ウサギとオオカミ

「トレイシー‼︎」
落下の衝撃と痛みを覚悟して目を瞑ったトレイシーだったが、名を叫ばれると同時に体を抱き止められる。あわや大惨事と言うところで、タイミング良く誰かが階下から昇ってきたらしい。
まだ眩暈は続いていたが、トレイシーはなんとか目を開く。視界にあるのは白と黒の縞模様。自分を救ってくれた相手は、今トレイシーが最も顔を合わせたくないと思っていたルカだった。
「大丈夫か?」
「っ……平気」
くらくらと視界は揺れていたが、トレイシーはルカの手を押しやると手摺を掴んだ。真っ直ぐ立ち、何事もなかったかの様に振る舞う。
「ちょっと躓いちゃっただけ」
「とてもそうは見えない」
「大袈裟なんだよ、なんでもないってば」
ちらりと見たルカの首にはいつもの首枷はなく、ガーゼが貼られている。それにトレイシーはぐ、と唇を噛む。朧げだが、それでももっと欲しいと獲物に噛みついた事は微かに覚えている。あれは自分が付けた痕だ。
心配そうにしているルカの脇を通り過ぎ、トレイシーは階下に向かう。今はあまりルカと一緒に居たくない気分なのだ。
ところが後ろにぴたりと付いて来る気配に、トレイシーは足を止め振り返る。
「……なんでついて来るの」
「部屋まで送ろうかと」
「怪我人がなに言ってんの。折角医務室出れたんだから部屋帰んなよ」
「新しい怪我人を作るよりはマシだろう?酷い顔色だ」
トレイシーが何を言っても、部屋までルカは付いて来るつもりのようだ。この様子ではただただ押し問答になるだけだ。自分が引くしかないだろうとトレイシーは諦める。
幸い、眩暈も引いてきたので、足早に階段を降りてしまう。本当は一階の食堂にスープを取りに行こうと思っていたのだが、そうするとルカがずっと付いてくる事になる。そうなれば何故スープだけなのかとまた煩く聞かれそうだ。
今は異変の時の事はルカに話したくないし、トレイシーは一人になりたくて仕方がないのだ。
ルカとトレイシーが互いに無言のまま廊下を歩いていると、トレイシーの部屋の前に人がいる事に気付いた。
「デミ?」
「!あら、どこに行ってるのかと思ったら。ルカの迎えに行ってたの?」
「そういうわけじゃないよ、偶々会っただけ」
「ふうん」
小走りで駆け寄るトレイシーとその後ろにいるルカに気付いたデミは、くすくすと微笑ましげにしている。
こちらの事情を知っている彼女の反応に、トレイシーは少し居た堪れない気持ちで口篭る。本当に偶然会っただけなのだが、デミは照れ隠しと思っていそうだ。
デミはどちらかというと少しだけルカ寄りなのでここで反論しても無駄だろうと判断し、トレイシーは用件を尋ねる。
「デミこそどうしたの?何か用?」
「ああ、これを届けに来たの」
そう言って、デミはトレイシーにバスケットを差し出す。中にはオレンジ色や爽やかな緑色をした液体が詰まったガラス瓶が数本、入っていた。
トレイシーは不思議そうな顔で瓶の一つを手に取る。
「これ、ジュース?デミが作ってくれたの?」
「そう。またトレイシーが栄養失調で倒れたら困るでしょ。だから野菜とフルーツをたっぷり使ってみたの。あれからトレイシーってば具なしのスープしか飲まないじゃない」
「スープ?」
ルカが小さくデミの言葉を復唱する。トレイシーは慌てて瓶をしまうと取り繕うようにへらりと笑う。
「ありがと、デミ。後でいただくね」
「サンドウィッチが食べられなくてもこれなら大丈夫でしょう?ハムも駄目だなんて思わなくて」
「ハム……?」
「デミ!そろそろほら、ゲームの時間じゃない⁉︎ホセと一緒だったよね⁈今ナワーブの部屋にいるからさ!」
「え?もうそんな時間なの?」
デミは驚いた顔で窓の外を見る。
太陽は確かにトレイシーの言う通りに高い位置にある。ジュース作りに夢中になり過ぎていつもより時間が経つのが早かったようだ。
「ちょっとのんびりし過ぎちゃったわ。じゃあまたね、トレイシー、ルカ」
「ああ」
「うん」
手を振って去っていくデミに、トレイシーも手を振り返す。
そして二人きりになった廊下で、沈黙が落ちる。
ずっと後頭部にルカからの視線が突き刺さっているが、トレイシーは気付かない振りで部屋の扉を開くと素早く中に入り込んだ。
「じゃ、部屋着いたし、私はこれで。ルカも早く帰って大人しくしてなよ。まだ怪我人なんだし」
極力、ルカの方を見ないようにしながらトレイシーはそそくさと扉を閉じようとした。
しかし、扉が閉じる前に隙間にルカが足を差し込んだ。その光景にトレイシーは既視感を覚えたが、あの時と同じように足を踏む様な間は与えられなかった。
「あっ!」
ルカは力づくで扉を押し開くと、ずかずかとトレイシーの部屋の中に入りこむ。そうして勝手知ったると言った態度でトレイシーの部屋に唯一ある作業椅子に腰をかけた。
こうなってはトレイシーではルカを追い出すことは出来ない。
「ちょっと!あんたね!」
「聞きたいことがあるもので」
「今じゃなくて良くない⁈」
「君の具合が悪そうなら遠慮しようかと思ったんだが、大丈夫だと君が自分で言っただろう?」
「……………………」
――言った。それは確かに言ってしまった。付いてこようとするルカを振り切る為の言葉だったのに、逆に利用されるとは。
そしてここで「いいや実は具合が悪い」とトレイシーが答えればきっと「それは何故だ」とルカは聞いてくる。そうしたら芋づる式に話したくない事にたどり着いてしまう。
否定しても肯定してもいい様に会話を操られる。追い出すことは不可能だ。ルカのいつも通りの厄介さが戻ってきた。
獣の本能でも理性的でも一筋縄じゃ行かないのはなんなのだろう。
トレイシーはルカを視界に入れないようにバスケットをサイドテーブルに乗せると、そこに凭れた。二人きりなので下手にルカに近づいて過度なスキンシップをされたくなかったのだ。
「…………聞きたいことってなに」
「君が階段から落ちかけたのは栄養失調が原因か」
「躓いたからだってば」
「そうは見えなかった。君は立ち止まっていたじゃないか。それに、名前を呼んでいたのに反応しなかった」
ルカがじっとトレイシーを見つめている。その目は言い逃れは許さないと言っている様だ。
トレイシーはあの時は一瞬の立ちくらみのつもりでいたが、実際はそうではなかったのだ。落下のタイミングでルカが都合良く現れたわけではなく、その前からルカはトレイシーに呼びかけていたのだ。
流石に誤魔化しが効かないとわかったトレイシーは腕を組んで、もごもごと口篭る。
「ちょっと眩暈がした気はする、かも」
「何故スープだけなんだ。まさかまたダイエットしようとしてるわけじゃないだろうな。折角丁度良くなって来たのに」
「何が丁度いいんだっての。こっちはあんたのせいでお肉が食べれないって言うのに」
「…………私のせい?」
「!」
トレイシーはルカの怪訝そうな呟きに肩を揺らす。しまった、と口を塞ぐがもう遅い。
栄養不足で頭まで血が巡っていなかったのだ。いつもの癖でついルカを詰ってしまった。このルカは「更新」の間の記憶が抜けているのに。
「まさか、私が君に何かしたのか」
「あー……や、したのはルカではないけど……」
トレイシーは、どう誤魔化したものかと視線を彷徨わせた。

――「更新」の最中、イライの部屋でルカに捕まり、二人きりにされてしまった後のこと。
トレイシーは無情にも閉められてしまった扉に向かって叫んだ。
「馬鹿馬鹿、戻ってきて!置いてかないでって!ナワーブ!イライ!フレディさんんんん!」
「なんて可愛らしい耳なんだ」
慌てるトレイシーにお構いなしで、ルカはトレイシーのオオカミの耳にキスをしている。二人になったからもういいと判断したらしい。益々とトレイシーを抱き締める腕が強くなる。
困ったのはトレイシーだ。ナワーブ達がいる間はまだ意識が他に割けていたのでオオカミの本能に勝てていたのだが、ルカと二人にされた事でじわじわと違う思考が脳内を侵食し始める。
「ウサギ」「美味しそう」「お肉」「お腹が空いた」「食べちゃえ」
ダメだダメだと首を振り、トレイシーはどうにか自分を拘束している男の腕を剥がそうとするが、ルカのウサギの耳は飾りのようだ。全く話を聞いていなかった。
「ルカ、もう!本当に限界なんだってば!離してって!」
「嫌だ。そう言って逃げる気だろう」
「こんの!分からず屋!」
苛立ったトレイシーは、目の前にあったルカの腕に噛みついた。抑えてはいたが、トレイシーも異変の影響は受けているのだ。つい、動物らしい行動に出てしまう。
しかし、これが良くなかった。ウサギであるルカに噛みついた事で、内なる獣の性が「ご飯だ」と歓喜に震える。
脅しのつもりだったトレイシーも「美味しい」と感じている。ぐ、とルカの腕を噛み締める力が増していく。
「っ、トレイシー?」
「!」
ルカの声でトレイシーは、はっと意識を取り戻す。慌てて口を離したが鋭い犬歯のせいで、ルカの腕には血が滲んでしまっている。
また傷を増やしてしまった。ルカに謝らなくてはと思いながらもトレイシーはついつい、欲に負けて赤く滲む傷口に舌を這わせる。
やはり、美味しい。我慢出来ない。ダメだ、我慢しなくては。でももっと欲しい。
人の意識とオオカミの意識がトレイシーの中でせめぎ合う。けれど、体は獣の意思に操られる。くわりと開けた口でルカの腕にもう一度歯を立てる。でも、そこまでだ。
――ダメ、噛んだらまた怪我が酷くなる。
力は入れない。だってまたルカが悲しい顔をしてしまう。つい反射的に腕を払ってしまった時の反応が忘れられない。
――今、私を拒絶した?――
そう言って傷ついた顔をする程、今のルカは情緒が不安定だ。こんなことをしたらまた誤解をさせてしまうかもしれない。
すぐにやめなきゃ、でも美味しい。離したくない。
トレイシーが獣の本能と葛藤している中、耳元にルカが顔を寄せる。
「いいよ」
囁くような声で、ルカはうくくと笑う。
「私が食べたい?それならいいよ、齧ってしまっても。噛み跡くらいでそんな顔をする君なら、きっと噛みちぎってしまえば罪悪感で離れられなくなる。だから、いいよ。君は物理で縛るよりその方が応えそうだ」
うっとりとした声音でそう言うルカに、トレイシーは何を馬鹿な事をとすぐにでも反論したかった。
しかし頭がぼんやりとし始めてきた。トレイシーの理性より、獣の性が強くなっている。ルカがとんでもない事を言ってるのを、どこか遠くのラジオの音の様に感じている。
ルカが甘える様にトレイシーの耳裏に鼻を擦り付けた。
「だって、待っても待っても君は焦らしてばかりだ。その方が手っ取り早い。ほら、噛んでいいよ」
歯に、力が篭る。つぷりと皮膚を突き破る牙。口内に鉄の味が流れ込む。美味しい。
ウサギ、ルカ。ルカが美味しい。食べていいの?少しならなくならない?だったらちょっとだけ。ちょっとだけ欲しい。
ダメだ、と脳内で止めていた筈の声は止んでいた。だって、ルカがいいって言ったもん。
「ぐっ……」
ルカが呻く。とても痛そう。けれど、ぎゅっと抱き締める力が増すだけだ。逃げる事はない。
ぐぐ、と腕に歯が食い込む。美味しい。美味しい――

トレイシーの意識はそこでぷつりと途絶えた。
後はオオカミの本能のままに暴れ回ったと聞いている。トレイシーが自身を取り戻した時には、既にナイチンゲールは戻り、異変は修正された後だった。
オオカミの耳が消えた事に胸を撫で下ろし、しでかした事に頭を抱えた。そしてトレイシーはルカに会ったら、絶対にあの時の発言を問い詰めようと思っていた。
どういうつもりだったのかと。異変を利用して人を陥れようとするとは。
ところが、肝心のルカは記憶を飛ばしていると来た。それに安堵したのが半分、もやもやイライラとした思いが半分。
あの罪悪感云々の発言を忘れているなら都合がいい。あの男は一度箍が緩むと遠慮がなくなる。
トレイシーに本性の一部を見せたということは今後は隠さなくなる筈だ。それが記憶を失ったことでリセットされた。そこは助かった。
そう思いながらもどうして忘れたんだ、真意が知りたかったのにと詰りたい気持ちもある。
ルカの前で平静を装うには、このぐちゃぐちゃになった感情を整理しなくては。今のままでは感情のままに叫んでしまいそうだ。
ルカは頭痛と怪我の処置で暫く医務室から出られないと聞いた。だからトレイシーはこれ幸いとルカに会いに行かなかった。怒った振りをしておけば、みんな納得してくれる。
ところが気持ちを整理しようとするトレイシーに、別の問題が伸し掛かる。
オオカミにとって、ウサギは本当に美味しかった。異変が終わった後も、あの味が感触が忘れられない。何故食べなかったのだろうとトレイシーの頭の何処かで悔いている。
何かを食べて飲んで、美味しいと少しでも思えば「あれよりも?」と問う声がする。そうしてルカに噛みついた記憶が蘇る。血を啜った事も、皮膚を破った牙の感触も、全てが鮮明に浮かび上がる。
――やっと手に入ると思ってしまった自分の心の内も。

「私のせいで食事が出来ない、という事か?」
「そんな大袈裟な事じゃないってば。ちょっと食べる気が起きないっていうか」
「大袈裟なものか。こんなにやつれて……顔色も、鏡を見た方がいい。本当に酷いぞ」
心配気に近寄ってきたルカはトレイシーの頬に手を当て、痛まし気に眉を顰める。しかしトレイシーは誰のせいでという思いが募る。まだ自分はこんなに悩んでいるのに元凶のあんたはあっさり記憶を飛ばした癖に!
苛立った気分は空腹のせいで増大する。トレイシーは乱暴にルカの手を振り払う。
「覚えてないあんたには関係ない。何しても何言っても忘れる癖に!人の事唆しておいてなんなの!」
「…………なんだって?唆す?」
益々眉を顰めたルカの眉間には深い皺が出来ている。トレイシーは口を引き結び、ルカから顔を逸らした。答える気はないと態度で示す。
精々何があったか思い悩めばいい。説明なんてしてやるものか。そうなればちょっとだけ胸がすく筈だ。
トレイシーが意地悪くそう考えていると、ルカは自身の首のガーゼに触れ、呟いた。
「私には関係ない、だって?………………君は、私のせいと今し方、言った筈だが」
「あんたに言っても意味ない」
「トレイシー」
「知らない!」
「……そうか」
ルカは、頑なな態度を貫くトレイシーにゆっくりとした動作で手を伸ばし、細い両の二の腕を掴んだ。痛むほどではないが、振り解けるような力ではない。
壁際に居たことが災いし、トレイシーはサイドテーブルとルカの体に阻まれて身動きが取れない。
さわさわと頸に走る冷気に、なんかちょっとやばいかもとトレイシーが焦っていると、ルカがかくりと横に首を傾げる。
その動作も人形めいていて不気味なのに、つい見てしまったルカの眼光の強さと異様な瞳の輝きに、トレイシーは悲鳴をあげたくなる。
「関係、ないわけがないよな?」
――しまった、地雷踏んだ。
トレイシーは冷や汗が吹き出すのを感じながら、久々に見るルカの異様な雰囲気に固まってしまう。
ついついと溜まった不満と空腹の苛立ちのままに八つ当たりをしてしまったが、ルカにしてみれば本当に身に覚えがないのだ。
ルカは訳が分からないまま気付けば医務室で酷い頭痛の発作に襲われ、いつ負ったのか分からない謎の噛み傷の処置で傷口を連日洗浄されていた訳だ。
頭痛の原因も噛み傷の詳細も、きっと大雑把にしか説明されていない筈だ。「当事者に聞け」と言われた事だろう。
ところがその当事者であるトレイシーは姿を現さない。漸く自室に帰る許可を得て、当人を見つければ素っ気ない態度を取られる。
記憶がない間の事を責めて詰る癖に、何があったのかは説明しない。それは当然面白くないはずだ。
視線を逸らせずにいるトレイシーに、声音だけは優し気にルカは続ける。
「一体何があったのかな。『ウサギの私』と」
「あ……えっと」
「私じゃない『ウサギの私』と何をしていたんだ?どんな話をした?何を言われたんだ?唆すってどういう意味だ?君が私の言う通りにしたことなんてないだろう?そんな君が何をしたんだ?おや、どうして顔を赤らめるんだ?君が照れるような事があったのか?何があったのか是非とも詳しく教えて貰いたいな。さあ。何故話そうとしないんだい?私には話したくない?それはつまり、私に何か隠しているのか?私には知られたくないと言うことかな?困るな、そんな頑なだとそれはそれで益々気になってしまう。秘密にしたいような内容なのか?ん?それでも君から話を聞くまで私は諦める気はないけれど。……どうして今度は青くなるんだ。忙しいなぁ君は」
「ちょ、ちょっと待って!」
ルカの表情と声は優し気だが、目はギラついているし、淡々と詰めてくるしでトレイシーは逃げ腰になる。しっかりと捕まえられているので僅かに身を反らす事くらいしか出来ないが、ルカが覆い被さるように前のめりになるので、喘ぐように待ったをかけるしかない。
「い、一気に聞かないで!あと怖い!怖いのやだ!怖い奴は嫌いになるよ!」
「む……」
顔の前に両手を翳し、トレイシーがそう叫ぶとルカはピタリと口を閉じた。これまでトレイシーと恋仲になろうと頑張ってきたのに、嫌われるのはとても困る。
ルカは前のめりだった体勢を戻した。けれどトレイシーの腕はしっかりと掴んだままだ。話が終わるまで逃すつもりはなかった。
それでもルカの詰める空気が緩んだ事で、トレイシーはほっと息をついた。まだぎらぎらしている目を見る勇気はないので、俯いたままではあったけれども。
「覚えてないのはルカのせいじゃないの分かってるけど、苛々しちゃって、つい……」
「トレイシー」
「ごめん。八つ当たりだった」
「それはいくらでもしてくれていいんだが、それよりウサギの私と何があったのかが聞きたいんだ、私は」
「うう」
「謝罪で誤魔化そうとしても無駄だぞ」
「ううう……」
下から覗き込んでくるルカは雰囲気は緩んだものの、やっぱり眼光は強いままだ。ちょっと流されてくれないかな、とはトレイシーも思ったが、ルカは空白の期間の話を聞くまで許してくれるつもりはない様だ。
ルカの目が怖いのでトレイシーはぎゅっと瞼を閉じた。
「いつもは覚えてなくても気にしないのに、なんで今日はそんなにしつこいの!」
「本当に君は鏡を見るべきだ。不摂生している姿なんて幾度も見ているが、そんなに憔悴していた事があるものか。いつだって自分のスタンスを崩さない君にそこまで影響を与えたのが、私であって私でないのが許せない」
「何を想像してんだか分かんないけど!あんたが考えてる様な事は起きてないし、してないから!」
「何もしてない、と言うつもりか?こんな跡をつけておいて?」
ルカは唸るような声でそう言いながら、自身の襟元を乱暴に広げて見せた。首の右側に貼られたガーゼで傷跡は隠れているが、そこにはトレイシーの歯型が付いている筈だ。
トレイシーはもごもごと口篭るしかない。その跡については自分は歴とした加害者なので何も文句は言えない。
「それ、はその……」
「ずるい」
「は?」
「私ですら頬にキスしかされた事がないのに……どうしたらこんな濃い愛情表現を受けることになるんだ!」
「んえ⁈」
「四箇所!四箇所も!噛み跡があるんだぞ!何があったらそんな事になるんだ!何故私は覚えてないんだ!」
「ま、待て待て待て待て!」
話が思わぬ方向に向かうので、トレイシーは叫んで止めにかかる。記憶が無くて不安とか、そういう話ではないのか。
そして思っていた以上にとんでもない想像力を働かせていたルカに、こちらも慌ててしまう。なんでそんな訳のわからない勘違いをしているんだ。
「あんた何言ってんの、大丈夫?まだ頭おかしいの?どんな思考回路してたらそんな答えに行き着くの⁈」
「噛むのは動物の愛情表現じゃないか。況してや君はオオカミだったんだろう?私たちが本能のままに動いていたという話は聞いている。そうなったら私が君を放っておくはずがない」
「それはそう。実際にそうだった。そうだったんだけどその話は誰から聞いたの」
「クラークが見舞いに来た時にそう言っていた。私の行動が完全に発情期のウサギだったという話もしていた」
「ぐっ……!」
トレイシーは歯を食い縛り、咆哮したくなる気持ちを抑え込んだ。
――事態をややこしくした犯人はあんたか、イライ。
きっと当人は軽く説明をしただけのつもりだったのだろう。しかしルカなりに飛び飛びの話と分かる範囲の状況を繋ぎ合わせた結果、弱肉強食の騒動だった事実が全く違う内容にすり替わってしまった訳か。
確かに動物の本能のままに動いていたけど、トレイシーの本能は食欲であってルカが想像しているのとは完全にずれている。
トレイシーは痛くなってきた頭を支えながら、口を開く。
「あー、分かった。最初から説明するからちゃんと聞いて。八つ当たりとかしてる場合じゃないわ、本当に聞いて。あんた盛大な勘違いしてるから」
「ふむ?」
そうしてトレイシーは、「更新」の朝のやり取りとその後の追いかけっこ、自身が抑えていたオオカミの本能とルカの怪我の経緯などを語って聞かせた。
但し、「唆された」内容だけは欠片も出さなかったが。
トレイシーの話を聞いているうちに、ルカから徐々に目の異様な光が引いていく。トレイシーを掴んでいた手も、添えているだけになっていた。
目に見えて落ち着いて来たルカは、表情も柔らかくなる。
「じゃあ、本当に何もなかったと?」
「あのねえ、こっちはあんた怪我させない様に、何回も何回も近づくなって警告してたんだよ?それを話しも聞かずに追い回して来るから、逃げるので精一杯だったの!首の後ろだけは私が寝ぼけて噛んだけど……あとの傷は、負わせた私が言うのもなんだけど、確実にあんたの自業自得」
「む……」
「それに、何か起きる以前にウサギのあんたはこう、言葉が通じてる様で、実は会話に全然なってなくて。同じ厄介でも話通じるだけいつものルカのがマシかなって」
「それは評価が上がったのか下がったのか」
「あんたという存在が厄介だっていう裏付けになった」
「むう……」
常日頃、マイクから面倒な男と評されているし、その自覚もあるのでルカには反論は出来ない。
獣になった自身の行動は把握出来た。しかしそれとは別に、一つはっきりとさせておかなくてはならない事がある。
ルカは少し細くなってしまったトレイシーの顔を覗き込み、問いかける。
「食事が出来ないのは、何故なんだ?私のせいと言っていただろう?」
「それは、オオカミの私とヒトの私が乖離してた影響だろうって。私は人を怪我させるのなんて嫌だし、人を食べるのなんて冗談じゃないって思ってるのに、真逆の本能が宿ってたわけ。異変がなくなった後はただただ血の味だけが濃く残って、なに食べてもあの感覚思い出して気持ちが悪かったの」
トレイシーは肩を竦めてそう答えた。今となってはもうそんな事はないのだが、本当に味のするものが飲めなかったのだ。
異変のすぐ後は正気に戻るとは口に血の味がしていたせいで、今口に入れているのは本当に普通の食物なのかと疑ってしまって咀嚼する気が起きず、すぐに吐き出したくなってしまっていたのだ。
赤いスープは見るだけでも血を思い出して駄目で、折角トレイシーの為にと作ってもらったミネストローネも口にすることが出来なかった。
バスケットを見れば、デミがくれたジュースも赤色がない。きっと配慮してくれたのだろう。トレイシーは瓶を撫でてくすりと笑う。
「もうそんな深刻な事は無いんだけど、心に余裕ができたら今度はオオカミだった時の事を思い出しちゃって。あ、噛みたいとかそう言う事じゃないよ?その、ウサギが美味しかったなーって感じてた事をじんわり覚えてて。ちょっとでもご飯が美味しいって思うと、でもルカの方が美味しかったなあってなって食べる気が失せちゃうの。段々薄れて来てるからきっとそのうち元に戻ると思うんだけど」
「へえ?」
妙な気配に、トレイシーはバスケットからルカへと視線を戻す。そうすれば緩く微笑む顔が間近にあった。その距離の近さに驚いて、トレイシーはルカの顔を両手で押し返す。
「近い!」
「……おいおい、相変わらず猫みたいな反応をするな、君は」
「今、あんたなにしようとしてたの」
半目で睨むトレイシーに、ルカはにこにことした顔で小首を傾げた。じわじわと這い上がる嫌な予感に、トレイシーはルカを押しのけた。そうして広めの空間に立ち位置を変える。また壁際に追い込まれては堪らないので、逃げ道の確保を優先する。
「君ばかりずるいなと思って」
「は?何の話?」
「美味しいなら、私も確かめてみたいなぁ。君がどんな味なのか」
「……………………しょっぱいでしょうよ、普通は」
正気かと叫びたいところだけど、ルカは正気がイカれているのでそれを問うだけ気力と時間の無駄だ。
トレイシーは務めて冷静に、当たり前の答えを返す。そうしながらじり、と後退り扉に向かう。これはとても良くない流れだ。そろそろとトレイシーが下がると、ルカが笑顔のまま一歩踏み出す。
「分からないじゃないか。もしかすると甘いかもしれない」
「そんな訳ない、と思うなぁ」
「予測でものを言うなんて君らしくないじゃないか。気になることは突き詰めないと」
「私の事は私が分かるから別にいいかなーって」
「人が感じる味覚には差があるだろう?君は甘いものが好きだが私は辛いものが好きだ。だから好みによって良し悪しが違うかもしれない。やっぱり自身で確認しないと」
ルカがぐいぐいと近寄ってくるせいで、トレイシーは逃げる筈が結局部屋の隅に追いやられてしまう。
逃げ場に困って縮こまるトレイシーに対し、ルカは益々笑みを深くする。
「ここは君の部屋なのに、どうしてそんな小さくなっているんだい?」
「あ、あんたのせいだけど……!」
「君が面白い事を言うから、私も気になってしまったんじゃないか。愛情表現ではなかったことは理解したが、それでもやっぱり君に噛まれた事は羨ましい」
「えっと、そういう被虐趣味には付き合えないというか、悪いんだけど他所あたって欲しい」
「他所ではなく君がいいんだが……いや、気にしないでくれ。それは追い追い考える」
「おいおいって」
「まあまあ。その話はそういう時に取り決めよう。今はまだ時期じゃない」
「そういう?どういう時?」
「それより今は君を噛みたいんだ、許可をくれ」
「する訳ないでしょ」
周りくどい言い回しに飽きたルカは、直球で要求をぶつける。
自分が覚えてない間にトレイシーにつけられた跡があるのが気に入らない。覚えていない期間の自身が羨ましい。そしてそいつがトレイシーの心に爪痕を残しているのはもっと気に入らない。
しかし、他人の怪我を極端に恐れる少女に、同じ傷を私にもつけてくれと言ったところで、拒否されるのは目に見えている。だったらせめて他の方法で意趣返しがしたい。
トレイシーは苦々しい顔で、ハイネックのニットを引き上げ、首をガードする。
「本音はそれなの。なに、私に仕返しがしたいの?やだよ!怪我はあんたの自業自得って言ってるじゃん!首の後ろだけは悪いと思ってるけど」
「それが気に入らない」
「……それって、どれ」
「私は噛まれた記憶は無いのに君が申し訳なさそうにしてるのが腹立たしい。私も噛まれたい」
「あー……また訳わかんない事言い出した……!嫌です!」
「君ならそう言うだろうな。だから、私が代わりに噛んだらいいじゃないか」
「なにそのパンがなければお菓子を食べればいいみたいなイカれた思考。良くないよ?やだよ、痛いじゃん」
「うん、痛くなければ問題ないな」
一人で勝手に納得したルカが、「では早速」と手を伸ばすのでトレイシーはその手を叩き落とした。
痛いのは嫌だが、重要なのはそこではない。
「やだってば」
「……君はいつもそれだ」
叩かれた手を摩りながら、ルカは不貞腐れた顔になる。
「話が違う。酷いじゃないか。君からも歩み寄ってくれると言ったのに、全然君は私に優しくない。相変わらずいやいやしてばかりじゃないか」
「うっ……」
ルカの口から溢れる不満に、トレイシーは言い返すことは出来なかった。
その通りだという自覚は勿論ある。こちらからももっとルカに歩み寄る、そう約束したのは自分だったのに、どうにも恥ずかしくて何も実行できずにいる。
そしてその態度が為に、ウサギだったルカに危険だから近づくなと言っても全く話を信じてもらえなかったのだ。
散々ルカに噛み傷は自業自得と言っていたが、トレイシーが信用されなかったのも元を正せば自身の言動のせいだ。
「そ、れは悪かったと思うけど……でもだからって」
「あの話は嘘だったのか。期待させておいて君は口だけなのか。私ばかり我慢しているじゃないか」
「ごめんて……もう、ここぞとばかりに責めてくるじゃん」
ルカの方が面倒な彼女の様だ。酷い酷いとこちらを詰り始めたルカに、トレイシーは両手をあげる。
でもちょっと拗ねてる感じのルカが可愛いと思ってしまう自分も、大分毒されている。トレイシーはこっそりと溜息をついた。
「分かったよ、もう。私もルカ怪我させちゃったし、それで気が済むならいいよ」
「本当かい」
不貞腐ていたのが嘘の様に、ルカはぱっと喜色満面になる。トレイシーにはピンと立った犬の耳と尻尾の幻覚まで見えている。
やっぱり、ウサギより犬のがルカには合うよな。いかれたお願いをされているのに、こうも可愛い反応をされるとトレイシーもついつい絆されてしまう。
さて、そうと決まればどうしようかとトレイシーは考える。ルカは記憶がない時と同じことをして欲しい様だが、折角オオカミの感覚が薄れてきたのに、またルカを噛むのはやっぱり嫌だ。
代替えなのかどうなのか疑問だが、ルカは自分が噛んだら満足するらしい。味見だ云々と言っていたが、兎に角トレイシーに仕返しがしたいのかもしれない。
ならばとトレイシーはルカの前に手首を差し出す。
「じゃあ、はい」
「?じゃあ、とは」
「噛みたいってあんたが言ったんでしょ。早くして。本気で噛んだら怒るから」
「トレイシー。出来たらもう少し、食い出があるところがいい」
「………………チキン選ぶような感覚で言ってるけど、あんたまさか本当に食べる気じゃないよね?」
「いやいや、考えてもみてくれ」
ルカは差し出されたトレイシーの腕に手を添えて、するりと筋を辿り撫でる。
元々細かったのに、トレイシーはここ数日でやつれたせいで、骨にちょこっと肉がついているとマーサが言っていた通りの有様になっている。ルカはそれは残念そうな顔で項垂れる。
「噛んだら折れそう」
「そこまで貧弱じゃないっての。私のことマンボウとでも思ってる?」
「しかし、これじゃ気持ちが乗らないじゃないか。決して君の腕が不味そうと言うつもりはないが、肉が付いているところの方が安心できると言うか、臨場感があると言うか」
「なんの拘り?あんた偶に訳のわからない我儘言い出すよね……」
「だからもちもちしてるところがいい」
「それが本音じゃん」
トレイシーは呆れた顔で、ルカの手の甲を抓った。
事あるごとに仲間達はトレイシーに対し、やれ肉をつけろ、タンパク質を取れと口酸っぱく言ってくる。
ルカも出会った当初から、なにかと肉やらカロリーの高いおやつをトレイシーに食べさせようとするので、みんな同じ事したがるなぁとトレイシーは思っていたのだ。
だが、最近はそもそもの目的が違った事を知ったのだ。
細すぎるのを気にしていた事も否定はしなかったが、ルカはただ単純にトレイシーをもちもちにするのが目的だったと。だって抱き心地、触り心地がいいじゃないかと。
初めてそれを聞いた時、トレイシーはレモンでも丸齧りしたような顔になったものだ。私はあんたのぬいぐるみかと。当時は自分の感情に気付いてなかった癖に、そんな前から人の体型を操作しようとしてたのか。怖すぎる。
トレイシーは自身の体を見下ろして、首を傾げる。
「あんたの言うもちもちってどこ?変なとこじゃなきゃ別にいい」
「そうか、ありがとう!」
ルカはトレイシーの肩に手を置くと、流れるような自然な動作で顔を寄せ、はぐりと右の頬に齧り付いた。
一瞬の間のあと、トレイシーは何をされたかに気付き、全力で叫んだ。
「うぎゃああああああああああああ!」
「うるさっ」
トレイシーはルカを引き剥がそうとしたが、ルカがトレイシーを抱き込む方が早かった。腕を突っ張る隙間もないので、トレイシーは拳を握ってルカの胸を叩くくらいしか出来ない。
「何すんの何やってんの何考えてんのあんた!」
「ん?左の頬が良かったかな?」
「そこじゃない!なんでほっぺ⁈」
「もちもちしてるじゃないか」
そう言ってルカはトレイシーの頬を撫でる。トレイシーの頬は、殊更ルカが気に入ってる部位だ。丸くて可愛いし、突きたいしキスしたいし触り心地がいい。
今は少しばかりやつれてしまっているし栄養不足で肌艶もよろしくはないが、それでもやっぱりお気に入りの部位なのだ。
「君がいいって言ったんじゃないか」
「い、言ったけども!ほっぺ狙われるとは思ってなかったの!もっと腕の内側とか、そう言う骨が無いとこだと」
「ああ。じゃあ次はそこにしようか」
「次⁈次ってなに⁈」
騒ぐトレイシーを他所に、ルカはいそいそとトレイシーの腕を掴んでニットの袖を捲り上げる。二の腕の感触を確かめているルカがにんまりと笑うので、トレイシーは慌てて袖を下ろす。
「何をするんだ」
「こっちの台詞!なんでまだ噛もうとしてんの⁈」
「私が噛まれたのは四箇所だよ?」
「あと三回噛むつもりなの⁈」
「うん」
「待って、聞いてないけど⁈」
「今聞いたじゃないか」
「ちょ、ダメって言って」
「………………」
ここまで来て、またもやもだもだと抵抗を始めたトレイシーに、ルカの眉間に皺が寄る。流石に我慢の限界だ。
ルカは袖を抑えるトレイシーの手を掴むと、手首の内側に噛みついた。跡は残らない程度に、がじがじと歯を立てる。
「ひぎゃっ!」
ルカの思わぬ反撃に驚いたトレイシーは腕を隠すように身を縮め、くるりとルカに背を向ける。アルマジロやハリネズミと言われる、トレイシーの防御の癖だ。少なくとも本人はこれで自身を守れているつもりなのだ。
しかし、今は悪手だった。
ルカはトレイシーが動けないように腰に腕を巻き付けると、襟足の髪を掻き上げた。あ、まずいとトレイシーが気づいた時には首の後ろにルカの息がかかる。
「ま、待って!」
「嫌だ」
ルカはぶっきらぼうにそう言い捨て、ニットのハイネックを引き下げ、トレイシーの頸に食らいついた。約束した通りに跡は残らない程度に、しかししっかり痛みは感じる強さで。
「ふぎゃ⁉︎」
「…………」
一度で終わらず、二度、三度と歯に力を入れる。少し苛立った気持ちでやった意地悪だったが、噛むたびに猫の子の様な悲鳴がトレイシーの口から漏れるのが楽しい。
四回噛んだところで解放してやると、トレイシーはハイネックを唇まで引き上げ、潤んだ目でルカを睨み上げる。
「そ、そんなに怒ることないじゃん!」
「怒ってはいない、少し苛立っただけで」
「痛くした!」
「痛い?そんなに貧弱じゃないと君が自分で言ったんじゃないか。違ったのか?」
「そ……れは言ったけど!」
「跡は残してないよ。でもそうか、痛かったと。じゃあ次は気をつけよう」
「うう……まだやるの」
「もちろん」
四箇所とルカは言ったのだから、あと一箇所だ。こういう時、この男は絶対に譲らない。
ハイネックを引き上げたまま、次はどこにするつもりだろうとトレイシーが警戒していると、ルカが自身の首を指す。ガーゼで覆われた首筋を撫で、にっこりと笑う男にトレイシーはさあ、と青褪める。
「トーレーイーシー?」
ぶんぶんと首を横に振るトレイシーだったが、ルカは眼差しだけは甘ったるいまま、手は有無を言わさずトレイシーの両手首を掴む。
「ほら、諦めて」
「ほ、他のとこにしようよ……!」
「やあだ。ここがいい」
「うううう……」
一歩も譲る気のないルカに、トレイシーの抵抗は無駄だった。ニットの襟を引き下げ、顎を上向きに固定されればルカの前に首を差し出す形になる。
トレイシーは早く終わらせてほしい一心で、ぎゅっと目を閉じている。無駄な抵抗をして数回噛まれる羽目にあったので、今回は大人しく待つつもりだ。
刑の執行を待つ気分なトレイシーとは違い、ルカは楽しくて仕方がない。びくびくと小動物の様に怯えているトレイシーが可愛いし楽しい。もうちょっといじめたい気持ちもあるが、あまり引き伸ばすとトレイシーの機嫌を損ねてしまうかもしれない。
ルカはトレイシーの首筋に顔を寄せ、くわりと口を開いた。
「……………………」
「?」
首に感じる吐息に、噛まれると身構えたトレイシーだったが、恐れていた感触はなかなかやって来ない。
――何してるんだろ?
トレイシーは不思議に思いながらそろそろと瞼を開く。すると、暖かい、濡れた感触が首を撫でた。
「ひあ⁈」
思わず口から変な声が漏れる。トレイシーは慌てて逃げようとしたが、顎はしっかりとルカに掴まれたままだ。
もう一度同じ感触が首筋を撫でる。先程の様子見のソフトタッチとは違い、今度はしっかりと触れてくるそれの正体にトレイシーは気付く。これはルカの舌だ。
「ちょ、うひゃうっ!噛むんじゃなかったの⁈」
「んー?」
「舐めるな舐めるな!もういいでしょ!」
幾度も首筋を辿る舌の感触に耐えられない。手探りでルカの顔を引っぺがし、トレイシーは手のひらで首を擦る。まさか舐められるとは思っていなかった。というか何を考えているんだ、こいつは!
ルカはぺろりと口元を舐めて、うんと頷く。
「君の言う達り、しょっぱいけど美味しい」
呑気に味の感想を言っているルカに怒りか羞恥か、トレイシーは自分でもわからない感情で顔が熱くなる。
「もう!もう!なんで変なことばっかするの!なんでそんないやらしいことばっか思いつくのあんたは!それが嫌って言ってるのに!」
「痛いって言うから痛くない方法にしたのに」
唇を尖らせ不満気にしているルカは、「君の言う通りにしたのに」と言わんばかりだ。トレイシーは目くじらを立てる。
「そんな拗ねたふりしたって、騙されないんだから!あんた途中から私が喚くの楽しんでた!誤魔化し方まで犬に似なくていいんだよ!バレてるし」
「犬……?確かに君の鳴き声は楽しいと思っているが、痛くない方法だったのも事実じゃないか」
「百歩譲って、あれが善意としてよ。あんな、執拗に舐める必要がどこにあったの……!」
態とらしいほどゆっくりとじっくりと、首を舐られた感触が抜けない。トレイシーは首をしつこく擦る。
あの時ルカがどんな顔をしていたかは分からないし、知りたくもない。けれどあの、ネズミを嬲る猫の顔をしていた筈。ルカが嬉々としてトレイシーを追い詰め、いじめる時に見せる顔だ。
前はもう少し上手く隠していたのだが、関係が長くなるにつれてルカはそう言う面を隠さなくなってきた。遠慮がなくなるのは仲がいい証の様で嬉しいとは思う。思うが、ルカの場合はこちらの不安を煽るのであんまり見せないでほしいのがトレイシーの本音だ。
「あんた五回六回舐めてたじゃん……!絶対必要なかったよね」
「止められるまではいいかなと」
「良くないよ?節度があるでしょ」
「私の節度だとまだいいかなと」
「あんたのは節度じゃない!あんたの物差しは全部狂ってる!」
「……トレイシー、皮が剥けてしまうよ」
ルカを責めている間も、ずっとトレイシーは首を擦っていたので皮膚が赤くなってしまっている。流石に痛々しいので、ルカはトレイシーの手を掴んで擦る動作を辞めさせる。
「あーあ、真っ赤じゃないか。そんなに嫌だった?」
「あ、あんたが無駄にエロい事するから!ルカが悪いの!」
ぎゅっと目を瞑ってそう叫ぶトレイシーの顔は真っ赤だ。怒ってはいるが、嫌だとは言っていない。
きゃんきゃん吠えて恥ずかしいのを誤魔化すトレイシーは本当に可愛い。ルカはうっかりと吊り上がってしまう口元を誤魔化すようにトレイシーを抱きしめる。
「わわっ」
「君は私が悪いと言うが、私から言わせれば、美味しそうに見える君がいけない」
「だから、その美味しそうってなんなの……」
「んー?」
「ちょっと」
生返事をするルカは、すりすりと金色の頭に頬擦りをしている。抗議の意を込めてトレイシーが腕を叩いても反応は変わらない。これは、答える気がないなとトレイシーは口を引き結ぶ。
ウサギのルカも「美味しそう」と同じ事を言っていた。どういう意味なのか問い正すチャンスと思ったのに、どうもこの様子だと「友人」には通常言わない内容なのだろう。
ならば、しつこく聞くのはトレイシー自身の首を絞めることになりかねない。藪蛇でルカに変なスイッチが入られても困る。
くすくすと笑いながら、すっかりといつもの調子に戻ったルカは上機嫌で、トレイシーは一人で血の味やらルカが美味しいと感じた事やらと思い悩んでいた全てが馬鹿馬鹿しく思えて来た。
――当の本人が覚えてないのに、何で私が罪悪感を覚える必要があったんだか。
それに、やっぱりルカが「更新」の事を忘れていて良かったのだ。
わざと深傷を負い、その罪悪感でトレイシーを操ろうとする。巧妙に隠していたあの本性を曝け出したとあっては、きっと開き直る。開き直って「じゃあ遠慮はいらないな」と来るに決まっている。
今ですらこんなに翻弄されていて、本当にギリギリ耐えている状態だ。その危険を回避できた事を喜ぶべきだと思う。
「ううん…………」
「どうかしたかい?」
腕の中ですっかりと大人しくなってしまったトレイシーの顔をルカが覗き込む。先程までぎゃいぎゃいと抵抗していたのにどうかしたのだろうか。
トレイシーはじっとルカを見つめ何かを考え込んでいる様子だったが、徐に屈み込むとジャンプしてルカの顎下に頭突きを繰り出す。
「あだっ!」
まさかトレイシーがそんなことをするとは思っていなかったルカは、トレイシーに合わせて背を丸めていたのが災いした。
綺麗に頭突きを決められたルカは涙目で顎を抑える。
「うん、気が済んだ」
「な、何をするんだ」
「やられっぱなしは気に食わなくて」
痛がるルカの姿に漸くトレイシーは溜飲が下がった。この男は隙を見せるとつけあがるんだから、弱気じゃ駄目だ。全部こいつが悪い。そう思っておこう。
そしてあの「ウサギ」の溢した本性は胸の奥にしまっておこうと心に決める。どうせ、もうあのルカに会うことはもう無いのだから。
8/9ページ
スキ