私に言わせればあれは悪魔
事の顛末を聞いたルカは、顔を覆って天井を仰いだ。酒気も眠気も何もかもが吹き飛んだ。
しでかしてしまった事に、絞り出すような声で謝罪するしかない。
「……すまなかった」
「ルカ、暫くはお酒禁止だから」
「承知した」
「当分の間、膝抱っこも許さない」
「そうなるのもしかたない」
ベッドで胡座をかいてこちらを睨み下ろすトレイシーに、ルカは床に正座して頭を下げる。人前でやらかしてしまっただけでなく、ルカを部屋まで運ぶのも彼女が機械人形でやってくれたらしい。
ルカは寝ぼけて強電流を放つという事故をトレイシー相手に起こしているので、生身の人間に触らせるのは危険と判断したのだ。
ルカを床に転がして、トレイシーはちゃっかりと人のベッドで寝ていたのは諸々の腹いせだと思われる。と言ってもルカも作業などでよく机や作業台で寝落ちているのでベッドで寝る事のほうが少ないのだが。
トレイシーは機嫌の悪い顔で膝の上に頬杖をつく。
「で、なんであんなことしでかしたのさ」
「またこのパターンか……」
「ちょっと、聞いてるの⁈」
「聞いてる聞いてる」
くわりと美智子顔負けの鬼の形相になるトレイシーに、ルカは背筋を伸ばした。今日のトレイシーの剣幕は、呑気に可愛いなと考える隙など与えてくれない。
「人前で膝抱っこするなんて、何考えてんの!誤解されるでしょうが!」
「んん……」
「『それは好都合』って顔しても無駄だから。あそこにいた人には事情話したから外堀埋めようとか企まないように」
一瞬、口角を上げたルカにトレイシーは冷たい視線を送る。咳払いで誤魔化そうったってそうはいかない。
幸い口が軽い人間はあの場にはいなかったので、口止めはできている筈だ。下手に隠すより秘密を明かした方がいい場合もある。今回はそれだ。あそこで何も言わないでいる方が余計な憶測が広まってしまう危険性があった。
ルカは心底残念そうに顎を摩る。
「君も、可愛くないことをするようになったな」
「前から言ってるけどあんたの目がおかしいんだよ。で、気分はいいけど誤魔化されないから。なんであんな事したの」
「……君は何も思い当たらないのかい?」
「分かるわけないでしょ」
じっとルカに見つめられ、トレイシーは僅かにたじろいだ。ルカの目にはどこか責めるような色があったのだ。
だが、分からないものは分からないし、今説明を求めてるのは自分なのだ。負けじと睨み返す。
暫くそうしていると、ルカが自身の髪の結び紐を外し、乱暴に頭を掻き毟った。
「…………君は酷い奴だと思う」
「運んであげたんだから親切でしょうが」
「そこではなく!君、クラークに言っていたじゃないか」
「何を?」
「羨ましいと。そんなに大事にされてる婚約者が。そして婚約者に愛されている彼が。何度もそう言っていただろう」
「言っ……た、かな?」
トレイシーは腕を組んで唸る。何せイライの惚気はいつもの事なので、そんな会話は日常茶飯事だ。昨夜も確かにそんな事を言ったような気はする。ただ、ウィラも同じような事を言っていた筈だ。
トレイシーが唸っている間に、ベッド脇まで這って近づいたルカは、恨みがましい目でトレイシーを見上げる。
「私への当てつけか」
「は⁈そんなつもりは全くないよ。いつものお決まりのやり取りでしょうが」
「羨ましいってなんだ。私も大事にしているが。君が怖いと言うからずっと耐えているが。愛されていいなってどう言うことだ。私も愛しているっ、うぐ!」
「っあああああ!」
トレイシーは枕をルカの顔に押し付け、聞こえないとばかりに声を張り上げる。顔は林檎のように赤くなっている。
過度なスキンシップにはトレイシーも少しづつ慣れてきた。が、直接的な言葉は感情の色が見えるので苦手なのだ。ルカの言葉は特に駄目だ。
友達と言っている今でこれなのだから、恋人として受け入れたらと思うととても耐えられない。
「もう!もう!いつものやり取りでしょうが!あの惚気話にそれ以外に何言えっての!あんたも言うでしょ!」
「っ!、ぐ……!」
ルカは何度も何度も振り下ろされる枕を掴み、トレイシーから取り上げた。流石に顔面を狙われては息が出来ない。
気をつけているのだが、感情的になるとつい想いを言い募ってしまう。それをやめろと散々トレイシーに言われているのだが、普段耐えている分溢れてしまう事があるのは大目に見て欲しいとルカは思う。
呼吸が整うとルカはふう、と息を吐いた。
「窒息させる気か、君は」
「その口は縫い合わせたい。なんでそんな歯が浮く台詞をぽんぽん吐き出せんの、あんたは!」
「思ってる事を言ってるだけなんだが……」
「それが困るの!」
社交辞令だったらどんなに良かったか。ルカの言葉は混じり気なしの本音だから、トレイシーはむずむずしてしまうのだ。
周りくどい皮肉や長ったらしい口上もできる癖に、トレイシーに対してルカは直球な想いと言葉を放つ。
トレイシーは悪意は受け流せるし、好意的な想いは受け止められるが、恋愛に関しては何も分からない。その想いに対してどう反応すればよいのか。とにかく拒否することしか出来ない。
――決して嫌な訳ではない。けれどどうしたらいいのか自分では分からない。それがトレイシーがずっと抱えている悩みなのだ。
ルカはキーキー怒るトレイシーに、唇を尖らせた。
「ほら、君はいつも私にはそれだろう?なのにクラークと婚約者の話には平然と受け答えしているじゃないか。例え、お決まりのやり取りでも私にも思うところはあるんだ」
「そ、れは……うう……」
どこかしょんぼりとしたルカの態度に、トレイシーは目線を泳がせる。図体のでかいこの男が落ち込むと、大型犬が鼻を鳴らしている姿が重なって見える。トレイシーはそれにとても弱いのだ。
それに自分の臆病さにルカを付き合わせているのも、また事実なのだ。
たじろぐトレイシーを他所に、ルカは膝に抱えた枕に肘をついた。
「そりゃ、私も流石に分かっているよ。脈もないなら君はそんな反応はしないことも。そこは嬉しく感じている。けれどやはり不満は不満なんだ。アルコールで多少気が大きくなっていた事もあったと思う。こう、平然と受け答えしてる君をどうにか困らせたいなと。そしたら予想以上に面白い悲鳴が上がったものだから」
うくくと昨日の事を思い出して肩を震わせるルカに、トレイシーは何か投げつけるものはないかと辺りを見回す。
あの時はウィラとイライと話していたら、無表情のルカが目の前に現れ、トレイシーを蕪を引き抜く様に抱え上げたのだ。それは驚くに決まってる。「わぎゃああ⁈」という妙な声が出ても仕方ないだろう。
残念ながらルカのベッドは余計なものがないので、枕以外に投げられそうなものはなかった。トレイシーは舌打ちをしたい気分になる。
「で、満足したから人を抱き枕にして寝に入ったと?」
「そうなるな。君は抱き心地だけでなく、サイズも本当に丁度いい」
「私の抱き枕レビューはいらないの!あんたのせいで本当に!本当に恥ずかしかったんだから‼︎」
「すまない、そこまで困らせるつもりはなかったんだ」
宙に浮いた足に、わたわた慌てているトレイシーが非常に可愛らしいと思ったことは覚えている。それを取られない様に抱え込んで……その後からルカには記憶がない。気分良く眠りに落ちてしまったのだろう。
残されたトレイシーが逃げ出す事も隠れることも出来ないあの状況をどう切り抜けたのか、そこは気になっている。なのでルカはベッドに身を乗り出し、尋ねる。
「事情を話した、と先程言っていたな。君が自分から?」
「話すつもりは私もなかったよ。でもどんどんどんどん、黙ってるわけにはいかない方向に話がいくから……!」
「そんなに拗れたのか」
拳を握って呻くトレイシーに、やり過ぎたと改めてルカは反省した。
トレイシーは二人で交わした約束通りに可愛がらせてはくれるものの、最近はすぐに逃げてしまうので触れる時間が極端に短い。意識してくれるならルカも望むところなので耐えているが、正直物足りない。
むくむくと膨らんでいた不満を酒の勢いで解放してしまい、約束を破ってしまったのだから自分が全面的に悪い。
トレイシーの感情の天秤は恥ずかしさと恋愛への怯えがまだまだ重く、友人でいたい思いが勝っている。自分が嫌がられているわけではないのは承知しているが、しかし、ほんの少し、私と恋人と思われるのがそんなに嫌なのかとルカは落ち込んだ。
ところがトレイシーの話を聞いてみると、どうやら彼女が黙っていられなかったのは違う理由だったらしい。
「みんな勘が鋭いわ、誘導が上手いわであんたから告白されたこと吐いたら責められたから事実言うしかなかったの!」
「?君が?何故?」
「……………………………………言いたくない」
むすりとした顔をするトレイシーに、ルカは掌に拳を打ちつける、古風な動作で「ああ」と声を上げる。
「あれか。私をキープしている悪女扱いされたのか」
「⁉︎なんで当てるの‼︎あんたまさか普段からそんな事思ってるわけ⁈」
「違う違う、違うから落ち着いてくれ!」
黙秘しようと思っていたことを正確に言い当てたルカに、トレイシーがくわりと牙を剥いた。
トレイシーに胸倉を掴み上げられたルカは、慌てて否定する。だが、頭に血が上ったトレイシーは聞く耳を持たない。
「思ってないならそんなあっさり答えが出るわけないじゃん!ナワーブといいホセといいあんたといい、よくもそんな失礼な事を言えたもんだわ!悪人度で言うなら告白受け入れるか縁切るか選べって迫ったあんたの方がよっぽど上でしょうが‼︎」
「そこまで言った覚えはないぞ……」
「逃げらんない様にして答え迫ったのは事実でしょうが!あの時動揺してた自分を引っ叩いてやりたいよ、私は!選べとか言って全然断らせる気無かった癖に!」
「うん。それは否定しない」
「少しは悪びれなさいよ‼︎」
胸倉を掴まれたルカの首が、がくがくと縦に揺れる。目を吊り上げたトレイシーの顔に、これは怒りが収まるまで抵抗してはいけないんだとルカは判断する。
「そもそもキープしてないし!友達じゃやだって言ったのルカだし!ぬいぐるみ扱いだって、私はルカだけでも恥ずかしいけど我慢して大人しくしてんのに!」
「いや、ちょっと待ってくれ。今聞き捨てならない事言ったな、君」
されるがまま、揺さぶられていたルカがトレイシーの手首を掴んだ。そうして立ち上がるとトレイシーの顔を上から覗き込む。
「ぬいぐるみ扱い、というのは?」
「いつもしてるでしょ。抱っこしたり撫でたりキスしたりしてくるじゃん」
「君はあれをぬいぐるみ扱いと思っていたのか……?」
自分の手を掴んだまま、覆い被さるような体勢で目を見開くルカに、トレイシーは不思議そうに首を傾げる。何故そんな驚いたような反応をしているのだろう、という風に。
トレイシーにだってぬいぐるみや人形で遊んだ記憶はある。膝に乗せて、撫でて抱きしめてキスをして、一緒に眠って一緒におやつを食べて。そうやっていつも一緒にいたものだ。父の作業場の魅力的な遊び道具に気付くまで、トレイシーにだってそんな時代はあったのだ。
勿論、ルカにはそれだけじゃない意図があるのは知っている。だけど恋人でもない相手にそのスキンシップをさせることを、他にどう表現すればいいのか。「ぬいぐるみ扱い」というのがぴったりな筈だ。
ルカにそれを告げれば、何か言いたげに口を開き、しかし思い直したように閉じる。ルカは眉間に皺を寄せ暫く何かを考え込んでいたが、やがて諦めたようにベッドに倒れ込んだ。
「ルカ?」
「……………………ぬいぐるみ扱いでいい、もう。君がそう思ってるならそれでいい」
不貞腐れたようにぼやくルカに、トレイシーはひっそり胸を撫で下ろした。
――あのスキンシップがぬいぐるみ扱いなんて可愛いものじゃないことくらい、十分分かっている。
しょんぼりとしたルカにトレイシーが弱いように、ルカはトレイシーの幼気な反応に弱い。なにも分かってない振りをしていれば大抵はこうやって諦める。
イライの指摘通り、最近のルカは二人きりになると遠慮がないのでトレイシーは内心とても焦っていた。変わった格好をしてみたり、わざと話を逸らしたり気づかないふりで躱しているが、綱渡をしている気分だ。ぬいぐるみ役に徹していなければ耐えられない。
今回ルカがしでかしたことが恥ずかしかったのも、それに怒っているのも本当だが、少しだけこれを言い訳に出来ると安堵している自分もいる。
「…………覚えてろ」
「!な、なにさ、いきなり」
うつ伏せのまま、地を這うような低い声で呻くルカに、トレイシーはそろそろと後退る。が、逃げる前にシーツに突いていた手首を掴まれる。
「うぎゃ⁉︎」
「関係が変わったら私は容赦しない」
「だ、だからあんたのそれが怖いって言ってんでしょうが!」
手首の拘束を振り払って、トレイシーはベッドの端へと逃げる。
決してトレイシーは夢見る乙女という訳ではない。そうではないが、なんとなく恋愛というのは穏やかに始まるものだと思っていたのだ。経験したことはないが、そういうものなのかなと想像していた。
まさか、初めて出来た友達に、こんな重たい感情を向けられる恋愛に巻き込まれるとは思ってなかった。
やんわりと始まるものならトレイシーだって吝かでは無かったのだ。トレイシーはルカのことは好きだ。それは間違いないのだ。
ところが僅かな食い違いから、嫉妬に染まったルカをトレイシーは見てしまった。一瞬だったので何かをされたわけではないが、その片鱗はトレイシーには「怖いもの」に分類された。告白される寸前の出来事だったせいもあり、より印象に残ってしまったのだ。
もしも恋人になることを受け入れたら、またあの状態のルカを見ることになるのではないか。トレイシーはそれが嫌で仕方ない。
そして今の状態でも非常に恥ずかしいとトレイシーが思っているスキンシップを「まだ足りない」と不満がっているこの男。もしもOKを出したら何をしてくるのか、それが予想がつかな過ぎて本当に怖い。
「そんなもしもとかないから。絶対変えないから!あんたは友達!」
「今はそれでいいさ。……絶対変えさせる」
「ひっ……」
ぎりぎり聞こえる声量で呟かれた言葉に、トレイシーは背筋が冷えるのを感じた。「頭のネジがぶっ飛んでる奴の行動は分からない」と言われていたが、本当にその通りだと今は思う。
ルカは体を起こすと、ベッドの端で縮こまっているトレイシーににこりと笑う。
「その時はちゃんと君の了解を得るとも」
「本当かなぁ……」
「ただ君が他の男に目移りしたらどうするかは分からない」
「あ、それは無い無い。ルカだけで手一杯だし。他見る余裕ない」
あっさりと興味なさ気にそう答えるトレイシーに、ルカは目を瞬かせた。数秒二人で見つめ合った後、ルカはふっと息を吐き出すと肩を震わせる。そして大きな声を上げて笑い出した。
「あっはっはっはっはっはっ!」
「……人の顔見て笑い出すのはどういう了見よ」
トレイシーは苛立たし気にルカを睨んだが、睨まれた当人は応えた様子もない。笑い過ぎて目に浮かんだ涙を拭きながら、ルカは仰向けに寝転んだ。
「はー…………君は本当に酷い奴だ」
「はあ?」
「私だけ、か。そうか」
「不貞腐れたり、にまにましたり。忙しい男だよね、あんたも」
「そういう君は、男心を翻弄するのが実に上手だ。どうかそれは私だけであってくれ」
何がおかしいのか、まだくつくつと笑っているルカにトレイシーは落ちていた枕をぶつける。よくは分からないが、また悪女扱いをされているのが気に入らない。
トレイシーはルカを放置して、ベッドから立ち上がる。窓から差し込む朝日はいい時間を示している。朝食の気分ではないので、一度部屋に帰ってシャワーでも浴びようか。そんな事を考えていると、ノックの音が鳴った。「おーい」という声はマイクのものだ。
ルカは二日酔いの影響か、少しまだふわふわとする体を起こして扉を開けてやる。「おはよう」と言うマイクは朝でも溌剌としていて、どんよりしているルカとは対照的だ。
「おはよう。どうしたんだ、モートン。こんな時間に珍しい」
「暇ならみんなでお祭り街に行こうって話になってさ。トレイシーもどうかなって。いる?」
「いるよー」
マイクの問いに、ルカの脇の下からひょこりとトレイシーが顔を出す。
この部屋に彼女がいるのは当然の事なのかとルカは少し苦笑いしてしまう。そう人に思われることは嬉しいが、それは友人だからという認識だろう。それ以上の関係を望んでいるルカとしては、一番の仲良しという扱いは嬉しくもあるが、複雑な思いもある。
それを押し隠して、ルカは態とらしい不満気な表情を作り、マイクに問いかける。
「おいおい、部屋主の私はその楽しい催しには誘って貰えないのか?」
「うーん、誘いたいのは山々なんだけどさぁ」
「?」
「ルカは、まずこっちでしょ」
マイクが戸口から体を退かすと、その後ろにはパトリシアが呆れたような不機嫌なような顔で立っていた。
彼女はルカを見上げ、次にトレイシーを見やり、深い深いため息をついた。
「バルサー、お前のその賢いお頭には大鋸屑が詰まっているのだろうか。お前の記憶にはなんの期待もしていないが、今日が何の日かくらいは何処ぞに書き記しておける筈では?」
「………………なにか、あったか?」
パトリシアからの冷ややかな目線に、ルカは少し考えてみたものの、全く思い当たる節がない。今日が何の日か。何の日だろう。特になにも無い日だと思っていたのだが。
顔に「分からない」と書いてあるルカに、マイクはこそりと耳打ちする。
「衣装、来るでしょ。今日」
「!ああ!」
掌に拳を打ちつけ、ルカは声を上げる。今日はパトリシア、自分、マリーに新しい衣装が来る日だ。受け取りに行かなくてはならないのをすっかり忘れていた。
ルカの反応にパトリシアはぎゅっと眉間に皺を寄せた。しかし口に出しては何も言わなかった。代わりにトレイシーの方を見る。
「ところでトレイシー。見たところそれは寝巻きじゃないか?」
「え?うん。まあ、そうだね」
ノースリーブのシャツに、少し大きめのショートパンツ。拘りはないので適当に着ているものだが、寝巻きには違いない。
トレイシーが素直にそう答えると、パトリシアの眉間の皺が更に深くなった。
「まさかと思うが、ここで寝ていたわけではないだろうな?」
「えっと…………」
目線を泳がせるトレイシーに、パトリシアの醸し出す雰囲気が不穏なものになっていく。
散々トレイシーには友人であろうと深夜に男を部屋に入れるな、男の部屋に入るなと言っているのに、これだ。
「ちょっとこっちに来なさい」
「ああ〜……」
トレイシーは猫の子のように襟首を掴まれ、パトリシアに連行されていく。朝から怖い怖いお姉様のお説教タイムになるようだ。
止めるわけにもいかないので、ルカもマイクもその後ろ姿を見送るしかない。
「長く、ならないことを祈ろう」
「この後の予定もあるから大丈夫だとは思うけどね。ってかなんでトレイシーだけでルカは怒られないの?」
「私はちゃんとそのラインはいつも守っているからな」
ルカは遠くを見るような目をしている。
起きたら自分が床の上だったのはいつもの事なので驚かなかったが、ベッドの上であられもない姿で寝ていたトレイシーには驚いて声を上げてしまった。
友達友達と言いながら、人の理性を試すような試練を課すのをやめて欲しい。時々弄ばれているのではとルカはトレイシーを疑いたくなる。それなのにいつもトレイシーはルカだけが悪いかの様に責め立てる。本当に酷い奴だ。
ルカは憮然とした顔で頭を掻く。
「私も朝からニ回も説教されたくない」
「二回……?もしかして、仲良く夜明かししたわけじゃなくて、トレイシーに説教されてた感じ?」
「ああ。酒の失敗をな。バーボン達との呑みの席でやらかしてな」
「へえ。ルカが酒盛りに参加するなんて珍しいね」
「参加したと言うか、捕まったと言うか」
「で、なにやらかしたのさ」
気になって気になって仕方がないという態度を隠そうともしないマイクは、わくわくとした顔で先を促す。
ルカは精々、嗜む程度にしかアルコールを摂取することは無かった。そんな男が酒で失敗したと言うのだ。一体何をしでかしたのか。
泣き上戸?絡み酒?笑い上戸?どんな痴態を晒したのだろうか。是非とも後で他の参加者にも話を聞きに行きたいところだ。
そんなうきうきした様子のマイクから、ルカは目線を逸らして言い淀んだ後にぼそりと呟いた。
「他の人間がいる前で、トレイシーを攫って抱き締めて寝入ったせいで、残された彼女が質問責めにあったとかで……」
「何やってんだ」
すっとマイクの顔から笑みが消える。本当に何やってんだ、こいつは。
マイクはルカの告白を後押しした張本人であり、告白の場面を扉越しに聞いていたので、二人の事情は大体知っている。なんならルカがトレイシーに一目惚れした場にもいた。
恋愛対象になるのは怖い、ルカを男として見るのも怖い、自分が女として見られているのも恥ずかしいと逃げ回るトレイシーと、じわじわと包囲網を狭めて行くルカの攻防も見ていた。長い時間をかけて追い込んでいた癖に、何故それを不意にする様な事をしでかしたのか。
約束を破ったのもそうだが、他の人間に知られて今の関係を壊すこともしたくないとトレイシーはずっと言っていたのだ。それは説教もされるだろう。
マイクはこれは自分がフォローを入れなければと急いで問う。
「誰、呑み会に一緒にいたの。デミとホセはいただろうけど他は?」
「サベダーと、ナイエルとクラークだな。トレイシーが事情は説明したから問題ないと」
「ああ……口が軽い人はいなかったのが幸いだね」
デミとイライは職業柄、個人の情報を話すことはない。ホセとウィラ、ナワーブはそもそも口数が多くない。
酒盛りの参加者によっては、その場であった事を翌日の午前には荘園中の人間が知っている、なんて事もあるのだ。
ルカは部屋の戸口に凭れ掛かり、不貞腐れた顔でぼやく。
「私もやらかした自覚はあるさ。だから当分の罰も禁酒も受け入れる。それでも私にも彼女に対して不満に思う事はあるんだ」
「はあ〜……またバチられても困るから吐き出したい事あるなら吐き出せば?」
ルカが感情を溜め込むと同じように電気を溜め込んでしまう体質なのは以前にも聞いたことがある。
トレイシーへの感情を抑えた結果、彼女自身に電撃を喰らわせるという事故が起きたのだ。それもあってマイクはルカに告白してしまえと発破をかけた。
不満を溜め込んでまた同じような事を起こされても問題だ。
「んで、何を愚痴りたいのさ?」
「最近、彼女がわざわざ可愛らしい格好をして私のところに来るんだ。なにか期待した目をしているから、最初は受け入れてくれるつもりがあるのかと思っていたんだが、少しでもそういう雰囲気になると相変わらず逃げていくのでそう言う訳でもないらしい。だから、これはなにか私を試していると思うんだが、その意図が分からなくてな。モートンはどう思う?」
「うーん、頭痛い」
マイクはずきずきとする眉間に手のひらを当てた。
また、なんかこの二人はすれ違いを起こしている気がする。頭がいい癖にお互いに言葉が足らないのはなんでなんだ。
頭を抱えて唸っているマイクに、ルカは心配そうに眉尻を下げる。
「痛み止めならあるぞ」
「心意的なものだからいい……」
心底不思議そうに首を捻って悩んでいる男は何かしらの助言を求めているのは分かる。けれどコミュ力お化け扱いされているマイクにだって、トレイシーとはいえ乙女の心理は分からない。
わざわざおめかしして告白した相手の元に現れる。そして翻弄するように逃げていく。その様を想像して、マイクは憮然とした表情になる。
「え?なんか悪女の修行でもしてる……?」
「そう!そうなんだ。私が弄ばれてるんじゃないかと少し疑っていたこともあったんだが、どうも彼女にそのつもりは全くないらしい」
「なんで分かったのさ」
「トレイシーの所持している服の中に、拘束着があるだろう」
「あのめちゃくちゃ個性的なやつね」
「偽笑症」とかいう服だった筈だ。よく覚えている。
マイクが荘園に来る少し前に貰ったばかりだったので、トレイシーは気に入ってよく着ていたと記憶している。
最近はあまり見かけなくなっていたので、ちょっと懐かしい。
マイクがそう告げれば、ルカも頷く。
「先日、あの拘束着でトレイシーがここに来たんだ。私もゲームで何度もあの衣装は見ていたし、背中の露出が少し気になる程度だったんだが……普通に接していたら気付かない事に気付いてしまってな」
「なに、気付かないことって」
首の後ろを撫でながら、ルカは言いにくそうに口を歪める。そんな態度を今更取られたところで、気になるものは気になる。
先を促すマイクにルカは声を潜める。
「…………あの服、直で着ているんだ」
「え?どういうこと?」
「どうもこうもない。トレイシーはあの拘束着の下に何も身につけていないんだ。感触がどうにもおかしくて、直接確かめたらあるべきラインがなくてな。これは下着もつけていないのではと」
「え、ケダモノ」
「だから、違う‼︎」
軽蔑の眼差しで体を引くマイクに、ルカは叫ぶ。
ルカの手元を覗き込もうと背中にトレイシーが密着したが為に気付いたので、不可抗力だ。その感触がおかしかったので確認の為にトレイシーに触れたが、それはそれだ。
それに至近距離にいれば見えてはいけない体のラインが見えていたのでどちらにしろ気付いていた筈だ。
「まさかなという思いがあったんだ。いくら無防備な彼女でも流石に無いだろうと。無いと思っていたのにそのまさかだったんだ。当然、即座に離れたしすぐに着替えさせたさ!」
「分かった分かった、ケダモノ呼ばわりは謝るって。ルカって好き勝手やってるっぽいのにそこは守るんだね」
「君らの中で私はどういう評価なんだ……?いろいろ懸命に耐えているんだが?」
「悪かったって。しかしそんな男に対してトレイシーってば鬼畜の所業だね。無いとは思うけど、それをトレイシーが狙ってやった訳じゃないっていうのは、ルカはなんで分かったの?」
「…………距離を取って着替えてくれと頼んだら、電気怖かったねごめんね次から気をつけるねと謝られた」
「そっちじゃねえ」
思わず乱暴な言葉が出てしまった。マイクは両手でぐしゃぐしゃと髪を掻き毟る。電気人間が今更そんなもの怖がるわけないじゃん。
ルカは戸口から離れ、肩を竦めて見せる。
「彼女の真意が全く分からないだろう?」
「確かに分かんないなぁ。ルカに対する警戒心があるのかないのか…………あ、もしかするとルカが鋼の根性で耐えすぎて、そういう欲が無いと思われてるとか」
マイクは「なーんて」と戯けて見せたが、ルカは長い沈黙の後に顔を片手で覆い、天井を仰ぐ。
「…………………………………………それは、あるかもしれない」
「え、いやいや冗談だよ?そんな訳ないよ、告白してきた相手に」
「モートン、彼女自身の女性評価と容姿評価の低さを舐めてはいけない。私に性欲があるかどうかではなく、トレイシーは自分は欲情の対象外と高を括っているところがあるんだ」
「!こんな身近に危険人物がいるのに⁈」
「私をケダモノ扱いするのをやめろ」
「ごめん、つい。初手泣き方が可愛いとか言い出す変態だから」
「変態て」
私をなんだと思っているんだ。ルカは淀んだ眼差しをマイクに向ける。
恋情を示すだけでやだやだと怯える彼女の為に、こちらは必死に欲を見せない様に努力しているというのに。ルカ自身、自分がこんなに忍耐強いとは思っていなかった。
マイクは酷い顔になっているルカを他所に、腕を組んで唸る。
「うー……ルカには酷いかもしれないけど、ちょっとそこは自覚させた方がいいんじゃないかなぁ。パトリシアも他のお姉さん方もああやって口酸っぱく注意してんのに全然トレイシー態度改善しないからさ」
「自覚させる……」
「うん。ちゃんと伝えた方がいいと思うよ。そういう対象として見てるって。少なくともルカが限界来て罪を重ねる前に」
「私の評価は変わらないんだな、そこは」
真剣な顔でアドバイスをするマイクに、ルカは肩を落とす。
しかし彼が言う事は間違いではないと思う。いくら耐えるといっても人間だ。それに、自分以外の男も何で箍が外れてしまうか分からないのだから、自覚も自衛もトレイシーにはして欲しい。彼女がどう思おうと、可愛らしい女性であることは事実なのだから。
眉間に皺を寄せて考え込んでいるルカに、マイクは指を突きつける。
「現に、不満溜め込んで酒でやらかしてる訳だし」
「ずっと思わせぶりな事を繰り返されて、私もこう悶々とな。そんな時にクラークの惚気に羨ましいだのなんだの言っているものだから、つい酒の勢いで」
「意地悪したくなったと。やりすぎだけど」
マイクに言われた言葉に、ルカは情けない顔で笑う。言われなくても自身でもそう思う。
ふと顔を上げれば、廊下の向こうからトレイシーとパトリシアが戻って来るのが目に入った。
機嫌がよろしくはないパトリシアをこれ以上不快にさせる事は避けなくては。ルカは手早く髪を纏め、髪紐で括り身支度を整える。
「そろそろ行かなくては」
「後でルカも祭りに来るでしょ。新しい衣装の自慢ついでに」
「自慢……出来るものだといいんだが。何が来るか分かったものではないからなあ『あれ』は」
しでかしてしまった事に、絞り出すような声で謝罪するしかない。
「……すまなかった」
「ルカ、暫くはお酒禁止だから」
「承知した」
「当分の間、膝抱っこも許さない」
「そうなるのもしかたない」
ベッドで胡座をかいてこちらを睨み下ろすトレイシーに、ルカは床に正座して頭を下げる。人前でやらかしてしまっただけでなく、ルカを部屋まで運ぶのも彼女が機械人形でやってくれたらしい。
ルカは寝ぼけて強電流を放つという事故をトレイシー相手に起こしているので、生身の人間に触らせるのは危険と判断したのだ。
ルカを床に転がして、トレイシーはちゃっかりと人のベッドで寝ていたのは諸々の腹いせだと思われる。と言ってもルカも作業などでよく机や作業台で寝落ちているのでベッドで寝る事のほうが少ないのだが。
トレイシーは機嫌の悪い顔で膝の上に頬杖をつく。
「で、なんであんなことしでかしたのさ」
「またこのパターンか……」
「ちょっと、聞いてるの⁈」
「聞いてる聞いてる」
くわりと美智子顔負けの鬼の形相になるトレイシーに、ルカは背筋を伸ばした。今日のトレイシーの剣幕は、呑気に可愛いなと考える隙など与えてくれない。
「人前で膝抱っこするなんて、何考えてんの!誤解されるでしょうが!」
「んん……」
「『それは好都合』って顔しても無駄だから。あそこにいた人には事情話したから外堀埋めようとか企まないように」
一瞬、口角を上げたルカにトレイシーは冷たい視線を送る。咳払いで誤魔化そうったってそうはいかない。
幸い口が軽い人間はあの場にはいなかったので、口止めはできている筈だ。下手に隠すより秘密を明かした方がいい場合もある。今回はそれだ。あそこで何も言わないでいる方が余計な憶測が広まってしまう危険性があった。
ルカは心底残念そうに顎を摩る。
「君も、可愛くないことをするようになったな」
「前から言ってるけどあんたの目がおかしいんだよ。で、気分はいいけど誤魔化されないから。なんであんな事したの」
「……君は何も思い当たらないのかい?」
「分かるわけないでしょ」
じっとルカに見つめられ、トレイシーは僅かにたじろいだ。ルカの目にはどこか責めるような色があったのだ。
だが、分からないものは分からないし、今説明を求めてるのは自分なのだ。負けじと睨み返す。
暫くそうしていると、ルカが自身の髪の結び紐を外し、乱暴に頭を掻き毟った。
「…………君は酷い奴だと思う」
「運んであげたんだから親切でしょうが」
「そこではなく!君、クラークに言っていたじゃないか」
「何を?」
「羨ましいと。そんなに大事にされてる婚約者が。そして婚約者に愛されている彼が。何度もそう言っていただろう」
「言っ……た、かな?」
トレイシーは腕を組んで唸る。何せイライの惚気はいつもの事なので、そんな会話は日常茶飯事だ。昨夜も確かにそんな事を言ったような気はする。ただ、ウィラも同じような事を言っていた筈だ。
トレイシーが唸っている間に、ベッド脇まで這って近づいたルカは、恨みがましい目でトレイシーを見上げる。
「私への当てつけか」
「は⁈そんなつもりは全くないよ。いつものお決まりのやり取りでしょうが」
「羨ましいってなんだ。私も大事にしているが。君が怖いと言うからずっと耐えているが。愛されていいなってどう言うことだ。私も愛しているっ、うぐ!」
「っあああああ!」
トレイシーは枕をルカの顔に押し付け、聞こえないとばかりに声を張り上げる。顔は林檎のように赤くなっている。
過度なスキンシップにはトレイシーも少しづつ慣れてきた。が、直接的な言葉は感情の色が見えるので苦手なのだ。ルカの言葉は特に駄目だ。
友達と言っている今でこれなのだから、恋人として受け入れたらと思うととても耐えられない。
「もう!もう!いつものやり取りでしょうが!あの惚気話にそれ以外に何言えっての!あんたも言うでしょ!」
「っ!、ぐ……!」
ルカは何度も何度も振り下ろされる枕を掴み、トレイシーから取り上げた。流石に顔面を狙われては息が出来ない。
気をつけているのだが、感情的になるとつい想いを言い募ってしまう。それをやめろと散々トレイシーに言われているのだが、普段耐えている分溢れてしまう事があるのは大目に見て欲しいとルカは思う。
呼吸が整うとルカはふう、と息を吐いた。
「窒息させる気か、君は」
「その口は縫い合わせたい。なんでそんな歯が浮く台詞をぽんぽん吐き出せんの、あんたは!」
「思ってる事を言ってるだけなんだが……」
「それが困るの!」
社交辞令だったらどんなに良かったか。ルカの言葉は混じり気なしの本音だから、トレイシーはむずむずしてしまうのだ。
周りくどい皮肉や長ったらしい口上もできる癖に、トレイシーに対してルカは直球な想いと言葉を放つ。
トレイシーは悪意は受け流せるし、好意的な想いは受け止められるが、恋愛に関しては何も分からない。その想いに対してどう反応すればよいのか。とにかく拒否することしか出来ない。
――決して嫌な訳ではない。けれどどうしたらいいのか自分では分からない。それがトレイシーがずっと抱えている悩みなのだ。
ルカはキーキー怒るトレイシーに、唇を尖らせた。
「ほら、君はいつも私にはそれだろう?なのにクラークと婚約者の話には平然と受け答えしているじゃないか。例え、お決まりのやり取りでも私にも思うところはあるんだ」
「そ、れは……うう……」
どこかしょんぼりとしたルカの態度に、トレイシーは目線を泳がせる。図体のでかいこの男が落ち込むと、大型犬が鼻を鳴らしている姿が重なって見える。トレイシーはそれにとても弱いのだ。
それに自分の臆病さにルカを付き合わせているのも、また事実なのだ。
たじろぐトレイシーを他所に、ルカは膝に抱えた枕に肘をついた。
「そりゃ、私も流石に分かっているよ。脈もないなら君はそんな反応はしないことも。そこは嬉しく感じている。けれどやはり不満は不満なんだ。アルコールで多少気が大きくなっていた事もあったと思う。こう、平然と受け答えしてる君をどうにか困らせたいなと。そしたら予想以上に面白い悲鳴が上がったものだから」
うくくと昨日の事を思い出して肩を震わせるルカに、トレイシーは何か投げつけるものはないかと辺りを見回す。
あの時はウィラとイライと話していたら、無表情のルカが目の前に現れ、トレイシーを蕪を引き抜く様に抱え上げたのだ。それは驚くに決まってる。「わぎゃああ⁈」という妙な声が出ても仕方ないだろう。
残念ながらルカのベッドは余計なものがないので、枕以外に投げられそうなものはなかった。トレイシーは舌打ちをしたい気分になる。
「で、満足したから人を抱き枕にして寝に入ったと?」
「そうなるな。君は抱き心地だけでなく、サイズも本当に丁度いい」
「私の抱き枕レビューはいらないの!あんたのせいで本当に!本当に恥ずかしかったんだから‼︎」
「すまない、そこまで困らせるつもりはなかったんだ」
宙に浮いた足に、わたわた慌てているトレイシーが非常に可愛らしいと思ったことは覚えている。それを取られない様に抱え込んで……その後からルカには記憶がない。気分良く眠りに落ちてしまったのだろう。
残されたトレイシーが逃げ出す事も隠れることも出来ないあの状況をどう切り抜けたのか、そこは気になっている。なのでルカはベッドに身を乗り出し、尋ねる。
「事情を話した、と先程言っていたな。君が自分から?」
「話すつもりは私もなかったよ。でもどんどんどんどん、黙ってるわけにはいかない方向に話がいくから……!」
「そんなに拗れたのか」
拳を握って呻くトレイシーに、やり過ぎたと改めてルカは反省した。
トレイシーは二人で交わした約束通りに可愛がらせてはくれるものの、最近はすぐに逃げてしまうので触れる時間が極端に短い。意識してくれるならルカも望むところなので耐えているが、正直物足りない。
むくむくと膨らんでいた不満を酒の勢いで解放してしまい、約束を破ってしまったのだから自分が全面的に悪い。
トレイシーの感情の天秤は恥ずかしさと恋愛への怯えがまだまだ重く、友人でいたい思いが勝っている。自分が嫌がられているわけではないのは承知しているが、しかし、ほんの少し、私と恋人と思われるのがそんなに嫌なのかとルカは落ち込んだ。
ところがトレイシーの話を聞いてみると、どうやら彼女が黙っていられなかったのは違う理由だったらしい。
「みんな勘が鋭いわ、誘導が上手いわであんたから告白されたこと吐いたら責められたから事実言うしかなかったの!」
「?君が?何故?」
「……………………………………言いたくない」
むすりとした顔をするトレイシーに、ルカは掌に拳を打ちつける、古風な動作で「ああ」と声を上げる。
「あれか。私をキープしている悪女扱いされたのか」
「⁉︎なんで当てるの‼︎あんたまさか普段からそんな事思ってるわけ⁈」
「違う違う、違うから落ち着いてくれ!」
黙秘しようと思っていたことを正確に言い当てたルカに、トレイシーがくわりと牙を剥いた。
トレイシーに胸倉を掴み上げられたルカは、慌てて否定する。だが、頭に血が上ったトレイシーは聞く耳を持たない。
「思ってないならそんなあっさり答えが出るわけないじゃん!ナワーブといいホセといいあんたといい、よくもそんな失礼な事を言えたもんだわ!悪人度で言うなら告白受け入れるか縁切るか選べって迫ったあんたの方がよっぽど上でしょうが‼︎」
「そこまで言った覚えはないぞ……」
「逃げらんない様にして答え迫ったのは事実でしょうが!あの時動揺してた自分を引っ叩いてやりたいよ、私は!選べとか言って全然断らせる気無かった癖に!」
「うん。それは否定しない」
「少しは悪びれなさいよ‼︎」
胸倉を掴まれたルカの首が、がくがくと縦に揺れる。目を吊り上げたトレイシーの顔に、これは怒りが収まるまで抵抗してはいけないんだとルカは判断する。
「そもそもキープしてないし!友達じゃやだって言ったのルカだし!ぬいぐるみ扱いだって、私はルカだけでも恥ずかしいけど我慢して大人しくしてんのに!」
「いや、ちょっと待ってくれ。今聞き捨てならない事言ったな、君」
されるがまま、揺さぶられていたルカがトレイシーの手首を掴んだ。そうして立ち上がるとトレイシーの顔を上から覗き込む。
「ぬいぐるみ扱い、というのは?」
「いつもしてるでしょ。抱っこしたり撫でたりキスしたりしてくるじゃん」
「君はあれをぬいぐるみ扱いと思っていたのか……?」
自分の手を掴んだまま、覆い被さるような体勢で目を見開くルカに、トレイシーは不思議そうに首を傾げる。何故そんな驚いたような反応をしているのだろう、という風に。
トレイシーにだってぬいぐるみや人形で遊んだ記憶はある。膝に乗せて、撫でて抱きしめてキスをして、一緒に眠って一緒におやつを食べて。そうやっていつも一緒にいたものだ。父の作業場の魅力的な遊び道具に気付くまで、トレイシーにだってそんな時代はあったのだ。
勿論、ルカにはそれだけじゃない意図があるのは知っている。だけど恋人でもない相手にそのスキンシップをさせることを、他にどう表現すればいいのか。「ぬいぐるみ扱い」というのがぴったりな筈だ。
ルカにそれを告げれば、何か言いたげに口を開き、しかし思い直したように閉じる。ルカは眉間に皺を寄せ暫く何かを考え込んでいたが、やがて諦めたようにベッドに倒れ込んだ。
「ルカ?」
「……………………ぬいぐるみ扱いでいい、もう。君がそう思ってるならそれでいい」
不貞腐れたようにぼやくルカに、トレイシーはひっそり胸を撫で下ろした。
――あのスキンシップがぬいぐるみ扱いなんて可愛いものじゃないことくらい、十分分かっている。
しょんぼりとしたルカにトレイシーが弱いように、ルカはトレイシーの幼気な反応に弱い。なにも分かってない振りをしていれば大抵はこうやって諦める。
イライの指摘通り、最近のルカは二人きりになると遠慮がないのでトレイシーは内心とても焦っていた。変わった格好をしてみたり、わざと話を逸らしたり気づかないふりで躱しているが、綱渡をしている気分だ。ぬいぐるみ役に徹していなければ耐えられない。
今回ルカがしでかしたことが恥ずかしかったのも、それに怒っているのも本当だが、少しだけこれを言い訳に出来ると安堵している自分もいる。
「…………覚えてろ」
「!な、なにさ、いきなり」
うつ伏せのまま、地を這うような低い声で呻くルカに、トレイシーはそろそろと後退る。が、逃げる前にシーツに突いていた手首を掴まれる。
「うぎゃ⁉︎」
「関係が変わったら私は容赦しない」
「だ、だからあんたのそれが怖いって言ってんでしょうが!」
手首の拘束を振り払って、トレイシーはベッドの端へと逃げる。
決してトレイシーは夢見る乙女という訳ではない。そうではないが、なんとなく恋愛というのは穏やかに始まるものだと思っていたのだ。経験したことはないが、そういうものなのかなと想像していた。
まさか、初めて出来た友達に、こんな重たい感情を向けられる恋愛に巻き込まれるとは思ってなかった。
やんわりと始まるものならトレイシーだって吝かでは無かったのだ。トレイシーはルカのことは好きだ。それは間違いないのだ。
ところが僅かな食い違いから、嫉妬に染まったルカをトレイシーは見てしまった。一瞬だったので何かをされたわけではないが、その片鱗はトレイシーには「怖いもの」に分類された。告白される寸前の出来事だったせいもあり、より印象に残ってしまったのだ。
もしも恋人になることを受け入れたら、またあの状態のルカを見ることになるのではないか。トレイシーはそれが嫌で仕方ない。
そして今の状態でも非常に恥ずかしいとトレイシーが思っているスキンシップを「まだ足りない」と不満がっているこの男。もしもOKを出したら何をしてくるのか、それが予想がつかな過ぎて本当に怖い。
「そんなもしもとかないから。絶対変えないから!あんたは友達!」
「今はそれでいいさ。……絶対変えさせる」
「ひっ……」
ぎりぎり聞こえる声量で呟かれた言葉に、トレイシーは背筋が冷えるのを感じた。「頭のネジがぶっ飛んでる奴の行動は分からない」と言われていたが、本当にその通りだと今は思う。
ルカは体を起こすと、ベッドの端で縮こまっているトレイシーににこりと笑う。
「その時はちゃんと君の了解を得るとも」
「本当かなぁ……」
「ただ君が他の男に目移りしたらどうするかは分からない」
「あ、それは無い無い。ルカだけで手一杯だし。他見る余裕ない」
あっさりと興味なさ気にそう答えるトレイシーに、ルカは目を瞬かせた。数秒二人で見つめ合った後、ルカはふっと息を吐き出すと肩を震わせる。そして大きな声を上げて笑い出した。
「あっはっはっはっはっはっ!」
「……人の顔見て笑い出すのはどういう了見よ」
トレイシーは苛立たし気にルカを睨んだが、睨まれた当人は応えた様子もない。笑い過ぎて目に浮かんだ涙を拭きながら、ルカは仰向けに寝転んだ。
「はー…………君は本当に酷い奴だ」
「はあ?」
「私だけ、か。そうか」
「不貞腐れたり、にまにましたり。忙しい男だよね、あんたも」
「そういう君は、男心を翻弄するのが実に上手だ。どうかそれは私だけであってくれ」
何がおかしいのか、まだくつくつと笑っているルカにトレイシーは落ちていた枕をぶつける。よくは分からないが、また悪女扱いをされているのが気に入らない。
トレイシーはルカを放置して、ベッドから立ち上がる。窓から差し込む朝日はいい時間を示している。朝食の気分ではないので、一度部屋に帰ってシャワーでも浴びようか。そんな事を考えていると、ノックの音が鳴った。「おーい」という声はマイクのものだ。
ルカは二日酔いの影響か、少しまだふわふわとする体を起こして扉を開けてやる。「おはよう」と言うマイクは朝でも溌剌としていて、どんよりしているルカとは対照的だ。
「おはよう。どうしたんだ、モートン。こんな時間に珍しい」
「暇ならみんなでお祭り街に行こうって話になってさ。トレイシーもどうかなって。いる?」
「いるよー」
マイクの問いに、ルカの脇の下からひょこりとトレイシーが顔を出す。
この部屋に彼女がいるのは当然の事なのかとルカは少し苦笑いしてしまう。そう人に思われることは嬉しいが、それは友人だからという認識だろう。それ以上の関係を望んでいるルカとしては、一番の仲良しという扱いは嬉しくもあるが、複雑な思いもある。
それを押し隠して、ルカは態とらしい不満気な表情を作り、マイクに問いかける。
「おいおい、部屋主の私はその楽しい催しには誘って貰えないのか?」
「うーん、誘いたいのは山々なんだけどさぁ」
「?」
「ルカは、まずこっちでしょ」
マイクが戸口から体を退かすと、その後ろにはパトリシアが呆れたような不機嫌なような顔で立っていた。
彼女はルカを見上げ、次にトレイシーを見やり、深い深いため息をついた。
「バルサー、お前のその賢いお頭には大鋸屑が詰まっているのだろうか。お前の記憶にはなんの期待もしていないが、今日が何の日かくらいは何処ぞに書き記しておける筈では?」
「………………なにか、あったか?」
パトリシアからの冷ややかな目線に、ルカは少し考えてみたものの、全く思い当たる節がない。今日が何の日か。何の日だろう。特になにも無い日だと思っていたのだが。
顔に「分からない」と書いてあるルカに、マイクはこそりと耳打ちする。
「衣装、来るでしょ。今日」
「!ああ!」
掌に拳を打ちつけ、ルカは声を上げる。今日はパトリシア、自分、マリーに新しい衣装が来る日だ。受け取りに行かなくてはならないのをすっかり忘れていた。
ルカの反応にパトリシアはぎゅっと眉間に皺を寄せた。しかし口に出しては何も言わなかった。代わりにトレイシーの方を見る。
「ところでトレイシー。見たところそれは寝巻きじゃないか?」
「え?うん。まあ、そうだね」
ノースリーブのシャツに、少し大きめのショートパンツ。拘りはないので適当に着ているものだが、寝巻きには違いない。
トレイシーが素直にそう答えると、パトリシアの眉間の皺が更に深くなった。
「まさかと思うが、ここで寝ていたわけではないだろうな?」
「えっと…………」
目線を泳がせるトレイシーに、パトリシアの醸し出す雰囲気が不穏なものになっていく。
散々トレイシーには友人であろうと深夜に男を部屋に入れるな、男の部屋に入るなと言っているのに、これだ。
「ちょっとこっちに来なさい」
「ああ〜……」
トレイシーは猫の子のように襟首を掴まれ、パトリシアに連行されていく。朝から怖い怖いお姉様のお説教タイムになるようだ。
止めるわけにもいかないので、ルカもマイクもその後ろ姿を見送るしかない。
「長く、ならないことを祈ろう」
「この後の予定もあるから大丈夫だとは思うけどね。ってかなんでトレイシーだけでルカは怒られないの?」
「私はちゃんとそのラインはいつも守っているからな」
ルカは遠くを見るような目をしている。
起きたら自分が床の上だったのはいつもの事なので驚かなかったが、ベッドの上であられもない姿で寝ていたトレイシーには驚いて声を上げてしまった。
友達友達と言いながら、人の理性を試すような試練を課すのをやめて欲しい。時々弄ばれているのではとルカはトレイシーを疑いたくなる。それなのにいつもトレイシーはルカだけが悪いかの様に責め立てる。本当に酷い奴だ。
ルカは憮然とした顔で頭を掻く。
「私も朝からニ回も説教されたくない」
「二回……?もしかして、仲良く夜明かししたわけじゃなくて、トレイシーに説教されてた感じ?」
「ああ。酒の失敗をな。バーボン達との呑みの席でやらかしてな」
「へえ。ルカが酒盛りに参加するなんて珍しいね」
「参加したと言うか、捕まったと言うか」
「で、なにやらかしたのさ」
気になって気になって仕方がないという態度を隠そうともしないマイクは、わくわくとした顔で先を促す。
ルカは精々、嗜む程度にしかアルコールを摂取することは無かった。そんな男が酒で失敗したと言うのだ。一体何をしでかしたのか。
泣き上戸?絡み酒?笑い上戸?どんな痴態を晒したのだろうか。是非とも後で他の参加者にも話を聞きに行きたいところだ。
そんなうきうきした様子のマイクから、ルカは目線を逸らして言い淀んだ後にぼそりと呟いた。
「他の人間がいる前で、トレイシーを攫って抱き締めて寝入ったせいで、残された彼女が質問責めにあったとかで……」
「何やってんだ」
すっとマイクの顔から笑みが消える。本当に何やってんだ、こいつは。
マイクはルカの告白を後押しした張本人であり、告白の場面を扉越しに聞いていたので、二人の事情は大体知っている。なんならルカがトレイシーに一目惚れした場にもいた。
恋愛対象になるのは怖い、ルカを男として見るのも怖い、自分が女として見られているのも恥ずかしいと逃げ回るトレイシーと、じわじわと包囲網を狭めて行くルカの攻防も見ていた。長い時間をかけて追い込んでいた癖に、何故それを不意にする様な事をしでかしたのか。
約束を破ったのもそうだが、他の人間に知られて今の関係を壊すこともしたくないとトレイシーはずっと言っていたのだ。それは説教もされるだろう。
マイクはこれは自分がフォローを入れなければと急いで問う。
「誰、呑み会に一緒にいたの。デミとホセはいただろうけど他は?」
「サベダーと、ナイエルとクラークだな。トレイシーが事情は説明したから問題ないと」
「ああ……口が軽い人はいなかったのが幸いだね」
デミとイライは職業柄、個人の情報を話すことはない。ホセとウィラ、ナワーブはそもそも口数が多くない。
酒盛りの参加者によっては、その場であった事を翌日の午前には荘園中の人間が知っている、なんて事もあるのだ。
ルカは部屋の戸口に凭れ掛かり、不貞腐れた顔でぼやく。
「私もやらかした自覚はあるさ。だから当分の罰も禁酒も受け入れる。それでも私にも彼女に対して不満に思う事はあるんだ」
「はあ〜……またバチられても困るから吐き出したい事あるなら吐き出せば?」
ルカが感情を溜め込むと同じように電気を溜め込んでしまう体質なのは以前にも聞いたことがある。
トレイシーへの感情を抑えた結果、彼女自身に電撃を喰らわせるという事故が起きたのだ。それもあってマイクはルカに告白してしまえと発破をかけた。
不満を溜め込んでまた同じような事を起こされても問題だ。
「んで、何を愚痴りたいのさ?」
「最近、彼女がわざわざ可愛らしい格好をして私のところに来るんだ。なにか期待した目をしているから、最初は受け入れてくれるつもりがあるのかと思っていたんだが、少しでもそういう雰囲気になると相変わらず逃げていくのでそう言う訳でもないらしい。だから、これはなにか私を試していると思うんだが、その意図が分からなくてな。モートンはどう思う?」
「うーん、頭痛い」
マイクはずきずきとする眉間に手のひらを当てた。
また、なんかこの二人はすれ違いを起こしている気がする。頭がいい癖にお互いに言葉が足らないのはなんでなんだ。
頭を抱えて唸っているマイクに、ルカは心配そうに眉尻を下げる。
「痛み止めならあるぞ」
「心意的なものだからいい……」
心底不思議そうに首を捻って悩んでいる男は何かしらの助言を求めているのは分かる。けれどコミュ力お化け扱いされているマイクにだって、トレイシーとはいえ乙女の心理は分からない。
わざわざおめかしして告白した相手の元に現れる。そして翻弄するように逃げていく。その様を想像して、マイクは憮然とした表情になる。
「え?なんか悪女の修行でもしてる……?」
「そう!そうなんだ。私が弄ばれてるんじゃないかと少し疑っていたこともあったんだが、どうも彼女にそのつもりは全くないらしい」
「なんで分かったのさ」
「トレイシーの所持している服の中に、拘束着があるだろう」
「あのめちゃくちゃ個性的なやつね」
「偽笑症」とかいう服だった筈だ。よく覚えている。
マイクが荘園に来る少し前に貰ったばかりだったので、トレイシーは気に入ってよく着ていたと記憶している。
最近はあまり見かけなくなっていたので、ちょっと懐かしい。
マイクがそう告げれば、ルカも頷く。
「先日、あの拘束着でトレイシーがここに来たんだ。私もゲームで何度もあの衣装は見ていたし、背中の露出が少し気になる程度だったんだが……普通に接していたら気付かない事に気付いてしまってな」
「なに、気付かないことって」
首の後ろを撫でながら、ルカは言いにくそうに口を歪める。そんな態度を今更取られたところで、気になるものは気になる。
先を促すマイクにルカは声を潜める。
「…………あの服、直で着ているんだ」
「え?どういうこと?」
「どうもこうもない。トレイシーはあの拘束着の下に何も身につけていないんだ。感触がどうにもおかしくて、直接確かめたらあるべきラインがなくてな。これは下着もつけていないのではと」
「え、ケダモノ」
「だから、違う‼︎」
軽蔑の眼差しで体を引くマイクに、ルカは叫ぶ。
ルカの手元を覗き込もうと背中にトレイシーが密着したが為に気付いたので、不可抗力だ。その感触がおかしかったので確認の為にトレイシーに触れたが、それはそれだ。
それに至近距離にいれば見えてはいけない体のラインが見えていたのでどちらにしろ気付いていた筈だ。
「まさかなという思いがあったんだ。いくら無防備な彼女でも流石に無いだろうと。無いと思っていたのにそのまさかだったんだ。当然、即座に離れたしすぐに着替えさせたさ!」
「分かった分かった、ケダモノ呼ばわりは謝るって。ルカって好き勝手やってるっぽいのにそこは守るんだね」
「君らの中で私はどういう評価なんだ……?いろいろ懸命に耐えているんだが?」
「悪かったって。しかしそんな男に対してトレイシーってば鬼畜の所業だね。無いとは思うけど、それをトレイシーが狙ってやった訳じゃないっていうのは、ルカはなんで分かったの?」
「…………距離を取って着替えてくれと頼んだら、電気怖かったねごめんね次から気をつけるねと謝られた」
「そっちじゃねえ」
思わず乱暴な言葉が出てしまった。マイクは両手でぐしゃぐしゃと髪を掻き毟る。電気人間が今更そんなもの怖がるわけないじゃん。
ルカは戸口から離れ、肩を竦めて見せる。
「彼女の真意が全く分からないだろう?」
「確かに分かんないなぁ。ルカに対する警戒心があるのかないのか…………あ、もしかするとルカが鋼の根性で耐えすぎて、そういう欲が無いと思われてるとか」
マイクは「なーんて」と戯けて見せたが、ルカは長い沈黙の後に顔を片手で覆い、天井を仰ぐ。
「…………………………………………それは、あるかもしれない」
「え、いやいや冗談だよ?そんな訳ないよ、告白してきた相手に」
「モートン、彼女自身の女性評価と容姿評価の低さを舐めてはいけない。私に性欲があるかどうかではなく、トレイシーは自分は欲情の対象外と高を括っているところがあるんだ」
「!こんな身近に危険人物がいるのに⁈」
「私をケダモノ扱いするのをやめろ」
「ごめん、つい。初手泣き方が可愛いとか言い出す変態だから」
「変態て」
私をなんだと思っているんだ。ルカは淀んだ眼差しをマイクに向ける。
恋情を示すだけでやだやだと怯える彼女の為に、こちらは必死に欲を見せない様に努力しているというのに。ルカ自身、自分がこんなに忍耐強いとは思っていなかった。
マイクは酷い顔になっているルカを他所に、腕を組んで唸る。
「うー……ルカには酷いかもしれないけど、ちょっとそこは自覚させた方がいいんじゃないかなぁ。パトリシアも他のお姉さん方もああやって口酸っぱく注意してんのに全然トレイシー態度改善しないからさ」
「自覚させる……」
「うん。ちゃんと伝えた方がいいと思うよ。そういう対象として見てるって。少なくともルカが限界来て罪を重ねる前に」
「私の評価は変わらないんだな、そこは」
真剣な顔でアドバイスをするマイクに、ルカは肩を落とす。
しかし彼が言う事は間違いではないと思う。いくら耐えるといっても人間だ。それに、自分以外の男も何で箍が外れてしまうか分からないのだから、自覚も自衛もトレイシーにはして欲しい。彼女がどう思おうと、可愛らしい女性であることは事実なのだから。
眉間に皺を寄せて考え込んでいるルカに、マイクは指を突きつける。
「現に、不満溜め込んで酒でやらかしてる訳だし」
「ずっと思わせぶりな事を繰り返されて、私もこう悶々とな。そんな時にクラークの惚気に羨ましいだのなんだの言っているものだから、つい酒の勢いで」
「意地悪したくなったと。やりすぎだけど」
マイクに言われた言葉に、ルカは情けない顔で笑う。言われなくても自身でもそう思う。
ふと顔を上げれば、廊下の向こうからトレイシーとパトリシアが戻って来るのが目に入った。
機嫌がよろしくはないパトリシアをこれ以上不快にさせる事は避けなくては。ルカは手早く髪を纏め、髪紐で括り身支度を整える。
「そろそろ行かなくては」
「後でルカも祭りに来るでしょ。新しい衣装の自慢ついでに」
「自慢……出来るものだといいんだが。何が来るか分かったものではないからなあ『あれ』は」