一年生編
第六章 波乱の暴れ箒
十一月に入ると、穏やかだった空気が一気に冷えこみ始めた。木々は次々と葉っぱを落とし、窓辺から見える湖の景色も、より一層寒々しいものとなった。
冬の眠りへと向かいつつある景色とは対照的に、生徒たちの士気は燃えるように高まっていた。枯れ葉を散らすのは空飛ぶ箒。待ちに待った、クィディッチシーズンの到来だ。
いつもなら冷笑主義を掲げているスリザリンも、この時ばかりはそわそわとしていた。勝ちにこだわる精神は他のどの寮よりも強い。それに今年は、宿敵のチームに新しいシーカーが誕生していた。
マルフォイは悔しさからか、「ポッターは開始早々にブラッジャーにしばかれ、箒ともどもマットレスにぶっ刺さる」であろうという予言を談話室にもたらした。何人もの生徒がそれを聞いていたが、支持をしているのはマーカス・フリントをはじめ、クィディッチチームの連中だけのようだった。
暖炉を占領し、ソファーにふんぞり返って話している彼らを、ハティは恨めしげな目で見つめた。羽ペンは進まず、指先は細い氷柱のように、薄い唇は白っぽく乾いている。
「あいつらがもう一度、バカげた笑い声をあげるようなら……」
羊皮紙にインクが滲んだ。どす黒い血のシミのようだ。
「僕は喜んでグリフィンドールに味方をするね。双子のウィーズリーから、強烈なのを喰らえばいいんだ。でなきゃ、僕が一発ぶっ放してやる」
「どうしてもと言うのなら止めないが、鼻がダンブルドアのようになったとしても文句は言うなよ」
隣に座っているノットがいった。背表紙に時計の絵が描かれた、風変わりな本を読んでいる。宿題はとっくに終えており、つい先ほど二冊目の本を閉じたばかりだ。
「フリントは、ホグワーツでも指折りの愚か者だ。やつにブラッジャーをぶつけたなら、きっと箒の上で踊り出すだろう。そうなったら、君はグリフィンドールの英雄だな」
ノットは杖をひと振りして、ランタンに真っ赤な火を灯した。
「僕との付き合いもそこで終わる」
やけに冷たい口調だ。いつもの話し方より、蛙チョコ三つ分ほどそっけない。
「君、クィディッチに興味があったのかい?」
「スリザリンが勝つに越したことはない。相手がウィーズリーなら、なおさらだ。腐ってもフリントは純血だしね」
もちろん、ウィーズリーだって立派な純血の一族だ。ただ、彼らはマグル生まれに好意的だった。「血を裏切る者」は純血を名乗るに値しない。ノットが言いたいのはそういうことなのだろう。
ハティは大人びた横顔を盗み見た。彼と話すようになってからまだ半月も経っていないが、どうにも引っかかることがある。彼はなぜ、自分が近寄るのを嫌がらないのだろう。
ハティがディーンを庇い、フリントの前で半純血の生徒の肩を持ったことは、スリザリン寮の生徒なら誰もが知っていることだった。行動だけを見れば、ウィーズリー家と同じことをしているのだから、邪険に扱われてもおかしくはないのに。
ふと鋭い視線がハティの額をつき刺した。まあ、いいだろう。友情を続かせるためには、目を瞑らなければいけないこともある。
ハティは羽ペンを置くと、小さなランタンを引き寄せた。図書館に置き去りにされていたもので、ノットが暖をとるために利用し始めたのだ。
「僕は課題さえ仕上がるんだったら何でもいいよ。……ああ、小腹がすいたな。そろそろソルティが帰ってきてもいい頃なんだけど」
時刻は午後三時を回っていた。いつもなら、お気に入りの道を通って、親切な誰かと一緒に談話室に戻ってくる頃合いだ。しかし、愛猫のオレンジ色の毛並みはどこにも見当たらない。
「ソルティなら、グリーングラスの膝の上にいる」
ノットがさらっといった。
「窓際の席だ。パーキンソンたちと一緒に入ってきた」
かくしてハティはクスクス笑っている女の子たちの中へ、猫を探しに行かなくてはならなくなった。ソルティはダフネ・グリーングラスの膝の上に鎮座し、百味ビーンズの胡椒味とカレー味を狙っていた。
「あなたの猫ちゃん、ユニークで可愛いわね」
五分ほど経った頃だろうか。最終的に、ダフネがソルティを抱っこして、ハティに引き渡すことで騒ぎは落ち着いた。
「どうかな。こいつ、外面がいいだけで中身は本当に意地汚いんだ」
ハティは仏頂面の猫を抱えながらいった。
「ソルティ、馴れ馴れしく他の人に擦り寄っちゃだめだって言っただろ」
ソルティは飼い主の叱責をよそに、大きなあくびをした。右目の目尻に、ミリセント・ブルストロードの飼い猫にひっ掻かれた、痛々しい傷跡が残っている。
「グリーングラスだったからよかったけど、あれがブルストロードだったりしたら……。この前、彼女が君のことを何て呼んでいたか知ってる?『色ボケの大毛玉』だよ。分かったら、あの子の猫には手を出すな。べつに、特別かわいいわけじゃないんだから」
ソルティはハティの方にお尻を向けると、ノットの顔を見上げてフンと息を吐いた。ガミガミ叱る飼い主の他に、おやつをくれない人間に対してはかなり無愛想なのだ。元来、猫とはそういう生き物ではあるが。
ノットは負けじと冷たい目で見下ろした。
「君の猫、どうしてこんなに機嫌が悪いんだ?」
「あー。たぶん、フィッシュアンドチップスを取り上げたのがいけなかったんだと思う。あれは油をたくさん使っているからね。せめて、コンビーフ入りのサンドイッチがあれば、もう少しヒゲが伸びて見えるんだけど」
ノットはハティが何を言っているのか、いまいち分かっていないようだった。今日び、彼に理解できない物事などほとんどないのだから、これは珍しい。
「厨房からジャケットポテトを取ってこなきゃ……」
オレンジ色に丸まったしっぽを眺めながら、ハティは呟いた。
「そうしないと僕、ブルストロードにタックルを決められてしまうよ。ノット、君の杖を借りるか……。下手をすれば医務室行きだ」
父に教えられた豆知識が、まさか猫のエサのために役に立つとは思ってもみなかった。
スリザリンとグリフィンドールの試合が始まるその前の日も、ハティは厨房から食べ物をくすねてきていた。
次の授業は野外で行われることになっている。ナプキンで包んだそれをカバンに入れて、急ぎ足で中庭を通りすぎようとしていたところ、グリフィンドールの三人組がくっついている場面に出くわした。
見たところ、三人はちゃんと生きているようだった。ロンとハーマイオニーは火の灯ったジャム瓶を持ち、ハリーは「クィディッチ今昔」を熱心に読み耽っている。
ジャム瓶に宿った炎を見て、ハティは唇を綻ばせた。ノットの作り出した赤い火に凛とした知性が閉じ込められているように、ハーマイオニーの青い炎には、彼女の暖かな心が写しだされていた。
エメラルドグリーンの似合う生徒でなかったならば、自分から話しかけに行くのに。ハティのほぐれそうになった心は、一気にひき締まった。セブルス・スネイプが彼らに近付いていたのだ。
「ポッター、そこに持っているのは何かね?」
先生はお粗末な理由をつけて、グリフィンドールから五点ほど減点した。中庭を「校外」とするのにはあまりにも無理があるとハティは思った。それがまかり通るのなら、ハティやノットは三十点ほど減点されていなければならないはずだ。彼らだって、図書館の本を何度も中庭で開いたのだから。
「クィディッチ今昔」を没収されたハリーは、ぶつぶつと不満をこぼした。
「規則をでっち上げたんだ。今まで中庭で本を開いても、何にも言われなかったんだから。──だけど、あの脚はどうしたんだろう」
ハティは振り返った。スネイプの後ろ姿はすでに小さくなっている。ハリーがいった通り、確かに片脚を引きずっていた。
ロンが悔しそうにいった。
「知るもんか。でも、ものすごく痛いといいよな」
きっと、ものすごく痛いだろう。スネイプ先生なら、ほとんどの傷は自分自身で癒せるはずだからだ。
「ブルストロードにタックルでもされたのか」
その晩、広げていた羊皮紙を見てノットがいった。
「どうしてそう思うの?」
「エピスキーは傷を癒す呪文だ。ハナハッカのエキスやマートラップの触手液もそう。僕なら、手遅れになる前に医務室へ行くけど」
「へえ、さすがだね」
ハティは羊皮紙を畳んだ。スネイプが脚を痛めていることは秘密でも何でもなかったが、なぜか友人には知られたくないと思ったのだ。
「明日はグリフィンドールとの試合だろう?どうせ荒っぽくなるんだから、覚えておいて損はないと思ってね」
「傷を治すのなら、それはマダム・ポンフリーの役目だ」
ノットは、分厚いベーコンを堪能しているソルティを見ながらいった。
「もっと言うと、君は根本的に間違っている。怪我をするのはやつらの方だ。スリザリン寮生じゃない」
ノットの言ったことが正しいのだと悟るのに、そんなに時間はかからなかった。
ハティはスリザリン側の観客席から、複雑な思いで試合を見続けていた。ちょうどスニッチに気付いたハリーに、フリントが横槍を入れたところだ。ニンバス2000はコースを逸れ、ハリーはかろうじて箒にしがみついていた。
「反則だ」
ハティは呟いた。組分け帽子が歌った通りだ。「どんな手段を使っても 目的遂げる狡猾さ」。勝利を手にするためなら、何だってやってみせるらしい。
グリフィンドールの観客は怒り狂っている。実況担当のリー・ジョーダンも、中立を保つのが難しくなってきたようだ。
「えー、誰が見ても胸くその悪くなるような体当たりのあと……」
「ジョーダン!」
マクゴナガル先生が中継を遮る。
「えーっと、不愉快極まりない大げさなファールのあと……」
「ジョーダン、いい加減にしないと──」
「はい、はい。了解です。グリフィンドールのシーカーは、フリントに殺されそうになりました。きっと、よくあるミスなんでしょうね……」
手に汗握る展開が、どんどんと続いていった。選手たちが激しい攻防を繰り広げる中、ハリーは空高く舞い上がり、大人しくブラッジャーをかわしていたが……。
ハティは慌てて双眼鏡を持ち上げた。ニンバス2000の動きがおかしい。まるで暴れ馬のごとく、持ち主を振り落とそうともがいている。
ハリーは上に飛び上がり、下へ急旋回し、空中をジグザグと飛び回った。コントロールを取り戻すどころか、箒にしがみつくのが精いっぱいの様子だ。
ハティは、隣にいるノットをつついた。
「ポッターの箒を見てみろよ。まるで暴れ柳だ」
ノットは眉を少し上げた。
「……変だな。まるで呪文がかかっているみたいだ」
「フリントたちが箒に細工をしたのかな?ポッターの出場を嫌がっていたし」
「まさか」
割れんばかりの大歓声が起こる。スリザリンの得点だ。周りの人たちは、誰も気づいていない。
「箒をどうこうするなんて、闇の魔術を操れるような人間じゃなきゃ無理だ。フリントごときにできるはずがない」
そう言うと、ノットはスリザリンの選手たちの方へ注意を戻した。ハリーが振り落とされようが、地面に叩きつけられようが、心の底からどうでもいいらしい。
その後、ニンバス2000がぐるぐると回り出し、ようやく観客たちが異変に気づき始めた。今やハリーは宙ぶらりんの状態で、双子のウィーズリーが何とかしようと手を伸ばしていたが、それも届かずじまいだった。
「闇の魔術に詳しい人間、か」
双眼鏡を覗きこみながら、ハティは顔をしかめた。誰も見ていないのをいいことに、マーカス・フリントがクァッフルをゴールに入れている。その後ろの観客席では、ほとんどの人がハリーに釘づけになっていた。
心配そうな顔、驚いた顔、恐怖に青ざめた顔、吐きそうな顔。何も考えられない顔から、今にも泣きそうな顔ときて──。
見つけた。ここからそう遠くない場所にいる。
ハティはぎゅっと杖を握ったが、再び双眼鏡にかじりつくはめになった。スネイプ先生のローブの裾から、青い炎が燃え上がっている。そこを中心に観衆は乱れ、クィレル先生はなぜか倒れていた。先に誰かが手を打ったのだ。
確信めいたものを胸に秘めたまま、グリフィンドールの観客席に目を移した。予想通りだ。優等生の彼女がいない。中庭で見かけた、あのジャム瓶の炎を使ったのだろう。
ロンは必死になって空中を見つめていた。ハーマイオニーの作戦が上手くいったのなら、ハリーは箒にまたがることができるはずだ。
ハリーはひらりと箒に飛び乗ると、目にも止まらぬ速さで急降下し始めた。そして、口を押さえながら咳を繰り返し、四つん這いになって着地した。
「ねえ。あいつ、吐くんじゃないの?」
スリザリン側の誰かが、笑いを含んだ声でいった。
その通り、ハリーは口から金色の何かを吐き出した。小さく生えた羽はしおらしくなり、ハリーの手の中で弱々しく震えている。
「何ということだ!ハリー・ポッターがスニッチをキャッチしました!」
ジョーダンが高らかに宣告した。
「グリフィンドールに一五〇点!……ということは、ああ。最高の気分だ……。一七〇対六〇でグリフィンドールの勝利です!」
競技場は大混乱に陥った。スリザリンは試合のやり直しを訴え、グリフィンドールはこれ見よがしに大声で勝利を祝ってみせた。
周りがぶつくさと文句を言うのを聞きながら、ハティは双眼鏡を下ろした。
ハリーは一命を取り留めた。しかし、彼はなぜ狙われなければならなかったのだろう。シーカーが目障りならば、きっと他にもやり方があったはずだ。ニンバス2000がイカれてしまったのは、本当にクィディッチが原因なのだろうか。
十一月に入ると、穏やかだった空気が一気に冷えこみ始めた。木々は次々と葉っぱを落とし、窓辺から見える湖の景色も、より一層寒々しいものとなった。
冬の眠りへと向かいつつある景色とは対照的に、生徒たちの士気は燃えるように高まっていた。枯れ葉を散らすのは空飛ぶ箒。待ちに待った、クィディッチシーズンの到来だ。
いつもなら冷笑主義を掲げているスリザリンも、この時ばかりはそわそわとしていた。勝ちにこだわる精神は他のどの寮よりも強い。それに今年は、宿敵のチームに新しいシーカーが誕生していた。
マルフォイは悔しさからか、「ポッターは開始早々にブラッジャーにしばかれ、箒ともどもマットレスにぶっ刺さる」であろうという予言を談話室にもたらした。何人もの生徒がそれを聞いていたが、支持をしているのはマーカス・フリントをはじめ、クィディッチチームの連中だけのようだった。
暖炉を占領し、ソファーにふんぞり返って話している彼らを、ハティは恨めしげな目で見つめた。羽ペンは進まず、指先は細い氷柱のように、薄い唇は白っぽく乾いている。
「あいつらがもう一度、バカげた笑い声をあげるようなら……」
羊皮紙にインクが滲んだ。どす黒い血のシミのようだ。
「僕は喜んでグリフィンドールに味方をするね。双子のウィーズリーから、強烈なのを喰らえばいいんだ。でなきゃ、僕が一発ぶっ放してやる」
「どうしてもと言うのなら止めないが、鼻がダンブルドアのようになったとしても文句は言うなよ」
隣に座っているノットがいった。背表紙に時計の絵が描かれた、風変わりな本を読んでいる。宿題はとっくに終えており、つい先ほど二冊目の本を閉じたばかりだ。
「フリントは、ホグワーツでも指折りの愚か者だ。やつにブラッジャーをぶつけたなら、きっと箒の上で踊り出すだろう。そうなったら、君はグリフィンドールの英雄だな」
ノットは杖をひと振りして、ランタンに真っ赤な火を灯した。
「僕との付き合いもそこで終わる」
やけに冷たい口調だ。いつもの話し方より、蛙チョコ三つ分ほどそっけない。
「君、クィディッチに興味があったのかい?」
「スリザリンが勝つに越したことはない。相手がウィーズリーなら、なおさらだ。腐ってもフリントは純血だしね」
もちろん、ウィーズリーだって立派な純血の一族だ。ただ、彼らはマグル生まれに好意的だった。「血を裏切る者」は純血を名乗るに値しない。ノットが言いたいのはそういうことなのだろう。
ハティは大人びた横顔を盗み見た。彼と話すようになってからまだ半月も経っていないが、どうにも引っかかることがある。彼はなぜ、自分が近寄るのを嫌がらないのだろう。
ハティがディーンを庇い、フリントの前で半純血の生徒の肩を持ったことは、スリザリン寮の生徒なら誰もが知っていることだった。行動だけを見れば、ウィーズリー家と同じことをしているのだから、邪険に扱われてもおかしくはないのに。
ふと鋭い視線がハティの額をつき刺した。まあ、いいだろう。友情を続かせるためには、目を瞑らなければいけないこともある。
ハティは羽ペンを置くと、小さなランタンを引き寄せた。図書館に置き去りにされていたもので、ノットが暖をとるために利用し始めたのだ。
「僕は課題さえ仕上がるんだったら何でもいいよ。……ああ、小腹がすいたな。そろそろソルティが帰ってきてもいい頃なんだけど」
時刻は午後三時を回っていた。いつもなら、お気に入りの道を通って、親切な誰かと一緒に談話室に戻ってくる頃合いだ。しかし、愛猫のオレンジ色の毛並みはどこにも見当たらない。
「ソルティなら、グリーングラスの膝の上にいる」
ノットがさらっといった。
「窓際の席だ。パーキンソンたちと一緒に入ってきた」
かくしてハティはクスクス笑っている女の子たちの中へ、猫を探しに行かなくてはならなくなった。ソルティはダフネ・グリーングラスの膝の上に鎮座し、百味ビーンズの胡椒味とカレー味を狙っていた。
「あなたの猫ちゃん、ユニークで可愛いわね」
五分ほど経った頃だろうか。最終的に、ダフネがソルティを抱っこして、ハティに引き渡すことで騒ぎは落ち着いた。
「どうかな。こいつ、外面がいいだけで中身は本当に意地汚いんだ」
ハティは仏頂面の猫を抱えながらいった。
「ソルティ、馴れ馴れしく他の人に擦り寄っちゃだめだって言っただろ」
ソルティは飼い主の叱責をよそに、大きなあくびをした。右目の目尻に、ミリセント・ブルストロードの飼い猫にひっ掻かれた、痛々しい傷跡が残っている。
「グリーングラスだったからよかったけど、あれがブルストロードだったりしたら……。この前、彼女が君のことを何て呼んでいたか知ってる?『色ボケの大毛玉』だよ。分かったら、あの子の猫には手を出すな。べつに、特別かわいいわけじゃないんだから」
ソルティはハティの方にお尻を向けると、ノットの顔を見上げてフンと息を吐いた。ガミガミ叱る飼い主の他に、おやつをくれない人間に対してはかなり無愛想なのだ。元来、猫とはそういう生き物ではあるが。
ノットは負けじと冷たい目で見下ろした。
「君の猫、どうしてこんなに機嫌が悪いんだ?」
「あー。たぶん、フィッシュアンドチップスを取り上げたのがいけなかったんだと思う。あれは油をたくさん使っているからね。せめて、コンビーフ入りのサンドイッチがあれば、もう少しヒゲが伸びて見えるんだけど」
ノットはハティが何を言っているのか、いまいち分かっていないようだった。今日び、彼に理解できない物事などほとんどないのだから、これは珍しい。
「厨房からジャケットポテトを取ってこなきゃ……」
オレンジ色に丸まったしっぽを眺めながら、ハティは呟いた。
「そうしないと僕、ブルストロードにタックルを決められてしまうよ。ノット、君の杖を借りるか……。下手をすれば医務室行きだ」
父に教えられた豆知識が、まさか猫のエサのために役に立つとは思ってもみなかった。
スリザリンとグリフィンドールの試合が始まるその前の日も、ハティは厨房から食べ物をくすねてきていた。
次の授業は野外で行われることになっている。ナプキンで包んだそれをカバンに入れて、急ぎ足で中庭を通りすぎようとしていたところ、グリフィンドールの三人組がくっついている場面に出くわした。
見たところ、三人はちゃんと生きているようだった。ロンとハーマイオニーは火の灯ったジャム瓶を持ち、ハリーは「クィディッチ今昔」を熱心に読み耽っている。
ジャム瓶に宿った炎を見て、ハティは唇を綻ばせた。ノットの作り出した赤い火に凛とした知性が閉じ込められているように、ハーマイオニーの青い炎には、彼女の暖かな心が写しだされていた。
エメラルドグリーンの似合う生徒でなかったならば、自分から話しかけに行くのに。ハティのほぐれそうになった心は、一気にひき締まった。セブルス・スネイプが彼らに近付いていたのだ。
「ポッター、そこに持っているのは何かね?」
先生はお粗末な理由をつけて、グリフィンドールから五点ほど減点した。中庭を「校外」とするのにはあまりにも無理があるとハティは思った。それがまかり通るのなら、ハティやノットは三十点ほど減点されていなければならないはずだ。彼らだって、図書館の本を何度も中庭で開いたのだから。
「クィディッチ今昔」を没収されたハリーは、ぶつぶつと不満をこぼした。
「規則をでっち上げたんだ。今まで中庭で本を開いても、何にも言われなかったんだから。──だけど、あの脚はどうしたんだろう」
ハティは振り返った。スネイプの後ろ姿はすでに小さくなっている。ハリーがいった通り、確かに片脚を引きずっていた。
ロンが悔しそうにいった。
「知るもんか。でも、ものすごく痛いといいよな」
きっと、ものすごく痛いだろう。スネイプ先生なら、ほとんどの傷は自分自身で癒せるはずだからだ。
「ブルストロードにタックルでもされたのか」
その晩、広げていた羊皮紙を見てノットがいった。
「どうしてそう思うの?」
「エピスキーは傷を癒す呪文だ。ハナハッカのエキスやマートラップの触手液もそう。僕なら、手遅れになる前に医務室へ行くけど」
「へえ、さすがだね」
ハティは羊皮紙を畳んだ。スネイプが脚を痛めていることは秘密でも何でもなかったが、なぜか友人には知られたくないと思ったのだ。
「明日はグリフィンドールとの試合だろう?どうせ荒っぽくなるんだから、覚えておいて損はないと思ってね」
「傷を治すのなら、それはマダム・ポンフリーの役目だ」
ノットは、分厚いベーコンを堪能しているソルティを見ながらいった。
「もっと言うと、君は根本的に間違っている。怪我をするのはやつらの方だ。スリザリン寮生じゃない」
ノットの言ったことが正しいのだと悟るのに、そんなに時間はかからなかった。
ハティはスリザリン側の観客席から、複雑な思いで試合を見続けていた。ちょうどスニッチに気付いたハリーに、フリントが横槍を入れたところだ。ニンバス2000はコースを逸れ、ハリーはかろうじて箒にしがみついていた。
「反則だ」
ハティは呟いた。組分け帽子が歌った通りだ。「どんな手段を使っても 目的遂げる狡猾さ」。勝利を手にするためなら、何だってやってみせるらしい。
グリフィンドールの観客は怒り狂っている。実況担当のリー・ジョーダンも、中立を保つのが難しくなってきたようだ。
「えー、誰が見ても胸くその悪くなるような体当たりのあと……」
「ジョーダン!」
マクゴナガル先生が中継を遮る。
「えーっと、不愉快極まりない大げさなファールのあと……」
「ジョーダン、いい加減にしないと──」
「はい、はい。了解です。グリフィンドールのシーカーは、フリントに殺されそうになりました。きっと、よくあるミスなんでしょうね……」
手に汗握る展開が、どんどんと続いていった。選手たちが激しい攻防を繰り広げる中、ハリーは空高く舞い上がり、大人しくブラッジャーをかわしていたが……。
ハティは慌てて双眼鏡を持ち上げた。ニンバス2000の動きがおかしい。まるで暴れ馬のごとく、持ち主を振り落とそうともがいている。
ハリーは上に飛び上がり、下へ急旋回し、空中をジグザグと飛び回った。コントロールを取り戻すどころか、箒にしがみつくのが精いっぱいの様子だ。
ハティは、隣にいるノットをつついた。
「ポッターの箒を見てみろよ。まるで暴れ柳だ」
ノットは眉を少し上げた。
「……変だな。まるで呪文がかかっているみたいだ」
「フリントたちが箒に細工をしたのかな?ポッターの出場を嫌がっていたし」
「まさか」
割れんばかりの大歓声が起こる。スリザリンの得点だ。周りの人たちは、誰も気づいていない。
「箒をどうこうするなんて、闇の魔術を操れるような人間じゃなきゃ無理だ。フリントごときにできるはずがない」
そう言うと、ノットはスリザリンの選手たちの方へ注意を戻した。ハリーが振り落とされようが、地面に叩きつけられようが、心の底からどうでもいいらしい。
その後、ニンバス2000がぐるぐると回り出し、ようやく観客たちが異変に気づき始めた。今やハリーは宙ぶらりんの状態で、双子のウィーズリーが何とかしようと手を伸ばしていたが、それも届かずじまいだった。
「闇の魔術に詳しい人間、か」
双眼鏡を覗きこみながら、ハティは顔をしかめた。誰も見ていないのをいいことに、マーカス・フリントがクァッフルをゴールに入れている。その後ろの観客席では、ほとんどの人がハリーに釘づけになっていた。
心配そうな顔、驚いた顔、恐怖に青ざめた顔、吐きそうな顔。何も考えられない顔から、今にも泣きそうな顔ときて──。
見つけた。ここからそう遠くない場所にいる。
ハティはぎゅっと杖を握ったが、再び双眼鏡にかじりつくはめになった。スネイプ先生のローブの裾から、青い炎が燃え上がっている。そこを中心に観衆は乱れ、クィレル先生はなぜか倒れていた。先に誰かが手を打ったのだ。
確信めいたものを胸に秘めたまま、グリフィンドールの観客席に目を移した。予想通りだ。優等生の彼女がいない。中庭で見かけた、あのジャム瓶の炎を使ったのだろう。
ロンは必死になって空中を見つめていた。ハーマイオニーの作戦が上手くいったのなら、ハリーは箒にまたがることができるはずだ。
ハリーはひらりと箒に飛び乗ると、目にも止まらぬ速さで急降下し始めた。そして、口を押さえながら咳を繰り返し、四つん這いになって着地した。
「ねえ。あいつ、吐くんじゃないの?」
スリザリン側の誰かが、笑いを含んだ声でいった。
その通り、ハリーは口から金色の何かを吐き出した。小さく生えた羽はしおらしくなり、ハリーの手の中で弱々しく震えている。
「何ということだ!ハリー・ポッターがスニッチをキャッチしました!」
ジョーダンが高らかに宣告した。
「グリフィンドールに一五〇点!……ということは、ああ。最高の気分だ……。一七〇対六〇でグリフィンドールの勝利です!」
競技場は大混乱に陥った。スリザリンは試合のやり直しを訴え、グリフィンドールはこれ見よがしに大声で勝利を祝ってみせた。
周りがぶつくさと文句を言うのを聞きながら、ハティは双眼鏡を下ろした。
ハリーは一命を取り留めた。しかし、彼はなぜ狙われなければならなかったのだろう。シーカーが目障りならば、きっと他にもやり方があったはずだ。ニンバス2000がイカれてしまったのは、本当にクィディッチが原因なのだろうか。
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