微睡みの蛇

※読む人によっては、ややバッドエンドととれるような結末になっております。死ネタなど苦手な方は注意してお読みください。


02.三秒後のキャロル(フレッド・ウィーズリー)


ぐらりとホグワーツ城に激震が走る。

ついに防御が破られてしまったのだ。闘いはのっけから苛烈さを極め、死喰い人と不死鳥の騎士団員とが入り混じり、互いに呪いをかけ合っていた。

このままではまずい。入り口だけでも守らねば。

走り出した側から、緑の閃光がローブのすれすれを掠めていく。失神の呪文を打ち返したものの、相手はかなりの手練れで、全てかわされてしまった。

「ペトリフィカス・トタ──」

わき腹がずきっと痛む。飛び散ったレンガを受けてしまった箇所だ。息を吸うたびに火の粉を飲んだようになって、上手く呼吸ができない。

死喰い人の杖がこちらへ向く。光沢を帯びた仮面が残酷な輝きを放った。だめだ、終わりだ。呪文の詠唱も間に合わない──。

「ステューピファイ!」

誰かの呪文が仮面にぶち当たる。攻撃を喰らった死喰い人は、そのままばったりと倒れこんだ。

「危なかったな」

そう話しかけてきた相手の声に、聞き覚えがあった。ずっと会いたかった人だ。ここを卒業してからは、一度も顔を合わせていない人。

赤毛のウィーズリーが、目を見開いた。

「キャロル?」
「やあ、君。僕を覚えていてくれたの?」
「当たり前だろ」

力強い腕が、脇の下に差しこまれる。立ち上がる時の痛さときたら涙が出そうだったが、再会の喜びで何とか耐え抜いた。

「大丈夫か?」
「まだ死んじゃいない」
「クリスマスまであと七ヶ月はある。それまでは俺たち、何としてでも生き残らなきゃな」

その口ぶりで、急に彼と出会った時のことを思い出した。たくさんの花火と煙のにおい、甲高い声のクリスマスキャロル。

「ヴォルデモート卿には、何をプレゼントしようか」
「ウーン、でっかい敗北かな」
「もちろん、葬送曲つきでね?」

お互いの顔に、恐怖と興奮で引きつった笑顔が浮かぶ。ウィーズリーが励ますように肩を叩いてきた。

「それじゃ、いつもの合図だ。三つ数えたら、ここを飛び出るぞ。いーち──に──さん……」



廊下を歩いていた。

暗くて隙間風の冷たい、大理石の廊下を。

松明の火がはぜる音が聞こえるけれど、それ以外はまるで深い森の中。きっと、何もかもが雪の下に埋まってしまったのだろう。

ふと、昔に読んだ絵本のセリフが蘇る。ほら、トナカイのベルの音が近づいてくるよ。

けれども、聞こえてくるのはやっぱり静かな夜。憎らしいほど完璧な夜。

そう、三秒前までは。

「君、ここで何をしてるんだい?」

静寂をつき破って現れたのは、真っ赤なお鼻のトナカイ──ではなく、真っ赤な髪の毛の男の子だった。グリフィンドールの有名な双子のかたわれだ。名前はグレッドだったか、フォージだったか。

何一つ知らなくても、これだけは分かる。彼のラストネームはウィーズリーだ。

「おおっと、つまりそういうことか」

Fの文字がついたセーターの袖をまくって、ウィーズリーはにやりと笑った。

「クリスマスの夜、先生方は蜂蜜酒でフーラフラ、みんなはお家に帰って誰もいない。つい夜ふかしをしてみたくなったってわけだ。そうだろう?兄弟」
「どうかな」
「でも、変だな。ここのところは秘密の部屋の怪物が大暴れしてるから、みんな怖がってるはずなんだけど」
「気にしないさ。僕はスリザリンだからね」

「スリザリン」の言葉を聞いた時、陽気な笑顔が少しばかり凍りついた。いつの時代も蛇の寮は不人気だ。最近は特に評判が悪い。

彼は小さく咳払いをした。

「スリザリンか。ええっと、君の顔を見たことがあるような気がするぞ。そうだ、『魔法薬学』のクラスで一緒だったよな?たしか名前は……」

口の中でモゴモゴと呟く。困った顔でさえコミカルに見えるのだから、普段の行いは侮れない。

「名無し」
「え?」
「誰も僕の名前を知らないし、知ろうともしないんだ。だから、名無しでいい」

緩くなっていたマフラーを巻き直す。ホグワーツの冬は寒い。

「……少なくとも、スリザリンではそれで通ってる」
「なるほど、ミスター・名無しか。そりゃいいな」
「へえ?」

思いっきり顔をしかめてみせると、ウィーズリーは不思議そうに首を傾げた。

「だって、名前がないんだろ?それって最高にイケてる気がするけどな。俺とジョージなんて、もう百回はフィルチに名前を呼ばれてるぜ」
「スネイプ先生にもね」
「けど、知ってるかい?あいつらは俺たちの本当の名前を知らないんだ……。すなわち俺がフォージで、相棒がグレッドさ」

セーターのFの部分を引っ張りながらいう。噂通り変わった男の子だ。少なくとも、スリザリンにはこんな人間はいない。

「それで、フォージさん。二階に何の用なの?」
「そこだよ。名無しくん」

ウィーズリーはビシリと指をさした。

「俺たち──、俺とジョージのことだけど。玄関ホールで見つかりそうになったんだ。ジョージが上手く撒いたなら、三十秒後にフィルチがここに現れる」
「そりゃ素敵だ」
「そこでミスター・名無し、君のご登場だ。ちょっとこいつを見てくれるかい?」

彼は尻ポケットから群青色の何かを取り出した。よくよく見てみると、それはとんがった顔のピクシー小妖精だった。ファイア・ウイスキーをたらふく飲んだような有様で、ダンブルドアそっくりの三角帽を被っている。

小妖精はキーキー声で讃美歌を歌っていた。妙に聴き覚えのあるフレーズだ。

「きよしこの夜?」
「何だって?」
きよしこの夜サイレントナイトだよ。クリスマス・キャロルの。いったい誰が仕込んだんだろう」

ウィーズリーはいまいち分かっていないようだった。クリスマス・キャロルは魔法界にだって伝わっているはずだけど、その由来はよく知らないのかもしれない。

そう。何といったって、彼は純血なのだ。

「この子をどうすればいいの?」
「簡単だ。今から俺がこいつでフィルチを焚きつける」

ウィーズリーが、ピクシー小妖精を杖でつついた。まるでロケットの燃料のように、「ドクター・フィリバスターの長々花火」を背負っている。

「君は呼び寄せ呪文で、こいつの仲間をここに連れてきてくれ。ジョージが用意してくれてるはずだ……。上手くいけば、きれいな花火が見えるかもしれないよ」

とんでもなく無謀な計画だ。グリフィンドールでは讃えられるだろうが、スリザリンでは冷笑の的になる。まあ、今に始まったことではないけれど。

「きれいな花火、ね」
「俺を信じろよ」

ウィーズリーはウィンクをすると、石像の裏へ手招きしてみせた。彼は思っていたよりも背が高くて、手編みのセーターからはジンジャーブレッドの香りがした。

「いいかい、三つ数えたらそれが合図だ。ピクシーたちを呼んでくれ」

「長々花火」に杖を向ける。クリスマスキャロルはいつの間にか、魔法使いオドの悲しい曲に変わっていた。

彼はピクシー小妖精の口を塞いだ。

「俺の勘じゃ、あと三秒後にやつは来るぞ。……ほうら、お出ましだ」

汚れたランタンとともに、それよりもさらにうらぶれた様子のフィルチが現れた。靴の裏を地面に擦りつけるようにして歩き、足元には埃っぽい色のミセス・ノリスがつきまとっている。

「よーし、いい子だな……。よく探すんだぞ。小僧はこっちへ逃げたはずだ」

フィルチはギョロリとした目をむき出した。

「いまいましいウィーズリーどもめ。少しばかり痛い目を見るべきだ。なあ、お前もそう思うだろう──?」
「さあ、行ってこい」

ウィーズリーが小声で送り出す。「長々花火」を背負ったピクシーが、宙に放たれた。

「ねえ、嫌な予感しかしないんだけど」
「シーッ。黙って見てろって」

クリスマスの妖精は光と影の廊下をヨロヨロと飛び回り、不吉な火花を散らしながら、見事フィルチの後頭部にクリーンヒットした。

「何だ?」

戸惑う管理人の前に、痩せ細った妖精が舞い降りる。ウィーズリーが耳元に顔を寄せてきた。

「さあ名無しくん、出番だ。いち──に──のさん──。今だ!」
「アクシオ、ピクシー小妖精たち」

仲間たちが耳障りな声を上げながら、廊下へとやってくる。フィルチがこちらを振り向いたその時、妖精一号の「長々花火」が大きな音を立てた。

光あれ。何十という花火が二階の廊下に炸裂した。赤や黄の轟音が続くさなか、管理人の周りを小さなドラゴンが漂い、いくつもの流れ星が天井を彩っている。世界が一斉にチカチカと眩しく点滅し、クリスマスの夜は真夏の昼よりも明るく輝いた。

紙吹雪が散る空中で、「長々花火」を背負ったピクシーたちが賑やかに歌っている。イチジクのプティングをちょうだい。「クリスマスおめでとう」だ。

半狂乱になっているフィルチを眺めていると、肩を叩かれた。

「メリークリスマス!さあ、ずらかるぞ。急げ!」

そこからは、ウィーズリーに引っ張られるがままだった。隠し通路を右へ、左へ。城内の道は角ばっている。肖像画の女の子に導かれ、クッションだらけの教室を横切り、階段を一段飛ばしで降りていった。

全速力で駆ける中、急に心の中がくすぐったくなって、気がつけば大声で笑っていた。まるでシャンパンの金色の泡が吹き出すように、くすくす笑いが次から次へとこみ上げてくる。

ウィーズリーが振り返って、親指を立てる。いくつもの松明の炎が視界の隅を通り過ぎていった。

やっとの思いで玄関ホールにたどり着くと、二人して階段にへたりこんだ。

「やったな、相棒」
「そっちもね」

差し出された手にハイファイブを決める。今しがたの冒険で、互いに汗をかいていた。

ウィーズリーが隣に腰を下ろした。

「君に一つ言いたいことがあるんだけど、いいかい?」
「どうぞ」
「僕の名前はフォージじゃない」
「ああ、そのことか。僕の名前も──」

ふと、日々のつまらない情景が頭の中に浮かんだ。立ち去る背中、折れた羽根ペン、ひとり本を読む夜中。

「…….いや、やっぱり名無しかな。時によってはポルターガイストかもね」

ウィーズリーはポケットから花火を取り出すと、手慣れた仕草で火をつけた。

「俺には分からないな。何で君が名無しなのか」
「父親がマグルだから」
「そりゃないぜ。スリザリンにだって、半純血の子はいっぱいいるだろ?」
「でも、マグル育ちはいない」

花火がパチパチと音を立てて、宙に浮かぶ。炎は翼を得て、橙色の小鳥が頭の上を旋回し始めた。何も知らないマグルが見れば、神の啓示だと勘違いしそうな光景だ。

「僕は魔法界のことを知らずに育ったんだ。母親が大のマグル狂いでね」
「パパと一緒だ」
「じゃあ、君のパパは狂信者だな。中世の魔女の火炙りは正しいことで、悪魔崇拝の魔法族は一人残らず滅ぶべきだって考えてる」

さすがのお調子者も、これには言葉が出ないようだった。彼はさらにポケットを探ると、ドルーブルの風船ガムを引っ張り出した。

「いる?」
「いや、遠慮しとくよ」
「なあ、君のママがイカれてるのは──。おっと、ごめん。君のママが変わってるのは君のせいじゃない。分かってるとは思うけど」
「でも、そんな簡単なことすら理解できないのがスリザリンの連中だ」

小鳥がひと声鳴いて、静かに燃え尽きた。焦げついたカスがひらひらと天井から落ちてくる。花火の寿命は短い。そろそろ潮時だ。

ふと、冬の冷気が頬を掠めた。

「きれいな花火をありがとう。すごく面白かったよ。僕、もう戻らなきゃ」
「ねえ、キャロルはどうだい?」

出し抜けに彼が呟く。その言葉の響きに、思わず眉をしかめた。

「何が?」
「君の名前だよ。讃美歌に詳しいみたいだからさ」
聖歌キャロルか。母さんが喜びそうな名前だな」
「ただのキャロルじゃない。クリスマスキャロルだ」

ウィーズリーはにっこり笑うと、親指を自分の方へ向けた。

クリスマスがいれば、ちょっとは賑やかになるだろ?毎年プレゼントが貰えるし、イチジクのプティングだって食べ放題だ」

しばらく返事に詰まって、何も言うことができなかった。お礼をいうべきなのだろうか。それとも、気の利いたジョークを返すべきか。

ウィーズリーは朗らかに笑っている。確かに、彼の周りはいつも騒がしい。年がら年中オーナメントできらきら輝いているようなものだった。

「……それに、ピクシーの花火も楽しむことができる」
「その通り」

彼はズボンの尻をはたいて、立ち上がった。

「さて、と。ジョージのところへ帰るとするか。今夜の賭けは俺の勝ちだ。じゃあな、キャロル」
「バイバイ、クリスマス」
「いいかい、三つが俺たちの合図だぞ。三つ数えたら、お互いの寮へダッシュだ。オーケー?……いち──に──さん」



杖が軋みながら、赤い火を吹く。

もう限界だ。どこもかしこも鈍くて動かない。何だか寒くてたまらないし、意識も朦朧としている。

少し離れた廊下の先では、クリスマスがパーシー・ウィーズリーと戦っていた。そばには、あのハリー・ポッターたちもいる。

彼が守ろうとしている人だ。魔法界の最後の希望。

目の前の仮面をきつく睨む。あと三秒だ。あと三秒でこいつを片付ける。そのあと、彼にずっと言いたかったことを打ち明ける。──全てが終わってしまう前に。

三つ数えたら、君に楽しかったと伝えよう。

三つ数えたら、君に救われたと微笑もう。

三つ数えたら、僕を見つけてくれてありがとう、と手を振ろう。

三つ数えたら、三つ数えたら──。

目の前でまっしろな閃光が弾ける。途端に、お腹に強い衝撃が走った。手足が硬く縮こまり、体がゆっくりと後ろ向きに倒れていく。

今に消える。きっと消えてしまう。何もかも。体の外へ出ようとしている魂を引きとめて、首を廊下の方へ向けると、クリスマスが実の兄に笑いかけていた。まるでプレゼントをもらったかのような喜びようだ。

ふと穏やかな温もりが心を満たした。結局、彼の本当の名前を知ることはなかった。けれど、それでいい。僕にとってはクリスマスとキャロル。その思い出だけだったとしても。

空気が裂けるように爆発し、城壁から大量の瓦礫が降ってくる。

三秒後はやってこなかった。
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