犬って被るものだっけ?

「アンドルーの言う通りだったなって」
窓から差し込む朝日が目に染みる。トレイシーは手を掲げてそれを遮る。籠をひっくり返し、リネンを洗い場に積み上げるアンドルーが口をへの字に曲げる。
「そうだろうな」
「疑ってたわけではないんだけど、ネジがぶっ飛んでるの意味をようやく理解したというか。自分の感情自覚した途端にあんなに勢いよく詰めてこられるとは思ってなかった……」
トレイシーが中身の詰まった籠を抱えて、言い訳するように呟く。アンドルーは興味なさげな顔で、籠の底に溜まったタオルを掻き出して洗い場に放り込む。
「ああいう輩は世渡りは上手いもんだろう。腹の色を隠すのはお手のものだ。関われば割を食うのはこちらだ」
「うう、人生の経験者の話は為になるよ……」
でも出来たらもっと早く聞きたかったかもとトレイシーは頬を掻いた。
今日のリネン回収はトレイシーとアンドルーが当番だ。
いろいろ勝手に綺麗になっている荘園だが、肌に触れるものは清潔である保証が欲しいという希望があり、二人の当番が使用済みのリネンを回収に回ることになっている。
洗濯などはいつの間にか済んでいるのだが、広い荘園内の回収だけでもかなり大仕事になるので、係を二人から三人にすべきではという声も上がっている。
トレイシーは最後の籠の中身を洗い場に放り込んで、ぱんぱんと手を叩く。
「よし、終わり!」
「もう済んだんなら僕は部屋に戻るぞ」
「うん。後はやっとくよ。お疲れ様」
籠の片付けくらいなら、トレイシー一人で十分だ。重い籠の運搬をしてくれていたのはアンドルーだし、この程度なら任せてもらっても問題ない。
トレイシーが明るくそう返すと、アンドルーはなにやらうんざりとした顔で重い溜息をつく。
「?なに?なんか変なこと言った?私」
「いや……あんたに何か思うところがあったわけじゃない」
「?」
首を捻るトレイシーに、アンドルーは「後ろ」と告げる。言われるがままにトレイシーが振り返ると、いつの間にやら奥の壁に凭れたルカがいる。ちょっと前までは誰もそこにはいなかった筈だ。
朝まで作業をしていることはあれど、こんな時間にまともに活動している事など滅多にない男だ。そんな人間が、わざわざこんな時間にここにいる理由は一つだろう。
「あれは、どこかでずっと見てたな……終わると同時に出てくるのはおかしい」
「そんな、ピアソンさんじゃあるまいし」
「同じだろ」
アンドルーが面白くなさそうに言った言葉に、トレイシーは少しだけ不快感を覚えた。あのストーカーとルカが同列に扱われるのは、違うと思ったのだ。
むっとした顔の機械技師に、アンドルーはふんと鼻を鳴らし、不気味なものを見る目でトレイシーを見下ろす。
「僕にはどうでもいいことだ。けど、あんなあからさまな行動に出たってことはあんたもう手遅れってことか。御愁傷様だな」
「そんなに皮肉込めないでよ、まだそういうのじゃないから」
小馬鹿にしきったアンドルーの言葉に、トレイシーは苦く笑うしかない。
彼の忠告は、全くの無駄だったわけではないのだ。トレイシーが完全にルカに流されずに済んだのは、アンドルーの言葉もあったからだ。
「あの人種は自分の思い通りになるまで折れることはないと思うけど」
「そう言う話もできたら先に聞きたかった」
「僕が知るか。精々、奴の被った猫の機嫌でも取って、延命するんだな」
アンドルーはそう告げると、用は済んだと足早に去っていく。トレイシーはその背を見送ってくすりと笑う。
――アンドルーって言葉は冷たいけど、なんだかんだ忠告はくれるんだよな。まあ、ルカが被ってるのは猫というより犬だけど。
トレイシーは積み重ねた籠を戸棚に押し込む。これで当番の仕事は完全に終了だ。戸を閉じると同時に肩に手を置かれる。
「終わったかい?」
「うん」
「それなら今度は私の相手をしてくれ」
「いいけど」
待ってましたとばかりにやって来たルカに、トレイシーはくすくすと笑ってしまう。何故か自分の顔を見て笑い出したトレイシーに、ルカは首を傾げる。
「なにか、私の顔についているかい?」
「違う。ルカってば今、アンドルーにストーカー呼ばわりされてたんだよ。私に引っ付いて回ってるって思われちゃってるのおかしくて!そんな事ないのにね」
自分の研究があれば、ルカはそちらに没頭するから数日会わない事だってある。トレイシーだって新しい設計案が浮かべば部屋に引き篭もることはざらだ。一緒にいることが多いのは否定しないけど、流石にそんなずっとくっついているわけではない。
トレイシーの言葉に、ルカは緩く微笑むだけで否定も肯定もしなかった。
「クレスとはあまり話す機会がないんだが、どうにもいい印象を持たれていないようだ」
「あはは……」
ルカが少し残念そうに言うのを、トレイシーは笑って誤魔化す。いい印象どころか、多分あれは好かれてないと思う。嘘になるので否定もできないが、事実を伝えるのも角が立つ。
飄々とした雰囲気に、薄く笑ったような表情。トレイシーが見上げたルカは、いつも通りに見えた。それにトレイシーは安心する。彼に会うまで、少し緊張していたのだ。
朝起きた時に、昨日書斎であったことは夢だったんじゃないかと期待した自分がいた。けれど、クローゼットには確かに自分に似つかわしくないフリフリ衣装がある。
出来ることならこの衣装ごと、昨日起きたことも無くなって欲しかったのだが、そうはいかなかった。
ルカはトレイシーが慣れるまでは今まで通りに接するという約束もしたが、それと引き換えにとんでもない約束もしてしまった。マイクの乱入をこれ幸いとトレイシーは逃げるように部屋に戻って来てしまったのもあり、次にルカがどう出るかとドキドキしていたのだ。
やっぱり、昨日はいつもと違う格好だったから変な雰囲気になってしまっただけかもしれない。
今日のトレイシーはいつもの「野暮ったい」とウィラに言われる作業着だ。この格好の自分に変な気を起こす人間はいない筈だ。杞憂が過ぎたかもしれない。
「ルカ、朝ごはん食べた?」
「いや、君を誘おうかと思っていたんだ。ただずっと室内にいたからその前に陽にあたろうかと」
「ああ、カビが生えそうだったってナワーブ達が言ってたもんね」
「モートンにはきのこが生えてそうとまで言われたよ」
「ふふ」
洗濯室から温室へと続く扉に手を掛け、肩を竦めるルカ。自信家のこの男が、カビやらきのこが生えそうなくらい落ち込んでいた姿を、トレイシーも少しだけ見てみたかったなと思う。
そしてそうか、ルカは温室に用事があっただけなのかとトレイシーは納得する。やっぱりストーカーなんてアンドルーの考えすぎだったのだ。
ガラス張りの温室に出たルカは、眩しそうにしながらも、思い切り伸びをしている。外の空気が吸えるわけではないけれど、外光を浴びるだけでも気分は変わるものだ。トレイシーも最近はゲーム以外はほぼ引きこもっていたので、久々にまともな陽を浴びた気がする。温室中央を陣取るカエルの像すら眩しく感じて、トレイシーは目に優しい緑に視線を向けた。
ルカは階段に腰を下ろすと、トレイシーを振り仰いだ。
「トレイシー」
「…………」
柔らかな声で名を呼ばれ、ルカから差し出された手に、トレイシーはぎくりと肩を揺らした。
以前なら、ルカは無言で自身の隣を叩いてそこに座るようにトレイシーに促した筈だ。友なのだから、並んで座るのが普通だろう。
――だったら、この手はなに?
自分に伸べられた手のひらに、トレイシーは胸の前で両手をぎゅっと握り込む。半歩下がって、ルカの手から距離を取る。
さっきまで、ルカは前と一緒だったのに。どうして急に態度が変わったのか。
そう考えて、トレイシーは気付く。温室のガラスの外は人が立ち入らない林が広がっている。そして温室内部が見える窓は無く、居館と繋がる扉はトレイシーの後ろにある一つだけだ。開放的だから失念していたけれど、今ここはルカとトレイシーの二人だけの状況だ。

――二人の時は私に大人しく可愛がられてくれ――

愕然としてルカを見れば、どうかした?と言わんばかりのとぼけ顔をしている。その態とらしい態度にトレイシーは顔を顰める。どうやら自分は間抜けにもこの男に誘い出されたらしい。
「トレイシー?」
じっと動かないトレイシーに、ルカは言い聞かせるようにもう一度名を呼ぶ。のろのろと顔を上げたトレイシーは、諦め悪く扉を振り返る。そこから誰かが来てくれることを願っているのだろうけど、残念ながらここに来る人間は今はいない。
ルカはきちんと線引きを守っている。他の人間が来るかもしれない場所では、確かに以前と同じ態度を貫いていた。トレイシーが勘違いしてしまうほどに完璧に。
そして二人きりになった途端にこれだ。切り替えが本当に明確だ。トレイシーはそんなスイッチのような切り替えはできない。
渋々といった態度で、トレイシーは差し出されたルカの手を取った。ルカがその腕を引くと、トレイシーは大人しく膝に座る。ルカは機嫌良さげに金色の髪にキスを落とし、トレイシーの輪郭を撫でる。むにむにと頬で遊び始めたのは流石に嫌がられたが、トレイシーはむっすりとはしているものの抵抗する気は無さそうだ。
ただ、時折何か物言いたげな目をルカに向ける。
「どうかしたかい?」
「ルカは昨日の格好がいいのかと思ってた」
「うん?私はいつでも君を愛らしいと思っているよ」
「う、ううう……!」
真っ赤になって唸りながら顔を隠そうとするトレイシーに、ルカは目を細める。
触れられること自体は欲を絡ませなければトレイシーは大人しいが、「色」が分かる言葉はルカの隠している感情も全て感じてしまうらしく、どうにも苦手なようだ。
――耐えようとしている姿がまた堪らないのだけれど。
「もう!とにかく!作業着の時もそういう反応するとは思ってなかったの!」
「だから、何故そう思うんだ?」
「だって、野暮ったいって言われるし……そんな格好じゃ嫁の貰い手もないって、散々言われたし……」
「私は欲しい」
「ああああ!」
前のめりになるルカの顎を下から押し上げて、トレイシーが叫ぶ。
「もう!もう!いきなり何言ってんの!」
「痛いよ、トレイシー」
「私に合わせるって話はどこ行ったの⁉︎慣れるわけないでしょ、こんなの!」
「すまない、つい」
ルカは自身を我慢強い方だと思っていたが、どうにも一度緩めた箍は戻らないらしい。今まできっちりと隠していた本音がぽろぽろと溢れてしまう。
人目のあるところでは今まで通りにする代わりに、二人きりになれば触れて良い。その確約が得られたことに、舞い上がっているせいもあるかもしれない。
ルカはトレイシーの姿を改めて上から下までとっくりと見やる。そしてうんと頷いた。
「一つ言わせてほしい」
「なに?」
「この格好の私が人の姿が野暮かどうかを気にすると思うか?」
「……なるほど」
トレイシーは囚人服の男を見上げて、それもそうだと納得する。野暮とかそんな問題じゃない格好してたよ、この人。
「それに、昨日言ったはずだ。なにをしてもどんな格好をしていても君は可愛い」
「‼︎可愛くない!」
「いいや、可愛い」
反射的に否定を叫ぶトレイシーの言葉を打ち消して、ルカはちょんと瞼にキスを落とす。途端に悲鳴が上がるが、口以外ならしていいと言ったのはトレイシーだ。続けて頬、鼻と口付ける。
じたばたと踠くトレイシーを抱き込んで、ルカはくすくすと笑う。早く慣れてほしいとも思うが、こうやって恥ずかしがっている様も非常に可愛らしい。
「んもー!もおおおお!」
「こらこら逃げるな」
「無理!無理いい!」
「よしよし。慣れるまで頑張ろうか、トレイシー」
「そんな日来る気しないんだけど……!」
「大丈夫さ。いくらでも付き合うよ。ゆっくりじっくり慣れていってくれ」
首まで真っ赤にして蹲るトレイシーに、ルカは金色の髪に顔を埋め、上機嫌に告げたのだった。

 

END
10/10ページ
スキ