ウサギとオオカミ
トレイシーは食事への欲が薄い。
お腹はちゃんと空くし、ご飯だって美味しい方が嬉しい。
甘いものがあれば喜ぶ女の子らしいところもある。
それでも機械作業や書き物を始めてしまえば後でいいやと空腹に目を瞑り、倒れるまで食事を取らないこともある。
あるものでいいやとスープだけで過ごすこともある。
だけど、この匂いには抗えそうになかった。
――好きな匂い。とても美味しそう。今すぐ食べたい。
トレイシーは閉じていた目を開くと、匂いの元を探る。
寝起きなので頭と視界はぼんやりしており、食の欲求だけで体が動く。トレイシーはゆっくりと身を起こした。
床で寝落ちた時は、体の節々が痛かったり無理な体勢が原因で腕が痺れている事も多いのに、今日はなんともない。寧ろ、体が軽い様な気がする。
すんすんと鼻を動かすと、匂いの元は机の上にある。トレイシーはにんまりと笑うと立ち上がった。朝の食事はとても素敵なものになりそうだった。
「ぐっ……ト、レイシー?」
「⁉︎」
名前を呼ばれ、はっとする。「食事」と思っていたものが身じろぎする。そして自分が何をしていたのか気づいたトレイシーは慌てて口を抑えた。
しかし、今更そんな事をしてもしでかした事は消えない。目の前には自分がつけた歯型がくっきりと残り、血が出ている。そして口内にも鉄の味が広がる。
――何した?私今、何をしようとしてた?
口を両手で塞いで、トレイシーはそろそろと後退る。体を起こした相手が首の後ろに手をやり、そこから流れる血に気付いて目を見開く。その頭上には長い長い耳が生えている。
トレイシーはそれを見て、慌てて自分の頭に触れる。何かは分からないがおかしな「物」が生えている。
向こうもトレイシーを見て異変に気づいたらしく、自分の頭上の耳に触れている。
「なるほど、今回はこうなった訳か。全く次から次へと飽きることが無いな。そう思わないか?」
「…………」
苦笑する男に、トレイシーは返事をすることができない。信じられない欲求が湧き上がっている事に困惑するしかない。
――美味しい。もっと欲しい。食べたい。
口に広がる鉄の味をごくりと飲み込む。美味しい。血の味とわかっているのに、そう感じてしまう。
――相手はルカだ。だけどウサギは獲物だ。違う、何を思っているんだ自分は。ルカは人間だし私も人間だ。でもお腹が空いた。
「っ!」
ルカを見ていると危ない。トレイシーはぎゅっと目を瞑る。でも、匂いがする。ウサギの匂いだ。トレイシーは鼻も口も両手で塞ぐ。唾液が口に溜まるのを感じて、それを無理やり飲むこむ。
――ダメダメダメ!なにを考えてるんだ!
「……トレイシー?さっきからどうしたんだ?具合が悪いのか?」
「だめ!」
自身の異常な欲求を抑えることに必死だったトレイシーは、ルカがすぐそばまで来ていることに気付いていなかった。
だからこそ、肩に触れられた手を咄嗟に払い除けてしまった。ぱしん、と鳴った音にルカは目を見開いている。
「あ……えと、ごめん。私、なんか今ちょっと変で」
「…………した?」
「へ?なに?」
慌てて弁明しようとしているトレイシーに、ルカがぼそりと呟く。よく聞き取れなかったトレイシーが聞き返すと、ルカが顔を近付ける。
「今、私を拒絶した?」
震える声でそういうルカは、瞳も揺れている。自信に常に満ちている男の姿を見慣れているので、見たことのない気弱な態度にトレイシーはぽかんと口を開けてしまう。
トレイシーがなにも答えなかったことを、ルカは了承と捉えた。細い両肩を逃さない様にしっかりと掴む。室内にバチバチと静電気の様な音が鳴り始める。
「私を拒絶したのか」
「え⁉︎いやいやいや、違う!違うって!してない!してないから!」
詰問とは違う、ルカの悲しげに詰るような態度にトレイシーは思い切り首を振って否定する。否定しながら頭の中は疑問符でいっぱいだ。
――私もおかしいけどルカもめちゃくちゃおかしくない?
「拒絶じゃないならなんだ。なんで叩くんだ。嫌いになったのか。なにがいけなかったんだ」
「ちょいちょいちょい、なに恋人の痴話喧嘩みたいな事言い出してんの、違うって!あと本当にやばいの!ちょっと離れて!」
「嫌だ!」
ルカの匂いが強くなったことで、トレイシーの危険な食欲が益々強くなっている。目の前にある喉笛に行けば、と考えている捕食者の思考をトレイシーは必死で抑えているのだ。
ところがルカは離れるどころかがっしりとトレイシーの体を抱き込み、足りないとばかりに両腕に力を込める。なにがなんでも離れたくないと全身で示す。
抱きしめられたことで、獲物の匂いを思い切り吸い込んだトレイシーは一瞬だけ、つい理性を手放してしまった。その一瞬を捕食者の性は見逃さなかった。
「うぐう……!」
「うっ⁉︎」
ルカは二の腕に走った鈍い痛みに、呻き声を上げる。なにが起こったのかを認識する前に、体を突き飛ばされ尻餅をついた。
打ちつけた腰よりも、ずきずきと痛む腕を見下ろすと血が滲んでいる。
――噛まれた?トレイシーに?
そんな強い拒絶をされるとは思っていなかったルカは、絶望的な思いでトレイシーを見上げた。見上げた先で、トレイシーがぺろりと舌舐めずりをする。そして真っ青な顔で口元を抑える。
「どうしよう……美味しい……」
「トレイシー?」
ふらふらとトレイシーが後退る。そしてぺたりとその場に力無く座り込んだ。
「美味しい、美味しそう……」
心ここに在らずといった表情で呟くトレイシーに、ルカは眉を顰めた。先程から感じていたが、どこか彼女がおかしいのだ。
「トレイシー」
「来ないで!」
ルカが歩み寄ろうとすると、トレイシーは人とは思えない素早さで扉へと飛び退いた。
「今は近づかないで!危ないの!ルカが食べたくなるから!」
「は……?それはどういう」
「どうしても我慢できないの!また噛んじゃう!美味しいって感じるし、だから、これ治るまでルカは私の側に来るの禁止!」
「そんな、っ!うぐぅ……!」
一方的な禁止令に、ルカが抗議しようと口を開いた途端に頭に激痛が走る。なんとも空気を読まない、忌々しい頭痛の発作が襲ってくる。
頭蓋骨に釘を打ち込まれるような痛みに、ルカは床をのたうち回るしかない。
「がっ……!ぐぅ、あ、ああ!」
「ルカっ!うう……」
酷く暴れるルカは心配なのだが、「今だ、今のうちに」と思ってしまう捕食者の本能に、トレイシーは近寄ることができない。ウサギの近くによれば、トレイシーの意識は負けてしまうのだ。
ルカの事を放っておくことはできないが、自分がここにいても危険なだけだ。トレイシーは後髪を引かれる思いだったが「ごめん」と謝りルカの部屋を飛び出した。
誰か、人を呼んでこなくては。そして自分はこの異変が終わるまでルカから離れなくては。
後ろからルカの呼び止める声が聞こえたが、トレイシーはそれを無視すると廊下を走り出した。
お腹はちゃんと空くし、ご飯だって美味しい方が嬉しい。
甘いものがあれば喜ぶ女の子らしいところもある。
それでも機械作業や書き物を始めてしまえば後でいいやと空腹に目を瞑り、倒れるまで食事を取らないこともある。
あるものでいいやとスープだけで過ごすこともある。
だけど、この匂いには抗えそうになかった。
――好きな匂い。とても美味しそう。今すぐ食べたい。
トレイシーは閉じていた目を開くと、匂いの元を探る。
寝起きなので頭と視界はぼんやりしており、食の欲求だけで体が動く。トレイシーはゆっくりと身を起こした。
床で寝落ちた時は、体の節々が痛かったり無理な体勢が原因で腕が痺れている事も多いのに、今日はなんともない。寧ろ、体が軽い様な気がする。
すんすんと鼻を動かすと、匂いの元は机の上にある。トレイシーはにんまりと笑うと立ち上がった。朝の食事はとても素敵なものになりそうだった。
「ぐっ……ト、レイシー?」
「⁉︎」
名前を呼ばれ、はっとする。「食事」と思っていたものが身じろぎする。そして自分が何をしていたのか気づいたトレイシーは慌てて口を抑えた。
しかし、今更そんな事をしてもしでかした事は消えない。目の前には自分がつけた歯型がくっきりと残り、血が出ている。そして口内にも鉄の味が広がる。
――何した?私今、何をしようとしてた?
口を両手で塞いで、トレイシーはそろそろと後退る。体を起こした相手が首の後ろに手をやり、そこから流れる血に気付いて目を見開く。その頭上には長い長い耳が生えている。
トレイシーはそれを見て、慌てて自分の頭に触れる。何かは分からないがおかしな「物」が生えている。
向こうもトレイシーを見て異変に気づいたらしく、自分の頭上の耳に触れている。
「なるほど、今回はこうなった訳か。全く次から次へと飽きることが無いな。そう思わないか?」
「…………」
苦笑する男に、トレイシーは返事をすることができない。信じられない欲求が湧き上がっている事に困惑するしかない。
――美味しい。もっと欲しい。食べたい。
口に広がる鉄の味をごくりと飲み込む。美味しい。血の味とわかっているのに、そう感じてしまう。
――相手はルカだ。だけどウサギは獲物だ。違う、何を思っているんだ自分は。ルカは人間だし私も人間だ。でもお腹が空いた。
「っ!」
ルカを見ていると危ない。トレイシーはぎゅっと目を瞑る。でも、匂いがする。ウサギの匂いだ。トレイシーは鼻も口も両手で塞ぐ。唾液が口に溜まるのを感じて、それを無理やり飲むこむ。
――ダメダメダメ!なにを考えてるんだ!
「……トレイシー?さっきからどうしたんだ?具合が悪いのか?」
「だめ!」
自身の異常な欲求を抑えることに必死だったトレイシーは、ルカがすぐそばまで来ていることに気付いていなかった。
だからこそ、肩に触れられた手を咄嗟に払い除けてしまった。ぱしん、と鳴った音にルカは目を見開いている。
「あ……えと、ごめん。私、なんか今ちょっと変で」
「…………した?」
「へ?なに?」
慌てて弁明しようとしているトレイシーに、ルカがぼそりと呟く。よく聞き取れなかったトレイシーが聞き返すと、ルカが顔を近付ける。
「今、私を拒絶した?」
震える声でそういうルカは、瞳も揺れている。自信に常に満ちている男の姿を見慣れているので、見たことのない気弱な態度にトレイシーはぽかんと口を開けてしまう。
トレイシーがなにも答えなかったことを、ルカは了承と捉えた。細い両肩を逃さない様にしっかりと掴む。室内にバチバチと静電気の様な音が鳴り始める。
「私を拒絶したのか」
「え⁉︎いやいやいや、違う!違うって!してない!してないから!」
詰問とは違う、ルカの悲しげに詰るような態度にトレイシーは思い切り首を振って否定する。否定しながら頭の中は疑問符でいっぱいだ。
――私もおかしいけどルカもめちゃくちゃおかしくない?
「拒絶じゃないならなんだ。なんで叩くんだ。嫌いになったのか。なにがいけなかったんだ」
「ちょいちょいちょい、なに恋人の痴話喧嘩みたいな事言い出してんの、違うって!あと本当にやばいの!ちょっと離れて!」
「嫌だ!」
ルカの匂いが強くなったことで、トレイシーの危険な食欲が益々強くなっている。目の前にある喉笛に行けば、と考えている捕食者の思考をトレイシーは必死で抑えているのだ。
ところがルカは離れるどころかがっしりとトレイシーの体を抱き込み、足りないとばかりに両腕に力を込める。なにがなんでも離れたくないと全身で示す。
抱きしめられたことで、獲物の匂いを思い切り吸い込んだトレイシーは一瞬だけ、つい理性を手放してしまった。その一瞬を捕食者の性は見逃さなかった。
「うぐう……!」
「うっ⁉︎」
ルカは二の腕に走った鈍い痛みに、呻き声を上げる。なにが起こったのかを認識する前に、体を突き飛ばされ尻餅をついた。
打ちつけた腰よりも、ずきずきと痛む腕を見下ろすと血が滲んでいる。
――噛まれた?トレイシーに?
そんな強い拒絶をされるとは思っていなかったルカは、絶望的な思いでトレイシーを見上げた。見上げた先で、トレイシーがぺろりと舌舐めずりをする。そして真っ青な顔で口元を抑える。
「どうしよう……美味しい……」
「トレイシー?」
ふらふらとトレイシーが後退る。そしてぺたりとその場に力無く座り込んだ。
「美味しい、美味しそう……」
心ここに在らずといった表情で呟くトレイシーに、ルカは眉を顰めた。先程から感じていたが、どこか彼女がおかしいのだ。
「トレイシー」
「来ないで!」
ルカが歩み寄ろうとすると、トレイシーは人とは思えない素早さで扉へと飛び退いた。
「今は近づかないで!危ないの!ルカが食べたくなるから!」
「は……?それはどういう」
「どうしても我慢できないの!また噛んじゃう!美味しいって感じるし、だから、これ治るまでルカは私の側に来るの禁止!」
「そんな、っ!うぐぅ……!」
一方的な禁止令に、ルカが抗議しようと口を開いた途端に頭に激痛が走る。なんとも空気を読まない、忌々しい頭痛の発作が襲ってくる。
頭蓋骨に釘を打ち込まれるような痛みに、ルカは床をのたうち回るしかない。
「がっ……!ぐぅ、あ、ああ!」
「ルカっ!うう……」
酷く暴れるルカは心配なのだが、「今だ、今のうちに」と思ってしまう捕食者の本能に、トレイシーは近寄ることができない。ウサギの近くによれば、トレイシーの意識は負けてしまうのだ。
ルカの事を放っておくことはできないが、自分がここにいても危険なだけだ。トレイシーは後髪を引かれる思いだったが「ごめん」と謝りルカの部屋を飛び出した。
誰か、人を呼んでこなくては。そして自分はこの異変が終わるまでルカから離れなくては。
後ろからルカの呼び止める声が聞こえたが、トレイシーはそれを無視すると廊下を走り出した。