勝デク♀【最強の家事代行、推しを護ってヒーローに戻る】
放課後の小学校の教室に下品な笑い声が響いていた。
爆豪勝己の手には一冊のボロボロになったノート。
「おい見ろよ。こいつまたこんなもん描いてやがる!」
勝己がノートを高く掲げると、周りを取り囲んでいた取り巻きたちが一斉に冷やかした。
中心のページに描かれていたのは緑色の布地に耳のような装飾がついた不格好なジャンプスーツのラフ画。出久が「いつか、かっちゃんが着てくれたら」と震える手で描き溜めてきたデザイン画だった。
「……か、返して、かっちゃん……」
「返してほしきゃ、まともなもん描けよ。ヒーローになる俺様にこんな間抜けな格好させる気かよ」
「……やだ、何これ。耳?ウサギのつもり?」
「ヒーローっていうか、ただの着ぐるみじゃん。ダッサ!」
クラスの女子たちの容赦ない声が教室の空気を凍らせる。
出久は顔を真っ赤にし、震える指先をぎゅっと握りしめた。ノートには勝己の「爆破」に耐えられる素材の考察や、動きやすさを重視したラインが子供なりに必死に書き込まれていた。
「……違うんだ。これは、かっちゃんの個性に合うように……」
「はあ? 何言ってんの緑谷」
一人の男子が鼻で笑い、勝己の肩に手を置いた。
「爆豪ならもっと最高にクールなスーツ着るだろ。俺だって、もしヒーローになれたとしても、緑谷のデザインしたスーツだけは死んでも着ないわ」
「俺も!」「センスなさすぎ」
連鎖する拒絶の言葉。
出久はまるで自分が描いた夢そのものを汚されているような感覚に陥り、涙を堪えて勝己を見つめた。
助けてと言いたかったわけじゃない。
ただ一番理解してほしかった相手に、その瞳にどう映っているのかが怖かった。
勝己は取り巻きたちの笑い声に耳を貸す様子もなく、ただ冷ややかな視線で出久を射抜いた。その目はかつて一緒に冒険していた幼馴染を見る目ではなく、道端の石ころを排除するかのような絶対的な拒絶だった。
「――おい、デク」
低く突き放すような声に教室が静まり返る。
「無個性がヒーローに絡んでくるんじゃねえよ。お前が何描こうが、俺の未来には1ミリも関係ねぇんだわ」
勝己は出久のノートを机に叩きつけると吐き捨てるように付け加えた。
「お前の『夢』は、俺にとってゴミ以下なんだよ。二度とそのツラ見せんな」
背を向けて歩き出す勝己の背中は出久にとってあまりにも遠くそして残酷に輝いていた。
床に落ちクラスメイトの足に踏まれて汚れていくノートを見つめながら、出久は初めて自分の「憧れ」が毒に変わる音を聞いた。
その日以来、出久は「ヒーロー」という言葉を口にしなくなった。勝己の拒絶とクラスメイトの嘲笑を振り払うように、彼女は地元の公立中学ではなく、遠方の服飾専門コースがある中学校へ進学した。
一方、勝己は当然のように地元の中学へ進み圧倒的な「個性」でカーストの頂点に君臨し続けていた。隣に自分を追う影がないことに苛立ちを覚えながらも。
「……あいつがいねぇ方が、清々していいじゃねぇか」
そう自分に言い聞かせ雄英高校への進学、そしてトップヒーローへの道だけを見据えていた。
しかし勝己が15歳になりいよいよ高校進学を控えた冬。世界は音を立てて崩壊し再構築された。
突如として国の実権を掌握した志村転弧。
彼が打ち出した「ヒーロー新秩序」は、これまでの自由なヒーロー像を根底から覆した。
ヒーローの国家公務員化:自由な活動は禁止。政府の管理下で「武器」として登録された者のみが活動を許される。
公認ヒーローの制限: オールマイトやエンデヴァーといった、政府が「絶対的抑止力」として認めた一部の者以外、その資格を得ることは絶望的となった。
適性審査の厳格化: 従来の入試とは比較にならないほどの思想調査と、国家への忠誠が求められるようになった。
昨日まで「ヒーローになりたい」と笑っていた同級生たちが、1人、また1人と願書を書き直していく。
「……俺たちじゃ、もう無理だよな」
教室に充満する諦めと妥協の匂い。
それはかつて勝己が出久に味わわせた「お前には無理だ」という絶望を、今度は国家という巨大な怪物が自分たちに突きつけてきているかのようだった。
勝己は自室の机に置かれた雄英高校の願書を睨みつけていた。以前なら自分の実力なら「合格して当然」だった。だが今は違う。転弧の作り上げた新しいシステムは個人の実力以上に「従順さ」と「有用性」を求めている。
「……クソが。どいつもこいつも、勝手に決めやがって」
ふと勝己の脳裏にあの日の光景が蘇る。
クラス全員に笑われ自分に「ゴミ以下だ」と突き放されながらも涙を浮かべてノートを握りしめていたデクの姿。
「(今の俺はあの時のあいつと何が違う?)」
あいつは「才能」に否定された。俺は今、「国家」に否定されようとしている。
「……あいつ、今どこで何してやがる」
服飾の中学へ行ったと風の噂で聞いた。
夢を諦めさせてやったはずなのに、このどん詰まりの世界で勝己が一番に求めたのは「俺の隣で、それでも夢を語るあいつの言葉」だった。
数年が経ち、かつての傲慢なガキ大将が夢に破れてフリーターとして燻る日々。20歳になった爆豪勝己にかつての面影はなかった。
居酒屋の裏方で洗剤に荒れた手でジョッキを洗う毎日。志村転弧による新体制下、ヒーローはもはや「個人の夢」ではなく「国家の所有物」となり、反骨精神の塊だった勝己はその徹底的な思想管理と利権の壁に弾き出された。
「……チッ、手が荒れやがる」
あの日、爆破の火花を散らしていた掌は、今や皿洗いの水にふやけている。
かつての同級生たちは、とっくに夢を諦めて堅実な職に就いた。自分だけが何者にもなれないまま、かといって全てを捨て切れるわけでもなく漂うように生きていた。
そんな勝己の生活に唯一、鮮やかな色彩を与える時間がある。
3年前、彗星のごとく現れたアイドル「ヒスイ」のライブ映像を見ることだ。
会場を埋め尽くすサイリウム。その中心でヒスイは軽やかに舞う。彼女の特徴はボリュームのある柔らかなピンク色のポニーテール。そして彼女が身に纏うのは新進気鋭のデザイナーが手がけたという、深みのある「緑」の髪飾りとアイドル衣装だ。
かつての「個性」を競い合った戦場は消え、今やこのライブ会場こそが、この国で唯一剥き出しの熱狂が許される場所となっていた。
客席を見渡せば勝己と同じように夢を奪われたヒーロー志望の若者や、体制に馴染めず居場所を失った元ヒーローが肩を並べて1人の少女を待っている。
「――お待たせ!」
破裂するような歓声と共に、ステージのせり上がりからヒスイが飛び出した。
ライトを浴びて輝くピンクのポニーテール。彼女がステップを踏むたびに専属デザイナーが手がけたという緑の髪飾りが挑発するように揺れる。
「みんな、盛り上がっていくよー!」
彼女が腕を振り上げると、会場は一瞬でイメージカラーの「緑」に染まった。
何千、何万というペンライトが波打ち、光のカーテンとなって会場を包み込む。勝己はその緑の渦の中にいた。
居酒屋のバイトで酷使し、節くれだった指で自分でも驚くほど強くペンライトを握りしめている。
ライブの余韻が冷めやらぬ夜の裏通り。
勝己は胸の奥の興奮を抑えきれないまま、駅へと向かっている。緑色の光に満たされていた会場とは対照的な街灯の薄暗いアスファルト。
そのとき路地裏から怒声と女性の悲鳴が聞こえてきた。
「いいだろ、ちょっと見せるくらいよぉ!『ヒスイ』の本物の衣装、近くで拝ませろよ!」
そこには数人の男たちが、1人の女性スタッフを囲んでいた。
男たちはライブ帰りの熱狂的なファン――というより、独占欲に突き動かされた暴徒と化していた。
女性スタッフが必死に抱えているのは大きなキャリーケース。その中には先ほどまでステージで輝いていた、あの緑の衣装が入っている。
「やめてください……! これは大事な物なんです……っ」
「ケチケチすんなよ。俺らがいくら注ぎ込んでると思ってんだ? 中身を見せるか、そのケースごと置いていくか選べよ」
男の1人が女性の肩を突き飛ばした瞬間、勝己の身体が反射的に動いていた。かつて「ヒーロー」を目指しそしてその夢に破れたはずの身体。
ヒスイのあの衣装が薄汚い連中に触れられることだけは、生理的な嫌悪が許さなかった。
「――おい」
低く、地這うような声。
男たちが振り返るとそこにはポケットに手を突っ込み、殺気立った瞳でこちらを睨みつける勝己が立っていた。
「……なんだよ、お前。混ぜてほしいのか?」
「……消えろ。その薄汚い手で、二度とそのケースに触んじゃねぇ」
勝己の手のひらが、微かに熱を帯びていく。
公的な場での「個性」の使用は厳罰化されているこの時代。それでも勝己の胸に宿った炎は消えていなかった。
「――ヒスイのファンだってんなら、あいつが悲しむようなことしてんじゃねぇ、クズが!!」
勝己の咆哮は、かつての爆破をも凌ぐ迫力で路地裏に轟いた。気圧された男たちは腰を抜かしながら蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
静まり返った夜道。勝己は荒い息を吐きながら、へたり込んだ女性スタッフに不器用な手を差し伸べた。
「……おい、大丈夫かアンタ。怪我は……」
そこまで言いかけて、勝己の言葉が止まった。
差し出した手を取ろうとした女性が、ゆっくりと顔を上げる。街灯の光に照らされたその瞳、そばかすの散る頬、そして――。
「……もしかして、かっちゃん?」
その声は、かつて放課後の教室で「返して」と泣きじゃくっていた少女の面影を色濃く残している。けれどそこにはもう怯えの色はなかった。
「お前……! デクか!? なんで、お前が……っ」
驚愕で声を荒らげる勝己。
目の前にいるのは、かつて勝己が「ヒーローに絡むな」と突き放した幼馴染だった。
出久は少しだけ照れくさそうに笑い、砂のついたキャリーケースを愛おしそうに撫でる。
「8年ぶり、だね。……びっくりした。まさか、かっちゃんが助けてくれるなんて」
「……あ、当たり前だ。あんな連中、見てられるか」
勝己は、自分の心臓がうるさいほど脈打っているのを感じていた。
かつて「ダサい」と笑い、ゴミだと切り捨てたはずのデザイン。今、彼女が守り抜いたそのケースの中には、日本中を熱狂させる「緑の衣装」が入っている。
「……とりあえずここじゃなんだし。お礼もしたいからうちに来てよ」
そう言って出久が勝己を促したのは、都心の一等地に建つセキュリティの厳重な高級マンション。勝己がバイト代のほとんどを注ぎ込んで借りている壁の薄いアパートとは何もかもが違う。
エントランスを抜け広々としたリビングに足を踏み入れた勝己はその光景に言葉を失った。
「……すげぇな、ここ」
「ふふ、ちょっと広すぎかなって思うんだけどね」
出久は笑いながら、勝己に上質なスリッパを差し出した。
部屋の一角には、何台ものミシンや最新の3Dプリンターが並び、壁一面には夥しい数のデザイン画が貼られている。そして部屋の中央には、数体のトルソーが並び、そこには「ヒスイ」の歴代ステージ衣装が飾られていた。
「これ……全部、お前が作ってんのか」
「うん。服飾の中学を出た後、独学で。……あの時、かっちゃんに『誰が着るかよ』って言われたのが、ずっと胸に残ってたんだ」
勝己は初期のライブで一度だけ使用された、エメラルド色のライン石が埋め込まれたチョーカーを手に取る。
「……これ、3年前のデビューライブ『First Spark』の3曲目、アンコール前で着けてたやつだろ。あの時、左側の石が照明の熱で少し浮いてたはずだ」
淀みなく、かつ詳細な情報を吐き出した勝己に、出久は持っていたティーカップを落としそうになるほど目を見開いた。
「……えっ。ええっ!? なんでそんなことまで……!?」
出久はまじまじと勝己の顔を見つめた。
かつては「ヒーロー以外の情報には1ミリも興味ねぇ」と豪語していた、あの爆豪勝己。それが、衣装の細かな不備や、使用されたシチュエーションまで完璧に把握している。
「かっちゃん……もしかして、ヒスイの大ファン……なの!?」
「っ……、う、うるせぇ!! 」
勝己は弾かれたようにチョーカーを戻すと、耳まで真っ赤にして怒鳴った。
2人はその後、高級マンションの静かなリビングで積もりに積もった8年分の時間を埋めるように語り合った。
「……そうか。かっちゃん、ヒーロー諦めたんだね」
出久のその言葉は蔑みでも憐れみでもなくただ静かな事実として勝己の胸に落ちた。かつて自分が彼女に突きつけた「諦めろ」という言葉が、時を経て自分に返ってきた皮肉。けれど、今の出久から受けるその言葉には、不思議と棘がなかった。
「……あぁ。あんなクソみたいな国の操り人形になるくらいなら、居酒屋で皿洗ってる方がマシだわ」
強がり半分、本音半分。勝己が吐き捨てると出久は少しだけ寂しそうにでも優しく微笑んだ。
夜も更け勝己が帰路につく際、2人は玄関先でスマートフォンを取り出した。
「はい、これ。……今度は僕から、かっちゃんに絡みに行ってもいいかな?」
画面に表示された連絡先。8年前、教室でノートを叩きつけた時には想像もできなかった、対等な「再会」の証。
「……好きにしろ」
短く答えてマンションを後にした勝己の胸中は、ライブの熱狂とはまた違う、静かな高揚感に包まれていた。
手元に残った出久の番号。そして去り際に出久が言った一言が、耳の奥でリフレインする。
『かっちゃん。僕のデザイン、今はもう「ダサい」なんて言わせないから。……また絶対にライブに来てね』
駅へと向かう勝己の足取りは、数時間前よりもずっと力強いものに変わっていた。
夢を諦めたはずの20歳の冬、けれど握りしめたスマホの中には、かつて自分が「ゴミ」だと捨てた夢の続きが、眩いほどの輝きを持って息づいていた。
あの日、出久の輝かしい生活に触れた反動からか勝己の現実は皮肉にも最悪の方向へと転がり落ちてしまった。
「……クソが。どいつもこいつも」
バイト先の先輩は、自分のミスを全て勝己に押し付けた。「態度の悪い元ヒーロー志望」というレッテルは、今の社会では格好の攻撃材料となっている。店長もろくに話を聞かず、勝己はその日のうちに解雇を言い渡された。
数日後。手元に残ったわずかな金も、家賃と光熱費に消え、次の仕事を探そうにも腹の虫が鳴り、頭がぼうっとして力が入らない。冬の冷たい風が、薄いジャンパーを容赦なく突き抜ける。
勝己は駅前の公園のベンチに倒れ込むように座り、空っぽの胃を抱えてうなだれていた。
あんなに眩しい場所にいる出久を見た後で自分はゴミ箱の底を這っている。情けなさと空腹による眩暈で視界が歪んだ。
「――かっちゃん?」
不意に、頭上から鈴の鳴るような声が降ってきた。
幻聴かと思い、顔を上げる気力もなかった勝己の鼻先を、ふわりと甘く温かい香りがかすめる。
「やっぱり、かっちゃんだ! こんなところでどうしたの?」
慌てて顔を上げるとそこには買い物袋をいくつも下げた、私服姿の出久が立っていた。
「……デク、か」
「顔色が真っ青だよ……。もしかして、体調が悪いの?」
「――俺に構うんじゃねぇ……!」
勝己は震える足に力を込め、差し伸べられた出久の手を乱暴に振り払う。しかしプライドだけで支えていた身体はとうに限界を超えていた。一歩を踏み出した瞬間、視界が急激に暗転し勝己はその場に糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
「かっちゃん!? かっちゃん!!」
雪の混じったアスファルトに倒れた勝己を抱き起こそうとするが、大人の男の身体は女の出久ではビクともしない。焦燥に駆られた出久はすぐにスマートフォンを取り出し最も信頼できる人物へ連絡を入れた。
「――飯田くん! ごめん、今すぐ駅前の公園まで来てくれないかな!? 大事な人が……かっちゃんが倒れちゃったんだ!」
10分もしないうちに、1台の黒塗りの車が猛スピードで滑り込んでくる。車から降りてきたのはガッシリとした体格に眼鏡を光らせた生真面目そうな青年――ヒスイの専属マネージャーを務める飯田天哉だった。
「お待たせ緑谷くん! そしてこれが例の彼か……」
天哉は倒れている勝己を一瞥すると、迷うことなくその巨体を軽々と担ぎ上げる。かつては彼もヒーローを目指した1人だったが、今はその機動力と誠実さを活かしヒスイという「希望」を裏で支える事務方のスペシャリストとなっていた。
「彼の容体は芳しくないようだ。すぐに君の自宅へ運ぼう。緑谷くん、車を出すぞ!」
そして出久のマンションに運び込まれた勝己はゲストルームの柔らかなベッドに寝かされた。
「……っげふぉ! なんだ、この……臭いは……」
喉を刺すような焦げ臭さに勝己は飛び起きた。意識を失う直前の空腹感はどこへやら、生存本能が「逃げろ」と警鐘を鳴らしている。
フラつく足取りで匂いの源――広々としたアイランドキッチンへ向かうと、そこには立ち込める白煙の中で肩を落として立ち尽くす出久の背中があった。
「また失敗しちゃった……。火加減、一番強くしたはずなのに……」
「おい、デク……。何だこれ? 何の儀式だ」
勝己の声に出久は弾かれたように振り返る。その手元のフライパンの中身は「地獄の底から召喚された何か」にしか見えなかった。
「あっ! かっちゃん起きたんだね! よかったぁ……。ええと、これはね、かっちゃんのために作った卵焼きとウインナーだよ」
出久が笑顔で指し示したのは、炭をさらに煮詰めたような漆黒の塊と、元が何だったのか判別不能なほど縮み上がった黒い棒状の物体。
「……卵焼きだと? 化学兵器の間違いじゃねぇのか」
「えっ、ひどいな!
ちゃんとレシピ通りだよ? 『表面にいい焼き色がつくまで』って書いてあったから、徹底的に焼いてみたんだけど……」
青ざめる勝己。あの日ノートに緻密な分析を書き込んでいた秀才の面影はどこにもない。どうやら神様は彼女に「デザイン」と「分析」の才能を与える代わりに「料理のセンス」を根こそぎ奪っていったようだった。
「……おい」
「えっ、あ、あぶないよかっちゃん! まだお腹空いてるんでしょ? 今、炭の部分を削れば食べられるかも……」
「死ぬわ! どけ、この不器用女!!」
勝己は出久の脇を強引にすり抜けフライパンをひったくる。
実家で母親に仕込まれ、1人暮らしの自炊で鍛えられた勝己にとって、この惨状は「攻撃」に等しいものだった。
勝己は手際よく真っ黒なフライパンを洗い流し、冷蔵庫を勝手に開けると、中には最高級の卵や出久が買い込んできた新鮮な食材が宝の持ち腐れ状態で眠っていた。
「見てろ。……卵焼きっつーのは、こうやって作るんだよ」
流れるような手付きで卵を割り、出汁を加え、菜箸一本で美しく巻き上げていく。
ジュー、という心地よい音と共に、キッチンに本物の「食べ物の匂い」が広がり始めた。
「わぁ……すごい……っ! かっちゃん、魔法使いみたい!」
「うるせぇ。お前がバカすぎるだけだ」
数分後、テーブルに並んだのは、黄金色のふわふわな卵焼きと、程よく切れ目の入ったジューシーなウインナー、そして即興で作った味噌汁。
出久は目を輝かせて、一口頬張った。
「――おいしい……っ! かっちゃん、これだよ、この味!昔、かっちゃんのお家でご馳走になった時と同じ味がする!」
勝己は、自分が作った飯を幸せそうに食べる出久を、複雑な心境で見つめていた。
デザインの道で自分を遥か後方に置き去りにした出久が、たった1つの卵焼きで、幼い頃のように自分を崇めている。
「ねぇ、かっちゃん。……僕、決めた」
出久はもぐもぐと口を動かしながら、真剣な目で勝己を見上げた。
「ーーはぁ!? 何言ってんだテメェ!」
勝己の怒鳴り声がリビングに響いたが、出久は怯むどころか、さらに身を乗り出して勝己の両手を握りしめた。
「お願いかっちゃん! 見ての通り、僕はデザイン以外のことは本当にダメダメで……。普段は飯田くんに無理を言って掃除や洗濯を回してもらってるし、ご飯もコンビニか事務所が用意してくれるお弁当ばっかりなんだ」
出久の必死な訴えに、勝己は呆れて言葉も出ない。
先ほどの「黒焦げの炭」を見れば、それが誇張ではないことは一目瞭然だった。この広々とした高級マンションも天哉がいなければ、今頃はゴミの山か火の海になっていたに違いない。
「……飯田にやらせてんなら、そいつに一生頼んでろ」
「飯田くんはマネージャーの仕事が忙しすぎるんだよ! スケジュール管理にライブの設営……。これ以上、僕の生活の面倒まで見てもらうのは申し訳なくて。それに……」
出久は、少しだけ声を落として、勝己の手を握る力を強めた。
「……かっちゃんの作ったご飯すごく安心するんだ。あの日から止まってた僕の時間がやっと動いた気がするの」
勝己は毒気を抜かれたように出久の真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
本来なら爆豪勝己という男が「家事代行」などという裏方に甘んじるはずがない。けれど今の自分はバイトをクビになり行く当てもなく空腹で倒れた身。
そして何より、この「デク」が、自分の助けを喉から手が出るほど欲している。
「……お金は、バイトの3倍……ううん、5倍出すよ! 部屋も余ってるし、かっちゃんがいてくれたら僕、もっといい仕事ができると思うんだ」
「……チッ、5倍だと? 足元見てんじゃねぇぞ、クソデクが」
勝己は乱暴に手を振り払ったが、その足は玄関へは向かわなかった。そしてキッチンの隅に置かれた、出久が焦がした無残なフライパンを一瞥し、深く、深くため息をついた。
「……1ヶ月だ。その間に、次の仕事が見つかるまでの間だけだぞ」
「……! じゃあ、いいの!?」
「あぁ!? お前が餓死でもしたらヒスイに迷惑かかるし、ライブが中止にでもなったら、チケット代払ったファンが不憫だろうが。……管理費と食費、全部テメェ持ちだ。文句ねぇな?」
「うん! もちろん! ありがとう、かっちゃん!」
出久の顔に今日一番の輝かしい笑顔が咲き、ただの幼馴染に向ける無防備な信頼の色だった。
勝己の引っ越しは身軽なものだった。安アパートに残されていた数少ない荷物を、出久が手配した業者が一瞬で運び出し、彼は高級マンションの一室へと収まった。
勝己の仕事ぶりは出久の想像を遥かに超えていて、朝は出久が起きる前に完璧な栄養バランスの朝食を用意し、彼女が仕事に出ている間に資料や布地で散らかり放題だったリビングを作業効率を落とさない絶妙なルールで片付けていく。
「……かっちゃん、ただいま。……わぁ、床が見える!」
「どんだけ放置してりゃ、あんなに糸屑が溜まるんだよ。テメェは作ること以外、脳みそが機能してねぇのか」
口は相変わらず悪いものの勝己が淹れる食後のコーヒーは絶品で出久はその香りに包まれながらデザインを練る時間にかつてないほどの幸福を感じていた。
爆豪勝己の手には一冊のボロボロになったノート。
「おい見ろよ。こいつまたこんなもん描いてやがる!」
勝己がノートを高く掲げると、周りを取り囲んでいた取り巻きたちが一斉に冷やかした。
中心のページに描かれていたのは緑色の布地に耳のような装飾がついた不格好なジャンプスーツのラフ画。出久が「いつか、かっちゃんが着てくれたら」と震える手で描き溜めてきたデザイン画だった。
「……か、返して、かっちゃん……」
「返してほしきゃ、まともなもん描けよ。ヒーローになる俺様にこんな間抜けな格好させる気かよ」
「……やだ、何これ。耳?ウサギのつもり?」
「ヒーローっていうか、ただの着ぐるみじゃん。ダッサ!」
クラスの女子たちの容赦ない声が教室の空気を凍らせる。
出久は顔を真っ赤にし、震える指先をぎゅっと握りしめた。ノートには勝己の「爆破」に耐えられる素材の考察や、動きやすさを重視したラインが子供なりに必死に書き込まれていた。
「……違うんだ。これは、かっちゃんの個性に合うように……」
「はあ? 何言ってんの緑谷」
一人の男子が鼻で笑い、勝己の肩に手を置いた。
「爆豪ならもっと最高にクールなスーツ着るだろ。俺だって、もしヒーローになれたとしても、緑谷のデザインしたスーツだけは死んでも着ないわ」
「俺も!」「センスなさすぎ」
連鎖する拒絶の言葉。
出久はまるで自分が描いた夢そのものを汚されているような感覚に陥り、涙を堪えて勝己を見つめた。
助けてと言いたかったわけじゃない。
ただ一番理解してほしかった相手に、その瞳にどう映っているのかが怖かった。
勝己は取り巻きたちの笑い声に耳を貸す様子もなく、ただ冷ややかな視線で出久を射抜いた。その目はかつて一緒に冒険していた幼馴染を見る目ではなく、道端の石ころを排除するかのような絶対的な拒絶だった。
「――おい、デク」
低く突き放すような声に教室が静まり返る。
「無個性がヒーローに絡んでくるんじゃねえよ。お前が何描こうが、俺の未来には1ミリも関係ねぇんだわ」
勝己は出久のノートを机に叩きつけると吐き捨てるように付け加えた。
「お前の『夢』は、俺にとってゴミ以下なんだよ。二度とそのツラ見せんな」
背を向けて歩き出す勝己の背中は出久にとってあまりにも遠くそして残酷に輝いていた。
床に落ちクラスメイトの足に踏まれて汚れていくノートを見つめながら、出久は初めて自分の「憧れ」が毒に変わる音を聞いた。
その日以来、出久は「ヒーロー」という言葉を口にしなくなった。勝己の拒絶とクラスメイトの嘲笑を振り払うように、彼女は地元の公立中学ではなく、遠方の服飾専門コースがある中学校へ進学した。
一方、勝己は当然のように地元の中学へ進み圧倒的な「個性」でカーストの頂点に君臨し続けていた。隣に自分を追う影がないことに苛立ちを覚えながらも。
「……あいつがいねぇ方が、清々していいじゃねぇか」
そう自分に言い聞かせ雄英高校への進学、そしてトップヒーローへの道だけを見据えていた。
しかし勝己が15歳になりいよいよ高校進学を控えた冬。世界は音を立てて崩壊し再構築された。
突如として国の実権を掌握した志村転弧。
彼が打ち出した「ヒーロー新秩序」は、これまでの自由なヒーロー像を根底から覆した。
ヒーローの国家公務員化:自由な活動は禁止。政府の管理下で「武器」として登録された者のみが活動を許される。
公認ヒーローの制限: オールマイトやエンデヴァーといった、政府が「絶対的抑止力」として認めた一部の者以外、その資格を得ることは絶望的となった。
適性審査の厳格化: 従来の入試とは比較にならないほどの思想調査と、国家への忠誠が求められるようになった。
昨日まで「ヒーローになりたい」と笑っていた同級生たちが、1人、また1人と願書を書き直していく。
「……俺たちじゃ、もう無理だよな」
教室に充満する諦めと妥協の匂い。
それはかつて勝己が出久に味わわせた「お前には無理だ」という絶望を、今度は国家という巨大な怪物が自分たちに突きつけてきているかのようだった。
勝己は自室の机に置かれた雄英高校の願書を睨みつけていた。以前なら自分の実力なら「合格して当然」だった。だが今は違う。転弧の作り上げた新しいシステムは個人の実力以上に「従順さ」と「有用性」を求めている。
「……クソが。どいつもこいつも、勝手に決めやがって」
ふと勝己の脳裏にあの日の光景が蘇る。
クラス全員に笑われ自分に「ゴミ以下だ」と突き放されながらも涙を浮かべてノートを握りしめていたデクの姿。
「(今の俺はあの時のあいつと何が違う?)」
あいつは「才能」に否定された。俺は今、「国家」に否定されようとしている。
「……あいつ、今どこで何してやがる」
服飾の中学へ行ったと風の噂で聞いた。
夢を諦めさせてやったはずなのに、このどん詰まりの世界で勝己が一番に求めたのは「俺の隣で、それでも夢を語るあいつの言葉」だった。
数年が経ち、かつての傲慢なガキ大将が夢に破れてフリーターとして燻る日々。20歳になった爆豪勝己にかつての面影はなかった。
居酒屋の裏方で洗剤に荒れた手でジョッキを洗う毎日。志村転弧による新体制下、ヒーローはもはや「個人の夢」ではなく「国家の所有物」となり、反骨精神の塊だった勝己はその徹底的な思想管理と利権の壁に弾き出された。
「……チッ、手が荒れやがる」
あの日、爆破の火花を散らしていた掌は、今や皿洗いの水にふやけている。
かつての同級生たちは、とっくに夢を諦めて堅実な職に就いた。自分だけが何者にもなれないまま、かといって全てを捨て切れるわけでもなく漂うように生きていた。
そんな勝己の生活に唯一、鮮やかな色彩を与える時間がある。
3年前、彗星のごとく現れたアイドル「ヒスイ」のライブ映像を見ることだ。
会場を埋め尽くすサイリウム。その中心でヒスイは軽やかに舞う。彼女の特徴はボリュームのある柔らかなピンク色のポニーテール。そして彼女が身に纏うのは新進気鋭のデザイナーが手がけたという、深みのある「緑」の髪飾りとアイドル衣装だ。
かつての「個性」を競い合った戦場は消え、今やこのライブ会場こそが、この国で唯一剥き出しの熱狂が許される場所となっていた。
客席を見渡せば勝己と同じように夢を奪われたヒーロー志望の若者や、体制に馴染めず居場所を失った元ヒーローが肩を並べて1人の少女を待っている。
「――お待たせ!」
破裂するような歓声と共に、ステージのせり上がりからヒスイが飛び出した。
ライトを浴びて輝くピンクのポニーテール。彼女がステップを踏むたびに専属デザイナーが手がけたという緑の髪飾りが挑発するように揺れる。
「みんな、盛り上がっていくよー!」
彼女が腕を振り上げると、会場は一瞬でイメージカラーの「緑」に染まった。
何千、何万というペンライトが波打ち、光のカーテンとなって会場を包み込む。勝己はその緑の渦の中にいた。
居酒屋のバイトで酷使し、節くれだった指で自分でも驚くほど強くペンライトを握りしめている。
ライブの余韻が冷めやらぬ夜の裏通り。
勝己は胸の奥の興奮を抑えきれないまま、駅へと向かっている。緑色の光に満たされていた会場とは対照的な街灯の薄暗いアスファルト。
そのとき路地裏から怒声と女性の悲鳴が聞こえてきた。
「いいだろ、ちょっと見せるくらいよぉ!『ヒスイ』の本物の衣装、近くで拝ませろよ!」
そこには数人の男たちが、1人の女性スタッフを囲んでいた。
男たちはライブ帰りの熱狂的なファン――というより、独占欲に突き動かされた暴徒と化していた。
女性スタッフが必死に抱えているのは大きなキャリーケース。その中には先ほどまでステージで輝いていた、あの緑の衣装が入っている。
「やめてください……! これは大事な物なんです……っ」
「ケチケチすんなよ。俺らがいくら注ぎ込んでると思ってんだ? 中身を見せるか、そのケースごと置いていくか選べよ」
男の1人が女性の肩を突き飛ばした瞬間、勝己の身体が反射的に動いていた。かつて「ヒーロー」を目指しそしてその夢に破れたはずの身体。
ヒスイのあの衣装が薄汚い連中に触れられることだけは、生理的な嫌悪が許さなかった。
「――おい」
低く、地這うような声。
男たちが振り返るとそこにはポケットに手を突っ込み、殺気立った瞳でこちらを睨みつける勝己が立っていた。
「……なんだよ、お前。混ぜてほしいのか?」
「……消えろ。その薄汚い手で、二度とそのケースに触んじゃねぇ」
勝己の手のひらが、微かに熱を帯びていく。
公的な場での「個性」の使用は厳罰化されているこの時代。それでも勝己の胸に宿った炎は消えていなかった。
「――ヒスイのファンだってんなら、あいつが悲しむようなことしてんじゃねぇ、クズが!!」
勝己の咆哮は、かつての爆破をも凌ぐ迫力で路地裏に轟いた。気圧された男たちは腰を抜かしながら蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
静まり返った夜道。勝己は荒い息を吐きながら、へたり込んだ女性スタッフに不器用な手を差し伸べた。
「……おい、大丈夫かアンタ。怪我は……」
そこまで言いかけて、勝己の言葉が止まった。
差し出した手を取ろうとした女性が、ゆっくりと顔を上げる。街灯の光に照らされたその瞳、そばかすの散る頬、そして――。
「……もしかして、かっちゃん?」
その声は、かつて放課後の教室で「返して」と泣きじゃくっていた少女の面影を色濃く残している。けれどそこにはもう怯えの色はなかった。
「お前……! デクか!? なんで、お前が……っ」
驚愕で声を荒らげる勝己。
目の前にいるのは、かつて勝己が「ヒーローに絡むな」と突き放した幼馴染だった。
出久は少しだけ照れくさそうに笑い、砂のついたキャリーケースを愛おしそうに撫でる。
「8年ぶり、だね。……びっくりした。まさか、かっちゃんが助けてくれるなんて」
「……あ、当たり前だ。あんな連中、見てられるか」
勝己は、自分の心臓がうるさいほど脈打っているのを感じていた。
かつて「ダサい」と笑い、ゴミだと切り捨てたはずのデザイン。今、彼女が守り抜いたそのケースの中には、日本中を熱狂させる「緑の衣装」が入っている。
「……とりあえずここじゃなんだし。お礼もしたいからうちに来てよ」
そう言って出久が勝己を促したのは、都心の一等地に建つセキュリティの厳重な高級マンション。勝己がバイト代のほとんどを注ぎ込んで借りている壁の薄いアパートとは何もかもが違う。
エントランスを抜け広々としたリビングに足を踏み入れた勝己はその光景に言葉を失った。
「……すげぇな、ここ」
「ふふ、ちょっと広すぎかなって思うんだけどね」
出久は笑いながら、勝己に上質なスリッパを差し出した。
部屋の一角には、何台ものミシンや最新の3Dプリンターが並び、壁一面には夥しい数のデザイン画が貼られている。そして部屋の中央には、数体のトルソーが並び、そこには「ヒスイ」の歴代ステージ衣装が飾られていた。
「これ……全部、お前が作ってんのか」
「うん。服飾の中学を出た後、独学で。……あの時、かっちゃんに『誰が着るかよ』って言われたのが、ずっと胸に残ってたんだ」
勝己は初期のライブで一度だけ使用された、エメラルド色のライン石が埋め込まれたチョーカーを手に取る。
「……これ、3年前のデビューライブ『First Spark』の3曲目、アンコール前で着けてたやつだろ。あの時、左側の石が照明の熱で少し浮いてたはずだ」
淀みなく、かつ詳細な情報を吐き出した勝己に、出久は持っていたティーカップを落としそうになるほど目を見開いた。
「……えっ。ええっ!? なんでそんなことまで……!?」
出久はまじまじと勝己の顔を見つめた。
かつては「ヒーロー以外の情報には1ミリも興味ねぇ」と豪語していた、あの爆豪勝己。それが、衣装の細かな不備や、使用されたシチュエーションまで完璧に把握している。
「かっちゃん……もしかして、ヒスイの大ファン……なの!?」
「っ……、う、うるせぇ!! 」
勝己は弾かれたようにチョーカーを戻すと、耳まで真っ赤にして怒鳴った。
2人はその後、高級マンションの静かなリビングで積もりに積もった8年分の時間を埋めるように語り合った。
「……そうか。かっちゃん、ヒーロー諦めたんだね」
出久のその言葉は蔑みでも憐れみでもなくただ静かな事実として勝己の胸に落ちた。かつて自分が彼女に突きつけた「諦めろ」という言葉が、時を経て自分に返ってきた皮肉。けれど、今の出久から受けるその言葉には、不思議と棘がなかった。
「……あぁ。あんなクソみたいな国の操り人形になるくらいなら、居酒屋で皿洗ってる方がマシだわ」
強がり半分、本音半分。勝己が吐き捨てると出久は少しだけ寂しそうにでも優しく微笑んだ。
夜も更け勝己が帰路につく際、2人は玄関先でスマートフォンを取り出した。
「はい、これ。……今度は僕から、かっちゃんに絡みに行ってもいいかな?」
画面に表示された連絡先。8年前、教室でノートを叩きつけた時には想像もできなかった、対等な「再会」の証。
「……好きにしろ」
短く答えてマンションを後にした勝己の胸中は、ライブの熱狂とはまた違う、静かな高揚感に包まれていた。
手元に残った出久の番号。そして去り際に出久が言った一言が、耳の奥でリフレインする。
『かっちゃん。僕のデザイン、今はもう「ダサい」なんて言わせないから。……また絶対にライブに来てね』
駅へと向かう勝己の足取りは、数時間前よりもずっと力強いものに変わっていた。
夢を諦めたはずの20歳の冬、けれど握りしめたスマホの中には、かつて自分が「ゴミ」だと捨てた夢の続きが、眩いほどの輝きを持って息づいていた。
あの日、出久の輝かしい生活に触れた反動からか勝己の現実は皮肉にも最悪の方向へと転がり落ちてしまった。
「……クソが。どいつもこいつも」
バイト先の先輩は、自分のミスを全て勝己に押し付けた。「態度の悪い元ヒーロー志望」というレッテルは、今の社会では格好の攻撃材料となっている。店長もろくに話を聞かず、勝己はその日のうちに解雇を言い渡された。
数日後。手元に残ったわずかな金も、家賃と光熱費に消え、次の仕事を探そうにも腹の虫が鳴り、頭がぼうっとして力が入らない。冬の冷たい風が、薄いジャンパーを容赦なく突き抜ける。
勝己は駅前の公園のベンチに倒れ込むように座り、空っぽの胃を抱えてうなだれていた。
あんなに眩しい場所にいる出久を見た後で自分はゴミ箱の底を這っている。情けなさと空腹による眩暈で視界が歪んだ。
「――かっちゃん?」
不意に、頭上から鈴の鳴るような声が降ってきた。
幻聴かと思い、顔を上げる気力もなかった勝己の鼻先を、ふわりと甘く温かい香りがかすめる。
「やっぱり、かっちゃんだ! こんなところでどうしたの?」
慌てて顔を上げるとそこには買い物袋をいくつも下げた、私服姿の出久が立っていた。
「……デク、か」
「顔色が真っ青だよ……。もしかして、体調が悪いの?」
「――俺に構うんじゃねぇ……!」
勝己は震える足に力を込め、差し伸べられた出久の手を乱暴に振り払う。しかしプライドだけで支えていた身体はとうに限界を超えていた。一歩を踏み出した瞬間、視界が急激に暗転し勝己はその場に糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
「かっちゃん!? かっちゃん!!」
雪の混じったアスファルトに倒れた勝己を抱き起こそうとするが、大人の男の身体は女の出久ではビクともしない。焦燥に駆られた出久はすぐにスマートフォンを取り出し最も信頼できる人物へ連絡を入れた。
「――飯田くん! ごめん、今すぐ駅前の公園まで来てくれないかな!? 大事な人が……かっちゃんが倒れちゃったんだ!」
10分もしないうちに、1台の黒塗りの車が猛スピードで滑り込んでくる。車から降りてきたのはガッシリとした体格に眼鏡を光らせた生真面目そうな青年――ヒスイの専属マネージャーを務める飯田天哉だった。
「お待たせ緑谷くん! そしてこれが例の彼か……」
天哉は倒れている勝己を一瞥すると、迷うことなくその巨体を軽々と担ぎ上げる。かつては彼もヒーローを目指した1人だったが、今はその機動力と誠実さを活かしヒスイという「希望」を裏で支える事務方のスペシャリストとなっていた。
「彼の容体は芳しくないようだ。すぐに君の自宅へ運ぼう。緑谷くん、車を出すぞ!」
そして出久のマンションに運び込まれた勝己はゲストルームの柔らかなベッドに寝かされた。
「……っげふぉ! なんだ、この……臭いは……」
喉を刺すような焦げ臭さに勝己は飛び起きた。意識を失う直前の空腹感はどこへやら、生存本能が「逃げろ」と警鐘を鳴らしている。
フラつく足取りで匂いの源――広々としたアイランドキッチンへ向かうと、そこには立ち込める白煙の中で肩を落として立ち尽くす出久の背中があった。
「また失敗しちゃった……。火加減、一番強くしたはずなのに……」
「おい、デク……。何だこれ? 何の儀式だ」
勝己の声に出久は弾かれたように振り返る。その手元のフライパンの中身は「地獄の底から召喚された何か」にしか見えなかった。
「あっ! かっちゃん起きたんだね! よかったぁ……。ええと、これはね、かっちゃんのために作った卵焼きとウインナーだよ」
出久が笑顔で指し示したのは、炭をさらに煮詰めたような漆黒の塊と、元が何だったのか判別不能なほど縮み上がった黒い棒状の物体。
「……卵焼きだと? 化学兵器の間違いじゃねぇのか」
「えっ、ひどいな!
ちゃんとレシピ通りだよ? 『表面にいい焼き色がつくまで』って書いてあったから、徹底的に焼いてみたんだけど……」
青ざめる勝己。あの日ノートに緻密な分析を書き込んでいた秀才の面影はどこにもない。どうやら神様は彼女に「デザイン」と「分析」の才能を与える代わりに「料理のセンス」を根こそぎ奪っていったようだった。
「……おい」
「えっ、あ、あぶないよかっちゃん! まだお腹空いてるんでしょ? 今、炭の部分を削れば食べられるかも……」
「死ぬわ! どけ、この不器用女!!」
勝己は出久の脇を強引にすり抜けフライパンをひったくる。
実家で母親に仕込まれ、1人暮らしの自炊で鍛えられた勝己にとって、この惨状は「攻撃」に等しいものだった。
勝己は手際よく真っ黒なフライパンを洗い流し、冷蔵庫を勝手に開けると、中には最高級の卵や出久が買い込んできた新鮮な食材が宝の持ち腐れ状態で眠っていた。
「見てろ。……卵焼きっつーのは、こうやって作るんだよ」
流れるような手付きで卵を割り、出汁を加え、菜箸一本で美しく巻き上げていく。
ジュー、という心地よい音と共に、キッチンに本物の「食べ物の匂い」が広がり始めた。
「わぁ……すごい……っ! かっちゃん、魔法使いみたい!」
「うるせぇ。お前がバカすぎるだけだ」
数分後、テーブルに並んだのは、黄金色のふわふわな卵焼きと、程よく切れ目の入ったジューシーなウインナー、そして即興で作った味噌汁。
出久は目を輝かせて、一口頬張った。
「――おいしい……っ! かっちゃん、これだよ、この味!昔、かっちゃんのお家でご馳走になった時と同じ味がする!」
勝己は、自分が作った飯を幸せそうに食べる出久を、複雑な心境で見つめていた。
デザインの道で自分を遥か後方に置き去りにした出久が、たった1つの卵焼きで、幼い頃のように自分を崇めている。
「ねぇ、かっちゃん。……僕、決めた」
出久はもぐもぐと口を動かしながら、真剣な目で勝己を見上げた。
「ーーはぁ!? 何言ってんだテメェ!」
勝己の怒鳴り声がリビングに響いたが、出久は怯むどころか、さらに身を乗り出して勝己の両手を握りしめた。
「お願いかっちゃん! 見ての通り、僕はデザイン以外のことは本当にダメダメで……。普段は飯田くんに無理を言って掃除や洗濯を回してもらってるし、ご飯もコンビニか事務所が用意してくれるお弁当ばっかりなんだ」
出久の必死な訴えに、勝己は呆れて言葉も出ない。
先ほどの「黒焦げの炭」を見れば、それが誇張ではないことは一目瞭然だった。この広々とした高級マンションも天哉がいなければ、今頃はゴミの山か火の海になっていたに違いない。
「……飯田にやらせてんなら、そいつに一生頼んでろ」
「飯田くんはマネージャーの仕事が忙しすぎるんだよ! スケジュール管理にライブの設営……。これ以上、僕の生活の面倒まで見てもらうのは申し訳なくて。それに……」
出久は、少しだけ声を落として、勝己の手を握る力を強めた。
「……かっちゃんの作ったご飯すごく安心するんだ。あの日から止まってた僕の時間がやっと動いた気がするの」
勝己は毒気を抜かれたように出久の真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
本来なら爆豪勝己という男が「家事代行」などという裏方に甘んじるはずがない。けれど今の自分はバイトをクビになり行く当てもなく空腹で倒れた身。
そして何より、この「デク」が、自分の助けを喉から手が出るほど欲している。
「……お金は、バイトの3倍……ううん、5倍出すよ! 部屋も余ってるし、かっちゃんがいてくれたら僕、もっといい仕事ができると思うんだ」
「……チッ、5倍だと? 足元見てんじゃねぇぞ、クソデクが」
勝己は乱暴に手を振り払ったが、その足は玄関へは向かわなかった。そしてキッチンの隅に置かれた、出久が焦がした無残なフライパンを一瞥し、深く、深くため息をついた。
「……1ヶ月だ。その間に、次の仕事が見つかるまでの間だけだぞ」
「……! じゃあ、いいの!?」
「あぁ!? お前が餓死でもしたらヒスイに迷惑かかるし、ライブが中止にでもなったら、チケット代払ったファンが不憫だろうが。……管理費と食費、全部テメェ持ちだ。文句ねぇな?」
「うん! もちろん! ありがとう、かっちゃん!」
出久の顔に今日一番の輝かしい笑顔が咲き、ただの幼馴染に向ける無防備な信頼の色だった。
勝己の引っ越しは身軽なものだった。安アパートに残されていた数少ない荷物を、出久が手配した業者が一瞬で運び出し、彼は高級マンションの一室へと収まった。
勝己の仕事ぶりは出久の想像を遥かに超えていて、朝は出久が起きる前に完璧な栄養バランスの朝食を用意し、彼女が仕事に出ている間に資料や布地で散らかり放題だったリビングを作業効率を落とさない絶妙なルールで片付けていく。
「……かっちゃん、ただいま。……わぁ、床が見える!」
「どんだけ放置してりゃ、あんなに糸屑が溜まるんだよ。テメェは作ること以外、脳みそが機能してねぇのか」
口は相変わらず悪いものの勝己が淹れる食後のコーヒーは絶品で出久はその香りに包まれながらデザインを練る時間にかつてないほどの幸福を感じていた。
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