生理の期間中は我慢が効かないのよね。だからその都度必要な分を渡さなきゃいけないのだけれど、近づかせてくれないし』
『だから、さっきもあんな控えめに確認していたのか』
『ええ。寝ていたらこっそり置いておこうと思って。それに薬に頼らなくてもお腹を温めるだけでも大分痛みはましになるのよ。でも湯たんぽや懐炉も冷めてしまうから交換が必要でしょう?トレイシーは自分で動けないし……』
どうにか生理の症状を和らげてやろうとエミリーも色々と手は考えたのだ。しかし触るな近づくなと手負いの獣状態になってしまうトレイシーには通じない。
寝込むほど具合が悪いのは二日三日の事で、その期間が過ぎればいつも通りにトレイシーも戻り、無礼を謝るのだが、その期間の情緒は当人にもどうにも出来ないのだと言う。
トレイシーを一瞥し、エミリーは深く溜息を吐く。そんなエミリーにルカはふむ、と頷いてみせる。
『つまり、私がこの気紛れ猫の面倒を見ればいいのかな?』
『話が早いわね。付きっきりで居て欲しいと言う訳ではないのよ。必要なものを届けてくれるだけで有り難いわ』
『そのくらいなら、お安い御用だとも』
ルカはそう答え、トレイシーの金色の髪に指を絡めて微笑んだ。
そうして、それ以来ルカは『その期間』のトレイシーのお世話係となったのだ。
この話はトレイシーのプライバシーに関わるので、誰にも話していない。言われるまでもなく、話す気がルカにはない。
『その日』が来たら、エミリーが現れて「お願い」とだけ告げる。前触れがあってもトレイシーは言わないので、本当に突然の要請が多い。
要請が来たら、ルカはどこか機嫌の良い足取りで、今のようにいそいそとトレイシーの元へと向かうのだ。
服の胸元を握り込んでいるトレイシーの手を、ルカは優しく叩いた。中腰で体勢は辛いが、そこは我慢が必要なのだ。
「トレイシー、どこにも行かないから。これでは君の顔が見えないよ」
「離してほしい」と言う発言や行動はしてはならない。そんな事をすれば、不機嫌になったこのお猫様に部屋を追い出されてしまう。飽く迄お世話係はトレイシーの体調とご機嫌が最優先なのだ。
ルカは黙ったままのトレイシーに言葉を重ねる。
「ほら、顔をよく見せてくれ」
「…………やだっ」
「嫌なのか?それは困ったな」
ルカの服から手は離れたが、トレイシーは枕に顔を埋めて隠してしまう。しかし、ちらちらとこちらの動向を窺っているのが丸わかりだ。
ルカが背を向けたら絶対に止めてくる癖に。素直じゃないところも非常に可愛らしい。
口角が緩んでしまいそうになるのをルカは隠し、トレイシーの上にブランケットを追加し、タオルで包んだ銅製の湯たんぽも腰のあたりに置いてやる。そして本棚から勝手に本を一冊抜きとると、ベッドに腰掛け読書を始める振りをする。
ルカが部屋を出ていくと臍を曲げてしまうが、だからと言ってじっと待っていると、根比べのようにトレイシーは意地を張って布団を被ったままになる。
こうやって適度にルカが他の事に気を取られている振りをすると、相手をしてくれない事に不満になったお猫様は、構ってほしくて布団から顔を出すのだ。
紙面の文字を適当に追いながら、ルカは本のページを捲る。読んだことのある本なので、内容は当然分かっている。それでも本に集中している様に振る舞う。
三回目にページを捲ったあたりで、もぞもぞと背後で動く気配がし始める。六回目のページは本の上に乗った手のせいで捲る事ができなかった。物理的に読書を中断させられたルカは、今気がついたという態度でこちらを見ているトレイシーに目線を合わせた。
「どうかしたかい?」
「…………………………薬飲みたい」
読書に夢中になっているルカの邪魔をしたはいいが、特に何か理由があった訳ではなかったのだろう。ただただ気を引きたかったトレイシーは少し視線を彷徨わせて、取ってつけたようにそう呟いた。
そんな事はルカも当然分かっていたが、指摘するような愚行は犯さない。にこりと笑って立ち上がる。
「ああ、分かったよ。少し待っていてくれ」
ルカはグラスに水を注ぎ、痛み止めの薬包と一緒にトレイシーに手渡してやる。嫌そうにしながらも薬を飲んだトレイシーが苦味で顔を顰めているので、口直しのはちみつ湯を差し出すとそれもトレイシーは一気に飲み干した。
「うう……」
「おかわりが必要かな?」
「欲しい」
先ほどとは打って変わって素直にそう答えたトレイシーの為に、ルカはポットのはちみつ湯を注いだ。二杯目のはちみつ湯をゆっくりと味わったトレイシーは、少しは気分が良くなった様だった。
ルカはベッドに放置していた本を片付けようと手を伸ばしたのだが、それより早く本を取り上げたトレイシーが枕の下に本を押し込んでしまう。ルカが驚いて目を見開いていると、そそくさとその上に頭を乗せて目を閉じてしまった。
――もしや、私が続きが読めない様にしてるのか。
そこそこ厚みがある本だ。枕の下になんて入れたら寝辛いだろうに。そこまでしてルカの邪魔がしたかったのか、自分以外に気を向けられるのが面白くなかったのか。
「っ…………!」
ルカは口を抑えて漏れそうになる唸り声を堪える。
この子はどうして、なんて可愛い悪戯をするんだ。構ってもらえなかったのがそんなに気に入らなかったのか。むふんと鼻を鳴らして、ちょっと満足気にしてるのがまた可愛くて愛おしい。
今すぐ抱きしめて可愛がってしまいたいが、それをやると鬱陶しがられる。お世話中は構わなすぎるのも駄目だが、構いすぎるのも駄目なのだ。少しの間違いでトレイシーの機嫌が激変してしまう。
元気になったら覚えていろとルカは一人握り拳を固める。どんなににゃーにゃー鳴いても絶対に私が満足するまで抱き締めて逃さないからな。
そんな不穏な本音は心の内に隠し、ルカは「こらこら」と笑いながら枕の下に手を差し込み、本を引き抜く。
「あ……」
「こんなものを敷いていたら、首を痛めてしまうよ。枕を高くしたいなら新しいのを用意しようか」
「いらない」
むすりと膨れっ面をしているトレイシーは湯たんぽを抱えて体を丸める。今度のは意地を張っている訳ではなく、本当にいらないのだろう。
ルカは本を棚に戻すと、トレイシーの額に手を触れて熱の有無を確認する。熱があるどころか、トレイシーの額は少し温度が低い様に感じられる。先ほどまで拒否していた湯たんぽをトレイシーが抱きしめているので、もしかすると体が冷えているのかもしれない。
ルカは眉を寄せ、布団とブランケットをトレイシーの体に掛け直す。
「トレイシー、寒いんじゃないか?もう一枚ブランケットはいるかな」
「暑いからいい」
「そうか。お腹は空いていないか?スープは飲めるかな?」
「いらない……気持ち悪い」
痛み止めは効き始めるのには早くても三十分は必要な筈だ。トレイシーの顔色はまだ青い。
大人しく横になっていれば、ここまで酷くはならないのだが今日のトレイシーはどうしても構ってほしい、甘えたい気持ちが勝つようだ。ルカが動く度にそわそわとしている。
これは、自分も動かない方がいいのかもしれないと気付いたルカがベッドに腰掛けると、もぞもぞと布団の塊が動き、ルカの腰にピタリとくっついた。
「おや」
「…………」
トレイシーは自分からくっつきに行ったのにも関わらず、ルカが振り返ると興味がない風を装い寝返りを打って背中を向ける。
それを見て、ルカは静かに含み笑いをする。一体なんの意地なのだろう。本当に素直じゃない。
ベッドの上でトレイシーが動き回るので、布団はぐちゃぐちゃになっている。ルカが何度も掛け直してやっているブランケットも暑いのか、トレイシーは直ぐに剥ぎ取ってしまう。
今は腰に巻きつけた状態で、ブランケットの端を湯たんぽと一緒に抱え込んでしまっている。以前に、お腹を温めると生理の症状が緩和するという話は聞いていたが、だからと言って体を冷やして良い訳ではないのではないだろうか。
丸くなったトレイシーは目を閉じていても汗が額に滲んでおり、やはり辛そうだ。お世話係と言っても、してやれることは限られている。ルカは蹲っているトレイシーの腰の後ろを撫でてやる。
その時の気分によっては触れただけでトレイシーに怒られることもあるのだが、今日はなにも言われない。構って欲しい日だからか、これは正解の行動だったのだろう。
ルカが暫くその動作を続けていると、トレイシーが丸くなったままふるりと体を震わせた。
「……寒い」
「!だったらもう一枚ブランケットを」
ルカは腰を浮かせたが、くんとベルトを引かれ立ち上がることが出来なかった。顔を向ければ顰めっ面のトレイシーがルカのベルトを掴んでいる。
「あーと、トレイシー?」
「ブランケットは暑い」
「……寒いと言ってなかったか、君」
「ブランケットじゃないの!」
トレイシーはそう不機嫌に叫ぶと、ルカに背を向け、クッションに顔を埋めてしまう。旋毛を曲げてしまったトレイシーはうんともすんとも言わなくなってしまった。
今のは言葉選びを間違えた。気をつけていたつもりが、うっかりとやらかしてしまった。ルカは一人反省しながら、頬を掻く。こうなったらトレイシーの欲しいものを当てないと、彼女の機嫌は直らない。
ブランケットが嫌、という事は「寒い」というトレイシーの言葉を額面通りに受け取ってはいけないのだろう。先ほどから布団は跳ね除けているが湯たんぽはじっと抱えている。温かいものは気に入っているようだ。
――つまりはもう一つ、湯たんぽが欲しいという事だろうか。お腹だけじゃなくて腰も温めたい、とかか?
ふむ、とルカは顎を摩る。今一つ、正解と言い切れる自信はないのだが、このまま何もしない訳にもいかない。
取り敢えずは行動あるのみとルカが腰を浮かせると、またもやベルトに荷重がかかる。見るまでもなくベルトを掴んで引き止めているのはトレイシーだ。
そろりとルカが振り返ると、薬が効いてきたのか緑の瞳には少しだけ理性的な光が戻っている。しかしそれでもトレイシーが不機嫌そうなのは変わらない。
「どこ行くのさ」
「んん……その、湯たんぽがもう一つ必要かと。寒いと言っていたし」
正しい回答が分からないルカは、歯切れ悪くそう答えた。違う、と怒り出されたらどうしようかと思っていたが、トレイシーは「ふーん」と目を細めた。ベルトを掴んでいた手が離れたので、ルカの答えは完全に的外れと言う訳では無いようだ。
「ルカ」
「うん?」
拘束が解かれたので、ルカは立ち上がって湯たんぽの準備に行こうとしていたのだが、トレイシーに呼び止められる。なにかおねだりの追加かなと思っていると、トレイシーはぼふりとベッドを叩いた。
「湯たんぽ」
「?ああ、今準備して」
「湯たんぽがどこ行くの、勝手に」
「…………んん?」
湯たんぽ。そう言われたルカは首を捻る。そんなルカに構わず、トレイシーがもう一度ベッドを叩いた。そこには人一人分のスペースが空いている。
「湯たんぽは、ここ」
「湯たんぽ」
「うん」
「……………………もしやそれは私の事か」
「うん。あったかいでしょ」
「…………私に、そこに寝ろと言っているのかい?」
「うん」
こくんと頷くトレイシーに他意は一切無さそうだ。ただた純粋に添い寝を希望している。ルカは、顔を抑えて項垂れた。
――ついこないだ、君を私がどういう目で見ているかの話をした筈なんだが。ベッドに抑えつけて説明した筈だが。怖がって震えていたことも忘れたのだろうか。
分かっている。ルカも分かってはいるのだ。今の弱っているトレイシーが、ただただ父性と親愛を求めて甘えているだけだと言う事は。
しかし、トレイシーは寝巻き代わりの薄着しか身につけていない。そんな姿の意中の相手と添い寝しろと。どんな苦行だ。ストレスで蓄電してしまう。
流石にこれは断ろう。そうルカは思ったのだが、顔を上げればトレイシーの瞳が不安気に揺れている。
先程までは我儘放題だったのに、どこか窺う様な色を感じ取れた。
寂しい、甘えたい。でも、断られるかもしれない。捨てられた子猫の様な表情をしているトレイシーに、ルカはすとんと溜まっていた不満が抜け落ちる感覚を覚えた。
――ああ、ちゃんとトレイシーはあの日のやりとりを覚えているのか。その上で、私が今までの様に甘えさせてくれるかを確認しているのだ。
仕事に集中している飼い主を、控えめに前脚でちょいちょいとつつく猫の姿が脳裏に浮かび、ルカは吹き出しそうになった。咳払いでなんとか誤魔化したが。
なんて可愛らしい、凶悪な悪魔だろう。全てが恋愛に対する計算ならば、もう少し対処しようもあるのに。こうやって純粋に親愛と信頼を求められるのも、堪らない。それが自分に対してだけだとなれば尚更だ。
こんないじらしい事をされて、ルカが湯たんぽ役を断れるわけがなかった。諦めたようにため息をつくと、靴を脱いでベッドの上に乗り上がる。
「トレイシー、もうちょっと詰めてくれ。流石に私はそんなに小さくない」
「ん」
言われた通りに、トレイシーはころころとシーツの上を寝返りをうち、向こう側を向いて縮こまった。お腹側には本物の湯たんぽがあるので、追加の湯たんぽのルカには背中を温める役割を求めているようだ。
とはいえ、はいそうですかとルカがそのままその役を請け負える訳はない。このお嬢さんは忘れているが、ルカも当然男なので理性の限界値があるのだ。
ルカは自分側のベッドシーツを半分剥がし、それをトレイシーに被せた。そうしてシーツ越しにトレイシーの背中に体を寄せて横たわる。これなら体温は伝わるはずだ。
「…………ちょっと」
「うん?」
「これ、なに」
「シーツだね」
「………………」
シーツから顔を出したトレイシーは、非常に不満そうな眼差しをルカに向ける。それに対し、ルカはトレイシーの腰を拍子を打つように軽く叩き、幼子に対するような仕草で眠らせにかかる。
「よしよし、いい子だから大人しく寝ようか。今なら薬も効いているだろう?」
「………………」
痛み止めが効いても、完全に痛くなくなることはないのだろう。それでも今ならトレイシーも眠りにつける筈だ。体調が良くなればスープかフルーツを口にできる筈。栄養は必要だ。
刺々しい態度ながらも甘えてくるトレイシーは、それはそれは可愛い。甘やかして過ごすのもルカにはとても楽しい。だがいつまでも辛そうにしている姿を見るのはやはり可哀想だ。
寝かしつけようとするルカに対し、トレイシーはむうと唇を尖らせる。
「ルカ」
「なにかな」
「シーツ邪魔」
「駄目だよ。これは譲れない」
「なんで」
「…………本当に分からない?」
それまで優しく体を叩いていたルカの手が、するりとトレイシーの体の上を滑る。腰のラインを辿って、腹部のブランケットの下へと潜り込む。途端にトレイシーがひゅっと息を吸い込んだが、ルカの手が不穏な動きをしたのは数秒で、ずり落ちたブランケットをトレイシーの腰の上にまで引き上げ、またぽんぽんと寝かしつける動作に戻った。
背中越しでもトレイシーの強張った体から力が抜けたのがよく分かる。ルカはくすりと笑う。
「私もギリギリのラインを譲っているんだ。だから寂しいのも人肌が恋しいのも分かるが、君も我慢してもらわないと」
「………………」
ルカの言葉にトレイシーは口では何も答えなかったが、こくりと小さく頷いた。俯いたまま顔を見せてくれないので、我儘が過ぎた事に恥じ入ってしまっているのかもしれない。
その姿に、ほんの少しだけ悪戯心が湧いてしまったルカは、トレイシーの体を抱き締めて、シーツ越しの耳の後ろでひそりと囁く。
「関係を変えてくれるなら、今すぐシーツを外してあげるよ?好きなだけ湯たんぽになってあげよう」
「………………………………………………………………」
シーツの塊はたっぷり三十秒沈黙した後、ふるふると首を横に振った。
元気なトレイシーならば即座に「変えない」と切り捨てる所だが、弱ってる今は大分ぐらついたのだろう。
きっと、このトレイシーをルカが全力でどろどろに甘やかして唆してしまえば丸め込める。一度頷かせてしまえば、もう逃さない。
けれど、それはルカのポリシーに反する。弱ってるこの子ではなく、全力で抵抗してくるトレイシーを納得させなくては。
ルカはそれ以上詰める事はせず、ただ「そうか」と囁いてトレイシーが眠るまで湯たんぽ役に徹したのだった。
デミがグラスを掲げると、ホセもそれに倣う。ルカは苦笑いをしながら同じようにグラスを掲げた。
「ああ、ありがとう。と言っていいのかな?」
「いやあ、長かったじゃないか。三ヶ月!三ヶ月も酒が飲めないだなんて!」
「一日の禁酒でも辛いのに……」
「君達は休肝日を真面目に設けるべきだと思う」
しみじみとルカに憐れみの眼差しを向ける二人に、ルカは逆に呆れた目を向ける。
毎日毎日浴びるように酒を飲んでいるホセと酒好きのデミならば兎も角、ルカには飲酒の日課は無い。正直禁酒に関しては対して罰にもなっていなかった。それよりトレイシーの抱っこ禁止令一ヶ月の方が辛かった。
三ヶ月前、ルカは飲み会の場にてトレイシーとの約束違反をした。
スキンシップは二人きりの時だけという話だったのに、仲間達の前でトレイシーを膝に抱えて寝るという行動を取ったがために、トレイシーの怒りを買ってしまったのだ。
そこから禁酒令と抱っこ禁止令を言い渡されていたのだが、漸く先日お許しが出たのだ。
因みに膝抱っこだけは、二週間で限界を迎えたルカが、しつこくしつこくトレイシーに解除を求めたので、早く禁が解かれていた。
酒解禁を聞きつけたデミとホセが、早速飲むぞとルカを捕まえ、この酒盛りが始まったのだ。
ルカがまだ二口三口グラスに口をつけただけなのに、ホセは二杯目を飲み干している。ただただ酒を飲む口実にされたな、とルカはそっと溜息をついた。
「ちょっと何?その溜息は。お酒が美味しくなくなるわよ?」
「いやあ……」
目敏いデミに、ルカはへらりと笑って誤魔化そうとしたが、ホセが訳知り顔で肩を叩く。
「相変わらず、君の小悪魔に翻弄されているんだろう」
「小悪魔…………あー、なるほど」
ホセの言葉に、デミもにや、と笑う。あ、これ酒の肴にされるやつとルカは思ったが、二人の間に挟まれている状態なので逃げ出すことは不可能だった。
ホセにがっしりと肩を組まれ、デミはといえば、中身が少し減っただけのルカのグラスに酒を継ぎ足す。
「あれからどうなの、トレイシーと進展はあった?」
「……相変わらず鉄壁の防御だよ、彼女は」
デミの問いに、ぐしゃりと前髪を崩しながら、ルカは首を振る。
ルカにとってトレイシーは、か弱く幼気な少女の姿をした悪魔だ。
初めて告白をした時に、トレイシーは身を縮めて震えたり、真っ赤になって固まったり、どう見ても一杯一杯に見えたのだ。友達のままと彼女は言い張っていたが、すぐにその関係を突き崩せる自信がルカにはあった。
ところが、だ。トレイシーは一筋縄では行かなかった。小動物の図太さで、ルカのアピールを躱し、誤魔化し、こちらの惚れた弱みすら利用する。どこまでが彼女の純粋な無垢さで、どこからが計算なのかが全くわからない。
追い詰めている筈なのに、どこかしらに抜け穴を見つけて逃げていく。トレイシーはルカに「私に合わせるって言ってた癖に!」と怒るがルカにしてみれば「いい加減私の限界も察してくれ」というのが本音なのだ。
肩を落としているルカに、デミは両手で頬杖を付きながら問いかける。
「ルカってトレイシーに塩対応をされている事多いけど、よくめげないでいられるもんだね」
「私にだって、心が折れかける事はある……あの悪魔は本当に酷いんだ」
「あんだけ惚気といてよく言うな……」
ホセは手酌で自身のグラスに酒を継ぎ足しながら、そうぼやいた。
うっかりと失言したが為に、ルカのトレイシー惚気一時間半コースに付き合わされた事が、ホセにはある。あれだけでもフラフラになったのに、彼の惚気経験者であるマイク先生曰く「一時間程度の惚気で生温い」との事だった。
しかも毎度内容が違うらしい。どれだけ溜め込んでいるんだこの男。
うんざりとしているホセに対し、デミはうきうきとした顔で身を乗り出した。
「なになに?惚気って」
「やめてくれ、その話題は是非、私がいないところでたっぷりと楽しんでほしい……私が、いないところで」
ホセが何度も釘を刺すので、ルカは首を捻った。
惚気たつもりはなかったのだが。ただ、偶にどうしようもなくトレイシーの可愛さを人に自慢したくて自慢したくて、堪らなくなってしまうだけなのだが。
「よく分からないが、気をつけるよ」
「そうしてくれ」
「しっかし長い片思いよねえ。トレイシーも見た感じ、脈はあるとは思うけどさ。本当にルカってば意外と一途なんだなあってウィラとも言ってたのよ」
「ああ、まあ……この関係もそう悪いことだけでは無いんだ」
「?」
くく、と何かを思い出して笑うルカに、デミはなんの事かと問おうとする。しかしそれをノック音に遮られた。三人が振り返ると、休憩室の扉が開いた。その先にはエミリーが立っている。
「盛り上がっているところ、ごめんなさい。バルサーさんはいるかしら?」
「なにかな、先生」
ルカがカウンターの椅子を回すと、エミリーは困り顔で告げる。
「いつものよ。お願いしていいかしら?」
「ああ、勿論。構わないさ」
エミリーの表情は優れないのに、頼まれたルカは満面の笑みで頷くと椅子から立ち上がった。「では、私はここで失礼するよ」と二人に言い置いて、ご機嫌な足取りでルカは去って行ってしまう。スキップでもしそうなルカの後ろ姿を、ホセとデミはポカンとした顔で見送る。
「エミリー、一体何を頼んだの?」
空になった椅子に腰掛けたエミリーに、デミはそう問いかける。
今の今まで怠そうにしていた男が、あんなに軽やかな足取りで一体何をしに行ったのか。
「うーん……猫ちゃんのお世話と言ったところかしら」
エミリーはそう言って意味深に微笑んだ。デミとホセは顔を見合わせ、首を捻った。
ノックをしても返事がなかったのでルカが部屋の扉を開くと、顔面に向かってクッションが飛んでくる。予想していた事だったので、空いていた手でそれをルカは受け止めた。
「おっと」
「遅い!」
クッションをルカに投げた犯人、トレイシーは顰めっ面でそう叫んだ。
「うう……」
しかし、体を起こしていられたのはそこまでだった様で、トレイシーはへなへなとベッドの上に倒れ込んだ。
蹲るトレイシーの額には脂汗が滲んでいる。そんなに具合が悪いのに、八当たりを優先したのかとルカは内心呆れてしまう。顔色の悪いトレイシーにクッションを返してやれば、トレイシーをそれを抱え込んで丸くなった。
「無茶をするな。何故大人しく寝てられないんだ、君は」
「ルカが、遅いのが悪い……」
「すまない、これでも急いだんだ。寒くないか?ブランケットを」
「いい、いらないっ!」
「そうか、なら薬は?」
「…………」
無言で首を振るトレイシーの顔色は青褪めている。ルカはタオルでトレイシーの額の汗を拭ってやる。
「ほら、ちゃんと横になるといい。辛いだろう?痛いところは?」
「……お腹痛い。腰も」
「体が冷えてしまうよ。湯たんぽもあるが」
「いらないっ!」
今日のトレイシーはイヤイヤ期の気分の様だ。その日、その時によって態度が違うのだ。とても甘えてくる事もあれば、ずっと泣き続けている事もある。イヤイヤしている時は、欲しいものも嫌というので見極めるのが難しい。
「分かった。君の好きにするといい。辛くなったら言ってくれ」
「ううっ……」
トレイシーはルカの言葉を聞いているのかいないのか、枕の位置を調整していたルカの服を掴んで握り込んだ。中腰の状態で動けなくなったルカは、ふうとため息をついた。
ルカが荘園に来てから半年過ぎた頃の事だ。
トレイシーが二ヶ月に一度くらいの頻度で、二日三日、部屋に引き篭もる事があるのにルカは気付いた。
彼女の体があまり強くない事は聞いていたので、そういうものなのだろうとルカは思っていたのだが、それにしてはおかしいことがあった。どうも、具合が悪くなる周期があるらしい。エミリーとそういう会話をしている姿を見たこともある。
気にはなったのだが、どうにも聞いてはならない空気感があるので、ルカはトレイシーに何か持病があるのか、とくらいしか聞くことは出来なかった。もちろん、否定されて終わったのだが。
引き篭もった後のトレイシーはいつも通りにしているので、あまり踏み込むことではないのかな、とルカも気にしない事にしていたのだ。
しかし、気にしていなかったことが仇になった。
ルカは選りに選って「問題の日」と気付かずに、トレイシーの部屋を訪ねてしまったのだ。
扉をノックしても返事がないのはいつもの事なので、何も考えずに扉を開いたルカは、ベッドの上でぐったりとしているトレイシーに慌ててしまう。
『トレイシー⁉︎どうしたんだ⁉︎』
『うう……ルカ……?』
抱き起こしたトレイシーは汗だくで、顔色は真っ青だった。どう見ても異常だ。腹部を庇う様にして蹲るトレイシーは、小さな声で訴える。
『ルカぁ……痛い……痛いよぉ……』
『!』
今すぐ医務室へ、とルカは思ったのだが、トレイシーは抱えて動かされる事すら辛そうだったので断念する。だったらエミリーを呼ぼうとしたのだが、トレイシーはルカの服を握り込んでしまっている。
『トレイシー、先生を呼んでこないと』
『やだ……やだ……』
『ほら、手を離して』
『やだぁ……!』
ルカが宥めようとしても、トレイシーは首を振って嫌がるばかりで、手を離そうとしない。それでもこの状態のトレイシーを放って置けないので、無理矢理服を掴む手をルカは剥がしにかかる。
『ルカ、やだ、行っちゃやだ』
『すぐ戻るから』
弱々しく抵抗するトレイシーは可哀想だったが、なんとか服から手を離させる。最後の指を剥がしたところで、トレイシーが絶望に染まった表情になる。
なんでそんな顔をするのかとルカが不思議に思っていると、トレイシーはシーツを被って泣き出してしまった。声を上げて子供の様に泣いているので、ルカは狼狽えてしまう。人を呼びに行くどころではない。
『ト、トレイシー?』
『あっち行け!お前なんか知らない!嫌い!大っ嫌い!』
恐る恐る声をかけてみるものの、聞いた事もないような金切り声で叫び、トレイシーはより大きな声で泣き出してしまう。
想い人に嫌いと言われたことにルカも精神ダメージを負ったが、それよりも今はこの情緒不安定なトレイシーの方が気掛かりだった。今の今までルカに縋っていたのに、突然突き放す。この豹変っぷりはなんなのだろう。
『ふええええん!』
『…………………』
『うえ、えええ!』
トレイシーの泣き声を聞きながら、ルカはぐっと口元を抑えた。それどころじゃないのは分かってる。分かってるけど、ルカは眉間に皺を寄せる。
――どうしよう、めっちゃくちゃ可愛い。泣いてるトレイシー可愛い。
マイクには軽蔑の眼差しで「ケダモノ」と吐き捨てられるだろうが、ルカは元々トレイシーの泣いてる姿に惚れたので、こうやって泣かれるとちょっと堪らないものがある。「絶対僕以外の人間に言うなよ、変態」とのアドバイスをマイク先生にいただいているので言わないが。
『いやいや……』
ルカは首を振って雑念を払う。今はそれどころじゃないんだ。
医務室に行くよりも、このわんわん泣いているトレイシーをどうにかしなくてはならない。
ベッドに腰掛け、まん丸のシーツの塊にルカは触れる。しかし、すっかりと臍を曲げてしまっているトレイシーは『触んな!』とルカの手を払い除ける。
『嫌い嫌い!みんな嫌い!あっち行け!』
『そんなこと言わないでくれ、トレイシー』
『知らない!』
ルカが手を伸ばすと容赦なく叩かれる。シーツから覗いているトレイシーの目はすっかりと吊り上がり、ぎらぎらとしてルカへの敵意に満ちている。さっきまであんなに、助けて欲しそうに縋っていたのに。今は野良猫でも相手にしている様だ。
『………………』
野良猫。そうだ。
今は野良猫の様だが、その前のトレイシーはルカに縋っていた。子猫が親猫に向けるようなか細い声で、眼差しでルカを見ていた様に思う。
――もしや、私に助けを求めていたのに、無理矢理引き剥がしたのが悪かったのでは?
ルカとしてはトレイシーを心配しての行動だったのだが、トレイシーは縋ったのを拒絶されたと思ってしまったのか。だからあんな顔をして泣き出してしまったのか。
情緒不安定な人間は極端な思考に走る。ルカに拒絶されたと思い込んだトレイシーは、全てが敵になった様に思えて、この針山ハリネズミモードになってしまったのだろう。
そうなれば、トレイシーが敵意というよりも傷付いた目を向けている事にもルカは気付いた。
触ろうとすると払い除けられるので、ルカはシーツの塊に話しかける。
『すまない、トレイシー。私が悪かった。許してほしい』
『うるさい!聞かない!』
『トレイシー聞いてくれ。君に拒絶されたら辛いよ』
『…………』
『君が心配なんだ。だから先生を呼ぼうとしたんだ。でもそうだな、君の意見を聞くべきだった』
『…………』
『トレイシー、君に嫌われたら悲しい』
『…………』
『具合が悪いんだろう?そんなに泣いたらもっと悪くなってしまうよ?』
『…………』
語りかけながら、ルカはシーツの塊を撫でる。今度は手を払われることはなかった。
ぐすぐすと鼻を啜る音はするが、泣き声は止んでいる。シーツの塊は何も答えないが、じりじりとルカに近づいてきている。
そんなところまで野良猫の様だなとルカは含み笑いをしながら、トレイシーの背中を撫でてやる。
そのやりとりを続けている間に、トレイシーはじりじりとルカと距離を詰め、気付けばルカのすぐ側でルカの服を掴んで丸くなっている。
『寝ていた方が楽なのかい?』
『…………うん』
『そうか。私は出て行った方がいい?』
『………………』
ふるふるとトレイシーは首を横に振る。ルカはそうかと囁いて、トレイシーの前髪を払ってやる。
顔色は相変わらず青いままだったが、気分は落ち着いて来た様だ。
ルカも漸く分かった。今のトレイシーはとても甘えたい気分なのだ。先程のはルカが対応を間違えたので、癇癪を起こしたと言う訳か。
気をつけなくては、あの怒り様は恐らく二度の失敗は許されない。慎重にルカは問いかける。
『痛いと言っていたが、どこが痛いんだい?』
『お腹……あと、腰と、頭』
『そんなにか。なんだろう、風邪かな?』
体中が痛くなるのは、風邪が酷くなる時にもある事だ。虚弱体質なトレイシーなら悪化してしまうかも知れない。
そう心配したルカは、腕を伸ばして掛け布団を手繰り寄せる。そうして丸くなったトレイシーの体を包んでやる。原因は分からないが、体を冷やすのは良くないと判断したのだ。
トレイシーの額に触れ、発熱具合も確かめてみる。少し熱い様にも思うが、熱が出ていると思えるほどではない。
『熱は、無いかな?酷くなってからでは遅いしな……やはり先生を』
『…………ない』
『うん?』
『風邪じゃない』
扉に目を向けたルカの服をしっかりと握り締め、トレイシーはそう言い切った。「風邪じゃないと思う」ではなく、きっぱりと否定するトレイシーに、ルカは訝しげな顔を向ける。以前に持病はないと言っていた筈なのに。
それについてルカは問いただそうとしたが、トレイシーは突然、のしのしと座っているルカに乗り上がる。勝手に人の膝を枕にすると、満足した様に蹲って目を閉じてしまう。
『トレイシー?動けないんだが……』
ルカがそう言うと、ギロリときつい眼差しを向けられる。――あ、これは枕に徹せと言うことか。
両手を上げ、抵抗しない意思をルカが伝えると、トレイシーは掛け布団に包まって本格的に寝に入ってしまった。
やがて、トレイシーの寝息が聞こえるようになったので、ルカは困ったように天井を見やる。
――本当に動けなくなってしまった。どうしよう。
ルカの足が痺れるのが先か、トレイシーが目覚めてくれるのが先か。体が痛いと言っていたから、トレイシーも深く眠る事は出来ていないと思うのだが。
困り果てたルカが腕を組んで悩んでいると、扉をノックする音が鳴った。
『トレイシー?具合はどう?お水とお薬を持ってきたのだけど、今入っても良いかしら?』
こちらを窺う様な控えめな呼び声は、エミリーのものだった。しかし、肝心のトレイシー当人は夢の中だ。
仕方なくルカは扉の向こうに呼びかける。
『あー、先生。彼女は今眠ってて……その、動けないので勝手に入ってもらえると』
『………………』
エミリーは言われた通りに扉を自分で開いた。そうして苦笑いをしているルカと、その上に乗っている布団の塊に目を見開いた。
驚いていたのは数秒で、エミリーの穏やかな眼差しが険しい色を帯びる。
『バルサーさん?どうしてここに?今日はトレイシーは休みって聞いていなかったの?』
『その、申し訳ないんだが、忘れていたもので』
『……あなたの記憶力じゃ仕方ないわね。で、どうしてそんな事になっているのかしら?』
エミリーは強電事件以来、ルカがトレイシーと必要以上に一緒にいる事にいい顔をしない。もう絶対にあんなミスは犯さないとルカは誓っているが、あれから自分に対するエミリーの態度が少し厳しくなった事にルカも気付いている。
ここは誠実に答えねばと包み隠さず、ルカは全ての事情を説明した。部屋を訪ねたらトレイシーが倒れていた事、突然の癇癪と情緒不安定な態度、不調を訴えるトレイシーの機嫌を損ねない様にしていたらこうなってしまった事。
話を聞き終わったエミリーの目からは厳しい色は消え、いつも通りの穏やかな医師の顔に戻る。彼女は水差しの乗った盆をテーブルに乗せると、ほうと溜息をついた。
『風邪ではないと彼女は言うんだが、確かに熱はないし』
『ええ、そうよ。それは風邪ではないの』
『先生も言い切るなら、理由が分かっているのか。けれどもトレイシーは持病は無いと聞いていたのだが』
『うーん、持病……持病ではないというか、体質というか……どうしようかしら』
『?』
『本当なら、速攻であなたをここから叩き出してこの事は忘れろって言うべきなんでしょうけど、この状況が……』
白衣の天使はいつもの朗らかな表情とは真逆に眉を顰めて、酷く渋い顔でぶつぶつと何事かを呟いている。
なんだかエミリーがとても難しい顔をしているので、そんなに厄介な問題を抱えているのかとルカはトレイシーの顔を覗き込む。
蒼白なトレイシーの頰を撫で、額の髪を払い、気遣わしげにしているルカをエミリーはじっと胡乱げな目で見つめる。
『一応確認をするのだけれど、あなた達は特別な関係だったりする?』
『それは……友人関係かな、まだ一応は』
『何か、勿体ぶる言い方ね』
トレイシーに告白の答えを延期されて、数ヶ月。ルカとしてはいずれは変わってもらう関係の予定ではあるが、今約束を破ってしまうとトレイシーに絶交されてしまう危険性がある。なので友達という印象を周囲には与え続けなくてはならない。
しかし、このお医者様だけは、どうにも本音を誤魔化せる気がしない。今も疑惑の目を向けられているので、ルカは頰を掻きながらどう答えたものかと悩んでしまう。
『現状はそうなんだ。少なくとも彼女はそうだと言い張る筈さ。それ以上は私からは言えないんだ。分かって貰えると有り難いな、先生』
『…………とても説得力がある説明だこと』
しっかりとルカにしがみついて寝入っているトレイシーに、その背や頰を優しく撫でているルカ。とてもただの友人同士の行動には見えない。しかしエミリーは、皮肉を言うだけに留めた。
エミリーは自身の頬を摩りつつ、困ったように眉根を下げる。
『どうしようかしら。その子のプライバシーに関わる事だけど、正直私たちもお手上げだし……これからの可能性もありそうだし、一方的ではなさそうだし……』
『先生?先程からなにを悩んでいるんだ?なんだか難しい顔で私を見ているが』
『あなたの処遇をどうするかを考えているのよ。こんな事初めてだから本当なら一も二もなく頼りたいところなのだけれど、あなたは寝ぼけてトレイシーを攻撃した前科があるのだもの。信用していいのかどうか……』
『その件に関しては、本当に申し訳ないと思っている。だがあれはもう原因も判明しているし、二度と起こさない対策も出来ているのでどうか安心して欲しい』
『それならいいのだけれど』
少し疑わしげにエミリーはしていたが、それでもルカの言葉を一先ず信じることにしたようだ。
一応の信用を得ることが出来たのでルカはホッとする。この状態のトレイシーを放置して出て行けと言われたら、気になって仕方がなくなってしまう。
安堵の息をついているルカに、しかしエミリーはきっと鋭い目を向ける。
『時にバルサーさん。あなた、女性に関しての知識はどの程度お有りかしら』
『どの程度、とは』
『場合によっては長い説明が必要になるわ。月に一度、女性の身に起こるつきのものについてのお話をね』
『それは、知識としては知っているんだが……それが今、何の関係が』
『今その子がなっているのよ』
『………………うん?』
『今、トレイシーは所謂「女の子の日」で具合と機嫌が悪いの。言ったでしょう、体質だって。症状の個人差が大きいのよ。その子は大分、人よりつきのものが始まるのが遅かったみたいで、十九歳だったかしら?そのせいで二ヶ月に一度と生理不順気味だし、症状も特に重くてね。つきのものが始まって数日は動くことも辛いらしくて』
『先生』
『なにかしら?』
勢いよく片手を上げたルカに、エミリーは小首を傾げる。ルカは非常に居心地の悪い顔で、言葉を絞り出す。
『これは、私が聞いていいことなのか……?』
『だから悩んでいたのよ、私も。プライバシーに関わるって言ったじゃない』
『だったら何故』
『あなたがこの部屋にいたからよ』
『は……?』
『その子、とても臆病で警戒心が強いでしょう。つきのものが始まって体調が悪くなると、それがとても酷くなるのよ。部屋に誰も入れてくれないし、人が近づくのも嫌がるわ。だから眠っている時か、少し機嫌がましな時に薬や水なんかを届けていたのよ。だから今のあなたの状況が私には驚きなの。トレイシーの部屋にいる上に、そうやって動けない様にくっついているんだもの』
『……………………』
ルカは、無言で膝に乗り上げているトレイシーを見下ろす。
癇癪を起こして出ていけとは言われたものの、思えば部屋を出ようとするルカをあの手この手でトレイシーは引き留めていた。寝ている間にルカが出て行かないように、この寝辛そうな体勢になったのか。
最初からトレイシーが縋って甘えた態度をとっていたことを思うと、ルカはじわりと噴き出す感情に、口を手で抑えた。そうでもしなければ叫んでしまいそうになる。
誰にも懐かない野良猫が、自分にだけあんな甘えた声で縋りついてきたのかと思うと、ルカは堪らない気分になってしまう。感情の制御が効かずに顔に熱が集まる。どうしようもない多幸感で胸がはち切れそうだ。
例えその感情が恋情ではなく親愛や父性を求めての事であっても、自分だけと言われて嬉しくないわけがない。
『っ…………ぅっ……!』
『……バルサーさん、感極まっているところ悪いのだけれど、本題はここからなのよ』
『っ、ああ、ああ、すまない。続けてもらって構わない』
『トレイシーの体調不良、その子自身のその機嫌も原因なのよ。痛み止めがあればある程度の症状は軽くなるのだけど、トレイシーったら次は数時間空けるように言ってもすぐに効果が切れると薬を飲んじゃうのよ。生理の期間中は我慢が効かないのよね。だからその都度必要な分を渡さなきゃいけないのだけれど、近づかせてくれないし』
『だから、さっきもあんな控えめに確認していたのか』
『ええ。寝ていたらこっそり置いておこうと思って。それに薬に頼らなくてもお腹を温めるだけでも大分痛みはましになるのよ。でも湯たんぽや懐炉も冷めてしまうから交換が必要でしょう?トレイシーは自分で動けないし……』
どうにか生理の症状を和らげてやろうとエミリーも色々と手は考えたのだ。しかし触るな近づくなと手負いの獣状態になってしまうトレイシーには通じない。
寝込むほど具合が悪いのは二日三日の事で、その期間が過ぎればいつも通りにトレイシーも戻り、無礼を謝るのだが、その期間の情緒は当人にもどうにも出来ないのだと言う。
トレイシーを一瞥し、エミリーは深く溜息を吐く。そんなエミリーにルカはふむ、と頷いてみせる。
『つまり、私がこの気紛れ猫の面倒を見ればいいのかな?』
『話が早いわね。付きっきりで居て欲しいと言う訳ではないのよ。必要なものを届けてくれるだけで有り難いわ』
『そのくらいなら、お安い御用だとも』
ルカはそう答え、トレイシーの金色の髪に指を絡めて微笑んだ。
そうして、それ以来ルカは『その期間』のトレイシーのお世話係となったのだ。
この話はトレイシーのプライバシーに関わるので、誰にも話していない。言われるまでもなく、話す気がルカにはない。
『その日』が来たら、エミリーが現れて「お願い」とだけ告げる。前触れがあってもトレイシーは言わないので、本当に突然の要請が多い。
要請が来たら、ルカはどこか機嫌の良い足取りで、今のようにいそいそとトレイシーの元へと向かうのだ。
服の胸元を握り込んでいるトレイシーの手を、ルカは優しく叩いた。中腰で体勢は辛いが、そこは我慢が必要なのだ。
「トレイシー、どこにも行かないから。これでは君の顔が見えないよ」
「離してほしい」と言う発言や行動はしてはならない。そんな事をすれば、不機嫌になったこのお猫様に部屋を追い出されてしまう。飽く迄お世話係はトレイシーの体調とご機嫌が最優先なのだ。
ルカは黙ったままのトレイシーに言葉を重ねる。
「ほら、顔をよく見せてくれ」
「…………やだっ」
「嫌なのか?それは困ったな」
ルカの服から手は離れたが、トレイシーは枕に顔を埋めて隠してしまう。しかし、ちらちらとこちらの動向を窺っているのが丸わかりだ。
ルカが背を向けたら絶対に止めてくる癖に。素直じゃないところも非常に可愛らしい。
口角が緩んでしまいそうになるのをルカは隠し、トレイシーの上にブランケットを追加し、タオルで包んだ銅製の湯たんぽも腰のあたりに置いてやる。そして本棚から勝手に本を一冊抜きとると、ベッドに腰掛け読書を始める振りをする。
ルカが部屋を出ていくと臍を曲げてしまうが、だからと言ってじっと待っていると、根比べのようにトレイシーは意地を張って布団を被ったままになる。
こうやって適度にルカが他の事に気を取られている振りをすると、相手をしてくれない事に不満になったお猫様は、構ってほしくて布団から顔を出すのだ。
紙面の文字を適当に追いながら、ルカは本のページを捲る。読んだことのある本なので、内容は当然分かっている。それでも本に集中している様に振る舞う。
三回目にページを捲ったあたりで、もぞもぞと背後で動く気配がし始める。六回目のページは本の上に乗った手のせいで捲る事ができなかった。物理的に読書を中断させられたルカは、今気がついたという態度でこちらを見ているトレイシーに目線を合わせた。
「どうかしたかい?」
「…………………………薬飲みたい」
読書に夢中になっているルカの邪魔をしたはいいが、特に何か理由があった訳ではなかったのだろう。ただただ気を引きたかったトレイシーは少し視線を彷徨わせて、取ってつけたようにそう呟いた。
そんな事はルカも当然分かっていたが、指摘するような愚行は犯さない。にこりと笑って立ち上がる。
「ああ、分かったよ。少し待っていてくれ」
ルカはグラスに水を注ぎ、痛み止めの薬包と一緒にトレイシーに手渡してやる。嫌そうにしながらも薬を飲んだトレイシーが苦味で顔を顰めているので、口直しのはちみつ湯を差し出すとそれもトレイシーは一気に飲み干した。
「うう……」
「おかわりが必要かな?」
「欲しい」
先ほどとは打って変わって素直にそう答えたトレイシーの為に、ルカはポットのはちみつ湯を注いだ。二杯目のはちみつ湯をゆっくりと味わったトレイシーは、少しは気分が良くなった様だった。
ルカはベッドに放置していた本を片付けようと手を伸ばしたのだが、それより早く本を取り上げたトレイシーが枕の下に本を押し込んでしまう。ルカが驚いて目を見開いていると、そそくさとその上に頭を乗せて目を閉じてしまった。
――もしや、私が続きが読めない様にしてるのか。
そこそこ厚みがある本だ。枕の下になんて入れたら寝辛いだろうに。そこまでしてルカの邪魔がしたかったのか、自分以外に気を向けられるのが面白くなかったのか。
「っ…………!」
ルカは口を抑えて漏れそうになる唸り声を堪える。
この子はどうして、なんて可愛い悪戯をするんだ。構ってもらえなかったのがそんなに気に入らなかったのか。むふんと鼻を鳴らして、ちょっと満足気にしてるのがまた可愛くて愛おしい。
今すぐ抱きしめて可愛がってしまいたいが、それをやると鬱陶しがられる。お世話中は構わなすぎるのも駄目だが、構いすぎるのも駄目なのだ。少しの間違いでトレイシーの機嫌が激変してしまう。
元気になったら覚えていろとルカは一人握り拳を固める。どんなににゃーにゃー鳴いても絶対に私が満足するまで抱き締めて逃さないからな。
そんな不穏な本音は心の内に隠し、ルカは「こらこら」と笑いながら枕の下に手を差し込み、本を引き抜く。
「あ……」
「こんなものを敷いていたら、首を痛めてしまうよ。枕を高くしたいなら新しいのを用意しようか」
「いらない」
むすりと膨れっ面をしているトレイシーは湯たんぽを抱えて体を丸める。今度のは意地を張っている訳ではなく、本当にいらないのだろう。
ルカは本を棚に戻すと、トレイシーの額に手を触れて熱の有無を確認する。熱があるどころか、トレイシーの額は少し温度が低い様に感じられる。先ほどまで拒否していた湯たんぽをトレイシーが抱きしめているので、もしかすると体が冷えているのかもしれない。
ルカは眉を寄せ、布団とブランケットをトレイシーの体に掛け直す。
「トレイシー、寒いんじゃないか?もう一枚ブランケットはいるかな」
「暑いからいい」
「そうか。お腹は空いていないか?スープは飲めるかな?」
「いらない……気持ち悪い」
痛み止めは効き始めるのには早くても三十分は必要な筈だ。トレイシーの顔色はまだ青い。
大人しく横になっていれば、ここまで酷くはならないのだが今日のトレイシーはどうしても構ってほしい、甘えたい気持ちが勝つようだ。ルカが動く度にそわそわとしている。
これは、自分も動かない方がいいのかもしれないと気付いたルカがベッドに腰掛けると、もぞもぞと布団の塊が動き、ルカの腰にピタリとくっついた。
「おや」
「…………」
トレイシーは自分からくっつきに行ったのにも関わらず、ルカが振り返ると興味がない風を装い寝返りを打って背中を向ける。
それを見て、ルカは静かに含み笑いをする。一体なんの意地なのだろう。本当に素直じゃない。
ベッドの上でトレイシーが動き回るので、布団はぐちゃぐちゃになっている。ルカが何度も掛け直してやっているブランケットも暑いのか、トレイシーは直ぐに剥ぎ取ってしまう。
今は腰に巻きつけた状態で、ブランケットの端を湯たんぽと一緒に抱え込んでしまっている。以前に、お腹を温めると生理の症状が緩和するという話は聞いていたが、だからと言って体を冷やして良い訳ではないのではないだろうか。
丸くなったトレイシーは目を閉じていても汗が額に滲んでおり、やはり辛そうだ。お世話係と言っても、してやれることは限られている。ルカは蹲っているトレイシーの腰の後ろを撫でてやる。
その時の気分によっては触れただけでトレイシーに怒られることもあるのだが、今日はなにも言われない。構って欲しい日だからか、これは正解の行動だったのだろう。
ルカが暫くその動作を続けていると、トレイシーが丸くなったままふるりと体を震わせた。
「……寒い」
「!だったらもう一枚ブランケットを」
ルカは腰を浮かせたが、くんとベルトを引かれ立ち上がることが出来なかった。顔を向ければ顰めっ面のトレイシーがルカのベルトを掴んでいる。
「あーと、トレイシー?」
「ブランケットは暑い」
「……寒いと言ってなかったか、君」
「ブランケットじゃないの!」
トレイシーはそう不機嫌に叫ぶと、ルカに背を向け、クッションに顔を埋めてしまう。旋毛を曲げてしまったトレイシーはうんともすんとも言わなくなってしまった。
今のは言葉選びを間違えた。気をつけていたつもりが、うっかりとやらかしてしまった。ルカは一人反省しながら、頬を掻く。こうなったらトレイシーの欲しいものを当てないと、彼女の機嫌は直らない。
ブランケットが嫌、という事は「寒い」というトレイシーの言葉を額面通りに受け取ってはいけないのだろう。先ほどから布団は跳ね除けているが湯たんぽはじっと抱えている。温かいものは気に入っているようだ。
――つまりはもう一つ、湯たんぽが欲しいという事だろうか。お腹だけじゃなくて腰も温めたい、とかか?
ふむ、とルカは顎を摩る。今一つ、正解と言い切れる自信はないのだが、このまま何もしない訳にもいかない。
取り敢えずは行動あるのみとルカが腰を浮かせると、またもやベルトに荷重がかかる。見るまでもなくベルトを掴んで引き止めているのはトレイシーだ。
そろりとルカが振り返ると、薬が効いてきたのか緑の瞳には少しだけ理性的な光が戻っている。しかしそれでもトレイシーが不機嫌そうなのは変わらない。
「どこ行くのさ」
「んん……その、湯たんぽがもう一つ必要かと。寒いと言っていたし」
正しい回答が分からないルカは、歯切れ悪くそう答えた。違う、と怒り出されたらどうしようかと思っていたが、トレイシーは「ふーん」と目を細めた。ベルトを掴んでいた手が離れたので、ルカの答えは完全に的外れと言う訳では無いようだ。
「ルカ」
「うん?」
拘束が解かれたので、ルカは立ち上がって湯たんぽの準備に行こうとしていたのだが、トレイシーに呼び止められる。なにかおねだりの追加かなと思っていると、トレイシーはぼふりとベッドを叩いた。
「湯たんぽ」
「?ああ、今準備して」
「湯たんぽがどこ行くの、勝手に」
「…………んん?」
湯たんぽ。そう言われたルカは首を捻る。そんなルカに構わず、トレイシーがもう一度ベッドを叩いた。そこには人一人分のスペースが空いている。
「湯たんぽは、ここ」
「湯たんぽ」
「うん」
「……………………もしやそれは私の事か」
「うん。あったかいでしょ」
「…………私に、そこに寝ろと言っているのかい?」
「うん」
こくんと頷くトレイシーに他意は一切無さそうだ。ただた純粋に添い寝を希望している。ルカは、顔を抑えて項垂れた。
――ついこないだ、君を私がどういう目で見ているかの話をした筈なんだが。ベッドに抑えつけて説明した筈だが。怖がって震えていたことも忘れたのだろうか。
分かっている。ルカも分かってはいるのだ。今の弱っているトレイシーが、ただただ父性と親愛を求めて甘えているだけだと言う事は。
しかし、トレイシーは寝巻き代わりの薄着しか身につけていない。そんな姿の意中の相手と添い寝しろと。どんな苦行だ。ストレスで蓄電してしまう。
流石にこれは断ろう。そうルカは思ったのだが、顔を上げればトレイシーの瞳が不安気に揺れている。
先程までは我儘放題だったのに、どこか窺う様な色を感じ取れた。
寂しい、甘えたい。でも、断られるかもしれない。捨てられた子猫の様な表情をしているトレイシーに、ルカはすとんと溜まっていた不満が抜け落ちる感覚を覚えた。
――ああ、ちゃんとトレイシーはあの日のやりとりを覚えているのか。その上で、私が今までの様に甘えさせてくれるかを確認しているのだ。
仕事に集中している飼い主を、控えめに前脚でちょいちょいとつつく猫の姿が脳裏に浮かび、ルカは吹き出しそうになった。咳払いでなんとか誤魔化したが。
なんて可愛らしい、凶悪な悪魔だろう。全てが恋愛に対する計算ならば、もう少し対処しようもあるのに。こうやって純粋に親愛と信頼を求められるのも、堪らない。それが自分に対してだけだとなれば尚更だ。
こんないじらしい事をされて、ルカが湯たんぽ役を断れるわけがなかった。諦めたようにため息をつくと、靴を脱いでベッドの上に乗り上がる。
「トレイシー、もうちょっと詰めてくれ。流石に私はそんなに小さくない」
「ん」
言われた通りに、トレイシーはころころとシーツの上を寝返りをうち、向こう側を向いて縮こまった。お腹側には本物の湯たんぽがあるので、追加の湯たんぽのルカには背中を温める役割を求めているようだ。
とはいえ、はいそうですかとルカがそのままその役を請け負える訳はない。このお嬢さんは忘れているが、ルカも当然男なので理性の限界値があるのだ。
ルカは自分側のベッドシーツを半分剥がし、それをトレイシーに被せた。そうしてシーツ越しにトレイシーの背中に体を寄せて横たわる。これなら体温は伝わるはずだ。
「…………ちょっと」
「うん?」
「これ、なに」
「シーツだね」
「………………」
シーツから顔を出したトレイシーは、非常に不満そうな眼差しをルカに向ける。それに対し、ルカはトレイシーの腰を拍子を打つように軽く叩き、幼子に対するような仕草で眠らせにかかる。
「よしよし、いい子だから大人しく寝ようか。今なら薬も効いているだろう?」
「………………」
痛み止めが効いても、完全に痛くなくなることはないのだろう。それでも今ならトレイシーも眠りにつける筈だ。体調が良くなればスープかフルーツを口にできる筈。栄養は必要だ。
刺々しい態度ながらも甘えてくるトレイシーは、それはそれは可愛い。甘やかして過ごすのもルカにはとても楽しい。だがいつまでも辛そうにしている姿を見るのはやはり可哀想だ。
寝かしつけようとするルカに対し、トレイシーはむうと唇を尖らせる。
「ルカ」
「なにかな」
「シーツ邪魔」
「駄目だよ。これは譲れない」
「なんで」
「…………本当に分からない?」
それまで優しく体を叩いていたルカの手が、するりとトレイシーの体の上を滑る。腰のラインを辿って、腹部のブランケットの下へと潜り込む。途端にトレイシーがひゅっと息を吸い込んだが、ルカの手が不穏な動きをしたのは数秒で、ずり落ちたブランケットをトレイシーの腰の上にまで引き上げ、またぽんぽんと寝かしつける動作に戻った。
背中越しでもトレイシーの強張った体から力が抜けたのがよく分かる。ルカはくすりと笑う。
「私もギリギリのラインを譲っているんだ。だから寂しいのも人肌が恋しいのも分かるが、君も我慢してもらわないと」
「………………」
ルカの言葉にトレイシーは口では何も答えなかったが、こくりと小さく頷いた。俯いたまま顔を見せてくれないので、我儘が過ぎた事に恥じ入ってしまっているのかもしれない。
その姿に、ほんの少しだけ悪戯心が湧いてしまったルカは、トレイシーの体を抱き締めて、シーツ越しの耳の後ろでひそりと囁く。
「関係を変えてくれるなら、今すぐシーツを外してあげるよ?好きなだけ湯たんぽになってあげよう」
「………………………………………………………………」
シーツの塊はたっぷり三十秒沈黙した後、ふるふると首を横に振った。
元気なトレイシーならば即座に「変えない」と切り捨てる所だが、弱ってる今は大分ぐらついたのだろう。
きっと、このトレイシーをルカが全力でどろどろに甘やかして唆してしまえば丸め込める。一度頷かせてしまえば、もう逃さない。
けれど、それはルカのポリシーに反する。弱ってるこの子ではなく、全力で抵抗してくるトレイシーを納得させなくては。
ルカはそれ以上詰める事はせず、ただ「そうか」と囁いてトレイシーが眠るまで湯たんぽ役に徹したのだった。