ウサギとオオカミ
――と、高を括ってたトレイシーは、現在屋根の上で頭を抱えている。
「うう……なんでこうなった」
当初計画していた空き部屋に閉じ籠る作戦は失敗だった。いや、失敗ではなく、実行出来なかったというのが正解か。
トレイシーが予想していたよりも早く、ルカは拘束を解いてしまったのだ。準備を整える前にルカが迫って来るので、トレイシーは隠れる間もなく逃げ回るしかなくなってしまった。
そしてトレイシーは知らなかったのだがウサギの瞬発力はオオカミの脚力を上回るのだ。持久力が無いのですぐ失速するのだが、それでも不意を突かれれば追いつかれてしまう。
普段はハンターの接近になかなか気付かない癖に、追う側になったルカは兎に角厄介だった。ウサギの能力なのかルカの執念なのかは分からないが、僅かな痕跡も見逃さずにトレイシーを追いかけてくる。
「もおおお……どうすればいいの」
「何を悩んでるんだい?トレイシー」
「!イラ……ん?」
背後からの呼びかけにトレイシーが振り返るも、声の主の姿はどこにもない。きょろきょろとトレイシーが当たりを見回していると「こっちだよ」という声が下から聞こえる。
トレイシーが視線を落とすと、一匹のリスが丸い目でこちらを見上げている。リスはトレイシーと目が合うと元気に「きき!」と鳴き声を上げる。
「やあ、なにか困り事かい?」
「……………………困ってるというか困惑してる。イライだよね?」
「うん」
「リス、だけど」
「起きたらリスだったんだよ」
「全身変わってる人もいたんだ……」
トレイシーはすぐに自室に閉じこもっていたので、ルカと猫の耳が生えたノートンくらいしか異変組に会っていなかったのだ。だからハムスターに変化してしまったビクターの騒動を知らない。
リスに変わってしまったイライを見ながら、自分が全身オオカミになっていたらと想像してトレイシーは身を震わせた。ルカがウサギでも危なかった。きっとオオカミになった自分がぱくりとやってしまえば、なにも後に残らなかったに違いない。
――そう考えたら今の方がマシ、ではあるかも。
イライは物思いに耽っているトレイシーが組んだ胡座によじ登り、スカートの上に落ち着くと頬袋から取り出した木の実を齧り始める。
「……そんなになってもマイペースだね、イライ」
「一生このままなんて言われたら話は違うけど。一時的なものと分かっているから慌てる必要もないじゃないか」
「まあ、それはそうだけど。リスの生活満喫し過ぎじゃないかなって」
「うん。異変が止むまで僕も部屋で大人しくしてたかったんだけど、あの子が可哀想でね」
「あの子って、梟ちゃん?」
「知ってるかい、トレイシー。梟ってリスを食べるんだよ」
「………………なるほど」
――それは、部屋に篭っていられないわ。
トレイシーも納得するしかない理由だった。あの賢い鳥ならば、イライをパクリといく事もないだろうが、それでも気にはなってしまう筈。
リスは木の実を抱えて、遠くを見つめている。
「僕を視界に入れないよう、入れないように頑張ってるけど、偶にちらっと見て悲しそうに鳴いてる姿がさ……」
「想像させないでよ、可哀想過ぎて涙出て来た」
なんて健気な梟だろう。他人事ではないトレイシーは、イライの梟に同情してしまう。気持ちはよく分かる。
イライはそうやって頑張っている相棒が哀れ過ぎて、異変が終了するまではと外で生活することにしたらしい。トレイシーはそのイライの行動にも感激した。
「くっ……イライも梟ちゃんもなんていいコンビなの……!それに引き換えあの青タン男……!」
「あ、お困りの原因やっぱ彼なんだ」
木の実を食べ終わったイライは、今度はのんびりと毛繕いを始める。人間に戻る気はあるかと問いたくなるくらい、イライはリスに馴染んでいる。
拳を握って歯軋りしているトレイシーに、イライは不思議に思っていたことを聞いてみる。
「トレイシー、ところでその可愛い格好にはどんな意味があるんだい?見た感じ、おしゃれのつもりじゃないよね」
トレイシーが身に纏っているのはアプリコットカラーに白のフリルがついた、お菓子の刺繍が特徴的なワンピースだ。
イライが見上げる先にはオオカミの耳と「キャンディー少女」の猫の耳のカチューシャが並んでいる。トレイシーの頭の上にある四つの耳は、場所が重なっているせいでとても不恰好に見える。今、着飾るつもりならこの服だけは避けるだろう。
トレイシーは指先で頬を掻きながら、苦笑いを浮かべる。
「そう。よく分かってるじゃん。これはね、私が持ってる服の中で一番着た数が少ない『私の匂い』がしないやつを選んだんだよ。この服自体に甘いお菓子の匂いがついてるし、丁度いいかなって」
「匂い?どうしてだい?」
「話すと長くなるんだけど」
首を傾げているリスに、トレイシーはオオカミになった自分がしでかしてしまった出来事と、ウサギになったルカの窓からの訪問について話して聞かせる。
そしてそこから始まった追いかけっこについての話になると、イライは執拗なルカの追跡に「うわあ」と声を漏らす。
「ウサギだから耳がいいのかと思ったんだけど、どうもルカの場合は鼻がいいらしくて。どこいても嗅ぎつけて来るんだよねえ。昨日シャワー浴びるのサボった私が悪いんだけどさ……隙見て水浴びしてみたんだけど全然ダメで。だからルカが嫌いなものの近くにいるのが一番安全だったんだけど、当人にこれきりにしろって言われちゃったし」
トレイシーは肘をついて不満気に溜息をつく。
何の確執があるかまでは知らないが、ルカとアルヴァは不自然なくらいに互いを存在しないものとしている。しかしルカが時折見せる憎悪の眼差しは誤魔化しきれない。
トレイシーがアルヴァのマントを強奪している間はルカが全く近づいて来なかったので確実な有効打だったのに、禁止されるとは本当に残念だ。
マントを借りている時間をただの休憩だけでなく「囮」の準備に充てられたのは大変に助かったのだが。
「それで、その服着てると」
「そう。ちょっとは匂いが紛れるかなーって」
トレイシーがスカートの裾を摘み上げると、甘い香りがふわりと広がる。といってもルカに効いているのかどうか。
普段着ている作業着は、全て「囮」に使っている。しつこかったルカの追走が止んだところを見るに、匂いを誤魔化すよりも上手く翻弄出来ているようだ。
しかしそれもいつまで効くのかは分からない。トレイシーは眉間に皺を寄せる。
「捕食者側がこんなに気を使ってるのに、どうしたらいいんだか。イライも梟ちゃんもお互いに気を使ってるのになんであの男はああも身勝手なんだろう」
「発情してるからじゃない?」
自身の尻尾の毛を舐めて整えながら、マイペースなリスはさらりとそう答える。トレイシーは、イライが言った言葉の意味を理解するのに数秒を要した。
「………………イライくん?」
「うん?」
「今、なんて?」
「あ、聞こえなかったかい?発情してるんじゃないかなって」
「誰が」
「バルサーさんの話してたじゃないか、他に誰がいるんだい」
「イライ?やっぱ頭もリスになってる?自分が何言ってるか分かってる?」
「僕が身も心もリスになってるのは間違いないけど言ってることは至って普通の事だよ。話を聞く限り、彼の行動はウサギの発情期の行動そのものなんだよ」
「ウサギの発情期……」
「落ち着かない、匂いに過敏なくらい神経質、無意識に放電するのは威嚇、攻撃的だろう?君に執着してるのは甘えてるってとこかな。まあ、ここはウサギというよりバルサーさんの元々の行動が影響してる気がするけど。情緒が不安定なのもそれが原因じゃないかな」
「待って待って、どこの世にオオカミに発情するウサギがいるっての?」
「トレイシー、まずその前提が間違ってるんだ。僕らは自分を人間だと思ってるし、君らを動物として見ていない。だから捕食者として見れてないんだ。僕は相棒が辛そうだから自己判断で出て来ただけで、あの子が脅威だと思ったわけではないんだ」
「…………………………って事は、私がルカを美味しそうなウサギとして見てるって言ってるのが、本人に正確に伝わってない?」
「そうなるね。トレイシーがあんまり長い期間、バルサーさんにイヤイヤし過ぎたせいで、オオカミだって事を言い訳に利用してるだけって思ってるかも。バルサーさんは多分君の事を可愛い犬の耳がついてる程度の認識でしか見てないよ」
そう言って顎を摩るリスに、トレイシーは目眩を覚えて額を抑えた。
確かにイライの言う通りなのだ。告白されてからずっと、怪しい雰囲気になるとはあらゆる言い訳を使って逃走して来た。仮病も嘘の約束も、思いつく限りの理由をつけて。
オオカミ少年という童話があるが、まさか自分が童話通りの事態になってしまうとは思っていなかった。
「でも、怪我させてるんだよ?噛んだのは本当だし」
「食いちぎるくらい大事になってれば別だけど、彼痛みに強いみたいだから戯れて噛まれた程度に思ってるかも」
「ぐっ……」
イライの言葉にトレイシーは思い当たる節があった。ルカは怪我をした瞬間は反応しても、怪我をした事を忘れていることが多い。頭痛の発作のせいなのか、慢性的な痛みに慣れてしまう様だ。
噛まれた時の記憶が無いと言っていたから、「拒絶か」と情緒不安定に詰め寄って来た事もトレイシーの豹変も当人は覚えていないのだろう。
このまま逃げ続けるしかないのかとトレイシーは首を振り、肩を落とす。ルカが本気にしていないとしても、こちらは捕食者の性を抑える事は出来ないのだ。
「早く戻って来てぇ、ナイチンゲールさん……」
「僕も困るから早く『更新』終わって欲しい」
トレイシーの膝の上で同じく頭を垂れたイライがそうぼやく。リスっぽい動きをしているとはいえ、イライもやっぱり野生生活は辛いようだ。
トレイシーはふと、気になった事をイライに尋ねてみる。
「イライ、その状態でも占いって出来るの?」
「ああ、出来ると思うよ」
「だったら、ルカが今どこいるか見てくれる?」
「はいはい。バルサーさんね」
イライはトレイシーの頼みを二つ返事で引き受ける。目を閉じたリスをトレイシーは静かに見守る。
オオカミの聴力も嗅覚も、普段の比にならないくらい強力だ。しかしそれを使うのは人間のトレイシーなので、常に気なんか張っていられないし、確認出来る距離も高が知れている。ウサギの探知能力もどのくらいのものかが分からないので下手に近づいて、ルカの動向を窺うことも出来ない。
だからイライの能力に頼ってみたのだが、果たしてトレイシーが仕掛けた「囮」は上手く機能しているだろうか。
どきどきとトレイシーが祈るような思いで見つめる中、イライは目を閉じたままゆっくりと首を傾げていく。
「うーん……」
「なに?能力使えなかった?」
「見えては、いる。バルサーさんの頭に雄鶏が乗っかってる」
「雄鶏?なんで?」
「なんでだろうね」
イライの力は見るだけの力なので、詳細な事までは分からない。
ゲームフィールドのロッカーの前で、四つん這いで地面を見ているルカの頭にニワトリが鎮座している。視点が自身に戻ってくる直前に、ルカが顔を上げて何か話していたのでもしかすると他にも誰かいたのかもしれない。
「ロッカーの前で落ち込んでるって事は分かったけど」
「ふーん、ロッカー。場所、何処とか分かる?」
「馬とスタートゲートが見えたし、競馬場かなぁ」
イライの言葉に、トレイシーは「そう」と返す。にやにやと緩んでしまう頬を抑えられない。
ロッカーの前にいるという事は、ルカはうまいことトレイシーが仕掛けた「囮」に翻弄されている様だ。
クレイバーグ競馬場はサバイバーの居館からも、ハンターの居館からもそれなりに離れている。そんなとこにルカがいるなら、潜伏場所を確保出来そうだ。
トレイシーはリスを両手で掬い上げる。
「イライ、自分の部屋に戻れないでしょ。ここにはカラスもいるし危ないから安全な場所を提供してあげる」
「……その代わりに何かして欲しいことがありそうだね」
「さすが!分かってるね。ずっと気を張ってるのにも限界があるから、時々ルカの動向を見張って欲しいなって。このままだと落ち落ち休んでもいられないし」
「ああ、そのくらいなら構わないよ」
イライはトレイシーの腕を登って肩に収まる。イライにもありがたい提案だった。トレイシーがルカとの追いかけっこに疲れているように、イライも屋外での活動とカラスやミミズクと言った脅威への警戒に疲労を感じていたのだ。
協力者を得たトレイシーは軽い足取りで屋根からバルコニーに飛び降り、移動を開始する。そうと決まったら籠城の準備だ。急がなくては。
「あ、トレイシー。一個だけお願いしたいんだけど。後であの子の様子だけ見に行ってくれないかな?僕のことは心配いらないって伝えて欲しいんだ」
「いいよー」
「うう……なんでこうなった」
当初計画していた空き部屋に閉じ籠る作戦は失敗だった。いや、失敗ではなく、実行出来なかったというのが正解か。
トレイシーが予想していたよりも早く、ルカは拘束を解いてしまったのだ。準備を整える前にルカが迫って来るので、トレイシーは隠れる間もなく逃げ回るしかなくなってしまった。
そしてトレイシーは知らなかったのだがウサギの瞬発力はオオカミの脚力を上回るのだ。持久力が無いのですぐ失速するのだが、それでも不意を突かれれば追いつかれてしまう。
普段はハンターの接近になかなか気付かない癖に、追う側になったルカは兎に角厄介だった。ウサギの能力なのかルカの執念なのかは分からないが、僅かな痕跡も見逃さずにトレイシーを追いかけてくる。
「もおおお……どうすればいいの」
「何を悩んでるんだい?トレイシー」
「!イラ……ん?」
背後からの呼びかけにトレイシーが振り返るも、声の主の姿はどこにもない。きょろきょろとトレイシーが当たりを見回していると「こっちだよ」という声が下から聞こえる。
トレイシーが視線を落とすと、一匹のリスが丸い目でこちらを見上げている。リスはトレイシーと目が合うと元気に「きき!」と鳴き声を上げる。
「やあ、なにか困り事かい?」
「……………………困ってるというか困惑してる。イライだよね?」
「うん」
「リス、だけど」
「起きたらリスだったんだよ」
「全身変わってる人もいたんだ……」
トレイシーはすぐに自室に閉じこもっていたので、ルカと猫の耳が生えたノートンくらいしか異変組に会っていなかったのだ。だからハムスターに変化してしまったビクターの騒動を知らない。
リスに変わってしまったイライを見ながら、自分が全身オオカミになっていたらと想像してトレイシーは身を震わせた。ルカがウサギでも危なかった。きっとオオカミになった自分がぱくりとやってしまえば、なにも後に残らなかったに違いない。
――そう考えたら今の方がマシ、ではあるかも。
イライは物思いに耽っているトレイシーが組んだ胡座によじ登り、スカートの上に落ち着くと頬袋から取り出した木の実を齧り始める。
「……そんなになってもマイペースだね、イライ」
「一生このままなんて言われたら話は違うけど。一時的なものと分かっているから慌てる必要もないじゃないか」
「まあ、それはそうだけど。リスの生活満喫し過ぎじゃないかなって」
「うん。異変が止むまで僕も部屋で大人しくしてたかったんだけど、あの子が可哀想でね」
「あの子って、梟ちゃん?」
「知ってるかい、トレイシー。梟ってリスを食べるんだよ」
「………………なるほど」
――それは、部屋に篭っていられないわ。
トレイシーも納得するしかない理由だった。あの賢い鳥ならば、イライをパクリといく事もないだろうが、それでも気にはなってしまう筈。
リスは木の実を抱えて、遠くを見つめている。
「僕を視界に入れないよう、入れないように頑張ってるけど、偶にちらっと見て悲しそうに鳴いてる姿がさ……」
「想像させないでよ、可哀想過ぎて涙出て来た」
なんて健気な梟だろう。他人事ではないトレイシーは、イライの梟に同情してしまう。気持ちはよく分かる。
イライはそうやって頑張っている相棒が哀れ過ぎて、異変が終了するまではと外で生活することにしたらしい。トレイシーはそのイライの行動にも感激した。
「くっ……イライも梟ちゃんもなんていいコンビなの……!それに引き換えあの青タン男……!」
「あ、お困りの原因やっぱ彼なんだ」
木の実を食べ終わったイライは、今度はのんびりと毛繕いを始める。人間に戻る気はあるかと問いたくなるくらい、イライはリスに馴染んでいる。
拳を握って歯軋りしているトレイシーに、イライは不思議に思っていたことを聞いてみる。
「トレイシー、ところでその可愛い格好にはどんな意味があるんだい?見た感じ、おしゃれのつもりじゃないよね」
トレイシーが身に纏っているのはアプリコットカラーに白のフリルがついた、お菓子の刺繍が特徴的なワンピースだ。
イライが見上げる先にはオオカミの耳と「キャンディー少女」の猫の耳のカチューシャが並んでいる。トレイシーの頭の上にある四つの耳は、場所が重なっているせいでとても不恰好に見える。今、着飾るつもりならこの服だけは避けるだろう。
トレイシーは指先で頬を掻きながら、苦笑いを浮かべる。
「そう。よく分かってるじゃん。これはね、私が持ってる服の中で一番着た数が少ない『私の匂い』がしないやつを選んだんだよ。この服自体に甘いお菓子の匂いがついてるし、丁度いいかなって」
「匂い?どうしてだい?」
「話すと長くなるんだけど」
首を傾げているリスに、トレイシーはオオカミになった自分がしでかしてしまった出来事と、ウサギになったルカの窓からの訪問について話して聞かせる。
そしてそこから始まった追いかけっこについての話になると、イライは執拗なルカの追跡に「うわあ」と声を漏らす。
「ウサギだから耳がいいのかと思ったんだけど、どうもルカの場合は鼻がいいらしくて。どこいても嗅ぎつけて来るんだよねえ。昨日シャワー浴びるのサボった私が悪いんだけどさ……隙見て水浴びしてみたんだけど全然ダメで。だからルカが嫌いなものの近くにいるのが一番安全だったんだけど、当人にこれきりにしろって言われちゃったし」
トレイシーは肘をついて不満気に溜息をつく。
何の確執があるかまでは知らないが、ルカとアルヴァは不自然なくらいに互いを存在しないものとしている。しかしルカが時折見せる憎悪の眼差しは誤魔化しきれない。
トレイシーがアルヴァのマントを強奪している間はルカが全く近づいて来なかったので確実な有効打だったのに、禁止されるとは本当に残念だ。
マントを借りている時間をただの休憩だけでなく「囮」の準備に充てられたのは大変に助かったのだが。
「それで、その服着てると」
「そう。ちょっとは匂いが紛れるかなーって」
トレイシーがスカートの裾を摘み上げると、甘い香りがふわりと広がる。といってもルカに効いているのかどうか。
普段着ている作業着は、全て「囮」に使っている。しつこかったルカの追走が止んだところを見るに、匂いを誤魔化すよりも上手く翻弄出来ているようだ。
しかしそれもいつまで効くのかは分からない。トレイシーは眉間に皺を寄せる。
「捕食者側がこんなに気を使ってるのに、どうしたらいいんだか。イライも梟ちゃんもお互いに気を使ってるのになんであの男はああも身勝手なんだろう」
「発情してるからじゃない?」
自身の尻尾の毛を舐めて整えながら、マイペースなリスはさらりとそう答える。トレイシーは、イライが言った言葉の意味を理解するのに数秒を要した。
「………………イライくん?」
「うん?」
「今、なんて?」
「あ、聞こえなかったかい?発情してるんじゃないかなって」
「誰が」
「バルサーさんの話してたじゃないか、他に誰がいるんだい」
「イライ?やっぱ頭もリスになってる?自分が何言ってるか分かってる?」
「僕が身も心もリスになってるのは間違いないけど言ってることは至って普通の事だよ。話を聞く限り、彼の行動はウサギの発情期の行動そのものなんだよ」
「ウサギの発情期……」
「落ち着かない、匂いに過敏なくらい神経質、無意識に放電するのは威嚇、攻撃的だろう?君に執着してるのは甘えてるってとこかな。まあ、ここはウサギというよりバルサーさんの元々の行動が影響してる気がするけど。情緒が不安定なのもそれが原因じゃないかな」
「待って待って、どこの世にオオカミに発情するウサギがいるっての?」
「トレイシー、まずその前提が間違ってるんだ。僕らは自分を人間だと思ってるし、君らを動物として見ていない。だから捕食者として見れてないんだ。僕は相棒が辛そうだから自己判断で出て来ただけで、あの子が脅威だと思ったわけではないんだ」
「…………………………って事は、私がルカを美味しそうなウサギとして見てるって言ってるのが、本人に正確に伝わってない?」
「そうなるね。トレイシーがあんまり長い期間、バルサーさんにイヤイヤし過ぎたせいで、オオカミだって事を言い訳に利用してるだけって思ってるかも。バルサーさんは多分君の事を可愛い犬の耳がついてる程度の認識でしか見てないよ」
そう言って顎を摩るリスに、トレイシーは目眩を覚えて額を抑えた。
確かにイライの言う通りなのだ。告白されてからずっと、怪しい雰囲気になるとはあらゆる言い訳を使って逃走して来た。仮病も嘘の約束も、思いつく限りの理由をつけて。
オオカミ少年という童話があるが、まさか自分が童話通りの事態になってしまうとは思っていなかった。
「でも、怪我させてるんだよ?噛んだのは本当だし」
「食いちぎるくらい大事になってれば別だけど、彼痛みに強いみたいだから戯れて噛まれた程度に思ってるかも」
「ぐっ……」
イライの言葉にトレイシーは思い当たる節があった。ルカは怪我をした瞬間は反応しても、怪我をした事を忘れていることが多い。頭痛の発作のせいなのか、慢性的な痛みに慣れてしまう様だ。
噛まれた時の記憶が無いと言っていたから、「拒絶か」と情緒不安定に詰め寄って来た事もトレイシーの豹変も当人は覚えていないのだろう。
このまま逃げ続けるしかないのかとトレイシーは首を振り、肩を落とす。ルカが本気にしていないとしても、こちらは捕食者の性を抑える事は出来ないのだ。
「早く戻って来てぇ、ナイチンゲールさん……」
「僕も困るから早く『更新』終わって欲しい」
トレイシーの膝の上で同じく頭を垂れたイライがそうぼやく。リスっぽい動きをしているとはいえ、イライもやっぱり野生生活は辛いようだ。
トレイシーはふと、気になった事をイライに尋ねてみる。
「イライ、その状態でも占いって出来るの?」
「ああ、出来ると思うよ」
「だったら、ルカが今どこいるか見てくれる?」
「はいはい。バルサーさんね」
イライはトレイシーの頼みを二つ返事で引き受ける。目を閉じたリスをトレイシーは静かに見守る。
オオカミの聴力も嗅覚も、普段の比にならないくらい強力だ。しかしそれを使うのは人間のトレイシーなので、常に気なんか張っていられないし、確認出来る距離も高が知れている。ウサギの探知能力もどのくらいのものかが分からないので下手に近づいて、ルカの動向を窺うことも出来ない。
だからイライの能力に頼ってみたのだが、果たしてトレイシーが仕掛けた「囮」は上手く機能しているだろうか。
どきどきとトレイシーが祈るような思いで見つめる中、イライは目を閉じたままゆっくりと首を傾げていく。
「うーん……」
「なに?能力使えなかった?」
「見えては、いる。バルサーさんの頭に雄鶏が乗っかってる」
「雄鶏?なんで?」
「なんでだろうね」
イライの力は見るだけの力なので、詳細な事までは分からない。
ゲームフィールドのロッカーの前で、四つん這いで地面を見ているルカの頭にニワトリが鎮座している。視点が自身に戻ってくる直前に、ルカが顔を上げて何か話していたのでもしかすると他にも誰かいたのかもしれない。
「ロッカーの前で落ち込んでるって事は分かったけど」
「ふーん、ロッカー。場所、何処とか分かる?」
「馬とスタートゲートが見えたし、競馬場かなぁ」
イライの言葉に、トレイシーは「そう」と返す。にやにやと緩んでしまう頬を抑えられない。
ロッカーの前にいるという事は、ルカはうまいことトレイシーが仕掛けた「囮」に翻弄されている様だ。
クレイバーグ競馬場はサバイバーの居館からも、ハンターの居館からもそれなりに離れている。そんなとこにルカがいるなら、潜伏場所を確保出来そうだ。
トレイシーはリスを両手で掬い上げる。
「イライ、自分の部屋に戻れないでしょ。ここにはカラスもいるし危ないから安全な場所を提供してあげる」
「……その代わりに何かして欲しいことがありそうだね」
「さすが!分かってるね。ずっと気を張ってるのにも限界があるから、時々ルカの動向を見張って欲しいなって。このままだと落ち落ち休んでもいられないし」
「ああ、そのくらいなら構わないよ」
イライはトレイシーの腕を登って肩に収まる。イライにもありがたい提案だった。トレイシーがルカとの追いかけっこに疲れているように、イライも屋外での活動とカラスやミミズクと言った脅威への警戒に疲労を感じていたのだ。
協力者を得たトレイシーは軽い足取りで屋根からバルコニーに飛び降り、移動を開始する。そうと決まったら籠城の準備だ。急がなくては。
「あ、トレイシー。一個だけお願いしたいんだけど。後であの子の様子だけ見に行ってくれないかな?僕のことは心配いらないって伝えて欲しいんだ」
「いいよー」