ウサギとオオカミ

ナイチンゲールが戻ってきたのは、イライの部屋の騒動から一時間経った後の事だった。
すんなりと「更新」が済んだので、異変はたった数時間の出来事で終わったのだった。ただ、その異変による怪我人は二人出てしまった。一人は自業自得だがもう一人は完全なるとばっちりだった。
トレイシーはそのとばっちりの被害者である男に深々と頭を下げた。
「ごめん。本当にごめん。ナワーブ」
「もういいって言っただろ。あれは仕方ねえって」
ベッドに寝転んだナワーブは、すっかりとだらけた様子でそう返す。
あの場は脳震盪を起こして気絶したものの、幸い後遺症もきたすことはなかった。クローゼットの角で切った頭の傷も大した事はなかったが、背中の打撲は酷かった為、このまま数日は安静にするようにとエミリーに言い渡されている。
「まー、突然湧いた休日だと思ってのんびりするだけだ」
「お陰でこっちはゲームが大忙しだけどな……」
「うう、ホセもごめん」
ナワーブがゲームに出れない分、救助に強い他のメンバーがその分出動しなくてはいけない。
正気ではなかったとはいえ、ナワーブにこの傷を負わせたのは自分だ。トレイシーは益々身を小さくして謝るしかない。
そんなトレイシーの肩に、イライはそっと手を置く。
「まあまあ。そんなに自分を責めないでよ」
「うう、そう言うけどイライの部屋も結局血だらけにしちゃったし……」
「いやー、本当にトレイシーの言う通りになるとは思ってなかったよ。すぐ綺麗にしてもらえたけどね」
「ああ、そちらは本当に大変だったんだな」
「そりゃあもう。大騒ぎだったんだ」
「一生分の運動した気分だったよ私は」
「小さい生き物って大変なんだなって僕は思い知ったよ」
遠い目をしている三人に、自分はカメに変わってて良かったとホセはこっそりと思う。庭でカピバラの耳が生えたカートと日向ぼっこをしている間に、実に平和に異変が終わったのだ。
「もう、オオカミは本当になりたくない。あんなに大変な目に遭うなんて」
心底うんざりした顔でそう嘆くトレイシーに、イライとナワーブは「いやいや」と否定する。
「それ十中八九、ルカのせいだろ」
「あんな本気で捕食者追ってくる草食動物がバルサーさんの他にいる訳ないよ、普通」
「あー、そういえばそのルカ本人はどうしたんだ」
ホセはずっと気になっていた事を尋ねた。
これだけ広い荘園の中、数日会わない人間がいる事も珍しくはない。
だが一昨日からあの囚人服の男を全く見ていない事が少しだけホセには引っかかっていた。ゲームの予定にも名前がなければ食堂でも姿を見ない。普段は気付けば幽霊の様にトレイシーの後ろに立っている事もあるのに、それもない。
「…………」
「…………」
「?」
ホセの質問に、イライとナワーブは気まずげに顔を見合わせると、そろそろとトレイシーに視線を送る。この二人がそんな反応をするとは珍しい。
聞いては悪いことだったのかとホセが少し不安に思っていると、トレイシーがぶっきらぼうな声で話出す。
「ルカなら、医務室にいるよ」
「医務室?怪我でもしていたのかい?」
「怪我、はしてたな」
「怪我の処置も必要ではあったよね……」
「?意味深だな」
奥歯に物が挟まったような物言いをする二人は、ちらちらとトレイシーを気にしている。そしてトレイシー本人はといえば、憮然とした顔で腕を組んでいる。
おかしな態度の三人に、ホセは質問を変えてみる。
「今度は、何をしでかしたんだ?ルカは」
「えっと……しでかした、というわけじゃないんだけど」
「なんつうか、タイミングが悪いっていうか……」
「さっきからはっきりしないな。一体何があったんだ」
「バチバチ静電気と火花撒きすぎて頭がオーバーヒートして酷い頭痛で倒れたの」
トレイシーは部屋の窓を睨みながら、普段より一段低い声を出している。機嫌の悪さをどうにか押し殺そうと努力しているようだが、上手くはいっていない。
「それで、一日経ったらまた記憶飛ばしてたの。『更新』の間の事もね。だからあの騒動なんにも覚えてないらしい」
「ああ……」
ぎり、と歯軋りするトレイシーに、ホセは額を覆った。
ナワーブの負傷もイライの部屋の惨状も、全ての元凶と言ってもいい男がそれなのか。
――それは、なんというか。
「タイミングが、悪すぎるな」
「そうでしょ」
トレイシーはぐしゃぐしゃと髪を掻き毟り、ほうと息をついた。
覚えていない相手、況してや怪我人に憤りをぶつけるわけにもいかないのだろう。気の毒に、トレイシーは感情のやり場を失ったわけだ。
今、顔を見たら怒鳴らずにいられる自信がないと言って、トレイシーはルカには会いに行っていない。一先ずこの感情が落ち着くまでは会わない方がいいとの判断なのだとか。
それに、トレイシーは今回の異変のせいで、他にも迷惑を被っている事があるのだ。
イライは黙り込んだトレイシーの顔を覗き込む。
「トレイシー、食事は相変わらず?」
「……うん。でもチキンスープならちょっと飲める」
「肉料理は試してみたかい?」
「えっと、餃子は食べられた。一個だけど」
「餃子、まあ確かに肉料理ではある」
「他は?」
イライの問いに、トレイシーは首を横に振る。それが限界という事だ。
トレイシーはあの噛みつき事件以降、食事をしようとするとルカに噛みついた時の事が浮かぶ様になった。血を美味しいと感じ、もっと肉をと求めた事を思い出し、そう感じた自身を気持ち悪く感じてしまう。肉を前にすると、もう駄目だ。耐えられなくなる。
顔を曇らせているトレイシーに、ホセは気遣わしげに声をかける。
「トレイシー、顔色が良くない。これではナワーブとどちらが見舞われてるのか分からない」
「まあ、俺は寝てるだけだからな。お前も本調子じゃないんだろ。ちゃんと食えるもん食って休め」
「…………うん」
ナワーブに促されるがままに、トレイシーは部屋を後にした。見舞いに行った筈の怪我人にまで心配されては、本末転倒だ。
トレイシーがまともに食事が出来ていないのは事実だ。それでも、水以外を口に出来なかった一昨日に比べれば、大分ましになってきたのだが。
事情を知っている面々からは無理のない範囲でいいから、三食きちんとなにか食べる様にと言われている。心配からの発言なのは分かっているのだが、何食か抜いても気にしないトレイシーとしては、無理してまで食事をするのは少し面倒と感じているところもある。
ルカに噛みついた記憶もそのうちに薄れるだろうし、それまでスープだけでもいいんじゃないかとすら思っている。元々、世話焼き達が構わなければトレイシーはそれで生活出来ていたのだ。だったら大したことはない筈。
トレイシーはそう高を括っていた。
しかし、食べないのと食べられないのでは大きな差がある。トレイシーは「更新」の前日も夕飯を抜いていたのだ。空腹を誤魔化すのにも限界がある。ホセが言っていたトレイシーの顔色の悪さは決して大袈裟ではなかった。
階段を降り始めたトレイシーは、突然目の前が暗くなる感覚に襲われ、よろめいた。以前、よく起こしていた栄養不足の貧血だ。咄嗟に手摺に手を伸ばしたが、掴み損ねる。
「あっ……」
踏み出した足の下にはなにもない。ぐらりと傾ぐ体に腹の底が冷たくなる。
――しまった、落ちる!
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