一年生編
第二章 坊っちゃん同士の睨み合い
家族に別れを告げたあと、ハティは赤毛の双子の手を借りて(「お安い御用!」と彼らは口を揃えていった)、何とかトランクを列車の戸口まで持ち込むことに成功した。
震える腕で荷物を棚に押しこみ、硬い座席に身を預ける。
汽車の中は十代の子どもたちの興奮した囁き声で満たされていた。体の大きな男子生徒の群れに、輝くようなブロンドの髪の女の子。みな期待に満ち溢れた顔で、ハティがいるコンパートメントの前を通り過ぎていく。
これからは、彼らと一緒に同じ屋根の下で学ぶのだ。頭でっかちな魔法生物研究者の息子と、仲良くしてくれる子がいるだろうか。
ふと目を伏せた時に、扉をノックする音が聞こえた。
「ごめん、ここに座らせてもらってもいい?他はどこもいっぱいなんだ」
扉から顔を出したのは、澄んだ瞳の男の子だった。滑らかなエスプレッソ色の肌に黒い髪。丸い頬には、小さなえくぼができている。
「どうぞ」
できる限りの朗らかさをもって、ハティは微笑んだ。唇が変にひきつっているが、この際気にしてはいられない。
男の子は小さく頭を下げると、通路に向かって声をかけた。
「アーニー、ここ、空いてるって!僕たちと同じ新入生がいるよ」
呼びかけに答えて現れたのは、小太りの金髪の男の子だった。
「ああ、よかった。大変だったんだ。どこもかしこも上級生だらけで」
男の子は気取った声でいうと、ハティの格好をまじまじと見つめた。
「もしかして、君もマグルなの?」
「いや、魔法族の生まれだよ。ハティ・フォウリーだ」
ハティは右手を差し出して、二人と握手をした。
「君たちの名前は?」
「僕はアーノルド・マクミラン。こっちは──」
「ディーン・トーマスだよ。よろしく」
ディーンがにっこりと笑った。
「僕の知っているフォウリーは、一つしかないんだけど」
アーニーが向かい側の席に座りながら、話し始めた。
「フォウリーって、あのフォウリー家かい?聖28一支族の」
「そう。『派手なフォウリー』の子孫だよ。そういう君は、あのマクミラン家の子だろう?」
「そう大した家系じゃないさ。君の家に比べればね」
アーニーは芝居がかった仕草で、肩をすくめた。
「僕たちは魔法と一緒に育ってきたけど、ディーンは違うんだ。彼はマグル出身なんだよ」
「本当かい?」
「うん」
ディーンは屈託なく頷いた。
「僕、その──。何だっけ。マグル?のことすら知らないんだ」
「きっと、すぐに分かるさ。その前に腹ごしらえをしようよ」
アーニーの提案で車内販売のワゴンを見に行くと、しばらくはたくさんのお菓子に夢中になった。ハティはかぼちゃパイと、魔女の大鍋ケーキをひと山買った。母のお墨付きで、家でもときどき食べていたのだ。
「あ!気をつけて」
アーニーがディーンの右手を押さえた。見ると、バーティー・ボッツの百味ビーンズを探っている。
「それ、ほとんどは大丈夫なんだけど、たまに変なのが混じってるんだ……。僕、鼻くそ味に当たったことがある」
ディーンは目を見開いた。
「鼻くそ味?」
「べつに珍しくはないだろう」
ハティは袋からアイボリー色のビーンズを取り出した。
「耳くそ味とか、石けん味とか。マグルにはないの?……これはいけそうだけど」
アーニーがニヤッと笑う。
「どう、何の味?」
「腐った卵かな」
ディーンが言葉を失った時、コンパートメントに来客が現れた。丸顔の気弱そうな男の子で、ペットのヒキガエルを探しているらしい。
「僕の意見だと、ヒキガエルは少し時代遅れなような気がするね」
男の子が去ったあとに、アーニーがハティに耳打ちをした。
「きっと、あの子はおじいちゃんっ子なんだよ。歳をくったじいさんじゃない限り、普通ならフクロウを欲しがるはずだ」
「もしかしたら、おばあちゃんっ子かもしれないけどね」
「ねえ、ヒキガエルってペットになるの?」
「もちろん」
マグル生まれの純粋な問いに、ハティが速攻で答える。ディーンは蛙チョコのカードを握りしめていたが、やがて沈んだ声で話し始めた。
「僕、魔法界のことは全然知らないんだ。ホグワーツの組分けが試験で決まるなら、きっと一番バカな寮に入るだろうな」
「いや、そうとは限らないよ」
アーニーが訳知り顔でいった。
「マグル生まれの子なんて、たくさんいるからね。それに僕は、試験なんてないんじゃないかと思ってる。だって、どう考えてもフェアじゃないだろ?あんなのは上級生たちが考えた嘘っぱちさ。僕らを怖がらせて楽しんでるんだ」
「そうかなぁ」
「そうに決まってるさ。寮を決めるにしても、きっとこう、何か選択肢があるはずだよ。僕はレイブンクローがいいなぁ。頭のいい人ばっかが集まるって噂だ。ハティ、君は?」
ハティは、ダンブルドアのカードから顔を上げた。実をいうと、ハッフルパフに入るのを前提に育ってきたため、組分けについて悩んだことがなかったのだ。
「うーん、どうだろう。僕の家系はみなハッフルパフと決まっているからね。少なくとも、グリフィンドールはないな。僕の気質には合わないような気がする」
「同感だ。勇敢な騎士になんてなれないよ」
アーニーは杖を剣に見立てて、退屈そうに振り回した。
「ま、どこに入ろうが大した違いはないけど、スリザリンだけはやめておいた方がいいね。だって、あの寮は──」
「おや、なぜやめておいた方がいいのかな?」
三人はいっせいに出口の方を見た。どうやらヒキガエル探しのあの子は、扉をきちんと閉めずに去ったらしい。半開きになった隙間から、気取った青白い顔がハティたちを見下ろしている。
見るからに甘ったれの坊ちゃんだ。尖った顎をくいっと上に向け、プラチナブロンドの髪を額に撫でつけている。決して醜いわけではないが、無意識に人を見下すような傲慢さが、まるで香水のように全身から立ち昇っていた。
彼は扉を完全に開けると、全員の顔を品定めするように眺め始めた。
「僕には分からないねえ。スリザリンは最も優れた魔法使いを出す寮だ。あそこに入る生徒は、ほとんどが名門の子たちなんだよ。それだけでも、他の寮よりは優秀だと分かりそうなものだけど。万が一、間違ってハッフルパフに入れられたりなんかすれば……」
アーニーの方へ向けられていた目が、一瞬だけハティを掠めた。
「僕なら、退学する方を選ぶね。恥ずかしいったらありゃしない」
甘ったれの性根の腐った坊ちゃんだ。ハティはそう結論づけた。どうやら扉が開いているのをいいことに、盗み聞きをしていたらしい。
ディーンが反論しようとすぐさま立ち上がったが、隣に座っていたアーニーに小声で制された。
「よく見ろって」
もちろん、お坊っちゃまが一人で威張るはずがない。彼の後ろには、岩のような体つきのボディーガードが二人、立っていた。おそらくは取り巻きなのだろうが、トロール並みに頭が悪そうだ。リーダーが声を上げさえすれば、手加減なしに相手をぺしゃんこにしてしまうに違いない。
アーニーの判断は正しい。ハティは青白い子に向かって、軽く頭を下げた。
「貴重なご意見をありがとう。その気になれば参考にさせて頂くよ。ところで、何の用?」
「別に。人探しをしていたら、たまたま君たちの話が聞こえてきたんでね。どうやら、ここにハリー・ポッターはいないようだ──」
「ハリー・ポッター?」
アーニーが大きな声で遮った。興奮で杖の先が入りそうなほど、鼻の穴が広がっている。
「『生き残った男の子』の、あのハリー・ポッター?ホグワーツに入学するの?」
「君、今さら知ったのかい」
男の子は呆れたような、見下した笑みを顔に浮かべた。
「僕の周りじゃ、二時間前には噂が広がっていたよ。どこのコンパートメントでも、この話題で持ちきりさ。何せ、『例のあの人』に勝ったんだからね。みんな、彼に話しかけたくて必死になってる」
一連の流れを不思議そうに見ていたディーンが、ハティの方へ身を乗り出してきた。
「ねえ、ハリー・ポッターって誰?」
ほんの小さな囁き声だったが、彼は聞き逃さなかった。男の子は即座にディーンの方へ向くと、鼻の頭にうっすらとしわを寄せた。
「ハリーポッターを知らない?そんな子がいるだなんて信じられないね。まともに生きていれば、一度くらいは名前を聞くはずだろう」
ディーンの顔が再び険しくなった。
「悪いけど、これでもまともに生きてきたつもりだよ。魔法については最近知っただけでね」
「最近……?」
男の子の唇の動きがぴたっと止まる。理解が深まるにつれて、彼の顔に嘲りの色がありありと現れた。
「そうか、まともじゃないはずだ。つまり君は──」
「ハリー・ポッターなら、この辺りにはいないと思うよ」
ハティがやんわりと遮った。
「いるのなら、今ごろ大騒ぎになっているはずだ。この辺はどこも満室だからね。奥の方を探してみたらどうだい?」
男の子は胸の悪くなるような笑顔を引っこめて、じっとハティの目を見つめた。
「もし、嫌だといったら?」
ハティはゆっくりと立ち上がった。
「丁重にお引き取り願うよう、君に命令させて頂く」
コンパートメントの狭い空間に、見えない火花が散った。
ハティは男の子が自分に対してそうしたように、じっくりと彼を観察した。子分二人に比べれば、親玉の体つきは年相応だ。手足はほっそりと品がよく、ハティよりも二インチほど彼の方が小さい。
無言のまま近付くと、男の子は警戒するように後ずさった。
「君ごときが、僕に命令できると思うのかい」
「簡単さ」
「いい度胸だな。君、どこの家の子なんだ?父上に言って脅しにいってやる」
「あいにくだけど」
ハティは声を大きくした。
「このコンパートメントは満員なんだ。君のお友だちには狭すぎるだろうし、僕は君のお父上に興味がない。どうか、他のところをあたってくれ」
男の子は何かをいいかけたが、フンと鼻を鳴らした。
「……いいだろう。どうせ、君たちに用はないからね」
吐き捨てるようにそう言うと、踵を返す。現れた時と同じく唐突に彼らは去っていった。
「……嫌なやつ」
全員が腰を下ろしたあと、ディーンが呟いた。
「僕、あいつとは仲良くなれないな。どうもムカつく野郎だ。組分けの時は、スリザリンにならないように努力するよ」
「その方がいい」
アーニーが、たった今息を吹き返したかのように喋り始めた。
「スリザリンは、闇の魔法使いを多く出してきた寮なんだ。たしか、『例のあの人』もそこの出身だったって聞いたよ。あの人の手下もたっくさん。まあ、あの人はハリー・ポッターに倒されたんだけどね……」
ハティは、大げさなハリー・ポッターの英雄譚が語られるのを、ぼんやりと聞き流した。
もし、あの子と同じ寮に選ばれたら?不意に、そんな考えが頭をよぎったのだ。
性質上、グリフィンドールはとても合うようには思えず、レイブンクローに選ばれるほど優秀でもない。スリザリンは嫌な人間の巣窟だ。しかし、野心を持たない者に居場所はないと聞く。
だとすれば、自分の行くべき道はやはり……。
「ハティ、大丈夫?」
ディーンが心配そうに顔を覗きこんでくる。
「あ、うん。何だっけ?」
「僕たち、着替えなきゃ。もうそろそろホグワーツに着くんだって」
ハティは手早く服を替えると、ローブに不慣れなディーンの着替えを手伝った。
「何だか、葬式みたいじゃない?」
彼の言う通り、首に通したネクタイはまっ黒だった。これから何色に染まるかは運次第だ。
「僕、やっぱりハッフルパフがいい。父さんと同じ寮へ入るよ」
「君なら行けるさ」
アーニーが大欠伸をしながら、お気楽な様子でいった。
「だって、何も考えずに過ごしてりゃいいんだから。フォウリー家の子はみんな、ハッフルパフに組み分けされる。そうだろ?」
「……うん」
ハティはネクタイをきっちり締めると、トランクを引きずって、コンパートメントを出た。