青い春を売る君に。

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苗字
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 片付けを終えた頃には、夕焼けが滲んでいた。段ボールの山は多少片付き、本棚には雑誌とノートが並んでいる。オレは深い息を吐き、ソファに身を沈めた。苗字は冷蔵庫を開け、缶のコーラを取り出し、オレに差し出してくる。受け取った缶は冷たくて、手のひらにじんわりと沁みた。

「ありがとう。阿部君のおかげで綺麗になったよ」
「ほんとにな」

 そう言いながら缶をプシュッと開ける。シュワッと炭酸の弾ける音が、部屋に微かな涼しさを運んできた。苗字も隣に腰を下ろし、同じように缶を開ける。グラスに注ぐでもなく、そのまま口をつける姿が、やけに印象に残った。

「ねえ。この部屋って、どう見える?」

 苗字は視線を部屋の奥に向けた。天井まで届かないカーテン、本棚に収まった資料たち、テーブルの上には読みかけの文庫。引っ越したての雑然とした空間。それでも整って見えるのは、彼女の存在があるからだ。

苗字っぽい部屋」
「褒めてる?」
「もちろん」

 苗字はこちらをじっと見つめると目を細めて、缶を両手で包み込むようにしながら、「こういうのって、続くと思う?」と問いかけてくる。どこまでも静かで、沈んだ声だった。オレは視線を缶の飲み口に落とす。

「……わかんねーよ。続くかどうかなんて」
「うん。そうだよね」
「それでも続けたいとは思ってる」

 言葉を選ぶようにして、正直な気持ちを紡ぐ。ずっと隣にいたい。だけどそれを約束とか誓いに変えるのは、なにかを縛るような気がして違うと思った。炭酸のシュワシュワと鳴る音が耳に届く。

「……そっか……」

 部屋に沈黙が降りる。外では誰かの自転車のベルが鳴り、犬の鳴き声がかすかに重なった。そういう音がやけに遠く感じるほど、この空間は内向きに閉じていた。オレと苗字の呼吸だけが、部屋の空気を震わせている。

 そのまま二人とも黙っていた。ソファのクッションがゆっくりと体の重さに沈み込み、間接照明のやわらかな光が、苗字の頬に淡い影を落とす。缶のコーラはぬるくなりはじめていたが、手のひらにはまだ冷たさが残っていた。

「なあ、苗字
「なあに?」

 心音が不規則なリズムを刻む。苗字を見れば瞬きを繰り返すまつ毛、手のひらにすっぽり収まりそうな頬、ほんのりと赤みを帯びた唇。触れてみたい。そう思った瞬間、指先が動いた。ソファのクッションをなぞり、ゆっくりと彼女の方へと伸びていく。

「触れても、いいか?」

 苗字は少しだけ目を見開いた。それから視線を落とし、ほんの一拍だけ、考えるように黙る。炭酸の気泡が缶の中で弾ける音が聞こえる。外では夕暮れがゆっくりと夜に溶けていく。色を失っていく空の中で、部屋の中の光だけが、二人の姿を照らしていた。

「うん。いいよ」

 その声は震えていたけれど、拒絶の色はひとつもなかった。光の粒を含んだ瞳が、じっとオレを見つめる。オレは震えそうになる手を、ゆっくりと滑らかな頬に触れた。その肌は驚くほど柔らかく、ほんのりと熱を帯びていた。彼女の呼吸がわずかに早まるのが、指越しに伝わってくる。苗字の肩がわずかに揺れ、その動きに合わせるように、オレの胸もふるりと震えた。

 ドクドクと脈打つ音はどちらのものだろう。心の中だけで温めていた感情が、ようやく世界と接点を持ったような、不思議な実感が指先に残る。もっと触れたい。彼女の輪郭をなぞり、耳の裏へと伝っていく。呼吸の熱が近くにあって、何かが壊れそうなほど、繊細な距離だった。

「……」

 ゴクリと喉が上下する。彼女に触れたままの手をどうするかさえ分からないまま、オレはただ苗字の瞳をじっと見つめていた。しばらくして苗字がゆっくりと目を閉じる。その合図をどう受け止めるべきか、戸惑いの中で指先の感触に集中した。

 熱い。体の芯がひどく熱い。目の前でじっと待つ苗字が、オレの心の中をそっと押す。静かな空気の中でソファのスプリングがわずかに軋み、彼女の頬に添えていた手がするりと後ろ髪をすくう。喉の奥からこみ上げる熱と、二人の間に生まれた距離が、ゆっくりと溶けていった。

 唇が触れた瞬間、時間がきゅっと縮まった。世界が無音になる。呼吸の仕方さえ分からなくなるほど、そこには体温と心臓の音しかなかった。柔らかく触れたその潤いは、心の中にある愛の受け皿を、溢れんばかりに満たしていく。

 ゆっくり唇を離すと、時間が戻ってきた。ほんの一秒ほどの出来事だったのに、オレの中では数分にも思えるほど濃密だった。苗字は目を閉じたまま、微動だにしなかった。そしてようやく、ゆっくりと瞼を開く。その瞳にはうっすらと涙が光っていた。

「なんで……、泣いてんの?」
「分からない、けど……恋ってちゃんとあったんだと思って……」

 オレは返す言葉を持たず、ただただ彼女の手を握った。言葉にできない感情は手の中に留めておけばいい。苗字の細くて白い、けれど芯のある指が、オレの手を握り返す。たったそれだけで今ここにあるすべてを肯定された気がした。
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