私に言わせればあれは悪魔

ルカが驚いて目を開ければ、トレイシーが澄んだ目で顔を覗き込んでいる。
「ト、レイシー?」
「うん」
「…………君、私の話を聞いていたかい?」
「聞いてた。ルカがすんごい我慢してくれてたのと、その、私がそういう対象になってたっていうのは分かった。それで、ルカの言う通りね、怖い。さっきは本当に怖かった。ルカは我慢してたから怖くなかったんだって知った。ごめん。私ずっと無理させてた」
「どちらかというと今、辛いものがあるんだが……」
馬乗りになっているトレイシーを下ろそうとして、脚が微かに震えていることにルカは気付いた。何故こんな体勢になったのかと思っていたが、これはトレイシーなりの「逃げない」という覚悟のつもりなのだろう。
ルカは伸ばした手を静かに下ろした。今は彼女の行動を待つべきだと、一生懸命に言葉を選んでいるトレイシーを見上げる。
「うんと、いっつも怖いって言ってばっかでごめん。あとね、まだルカに謝ることあるんだけど……」
「なにかな」
「その……ルカが、最近ずっと焦ってたの知ってた。二人の時も目が怖いこと多いし、でもなんでか分かんなくて。なんで急におかしくなったんだろうって思ってたんだけど、そんなに長いこと、そういうこと我慢してくれてたの知らなかった。き、キスしたいの我慢してるだけだと思ってたから……」
「………………」
ぎゅっと目を閉じ、恥ずかしそうに話しているトレイシーにルカは眩暈を覚え、掌に爪を食い込ませた。
――頼むから、人の上でキスという単語一つで恥じらうのをやめてくれ。苦行が過ぎる。何故、自分はこんな無自覚悪魔に惚れてしまったのだろうか。
ルカの無言の嘆きを知らないトレイシーは、もじもじと自身のネクタイを弄る。そうしながら、ルカに伝えるべき事を整理する。
昨夜は待たせてないと豪語してしまったが、トレイシーが思っていたよりもずっとずっと、ルカは自分を押し殺してトレイシーに合わせてくれていたのだ。それを知った今、トレイシーも正直な気持ちを全部出さなくては失礼だ。
トレイシーは彷徨わせていた視線をルカに合わせ、口を開く。
「ルカ、あのね」
「うん?」
「……大事にしてくれて、嬉しい。ルカ大好き」
「!」
どくり、と自身の心臓が跳ねるのをルカは感じた。体を起こし、目を見開いてトレイシーの顔を見つめる。
「今、なんて」
「ん?ルカが好きって言ったの。大好き」
ふにゃりと頬を染めて笑う顔も愛らしくて仕方がないが、それよりなにより、今聞こえた言葉は現実だろうか。はっきりと彼女から好きと言われたのは初めての事だ。
――心臓から血が溢れるのは、こんな感じだろうか。
じわじわと湧き上がる多幸感にルカは酔いそうになるが、悪魔はやはり悪魔だった。トレイシーはさらりと付け足す。
「あ、恋人はまだダメだけど」
「ぐっ……」
浮き上がった気持ちは一瞬で地に叩き落とされた。ルカは呻きながらパタリと倒れた。急速に上がった熱が音を立てて引いていくのを感じる。
分かっていたのに。分かっていたのに期待してしまった愚かな自分を呪うしかない。トレイシーはこういう奴だ。期待をさせておいてこうだ。分かっていたのに。
ぴくりとも動かなくなったルカに「ごめんて」とトレイシーが謝るが、もう気分の乱高下に精魂尽き果てたルカは返事をする気も起きなかった。
「ルカ、ねえって」
「……………………」
すっかりと拗ねて、目を瞑ったままうんともすんとも言わなくなったルカに、トレイシーはどうしたものかと思考を巡らす。がっかりさせたかったわけじゃないし、まだ話は終わっていないのだけどルカは聞く気がなさそうだ。
頬を掻きながら、トレイシーは困り果ててしまう。
研究するのは好きだけど、説明するのは得意じゃないんだよなあ。伝えたいことがきちんとルカに伝わっていない。仕方がないので全て端折って、トレイシーは結論から伝える事にする。
つんと横を向いて動かないルカの胸に両手を置いて、トレイシーは差し出されていた頬にゆっくりと顔を近づけ、唇を押し当てた。リップ音はない。本当にただ押し付けただけだ。それでも恥ずかしいので直ぐに離れる。
口じゃないところにキスをされる事には慣れたけど、自分からするのは違う。一回だけでもトレイシーには大量の勇気がいる。
トレイシーは自身の熱くなった頬に両手を押し当て、熱を冷ます。男の人の頬、同じ場所でも父親へのキスとは全然違う。やっぱり恥ずかしい。
視線を落とせば、ルカが頬を抑えて目を丸くしている。いつもいつもその反応をするのはトレイシーばかりだったので、今は少しだけ優越感を感じる。
ルカは錆びた人形の様な、ぎこちない動きで首を回す。そして頬を抑えたまま、信じられないという顔でトレイシーを見つめる。
「君、もしかして、今、私にキスをした……?」
「うん。した」
「……どういう意図でだ?」
ぐぐ、と眉間に皺を寄せるルカはどうせ親愛だろう、期待しないぞと顔に書いてあるようで、すっかりと疑心暗鬼になっている。トレイシーは思わずくすりと笑ってしまう。
「トレ」
「もうちょっと待って」
「?なにを」
「今は、これが限界なの。まだルカが男の人になるのは怖いし、だから友達がいい。でも、ちゃんと違うよ。同じじゃないの。ちゃんと好きなの。だから、だからいつか口にキスしたいってなったら、その時は……その時にはなるから。………………恋人」
ひそりと。とても小さな声で告げられた最後の言葉に、ルカは勢いよく体を起こした。そして両手でトレイシーの肩を掴む。
幻聴でなければ、今初めてトレイシーの口から肯定的な言葉が出た。恋仲になることを否定し続けていたトレイシーの口から、漸く関係を変える事を是とした言葉が出た。
いやでもこの悪魔のような少女の事だ、もしかすると聞き間違えかもしれない。きちんと確認を取るまでは喜んではいけない。
ルカはしっかりとトレイシーの肩を掴み、聞き漏らさないようにと慎重に問う。
「トレイシー。今の、もう一度言って欲しい」
「…………恥ずかしいからやだ」
「頼む」
「いや」
「トレイシー」
「ダメ、ルカは直ぐに揚げ足取って今すぐ付き合うことにするから一回しか言わない。聞こえてないなら無効」
「はっきり聞こえていたとも」
トレイシーの無効という脅しにルカはあっさりと引き下がる。折角その気になってくれたのに無かったことにされては堪らない。
友達のまま、変える気はない、好きだけど無理。そうずっと長いこと言われ続けていたのだ。絶対に好かれているという確信があるから諦めずに来たが、正直否定され続けるのはルカも辛かったのだ。
ルカは自分の右の頬に触れる。ここに、トレイシーが自分からキスをした。数えきれないほどのキスをトレイシーに降らせたことはあるが、彼女から触れてきたのはこれが初めてだ。
本当に今起きた事が現実なのか、夢ではないのかとルカは不安になる。ぽかんと呆けた顔のままでいるルカに、トレイシーは首を傾げる。
「ねえ、なんでそんな変な顔してんの」
「君のせいだ。嬉しいのに、まだ現実味がなくて」
「もしもの話しただけでまだ現実じゃないし」
「分かっているよ。それでも進展があっただけで私は嬉しい。まあ正直、戸惑いの方が勝つんだが」
――どうして急に意見が変わったのだろう。
ルカは眉を顰める。今朝まで絶対に恋仲にはならないと豪語していたのに。
トレイシーは納得する理由がなければ、決して自身の意見を変えることはない。研究でもゲーム中でもそれで衝突したことは一度や二度ではない。
そんなトレイシーが、何年も粘っていた主張を変えたのだ。嬉しさよりも何故なのかという疑念の方が勝ってしまう。
「その、トレイシー。どうして、受け入れてくれる気になったんだ?君、今朝まで私の要求全否定だったじゃないか」
「………………」
心底不思議そうに首を傾げているルカ。その姿がトレイシーには大型の犬に見える。
待てが出来ないとか、好き勝手やってる癖にとか、酷いことをたくさん言ってしまった。けれど、一生懸命トレイシーの拙い歩幅に合わせようと犬のふりをしてくれた狼さんだ。
胸が暖かくなる思いはまだ伝えられないけれど、そんなルカが可愛く見えるのは本当だ。
「そうだなあ。ルカが、いい子だったからかな」
「……うん?私がか?」
「そう。いい子」
トレイシーは手を伸ばし、ルカの頭を撫でる。
――ごめんね、まだしばらく無害な犬のふりをしていて欲しい。ルカの苦悩は知ったけど、私にはまだ、男の顔のルカは怖いから。
トレイシーに撫でられ、ルカは複雑そうな顔になる。やがて諦めたように目を閉じ、トレイシーの肩に額を押し付ける。
「……いい子って、まさかと思うが、さっきのは私への憐れみじゃないだろうな?」
「違うよ。大好きなのは本当。ルカが好き」
「だったらなんで受け入れてくれないんだ」
「怖いからだってば。これでもちょっとづつは怖くなくなってるから待ってって」
「私はずっと待ってる」
トレイシーに撫でられながら、細い体躯に腕を巻きつけ、ルカは力を込める。耐えていた欲の一部を見せてしまったせいか、閉じて隠していた感情までもが流れてしまう。
「君は変わっているのかもしれないが、私はいつまで耐えればいいんだ」
「それは分からないかな。だってまたルカの怖い所知ったし」
「どうしたら怖くなくなるんだ」
「それは私が知りたいよ……慣れるしか、ない?」
「それはいつだ。君は本当に酷い奴だ」
「ごめんてば」
ルカは抱きしめる、というよりもトレイシーに縋り付いている状態になっている。澄ました態度と皮肉げに笑いながら気障な物言いをする男が、子供の様に愚図っている。その珍しい様子に、トレイシーの口元は綻んでいく。
――ルカだって人のこと言えない。自分だってこんなに可愛い癖に!
普段は自信満々な姿しか見せないルカだが、あまりに長い事トレイシーがやだやだ言い続けたせいで、大分自信を喪失していたらしい。恋人という言葉にも、喜ぶどころか随分と疑り深い反応を見せている。
ルカの頭を撫でながら、どうしようかなとトレイシーは考える。こうなったのは自分のせいだし、どうにかルカには元気を出してほしい。
一番いいのは恋人になる事だ。それは分かってるけどそんな事をしたら、一瞬で回復したルカに何をされるか分かったものではない。これだけは絶対に駄目だ。
「友達」という関係は、ルカには理性の境界線で、トレイシーにとっては最強の防御なのだ。一度取っ払ってしまえば二度と使えない。まだトレイシーには無くすわけにはいかない切り札だ。
他はどうかとトレイシーは思考を巡らす。今までのような一方的ではない、双方にいい案は無いだろうか。
うんうんと唸りながらルカとのやりとりを思い返しているうちに、トレイシーはあることを思いつく。
――これはなかなかの妙案なのではないだろうか。
「ルカ」
「……なにかな」
「あのさ、これからは私もちゃんとするから。そういうのに、慣れる様に」
「君がか?」
トレイシーの発言に、ルカは驚いて顔を上げる。
告白してから今まではルカからの行動が全てで、トレイシーは渋々受け入れるといった態度を崩したことがなかった。
彼女が自分から行動を起こしたのは、今回の勘違いおめかし作戦くらいのものだ。
行動する気になってくれたのは嬉しいが、また的外れなことをする気じゃ無いだろうな。ルカの胸には不安しかない。
「なに、信じてないわけ」
「いや、何をする気なのかなと思って」
笑おうとして失敗したような、或いは困っているような微妙な表情を浮かべているルカに、トレイシーは不満気に唇を尖らせる。
ルカが何も期待してないのが丸わかりだ。それがトレイシーには我慢ならない。人を舐めるのもいい加減にしてほしい。
見てろとトレイシーは両手でルカの頭を掴み、無理矢理横を向かせた。勢いが良すぎて「うぐ」とルカが呻いたが、無視する。そして目の前にある左の頬にちょん、と唇を付ける。
すぐに離れたが、キスはキスだ。やってやった、とトレイシーが思えたのは、しかし一瞬だけだった。
そこまでは勢いと意地でなんとかなったが、目的を果たすと同時に津波の様に押し寄せた羞恥心に、顔が熱くなる。ルカの反応を見てやろうと思っていたはずが、今は顔を見られたくない。トレイシーはベストの襟にしがみつき、顔を隠した。
「トレイシー」
「………………」
そっと両肩にルカの手がかかった。顔を見せたくないトレイシーは縋る手をベストの襟からルカの背中に変える。絶対に離れないぞという強い意思で、白い生地に爪を立てる。
耳も首も赤くなっているのが見えたので、ルカはトレイシーを胸から剥がすのを諦めた。顔を見たかったが、勇気を振り絞ってくれた彼女に無理強いは出来ない。
「トレイシー。その…………今後は慣れる為に、君からも私に歩み寄ってくれる、という事でいいのかな。これは」
「………………」
黙ったまま、こくりとトレイシーが頷く。それにルカは一言、「そうか」とだけ答える。
その後はルカは何も言う事はなく、特に何かしようとする気配も無かった。ただただ室内に静かな時間が流れていく。
「…………」
――流石に無反応過ぎない?
何を言われるかとそわそわしていたトレイシーだったが、あまりにもルカが静かなせいで、拍子抜けしてしまう。
時間が経った為、すっかりと羞恥心の波も収まってしまった。そうなると人の勇気に対して薄い反応しか返さないルカに、怒りすら覚えた。
――私はものすごく恥ずかしかったのに!
何か文句を言ってやろうとトレイシーは顔を起こし、目を丸くした。
あのルカが、何をしても飄々としていた男が顔を赤くして口元を抑えている。眉間に深い皺を寄せているので怒っている様にも見えるが、これは多分違う筈。
「えっと、ルカ?」
「…………すまない、どう言ったらいいのか。嬉しい時も、どうすべきか分からなくなることがあるんだな」
「嬉しいの?」
「当然だ。君から触れてきてくれる事も稀なのに、キス……それも二度もされるとは。夢じゃ無いだろうな」
「叩いてあげようか?」
「この塩対応は間違いなく現実だな」
右手を振り上げるトレイシーに、ルカは苦笑いを浮かべた。
情緒はちゃんと育っているが、まだ雰囲気をぶち壊す幼さは変わらない。
――それでも、確かに大きく前進したのを感じる。
ルカがトレイシーの頬に触れる。トレイシーは擽ったそうな表情を浮かべるが、振り払うことも逃げることもしない。数年前なら考えられなかった事だ。
絶対に手に入れると決めた時から、ルカが地道に慣れさせてきた結果だ。けれどそれは麻痺と同じ事で、トレイシーの感情が動いているわけではない。
自分はトレイシーに好かれているはず。でもそれは親愛としてではないか、彼女はなにも変わっていないのではないか。その不安は根底にずっと居座っていた。
だから返す言葉ではなく、トレイシーの心から出た「好き」と言う言葉は、ルカにはとても大きな意味があるのだ。
――まあ、「友達」の防衛線は張られたままなのだけれど。
ルカは柔らかいトレイシーの頬の感触を楽しみながら、溜息をつく。
上手い事はぐらかされただけで、恋人の条件は今までと大して変わってはいない。それでも「歩み寄る」という言葉一つで喜んでしまうのだから、トレイシーの手の上で踊らされている気分だ。
「結局、先が長い事には何も変わりはなさそうだ」
「どうして?ちゃんと頑張るよ?」
「あんな可愛らしい、触れるだけのキスで恥ずかしがるのに?私の口に到達するのはいつの事だ?」
「うっ……そ、そのうち慣れる、筈」
ずいとルカが顔を寄せただけで、トレイシーは頬を赤くして目を逸らす。そんなトレイシーの目尻に音を立ててキスを落とし、ルカが笑う。
「音を出すやり方をお教えしましょうか?」
「……っ!結構、です!」
すっかりといつもの調子に戻ったルカの胸を、トレイシーは思い切り押し返した。支える腕もなかったのでそのままルカは仰向けに倒れ込んだ。
くつくつと笑い続けているルカの胸に肘をついて、トレイシーはふんと鼻を鳴らす。
「あんたはこれだから全く……さっきまで本当に可愛かったのに」
「すまない、そういう性分なもので」
「もう!……まあでも、今まで色々ルカには我慢させてたみたいだからそっちも気をつけるね」
「是非、そうして欲しい。大分切実なんだ」
ルカが笑いを引っ込めてそう言うと、トレイシーは「ごめんて」と苦虫を噛み潰したような顔になる。
己の行動を思い返すと、本当に反省する事しかないのだ。パトリシアの忠告を話半分に聞いていたことも謝りたい。
「でも、ルカだって電撃したりお酒でやらかしたりしてるからね。これ以上変なことしでかさないでよ」
「もうそれは返す言葉もない……」
しおらしい態度でそう答えるルカに、垂れた犬の耳と尻尾の幻影がトレイシーには見えてしまう。狡いんだよなあとトレイシーは思う。
しょげたルカの頬に両手を添え、そして微笑みながらトレイシーは告げる。

「ちゃんと、大好きだからこれからもいい子でいてね、ルカ」
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