私に言わせればあれは悪魔

部屋に入るなり、トレイシーはつかつかとベッドに向かい、帽子を放り投げてシーツに飛び込んだ。スプリングで一度バウンドした体は布団に沈み込む。トレイシーは枕に顔を埋めて、体から力を抜いた。
「ふあー、ベッド最高……」
「私の部屋のだが」
「そうだけど、いいじゃん」
ルカの文句にあっけらかんとトレイシーは返す。人の部屋とは思えない寛ぎっぷりはいつもの事だ。
ぶらぶらとトレイシーが揺らしてる足に当たらない位置に腰掛け、ルカも息をつく。以前着ていた服とはいえ、新たな衣装として出されたものはどうにも緊張する。
タイを外し、シャツの襟元を寛げる。首枷に比べれば大した負荷もないはずのシャツだが、不思議と呼吸がしやすくなった様に感じる。
「うう、お腹が重い……」
「べハムフィールとエリスに大分詰め込まれた様だな」
「もー、しばらく点心はいいや」
あれも食えこれも食えと皿に山盛りになった点心は、どれも非常に美味しかった。だがそれにしても加減があるのではとトレイシーは訴えたかった。
マーサもウィリアムも慣れたもので、トレイシーの胃が受け付ける範囲を熟知している。その量を分かった上で、全部食べるまで逃がさないと見張られていたから、味を楽しむどころではなかった。
トレイシーは首だけを横に向けて、ルカを恨めしげに見やる。
「元はと言えばルカがあんなこと言うから」
「それはすまない。だが太ったと言う意味ではないんだよ。本当に触り心地が良くなったなと思っただけで。まさかダイエットを決意するとは。君も体型を気にするんだな」
「…………………………………………ルカが触るからじゃん」
「え?」
「なんでもないっ!」
枕に埋まったまま何かトレイシーが呟いたが、ルカには何を言ったのかが聞き取れなかった。問い返してもトレイシーはそっぽを向いてしまう。
何かを誤魔化すようにばたばたと暴れる脚に、ルカは硬い革靴で蹴られては堪らないと体を傾ける。
「トレイシー、せめて靴は脱いでくれないか」
「やーだ。面倒臭い。ルカ取ってー」
「はあ」
トレイシーは体を起こす気もなさそうだ。仕方がないのでルカはふらふらと目の前で揺れている脚を掴み、片方づつ靴を脱がせた。
こんなやりとりも久しぶりだ。ここ最近は二人きりになる事が減っていたが、昨夜の酒のやらかしの代償にルカに出した禁止令があるので、トレイシーはすっかりと安心しきっている。
ルカはベッドの脇に小さな革靴を揃えて置くと、立ち上がってクローゼットに目を向ける。もういい加減に着替えてしまおうかと考えていると、服を引かれる。目線を落とせばトレイシーが上着を掴んでいる。
「まだ、だめ」
「駄目とは、着替えるなと?」
「うん」
「もう充分、お揃いは楽しんだだろう?」
「やだ」
むすりとした顔のトレイシーは、ルカの上着をしっかりと掴んで動けない様にしている。今はとても甘えたい気分なのか。
ルカは着替えを諦めてベッドに腰掛けた。せめてこれだけはと手袋と腰に巻いた上着を外す。
その姿をじっとトレイシーが見つめているので、ルカは単眼鏡を外そうとしていた手を止める。なにか、咎めるような視線なのだ。
――まさかとは思うが、全部装備を付け直せと言い出す気じゃないだろうな。
ルカがそう危惧していると、トレイシーが口を開いた。
「なんか随分慣れてるじゃん、その服。初めて着た感じじゃない」
「………………どうだろう。『覚えてない』な」
いつも通りの返答をすると、トレイシーは興味を失ったように「あっそ」とだけ言う。
詮索をする気はないのだろう。ただただ疑問を口に出しているだけで。このさっぱりとしているところもルカがトレイシーを気に入っている要因だ。
ルカは頭から単眼鏡のベルトを外すと、それをベッドサイドのテーブルに置いた。ついでに床に落ちていたトレイシーの帽子も拾い上げ、そこに乗せる。
甲斐甲斐しく動いているルカをトレイシーはこっそりと観察していたが、ルカは外と同じ態度のままだ。今日は怪しい雰囲気になることはなさそうだ。
触るのを禁止したのもあるけれど、やっぱりこの格好だとルカもそういう気が起きないのかもしれない。トレイシーは枕に顔を隠したまま、自分の作戦が上手くいったことに小さく笑う。
――明日、そら見たことかってイライに自慢してやるんだから。
トレイシーは浮かれた気分で脚をばたつかせる。これで、ようやく安心して今まで通りにルカと過ごせる。
「!」
ご機嫌なトレイシーだったが、足首をがしりと掴まれ驚いて顔を上げる。体を捻って後ろを向けば、当然ながら掴んだ犯人はルカだった。
抗議の意を込めて脚を強めに振ってみるも、ルカは手を離してくれる気はなさそうだ。ただただ食い入るように掴んだ脚を見つめている。その視線に辛抱出来なくなったトレイシーは顔を顰めた。
「ちょっと。なに」
「うん。脚が美しいから見惚れていた」
「…………………………………………」
「どうかしたか?」
「いやっ、いつもと違う切り口で来たなと思って」
トレイシーはぎこちなく体を起こすと、その場に意味もなく正座した。なんとなくルカの目から脚を隠したくなったのだ。
今まで散々、可愛い可愛いとこの男は態度で口頭でトレイシーに伝えてきてはいた。だが今回の様に体の部位を美しいと褒められた事はない。ルカだけでなく、他の誰からもそんな事を言われたことはない。
どう反応すべきなのかがわからないが、いつものように突っぱねる気は起きなかった。恥ずかしさの中に少しだけ嬉しいという感情もある。
トレイシーはもじもじと枕を手繰り寄せると膝の上に抱え込んだ。完全に脚を隠して、漸くほっと息を吐き出す。ルカの目が脚に向いていると思うだけで、顔から火が出そうなのだ。
しかしルカはトレイシーのその行動に不満そうに口を尖らせる。トレイシーが抱えた枕をくい、と引っ張る。
「なんで隠すんだ」
「な、なんとなく?」
「人には着替えるなと言っておいて、私の楽しみは奪うのか」
「楽しみって」
「その格好は特に君の脚の美しさが際立つから気に入っているのに」
「そんなこと思ってたの⁈」
「目盛り調整」を着ている時、ルカと目線が合わないなと思うことは多々あった。やっぱりこういうのは興味がないのかと思っていたら、まさか脚に注目されていたとは。
枕を引く手に力が籠る。トレイシーが油断している間に、ルカは枕をベッド下に放り投げた。トレイシーは咄嗟にルカが脱ぎ捨てた上着を拾い、腰に巻き付ける。
そんな話を聞かされて、ほいほい脚を晒す気が起きるわけがない。
「トレイシー」
「あ、あのね!そんな事言われてどうぞご覧くださいって出来るわけないでしょ!分かんなさいよ!恥ずかしいの!」
ルカからの咎める声音にトレイシーはそう叫ぶ。くん、と上着の裾をルカに引かれるが、しっかりと両手で上から押さえつける。今度は奪わせる気はない。
トレイシーがしっかりと守りに入ってしまった為、ルカは口をへの字に曲げて不満を漏らす。
「何もしないのに、今は」
「最後のが無ければ安心出来るんだけど。ルカって脚好きだったんだ……」
「いや?好きなのは君だが」
「はいはい。分かってる分かってる」
トレイシーは寄ってきたルカの顔を押し返す。
流れるように出てくる軽い告白にはもう慣れた。ルカの言葉に重い感情が乗ってさえいなければ、受け流すのは訳無いのだ。
トレイシーは膝立ちになり、上着をスカートの様に腰に巻きつけた。そうしてむすりとした顔のルカに困ったように溜息をつく。
「取って食おうとしているわけでも無いのに、今日の君はどうしてそう意地悪なんだ」
「意地悪してるつもりは無いけど。朝はルカの自業自得だし」
「それはそうなんだが」
「いきなり脚の事言われた私の方が困る。そんなの言われた事ないし、どうしていいか分かんないし。見るだけなら今後も黙っててくれればいいのに……」
トレイシーは熱くなった頬を冷やそうと両手を当てる。きっと赤くなっている事だろう。
ルカの視線に意味があることを知ってしまったら、普段通りに過ごせる自信がなくなってしまう。少なくともこの服はルカの前では着れなくなった。折角お揃いみたいな衣装がルカにも来て嬉しかったのに。
どんな目で見られていても、自分が気付かなければそれでいい。だから本当に黙っててくれればいいのにとトレイシーは目を瞑る。
ルカはそんなトレイシーに首を傾げる。
「私達は擦れ違いが多いから思ってることは口に出せとモートンから言われたんだが」
「絶対間違ってないアドバイスなんだけど、でも、知らないままでいた方が心の安寧が保たれる事もあるんだよ!」
「なるほど…………」
ルカはふむとトレイシーの言葉に頷いた。トレイシーの状態を見て納得してくれたらしい。
自分の体で褒められるところなんて、精々頭の中身くらいだと思っていたトレイシーはほっと胸を撫で下ろした。男の人は立派な胸とか括れた腰が好きなのだと聞いていたから、自分には無縁なものだと認識していたところへのこの不意打ちだ。
考え込んでいるルカをこっそり観察してみる。トレイシーが脚を隠した時は残念そうにしていたが、見たところ顔色も特に変わらないし、いやらしい意図があったわけではないのかもしれない。もしかすると工芸品でも褒めている感じだったのかも?
熱が引いてきたので、当てていた頬からトレイシーが手を離すと、丁度顔を上げたルカと視線が合った。ルカは考えの読めない顔で、緩く微笑んでいる。
その表情を見たトレイシーは、咄嗟にベッドから飛び出そうとして失敗する。トレイシーが動くより先に、ルカが足首を掴む方が速かったのだ。
「うぎゃっ!」
足を掬われ、ベッドにうつ伏せに倒れたトレイシーを、ルカは楽しげにずるずると引き摺り寄せる。そうしてのしのしとトレイシーの上に四つん這いになって覆い被さった。
「人の顔を見て逃げ出すなんて失礼じゃないか?」
「あ、あんたのその顔は嫌な予感しかしない!あの時と同じ顔してるもん!」
「あの時?」
「ほぼ脅迫の告白してきた時だよ!」
「はて、覚えがないな。しかし君の勘は当たっているよ。君に心の安寧なんぞ保たれては私達は進展しないじゃないか。思い切り掻き乱されてくれ」
「だー!もー!離せー!」
「嫌だね」
ジタバタと暴れているトレイシーの両脚を自身の脚で抑えつけて、ルカはニンマリと笑う。トレイシーを可愛がりたいのも本当だが、こうして意地悪するのも楽しいのだ。自分から可愛がる行為を禁止しておいて油断していたのだから、これはトレイシーの自業自得だ。
どうにか這ってルカの下から逃げようと足掻いているトレイシーを見下ろして、上機嫌に口を開く。
「うぐぐ……!」
「そうだな。まずは君のここ最近の奇妙な行動について話をしようか。なにやら面白い作戦を立てていたらしいじゃないか。服装で私の気を削ぐ、だったか?」
「!」
トレイシーはぎくりと肩を揺らした。――なんで知ってるんだ!
「な、なんのことやら」
「ここ一月程、君と二人になる機会が明らかに減ったと感じていたんだ。やっと素直に可愛らしい反応をしてくれる様になったのに、惜しいなと思っていたらまた私の部屋に訪ねてくれる様になった。それも着るものに無頓着な君が、作業着以外の洒落た格好で」
「…………………………」
後頭部に、背中に、ルカの視線を感じる。顔の横に突かれた手からも圧を感じる。逃げ場がない。トレイシーはそろそろと腕を体に引き寄せ、身を縮こまらせる。
防御の体勢になっているハリネズミに、ルカはくく、と笑う。逃げられらないとなると丸くなる様も本当に愛らしい。だがそれと同時に嗜虐心も煽られる。
――今までの腹いせに少しだけいじめてしまおうか。
「君がおめかしをするなんて珍しいと思ったんだ。それがまさか私を白けさせる作戦だったとは。とても残念だ」
「うう……ごめんてぇ……」
「おや、降伏が早いな。でも駄目だよ、君は私が何を残念に思っているかが分かってないだろうから、じっくりたっぷりお話をしよう」
「お……お話するならこの体勢やめない?」
「やあだ」
ルカはわざとらしい、幼い口調でそう答えた。トレイシーからは見えないが、絶対に玩具を前にした猫の目をしているに違いない。そしてその玩具はトレイシー自身だ。
小さくなって嵐が通り過ぎるのを待っているトレイシーに、ルカは口角を益々吊り上げた。
「こんなことしなくても逃げないってばあ……」
「君の口から出る言葉で三番目に信用できない言葉だ」
「一番と二番は」
「『今から寝ようと思ってた』と『次はご飯に行く気だった』」
「ううう……」
それは自分自身でも信用できない発言だ。その自覚はある。トレイシーは研究や実験作業に夢中になると、つい時間が経つのを忘れてしまうのだ。
ルカの雰囲気が変わる度に逃げ出していたので、そちらの信用もすっかりと地に落ちている。ルカはトレイシーがいくら言葉を重ねても、上から退くことは無さそうだ。
「私は以前に言った筈だよ?なにをしてもどんな格好をしていても君は可愛いと思っていると。それを服装如きで私の気が削げるとは、舐められたものだ」
「んん?」
対ルカの作戦を立てたことじゃなくて作戦の内容が気に入らなかったのか。そういえば以前にそんなことを言われたような気もする。大分前の言葉なのでうっすらとしか覚えてないが。
トレイシーは体を捻って、ルカを見上げる。
「怒ってるのって、そっち?」
「怒ってはいないさ。ただ君のその誤解は解くべきだと。ラッピングを変えたところで、重要なのは私は君しか見ていないという事を、今一度しっかり伝えるべきかと」
「ラッピング」
「ああ、間違えた。君の服だな」
――人の服をラッピングと言ったのか、こいつ。どういう了見だ。
トレイシーはリボンでぐるぐるになった自分を想像して、その阿呆くさい光景に顔を顰めた。冗談でも笑えない表現だ。
「おかしな事言わないでよ、プレゼントじゃないんだから」
「同じだよ。………………いつかは開けたいとは思ってるし」
「へ?」
「なんでもない。そもそも君の作戦は私以外の目から見てもおかしいぞ。何を考えて熊なんて着て来たんだ。あんな触り心地のいいテディベア、喜んで可愛がるに決まっているだろう」
「分かるわけないじゃん、あんなにルカのテンションが上がるとは思わないし!」
当時を思い出し、トレイシーは拳を握ってベッドを叩く。
「熊女」は、とても手触りのいい起毛の生地で出来ている。デザインはともかく、あの服の着心地が素晴らしい事はトレイシーも認めている。
とは言ってもあれだけ笑われた衣装だ。ルカだってあの服ならば、笑ってしまって怪しい雰囲気なんて吹き飛んでしまうだろう。そう思っていたのに。

部屋に現れたトレイシーにルカは目元を和ませ、明らかに喜んでいるのが見てとれた。おや?とトレイシーが思っている間に頭を撫で、頬を撫で、ルカは上機嫌に尋ねる。
――おやおや、どこの玩具箱から逃げ出して来たんだ、テディベアくん?――
――持ち主がいないなら私のものにしてしまおうか――
攫うように部屋にトレイシーを招き入れると、そのまま膝に抱え上げて本物のぬいぐるみの様に撫でてキスをして慈しむ。
おかしい、望んでいたのはこんな反応ではない。笑い飛ばして欲しかったんだけど?
恋人にするような態度で迫ってくる事はない。それはいいのだが、本当にぬいぐるみにするような可愛がり方をルカがするのが耐えられなかった。とろりと蜂蜜の様に甘い眼差しを向けられ、優しい手つきで頬を首筋を撫でられる。これはこれで居た堪れない。
熊の衣装の手触りに気付いてしまったルカは、そこから遠慮なしにテディベアを抱きしめるわ、頬擦りするわで非常にご機嫌だった。
トレイシーが耐えられたのは三十分だった。名残惜しげなルカに謝って部屋から逃げ出してしまったし、その日はもう、訳もなく恥ずかしくて自分の部屋から一歩も出れなくなった。

最初から作戦の出鼻を挫かれた形になった、苦い記憶だ。思い出して熱くなる頬に、トレイシーはシーツに顔を押し付ける。
ルカはそんなトレイシーの後毛に指を差し入れ、髪を弄びながら苦笑を浮かべる。
「今の君なら笑い飛ばしてやれるよ?」
「笑って欲しかったのは今じゃない……!」
「それで、私が思った反応にならなかったから服の路線を変えてスーツにしたのかい?君の発想はどこか飛んでいるな。発明脳としては素晴らしいが」
「鼻で笑いながら言うな!」
ベッドを悔しげに叩きながら叫ぶトレイシーに、ルカはくつくつと笑う。
テディベア扱いで作戦の失敗を感じたトレイシーは、次の作戦に黒いスーツの「機械人形師」を選んだ。トレイシーにはさっぱり分からないが、ルカはとにかくトレイシーが可愛いのだと繰り返す。だったら、格好いい服を選べばいいのではないかと思ったのだ。それにあのスーツはルカの前でも幾度も着ていた服だ。だから特別な事は何も無い筈だった。

ところがルカの反応は、またもやトレイシーの予想を裏切った。
「熊女」の時の様に過剰なスキンシップはなかったものの、ルカはトレイシーの焦茶の髪に指を絡め、執拗にそこに唇を落とす。
――陽射しの色も良いけれど、この髪色の君も素晴らしいな。君の肌にとても映える――
――そう?雰囲気が違うとか、大人っぽいってよく言われるけど――
――ああ、その通りだと思うよ――
会話は普通なのに、距離が近い。トレイシーは手元の本に視線を向けて、ルカの雰囲気に呑まれない様に注意を払う。
けれどルカの手は髪から頬に移り、やがて指先が唇に触れた。暗色と金の装飾で固められたトレイシーの、唯一の赤色。そこに熱い視線を感じる。
口紅のついた口元をするりとルカの指がなぞる。トレイシーは耳の奥で鳴る危険信号に従い、音を立てて本を閉じると「ごめん、用事があった」と早口で告げ、部屋を飛び出した。
自室に駆け込んだトレイシーは、口紅を擦り落とそうと必死になったものだ。服装は問題なかったのに、口紅に注目されたのは盲点だった。ルカが告白の際もキスをしたがっていた事を、トレイシーはすっかりと失念していた。

その時を思い出して、トレイシーはシーツに爪を立てて蹲る。うう、と唸るトレイシーの顔を横から覗き込み、ルカはにこりと笑う。
「残念ながら、服装も駄目だったよ。君は布地が多い事に安心感を得ていた様だけど、華奢な君が男性的な衣服を身に纏うのは、非常に禁欲的で危うい」
「??危ないの?」
「ああ。分かりやすく言うなら色っぽい。女性としてのシルエットが強調されるから魅力的なんだ。着るのはいいが、それは自覚してくれ」
ルカの言葉に、トレイシーは唇を尖らせた。自覚も何も、そんな事を言うのはどうせこの物好きな男だけだ。
けれど、そう言う事なら「機械人形師」でルカの気を削ぐことなどできる筈が無かった。始める前から作戦は破綻していた事になる。
だったら最初から「偽笑症」にするべきだったのかも。でもルカがなんか辛そうだったしな。トレイシーがそう考えていると、ルカがこほんと咳払いをした。
「そういえば、君の盛大な勘違いはまだあるんだった。先日着ていた拘束着について、私には言いたい事がある」
「え、なに?」
揶揄う為の軽い口調から、真面目な声音になったルカに、トレイシーは肘をついて上体を捻る。顔を見て話したいところなのだが、ルカが脚の上に乗ったままなのでそれが精一杯の動作だった。
なんとか見えたルカの眉間には深い皺があり、トレイシーを見下ろす目線は咎めているようだ。
「あの拘束着、君は下に何も身につけていないだろう」
「うん。貰った時にそうだったから、そういうものなのかなぁって」
「そうか。こんなこと意中の相手に言いたくないんだが、君には直接言わないと通じないから言わせてもらう。頼むから今度から下着はつけてくれ」
「ふぇ?」
「ふぇじゃない」
こちらの訴えに惚けた声を上げるトレイシーに、ルカは苛立たし気に髪を掻き毟る。

あの時、作業中に部屋にやってきたトレイシーが「偽笑症」を着ているのを見て、ルカは一瞬顔を顰めた。
背中が無防備に開いている拘束着。ゲーム中なら気にならないが、平時に目の前にあると、ルカには辛いものがある。背中が開いたデザインのドレスならば気にならないが、服が脱げかけているという状態が非常に目に毒だ。
最初に見た時は、なんできちんと服を締めないのかと思っていたが、そもそも開いているのが正式な形なのでフックもファスナーもボタンも背中についていなかった事に驚かされた。
なるべく、ルカはそちらを見ないようにしながら温める前の半田鏝を台座に置く。この状況ではとてもじゃないが集中出来る気分ではなかった。
――何やってたの?――
――ああ、この間の半導体を試しにっ……!――
片付けを始めたルカの手元を、トレイシーが肩越しに覗き込んだ。その際に、背中にぴっとりとくっついた感触にルカはびくりと動きを止めた。
こんなことは日常茶飯事だし、ルカもトレイシーも特には気にしない、いつものやりとりのはずだった。けれど、いつもやっているからこそ「おかしいこと」に気付いてしまう。
服越しの筈なのに、ルカの背中には女性の体のライン、柔らかな二つの膨らみとその先端、言いいづらい箇所の生々しい感触がする。
それが何かと脳が認識する前に、ルカは椅子を蹴倒す勢いで立ち上がるとトレイシーに向き直り、その両肩を掴んだ。
――わあ。どうしたの、ルカ――
――いや、その、まさかと思うけど、少し失礼――
ルカは身体検査をするような動作でトレイシーの脇から腰までを確かめる。そんな訳はないだろうと思っていたのだが、ルカの指先には望んだ感触はない。
まさかと思うが、この子下着もつけずに服を直に着てるなんてこと無いよな?と思っての行動だったのだが、そのまさかだった訳だ。
きょとんとした顔で無垢な瞳を向けるトレイシーから、ルカは距離を取って壁に額を擦り付けた。彼女は普段からこの拘束着を無頓着にていたのか。そして今まで誰もそれを指摘しなかったのか。
これを据え膳と思わずに、正しく冷静に判断してしまう自分の理性がルカは憎い。
――彼女は私がした告白を本当に正しく認識しているのだろうか。一体どういうつもりでその格好で私の元に来たのか。何も考えていないのだろうか。
ルカは暗澹たる思いをぐっと飲み込み、心配して近づこうとするトレイシーを制し、絞り出す様な声で告げた。
――頼む。今ぐ着替えてくれ、その服――

そして現在。トレイシーはあの時と全く同じ、きょとんとした顔をしている。
「へ?なんで?」
「…………………………………………………………」
長い長い沈黙の間に、トレイシーは背後にいるルカの気配が不穏なものになっているのを感じた。何か不味いことになっている気がしたが、この状況で自力で逃げ出せる筈がない。トレイシーにはぴったりとシーツに体をくっつけて蹲る事しか出来ない。
そうやって、縮こまって「ルカ」という嵐をやり過ごそうとしているハリネズミ。そんなトレイシーに、ルカは虚しい気持ちで首を振る。
これが女性としての身の危険を感じてる、というのなら少しはルカにも救いはあるのだ。男として見られているのならばましだ。
けれど、トレイシーは単に「ルカの機嫌が悪い」というのを感じ取って防御しているだけなのだ。
何が悲しくて、愛を伝えてる相手の下着事情を注意しなくてはならないのか。それを更に自分の口から説明しろという。悪魔かとルカは思う。地獄の鬼の方がまだ情がある筈だ。
「君のその疑問、答えるのは簡単だが少しは自分で考えてくれないか。私にも限界はあるんだ」
「えっと……?」
ぱちぱちと目を瞬かせて、腕の中で無防備に首を傾げる少女。本当に全く分かっていない様子だ。
ルカと恋中になる事は警戒する癖に、自分が性的な目で見られる可能性は全く考えていない。ルカも薄々感じていたが、トレイシーの中で恋愛と性愛は違うものという認識なのかもしれない。
――これだけ愛を主張しているのに、どうして伝わらないのだろうか。彼女の好意が、友情の域を出ないからだろうか。
ルカは駄目だこれはと脱力してトレイシーの上に伸し掛かった。
「ぐえっ、重い!ちょっと!」
「はあ……失敗したなぁ」
「うううー!退いてよ、もー!」
一回りどころか、二回りは大きな体躯に押し潰され、トレイシーは身動きがとれなくなる。
体重を分散しているので全ての荷重がトレイシーにかかっているわけではないのだが、それでも他人に伸し掛かられるのは重い。
トレイシーは身を捩り、シーツを蹴り、ルカに抗議する。
「細っこい癖に無駄に大きいから重い!」
「…………本当に失敗した」
「後悔なのか懺悔なのか分かんないけど退いてってば!」
「なあ。君がこの状況ですべき反応はもっと慌てるとか、怯えるとか、身の危険を感じる事だと思うんだが」
「危険?なんで??」
「はああああ…………」
ルカはトレイシーの態度に全身の息を吐き出す。
そのつもりはルカにはないが、この状況は告白された男に押し倒されている状態と言える。それなのにこの子はなんとも感じていないのだ。
失敗だ。トレイシーと友になってしまった事も、距離感が近かった事も。参考にした友情が同性同士だったのも良くなかった。
トレイシーは恋人としての接触には敏感だが、その他のルカからの接触を、全て友との戯れ合いと認識している節がある。
手っ取り早く仲良くなれたのは事実だが、こんなに苦戦するなら最初から異性として近づいていればとルカはとても後悔している。
そして湧き上がるのはずっと抱えていた不安だ。トレイシーは恋人は嫌だと言い続けている。彼女は自分を男と認識しないのではなく、したくないのではないだろうか。
トレイシーとの関係はずっと平行線のまま、進展している気がしない。諦めるつもりはさらさら無いが、それでもルカだって凹むものは凹むのだ。
「ルカ?ねえ、具合悪いの?」
溜息の多いルカに、トレイシーは踠くのをやめて心配気に尋ねる。
危険を感じるどころか、こちらの身まで案じ出した。信頼されてる、と喜ぶ気にはなれない。
ルカの頭に浮かぶのは、今朝マイクから言われた言葉だ。

――ルカには酷いかもしれないけど、ちょっとそこは自覚させた方がいいんじゃないかなぁ――
――そういう対象として見てるって。少なくともルカが限界来て罪を重ねる前に――

「……………………うん」
一度目を閉じ、ルカは覚悟を決めた。今までの事が水の泡と化しても、マイクやナワーブの言う通り、本当にこのままだと我々の関係は進展しない。
ルカはトレイシーの肩を掴み、ゆっくりと体を仰向けに転がす。そして不思議そうにしているトレイシーの両手首を抑えた。
「?なあに、ルカ」
「約束を破る気はないからそこは安心してくれ。今何かする気は一切無いよ。でも君にはいい加減知って欲しい」
「知るって?」
「そうだな……トレイシー、君は今私の下から抜け出せるかい」
「う?んん……」
よく分からないが、ルカに言われた通りに拘束から抜け出そうとトレイシーは腕に力を込める。けれども細く見えてもルカの手はがっしりとしているのでびくともしない。脚も抑えられたままなので蹴り上げて逃げる事も出来ない。
トレイシーは早々に諦めると「無理」と答えた。その答えにルカは緩く微笑んだ。その表情はトレイシーにはあまりいい思い出がない。
ちりちりと頸を焦がす嫌な予感に、トレイシーは身を捩る。
「ちょっと、ルカ。離して」
「いやだ」
漸く焦りだしたトレイシーだったが、ルカに四肢を押さえ込まれているので自分ではどうにも出来ない。本気で抵抗しても逃げられない。その状況に、遅ればせながらこれがいつもの戯れ合いではないことにトレイシーは気付いた。気付いたけれどもどうにもならない。
見上げたルカは、感情が読めないあの微笑を浮かべたまま、じっとトレイシーを見下ろしている。ぞわりと背中に広がる怖気に、トレイシーの喉が引き攣った音を立てる。
――なんで?だってまだ恋人になってない。こういうのは恋人になったら気をつけろってみんな言ってたのに。
呆然とルカを見上げていると、緩慢な動きでルカが顔を近づける。トレイシーは咄嗟に顔を背ける。
――怖いから嫌だって言ったのに、キスはダメって言ったのに、私が受け入れるまで待つって言ったのに!嘘つき!
心の中で思いつく限りの言葉でルカを罵倒しながら、トレイシーは硬く目を瞑った。
しかし、降って来たのは恐れていた感触ではなく、耳へのキスだった。軽いリップ音にトレイシーが恐る恐る目を開くと、今度は鼻にキスをされる。それはいつもされているスキンシップと変わらないものだ。
「ふえ?」
「言っただろう、約束を破る気はないって。聞いてなかったのかい?」
「だって、だって!」
くつくつと笑う顔は近いものの、ルカはすっかりといつもの態度に戻っている。いつの間にか、拘束されていた手足も解放されている。
トレイシーはほっと胸を撫で下ろし、横向きに丸くなって顔を覆った。本当にさっきのルカは怖かったのだ。前に怖いと感じた時よりも、数倍怖かった。
ふるふると体を震わせるトレイシーに、抱き締めて今のはやり過ぎたすまないと甘やかしたくなる気持ちをルカはぐっと抑えた。
それでは今までとやっていることが変わらないのだ。覚悟した意味がない。庇護欲を掻き立てられるが、それより彼女に教えなくてはならないことがある。
蹲るトレイシーに、ルカは言い聞かせるように告げる。
「トレイシー、君の女性としての自己評価の低さは私も理解している。君は細身だし、異性から性愛の対象にされないと高を括っているだろう。でも思い知って欲しいんだ、いい加減。君に愛を告げてる私が、恋人になって欲しいと願う私が、君に女性の魅力を感じている事実を」
「…………ふえ?」
「ああ。回りくどかったか、すまない」
ぽかんと口を開けているトレイシーに、ルカは分かりやすい言葉を選び、もう一度言い直す。
「私は君を性的な目で見ているから、キス以上もしたい。君を抱きたいと思ってる。告白する前からずっとね」
「え……やっ、へ?う、うそ……」
「嘘だと思う?」
戸惑いを隠せず、視線を彷徨わせているトレイシーの顔をルカが覗き込む。言われた言葉が脳に浸透していかないのか、トレイシーは子犬のような呻き声を漏らす。
だってルカは全くそんな気がある様には見えなかった。キスはしたがっていたけれど、触れてくる手はいつも優しくて性的な衝動は感じなかった。好きだ、愛してると言われるが、トレイシーは自分はそういう欲求を抱かれないと思っていたのだ。
――それともお姉さんたちが言う「いつか恋人になった相手」にルカがなったら、そういうことも起きるのかな。だったら恋人にならなければやっぱり安全だ。
普段から気をつけなさいと言われていても、その時に考えればいいかと先延ばしにしていたのだ。
相変わらず自身に覆い被さったまま、じっとこちらを見下ろすルカの視線が今更ながら恥ずかしい。トレイシーは両手を伸ばしてルカの目を塞いだ。
「んお⁈」
「見ないで!」
「君な、照れ隠しで私の目を攻撃するのをやめてくれ」
「ううう、だって、だって!そんな事言われたら気になるし!でも、でもなんで?だって男の人って大きい胸とか腰が括れててお尻の形がいいのが好きって聞いてたのに!私違うじゃん!」
「ああ。それはね」
ルカは細い両手を掴むともう一度、ベッドに縫い止める。今度は軽い力なのでトレイシーでも直ぐに振り解ける程度だ。
それでも先程の雰囲気を覚えているトレイシーは慌ててしまう。
「ルカっ」
「世の男性全員が同じものが好きとは限らないんだ。私は君の華奢な体躯が魅力的だと思っている。ああ、それに君は胸は慎ましいけれど腰つきは誰が見ても素晴らしいよ。脚も美しいし。君が思っているよりも、君の体は十分女性として整っている」
「そ、んなこと……」
「信じられないかい?まあそれは仕方ない。でもこれは覚えておいてくれ。トレイシー、私はやろうと思えばいつでも君との約束を反故に出来たんだよ、今のように。君は私にとても懐いているから。キスは警戒する癖に他は隙だらけ、どうこうしようと思えばいつでもできた。でもそれはしなかった。ずっと欲を隠して耐えていた。どうしてだと思う?」
「え、えっと……」
拘束を解いたルカの手は、トレイシーの髪を撫で、頬に触れる。優しい手つきだったが、逆の手はトレイシーの耳をなぞり上げて艶めいた動きで首筋を辿る。耳も首も弱いところなので、トレイシーも「んんっ」と声を上げる。
悪戯をするルカの右手をトレイシーは両手で掴んだ。
「わ、分かんないっ……やめてそれ……!」
「ほら、それだ」
「へ?なに?」
「恋人になってくれというだけでも体を震わせて怯える。そんな子にこの欲望を見せたら、怖がるのは分かっていた。私は君を怖がらせたくないし、嫌われたくない。だから隠していた。言っただろう、君が受け入れてくれるまで待つと」
目を丸くして自分を見上げているトレイシー。ルカはトレイシーの丸い頬を手で挟み、もちもちとした感触を楽しむ。
触れただけで手を叩き落とされていた頃から、漸くここまで慣れてくれた。それでもまだまだトレイシーは頑なだ。
苦笑を浮かべて、ルカはトレイシーの横に仰向けに転がり、目を閉じた。とうとう言ってしまった。でも言わなくては彼女は自身の危うさを自覚しない。強電流を浴びせる以上の事故が起きては困るのだ。
「君は、私の強靭な理性に感謝すべきだと思う。本当に君は無防備だし、無自覚に私を煽るし、何度手を出しそうになったことか……こんな私をケダモノ扱いするとはモートンめ」
話しているうちに、マイクとのやりとりを思い出してルカは苛立たしげに顔を顰めた。相談に乗ってくれるのはありがたいが、事あるごとに軽蔑した目で人を疑うのをやめて欲しい。
ルカはずっと抱えた欲を完璧に隠して、トレイシーに悟られないように見えないように耐えていたのだ。トレイシーを可愛がって発散するのにだって限度がある。多少は行き過ぎてしまうのも許して欲しい。
――アルコールに乗じて約束を破った事は本当に反省してはいるが。
もそりとトレイシーが隣で起き上がる気配がする。先程、組み敷いて怖がらせてしまったので、このまま部屋から彼女が逃げてしまっても仕方がない。
そう思ってルカは目を閉じたままじっとしていたのだが、トレイシーは逃げるどころか、のそのそとルカの上に乗り上げてきた。
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