私に言わせればあれは悪魔
クッションを抱えて丸くなったトレイシーは、どうしたものかと考える。
今、彼女が座っているのは椅子やソファーではなく、人の膝の上である。決して自主的に座ったわけではなく、違うところで談笑していたら攫われてきたのだ。
攫った本人はというと、トレイシーを逃さない様にしっかりと腰に腕を回し、気持ちよく寝入っている。すよすよとした寝息が背後から聞こえている。
――どうしたものか。
トレイシーはクッションに半分顔を隠し、もう一度同じことを考える。
この体勢には慣れている。トレイシーが望まない限り友達の関係を変えない、そのかわりに二人きりの時は大人しく可愛がられるという約束を彼とはしている。
しかしそれは二人きりの時だ。
今、休憩室は数人の仲間が居て、一緒にささやかな酒盛りをしている真っ最中だったのだ。
周囲から向けられる、このあらゆる感情の視線に対して、どう説明をしたものか。こんなことになるなら、自分も何かアルコールを飲んでおくんだったとトレイシーは後悔している。
「あー、と」
赤い顔で動けなくなっているトレイシーに対し、デミは自身の動揺を引っ込めて話し掛ける。
聞きたい事は山程あるけれど、トレイシーは可哀想な程縮こまってしまっている。とても揶揄えるような雰囲気ではない。
トレイシーをがっちりと抱えている男を指差して、デミは尋ねる。
「それ、助けいる?」
「…………欲しいけど危ないからいい」
「危ないの?」
「寝ぼけて電撃される」
モゴモゴと答えるトレイシーに、その場にいた面々は大分前に起きた強電流事件の事を思い出した。事故だと聞かされていたが、寝ぼけての事だったのかと初めて知る真相に、各々首を傾げたり頷いたりしている。
ホセは咳払いをして、手にしていたトングをアイスペールに戻した。目の前で静かにグラスを傾けていた男が突然無言で立ち上がり、トレイシーを抱えて戻ってきたので驚いて氷をどこかに弾き飛ばしてしまっていたのだ。
「トレイシー、決して揶揄う気があるとかではないんだが……ただの確認のつもりで聞くが、その、彼とは」
「友達だから!」
ホセの言葉に被せるように、トレイシーはクッションに顔を埋めて叫ぶ。そこだけはしっかり確実に主張しておかなくてはならない。
この距離がおかしい事も、スキンシップが行き過ぎていることもトレイシーは知っている。知っているが事実は正しく認識してもらわなくては。うっかり誤情報なんかが出回っては困るのだ。
それに、こういうことが起きてほしく無いから人前では友人としての距離を守るって約束だったのに、今までずっと完璧だったのに、どうして今更こんなことをしでかしてくれたのか。
「友達なの!今は、酔っ払って寝ぼけて枕と間違えてるだけだよ!」
「間違えるねえ」
クッションを締め潰しそうなほどぎゅうぎゅうに抱きしめているトレイシーに、ナワーブはため息をついてソファーの背もたれに腰掛ける。
枕になりそうなクッションがいくらでもあるソファーからわざわざ立ち上がって、まっすぐトレイシーに向かって行ったのに?
話し相手のトレイシーを攫われたウィラとイライは顔を見合わせて、座っていた席から移動してくる。
「なにか、そちらで彼の機嫌を損ねるような事でもあったとか?」
「そうね、なんだか機嫌が悪そうだったわ」
「んん?どうだろう。そんな話してたかい?」
「クリスマスのハスターが完全にツリーだったなって話で、どう機嫌悪くなんだよ。こいつ無神論者だろ。そっちで悪口言ってたとかじゃねえの?」
「もっと関係ないわ。イライの惚気を聞いていただけよ」
「惚気てたつもりはなかったんだけどなあ」
困ったように笑うイライを見るに、どうせまた婚約者の素晴らしさでも語っていたのだろう。
いつものことなのでナワーブはへぇへぇと適当に流す。デミはにや、と笑ってテーブルに肘をつく。
「あんだけ惚気といてまだ語る話があるのかい」
「だから惚気てるつもりはないんだけど。話が聞きたいと言い出したのはナイエルさんなんだけどなぁ」
「あら、出逢いを聞いただけよ?惚気も面白かったけれど。ねぇ?」
「うん。そこまで想われてるのは羨ましい限りだよねって」
自分から話が逸れて安心したのか、トレイシーがクッションから顔を上げて頷く。
「恋愛はどうやって始まるのかってトレイシーが聞くから、いい教材がいるじゃないと思って」
「教材扱い……いや、いいんだけど」
「お前もそんなことを気にする様になったのか……!」
ナワーブが染み染みとした声で呟く。ここに来た時はガリガリの青白いヒョロガキで、機械しか興味なかったあのトレイシーがそんな事を人に聞くとは。
ナワーブがデミを見れば、彼女はわかっているという顔でテーブルの下から新たな酒瓶を取り出している。いそいそと祝杯の準備をしている姿に、トレイシーは慌てる。
「ち、違っ!ウィラ!違うでしょ!恋愛にならないようにするにはどうしたらいいかって聞いたの!」
「あら、同じ事じゃない」
「全然違うよ、もー!」
どうすればこの悩みを伝えられるのか。トレイシーはもどかしい気持ちでクッションを叩く。
一人でジタバタしているトレイシーに、ナワーブは不思議そうな顔で首を傾げる。
「なんだその相談?告白される予定でもあるのか」
「なっ……いよ?別に。無い無い!」
「すげえ挙動不審」
引き攣った笑顔で誤魔化す「弟」分に、ナワーブは目を細める。どこか焦っているトレイシーに、ホセはふむと顎を摩る。
「当たらずとも遠からずと言った感じだな。これは逆じゃあないか?」
「逆ってのは?」
「告白された後なのでは?」
「……………………」
トレイシーは静かだった。五人の視線が集まる中、クッションに完全に顔を埋めてだんまりを決め込んでいる。
しかし寝る為に薄着だったことが災いし、顔を隠しても首も耳も剥き出しの腕も全てが赤く染まっているのが丸見えだった。
本来ならこの場から走って逃げ出したい事だろう。だが彼女の体は囚人服の男にしっかりと抱き抱えられているのでそれも出来ない。
トレイシーの反応、謎の相談、ルカの突然の奇行、それを友達と言い張る姿。それら全てが脳内でパズルピースの様に繋がる。
「トレ」
「友達だもん!!」
「だから」
「絶対違う!」
何を言っても威嚇する子犬のような反応をするトレイシーに、ウィラとデミが宥める素振りで同じソファーに腰掛ける。
「うん、分かった。二人が友達なのは。そこは疑って無いから」
「ただ、一つ確認させて欲しいのよ。トレイシー、あなたバルサーと友達というけれどそれは告白を断ったの?それとも友達からって意味なの?知ってしまったからにはそこは確認しておかないと、明日からぎこちなくなってしまうわ」
「……………………」
きゃんきゃんと吠えていたトレイシーが静かになる。興味本位で聞いているわけでは無いことは伝わったようだ。
ただの飲み会のはずがとんでもないことになってしまったとホセは思う。ルカを捕まえてこの席に連れてきたのは自分なので、少し責任を感じる。
しばらくするとクッションに顔を埋めたまま、ぼそぼそとトレイシーが話し始める。
「断っては、いないけど。でもそういうのは分からない今のままがいいって言ったら、それなら今はそれでいいっていうから、そうしてる」
「そうだったのか。君達最初から仲良かったからなぁ」
「いつの間にそんな事になってたんだい?全然気付かなかったよ。最近のこと?」
年が同じだからか、ゲーム留守番組の期間が長いこと重なっていたからか、イライもトレイシーも互いに遠慮がない。他のメンバーが聞きづらく思っていた事を、イライは遠慮なく質問している。
よくやったと皆が思いつつ耳を欹てていると、トレイシーがもごりと答える。
「違う。ずっと前……シーズン衣装来た時」
「シーズン?」
イライは首を傾げた。シーズンごとに来る衣装はルカにはまだ順番が来ていない。ということはトレイシーに「キャンディー少女」の衣装が来た時の話になる。
同じ時にイライも黄色の衣装が来ていたので覚えている。トレイシーがとにかく暴れて大人しく着替えてくれなくて、同じく衣装が来ていたバルクやジョゼフと一緒に手を焼いた記憶がある。
「それってあの可愛い服の話?」
「……だったら彼が来て割とすぐの話じゃ?」
ウィラとホセの言葉に、クッション越しにこくりとトレイシーが頷いた。
ルカはここにいるメンバーの中では新参だが、それでも荘園に来たのは大分前の話だ。
――え、じゃあそんな前に告白したのにずっと「友達から始めましょう」の関係のままってこと?もうそれ脈ないのでは?
デミはそう思ったが、しかし赤くなって縮こまっているトレイシーは恥ずかしがってはいるものの、ルカの手から逃げようとはしていない。興味がない男にあんな触れられ方をしたら、もっとどうにかして抜け出そうとするのではないだろうか。
この二人、なんだか思っていたよりも複雑な関係性なのかもしれない。
「呆れた。トレイシー、そんな前の告白なのにずっと答えを保留にしているの?」
「保留にしたわけじゃない、友達でいたいって言っただけ」
「それはよくあるお断りの文言じゃないか?」
「そのつもりは、ないけど。ルカもそう思ってるし」
「うーん、でもトレイシーずっとそのままなんでしょ?恋人になる気がないんじゃないの」
「うう…………」
「明確に断るなら断った方が互いの為では?」
「……………………」
イライの言葉にだんまりを決め込むトレイシーに、ナワーブは顔を顰める。
「断りたくはねぇんだな、お前」
「………………」
「はあー……前言撤回。お前、悪女の才能あるわ」
「違いない」
ナワーブが髪を掻きむしりながら言うと、ホセが深く頷いて同意する。
きっとトレイシーにはそのつもりは無いのだろうが、これは所謂「キープされている状態」というのではないだろうか。意外に一途なルカに二人は同情してしまう。
男性に厳しいウィラも流石にこれは酷いと思ったのか、トレイシーに向き直り言い含める。
「あのねトレイシー。男性にいくらでも待つって言われたからってその言葉に甘えては駄目よ。その気がないならそう言わないと」
「うん、四六時中一緒にいるし、ただの友達なら仲良いなで済むけどさ。流石に、告白した相手と普段からあの距離で接してたのかと思うと、ね。ちょっと流石に私もどうかと思うかな」
「そうよね?だからずるずると返事を伸ばすのは相手に悪いわ」
「…………ない」
「え?」
「伸ばしてないんだよ、だから‼︎」
トレイシーがクッションから勢いよく顔を上げる。眉間に皺を寄せた顔は苛立っている。さっきまで恥ずかしがっていたのに、何故突然こんな不機嫌になったのか。
トレイシーはクッションを膝に下ろすと苛立たしげに髪を掻き毟った。今の今まで恥じらう少女だったのに、スイッチを切り替えたように普段の少年じみた態度になっている。
「あー、もー、めちゃくちゃ言いたくなかったけど変な方に誤解されるよりいい!ただし今から言うことはみんな知らないし、知って欲しくない事だから言いふらさないでよ!分かった⁉︎」
「え、うん」
「わ、分かった」
全員の顔を見渡したトレイシーは、各々が頷いたのを見てふうと息を吐き出す。そして親指で自分の背後のルカをびっと指差す。
「これに告白されたのは本当だけど、恋愛は嫌だあんたは好きだけど男のあんたは怖い、友達のままでって私は答えた。そしたら嫌じゃないなら問題ない、怖く無くなるまで付き合うってルカが言ったの。その時に私がOK出すまで絶対に今の関係は変えない、みんなの前じゃ今まで通りに友達として過ごす。その代わりに二人の時は大人しくルカのぬいぐるみになるって約束をしてたわけ。なのに今、こいつが、それを勝手に破った状態なの、誰が悪女だ、このやろう。分かった?」
「な、なるほど」
「悪かった」
最後の方はトレイシーはホセとナワーブを睨んでいた。
二人は流石に申し訳なさそうに頭を下げた。トレイシーは隣にいるウィラとデミにもきつい視線を向ける。
「そもそもこの男全然待て出来てないから!ちょっと人の目がなくなるとすぐこれだから!こっちに付き合うとか言いながら歩幅合ってないんだよ、最初っからもうずっとぐいぐい来すぎなんだよ!諦めるどころか隙あらば境界線広げようとしてくるし!今も爆弾だけ投げて寝てるとかもう本当なんなの、こいつ!」
トレイシーはとうとうクッションをぼすぼすと殴り始めた。どうにも彼女にもずっと抱えていた鬱憤があるらしい。
どうにか荒れているトレイシーを宥めようとデミとウィラがどうどうと声をかけている間に、それまで静かだったイライが「ああ!」と呑気な声を出す。
「じゃあ最近トレイシーがバルサーさんと妙な距離取ってたのもその告白のせいじゃなかったんだ」
「………………」
ぴたりとトレイシーのクッションを殴る手が止まる。
「バルサーさんがさっき不機嫌だったのってトレイシーが原因?その言い方だと、トレイシーは彼の勢いに押されて流されそうになってるのをようやっと堪えてる感じかな」
そこでウィラも気づいた。だから「恋愛にならないように」する方法を聞いて来たのか。
そもそもいつもは誘われないと来ないトレイシーが、飲みの席に自分から入ってきたので珍しいなと思っていたのだ。その割にアルコールには手を伸ばさず、仲の良いデミやナワーブではなく自分の側にいたのはその相談をしたかったからか。
トレイシーは素早くクッションを抱え込むとハリネズミの様に蹲った。今度は顔や腕どころか脚まで真っ赤に染まっている。
「もおおおおおおおおおお……!なんで今日に限っていんのさイライぃぃ!勘がいいからやだったんだよぉ!いつもいない癖に!ホセもなんでよりによってルカ捕まえてくんのさぁあ!」
「え?あ、ごめん」
「すまない、流れでつい……」
謝ってはいるが、イライは何故怒られているかは分かってはいないだろう。トレイシーとしても完全にこれが八つ当たりなのは自覚している。
イライの言う通り、トレイシーは最近自分が劣勢になっていると感じていた。ルカと二人きりの時に流れる空気が危ういものになる回数が増えている。
向かい合えば確実に額や鼻にキスをされる。背中を向けてもつむじや耳にキスをされる。先程は「ぬいぐるみ」と表現したが、そんな生ぬるいスキンシップではない。
怪しい雰囲気になる度に何かと理由をつけて逃れているが、非常に危機感を覚えている。
下手に口で抵抗すると、ルカに揚げ足を取られて丸め込まれる。言質を取るのが恐ろしく上手いのだ。相槌すら危険なのは最初の出会いで経験済みだ。あの男は口から漏れた音すら肯定と判断するのだ。
「だからなんとか、こう、気が逸らせないかなーって思って二人になる時に可愛くない格好してみたりしてるんだけど、効果あるのかないのかよく分からない反応しかしないんだよ……」
「念の為に聞くけど『可愛くない格好』っていうのは?」
デミの質問にトレイシーはパチパチと目を瞬く。
「え?スカートじゃないやつとか」
「というと」
「拘束着と、黒スーツと、熊のやつと、若店主かな」
指を折ってそう答えるトレイシーに、デミはぐっと口を引き結んだ。そうしないと盛大な溜息が漏れてしまう。トレイシーの中ではそれらは「可愛くない」という認識らしい。
「あら、熊はとっても可愛いんじゃないかしら?」
「えー、だって着た時みんなめちゃくちゃ笑ってたじゃん!」
「いや、あれはお前とイライがお揃いで熊と虎ってのが面白くてだな」
ナワーブが痛む頭を押さえながらそう告げる。
トレイシーの「熊女」とイライの「人間になりたい虎」は初めて見た時の印象が強力だった。なにせイライにはネタ衣装など存在しなかったのだ。
澄ました顔で虎耳をつけている全身タイガーパターンのイライと、その横で居た堪れない様子でいる熊のトレイシーが兎に角面白くてナワーブ達は笑い転げた。
――まさか後日、自分にも可愛い熊衣装が来て同じ目に遭うとは夢にも思っていなかった。
当時を思い出してダメージを受けているナワーブに代わり、ホセが咳払いをする。
「コンビなのが面白かっただけで、あれが可愛くないわけではないんじゃないか?」
「そっか。まあ、ルカが物凄くご機嫌でぬいぐるみ扱いしてくるから着るのやめたんだけど」
「そうだろうね……」
好いてる相手がそんな格好して来たら可愛いとしか思わないんじゃないだろうか。
イライは首を傾げながらトレイシーに尋ねる。
「黒スーツって、僕にも来たのだよね」
「うん」
「あれ、評判良かったんじゃない?」
ジョーカー、カヴィン、トレイシー、イソップ、イライに来た黒衣のシリーズは周りから素敵だと言われていた。トレイシーの「機械人形師」も非常に大人びた印象だと好評だった筈だ。だからこそイライは「可愛くない」と判断した事を不思議に思っていたのだ。
しかしトレイシーはそんなイライに得意気に首を振る。
「イライ、分かってないな。あれは大人っぽくて格好いいでしょ。みんなそう言ってたもん」
「んんんん……そう来たかあ」
ホセは片手で両目を覆う。確かに自分もそう褒めた記憶があるし、可愛い格好とは言わないのかも知れない。それは事実ではあるのだけれど、まだ幼なげな彼女に言うのは憚られる感想を皆も抱いたはずだ。
黒い髪に白い肌、赤い唇に黒いスーツとハイヒール。あの姿のトレイシーは、黙っているとどこか蠱惑的で妖艶なのだ。
動いて口を開けばいつもの彼女なのでそんな雰囲気も吹き飛ぶが、告白した相手の前でそんな格好をするの悪手ではないだろうか。
「で、ルカの反応はどうだったんだ?」
「なんか良くない反応だった気がしたからすぐ着替えた。あ、これダメなやつかもと思って」
「その判断は出来るんだね、ちょっと安心した」
デミはこの子大丈夫かなと思っていたが、トレイシーの危険察知能力はゲーム中と同じく日常でも高いようだ。
トレイシーは唇を尖らせてクッションに肘をつく。
「絶対大丈夫だと思ったんだけどなあ」
「お前のその自信はなんなんだよ。俺でもその結果は分かったぞ。まあ、拘束着は流石に平気そうだろうが」
「あれは確かに、かなり特殊な服だな」
ナワーブの言葉にホセが同意を示すも、イライは「うーん」と唸った。
トレイシーの「偽笑症」は電気椅子治療を受けた患者という特殊設定だ。服も華やかさのない拘束着であり、頭に電気治療器具を被っている一風変わった姿だ。人により反応は様々だが、まず万人受けする「可愛いさ」ではない。
――が、気付いてしまうとどうしてもそこに視線が行ってしまう、とある問題点がある。
気付いてない二人にわざわざ教えるわけにもいかないので、イライは唸るだけで黙っていることにした。
ウィラはにこりと笑ってトレイシーの顔を覗き込む。
「貴女、あの服で、その男の所に行ったの……?」
「う、うん。そうだけど」
口角は笑っているけど、目が笑っていない。トレイシーは動かせる範囲でウィラから距離を取る。何故か怒ってる事だけは分かる。
「ルカ、最初はちょっと驚いてたけど、リアクションはそれだけで。その後はいつも通りだったんだ。でも暫くしたら私から離れて、近づかないでくれって言い始めてさ。壁に向いて全然こっち見てくれなくて」
「あら」
眉を顰めているトレイシーの言葉に、ウィラは意外そうな表情になる。そしていくらか険のとれた口調で先を促す。
「それでどうなったのかしら?」
「んー?頼むから着替えて欲しいって言われた。震えてたからなんか怖かったのかも。電気椅子だもんなぁ。なんか悪い事したって今は思ってる。もうルカの前ではあれ着ないようにしようかと」
「……いい判断だね、それ。出来たらあまり外でも着て欲しくないんだけど」
さっき感心した所だけど、やっぱこの子危機管理能力おかしいかも知れない。デミは後ろ髪を掻き上げ、盛大に息を吐き出す。
「偽笑症」の問題点は近くで見ていても気付くのだがら、今のようなスキンシップをする相手なら気付かないはずもない。
「ふん。バルサーも一応の紳士の精神はお持ちのようね、少し安心したわ」
ウィラはトレイシーの背後で寝息を立てている男を見やる。
待てが出来ない男というのでまさかとウィラは思ったが、ちゃんとした関係になるまで自制する心はルカにもあるようだ。そこは褒めてやろう。
「それじゃあ、今のところその作戦って上手く行ってないんだね」
「まだ若店主の衣装があるもん」
苦笑しながら言うイライに、トレイシーはむっとした顔で答える。
まだ作戦が失敗したかどうか決めるのは早い。こういうのは最後まで検証しなくては分からないものだ。途中で放り出してはいけないのだ。次こそ成功するかもしれないのだから。
それに「目盛り調整」には少し自信があるのだ。あれは本当に男の子のような格好だから、流石のルカでもそう言う雰囲気にならないのではないだろうか。だってスカートじゃないし、可愛い格好でもない。
ちょっと得意げなトレイシーに、向かいのホセはなんとも言えない、生温いという表現がぴったりの顔で微笑むしかなかった。
――これは彼女の陥落のカウントダウンの方が早そうだ。
今、彼女が座っているのは椅子やソファーではなく、人の膝の上である。決して自主的に座ったわけではなく、違うところで談笑していたら攫われてきたのだ。
攫った本人はというと、トレイシーを逃さない様にしっかりと腰に腕を回し、気持ちよく寝入っている。すよすよとした寝息が背後から聞こえている。
――どうしたものか。
トレイシーはクッションに半分顔を隠し、もう一度同じことを考える。
この体勢には慣れている。トレイシーが望まない限り友達の関係を変えない、そのかわりに二人きりの時は大人しく可愛がられるという約束を彼とはしている。
しかしそれは二人きりの時だ。
今、休憩室は数人の仲間が居て、一緒にささやかな酒盛りをしている真っ最中だったのだ。
周囲から向けられる、このあらゆる感情の視線に対して、どう説明をしたものか。こんなことになるなら、自分も何かアルコールを飲んでおくんだったとトレイシーは後悔している。
「あー、と」
赤い顔で動けなくなっているトレイシーに対し、デミは自身の動揺を引っ込めて話し掛ける。
聞きたい事は山程あるけれど、トレイシーは可哀想な程縮こまってしまっている。とても揶揄えるような雰囲気ではない。
トレイシーをがっちりと抱えている男を指差して、デミは尋ねる。
「それ、助けいる?」
「…………欲しいけど危ないからいい」
「危ないの?」
「寝ぼけて電撃される」
モゴモゴと答えるトレイシーに、その場にいた面々は大分前に起きた強電流事件の事を思い出した。事故だと聞かされていたが、寝ぼけての事だったのかと初めて知る真相に、各々首を傾げたり頷いたりしている。
ホセは咳払いをして、手にしていたトングをアイスペールに戻した。目の前で静かにグラスを傾けていた男が突然無言で立ち上がり、トレイシーを抱えて戻ってきたので驚いて氷をどこかに弾き飛ばしてしまっていたのだ。
「トレイシー、決して揶揄う気があるとかではないんだが……ただの確認のつもりで聞くが、その、彼とは」
「友達だから!」
ホセの言葉に被せるように、トレイシーはクッションに顔を埋めて叫ぶ。そこだけはしっかり確実に主張しておかなくてはならない。
この距離がおかしい事も、スキンシップが行き過ぎていることもトレイシーは知っている。知っているが事実は正しく認識してもらわなくては。うっかり誤情報なんかが出回っては困るのだ。
それに、こういうことが起きてほしく無いから人前では友人としての距離を守るって約束だったのに、今までずっと完璧だったのに、どうして今更こんなことをしでかしてくれたのか。
「友達なの!今は、酔っ払って寝ぼけて枕と間違えてるだけだよ!」
「間違えるねえ」
クッションを締め潰しそうなほどぎゅうぎゅうに抱きしめているトレイシーに、ナワーブはため息をついてソファーの背もたれに腰掛ける。
枕になりそうなクッションがいくらでもあるソファーからわざわざ立ち上がって、まっすぐトレイシーに向かって行ったのに?
話し相手のトレイシーを攫われたウィラとイライは顔を見合わせて、座っていた席から移動してくる。
「なにか、そちらで彼の機嫌を損ねるような事でもあったとか?」
「そうね、なんだか機嫌が悪そうだったわ」
「んん?どうだろう。そんな話してたかい?」
「クリスマスのハスターが完全にツリーだったなって話で、どう機嫌悪くなんだよ。こいつ無神論者だろ。そっちで悪口言ってたとかじゃねえの?」
「もっと関係ないわ。イライの惚気を聞いていただけよ」
「惚気てたつもりはなかったんだけどなあ」
困ったように笑うイライを見るに、どうせまた婚約者の素晴らしさでも語っていたのだろう。
いつものことなのでナワーブはへぇへぇと適当に流す。デミはにや、と笑ってテーブルに肘をつく。
「あんだけ惚気といてまだ語る話があるのかい」
「だから惚気てるつもりはないんだけど。話が聞きたいと言い出したのはナイエルさんなんだけどなぁ」
「あら、出逢いを聞いただけよ?惚気も面白かったけれど。ねぇ?」
「うん。そこまで想われてるのは羨ましい限りだよねって」
自分から話が逸れて安心したのか、トレイシーがクッションから顔を上げて頷く。
「恋愛はどうやって始まるのかってトレイシーが聞くから、いい教材がいるじゃないと思って」
「教材扱い……いや、いいんだけど」
「お前もそんなことを気にする様になったのか……!」
ナワーブが染み染みとした声で呟く。ここに来た時はガリガリの青白いヒョロガキで、機械しか興味なかったあのトレイシーがそんな事を人に聞くとは。
ナワーブがデミを見れば、彼女はわかっているという顔でテーブルの下から新たな酒瓶を取り出している。いそいそと祝杯の準備をしている姿に、トレイシーは慌てる。
「ち、違っ!ウィラ!違うでしょ!恋愛にならないようにするにはどうしたらいいかって聞いたの!」
「あら、同じ事じゃない」
「全然違うよ、もー!」
どうすればこの悩みを伝えられるのか。トレイシーはもどかしい気持ちでクッションを叩く。
一人でジタバタしているトレイシーに、ナワーブは不思議そうな顔で首を傾げる。
「なんだその相談?告白される予定でもあるのか」
「なっ……いよ?別に。無い無い!」
「すげえ挙動不審」
引き攣った笑顔で誤魔化す「弟」分に、ナワーブは目を細める。どこか焦っているトレイシーに、ホセはふむと顎を摩る。
「当たらずとも遠からずと言った感じだな。これは逆じゃあないか?」
「逆ってのは?」
「告白された後なのでは?」
「……………………」
トレイシーは静かだった。五人の視線が集まる中、クッションに完全に顔を埋めてだんまりを決め込んでいる。
しかし寝る為に薄着だったことが災いし、顔を隠しても首も耳も剥き出しの腕も全てが赤く染まっているのが丸見えだった。
本来ならこの場から走って逃げ出したい事だろう。だが彼女の体は囚人服の男にしっかりと抱き抱えられているのでそれも出来ない。
トレイシーの反応、謎の相談、ルカの突然の奇行、それを友達と言い張る姿。それら全てが脳内でパズルピースの様に繋がる。
「トレ」
「友達だもん!!」
「だから」
「絶対違う!」
何を言っても威嚇する子犬のような反応をするトレイシーに、ウィラとデミが宥める素振りで同じソファーに腰掛ける。
「うん、分かった。二人が友達なのは。そこは疑って無いから」
「ただ、一つ確認させて欲しいのよ。トレイシー、あなたバルサーと友達というけれどそれは告白を断ったの?それとも友達からって意味なの?知ってしまったからにはそこは確認しておかないと、明日からぎこちなくなってしまうわ」
「……………………」
きゃんきゃんと吠えていたトレイシーが静かになる。興味本位で聞いているわけでは無いことは伝わったようだ。
ただの飲み会のはずがとんでもないことになってしまったとホセは思う。ルカを捕まえてこの席に連れてきたのは自分なので、少し責任を感じる。
しばらくするとクッションに顔を埋めたまま、ぼそぼそとトレイシーが話し始める。
「断っては、いないけど。でもそういうのは分からない今のままがいいって言ったら、それなら今はそれでいいっていうから、そうしてる」
「そうだったのか。君達最初から仲良かったからなぁ」
「いつの間にそんな事になってたんだい?全然気付かなかったよ。最近のこと?」
年が同じだからか、ゲーム留守番組の期間が長いこと重なっていたからか、イライもトレイシーも互いに遠慮がない。他のメンバーが聞きづらく思っていた事を、イライは遠慮なく質問している。
よくやったと皆が思いつつ耳を欹てていると、トレイシーがもごりと答える。
「違う。ずっと前……シーズン衣装来た時」
「シーズン?」
イライは首を傾げた。シーズンごとに来る衣装はルカにはまだ順番が来ていない。ということはトレイシーに「キャンディー少女」の衣装が来た時の話になる。
同じ時にイライも黄色の衣装が来ていたので覚えている。トレイシーがとにかく暴れて大人しく着替えてくれなくて、同じく衣装が来ていたバルクやジョゼフと一緒に手を焼いた記憶がある。
「それってあの可愛い服の話?」
「……だったら彼が来て割とすぐの話じゃ?」
ウィラとホセの言葉に、クッション越しにこくりとトレイシーが頷いた。
ルカはここにいるメンバーの中では新参だが、それでも荘園に来たのは大分前の話だ。
――え、じゃあそんな前に告白したのにずっと「友達から始めましょう」の関係のままってこと?もうそれ脈ないのでは?
デミはそう思ったが、しかし赤くなって縮こまっているトレイシーは恥ずかしがってはいるものの、ルカの手から逃げようとはしていない。興味がない男にあんな触れられ方をしたら、もっとどうにかして抜け出そうとするのではないだろうか。
この二人、なんだか思っていたよりも複雑な関係性なのかもしれない。
「呆れた。トレイシー、そんな前の告白なのにずっと答えを保留にしているの?」
「保留にしたわけじゃない、友達でいたいって言っただけ」
「それはよくあるお断りの文言じゃないか?」
「そのつもりは、ないけど。ルカもそう思ってるし」
「うーん、でもトレイシーずっとそのままなんでしょ?恋人になる気がないんじゃないの」
「うう…………」
「明確に断るなら断った方が互いの為では?」
「……………………」
イライの言葉にだんまりを決め込むトレイシーに、ナワーブは顔を顰める。
「断りたくはねぇんだな、お前」
「………………」
「はあー……前言撤回。お前、悪女の才能あるわ」
「違いない」
ナワーブが髪を掻きむしりながら言うと、ホセが深く頷いて同意する。
きっとトレイシーにはそのつもりは無いのだろうが、これは所謂「キープされている状態」というのではないだろうか。意外に一途なルカに二人は同情してしまう。
男性に厳しいウィラも流石にこれは酷いと思ったのか、トレイシーに向き直り言い含める。
「あのねトレイシー。男性にいくらでも待つって言われたからってその言葉に甘えては駄目よ。その気がないならそう言わないと」
「うん、四六時中一緒にいるし、ただの友達なら仲良いなで済むけどさ。流石に、告白した相手と普段からあの距離で接してたのかと思うと、ね。ちょっと流石に私もどうかと思うかな」
「そうよね?だからずるずると返事を伸ばすのは相手に悪いわ」
「…………ない」
「え?」
「伸ばしてないんだよ、だから‼︎」
トレイシーがクッションから勢いよく顔を上げる。眉間に皺を寄せた顔は苛立っている。さっきまで恥ずかしがっていたのに、何故突然こんな不機嫌になったのか。
トレイシーはクッションを膝に下ろすと苛立たしげに髪を掻き毟った。今の今まで恥じらう少女だったのに、スイッチを切り替えたように普段の少年じみた態度になっている。
「あー、もー、めちゃくちゃ言いたくなかったけど変な方に誤解されるよりいい!ただし今から言うことはみんな知らないし、知って欲しくない事だから言いふらさないでよ!分かった⁉︎」
「え、うん」
「わ、分かった」
全員の顔を見渡したトレイシーは、各々が頷いたのを見てふうと息を吐き出す。そして親指で自分の背後のルカをびっと指差す。
「これに告白されたのは本当だけど、恋愛は嫌だあんたは好きだけど男のあんたは怖い、友達のままでって私は答えた。そしたら嫌じゃないなら問題ない、怖く無くなるまで付き合うってルカが言ったの。その時に私がOK出すまで絶対に今の関係は変えない、みんなの前じゃ今まで通りに友達として過ごす。その代わりに二人の時は大人しくルカのぬいぐるみになるって約束をしてたわけ。なのに今、こいつが、それを勝手に破った状態なの、誰が悪女だ、このやろう。分かった?」
「な、なるほど」
「悪かった」
最後の方はトレイシーはホセとナワーブを睨んでいた。
二人は流石に申し訳なさそうに頭を下げた。トレイシーは隣にいるウィラとデミにもきつい視線を向ける。
「そもそもこの男全然待て出来てないから!ちょっと人の目がなくなるとすぐこれだから!こっちに付き合うとか言いながら歩幅合ってないんだよ、最初っからもうずっとぐいぐい来すぎなんだよ!諦めるどころか隙あらば境界線広げようとしてくるし!今も爆弾だけ投げて寝てるとかもう本当なんなの、こいつ!」
トレイシーはとうとうクッションをぼすぼすと殴り始めた。どうにも彼女にもずっと抱えていた鬱憤があるらしい。
どうにか荒れているトレイシーを宥めようとデミとウィラがどうどうと声をかけている間に、それまで静かだったイライが「ああ!」と呑気な声を出す。
「じゃあ最近トレイシーがバルサーさんと妙な距離取ってたのもその告白のせいじゃなかったんだ」
「………………」
ぴたりとトレイシーのクッションを殴る手が止まる。
「バルサーさんがさっき不機嫌だったのってトレイシーが原因?その言い方だと、トレイシーは彼の勢いに押されて流されそうになってるのをようやっと堪えてる感じかな」
そこでウィラも気づいた。だから「恋愛にならないように」する方法を聞いて来たのか。
そもそもいつもは誘われないと来ないトレイシーが、飲みの席に自分から入ってきたので珍しいなと思っていたのだ。その割にアルコールには手を伸ばさず、仲の良いデミやナワーブではなく自分の側にいたのはその相談をしたかったからか。
トレイシーは素早くクッションを抱え込むとハリネズミの様に蹲った。今度は顔や腕どころか脚まで真っ赤に染まっている。
「もおおおおおおおおおお……!なんで今日に限っていんのさイライぃぃ!勘がいいからやだったんだよぉ!いつもいない癖に!ホセもなんでよりによってルカ捕まえてくんのさぁあ!」
「え?あ、ごめん」
「すまない、流れでつい……」
謝ってはいるが、イライは何故怒られているかは分かってはいないだろう。トレイシーとしても完全にこれが八つ当たりなのは自覚している。
イライの言う通り、トレイシーは最近自分が劣勢になっていると感じていた。ルカと二人きりの時に流れる空気が危ういものになる回数が増えている。
向かい合えば確実に額や鼻にキスをされる。背中を向けてもつむじや耳にキスをされる。先程は「ぬいぐるみ」と表現したが、そんな生ぬるいスキンシップではない。
怪しい雰囲気になる度に何かと理由をつけて逃れているが、非常に危機感を覚えている。
下手に口で抵抗すると、ルカに揚げ足を取られて丸め込まれる。言質を取るのが恐ろしく上手いのだ。相槌すら危険なのは最初の出会いで経験済みだ。あの男は口から漏れた音すら肯定と判断するのだ。
「だからなんとか、こう、気が逸らせないかなーって思って二人になる時に可愛くない格好してみたりしてるんだけど、効果あるのかないのかよく分からない反応しかしないんだよ……」
「念の為に聞くけど『可愛くない格好』っていうのは?」
デミの質問にトレイシーはパチパチと目を瞬く。
「え?スカートじゃないやつとか」
「というと」
「拘束着と、黒スーツと、熊のやつと、若店主かな」
指を折ってそう答えるトレイシーに、デミはぐっと口を引き結んだ。そうしないと盛大な溜息が漏れてしまう。トレイシーの中ではそれらは「可愛くない」という認識らしい。
「あら、熊はとっても可愛いんじゃないかしら?」
「えー、だって着た時みんなめちゃくちゃ笑ってたじゃん!」
「いや、あれはお前とイライがお揃いで熊と虎ってのが面白くてだな」
ナワーブが痛む頭を押さえながらそう告げる。
トレイシーの「熊女」とイライの「人間になりたい虎」は初めて見た時の印象が強力だった。なにせイライにはネタ衣装など存在しなかったのだ。
澄ました顔で虎耳をつけている全身タイガーパターンのイライと、その横で居た堪れない様子でいる熊のトレイシーが兎に角面白くてナワーブ達は笑い転げた。
――まさか後日、自分にも可愛い熊衣装が来て同じ目に遭うとは夢にも思っていなかった。
当時を思い出してダメージを受けているナワーブに代わり、ホセが咳払いをする。
「コンビなのが面白かっただけで、あれが可愛くないわけではないんじゃないか?」
「そっか。まあ、ルカが物凄くご機嫌でぬいぐるみ扱いしてくるから着るのやめたんだけど」
「そうだろうね……」
好いてる相手がそんな格好して来たら可愛いとしか思わないんじゃないだろうか。
イライは首を傾げながらトレイシーに尋ねる。
「黒スーツって、僕にも来たのだよね」
「うん」
「あれ、評判良かったんじゃない?」
ジョーカー、カヴィン、トレイシー、イソップ、イライに来た黒衣のシリーズは周りから素敵だと言われていた。トレイシーの「機械人形師」も非常に大人びた印象だと好評だった筈だ。だからこそイライは「可愛くない」と判断した事を不思議に思っていたのだ。
しかしトレイシーはそんなイライに得意気に首を振る。
「イライ、分かってないな。あれは大人っぽくて格好いいでしょ。みんなそう言ってたもん」
「んんんん……そう来たかあ」
ホセは片手で両目を覆う。確かに自分もそう褒めた記憶があるし、可愛い格好とは言わないのかも知れない。それは事実ではあるのだけれど、まだ幼なげな彼女に言うのは憚られる感想を皆も抱いたはずだ。
黒い髪に白い肌、赤い唇に黒いスーツとハイヒール。あの姿のトレイシーは、黙っているとどこか蠱惑的で妖艶なのだ。
動いて口を開けばいつもの彼女なのでそんな雰囲気も吹き飛ぶが、告白した相手の前でそんな格好をするの悪手ではないだろうか。
「で、ルカの反応はどうだったんだ?」
「なんか良くない反応だった気がしたからすぐ着替えた。あ、これダメなやつかもと思って」
「その判断は出来るんだね、ちょっと安心した」
デミはこの子大丈夫かなと思っていたが、トレイシーの危険察知能力はゲーム中と同じく日常でも高いようだ。
トレイシーは唇を尖らせてクッションに肘をつく。
「絶対大丈夫だと思ったんだけどなあ」
「お前のその自信はなんなんだよ。俺でもその結果は分かったぞ。まあ、拘束着は流石に平気そうだろうが」
「あれは確かに、かなり特殊な服だな」
ナワーブの言葉にホセが同意を示すも、イライは「うーん」と唸った。
トレイシーの「偽笑症」は電気椅子治療を受けた患者という特殊設定だ。服も華やかさのない拘束着であり、頭に電気治療器具を被っている一風変わった姿だ。人により反応は様々だが、まず万人受けする「可愛いさ」ではない。
――が、気付いてしまうとどうしてもそこに視線が行ってしまう、とある問題点がある。
気付いてない二人にわざわざ教えるわけにもいかないので、イライは唸るだけで黙っていることにした。
ウィラはにこりと笑ってトレイシーの顔を覗き込む。
「貴女、あの服で、その男の所に行ったの……?」
「う、うん。そうだけど」
口角は笑っているけど、目が笑っていない。トレイシーは動かせる範囲でウィラから距離を取る。何故か怒ってる事だけは分かる。
「ルカ、最初はちょっと驚いてたけど、リアクションはそれだけで。その後はいつも通りだったんだ。でも暫くしたら私から離れて、近づかないでくれって言い始めてさ。壁に向いて全然こっち見てくれなくて」
「あら」
眉を顰めているトレイシーの言葉に、ウィラは意外そうな表情になる。そしていくらか険のとれた口調で先を促す。
「それでどうなったのかしら?」
「んー?頼むから着替えて欲しいって言われた。震えてたからなんか怖かったのかも。電気椅子だもんなぁ。なんか悪い事したって今は思ってる。もうルカの前ではあれ着ないようにしようかと」
「……いい判断だね、それ。出来たらあまり外でも着て欲しくないんだけど」
さっき感心した所だけど、やっぱこの子危機管理能力おかしいかも知れない。デミは後ろ髪を掻き上げ、盛大に息を吐き出す。
「偽笑症」の問題点は近くで見ていても気付くのだがら、今のようなスキンシップをする相手なら気付かないはずもない。
「ふん。バルサーも一応の紳士の精神はお持ちのようね、少し安心したわ」
ウィラはトレイシーの背後で寝息を立てている男を見やる。
待てが出来ない男というのでまさかとウィラは思ったが、ちゃんとした関係になるまで自制する心はルカにもあるようだ。そこは褒めてやろう。
「それじゃあ、今のところその作戦って上手く行ってないんだね」
「まだ若店主の衣装があるもん」
苦笑しながら言うイライに、トレイシーはむっとした顔で答える。
まだ作戦が失敗したかどうか決めるのは早い。こういうのは最後まで検証しなくては分からないものだ。途中で放り出してはいけないのだ。次こそ成功するかもしれないのだから。
それに「目盛り調整」には少し自信があるのだ。あれは本当に男の子のような格好だから、流石のルカでもそう言う雰囲気にならないのではないだろうか。だってスカートじゃないし、可愛い格好でもない。
ちょっと得意げなトレイシーに、向かいのホセはなんとも言えない、生温いという表現がぴったりの顔で微笑むしかなかった。
――これは彼女の陥落のカウントダウンの方が早そうだ。