微睡みの蛇
01. narcissistic
例えば、本の表紙に触れる時の長い指先だとか。
子どもっぽくない雰囲気だとか、怒ると声が掠れて低くなるところだとか、好きな部分を挙げればきりがないけれど、やっぱりこれが一番だ。
その日の昼、図書館でのこと。ノットは暗い目で私の顔を見つめた。
「真夜中に談話室へ?」
「うん」
「何のために」
憂鬱という言葉がこんなに似合う人は、他にいないだろう。それくらい目も髪もまっくろで、もったりと重い。ちょこっと突き出ている白い耳はうさぎみたいだ。少し病んでいて、無愛想で、血統を何よりも重んじるうさぎだけど。まあ最後に関しては、本人が血統書付きなのだから仕方がない。
「ハロウィーンの夜はパーティーが開かれるでしょう?私、あなたと参加したいの」
パーティーとはいっても格式高いものではなくて、トレイシー主催の「未来が視える水晶玉」体験だったり、赤いキャンドルの魔術だったり、お遊び程度の催しが開かれるだけだ(たまに本物の闇の魔術が出てくることもあるらしい)。生徒たちは仮装をして、友だちや恋人と思い思いの時間を過ごす。
つまりは非生産的なイベントで、ノットにとってはむだな時間そのもののはずだった。それでも私には彼を誘う権限がある。そう。だって私は……。
「行きたいのなら、君ひとりで行けばいい」
ノットがばっさり切り捨てる。顔にはハッキリと「くだらない」と書いてあった。
「私ひとりで?」
「僕は興味がない」
さすが、セオドール・ノット。恋人が相手であったとしてもまったく容赦がない。だけどこっちだって、そんなことでへこたれるつもりはないんだから。
「あぁ、そう。ハロウィーンも独りぼっちで過ごしなさいってことね。楽しみだわ。クリスマスはどうなることやら」
無愛想なノットの顔が、ますます険しくなっていく。
「何が言いたいんだ」
「さあ。何が言いたいんだと思う?」
「答えになってない」
「もしかして、気づいていないの?私たちが周りから何て言われているか」
両手を組み合わせてテーブルの上に置き、少し身を乗り出してみせる。戦闘開始のサインだ。
「付き合って二年も経つのに、ろくにデートすらしたことがない。二人で一緒にいることも少ない。私たち、『仮面夫婦』って呼ばれているのよ……。笑えるわ。まだ手を繋いで、ホグズミードに行ったことすらないのにね」
べつに、マダム・パディフットの喫茶店に行きたいわけではない。あんなけばけばしくて甘ったるい色の空間、ノットじゃなくたって嫌になると思う。私はただ、彼と一緒に時間を過ごしたいだけなのだ。気の向くままにフラフラと湖のほとりを歩いたり、三本の箒でバタービールを飲んだりして……。
ノットは気だるそうにため息をついた。
「周りの言うことなんて、どうだっていいだろう。君の機嫌はつまらないことに左右されるんだな」
心の奥のどこかで、プツンと糸が切れる音がした。私はたった今、鞄から出したばかりの黴 臭い本をテーブルの上に叩きつけた。
「そう。おっしゃりたいことはよーく分かりましたわ。いいわよ、水晶玉の占いもリンゴの魔法も全部ひとりで受けてくるから。私の言ったことは気にしないでね。どうせ大したことじゃないんだし」
「どうでもいいけど、本をそんな風に扱わないでくれ。どれくらいの知識が詰まっていると思って──」
言葉が途中で消えていく。ノットは眉をしかめた。
「ホグワーツの本じゃないな」
「ああ、お気づきでしたか。フローラ・カローが夜の闇 横丁で仕入れてくれたの。古代の闇の魔術の禁書でね。『必要の部屋』で、あなたと一緒に試してみたいと思ってたんだけど」
私は荒っぽく椅子から立ち上がった。
「でも、いいわ。あなたは興味がないようだから。私だって、無理強いはしたくないもの」
彼の暗い瞳が揺らぐ。出てきた言葉は、やっぱり冷ややかなものだった。
「何でそれを先に言わないんだ?」
「言えば、あなたは誘いに乗ってくれたでしょうね。しょせん学術的な目線でしか、物事を測れないんだから。言いたいことはそれだけ?──じゃ、さよなら」
私は彼の手から本をひったくると、上品とは言いがたい足取りで図書室を去った。途中、マダム・ピンスに睨まれたし、ハーマイオニー・グレンジャーとぶつかりそうになったけど、そんなの気にしていられない。
すれ違ったグレンジャーは、かなり苛ついているみたいだった。どうせ、あの赤毛とラベンダー・ブラウンがイチャついてるのが気に食わないんだろう。ウィーズリーなんて放っておけばいいのに。
だけど、私は彼女に話しかけたりはしない。私は純血のスリザリン寮生で、グレンジャーはマグル生まれ。それに、まかり間違って話しかけたところで、彼女はこう言うだろう。
「仕方ないじゃない。お互いに好きになった相手が悪かったんだから」って。
ハロウィーンのディナーが終わったあと、女子寮は着飾ろうとする女の子でいっぱいになった。シャワー室は満員で、鏡はどれもパウダーまみれになって曇っている。
「あなた、パーティーには行かないの?」
制服姿の私を見て、パンジー・パーキンソンが話しかけてきた。白いふわふわのワンピースの裾を、蜘蛛の巣の糸でレースのように縁取っている。
「あとで参加するわ。人が多いのは嫌いだから」
「そう」
彼女は裾を踏まないよう慎重に歩きながら、女子寮を去っていった。さすがに良家のお嬢様たちは、メイクも露出も控えめだ。それでいて、持っている物は全て高級品なのだから侮れない。
私はベッドの上から、様々なモンスターに扮した女の子たちを眺めた。
格差というものは残酷だけど、どんな子でも共通して持っているものがある。それは、一番可愛いのは自分だという自信だ。見た目の美醜に関係なく、女の子なら誰もが心の底に隠している。
口さがない男の子はいう。それは自己陶酔的 な願望にすぎないと。
女子寮から人影が消え始めたころ、私はやっと支度にかかった。いつも通りにシャワーを浴び、いつも通りのネグリジェを着て、真っ黒な旅行用のローブに身を包む。メイクは馴染みのいい、ルビーレッドのルージュだけ。帰ってきてからオフするのが面倒だからだ。
あとは長い髪をシニヨンにして、三角帽子を被れば完成。一応だけど、カローから貸してもらった禁書もポケットに忍ばせた。もしかしたらノットが私を待っていて、仲直りできるかもしれない。
そんな淡い期待が実る……わけもなく。女子寮の入り口近くに立っていたのは、恋人じゃなくてブレーズ・ザビニだった。
「何?その格好」
ザビニは衝撃を受けたような顔をしていた。彼が付き合う子はみんなゴージャスだから、私みたいな地味な女の子が生息しているだなんて、思ってもみなかったのだろう。
「見ての通り『魔女』ですけど。ちょっと、そこを通してくださる?」
ザビニは無言で後ろに下がった。彼が引きとめるのは可愛い子だけだ。幸いにして、私は生まれながらの美人ではない。
パンプキンジュースを飲みながら、文字通り一人きりで談話室を闊歩する。先祖と繋がる降霊術に、燃えるりんごを使ったアップル・ボビング。暖炉の近くでは、仮装をしたカップルたちが「愛の妙薬」の鍋の周りに群がっている。緑色の炎に照らされたゾンビの顔は、恐ろしいほどグロテスクだった。鍋の中身は透き通った真珠色で、近づくと石鹸の香りがした。
どこかで嗅いだことのある匂いだ。でも、いつ覚えたんだろう。ぼうっとしながら、螺旋状の湯気を吸いこんでいると、後ろから肩を叩かれた。
「あなたの未来、視てみませんか?」
「トレイシー!」
トレイシー・ディヴィスは、いかにもな薄紫色のベールを被っていた。トレローニー先生よりもそれらしいし、何ならちょっと可愛い。
「あんなものを使ったって、本当の心は手に入らないわよ」
私は後ろ髪を引かれる思いで、愛の妙薬から目を背けた。
「ノットのことなら、万能魅惑薬 を飲ませたって平気よ。勝手に解毒薬を作るんだから」
「今日は一人なの?」
「見ての通り」
私はトレイシーに引きずられるがまま、大小の水晶玉が並ぶテーブルのところまでやってきた。
「さあ、遥かなる未来を覗いてみて。……何が見える?」
私は手のひらサイズの水晶玉を見つめた。向かい側で、タロットカードのシャッフルをうっとりと観察している女の子の顔が映っている。そばでは、ボーイフレンドがうんざりとした様子で立ち尽くしていた。
「ええっと……、若い男女が見える」
トレイシーの目が、かっと見開かれた。
「それで?」
「女性はカードを見てて、あれはきっと……。ちょっと、やだ。すごくいやらしい絵なんだけど」
「きっと、恋人たちのタロットカードね」
トレイシーは、向かい側の占いコーナーをちらっと見た。
「それか、執着を表す悪魔のカードか。まあ、そこはあなた次第って感じだけど。続きは?」
「男性は待ちくたびれてるんだけど、女性の方は気付いていないの。目の前の夢を追いかけるのに必死みたい」
私のでたらめな言葉を聞いて、トレイシーは石像のように動かなくなった。さすがにふざけすぎたのかもしれない。でも、「占い学」での私の生き残り方はこうなのだ。水晶玉の中に未来が視えたことなんて、一度もないのだから。
彼女は水晶玉から視線を外すと、私の手をとった。
「本は持ってるわよね?」
「は?」
「他の人から借りた本があるでしょ。それを持って、今すぐ会いに行って」
トレイシーの口調は、マクゴナガル先生のように厳格だった。
「会いに行くって、誰に?」
「決まってるでしょ。さあ、早く行かなきゃ。でないとあなた、酔っ払ってあそこにいる七年生に食べられちゃうかもしれないわよ。それでもいいの?」
彼女が指差した先には、狼男の仮装をした男の子がいた。蜂蜜酒が入ったグラスを持っていて、何だかネバネバした笑みを顔に貼りつけている。
「嫌。ぜったいに嫌」
「でしょ?だったら、覚悟を決めなさいよ。さあ勇気を出して。ここから出てって」
「え?」
トレイシーに連れられた先は、談話室の外だった。彼女は私の背中を押すと、親指を立ててみせた。
「彼は、あなたが必要とした時に 現れるわ。もしかしたらフィルチに捕まっちゃうかもだけど、頑張って見つけてね」
「ちょっと待ってよ、トレイシー!いったい何が視えたの?」
一晩限りの占い師は妖しく微笑んだ。
「悪魔のカードをどうするかは、あなた次第よ」
「どういう意味?そんなことより私、まだ掲示板を見ていないの。次の合言葉は何──?」
石の扉がするすると閉まる。万事休すだ。談話室への道は永遠に閉ざされてしまった。
小声で呪詛を吐きながら、私は真っ暗なホグワーツの廊下を恐る恐る進んでいった。
合言葉を知らない以上、どうしてもノットに会わなければいけない。灯りをつけたいけれど、ルーモスだとすぐに居場所がバレてしまう。こういったイベントがある日の、先生方の警戒心は異常なのだ。老いぼれフィルチとミセス・ノリス、性悪なピーブズにも気をつけなければならない。
それでも動く階段の危機を乗り越えてからは、ある程度の余裕が出てきた。
──彼は、あなたが必要とした時に 現れるわ。
目的地はそう、あったりなかったり部屋だ。去年、ポッターたちが使って以降、この部屋を悪用する輩が増えていた。私とノットもそのうちの一人で、よからぬ魔術を研究するために使っている(ちなみに、エロティックな雰囲気になったことは一度もない)。
やっとの思いで八階に辿りつき、ため息をついていると、ふくらはぎを毛むくじゃらの何かがこすっていった。
私は悲鳴をあげた。ミセス・ノリスだ。彼女が飼い主を呼びにいくのとすれ違いに、全力で廊下を走った。
「おや、生徒を見つけたのかね?」
そう遠くない場所で、フィルチの身の毛もよだつような猫撫で声が聞こえてくる。
「そいつはいけないねえ。見つけたら手首を縛って吊るさねば……」
そういえば、トレイシーがいってたっけ。あいつに捕まっちゃうかもしれないって。多分、最初からこの辺をうろついていたのだろう。夜に徘徊する生徒にとって、あったりなかったり部屋は都合がよすぎるからだ。
私は壁を探りながら、懸命に考えた。「必要の部屋」はどこ?この壁だっけ?どうやって願えばいい?セオドール・ノットが安心して過ごせる部屋だとか?
曲がり角からランタンの光が漏れ、いよいよ観念しかけた時、誰かの腕がぐいっと私のローブをつかんだ。私は声を出す暇もなく、部屋の中に呑みこまれた。
「セオドール?」
「静かに」
落ち着いた声は、確かに恋人のものだ。うれしいやら恥ずかしいやらで、私は床に這いつくばったまま、顔をあげることができなかった。
数秒の沈黙が続いたあと、彼は私の襟をつかんで持ち上げた。
「ねえ、私ってあなたの恋人なのよね?」
私は恨みがましく彼を見上げた。まるで首根っこをつかまれた子猫のような気分だ。
「礼はいらない」
ノットはテディベアを飾るような手つきで私を立たせると、自分はソファーの方へ戻って行った。
私はブツブツ文句を言いながら、辺りを眺め回した。とてつもなく殺風景な部屋だ。本を置くためのローテーブルに、少し大きめのソファーベッド。絨毯の床には、クッションがいくつか転がっている。部屋の広さの割には、どう見ても圧倒的に明かりが足りなくて、唯一明るいのは、ごうごうと燃えている暖炉の炎だけだった。
恋人が落ち合う場所にしては、ロマンチックさが足りない。私はクッションの上に腰を下ろした。
「ここで何をしてたの?」
彼は視線をローテーブルに向けた。数百年分の埃を吸いこんでいそうな本が、何冊も積み上げられている。
「私、あなたが迎えに来てくれると思ってたのに」
「言っただろう。興味がないって」
相変わらずそっけない態度だ。せっかく仲直りをするチャンスなんだから、もう少し寄り添ってくれたらいいのに。そう思うと、たちまち昼間のやりとりが頭の中に蘇って、私はぐっと背筋を正した。
「お話しをしにここに来たわけじゃないの。禁書の魔術を確かめたくってね。ついでだから、あなたも一緒にどう?」
ノットは気難しそうな顔で聞いている。
「べつに、今日の夜じゃなくてもよかったんじゃないか」
「……もしかしたら、ハロウィーン限定の魔術があるかもしれないじゃない」
そんなこと、この私が考えるわけがない。友だちに背中を押されて、仲直りをするためにここへ来たのよ。こんな時くらい察しなさいよ、バカ。
「それで、どうするの。指をくわえて見ているつもり?」
ノットは立ち上がると、私の隣にあぐらをかいた。
「拝読する」
私はドキドキしながら禁書を取り出した。いつもは気にしていないけれど、こうやって近づくと分かる。やっぱり彼は男の子なのだ。ローブを羽織った肩や、すらりと伸びた長い脚。一見すると細く見えるような指でさえ、私の指よりしっかりとしている。
ノットは本を数ページほどめくると、かすかに戸惑いの表情を浮かべた。
「どうしたの?」
「カローはどこでこれを手に入れたんだ?」
「さあ。私が聞いたのは夜の闇 横丁で……」
「大方、フローリシュ・アンド・ブロッツのティーン向けコーナーだろう」
ノットはページを開いて、本を私の方へ向けた。
「どう見ても、これは古代魔術じゃない」
そう、それは確かに古代魔術ではなかった。ふんわりと可愛らしいピンク色のページには、「彼を振り向かせる香水」や「愛の妙薬の種類」、はては「奥手なあの人をその気にさせる方法」まで書いてある。
「外側は確かに専門書の物だ」
ノットは淡々といった。
「だから……、きっと表紙をすり替えたんだろう」
開いた口が塞がらないとはこのことだ。確かに、彼が淡白だと愚痴ったことはあるけれど、まさかフローラ・カローがこんなものをよこしてくるとは。
しかも、よりにもよってそれがノットの目に触れてしまうだなんて、いったい誰が想像しただろう?
私は奪うように本を受け取った。
「持ち主に返してくるわ」
ノットがわずかに眉を上げた。
「フィルチがいるのにか?」
「ただのスクイブでしょ」
「その割には、逃げるのに必死だった」
大人びた横顔をじっと見つめてみる。私のボーイフレンドときたら、急なサプライズにもまったく驚いてないみたい。声も表情も、いつもの冷静な様子を保ったままだった。
焦ったのは私だけなんだ。──そう思うと、急に意地悪な気持ちがムクムクと湧いてきた。だいたい、怒るのもわがままを言うのも、いつも私の方なのだ。たまには照れ笑いの一つくらい、返してくれなきゃ困る。
「……何の真似だ」
私は禁書、もとい恋愛攻略本のページを広げて、ニヤリと笑った。
「トリック・オア・トリート」
「は?」
「今日はハロウィーンでしょう?私、あなたからまだお菓子をもらってないわ」
もちろん、彼がそんなものを用意しているはずがない。ノットがナイフのような鋭い正論を展開する前に、私は一気に畳みかけた。
「あら、逃げるの?」
「君のやろうとしてることは──」
「ふーん、意外と意気地なしなのね。いいわ」
私は本をパタンと閉じた。
「逃げるんだったら、これ以上引きとめはしないわよ。とっとと談話室に帰って──、ああ。ついでに、廊下にいるスクイブと乳操り合ったらいいわ。あなたの相手が務まるのなんて、彼ぐらいしかいないだろうから」
我ながら酷い言い様だ。でも、我慢の限界だったことも確か。私は彼ほど、他人に対して無関心なわけではない。スリザリン寮生たちの嘲笑は鋭いのだ。それでいて、べっとりと後をひくものだからタチが悪い。
ノットの顔からわずかな色が抜け落ちて、紙のような無表情が残った。
「スクイブよりは君の方がマシだな。大差ないが」
もはや、最後の方はほとんど聞き取れなかった。囁きに近い低い声で、わずかに掠れている。
光のない瞳にはどす黒い軽蔑が浮かんでいた。普段なら、マグル生まれにしか見せないその表情に、私は不覚にもときめいてしまった。
「じゃあ、もう一度言うわね。──トリック・オア・トリート!」
「好きにしろ」
「そうねえ。……じゃあ、これはどう?」
私は震える手でページを指差した。緊張と彼の怒りを誘った興奮で、背筋がゾクゾクしている。
「『ちょっと危険な遊び。彼の本音を露わにする魔法』」
「誘惑の呪文か」
「知っているの?」
ノットはあまりうれしそうじゃない顔で頷いた。
「魅惑の呪文の派生だ。呪文をかけられた方は感情的になって、相手に何もかもをさらけ出したい気分になる。そういった点では、支配の魔法に近い」
「服従の呪文と何が違うの?」
長い指が本の挿絵を指し示す。ヤギみたいな邪悪な生き物が、裸の男女を鎖で繋いでいるカードの絵だった。
──悪魔のタロットカードだ。
「インペリオは一方的な支配だ。対して、誘惑の呪文は自ら支配されることを望む。感情も肉体も相手に委ねることで魔法が完成する」
私はローブの前の方をきっちり閉めた。今さら「何もかもをさらけ出す」の意味を理解してしまったのだ。ネグリジェ姿の自分の格好が無防備に思えて仕方がなかった。
「さすがに危険だわ。別の呪文に変えた方が……」
「僕はかまわない」
そう言って、平然と杖を絨毯の上に置く。私はびっくりして、本を落としそうになった。
「ちょっと、それじゃ抵抗できないじゃない」
「『いたずら』するんだろう?」
薄い唇にせせら笑いが浮かぶ。
「誘惑の呪文は難易度が高い。もしかしたら、スクイブの方が君よりも上手 かもしれないな」
どうやら、彼はかなり頭にきているようだ。お返しをくらった私の頬は熱くなり、炎のような怒りと羞恥心に苛まれた。
「どうなっても知らないわよ」
ここまで来たら、もう後には引き下がれない。私はノットの暗い目を睨むと、彼の方へ杖を向けた。
「アメラティス・カターラス、虜になれ」
ふわっと薄い霧がノットの顔を包む。まるで花嫁が被るベールのようだ。立ち昇った暖かい金色の風に混じって、オスマンサスの花のような、ねっとり甘い香りも漂ってきた。
彼の瞳が少し曇ったような気がして、私は息を呑んだ。そういえば、ザビニが似たような香水をつけていたっけ。女性をその気にさせる匂いなんて、バカバカしいとマルフォイに笑われていたけど。
そうこうするうちに霧が晴れて、甘いにおいがうっすらとしたものに変わった。私はおそるおそる、恋人の顔を覗きこんだ。
「どう?何か変わったことはある?」
ノットは二、三度瞬きをすると、すぐに苦々しい顔つきになった。
「……気分が悪い」
思わずため息が出る。安堵が半分、ガッカリが半分だ。背中から腰にかけて這っていた、ゾクゾクとした甘いざわめきが消えていった。
「やっぱりね。誘惑の呪文なんて、聞いたことがないもの。あなたならともかく、私の実力じゃ上手くできるはずがないわ」
ローテーブルには飲みかけの紅茶があった。彼は一度冷めてしまったものは好まない。私はマグカップを取ると、消失呪文をかけた。
「冷たい水しか出せないけれど、我慢してね。何かいい呪文を知ってるのなら別だけど」
返事がない。振り向くと、ノットは黙ったまま塞ぎこんでいた。視線を床に向け、あぐらの姿勢でじっと固まっている。
これは嫌な兆候だ。二年生の時、ウィーズリーがナメクジを吐き出した時もこんな感じだった。
「ねえ、ノット。気分が悪いなら横になった方がいいわ。さあ、こっちに来てくれる?」
手招きをしてみせると、ノットは大人しくソファーベッドの上に横たわった。私が知るかぎり、彼がこんなに従順だったことはない。本人の説明通り、あの呪文は「服従の呪文」に近いものなのだろう。そうなるとシュールなおかしさよりも、心配の方が勝ってしまった。
「フィニート・インカンターテムなら、大体の呪文は消せるわよね?」
「ああ」
「じゃあ、じっとしてて。フィニート──」
右手がくいっと引っ張られる。ノットが杖の先を握っていた。
「なに?」
「お祭り騒ぎはごめんだ。でも、静かなところでなら話し合える」
あまりにも唐突な告白だったので、一瞬何のことをいっているのか理解できなかった。私は杖をポケットにしまうと、ソファーベッドの端に浅く腰かけた。
「口下手ね。それで釈明してるつもりなの?」
「……」
「こういう時はね、素直に言えばいいの。『どこかに出かけるよりも二人きりの方がいい。僕は君に興味がないわけじゃないんだ』って」
彼は無言を貫いていた。いつもは理知的で、それでいて少し病んだような目をしているのに、今の彼の瞳は熱に冒されたように潤んでいる。
「いたずらついでに、聞きたいことがあるんだけど。いい?」
ノットが返事をする前に、私は口を開いた。
「あなたって、私のことをどう思ってるの?」
「分からない」
即答だ。呪文をかけられていても、ノットはやっぱりノットのままだった。
私は思わず笑ってしまった。
「ほんと、変なところで正直なのね。普通なら愛してるって言うはずなんだけど」
彼はまっすぐに私の目を見つめた。
「もしそう言われるのを望むのなら、君は僕の誠実さを無下にして、嘘を選ぶということになる」
「あなたは──」
「仮に嘘の方を選んだとして」
ノットは急に上体を起こした。
「それで君は、僕に対して心から『愛してる』と言えるのか?」
目は口ほどに物を言う。口調はいつもとそんなに変わらないけれど、下まぶたがうっすらと赤くなっていた。まるで泣いた後のようだ。彼が涙を流すことがあるのならの話だけど。
私は微笑んだ。
「言えるわよ」
そっと手を伸ばして、その可愛くない頬に触れてみる。ノットはビクッと震えたあと、わずかに身じろぎをした。
「私は小難しいことは考えないの。好きなら好き、愛してるなら愛してる、それだけよ。あなたはどう?」
手のひらに温かい弾力が伝わってくる。これだけ柔らかいということは、やはり彼も人間なのだ。だけど、ほとんどの同級生たちはそのことに気がついていない。
考えを巡らせていたノットが、にわかに話し始めた。
「感情というものは信頼に値しない。決定権を委ねるには、あまりにも不安定すぎる代物だ。ただ……」
私の手の上に、彼の手のひらが重なる。
「僕は、一度手に入れたものは滅多に手放さないし、他人に自分のものを触られるのも好きじゃない。もしかしたら君も、その内の一つかもしれないとは思う」
熱い指先に力が入る。急に時の流れが遅くなったような感覚に陥った。
「……呆れた。私、あなたの羽根ペンじゃないんだけど」
私はゆっくりと自分の手を、彼の手のひらの下から引っこめた。
「申し訳ないけど、あなたの言う誠実さは理解できないわ。偽物でも『愛してる』の方が素敵よ」
嘘だ。本当は蕩けてしまいそうなほどにうれしい。他人との間に、厳しい境界線を設けている彼の本音だもの。ある意味、キスなんかよりもずっと価値がある。
だけど、このまま熱に身を投じるわけにはいかない。だって、今の彼は……。
「乾いた独占欲じゃ、心を引きとめられないわね」
ノットは伏し目がちに私の言葉を聞き流していたが、やがてはっきりとよく通る声でいった。
「でも、君はずっと僕のそばにいただろう」
暖炉の薪がパチッとはぜる。彼は声のトーンを低くした。
「……この二年間」
秘密めいた沈黙が降りてくる。キャラメルの包み紙よりも薄く繊細で、一度突き破ると何もかもが溶けて溢れ出てしまうような。
私はかすかに身をよじった。相変わらず部屋は薄暗くて、暖炉の炎が私たちのシルエットを橙色に浮かび上がらせていた。
「……私ね、あなたといる時の自分が大好きなの」
ノットがまぶたを開く。どうしようもない熱に支配された、彼らしからぬ目。
「おかしな表現だけど、そうとしか言えないわ。あなたと話している時の自分が好き。あなたは私の目を見て頷いてくれるでしょう」
例え私が、他の男の子から相手にすらされない存在であったとしても。
「そうされるとね、なんだか自信が湧いてくるの……。まるで、世界で一番きれいな女の子になったみたいに」
ローファーがころんと横たわる。「占い学」で聞いた。靴を飛ばして横向きに転がった時は雪が降るかもしれないって。べつに気にはしない。この居心地の悪いソファーと暖炉の火があるのなら、それで。
私はソファーの上に膝立ちになって、ノットを見下ろした。
「ねえ、あなたの目に私はどんな風に映っているの?」
薄い唇が少しだけ開く。未知の概念を形どろうとしているかのように。けれど結局言葉にはならなくて、彼は代わりに私の腰を抱き寄せた。
ローブからはみ出したシャツの袖から、石鹸の香りがした。
こういうの、何て言うんだっけ。ああ、そうだ。トレイシーが読んでいる小説に、「情熱の炎に抱かれる」という表現がある。それが本当に存在するのなら、こんな風に熱いに違いない。
いつもよりも荒い息遣いを感じながら、私は杖を取り出した。もしノットが愛の妙薬の湯気を吸いこんだなら、いったいどんな香りを感じるのだろう?
「フィニート・インカンターテム」
全ての時間が止まった。
ノットはぴたりと動かなくなった。呼吸が穏やかになり、きつく巻きついていた腕が緩んでいく。ぼんやりとした表情は覚醒から困惑、冷ややかな理解へと変わってゆき……。最後に、瞳からすっと熱が引いていった。
私はマグカップを差し出した。
「お帰りなさい、ダーリン」
ノットは真顔で、膝の上に乗っかっている私を見つめた。三角帽はへこんで、ローブはぐちゃぐちゃ。隙間からはアイボリー色のネグリジェが見え隠れしている。
「夢から覚めた感想は?」
彼はマグカップの冷たい水を飲みこんだ。
「熱にうなされているみたいだった」
「……そう」
私の返事を聞いて、ノットが眉間にしわを寄せた。耳たぶにかすかな赤みが残っている。
「僕は──」
「べつに何も起こってないわよ。あなたはただ寝っ転がっていただけ。私のことは、そうねえ。……ただのインク壺とでも思ってたみたい」
眉間のしわがますます深くなる。どうやら、下品なジョークだと勘違いしたらしい。
「それで、いたずらはすんだのか?」
黒く沈んだ瞳に、馬乗りになった私の姿が映っている。
……例えば、本の表紙に触れる時の長い指先だとか。
子どもっぽくない雰囲気だとか、怒ると声が掠れて低くなるところだとか、好きな部分を挙げればきりがないけれど、彼の少し病んだ瞳が一番好き。冷たくて、無感情で、等身大の私を見てくれるところが好き。
そんな彼の瞳に映った自分が、何よりも好き。
「まだよ」
私は旅行用の黒いローブを脱ぎ捨てた。
「私、悪魔のカードには頼りたくないの」
三角帽子がひらひらと落ちていく。枯れて縮んだ花びらみたい。私はノットの顔に両手を添えると、にっこりと笑った。
そして、その口の端にそっと口付けた。
例えば、本の表紙に触れる時の長い指先だとか。
子どもっぽくない雰囲気だとか、怒ると声が掠れて低くなるところだとか、好きな部分を挙げればきりがないけれど、やっぱりこれが一番だ。
その日の昼、図書館でのこと。ノットは暗い目で私の顔を見つめた。
「真夜中に談話室へ?」
「うん」
「何のために」
憂鬱という言葉がこんなに似合う人は、他にいないだろう。それくらい目も髪もまっくろで、もったりと重い。ちょこっと突き出ている白い耳はうさぎみたいだ。少し病んでいて、無愛想で、血統を何よりも重んじるうさぎだけど。まあ最後に関しては、本人が血統書付きなのだから仕方がない。
「ハロウィーンの夜はパーティーが開かれるでしょう?私、あなたと参加したいの」
パーティーとはいっても格式高いものではなくて、トレイシー主催の「未来が視える水晶玉」体験だったり、赤いキャンドルの魔術だったり、お遊び程度の催しが開かれるだけだ(たまに本物の闇の魔術が出てくることもあるらしい)。生徒たちは仮装をして、友だちや恋人と思い思いの時間を過ごす。
つまりは非生産的なイベントで、ノットにとってはむだな時間そのもののはずだった。それでも私には彼を誘う権限がある。そう。だって私は……。
「行きたいのなら、君ひとりで行けばいい」
ノットがばっさり切り捨てる。顔にはハッキリと「くだらない」と書いてあった。
「私ひとりで?」
「僕は興味がない」
さすが、セオドール・ノット。恋人が相手であったとしてもまったく容赦がない。だけどこっちだって、そんなことでへこたれるつもりはないんだから。
「あぁ、そう。ハロウィーンも独りぼっちで過ごしなさいってことね。楽しみだわ。クリスマスはどうなることやら」
無愛想なノットの顔が、ますます険しくなっていく。
「何が言いたいんだ」
「さあ。何が言いたいんだと思う?」
「答えになってない」
「もしかして、気づいていないの?私たちが周りから何て言われているか」
両手を組み合わせてテーブルの上に置き、少し身を乗り出してみせる。戦闘開始のサインだ。
「付き合って二年も経つのに、ろくにデートすらしたことがない。二人で一緒にいることも少ない。私たち、『仮面夫婦』って呼ばれているのよ……。笑えるわ。まだ手を繋いで、ホグズミードに行ったことすらないのにね」
べつに、マダム・パディフットの喫茶店に行きたいわけではない。あんなけばけばしくて甘ったるい色の空間、ノットじゃなくたって嫌になると思う。私はただ、彼と一緒に時間を過ごしたいだけなのだ。気の向くままにフラフラと湖のほとりを歩いたり、三本の箒でバタービールを飲んだりして……。
ノットは気だるそうにため息をついた。
「周りの言うことなんて、どうだっていいだろう。君の機嫌はつまらないことに左右されるんだな」
心の奥のどこかで、プツンと糸が切れる音がした。私はたった今、鞄から出したばかりの
「そう。おっしゃりたいことはよーく分かりましたわ。いいわよ、水晶玉の占いもリンゴの魔法も全部ひとりで受けてくるから。私の言ったことは気にしないでね。どうせ大したことじゃないんだし」
「どうでもいいけど、本をそんな風に扱わないでくれ。どれくらいの知識が詰まっていると思って──」
言葉が途中で消えていく。ノットは眉をしかめた。
「ホグワーツの本じゃないな」
「ああ、お気づきでしたか。フローラ・カローが
私は荒っぽく椅子から立ち上がった。
「でも、いいわ。あなたは興味がないようだから。私だって、無理強いはしたくないもの」
彼の暗い瞳が揺らぐ。出てきた言葉は、やっぱり冷ややかなものだった。
「何でそれを先に言わないんだ?」
「言えば、あなたは誘いに乗ってくれたでしょうね。しょせん学術的な目線でしか、物事を測れないんだから。言いたいことはそれだけ?──じゃ、さよなら」
私は彼の手から本をひったくると、上品とは言いがたい足取りで図書室を去った。途中、マダム・ピンスに睨まれたし、ハーマイオニー・グレンジャーとぶつかりそうになったけど、そんなの気にしていられない。
すれ違ったグレンジャーは、かなり苛ついているみたいだった。どうせ、あの赤毛とラベンダー・ブラウンがイチャついてるのが気に食わないんだろう。ウィーズリーなんて放っておけばいいのに。
だけど、私は彼女に話しかけたりはしない。私は純血のスリザリン寮生で、グレンジャーはマグル生まれ。それに、まかり間違って話しかけたところで、彼女はこう言うだろう。
「仕方ないじゃない。お互いに好きになった相手が悪かったんだから」って。
ハロウィーンのディナーが終わったあと、女子寮は着飾ろうとする女の子でいっぱいになった。シャワー室は満員で、鏡はどれもパウダーまみれになって曇っている。
「あなた、パーティーには行かないの?」
制服姿の私を見て、パンジー・パーキンソンが話しかけてきた。白いふわふわのワンピースの裾を、蜘蛛の巣の糸でレースのように縁取っている。
「あとで参加するわ。人が多いのは嫌いだから」
「そう」
彼女は裾を踏まないよう慎重に歩きながら、女子寮を去っていった。さすがに良家のお嬢様たちは、メイクも露出も控えめだ。それでいて、持っている物は全て高級品なのだから侮れない。
私はベッドの上から、様々なモンスターに扮した女の子たちを眺めた。
格差というものは残酷だけど、どんな子でも共通して持っているものがある。それは、一番可愛いのは自分だという自信だ。見た目の美醜に関係なく、女の子なら誰もが心の底に隠している。
口さがない男の子はいう。それは
女子寮から人影が消え始めたころ、私はやっと支度にかかった。いつも通りにシャワーを浴び、いつも通りのネグリジェを着て、真っ黒な旅行用のローブに身を包む。メイクは馴染みのいい、ルビーレッドのルージュだけ。帰ってきてからオフするのが面倒だからだ。
あとは長い髪をシニヨンにして、三角帽子を被れば完成。一応だけど、カローから貸してもらった禁書もポケットに忍ばせた。もしかしたらノットが私を待っていて、仲直りできるかもしれない。
そんな淡い期待が実る……わけもなく。女子寮の入り口近くに立っていたのは、恋人じゃなくてブレーズ・ザビニだった。
「何?その格好」
ザビニは衝撃を受けたような顔をしていた。彼が付き合う子はみんなゴージャスだから、私みたいな地味な女の子が生息しているだなんて、思ってもみなかったのだろう。
「見ての通り『魔女』ですけど。ちょっと、そこを通してくださる?」
ザビニは無言で後ろに下がった。彼が引きとめるのは可愛い子だけだ。幸いにして、私は生まれながらの美人ではない。
パンプキンジュースを飲みながら、文字通り一人きりで談話室を闊歩する。先祖と繋がる降霊術に、燃えるりんごを使ったアップル・ボビング。暖炉の近くでは、仮装をしたカップルたちが「愛の妙薬」の鍋の周りに群がっている。緑色の炎に照らされたゾンビの顔は、恐ろしいほどグロテスクだった。鍋の中身は透き通った真珠色で、近づくと石鹸の香りがした。
どこかで嗅いだことのある匂いだ。でも、いつ覚えたんだろう。ぼうっとしながら、螺旋状の湯気を吸いこんでいると、後ろから肩を叩かれた。
「あなたの未来、視てみませんか?」
「トレイシー!」
トレイシー・ディヴィスは、いかにもな薄紫色のベールを被っていた。トレローニー先生よりもそれらしいし、何ならちょっと可愛い。
「あんなものを使ったって、本当の心は手に入らないわよ」
私は後ろ髪を引かれる思いで、愛の妙薬から目を背けた。
「ノットのことなら、
「今日は一人なの?」
「見ての通り」
私はトレイシーに引きずられるがまま、大小の水晶玉が並ぶテーブルのところまでやってきた。
「さあ、遥かなる未来を覗いてみて。……何が見える?」
私は手のひらサイズの水晶玉を見つめた。向かい側で、タロットカードのシャッフルをうっとりと観察している女の子の顔が映っている。そばでは、ボーイフレンドがうんざりとした様子で立ち尽くしていた。
「ええっと……、若い男女が見える」
トレイシーの目が、かっと見開かれた。
「それで?」
「女性はカードを見てて、あれはきっと……。ちょっと、やだ。すごくいやらしい絵なんだけど」
「きっと、恋人たちのタロットカードね」
トレイシーは、向かい側の占いコーナーをちらっと見た。
「それか、執着を表す悪魔のカードか。まあ、そこはあなた次第って感じだけど。続きは?」
「男性は待ちくたびれてるんだけど、女性の方は気付いていないの。目の前の夢を追いかけるのに必死みたい」
私のでたらめな言葉を聞いて、トレイシーは石像のように動かなくなった。さすがにふざけすぎたのかもしれない。でも、「占い学」での私の生き残り方はこうなのだ。水晶玉の中に未来が視えたことなんて、一度もないのだから。
彼女は水晶玉から視線を外すと、私の手をとった。
「本は持ってるわよね?」
「は?」
「他の人から借りた本があるでしょ。それを持って、今すぐ会いに行って」
トレイシーの口調は、マクゴナガル先生のように厳格だった。
「会いに行くって、誰に?」
「決まってるでしょ。さあ、早く行かなきゃ。でないとあなた、酔っ払ってあそこにいる七年生に食べられちゃうかもしれないわよ。それでもいいの?」
彼女が指差した先には、狼男の仮装をした男の子がいた。蜂蜜酒が入ったグラスを持っていて、何だかネバネバした笑みを顔に貼りつけている。
「嫌。ぜったいに嫌」
「でしょ?だったら、覚悟を決めなさいよ。さあ勇気を出して。ここから出てって」
「え?」
トレイシーに連れられた先は、談話室の外だった。彼女は私の背中を押すと、親指を立ててみせた。
「彼は、あなたが
「ちょっと待ってよ、トレイシー!いったい何が視えたの?」
一晩限りの占い師は妖しく微笑んだ。
「悪魔のカードをどうするかは、あなた次第よ」
「どういう意味?そんなことより私、まだ掲示板を見ていないの。次の合言葉は何──?」
石の扉がするすると閉まる。万事休すだ。談話室への道は永遠に閉ざされてしまった。
小声で呪詛を吐きながら、私は真っ暗なホグワーツの廊下を恐る恐る進んでいった。
合言葉を知らない以上、どうしてもノットに会わなければいけない。灯りをつけたいけれど、ルーモスだとすぐに居場所がバレてしまう。こういったイベントがある日の、先生方の警戒心は異常なのだ。老いぼれフィルチとミセス・ノリス、性悪なピーブズにも気をつけなければならない。
それでも動く階段の危機を乗り越えてからは、ある程度の余裕が出てきた。
──彼は、あなたが
目的地はそう、あったりなかったり部屋だ。去年、ポッターたちが使って以降、この部屋を悪用する輩が増えていた。私とノットもそのうちの一人で、よからぬ魔術を研究するために使っている(ちなみに、エロティックな雰囲気になったことは一度もない)。
やっとの思いで八階に辿りつき、ため息をついていると、ふくらはぎを毛むくじゃらの何かがこすっていった。
私は悲鳴をあげた。ミセス・ノリスだ。彼女が飼い主を呼びにいくのとすれ違いに、全力で廊下を走った。
「おや、生徒を見つけたのかね?」
そう遠くない場所で、フィルチの身の毛もよだつような猫撫で声が聞こえてくる。
「そいつはいけないねえ。見つけたら手首を縛って吊るさねば……」
そういえば、トレイシーがいってたっけ。あいつに捕まっちゃうかもしれないって。多分、最初からこの辺をうろついていたのだろう。夜に徘徊する生徒にとって、あったりなかったり部屋は都合がよすぎるからだ。
私は壁を探りながら、懸命に考えた。「必要の部屋」はどこ?この壁だっけ?どうやって願えばいい?セオドール・ノットが安心して過ごせる部屋だとか?
曲がり角からランタンの光が漏れ、いよいよ観念しかけた時、誰かの腕がぐいっと私のローブをつかんだ。私は声を出す暇もなく、部屋の中に呑みこまれた。
「セオドール?」
「静かに」
落ち着いた声は、確かに恋人のものだ。うれしいやら恥ずかしいやらで、私は床に這いつくばったまま、顔をあげることができなかった。
数秒の沈黙が続いたあと、彼は私の襟をつかんで持ち上げた。
「ねえ、私ってあなたの恋人なのよね?」
私は恨みがましく彼を見上げた。まるで首根っこをつかまれた子猫のような気分だ。
「礼はいらない」
ノットはテディベアを飾るような手つきで私を立たせると、自分はソファーの方へ戻って行った。
私はブツブツ文句を言いながら、辺りを眺め回した。とてつもなく殺風景な部屋だ。本を置くためのローテーブルに、少し大きめのソファーベッド。絨毯の床には、クッションがいくつか転がっている。部屋の広さの割には、どう見ても圧倒的に明かりが足りなくて、唯一明るいのは、ごうごうと燃えている暖炉の炎だけだった。
恋人が落ち合う場所にしては、ロマンチックさが足りない。私はクッションの上に腰を下ろした。
「ここで何をしてたの?」
彼は視線をローテーブルに向けた。数百年分の埃を吸いこんでいそうな本が、何冊も積み上げられている。
「私、あなたが迎えに来てくれると思ってたのに」
「言っただろう。興味がないって」
相変わらずそっけない態度だ。せっかく仲直りをするチャンスなんだから、もう少し寄り添ってくれたらいいのに。そう思うと、たちまち昼間のやりとりが頭の中に蘇って、私はぐっと背筋を正した。
「お話しをしにここに来たわけじゃないの。禁書の魔術を確かめたくってね。ついでだから、あなたも一緒にどう?」
ノットは気難しそうな顔で聞いている。
「べつに、今日の夜じゃなくてもよかったんじゃないか」
「……もしかしたら、ハロウィーン限定の魔術があるかもしれないじゃない」
そんなこと、この私が考えるわけがない。友だちに背中を押されて、仲直りをするためにここへ来たのよ。こんな時くらい察しなさいよ、バカ。
「それで、どうするの。指をくわえて見ているつもり?」
ノットは立ち上がると、私の隣にあぐらをかいた。
「拝読する」
私はドキドキしながら禁書を取り出した。いつもは気にしていないけれど、こうやって近づくと分かる。やっぱり彼は男の子なのだ。ローブを羽織った肩や、すらりと伸びた長い脚。一見すると細く見えるような指でさえ、私の指よりしっかりとしている。
ノットは本を数ページほどめくると、かすかに戸惑いの表情を浮かべた。
「どうしたの?」
「カローはどこでこれを手に入れたんだ?」
「さあ。私が聞いたのは
「大方、フローリシュ・アンド・ブロッツのティーン向けコーナーだろう」
ノットはページを開いて、本を私の方へ向けた。
「どう見ても、これは古代魔術じゃない」
そう、それは確かに古代魔術ではなかった。ふんわりと可愛らしいピンク色のページには、「彼を振り向かせる香水」や「愛の妙薬の種類」、はては「奥手なあの人をその気にさせる方法」まで書いてある。
「外側は確かに専門書の物だ」
ノットは淡々といった。
「だから……、きっと表紙をすり替えたんだろう」
開いた口が塞がらないとはこのことだ。確かに、彼が淡白だと愚痴ったことはあるけれど、まさかフローラ・カローがこんなものをよこしてくるとは。
しかも、よりにもよってそれがノットの目に触れてしまうだなんて、いったい誰が想像しただろう?
私は奪うように本を受け取った。
「持ち主に返してくるわ」
ノットがわずかに眉を上げた。
「フィルチがいるのにか?」
「ただのスクイブでしょ」
「その割には、逃げるのに必死だった」
大人びた横顔をじっと見つめてみる。私のボーイフレンドときたら、急なサプライズにもまったく驚いてないみたい。声も表情も、いつもの冷静な様子を保ったままだった。
焦ったのは私だけなんだ。──そう思うと、急に意地悪な気持ちがムクムクと湧いてきた。だいたい、怒るのもわがままを言うのも、いつも私の方なのだ。たまには照れ笑いの一つくらい、返してくれなきゃ困る。
「……何の真似だ」
私は禁書、もとい恋愛攻略本のページを広げて、ニヤリと笑った。
「トリック・オア・トリート」
「は?」
「今日はハロウィーンでしょう?私、あなたからまだお菓子をもらってないわ」
もちろん、彼がそんなものを用意しているはずがない。ノットがナイフのような鋭い正論を展開する前に、私は一気に畳みかけた。
「あら、逃げるの?」
「君のやろうとしてることは──」
「ふーん、意外と意気地なしなのね。いいわ」
私は本をパタンと閉じた。
「逃げるんだったら、これ以上引きとめはしないわよ。とっとと談話室に帰って──、ああ。ついでに、廊下にいるスクイブと乳操り合ったらいいわ。あなたの相手が務まるのなんて、彼ぐらいしかいないだろうから」
我ながら酷い言い様だ。でも、我慢の限界だったことも確か。私は彼ほど、他人に対して無関心なわけではない。スリザリン寮生たちの嘲笑は鋭いのだ。それでいて、べっとりと後をひくものだからタチが悪い。
ノットの顔からわずかな色が抜け落ちて、紙のような無表情が残った。
「スクイブよりは君の方がマシだな。大差ないが」
もはや、最後の方はほとんど聞き取れなかった。囁きに近い低い声で、わずかに掠れている。
光のない瞳にはどす黒い軽蔑が浮かんでいた。普段なら、マグル生まれにしか見せないその表情に、私は不覚にもときめいてしまった。
「じゃあ、もう一度言うわね。──トリック・オア・トリート!」
「好きにしろ」
「そうねえ。……じゃあ、これはどう?」
私は震える手でページを指差した。緊張と彼の怒りを誘った興奮で、背筋がゾクゾクしている。
「『ちょっと危険な遊び。彼の本音を露わにする魔法』」
「誘惑の呪文か」
「知っているの?」
ノットはあまりうれしそうじゃない顔で頷いた。
「魅惑の呪文の派生だ。呪文をかけられた方は感情的になって、相手に何もかもをさらけ出したい気分になる。そういった点では、支配の魔法に近い」
「服従の呪文と何が違うの?」
長い指が本の挿絵を指し示す。ヤギみたいな邪悪な生き物が、裸の男女を鎖で繋いでいるカードの絵だった。
──悪魔のタロットカードだ。
「インペリオは一方的な支配だ。対して、誘惑の呪文は自ら支配されることを望む。感情も肉体も相手に委ねることで魔法が完成する」
私はローブの前の方をきっちり閉めた。今さら「何もかもをさらけ出す」の意味を理解してしまったのだ。ネグリジェ姿の自分の格好が無防備に思えて仕方がなかった。
「さすがに危険だわ。別の呪文に変えた方が……」
「僕はかまわない」
そう言って、平然と杖を絨毯の上に置く。私はびっくりして、本を落としそうになった。
「ちょっと、それじゃ抵抗できないじゃない」
「『いたずら』するんだろう?」
薄い唇にせせら笑いが浮かぶ。
「誘惑の呪文は難易度が高い。もしかしたら、スクイブの方が君よりも
どうやら、彼はかなり頭にきているようだ。お返しをくらった私の頬は熱くなり、炎のような怒りと羞恥心に苛まれた。
「どうなっても知らないわよ」
ここまで来たら、もう後には引き下がれない。私はノットの暗い目を睨むと、彼の方へ杖を向けた。
「アメラティス・カターラス、虜になれ」
ふわっと薄い霧がノットの顔を包む。まるで花嫁が被るベールのようだ。立ち昇った暖かい金色の風に混じって、オスマンサスの花のような、ねっとり甘い香りも漂ってきた。
彼の瞳が少し曇ったような気がして、私は息を呑んだ。そういえば、ザビニが似たような香水をつけていたっけ。女性をその気にさせる匂いなんて、バカバカしいとマルフォイに笑われていたけど。
そうこうするうちに霧が晴れて、甘いにおいがうっすらとしたものに変わった。私はおそるおそる、恋人の顔を覗きこんだ。
「どう?何か変わったことはある?」
ノットは二、三度瞬きをすると、すぐに苦々しい顔つきになった。
「……気分が悪い」
思わずため息が出る。安堵が半分、ガッカリが半分だ。背中から腰にかけて這っていた、ゾクゾクとした甘いざわめきが消えていった。
「やっぱりね。誘惑の呪文なんて、聞いたことがないもの。あなたならともかく、私の実力じゃ上手くできるはずがないわ」
ローテーブルには飲みかけの紅茶があった。彼は一度冷めてしまったものは好まない。私はマグカップを取ると、消失呪文をかけた。
「冷たい水しか出せないけれど、我慢してね。何かいい呪文を知ってるのなら別だけど」
返事がない。振り向くと、ノットは黙ったまま塞ぎこんでいた。視線を床に向け、あぐらの姿勢でじっと固まっている。
これは嫌な兆候だ。二年生の時、ウィーズリーがナメクジを吐き出した時もこんな感じだった。
「ねえ、ノット。気分が悪いなら横になった方がいいわ。さあ、こっちに来てくれる?」
手招きをしてみせると、ノットは大人しくソファーベッドの上に横たわった。私が知るかぎり、彼がこんなに従順だったことはない。本人の説明通り、あの呪文は「服従の呪文」に近いものなのだろう。そうなるとシュールなおかしさよりも、心配の方が勝ってしまった。
「フィニート・インカンターテムなら、大体の呪文は消せるわよね?」
「ああ」
「じゃあ、じっとしてて。フィニート──」
右手がくいっと引っ張られる。ノットが杖の先を握っていた。
「なに?」
「お祭り騒ぎはごめんだ。でも、静かなところでなら話し合える」
あまりにも唐突な告白だったので、一瞬何のことをいっているのか理解できなかった。私は杖をポケットにしまうと、ソファーベッドの端に浅く腰かけた。
「口下手ね。それで釈明してるつもりなの?」
「……」
「こういう時はね、素直に言えばいいの。『どこかに出かけるよりも二人きりの方がいい。僕は君に興味がないわけじゃないんだ』って」
彼は無言を貫いていた。いつもは理知的で、それでいて少し病んだような目をしているのに、今の彼の瞳は熱に冒されたように潤んでいる。
「いたずらついでに、聞きたいことがあるんだけど。いい?」
ノットが返事をする前に、私は口を開いた。
「あなたって、私のことをどう思ってるの?」
「分からない」
即答だ。呪文をかけられていても、ノットはやっぱりノットのままだった。
私は思わず笑ってしまった。
「ほんと、変なところで正直なのね。普通なら愛してるって言うはずなんだけど」
彼はまっすぐに私の目を見つめた。
「もしそう言われるのを望むのなら、君は僕の誠実さを無下にして、嘘を選ぶということになる」
「あなたは──」
「仮に嘘の方を選んだとして」
ノットは急に上体を起こした。
「それで君は、僕に対して心から『愛してる』と言えるのか?」
目は口ほどに物を言う。口調はいつもとそんなに変わらないけれど、下まぶたがうっすらと赤くなっていた。まるで泣いた後のようだ。彼が涙を流すことがあるのならの話だけど。
私は微笑んだ。
「言えるわよ」
そっと手を伸ばして、その可愛くない頬に触れてみる。ノットはビクッと震えたあと、わずかに身じろぎをした。
「私は小難しいことは考えないの。好きなら好き、愛してるなら愛してる、それだけよ。あなたはどう?」
手のひらに温かい弾力が伝わってくる。これだけ柔らかいということは、やはり彼も人間なのだ。だけど、ほとんどの同級生たちはそのことに気がついていない。
考えを巡らせていたノットが、にわかに話し始めた。
「感情というものは信頼に値しない。決定権を委ねるには、あまりにも不安定すぎる代物だ。ただ……」
私の手の上に、彼の手のひらが重なる。
「僕は、一度手に入れたものは滅多に手放さないし、他人に自分のものを触られるのも好きじゃない。もしかしたら君も、その内の一つかもしれないとは思う」
熱い指先に力が入る。急に時の流れが遅くなったような感覚に陥った。
「……呆れた。私、あなたの羽根ペンじゃないんだけど」
私はゆっくりと自分の手を、彼の手のひらの下から引っこめた。
「申し訳ないけど、あなたの言う誠実さは理解できないわ。偽物でも『愛してる』の方が素敵よ」
嘘だ。本当は蕩けてしまいそうなほどにうれしい。他人との間に、厳しい境界線を設けている彼の本音だもの。ある意味、キスなんかよりもずっと価値がある。
だけど、このまま熱に身を投じるわけにはいかない。だって、今の彼は……。
「乾いた独占欲じゃ、心を引きとめられないわね」
ノットは伏し目がちに私の言葉を聞き流していたが、やがてはっきりとよく通る声でいった。
「でも、君はずっと僕のそばにいただろう」
暖炉の薪がパチッとはぜる。彼は声のトーンを低くした。
「……この二年間」
秘密めいた沈黙が降りてくる。キャラメルの包み紙よりも薄く繊細で、一度突き破ると何もかもが溶けて溢れ出てしまうような。
私はかすかに身をよじった。相変わらず部屋は薄暗くて、暖炉の炎が私たちのシルエットを橙色に浮かび上がらせていた。
「……私ね、あなたといる時の自分が大好きなの」
ノットがまぶたを開く。どうしようもない熱に支配された、彼らしからぬ目。
「おかしな表現だけど、そうとしか言えないわ。あなたと話している時の自分が好き。あなたは私の目を見て頷いてくれるでしょう」
例え私が、他の男の子から相手にすらされない存在であったとしても。
「そうされるとね、なんだか自信が湧いてくるの……。まるで、世界で一番きれいな女の子になったみたいに」
ローファーがころんと横たわる。「占い学」で聞いた。靴を飛ばして横向きに転がった時は雪が降るかもしれないって。べつに気にはしない。この居心地の悪いソファーと暖炉の火があるのなら、それで。
私はソファーの上に膝立ちになって、ノットを見下ろした。
「ねえ、あなたの目に私はどんな風に映っているの?」
薄い唇が少しだけ開く。未知の概念を形どろうとしているかのように。けれど結局言葉にはならなくて、彼は代わりに私の腰を抱き寄せた。
ローブからはみ出したシャツの袖から、石鹸の香りがした。
こういうの、何て言うんだっけ。ああ、そうだ。トレイシーが読んでいる小説に、「情熱の炎に抱かれる」という表現がある。それが本当に存在するのなら、こんな風に熱いに違いない。
いつもよりも荒い息遣いを感じながら、私は杖を取り出した。もしノットが愛の妙薬の湯気を吸いこんだなら、いったいどんな香りを感じるのだろう?
「フィニート・インカンターテム」
全ての時間が止まった。
ノットはぴたりと動かなくなった。呼吸が穏やかになり、きつく巻きついていた腕が緩んでいく。ぼんやりとした表情は覚醒から困惑、冷ややかな理解へと変わってゆき……。最後に、瞳からすっと熱が引いていった。
私はマグカップを差し出した。
「お帰りなさい、ダーリン」
ノットは真顔で、膝の上に乗っかっている私を見つめた。三角帽はへこんで、ローブはぐちゃぐちゃ。隙間からはアイボリー色のネグリジェが見え隠れしている。
「夢から覚めた感想は?」
彼はマグカップの冷たい水を飲みこんだ。
「熱にうなされているみたいだった」
「……そう」
私の返事を聞いて、ノットが眉間にしわを寄せた。耳たぶにかすかな赤みが残っている。
「僕は──」
「べつに何も起こってないわよ。あなたはただ寝っ転がっていただけ。私のことは、そうねえ。……ただのインク壺とでも思ってたみたい」
眉間のしわがますます深くなる。どうやら、下品なジョークだと勘違いしたらしい。
「それで、いたずらはすんだのか?」
黒く沈んだ瞳に、馬乗りになった私の姿が映っている。
……例えば、本の表紙に触れる時の長い指先だとか。
子どもっぽくない雰囲気だとか、怒ると声が掠れて低くなるところだとか、好きな部分を挙げればきりがないけれど、彼の少し病んだ瞳が一番好き。冷たくて、無感情で、等身大の私を見てくれるところが好き。
そんな彼の瞳に映った自分が、何よりも好き。
「まだよ」
私は旅行用の黒いローブを脱ぎ捨てた。
「私、悪魔のカードには頼りたくないの」
三角帽子がひらひらと落ちていく。枯れて縮んだ花びらみたい。私はノットの顔に両手を添えると、にっこりと笑った。
そして、その口の端にそっと口付けた。
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