ウサギとオオカミ
時は少し遡り――
マイクはあちこちで弾ける電気の火花に堪らず、元凶に声をかける。
「ルカ、これどうにかしてくれない?」
「すまない、私にも制御出来ないんだ」
「この静電気、バルサーさんの体調に関係しているのかしら。それともウサギの体調に関係があるのかしら。困ったわ。私も動物には詳しくないの。ウサギはストレスに弱いから扱いが難しい、って事くらいしか知らないのよね」
「ああ、すまない先生」
ルカは額を抑えたまま、苦笑いでそう答える。診察台から立ち上がれないところを見るに、余程酷い頭痛だったのだろう。ルカの頭痛に慣れているはずのトレイシーが、血相を変える程だったのだ。
トレイシーに頼まれた男連中とマイクがルカの部屋に来た時には、ルカは完全に意識を失くしていた。廊下に半身を出して倒れていたので慌てたが、ただ気絶していただけだったので安心した。
そしてみんなとルカを医務室に運んでる道中で、マイクはいつの間にかトレイシーが姿を消していることに気付いた。
――あんなにルカの事を心配していたのに、一体どこに行ってしまったんだろう。
「なんだか、吸血鬼にでも咬まれた様な傷ね」
ぐったりとしているルカの首と腕の傷を診ていたエミリーが首を傾げながら呟く。
歯型もあり血も出ているが、異様に鋭い犬歯が刺さって出来た傷はそこまで深刻なものではなさそうだった。しかし噛み跡は感染症の恐れがあるので、しっかりと洗浄はしなくてはならない。
「これ、人の歯型だと思うのだけど誰の仕業なの?」
「っ……分からないんだ。と言うか覚えていない」
ばち、と空中で電気が弾ける。ルカが呻く度に電気の火花が散るので、マイクは居心地が悪そうに首を竦めた。
「それ多分とれ」
「エミリー、お邪魔するわね」
マイクの言葉を遮り、医務室に入って来たのはマーサだった。室内を見回し、マイクとエミリー、ルカの顔を見て手元のボードに何かを書き込んでいる。
「マイクは変化無し、ルカはウサギの耳……と」
「なになに?マーサ今度はなに始めたの?」
マイクが興味津々でマーサの手元を覗き込むと、仲間の名前がずらりと並んでいる。その横に「確認」と変化の内容が書き込まれている。ウィリアムの横には「全身ダチョウ」、モウロの横には「全身イノシシ」と書かれている。他にも耳やら尻尾やら角が生えている仲間もいるようだ。それにしてもモウロ、いないと思ったらイノシシになってたのか。
「さっきね、ビクターが完全にハムスターになってた事が分かったのよ。でも彼喋れないじゃない。だからウィックが頻りに吠えてても私達気付かなくて。デミが犬の耳でウィックが何言ってるか分からなかったら危なかったわ……」
「それで全員の確認をして回っているの?」
「そう。ナイチンゲールがいつ戻るか分からないんだもの。その間に行方不明になられたら困るでしょう?」
ふう、と息を吐くマーサはすっかりとくたびれた顔をしている。
朝からダチョウになって走り回るウィリアムを追い立てたり、ゲームに出たりと忙しかったのだ。無理もない。
「そうね。アニーなら温室で見たわ。なんともなかったと思う。クレスさんも洗濯場で会ったけれど――」
エミリーはマーサの手元を覗き込み、空欄になっている仲間の名をいくつか指差す。
エミリーは行動範囲が広い上に、医者としてなるべく多くの仲間の健康状態を気にする様にしている。仲間全員の居場所を見つけるのは大変な手間なので、これでマーサもいくらか楽になる筈だ。
明らかに顔色が明るくなったマーサがボードを見て頷く。
「うん、大分埋まった!ありがとうエミリー!後はトレイシーとイライと……でも二人とも部屋にいなかったのよね」
「あ、僕トレイシーなら見たけど。耳ついてたけど人間だったよ。多分犬っぽいの」
「それならいいわ。トレイシーに小さい動物になられてたらあの部屋から見つけ出すのは至難の業だもの」
「確かに」
トレイシーの部屋は作業場を兼ねているので物が多い。あんなところでネズミにでもなられたら見つけ出せないだろう。
マイクがその様を想像していると、耳元でばちばちと大きめの音が鳴る。驚いて身を退け反らせると、今度は違う方向から同じ音が鳴る。先程よりも空気中の静電気の火花が増えている様だ。
「トレイシー……」
ルカがぼんやりとした顔で呟く。その様子が少しおかしい気がしたが、マイクはそれよりも先程言いかけた事を思い出し、エミリーに向き直った。
「そう、それでさっきの話に戻るんだけどさ。ルカ噛んだ犯人、トレイシーなら知ってるんじゃないかなあ。ルカが倒れてるって教えてくれたのトレイシーだし」
「あら、貴方達一緒にいたの?」
「………………覚えてない」
エミリーの問いに、ルカは頭を抱えて蚊の鳴くような声で答える。また、ばちんと青い火花が散る。
マーサは二人の会話に訝しげな顔になる。
「噛まれたってなに?喧嘩でもしたの?」
「それが、分からないのよ。バルサーさんは覚えていないって言うし、喧嘩で首の後ろなんて噛まないでしょう。だから何があったのかしらって」
困った顔で自身の頬を撫でるエミリーに、マーサは眉を顰めたまま項垂れたルカの首の傷を見やる。人の噛み跡にしては一部の傷が深い歯型。そしてマーサは手元のボードをもう一度見る。
「…………その傷、もしかしてトレイシーがやったんじゃない?」
「え?なんで?」
「私、このリスト作ってたから知っているけど、同じ動物になってる人はいないのよ。トレイシーが犬っぽいってさっきマイクが言ってたじゃない?でも犬はもうデミがなっているし、ウィックと会話してたから仲間なのは証明されてるのよ」
「確かにそうね」
「え?だったら僕が見たトレイシーは?ってかなんでそれでルカが噛まれてんの?」
「多分だけどオオカミとかジャッカルとかコヨーテとか、そういう類だったんだと思うのよ。で、まあそうなるとほら」
マーサがルカの頭上の耳を指差す。長いウサギの耳にマイクもエミリーも納得するしかない。オオカミ類にはウサギは捕食対象と言うわけだ。
朝からどんなに注意を受けても走り回るのをやめられなかったダチョウのウィリアムや、とにかく寝たがっていた猫のノートンも見ている。トレイシーはそれが食欲の方に向いているのだろう。
「それにねえ、この首の傷ってどう考えてもこんなのっぽの首に届く人間限られてるでしょう?だから寝てるルカの後ろから噛み付いたとしか思えない。だったらいっつも一緒にいるトレイシーくらいしかいないんじゃない?大方匂いに釣られて寝ぼけて噛み付いたとかそんなと」
「べハムフィール!」
マーサの名推理を遮り、バネ人形の様にルカが立ち上がった。その勢いのままマーサの手を取ると、先程までの項垂れ具合はなんなのかと思う様な明るい表情で笑う。
「そうか、そう言うことか!嫌われた訳ではなかった!」
「え?」
「ありがとう!ああ、こうしてはいられない。先生、失礼する!」
「あ、ちょっと!まだ治療は終わってな……」
エミリーが呼び止める間もなく、ルカは医務室から飛び出して行ってしまう。マイクが慌てて扉から顔を出すも、もうルカの姿は影も形も残っていなかった。
「ええ?はっや……!」
「ウサギって瞬発力凄いから。馬くらい早く走れるって聞いたわ。まあ、すぐへばるみたいだけど」
「へえ……」
マーサの豆知識にマイクが感心している後ろで、エミリーは盛大に溜息をついている。
「もう!抗菌薬も飲んで貰いたかったのに」
「あんなぐったりしてたから動けないのかと思ってたよ。ばちばち静電気もすごかったし。具合悪いせいなのかと」
「そうよねぇ。咬傷の影響で熱があるのかと思ったわ。そしたらあんなにぴんぴんしてるんだもの。異変が起きてる時は私もお手上げな事が多いわ。流石に獣医の知識はないもの」
エミリーがそう言いながら、金属のトレイに手を伸ばす。途端にばち、と大きな音が鳴る。
「きゃっ!」
「エミリー⁉︎」
「なんか今すごい音したけど⁉︎大丈夫⁉︎」
「なんでもないわ。ただ静電気に驚いただけ」
エミリーは笑ってそう答えたが、マイクは彼女が手を摩っているのを見て、嘘だなと思う。あの音からして、相当の痛みがあった筈だ。
――これ、ルカのせいだよなぁ。火花ばちばちさせてたし。
「電気ウナギじゃなくて電気ウサギとか、ジョークなら笑えるけど静電気ばら撒いて歩くのは勘弁して欲しいな……」
「何か起きたら困るわね。ルカは火元には近づけない様にしないと。全く、どこに行ったのかしら」
「あの感じは十中八九、トレイシーのところかな」
マイクは頭の後ろで手を組んで、天井を見やる。
さっきルカが嫌われた云々と言っていたところを見るに、覚えてはいないが自分を噛んだのがトレイシーな事はルカも気付いていたんだろう。ぐったりしていたのは体調というより、その事実にショックを受けていたからか。
――そういえば前に感情とか不満が溜まると電気が溜まるとか言ってたな。
ウサギはストレスを感じやすい生き物だというし、もしかするとストレス感じるとばちばちし出すとか?じゃ、ストレス感じる度に静電気をばら撒くって事?
マイクはうんざりとした顔でぼやく。
「……面倒な男が面倒な動物になったなぁ」
「え、なんか言った?マイク」
「ううん、こっちの話」
机に突っ伏し、自己嫌悪に陥っていたトレイシーは、オオカミの聴力が聞き取った音に体を起こす。
走る足音にガチャガチャと重なる器具の擦れる音。それがこちらに向かって来ている。すん、と鼻を動かせば微かに嗅ぎ慣れた匂いもして来た。
――ルカが来たっ!
トレイシーは慌てて立ち上がると、扉に走り寄って鍵をかけた。
トレイシーは部屋にいる時は大抵鍵を開けたままにしている。鍵がかかっている時は不在の時か寝ている時だ。鍵をかけて、居留守を使う事を決めたトレイシーは扉に凭れて息を潜める。
流石に二回も噛んでしまったのだから、身の危険を感じてルカも近づいて来ないのではと思ったのに、お構いなしの様だ。
ルカの気配はトレイシーの部屋の前にまでやってくる。トレイシーが息を殺してその様子を窺っていると、扉をノックされた。
「トレイシー」
「…………」
当然居留守を使っているトレイシーは返事をしない。ルカは数回ノックを繰り返し、それでも返事がないのでノブを掴み施錠されている事を確認する。
「いないのか……」
扉に張り付いていたので寂しげなルカの呟きを聞いてしまい、トレイシーはちくりと胸が痛んだ。しかし、これもルカの身の為なのだ。近くにいると食べたくなってしまうのだから、今は離れていてほしい。
口を両手で覆い、呼吸も慎重に。トレイシーは全ての動きを止めて完全に気配を消す。早く諦めてくれと願っていたが、ルカはなかなか立ち去ろうとしない。
「………………」
五分、いや十分は経っただろうか。ルカは微動だにしないので音はしない。だが気配で匂いで、そこにずっといるのはトレイシーには分かっていた。
――こっちはいないふりをしているのに、ルカは何を待っているのか。まさか、私が戻ってくるのを待っている?
どうしたものかとトレイシーが思っていると、ルカの気配が扉から離れていく。耳を澄ますとルカの足音が遠ざかっていくのが分かる。
漸く離れてくれた事に、トレイシーはほうと息をつく。
しかしあの様子だとここは安全とは言い難い。見つからなければまた戻ってくるだろう。
――近寄るの禁止って言ったのに聞いてなかったわけ?
トレイシーは扉を睨み、苛々と髪を掻き毟る。
ルカが頭痛の発作が原因で、すっぽり自分とのやりとりが記憶から抜け落ちているとは、まさかトレイシーも思わなかっただろう。覚えていたところでルカが守ったどうかも怪しいところではあるが。
もう暫く待って、そしたらどこか別の場所に移動した方がいいのかも。まだルカが付近を彷徨いているかもしれないし、下手に出ていって会ってしまったら面倒だ。
トレイシーはどこに身を潜めるべきかと考えながら、扉に耳を押し当てる。ルカの足音は完全に聞こえなくなった。けれど、まだ匂いはするので油断はできない。こう言う時、オオカミの嗅覚は便利だ。
「うーん……」
自室は扉の前に陣取られたら困るし、医務室は鍵がかかるけど使用する人に迷惑だろう。他の施設は出入りが自由だからすぐに見つかってしまいそうだし、人がいるところなら何かあっても止めてもらえるけれど、ルカ以外に食べたい欲求が出るかもしれない。一番いいのはルカを閉じ込める事だが、あんなヒョロガリに見えてもトレイシーは力では敵わないことは思い知らされている。
――こうなったら後でナイチンゲールさんに許してもらうとして、どこか空き部屋を借りてしまうか。
今適当に思いついた考えだったが、なかなか悪くない案な気がする。空き部屋の一つに日持ちする食料を持ち込んで閉じこもってしまえば、なんとかなるかもしれない。
トレイシーは一人で頷きながら屋敷の地図を脳内に思い浮かべる。散々バルクを追い回し、荘園の秘密の装置を求めて探索し回ったのだ。荘園の全容はわからないが、この本館の構造は全て分かっている。
ルカが知らなそうな場所なら心当たりもある。そこに潜伏しよう。
――それにしても、なかなかルカの匂いがなくならないな。
トレイシーがそう思っていると、室内がふっと暗くなる。まだ陽は高い時間なのに、天気が崩れたのかな?
トレイシーが振り返るのとギィ、音を立てて窓が開くのは同時だった。窓を塞ぐように屈んでいる囚人服の男とトレイシーはばっちりと目が合う。
考えに夢中だったトレイシーは周囲への注意が疎かになっていた。外の木を伝ってやってきたルカの気配に全く気付いていなかったのだ。
扉にぴったりと背中をつけて、トレイシーは窓から侵入して来たルカを指差し叫ぶ。
「ど、どこから来て!いや、なんでいんの⁉︎」
「イヌ科の君程じゃないが、ウサギも耳と鼻はいいんだ。君がいるのは君の匂いと呼吸音で分かっていた。しかしいないふりを貫くつもりの様だから、隣の空室からお邪魔した」
ルカはにこりと笑って隣の部屋を親指で指し示す。トレイシーは額を抑えて歯噛みする。
トレイシーが昼も夜も関係なく騒音を出すため、両隣が空室になっていた事が仇となった。ルカの匂いが消えないはずだ。すぐ隣で音をさせないように忍足で行動をしていたのだから。
トレイシー自身がオオカミの性能を所持しているように、ルカにもウサギの性能が備わっている事を失念していた。美味しそうに見える事しか考えてなかった。
顔を顰めて唸っているトレイシーを他所に、ルカは軽い足取りで机を飛び越え室内に入り込む。しかしトレイシーに近づこうとすると、両手を広げた人形が立ちはだかった。
「近づかないでって言ったでしょ」
こちらを睨み据えるトレイシーの手には、いつの間に構えたのかリモコンがある。今にも掴み掛からんとしている機械人形に、ルカは両手を上げる。
「待ってくれ、トレイシー。私はただ話がしたいだけなんだ」
「だからって窓から入ってくる⁉︎シェイクスピアかっての!」
「君が居留守を使うから悪いんじゃないか……」
「近づくの禁止って言ったの忘れたわけ⁉︎」
「うん」
トレイシーの責めるような言葉に、ルカは素直にこくりと頷く。苛立たしさを隠しもせず言葉を続けようとしたトレイシーだったが、ルカが酷い頭痛の発作に襲われていた事を思い出す。
「もしかして、朝の事全部忘れてる、とか」
「その通りだが」
「…………それなら仕方ないか。でも近づくのは禁止だから!」
一歩を踏み出したルカを、機械人形が押し返す。仕方がないと言っただけで、禁止なものは禁止なのだ。トレイシーの強固な態度にルカはむっとした表情を浮かべる。
「どうしてだ」
「どうもこうも、医務室連れてかれたんなら怪我してんの分かってんでしょ!それやったの私なの!オオカミだからルカが美味しそうなの!近くに来ると食べちゃうの!」
「うん。本当に嫌われたわけではなかったんだな、それは良かった」
「そんな筈ないでしょ。……あんな約束したんだから」
顔を背けて小さな声でそう続けたトレイシーに、ルカの長いウサギの耳がぴんと立った。「条件が揃ったら恋人になる」という約束をしたのはついこないだのことだ。
しかしトレイシーの可愛らしい反応とは裏腹に、ルカの体を押し返す人形の力は弱まらない。ルカは人形と押し相撲をしながらトレイシーへ問いかける。
「トレイシー、その。約束を覚えていてくれたことは嬉しいんだがこれは」
「それとこれとは話が別。近づくの禁止って言ったでしょ。ルカが近くに来ると本当に食べたくなっちゃうし危ないの。どうすれば仕留められるか考えてる自分が怖い……」
「なんでそれで私が行動を禁止されるんだ」
「話聞いてた⁉︎ルカの命に関わるの!」
「ああ。なら君が我慢すればいいことだろ」
――こいつはなにを言っているんだ?
トレイシーが顰めっ面でルカを見上げると、ルカも心底不思議そうな顔で首を傾げている。
「我慢出来ないの!獣の本能というか」
「でも私はいつも耐えているよ」
「それは」
「君が美味しそうでも耐えているよ、ずっと」
「美味しい……?そ、そういう話ではなくて……」
「君はお構いなしにくっついているが、私は耐えている」
「えっと、そ、それとこれとは話が違うっていうか」
「同じだよ?」
無表情で、そう言い切るルカにトレイシーも「そうなのかも?」という気がしてきてしまう。確かにずっと耐えてきたという話は聞かされた。
「だから我慢するのは君の方だろう?」
「………………いやいや、ちょっと待って。うっかり流されそうになったけど、ダメだって。ルカあんた怪我してるの。実害出てるじゃん」
「出ない様に頑張ってくれ」
「ルカが近づかなきゃいいだけじゃん!ずっとって事じゃないよ⁉︎ナイチンゲールさんが戻ってくるまでの話だよ⁉︎」
「嫌だ。私は君と一緒にいたい」
人形が押し負けそうになっているのを見て、トレイシーはもう一体の人形で横からルカに体当たりをさせる。流石によろめいたルカに、最初の人形が正面から腰に組み付く。
――なんかおかしい。朝も思ったけど、今日のルカはどこか余裕がない。
いつもルカはもっと飄々としていて余裕と自信たっぷりな態度をしているのに、今日は我儘というか、子供っぽいというか、とにかく何かが変なのだ。
人形のせいでルカの身動きが取れなくなると、ぱちぱちと空中に火花が散る。
「トレイシーこれを外してくれ」
「い、や。我慢ってね、オオカミの本能だから抑えるとかそういう問題じゃないんだよ!なんだか今のあんたは話が通じないし、気付いたらあんた食べてましたとかそんな事になってたら困るし、私、ナイチンゲールさん戻るまでルカから隠れる事にするから」
「そんな!嫌だ!」
「ひゃっ!」
目の前で散った青い火花に、トレイシーは思わず悲鳴を上げる。ルカの叫びに連動してた様に見えたので、トレイシーは眦を吊り上げた。
「なにすんの!危ないじゃん!」
「違うんだ……何故か今は制御出来ないんだ。勝手に放電してしまって」
「それ、迷惑過ぎるでしょ。あんたこそ部屋に篭ってるべきだと思うんだけど」
「無理だ、じっとしていられない」
ルカがぐっと眉間に皺を寄せているのに対し、今度はトレイシーが不思議そうに首を傾げる。
「は?なんで?ルカ、引き篭もるの得意じゃん」
「そうなんだが、落ち着かない。恐らくウサギのせいだとしか」
「……ウサギってそういう性質だっけ?」
トレイシーの記憶にいるウサギは、なんだか四六時中まったりとしていて危険がなければあまり動いていなかった気がする。本で見た程度の知識なので、明確には言い切れないのだが。
トレイシーは窓の外を指差し、ルカに提案する。
「それなら満足するまで外で走り回って来て、そんで部屋で大人しくしててよ。そしたら私もみんなも平和になる」
「私は野を駆け回りたい訳じゃない。君が居てくれれば迷惑もかけないさ。大人しく一緒にいてくれればそれで丸く収まる」
「それ私もあんたも大変な事になるって言ってるでしょ!」
「頑張って耐えてくれ」
「もおおおおお!」
トレイシーは髪を掻きむしって叫ぶ。結局、話が堂々巡りになる。やっぱり今のルカは話が通じない。譲歩する気がさらさらないのだ。
いつもの揚げ足取りで言質を取るルカも困りものだが、それでも今よりは話ができていたと思う。
――これはもう実力行使しかないな。
トレイシーは先程体当たりさせた、もう一体の人形をルカの背中に組みつかせる。二体の人形によって完全に動きを封じられたルカが抜け出そうと抵抗を試みるが、金属の人形はびくともしない。
「トレイシー!なにをするんだ!」
「ふんっ。知らない!」
トレイシーはつんと顔を背ける。
話にならないなら強硬手段。ルカを足止めして、その隙にどこかに雲隠れしてしまえばいい。流石に人形二体に組みつかれていては大の男でも抜け出すのは容易ではない筈だ。
念の為、部屋の扉を開け放っておく。流石にこのまま放置してルカに衰弱されても困る。こうしておけば誰か気づいた人間に解放されるだろう。
「じゃ、精々頑張って。私は行くから」
「行くってどこに」
「あんたが来ないとこだよ!」
トレイシーはそう言い捨てると、部屋を後にした。オオカミの耳が「無駄だ、必ず見つける」というルカの恐ろしい呟きを拾ったが、聞かなかったことにする。
オオカミはウサギよりも聴力も嗅覚も優れているのだ。今ならオオカミの脚力もある。
少し油断してルカの接近を許してしまったが、もうトレイシーはそんなミスはしない。オオカミがウサギに捕まる筈がないのだ。
マイクはあちこちで弾ける電気の火花に堪らず、元凶に声をかける。
「ルカ、これどうにかしてくれない?」
「すまない、私にも制御出来ないんだ」
「この静電気、バルサーさんの体調に関係しているのかしら。それともウサギの体調に関係があるのかしら。困ったわ。私も動物には詳しくないの。ウサギはストレスに弱いから扱いが難しい、って事くらいしか知らないのよね」
「ああ、すまない先生」
ルカは額を抑えたまま、苦笑いでそう答える。診察台から立ち上がれないところを見るに、余程酷い頭痛だったのだろう。ルカの頭痛に慣れているはずのトレイシーが、血相を変える程だったのだ。
トレイシーに頼まれた男連中とマイクがルカの部屋に来た時には、ルカは完全に意識を失くしていた。廊下に半身を出して倒れていたので慌てたが、ただ気絶していただけだったので安心した。
そしてみんなとルカを医務室に運んでる道中で、マイクはいつの間にかトレイシーが姿を消していることに気付いた。
――あんなにルカの事を心配していたのに、一体どこに行ってしまったんだろう。
「なんだか、吸血鬼にでも咬まれた様な傷ね」
ぐったりとしているルカの首と腕の傷を診ていたエミリーが首を傾げながら呟く。
歯型もあり血も出ているが、異様に鋭い犬歯が刺さって出来た傷はそこまで深刻なものではなさそうだった。しかし噛み跡は感染症の恐れがあるので、しっかりと洗浄はしなくてはならない。
「これ、人の歯型だと思うのだけど誰の仕業なの?」
「っ……分からないんだ。と言うか覚えていない」
ばち、と空中で電気が弾ける。ルカが呻く度に電気の火花が散るので、マイクは居心地が悪そうに首を竦めた。
「それ多分とれ」
「エミリー、お邪魔するわね」
マイクの言葉を遮り、医務室に入って来たのはマーサだった。室内を見回し、マイクとエミリー、ルカの顔を見て手元のボードに何かを書き込んでいる。
「マイクは変化無し、ルカはウサギの耳……と」
「なになに?マーサ今度はなに始めたの?」
マイクが興味津々でマーサの手元を覗き込むと、仲間の名前がずらりと並んでいる。その横に「確認」と変化の内容が書き込まれている。ウィリアムの横には「全身ダチョウ」、モウロの横には「全身イノシシ」と書かれている。他にも耳やら尻尾やら角が生えている仲間もいるようだ。それにしてもモウロ、いないと思ったらイノシシになってたのか。
「さっきね、ビクターが完全にハムスターになってた事が分かったのよ。でも彼喋れないじゃない。だからウィックが頻りに吠えてても私達気付かなくて。デミが犬の耳でウィックが何言ってるか分からなかったら危なかったわ……」
「それで全員の確認をして回っているの?」
「そう。ナイチンゲールがいつ戻るか分からないんだもの。その間に行方不明になられたら困るでしょう?」
ふう、と息を吐くマーサはすっかりとくたびれた顔をしている。
朝からダチョウになって走り回るウィリアムを追い立てたり、ゲームに出たりと忙しかったのだ。無理もない。
「そうね。アニーなら温室で見たわ。なんともなかったと思う。クレスさんも洗濯場で会ったけれど――」
エミリーはマーサの手元を覗き込み、空欄になっている仲間の名をいくつか指差す。
エミリーは行動範囲が広い上に、医者としてなるべく多くの仲間の健康状態を気にする様にしている。仲間全員の居場所を見つけるのは大変な手間なので、これでマーサもいくらか楽になる筈だ。
明らかに顔色が明るくなったマーサがボードを見て頷く。
「うん、大分埋まった!ありがとうエミリー!後はトレイシーとイライと……でも二人とも部屋にいなかったのよね」
「あ、僕トレイシーなら見たけど。耳ついてたけど人間だったよ。多分犬っぽいの」
「それならいいわ。トレイシーに小さい動物になられてたらあの部屋から見つけ出すのは至難の業だもの」
「確かに」
トレイシーの部屋は作業場を兼ねているので物が多い。あんなところでネズミにでもなられたら見つけ出せないだろう。
マイクがその様を想像していると、耳元でばちばちと大きめの音が鳴る。驚いて身を退け反らせると、今度は違う方向から同じ音が鳴る。先程よりも空気中の静電気の火花が増えている様だ。
「トレイシー……」
ルカがぼんやりとした顔で呟く。その様子が少しおかしい気がしたが、マイクはそれよりも先程言いかけた事を思い出し、エミリーに向き直った。
「そう、それでさっきの話に戻るんだけどさ。ルカ噛んだ犯人、トレイシーなら知ってるんじゃないかなあ。ルカが倒れてるって教えてくれたのトレイシーだし」
「あら、貴方達一緒にいたの?」
「………………覚えてない」
エミリーの問いに、ルカは頭を抱えて蚊の鳴くような声で答える。また、ばちんと青い火花が散る。
マーサは二人の会話に訝しげな顔になる。
「噛まれたってなに?喧嘩でもしたの?」
「それが、分からないのよ。バルサーさんは覚えていないって言うし、喧嘩で首の後ろなんて噛まないでしょう。だから何があったのかしらって」
困った顔で自身の頬を撫でるエミリーに、マーサは眉を顰めたまま項垂れたルカの首の傷を見やる。人の噛み跡にしては一部の傷が深い歯型。そしてマーサは手元のボードをもう一度見る。
「…………その傷、もしかしてトレイシーがやったんじゃない?」
「え?なんで?」
「私、このリスト作ってたから知っているけど、同じ動物になってる人はいないのよ。トレイシーが犬っぽいってさっきマイクが言ってたじゃない?でも犬はもうデミがなっているし、ウィックと会話してたから仲間なのは証明されてるのよ」
「確かにそうね」
「え?だったら僕が見たトレイシーは?ってかなんでそれでルカが噛まれてんの?」
「多分だけどオオカミとかジャッカルとかコヨーテとか、そういう類だったんだと思うのよ。で、まあそうなるとほら」
マーサがルカの頭上の耳を指差す。長いウサギの耳にマイクもエミリーも納得するしかない。オオカミ類にはウサギは捕食対象と言うわけだ。
朝からどんなに注意を受けても走り回るのをやめられなかったダチョウのウィリアムや、とにかく寝たがっていた猫のノートンも見ている。トレイシーはそれが食欲の方に向いているのだろう。
「それにねえ、この首の傷ってどう考えてもこんなのっぽの首に届く人間限られてるでしょう?だから寝てるルカの後ろから噛み付いたとしか思えない。だったらいっつも一緒にいるトレイシーくらいしかいないんじゃない?大方匂いに釣られて寝ぼけて噛み付いたとかそんなと」
「べハムフィール!」
マーサの名推理を遮り、バネ人形の様にルカが立ち上がった。その勢いのままマーサの手を取ると、先程までの項垂れ具合はなんなのかと思う様な明るい表情で笑う。
「そうか、そう言うことか!嫌われた訳ではなかった!」
「え?」
「ありがとう!ああ、こうしてはいられない。先生、失礼する!」
「あ、ちょっと!まだ治療は終わってな……」
エミリーが呼び止める間もなく、ルカは医務室から飛び出して行ってしまう。マイクが慌てて扉から顔を出すも、もうルカの姿は影も形も残っていなかった。
「ええ?はっや……!」
「ウサギって瞬発力凄いから。馬くらい早く走れるって聞いたわ。まあ、すぐへばるみたいだけど」
「へえ……」
マーサの豆知識にマイクが感心している後ろで、エミリーは盛大に溜息をついている。
「もう!抗菌薬も飲んで貰いたかったのに」
「あんなぐったりしてたから動けないのかと思ってたよ。ばちばち静電気もすごかったし。具合悪いせいなのかと」
「そうよねぇ。咬傷の影響で熱があるのかと思ったわ。そしたらあんなにぴんぴんしてるんだもの。異変が起きてる時は私もお手上げな事が多いわ。流石に獣医の知識はないもの」
エミリーがそう言いながら、金属のトレイに手を伸ばす。途端にばち、と大きな音が鳴る。
「きゃっ!」
「エミリー⁉︎」
「なんか今すごい音したけど⁉︎大丈夫⁉︎」
「なんでもないわ。ただ静電気に驚いただけ」
エミリーは笑ってそう答えたが、マイクは彼女が手を摩っているのを見て、嘘だなと思う。あの音からして、相当の痛みがあった筈だ。
――これ、ルカのせいだよなぁ。火花ばちばちさせてたし。
「電気ウナギじゃなくて電気ウサギとか、ジョークなら笑えるけど静電気ばら撒いて歩くのは勘弁して欲しいな……」
「何か起きたら困るわね。ルカは火元には近づけない様にしないと。全く、どこに行ったのかしら」
「あの感じは十中八九、トレイシーのところかな」
マイクは頭の後ろで手を組んで、天井を見やる。
さっきルカが嫌われた云々と言っていたところを見るに、覚えてはいないが自分を噛んだのがトレイシーな事はルカも気付いていたんだろう。ぐったりしていたのは体調というより、その事実にショックを受けていたからか。
――そういえば前に感情とか不満が溜まると電気が溜まるとか言ってたな。
ウサギはストレスを感じやすい生き物だというし、もしかするとストレス感じるとばちばちし出すとか?じゃ、ストレス感じる度に静電気をばら撒くって事?
マイクはうんざりとした顔でぼやく。
「……面倒な男が面倒な動物になったなぁ」
「え、なんか言った?マイク」
「ううん、こっちの話」
机に突っ伏し、自己嫌悪に陥っていたトレイシーは、オオカミの聴力が聞き取った音に体を起こす。
走る足音にガチャガチャと重なる器具の擦れる音。それがこちらに向かって来ている。すん、と鼻を動かせば微かに嗅ぎ慣れた匂いもして来た。
――ルカが来たっ!
トレイシーは慌てて立ち上がると、扉に走り寄って鍵をかけた。
トレイシーは部屋にいる時は大抵鍵を開けたままにしている。鍵がかかっている時は不在の時か寝ている時だ。鍵をかけて、居留守を使う事を決めたトレイシーは扉に凭れて息を潜める。
流石に二回も噛んでしまったのだから、身の危険を感じてルカも近づいて来ないのではと思ったのに、お構いなしの様だ。
ルカの気配はトレイシーの部屋の前にまでやってくる。トレイシーが息を殺してその様子を窺っていると、扉をノックされた。
「トレイシー」
「…………」
当然居留守を使っているトレイシーは返事をしない。ルカは数回ノックを繰り返し、それでも返事がないのでノブを掴み施錠されている事を確認する。
「いないのか……」
扉に張り付いていたので寂しげなルカの呟きを聞いてしまい、トレイシーはちくりと胸が痛んだ。しかし、これもルカの身の為なのだ。近くにいると食べたくなってしまうのだから、今は離れていてほしい。
口を両手で覆い、呼吸も慎重に。トレイシーは全ての動きを止めて完全に気配を消す。早く諦めてくれと願っていたが、ルカはなかなか立ち去ろうとしない。
「………………」
五分、いや十分は経っただろうか。ルカは微動だにしないので音はしない。だが気配で匂いで、そこにずっといるのはトレイシーには分かっていた。
――こっちはいないふりをしているのに、ルカは何を待っているのか。まさか、私が戻ってくるのを待っている?
どうしたものかとトレイシーが思っていると、ルカの気配が扉から離れていく。耳を澄ますとルカの足音が遠ざかっていくのが分かる。
漸く離れてくれた事に、トレイシーはほうと息をつく。
しかしあの様子だとここは安全とは言い難い。見つからなければまた戻ってくるだろう。
――近寄るの禁止って言ったのに聞いてなかったわけ?
トレイシーは扉を睨み、苛々と髪を掻き毟る。
ルカが頭痛の発作が原因で、すっぽり自分とのやりとりが記憶から抜け落ちているとは、まさかトレイシーも思わなかっただろう。覚えていたところでルカが守ったどうかも怪しいところではあるが。
もう暫く待って、そしたらどこか別の場所に移動した方がいいのかも。まだルカが付近を彷徨いているかもしれないし、下手に出ていって会ってしまったら面倒だ。
トレイシーはどこに身を潜めるべきかと考えながら、扉に耳を押し当てる。ルカの足音は完全に聞こえなくなった。けれど、まだ匂いはするので油断はできない。こう言う時、オオカミの嗅覚は便利だ。
「うーん……」
自室は扉の前に陣取られたら困るし、医務室は鍵がかかるけど使用する人に迷惑だろう。他の施設は出入りが自由だからすぐに見つかってしまいそうだし、人がいるところなら何かあっても止めてもらえるけれど、ルカ以外に食べたい欲求が出るかもしれない。一番いいのはルカを閉じ込める事だが、あんなヒョロガリに見えてもトレイシーは力では敵わないことは思い知らされている。
――こうなったら後でナイチンゲールさんに許してもらうとして、どこか空き部屋を借りてしまうか。
今適当に思いついた考えだったが、なかなか悪くない案な気がする。空き部屋の一つに日持ちする食料を持ち込んで閉じこもってしまえば、なんとかなるかもしれない。
トレイシーは一人で頷きながら屋敷の地図を脳内に思い浮かべる。散々バルクを追い回し、荘園の秘密の装置を求めて探索し回ったのだ。荘園の全容はわからないが、この本館の構造は全て分かっている。
ルカが知らなそうな場所なら心当たりもある。そこに潜伏しよう。
――それにしても、なかなかルカの匂いがなくならないな。
トレイシーがそう思っていると、室内がふっと暗くなる。まだ陽は高い時間なのに、天気が崩れたのかな?
トレイシーが振り返るのとギィ、音を立てて窓が開くのは同時だった。窓を塞ぐように屈んでいる囚人服の男とトレイシーはばっちりと目が合う。
考えに夢中だったトレイシーは周囲への注意が疎かになっていた。外の木を伝ってやってきたルカの気配に全く気付いていなかったのだ。
扉にぴったりと背中をつけて、トレイシーは窓から侵入して来たルカを指差し叫ぶ。
「ど、どこから来て!いや、なんでいんの⁉︎」
「イヌ科の君程じゃないが、ウサギも耳と鼻はいいんだ。君がいるのは君の匂いと呼吸音で分かっていた。しかしいないふりを貫くつもりの様だから、隣の空室からお邪魔した」
ルカはにこりと笑って隣の部屋を親指で指し示す。トレイシーは額を抑えて歯噛みする。
トレイシーが昼も夜も関係なく騒音を出すため、両隣が空室になっていた事が仇となった。ルカの匂いが消えないはずだ。すぐ隣で音をさせないように忍足で行動をしていたのだから。
トレイシー自身がオオカミの性能を所持しているように、ルカにもウサギの性能が備わっている事を失念していた。美味しそうに見える事しか考えてなかった。
顔を顰めて唸っているトレイシーを他所に、ルカは軽い足取りで机を飛び越え室内に入り込む。しかしトレイシーに近づこうとすると、両手を広げた人形が立ちはだかった。
「近づかないでって言ったでしょ」
こちらを睨み据えるトレイシーの手には、いつの間に構えたのかリモコンがある。今にも掴み掛からんとしている機械人形に、ルカは両手を上げる。
「待ってくれ、トレイシー。私はただ話がしたいだけなんだ」
「だからって窓から入ってくる⁉︎シェイクスピアかっての!」
「君が居留守を使うから悪いんじゃないか……」
「近づくの禁止って言ったの忘れたわけ⁉︎」
「うん」
トレイシーの責めるような言葉に、ルカは素直にこくりと頷く。苛立たしさを隠しもせず言葉を続けようとしたトレイシーだったが、ルカが酷い頭痛の発作に襲われていた事を思い出す。
「もしかして、朝の事全部忘れてる、とか」
「その通りだが」
「…………それなら仕方ないか。でも近づくのは禁止だから!」
一歩を踏み出したルカを、機械人形が押し返す。仕方がないと言っただけで、禁止なものは禁止なのだ。トレイシーの強固な態度にルカはむっとした表情を浮かべる。
「どうしてだ」
「どうもこうも、医務室連れてかれたんなら怪我してんの分かってんでしょ!それやったの私なの!オオカミだからルカが美味しそうなの!近くに来ると食べちゃうの!」
「うん。本当に嫌われたわけではなかったんだな、それは良かった」
「そんな筈ないでしょ。……あんな約束したんだから」
顔を背けて小さな声でそう続けたトレイシーに、ルカの長いウサギの耳がぴんと立った。「条件が揃ったら恋人になる」という約束をしたのはついこないだのことだ。
しかしトレイシーの可愛らしい反応とは裏腹に、ルカの体を押し返す人形の力は弱まらない。ルカは人形と押し相撲をしながらトレイシーへ問いかける。
「トレイシー、その。約束を覚えていてくれたことは嬉しいんだがこれは」
「それとこれとは話が別。近づくの禁止って言ったでしょ。ルカが近くに来ると本当に食べたくなっちゃうし危ないの。どうすれば仕留められるか考えてる自分が怖い……」
「なんでそれで私が行動を禁止されるんだ」
「話聞いてた⁉︎ルカの命に関わるの!」
「ああ。なら君が我慢すればいいことだろ」
――こいつはなにを言っているんだ?
トレイシーが顰めっ面でルカを見上げると、ルカも心底不思議そうな顔で首を傾げている。
「我慢出来ないの!獣の本能というか」
「でも私はいつも耐えているよ」
「それは」
「君が美味しそうでも耐えているよ、ずっと」
「美味しい……?そ、そういう話ではなくて……」
「君はお構いなしにくっついているが、私は耐えている」
「えっと、そ、それとこれとは話が違うっていうか」
「同じだよ?」
無表情で、そう言い切るルカにトレイシーも「そうなのかも?」という気がしてきてしまう。確かにずっと耐えてきたという話は聞かされた。
「だから我慢するのは君の方だろう?」
「………………いやいや、ちょっと待って。うっかり流されそうになったけど、ダメだって。ルカあんた怪我してるの。実害出てるじゃん」
「出ない様に頑張ってくれ」
「ルカが近づかなきゃいいだけじゃん!ずっとって事じゃないよ⁉︎ナイチンゲールさんが戻ってくるまでの話だよ⁉︎」
「嫌だ。私は君と一緒にいたい」
人形が押し負けそうになっているのを見て、トレイシーはもう一体の人形で横からルカに体当たりをさせる。流石によろめいたルカに、最初の人形が正面から腰に組み付く。
――なんかおかしい。朝も思ったけど、今日のルカはどこか余裕がない。
いつもルカはもっと飄々としていて余裕と自信たっぷりな態度をしているのに、今日は我儘というか、子供っぽいというか、とにかく何かが変なのだ。
人形のせいでルカの身動きが取れなくなると、ぱちぱちと空中に火花が散る。
「トレイシーこれを外してくれ」
「い、や。我慢ってね、オオカミの本能だから抑えるとかそういう問題じゃないんだよ!なんだか今のあんたは話が通じないし、気付いたらあんた食べてましたとかそんな事になってたら困るし、私、ナイチンゲールさん戻るまでルカから隠れる事にするから」
「そんな!嫌だ!」
「ひゃっ!」
目の前で散った青い火花に、トレイシーは思わず悲鳴を上げる。ルカの叫びに連動してた様に見えたので、トレイシーは眦を吊り上げた。
「なにすんの!危ないじゃん!」
「違うんだ……何故か今は制御出来ないんだ。勝手に放電してしまって」
「それ、迷惑過ぎるでしょ。あんたこそ部屋に篭ってるべきだと思うんだけど」
「無理だ、じっとしていられない」
ルカがぐっと眉間に皺を寄せているのに対し、今度はトレイシーが不思議そうに首を傾げる。
「は?なんで?ルカ、引き篭もるの得意じゃん」
「そうなんだが、落ち着かない。恐らくウサギのせいだとしか」
「……ウサギってそういう性質だっけ?」
トレイシーの記憶にいるウサギは、なんだか四六時中まったりとしていて危険がなければあまり動いていなかった気がする。本で見た程度の知識なので、明確には言い切れないのだが。
トレイシーは窓の外を指差し、ルカに提案する。
「それなら満足するまで外で走り回って来て、そんで部屋で大人しくしててよ。そしたら私もみんなも平和になる」
「私は野を駆け回りたい訳じゃない。君が居てくれれば迷惑もかけないさ。大人しく一緒にいてくれればそれで丸く収まる」
「それ私もあんたも大変な事になるって言ってるでしょ!」
「頑張って耐えてくれ」
「もおおおおお!」
トレイシーは髪を掻きむしって叫ぶ。結局、話が堂々巡りになる。やっぱり今のルカは話が通じない。譲歩する気がさらさらないのだ。
いつもの揚げ足取りで言質を取るルカも困りものだが、それでも今よりは話ができていたと思う。
――これはもう実力行使しかないな。
トレイシーは先程体当たりさせた、もう一体の人形をルカの背中に組みつかせる。二体の人形によって完全に動きを封じられたルカが抜け出そうと抵抗を試みるが、金属の人形はびくともしない。
「トレイシー!なにをするんだ!」
「ふんっ。知らない!」
トレイシーはつんと顔を背ける。
話にならないなら強硬手段。ルカを足止めして、その隙にどこかに雲隠れしてしまえばいい。流石に人形二体に組みつかれていては大の男でも抜け出すのは容易ではない筈だ。
念の為、部屋の扉を開け放っておく。流石にこのまま放置してルカに衰弱されても困る。こうしておけば誰か気づいた人間に解放されるだろう。
「じゃ、精々頑張って。私は行くから」
「行くってどこに」
「あんたが来ないとこだよ!」
トレイシーはそう言い捨てると、部屋を後にした。オオカミの耳が「無駄だ、必ず見つける」というルカの恐ろしい呟きを拾ったが、聞かなかったことにする。
オオカミはウサギよりも聴力も嗅覚も優れているのだ。今ならオオカミの脚力もある。
少し油断してルカの接近を許してしまったが、もうトレイシーはそんなミスはしない。オオカミがウサギに捕まる筈がないのだ。