無名のオブスキュラ 番外編
02.ソルティの甘い計画
「ソルティ ?」
ある十一月の夜、男子寮でのこと。ノットは不可解な気持ちで、茶トラのオス猫を見下ろした。
「それが名前なのか?」
「うん」
ハティは飼い猫の頭を撫でた。
「この子のおばあさんがニーズルでね。そのせいか、ちょっと食べ物の好き嫌いが激しいんだ。人が食べるような、しょっぱい食べ物やスパイスの効いたものが好きなんだよ」
ハティは当たり前のように語ってみせた。ケチャップ付きのソーセージやミートパイが好物で、野菜はポテトしか食べないこと。魚の缶詰は食いつきが悪く、ましてやキャットフードは論外で見向きもしない。獣医の勧めで、一度は「健康的な食生活」を心がけてみたものの、毛の色がピンクっぽくなって死にかけたこと。
ちなみに母猫の名前はドランク で、ブランディッドウィスキーを飲みながら、二十六年も生き長らえたそうだ。
ソルティはなかなかに強烈だった。ブルストロードの飼い猫を追いかける片手間に、テレンス・ヒッグズをひっぱたいたり、ゴイルの尻に爪を立てたりした。
ノットは一度、マーカス・フリントが転ぶのを見たことがある。落ちていたマヨネーズまみれのきゅうりに、足を滑らせてしまったのが原因なのだが、ソルティのその日のランチはサンドイッチだった。彼らに「ブサイクな毛玉野郎」と笑われたのが、よっぽど腹に据えかねたらしい。こと復讐にかけては、悪知恵が働くのがこの猫だった。
そして、これが最大の謎なのだが……。なぜかノットもソルティに目をつけられている。気を抜けば、杖をかじろうと膝の上によじ登ってくるのだ。
「うーん、僕が君の杖を触ったのがいけなかったのかな」
暴れるソルティを何とか抑えながら、ハティはいった。
「でも、杖にいたずらをしたことは一度もないんだけどね。君の杖って黒檀でできてるんだっけ?」
「ああ」
「特に猫が興味を持つ材質ではないな……。芯は?ユニコーンの毛?」
「いいや、ドラゴンの心臓の琴線だ」
ハティはベッドに腰かけて、ソルティのたて縞の横腹を撫でていたが、出し抜けに「そうか」と呟いた。
「その心臓の持ち主って、オーストラリア・ニュージーランド・オパールアイ種だったりする?」
ノットは返答に困った。実際のところ、彼は完成した杖に選ばれただけだ。本当の答えはオリバンダーに聞いてみないと分からないだろう。
「製作過程を知らないから、何とも言えないな」
「ああ、普通はできあがった杖を買うんだよね。もし君の杖の芯がオーストラリア・ニュージーランド・オパールアイ種のものなら、やっぱり食べようとしたんだと思う」
ノットは思わず、ハティの顔を二度見した。
「……食べる?」
「うん。前にドラゴンの肉をつまみ食いしちゃったことがあってね。母さんたちの研究材料だったんだけど……。そこからは、オーストラリア・ニュージーランド・オパールアイ種の虜なんだ。きっと一番しょっぱいんだろうね」
ソルティが物欲しそうに喉を鳴らした。メロン色の両眼が、ノットのポケット辺りを探るように見つめている。
「ニーズルの血が入っていると、そんなに偏ってしまうものなのか?」
「そうだな。ミント・キャンディー……、この子のおばあさんの名前だけど。彼女の血がちょっと変なんだと思う。僕の杖の芯は、ミントの髭なんだ」
ハティは、黒クルミの杖を手の中でくるくると回した。
「ちょっとでも杖の機嫌を損ねたら……。ほら、『変身術』での失敗を見ただろう?朝起きた時と寝る前には褒めてあげなくちゃいけないんだ。ニーズルの心は乙女心よりも複雑だからね」
それから、さらに一週間ほど経った日のこと。クィディッチの観戦を終えたあと、ノットは男子寮に上がった。雪こそ散らついていないが、外はすでに凍えるような寒さだった。
窓から見える湖の中の景色も、いっそう淀んで見える。時折光を遮っていた水中人 の影は、くすんだ灰色の澱の中に閉じこめられていた。
冬用マントを脱ぎながら、ノットはハティのベッドへと目をやった。「お野菜ミックスのカリカリ」刑は免れたというのに、ソルティは朝から男子寮に留まっていた。整えられたエメラルドグリーンのシーツに、わずかなへこみがある。あまりにも寒いので、丸まって寝ていたのだろう。
しかし、肝心の本体が見当たらない。ノットが談話室へ向かおうとしていたその時、背後からカサカサと紙の擦れる音がした。
振り返ると、ソルティが手紙をくわえていた。閉じてある蝋には、フォウリー家の家紋が刻まれている。朝食の時にハティが受け取っていたものだろう。彼はよく手紙を書く人だった。
ソルティはしなやかな動きでベッドを乗り越えて、ノットの前に座りこんだ。
長い間、気まずい沈黙が続いた。ノットは微動だにせず、ソルティもまたその場を動かなかった。
「僕にこれを開けろと?」
当たり前だが、ハティのプライベートに関することだ。私的な領域を人に荒らされるのは嫌いだが、他人の領域を荒らしてしまうのはもっと嫌いだった。
ノットはオレンジ色の頭を、そっと押し返した。
「中身が知りたいのなら、飼い主が帰ってからにしろ。僕には開ける資格がない」
ハティは深刻な顔で散歩に繰り出したきり、戻ってきていない。おそらく、ポッターの箒の件について考えこんでいるのだろう。グリフィンドール側の問題など放っておけばいいのに、とノットは思う。
ところがソルティは一向に下がらず、持ち前の強情さを発揮し始めた。頭をぐいぐいと必死に伸ばし、手のひらに手紙を押しつけてくる。試しにきつく睨んでみたが、諦める気はなさそうだった。
「……もし叱られたら、君のせいだぞ」
ノットは苦々しい顔で手紙を受け取った。宛先は「ホグワーツ魔法魔術学校 地下のスリザリン男子寮 トランク横 ソルティ・フォウリー様」となっている。奇妙だ。飼い主のハティではなく、ソルティに宛てたものらしい。
よくよく見ると、手紙はすでに開封された跡があった。ノットが軽く杖を振ると、蝋はいとも簡単に剥がれ落ちた。
中から出てきたのは、シンプルな便箋だった。滑らかな筆記体の字の下に、雑誌の切り抜きのようなものが貼ってある。
『ソルティへ
「週刊魔女」にいい記事が載ってあったわ。パパの言っていたことを覚えてる?材料はホグワーツの厨房で手に入るわよ。
あとは、手伝ってくれるお友だちなんだけど……。きっと、あなたなら心配ないわね。クリスマスには全て間に合うように祈ってます。
分かっていると思うけど、塩は入れちゃだめよ。
あなたのお茶目なママ、マーナより
追伸 手紙は上手く届いたかしら?メルクリウスはこういったことに慣れていないの。ハティに見つかってないといいんだけど』
手紙を読み終えたあと、ノットはまじまじと茶トラ猫を見つめた。
「君、字が読めるのか?」
フニャウウ、とソルティは返事をした。雑誌の切り抜きとノットの顔を交互に気にしている。
切り抜きにはこう書いてあった。「猫でもできる?お手軽ファッジの作り方 〜材料はたったの五つだけ〜」。規定の量の砂糖、チョコ、バター、牛乳を煮詰め、冷やし固めれば完成らしい。いやらしい顔をしたイラストの猫が、「お好みでドライフルーツをどうぞ!」などと煽っている。
つまりは、ただのお菓子のレシピだった。
ノットはますます怪訝な顔つきになった。猫には、甘さを感じる味覚がないと聞いたことがある。しょっぱさ第一のソルティに、ファッジのよさが分かるのだろうか。
「こういうことは、屋敷しもべ妖精に頼めばいい。厨房に行けば、わんさかいるはずだろう」
ソルティは前足で、切り抜きをとんとん叩いた。「よりよい火加減を保つには、よりよい杖の運びが大事」。なるほど、魔法使い御用達のレシピらしい。そういうことなら、ハティに頼めば解決するものを……。
いや、違う。この手紙は、ハティに見つからないように届けられているのだ。差出人は「クリスマスまでに間に合うよう」と書いている。察するに、これは飼い主に向けたプレゼント用のレシピなのだろう。
今までの奇行の謎が全て解けていった。ソルティがノットの杖を狙っていたのは、ドラゴンの心臓の琴線が目当てだったのではない。
「……ばかばかしい」
ノットは手紙を突き返した。
「僕がこんなことをするわけがないだろう。別の人間に頼め」
例えば、お節介のグレンジャーやお人よしのポッター、愚かそうなロングボトムだ。彼らなら喜んで手伝うだろう。もっとも、ロングボトムが作った場合は、意図をせず毒入りのファッジができあがるかもしれないが。
ソルティはじとっとした視線を返し、ノットの後ろをついて回った。
飼い主が帰ってきたのは、それから十五分ほどあとのことだった。
「ずいぶん遅かったな」
「ああ、スプラウト先生の温室を見てきたんだ。君も一緒に来たらよかったのに。体が温まるよ」
ハティの耳は、寒さで赤く色付いていた。栗色の前髪は風で乱れ、全身からは氷のような冷気が漂っている。
「まあ、外はまだグリフィンドールの子たちが騒いでいたから、いい気分にはならなかっただろうけど……。何?どうかしたの?」
この微妙な雰囲気が、彼にも伝わってしまったようだ。ソルティはふくれっ面でノットを見上げ、ノットはそれを真正面から受け止めた。
「いいや」
そう答えると、メロン色の眼差しから逃げるように談話室を出た。飼い主の手前、疑いを抱かれるようなおかしな真似はできないだろう。
これでうまく撒けたはずだ。
そう思ったのが甘かった。
その日以降、ソルティはあの手この手でノットに詰め寄った。教室の前で通せんぼをしたり、杖を盗もうと企んだり、枕の下に砂糖の袋を置いてみたり。
自分の好物を与えて、取り入ろうとする作戦も実行した。
「何だそれ」
ある時、隣に座っていたザビニがぽかんと口を開けた。見ると、鞄の中に大量のソーセージが入っている。
「ノット。君、いじめられているのか?マルフォイに言ってみろよ。何とかしてくれる」
ノットは奥歯を噛みしめた。食いしんぼう扱いでバカにされなかっただけマシだ。その日は無心で、ゴシゴシ呪文を唱え続けるはめになった。ハティは不思議がりながらも、申し訳なさそうにそれを手伝った。
十二月に入った頃、ついに堪忍袋の尾が切れた。ノットは茶トラ猫を手荒く抱き上げると、トランクを開いてみせた。
「これはどういうことだ?」
衣類、文房具、選りすぐりの本、生活必需品。全てがあるべきところに収まっている中、招かれざる客がスペースを占領している。三百グラムのバターが一個と牛乳瓶だ。ご丁寧に新品のものを用意している。
「大したものだ。ソックスの横にバターを置くだなんて」
ノットは本気で怒っていた。地下、それも冬の湖に囲まれている場所だったからよかったものの、これが真夏だったら悲惨なことになっていただろう。
「君がハティの猫じゃなかったら、ミセス・ノリスの花婿にしていたところだ」
性悪猫の表情が固まった。呼吸すらままならない中で、ピンクのハート型の鼻のみが、わずかにヒクついている。
「そうされても仕方のないことをしている。だけど、君はハティの猫だ。今から猶予を与えよう。……新しい牛乳とバターを持ってこい。バターは無塩のものだ」
ノットは無慈悲な顔でつけ加えた。
「期限は三日以内。クリスマス休暇まで時間がないからね。チョコとドライフルーツも忘れずに」
縮んでいた髭が、ふわっと伸びた。ソルティはノットの胸を蹴って、勢いよく飛び出した。駆けていく後ろ姿はオレンジ色のボールのようだった。
一度仲間に引き入れてみると、彼はなかなかに優秀な猫だった。ソルティはバターと牛乳をその日のうちに仕入れ、ついでにホワイトチョコ一枚と、クランベリーを五十グラム持ってきた。
へこんだ小さな鍋を拾ってきた時には、大いに安心した。手元にある鍋といえば錫製の大鍋くらいのもので、これは「魔法薬学」の時に使用していたからだ。
とはいえ、よく分からないガラクタを持ってくることもしばしばだった。柊の葉っぱ、ガラスの珠、色とりどりの古びたシーツの切れ端。ノットはこれで、まずまずの袋を仕立てた。赤と緑の布地を組み合わせた時には気分が悪くなったが、柊を添えると一気にクリスマスらしいラッピングになった。
「最近、君の杖をかじらなくなったね」
その日の夜、ベッドの上で浮遊呪文の復習をしていたハティが、ノットの方を振り返った。
「変なちょっかいもかけなくなったし。ドラゴン熱が冷めたのかな?」
「さあね」
ノットは教科書に目を通しながら、そっけなく答えた。自由時間をプレゼント作りに当てていて、授業の予習をする暇がなかったのだ。ソルティは上機嫌でゴロゴロと喉を鳴らし、ハティが浮かせた百味ビーンズを食べていた。
手ごろな空き教室を見つけるのに、そう時間はかからなかった。ホグワーツの敷地は広大で、教師ですら把握していない部屋が何十とある。
ノットは緑豊かな畑を見渡せる、小さな教室を選んだ。スプラウト先生の温室が近くにあるのだが、ほとんどの生徒はそちらに気をとられるため、かえって人通りが少ないのだ。
「インセンディオ」
真っ赤な炎がぱっと燃えあがる。ほんの少し杖先を下に向けると、燃え盛る炎は赤いトロ火に落ち着いた。
ノットは鍋の中のバターが溶け、チョコレートが牛乳の海の中へ沈んでいくのを見守った。分量と火加減に関しては、全て頭の中に入っている。魔法薬を作るよりもずっと簡単だ。答えも明確で分かりやすい。
液体はぽこぽこと盛り上がり、むかつくほど甘ったるい香りを放った。お菓子はそう好きではない。そもそも食べること自体あまり興味がないのに、まさか教室のど真ん中でファッジを作ることになろうとは。
対して、ハティは食に貪欲だ。あまり表情には出さないが、美味しいものを食べている時の彼はすぐに分かる。
鍋を覗きこむノットの顔を、ふんわり甘い蒸気が包んだ。
クリスマス休暇まであと二日。彼は喜んでくれるだろうか。
「……バカげたことを」
平たいお皿にクランベリーを散らしながら、ノットはソルティに話しかけた。
「もう二度と、こんな面倒なことは頼まないでくれ」
ソルティは聞こえないふりをした。ただ黙って頭を天井に突き上げ、辺り一面に漂うファッジの匂いを堪能していた。
「
ある十一月の夜、男子寮でのこと。ノットは不可解な気持ちで、茶トラのオス猫を見下ろした。
「それが名前なのか?」
「うん」
ハティは飼い猫の頭を撫でた。
「この子のおばあさんがニーズルでね。そのせいか、ちょっと食べ物の好き嫌いが激しいんだ。人が食べるような、しょっぱい食べ物やスパイスの効いたものが好きなんだよ」
ハティは当たり前のように語ってみせた。ケチャップ付きのソーセージやミートパイが好物で、野菜はポテトしか食べないこと。魚の缶詰は食いつきが悪く、ましてやキャットフードは論外で見向きもしない。獣医の勧めで、一度は「健康的な食生活」を心がけてみたものの、毛の色がピンクっぽくなって死にかけたこと。
ちなみに母猫の名前は
ソルティはなかなかに強烈だった。ブルストロードの飼い猫を追いかける片手間に、テレンス・ヒッグズをひっぱたいたり、ゴイルの尻に爪を立てたりした。
ノットは一度、マーカス・フリントが転ぶのを見たことがある。落ちていたマヨネーズまみれのきゅうりに、足を滑らせてしまったのが原因なのだが、ソルティのその日のランチはサンドイッチだった。彼らに「ブサイクな毛玉野郎」と笑われたのが、よっぽど腹に据えかねたらしい。こと復讐にかけては、悪知恵が働くのがこの猫だった。
そして、これが最大の謎なのだが……。なぜかノットもソルティに目をつけられている。気を抜けば、杖をかじろうと膝の上によじ登ってくるのだ。
「うーん、僕が君の杖を触ったのがいけなかったのかな」
暴れるソルティを何とか抑えながら、ハティはいった。
「でも、杖にいたずらをしたことは一度もないんだけどね。君の杖って黒檀でできてるんだっけ?」
「ああ」
「特に猫が興味を持つ材質ではないな……。芯は?ユニコーンの毛?」
「いいや、ドラゴンの心臓の琴線だ」
ハティはベッドに腰かけて、ソルティのたて縞の横腹を撫でていたが、出し抜けに「そうか」と呟いた。
「その心臓の持ち主って、オーストラリア・ニュージーランド・オパールアイ種だったりする?」
ノットは返答に困った。実際のところ、彼は完成した杖に選ばれただけだ。本当の答えはオリバンダーに聞いてみないと分からないだろう。
「製作過程を知らないから、何とも言えないな」
「ああ、普通はできあがった杖を買うんだよね。もし君の杖の芯がオーストラリア・ニュージーランド・オパールアイ種のものなら、やっぱり食べようとしたんだと思う」
ノットは思わず、ハティの顔を二度見した。
「……食べる?」
「うん。前にドラゴンの肉をつまみ食いしちゃったことがあってね。母さんたちの研究材料だったんだけど……。そこからは、オーストラリア・ニュージーランド・オパールアイ種の虜なんだ。きっと一番しょっぱいんだろうね」
ソルティが物欲しそうに喉を鳴らした。メロン色の両眼が、ノットのポケット辺りを探るように見つめている。
「ニーズルの血が入っていると、そんなに偏ってしまうものなのか?」
「そうだな。ミント・キャンディー……、この子のおばあさんの名前だけど。彼女の血がちょっと変なんだと思う。僕の杖の芯は、ミントの髭なんだ」
ハティは、黒クルミの杖を手の中でくるくると回した。
「ちょっとでも杖の機嫌を損ねたら……。ほら、『変身術』での失敗を見ただろう?朝起きた時と寝る前には褒めてあげなくちゃいけないんだ。ニーズルの心は乙女心よりも複雑だからね」
それから、さらに一週間ほど経った日のこと。クィディッチの観戦を終えたあと、ノットは男子寮に上がった。雪こそ散らついていないが、外はすでに凍えるような寒さだった。
窓から見える湖の中の景色も、いっそう淀んで見える。時折光を遮っていた
冬用マントを脱ぎながら、ノットはハティのベッドへと目をやった。「お野菜ミックスのカリカリ」刑は免れたというのに、ソルティは朝から男子寮に留まっていた。整えられたエメラルドグリーンのシーツに、わずかなへこみがある。あまりにも寒いので、丸まって寝ていたのだろう。
しかし、肝心の本体が見当たらない。ノットが談話室へ向かおうとしていたその時、背後からカサカサと紙の擦れる音がした。
振り返ると、ソルティが手紙をくわえていた。閉じてある蝋には、フォウリー家の家紋が刻まれている。朝食の時にハティが受け取っていたものだろう。彼はよく手紙を書く人だった。
ソルティはしなやかな動きでベッドを乗り越えて、ノットの前に座りこんだ。
長い間、気まずい沈黙が続いた。ノットは微動だにせず、ソルティもまたその場を動かなかった。
「僕にこれを開けろと?」
当たり前だが、ハティのプライベートに関することだ。私的な領域を人に荒らされるのは嫌いだが、他人の領域を荒らしてしまうのはもっと嫌いだった。
ノットはオレンジ色の頭を、そっと押し返した。
「中身が知りたいのなら、飼い主が帰ってからにしろ。僕には開ける資格がない」
ハティは深刻な顔で散歩に繰り出したきり、戻ってきていない。おそらく、ポッターの箒の件について考えこんでいるのだろう。グリフィンドール側の問題など放っておけばいいのに、とノットは思う。
ところがソルティは一向に下がらず、持ち前の強情さを発揮し始めた。頭をぐいぐいと必死に伸ばし、手のひらに手紙を押しつけてくる。試しにきつく睨んでみたが、諦める気はなさそうだった。
「……もし叱られたら、君のせいだぞ」
ノットは苦々しい顔で手紙を受け取った。宛先は「ホグワーツ魔法魔術学校 地下のスリザリン男子寮 トランク横 ソルティ・フォウリー様」となっている。奇妙だ。飼い主のハティではなく、ソルティに宛てたものらしい。
よくよく見ると、手紙はすでに開封された跡があった。ノットが軽く杖を振ると、蝋はいとも簡単に剥がれ落ちた。
中から出てきたのは、シンプルな便箋だった。滑らかな筆記体の字の下に、雑誌の切り抜きのようなものが貼ってある。
『ソルティへ
「週刊魔女」にいい記事が載ってあったわ。パパの言っていたことを覚えてる?材料はホグワーツの厨房で手に入るわよ。
あとは、手伝ってくれるお友だちなんだけど……。きっと、あなたなら心配ないわね。クリスマスには全て間に合うように祈ってます。
分かっていると思うけど、塩は入れちゃだめよ。
あなたのお茶目なママ、マーナより
追伸 手紙は上手く届いたかしら?メルクリウスはこういったことに慣れていないの。ハティに見つかってないといいんだけど』
手紙を読み終えたあと、ノットはまじまじと茶トラ猫を見つめた。
「君、字が読めるのか?」
フニャウウ、とソルティは返事をした。雑誌の切り抜きとノットの顔を交互に気にしている。
切り抜きにはこう書いてあった。「猫でもできる?お手軽ファッジの作り方 〜材料はたったの五つだけ〜」。規定の量の砂糖、チョコ、バター、牛乳を煮詰め、冷やし固めれば完成らしい。いやらしい顔をしたイラストの猫が、「お好みでドライフルーツをどうぞ!」などと煽っている。
つまりは、ただのお菓子のレシピだった。
ノットはますます怪訝な顔つきになった。猫には、甘さを感じる味覚がないと聞いたことがある。しょっぱさ第一のソルティに、ファッジのよさが分かるのだろうか。
「こういうことは、屋敷しもべ妖精に頼めばいい。厨房に行けば、わんさかいるはずだろう」
ソルティは前足で、切り抜きをとんとん叩いた。「よりよい火加減を保つには、よりよい杖の運びが大事」。なるほど、魔法使い御用達のレシピらしい。そういうことなら、ハティに頼めば解決するものを……。
いや、違う。この手紙は、ハティに見つからないように届けられているのだ。差出人は「クリスマスまでに間に合うよう」と書いている。察するに、これは飼い主に向けたプレゼント用のレシピなのだろう。
今までの奇行の謎が全て解けていった。ソルティがノットの杖を狙っていたのは、ドラゴンの心臓の琴線が目当てだったのではない。
「……ばかばかしい」
ノットは手紙を突き返した。
「僕がこんなことをするわけがないだろう。別の人間に頼め」
例えば、お節介のグレンジャーやお人よしのポッター、愚かそうなロングボトムだ。彼らなら喜んで手伝うだろう。もっとも、ロングボトムが作った場合は、意図をせず毒入りのファッジができあがるかもしれないが。
ソルティはじとっとした視線を返し、ノットの後ろをついて回った。
飼い主が帰ってきたのは、それから十五分ほどあとのことだった。
「ずいぶん遅かったな」
「ああ、スプラウト先生の温室を見てきたんだ。君も一緒に来たらよかったのに。体が温まるよ」
ハティの耳は、寒さで赤く色付いていた。栗色の前髪は風で乱れ、全身からは氷のような冷気が漂っている。
「まあ、外はまだグリフィンドールの子たちが騒いでいたから、いい気分にはならなかっただろうけど……。何?どうかしたの?」
この微妙な雰囲気が、彼にも伝わってしまったようだ。ソルティはふくれっ面でノットを見上げ、ノットはそれを真正面から受け止めた。
「いいや」
そう答えると、メロン色の眼差しから逃げるように談話室を出た。飼い主の手前、疑いを抱かれるようなおかしな真似はできないだろう。
これでうまく撒けたはずだ。
そう思ったのが甘かった。
その日以降、ソルティはあの手この手でノットに詰め寄った。教室の前で通せんぼをしたり、杖を盗もうと企んだり、枕の下に砂糖の袋を置いてみたり。
自分の好物を与えて、取り入ろうとする作戦も実行した。
「何だそれ」
ある時、隣に座っていたザビニがぽかんと口を開けた。見ると、鞄の中に大量のソーセージが入っている。
「ノット。君、いじめられているのか?マルフォイに言ってみろよ。何とかしてくれる」
ノットは奥歯を噛みしめた。食いしんぼう扱いでバカにされなかっただけマシだ。その日は無心で、ゴシゴシ呪文を唱え続けるはめになった。ハティは不思議がりながらも、申し訳なさそうにそれを手伝った。
十二月に入った頃、ついに堪忍袋の尾が切れた。ノットは茶トラ猫を手荒く抱き上げると、トランクを開いてみせた。
「これはどういうことだ?」
衣類、文房具、選りすぐりの本、生活必需品。全てがあるべきところに収まっている中、招かれざる客がスペースを占領している。三百グラムのバターが一個と牛乳瓶だ。ご丁寧に新品のものを用意している。
「大したものだ。ソックスの横にバターを置くだなんて」
ノットは本気で怒っていた。地下、それも冬の湖に囲まれている場所だったからよかったものの、これが真夏だったら悲惨なことになっていただろう。
「君がハティの猫じゃなかったら、ミセス・ノリスの花婿にしていたところだ」
性悪猫の表情が固まった。呼吸すらままならない中で、ピンクのハート型の鼻のみが、わずかにヒクついている。
「そうされても仕方のないことをしている。だけど、君はハティの猫だ。今から猶予を与えよう。……新しい牛乳とバターを持ってこい。バターは無塩のものだ」
ノットは無慈悲な顔でつけ加えた。
「期限は三日以内。クリスマス休暇まで時間がないからね。チョコとドライフルーツも忘れずに」
縮んでいた髭が、ふわっと伸びた。ソルティはノットの胸を蹴って、勢いよく飛び出した。駆けていく後ろ姿はオレンジ色のボールのようだった。
一度仲間に引き入れてみると、彼はなかなかに優秀な猫だった。ソルティはバターと牛乳をその日のうちに仕入れ、ついでにホワイトチョコ一枚と、クランベリーを五十グラム持ってきた。
へこんだ小さな鍋を拾ってきた時には、大いに安心した。手元にある鍋といえば錫製の大鍋くらいのもので、これは「魔法薬学」の時に使用していたからだ。
とはいえ、よく分からないガラクタを持ってくることもしばしばだった。柊の葉っぱ、ガラスの珠、色とりどりの古びたシーツの切れ端。ノットはこれで、まずまずの袋を仕立てた。赤と緑の布地を組み合わせた時には気分が悪くなったが、柊を添えると一気にクリスマスらしいラッピングになった。
「最近、君の杖をかじらなくなったね」
その日の夜、ベッドの上で浮遊呪文の復習をしていたハティが、ノットの方を振り返った。
「変なちょっかいもかけなくなったし。ドラゴン熱が冷めたのかな?」
「さあね」
ノットは教科書に目を通しながら、そっけなく答えた。自由時間をプレゼント作りに当てていて、授業の予習をする暇がなかったのだ。ソルティは上機嫌でゴロゴロと喉を鳴らし、ハティが浮かせた百味ビーンズを食べていた。
手ごろな空き教室を見つけるのに、そう時間はかからなかった。ホグワーツの敷地は広大で、教師ですら把握していない部屋が何十とある。
ノットは緑豊かな畑を見渡せる、小さな教室を選んだ。スプラウト先生の温室が近くにあるのだが、ほとんどの生徒はそちらに気をとられるため、かえって人通りが少ないのだ。
「インセンディオ」
真っ赤な炎がぱっと燃えあがる。ほんの少し杖先を下に向けると、燃え盛る炎は赤いトロ火に落ち着いた。
ノットは鍋の中のバターが溶け、チョコレートが牛乳の海の中へ沈んでいくのを見守った。分量と火加減に関しては、全て頭の中に入っている。魔法薬を作るよりもずっと簡単だ。答えも明確で分かりやすい。
液体はぽこぽこと盛り上がり、むかつくほど甘ったるい香りを放った。お菓子はそう好きではない。そもそも食べること自体あまり興味がないのに、まさか教室のど真ん中でファッジを作ることになろうとは。
対して、ハティは食に貪欲だ。あまり表情には出さないが、美味しいものを食べている時の彼はすぐに分かる。
鍋を覗きこむノットの顔を、ふんわり甘い蒸気が包んだ。
クリスマス休暇まであと二日。彼は喜んでくれるだろうか。
「……バカげたことを」
平たいお皿にクランベリーを散らしながら、ノットはソルティに話しかけた。
「もう二度と、こんな面倒なことは頼まないでくれ」
ソルティは聞こえないふりをした。ただ黙って頭を天井に突き上げ、辺り一面に漂うファッジの匂いを堪能していた。