二年生編
第六章 マグル贔屓の決意
不思議な人だ。ハティは一段飛ばしで階段を降りていった。
見るからに優等生、それもスリザリンの寮の生徒だというのに、嫌味っぽさがまったくない。リドルは親しみやすく魅力的な一方で、深い謎に包まれていた。
彼は今までどこに「囚われていた」のだろう?恵まれた容姿ならば、それだけでも目立つのが常だ。ハッフルパフのディゴリーのように、噂になってもいいはずなのだが。
「ハニー、急いだ方がいいわ。次の舞台が始まる前に」
窓の近くにかかっていた絵画から、バレリーナが声をかけてきた。いつもなら眠っているか、トゥシューズと格闘している女性だ。
ハティはちょっと立ち止まって、頭を軽く下げた。
「外の様子はどうだった?」
「今日はずっと雨になりそうだ。そっちの調子は?」
「上々よ」
「よかった。この辺で誰かを見かけなかった?あの、フィルチとか」
おそるおそる尋ねると、踊り子は赤い唇を綻ばせた。
「心配しないで。ここには来ていないわ。私もあの人は嫌い。品性のかけらもないもの」
「じゃあ、ハンサムなゴーストはどうだい?」
「見てないわね。可愛らしい女の子なら、そこを降りていったけど」
踊り子は眉をひそめて、優雅なステップを踏んだ。
「きっとあの子、スランプに陥ってるんだわ」
「スランプ?」
「ええ、眠りながら歩いていたんですもの。間違いないわ。寝言も呟いてたし」
彼女は「当たり前でしょう?」といいたげに目を見開いた。
「表現者がかかる最初の病気よ。私の友だちなんて、毎晩いびきをかきながら踊ってるわ」
「ジニー・ウィーズリーがバレエ好きだなんて、聞いたことがないけどな」
もしそうなら、パーキンソンあたりが黙っちゃいないだろう。スリザリンにおけるウィーズリー家の扱いは、時にマグル生まれに対するものよりも酷くなることがある。
無事に塔から抜け出すころには、玄関ホールは熱狂する生徒たちでぎゅう詰めになっていた。グリフィンドールにハッフルパフ、何とレイブンクローの生徒までもが勝利の歌を口ずさんでいる。
結果は一目瞭然だ。
「残念だったな」
テリー・ブートがすれ違いざまに話しかけてくる。アンソニー・ゴールドスタインと並んで、弔いの花でも手向けてきそうな表情だ。
「君たちがそう言うってことは、今年も『生き残った男の子』が活躍したんだね」
「ま、正義の勝利ってとこかな」
「そこ、どいてくれる?」
二人の間を割って現れたのは、ミリセント・ブルストロードだった。
「やあ、ブルストロード」
ブートが穏やかに声をかける。ブルストロードはちらっと彼の方を見たが、反応を示さなかった。
「フォウリー、どこに行ってたの?トレイシーが探してたよ。今度こそどっちが勝つかあんたに賭けてもらうって」
「それじゃあ、君は得をしたな」
ゴールドスタインがポンポンと肩を叩いてくる。
「グリフィンドールが相手なら、どんな賭けだったとしてもボロ負けだ」
「そんなに酷かったの?」
「酷いも何も、完璧な敗北さ」
ブートがとうとう気遣いの心をかなぐり捨てた。興奮で頬がわずかに上気している。
「かたや最新型の箒で、かたや寄せ集め。おまけにグリフィンドールのシーカーにはブラッジャーがつきまとっていたから、かなり恵まれてたんだ。双子はポッターを守るのに必死でね。スリザリンは六十点リードしたんだけど──」
「もうけっこう」
早口でまくし立てていた彼を、ミリセントが恐ろしい形相で睨みつけた。
「悪いけど、あんたたちはお呼びじゃないの。消え失せて」
二人はさっさと逃げていった。ブルストロードが鼻息を荒くしている隣で、ハティは首を傾げた。
「ブラッジャーがつきまとってたって?」
「そう。うちの誰かが細工したんだと思う。ポッターは腕の骨をやられたのに、スニッチを取ったってわけ。大した根性よね」
そのあと、ロックハートに骨を抜かれたんだけど。とっておきの話のオチを、ハティは聞いていなかった。きっとドビーの仕業だ。次に会った時は諌めなければ。
「それで、僕ら以外は喜んでるのか」
「レイブンクローもお優しいわ。授業では媚びてくるくせに、すーぐ手のひらを返すんだから……。ちょっと、何よこれ」
地下への階段を降りようとすると、突如目の前を色鮮やかな火花が飛び散った。グリフィンドールの一年生たちが、入り口の上の手すりから派手な横断幕を掲げている。チカチカ光っているのは、真紅のローブを着たハリーの絵だ。その下には、「ポッターに永遠 の栄光を」と書かれていた。
ハティは彼らに向かって、ハンカチを振り返してみせた。
「ずいぶんと謙虚な子たちだな」
「そりゃそうよ」
ブルストロードは挑戦的に顎を上げた。湿気で髪が広がっているせいか、いつも以上に手強そうだ。
「グリフィンドールが調子に乗らないなんてありえる?寮の対抗杯を奪ってからは、ずっとあんな感じでしょ。ダンブルドアもやってくれたものよね」
ハティの心にじっとりと苦いものが広がった。
あれはハリーのための救済措置だ。けれど、彼女の気持ちもよく分かる。あの晩、スリザリン寮生の努力は無かったことにされてしまった。クィレル先生は犠牲者ではなく、ちんけな悪者として葬られたのだ。
「今年は報われると信じてるよ。でなきゃ、他の寮の連中もダンブルドアも絶交だ」
「うちでダンブルドアを嫌ってないのって、あんたくらいしかいないけどね。まあ、いいんじゃない。ちょっとでも自分の寮を好きになれたんだったら」
「どういう意味?」
ブルストロードは、ガラス玉のような目をハティに向けた。
「フォウリー家はハッフルパフの名家だし、あんたはマグル生まれに優しすぎる。スリザリンを嫌がってても変じゃないでしょ」
「そりゃまあ、骨の髄まで愛してるとは言えないけどさ」
「どう思おうがあんたの勝手だけど、今日だけは大人しくしててよね。みんな落ちこんでるんだから。えーっと、合言葉は……」
「カエルヴァルジン、マーリンの砦」
合言葉をいい終わらないうちに、石の扉がするすると開いた。ザビニが腕を組んで立っている。見たところ、かなり苛立ちを募らせているようだ。
「君たち!どこをほっつき歩いてたんだ」
「玄関ホールでレイブンクローの連中を蹴散らしてたの。何か問題でも?」
ブルストロードがすました顔で答える。ザビニの目がますますつり上がった。
「問題があるかって?じゃあ逆に聞くけど、問題がないとでも思ってるのか?ブルストロード、君の猫が爪を引っかけてくれたおかげで、僕のローブはボロボロだ。トウィルフィット・アンド・タッティングで揃えた限定品だぞ!」
「あらまあ」
「それから、フォウリー。君にも言いたいことがある。飼い猫にガールフレンドをけしかけるなって伝えておけ。まったく、大した策略家だよ。あの毛玉は」
「ついて来いよ」。そう言うと、ザビニは早足で談話室の方へ向かった。残された二人は顔を見合わせた。
「『大した策略家』ねえ。しっぽのないソルティみたいなくせして、よく言うわ」
ハティは吹き出したが、その笑顔は談話室へ入った途端に消えていった。
こんなに荒れた部屋は見たことがない。絨毯の上、椅子の下、水中人 が泳ぐ窓のそば。いたるところに油まみれのチップスが散乱している。彫刻入りの椅子がひっくり返り、シルクのクッションは引き裂かれて、空中に大量の羽毛が舞っていた。
そして、この臭 いだ。誰かがこっそり仕入れたファイアウィスキー──祝杯がヤケ酒用に早変わりだ──が、ソファーに小汚い染みを作り出している。
ハティはためらいなく杖をポケットから出した。
「テルジオ、拭え。……二日酔いの天使と取っ組み合いでもしたのかい?」
「悪魔だ。どう見たってあれは聖なる使いじゃない」
ザビニの目線が反対の方向へ移る。とっ散らかった部屋のど真ん中、クラッブがスリザリンの気高き猫たちと格闘していた。
「ああ、もう。勘弁してよ」
ブルストロードが呻く。彼女の猫はクラッブのズボンに爪を立て、今にも引き裂かんとばかりに尻からぶら下がっていた。ソルティはというと、肩の上に乗っかって残り少ない無傷のチップスを狙っている。
「ソルティ!」
ハティは野次馬をかき分け、大股でずんずん近づいていった。
「僕に尻拭いをさせるつもりか?よりにもよって、クラッブのランチに手を出すだなんて!」
「ランチじゃない。デザートだ」
口を挟んだのはクラッブではなかった。すぐそばのテーブルでノットが優雅に杖を振っている。
「何してるの?」
「君がくれたチェスの駒を調べてる」
ノットは鼻に目がけて飛んできたそれを、片手でキャッチした。
「僕の予想が正しければ、攻撃呪文がかかってるみたいだな」
よく見れば、床に散らばっているのはチップスだけではなかった。親指ほどのチェスの駒が、剣を振り回して生徒たちを追い立てている。スカートに飛びついてきたナイトを、パーキンソンが分厚い本で叩き返した。ゴイルはふくらはぎを標的にされ、狂ったように逃げ惑っている。
別の戦場では、ブルストロードがクラッブの腰にタックルをかましていた。熟考の末、力づくで飼い猫を引きはがす方法をとったらしい。
ハティは額に手を当てた。このまま倒れることができたなら、どれだけ楽になれるだろう。
「一番クールそうな君に聞くよ。いったい何があったんだい?」
「ザビニとチェスをしていたら、テーブルにクラッブが突っこんできた」
ノットの説明は簡潔だった。
「ブルストロードの猫に足首を噛まれたらしい。巻き添えでザビニも引っかかれてたけど」
「ああ、怒ってたよ。限定品のローブがダメになったって」
「皆の衆、進め!敵など恐るるに足りず!」
白磁の馬に乗った騎士が叫ぶ。そいつは剣を振り上げ、果敢にもノットの指を斬りつけようとした。
「タラントアレグラ、踊れ」
ノットはちょっぴり眉を上げて、呪文を唱えた。
「クラッブの方は放っておいてもいい。問題はこの駒だ。大抵の呪文は効くようだけど、フィニートだけが通じない」
「それは厄介だな。アクシオ、チェスの駒」
ハティは覚えたばかりの呼び寄せ呪文で、踊り狂っているナイトを手中に収めた。馬の蹄が激しくタップを踏み、乗り手もろとも上下に揺れている。
「こんな、ことでっ!それがしの……っ、意志は、揺らがんぞ!」
騎士が兜の中でゼイゼイ息を漏らした。
「ああ、そうだろうね。できればあと二時間は踊ってもらいたいところだけど。──フィニート・インカンターテム」
蹄の小気味よいステップが止まる。騎士は馬から転がり落ち、ハティの手のひらの上に両手をついた。
「敵に情けをかけられるとは……。何たる恥辱!」
「ほんとだ。君のかけた呪文だけが解除されてるな」
意思を持っているかのように見えるモノ、例えば一定の時間に歌い出す時計や、顔を映すたびに文句を垂れてくる鏡などは、魔法によって言葉を紡ぎだしている。本来ならその呪文を解いてしまえば、喋る無機物はただの無機物へ戻る、はずなのだが。
「もしかしたら僕、面倒なものをプレゼントしちゃったのかも」
ノットは黙ったままだ。ハティは慌てて、乗り物酔いでへばっているナイトを押しつけた。
「返品は受けつけてないからね。贈り物は気持ちが大事だ、ウン」
「呼び寄せ呪文」
「え?」
ノットはてきぱきと喚いている駒を片付けた。
「アクシオだ。四年生で習う呪文だから、君の杖には負担が重かったはずだが。いつ練習したんだ?」
「あー、最近かな」
ハティはダフネにまとわりついていた駒を呼び寄せた。
「そんなに難しい呪文じゃないんだ、多分。君だって、さっき使っていただろう」
「僕と君とでは習得の速さが違う。あの凍結呪文だって、悲惨極まりなかったはずだけど。ソルティのヒゲを凍らせたのは誰だったっけ?」
「あれは凍ってない。半なま だった」
「お二人さん、お熱いところ大変申し訳ないんですけどね」
ザビニがイライラと口を挟んだ。
「君たちのおかげで、かなり刺激的なムードになってるんだ。クィディッチチームの連中が帰ってくる前に、早いとこ片をつけないと──」
「俺らが何だって?」
マーカス・フリントのドラ声が響き渡る。生徒たちは一斉に身を硬くした。先ほどまでの騒ぎが嘘だったかのように、談話室が静かになった。
「何なんだ、この有り様は」
女子生徒から根強い支持を得ているチェイサー、エイドリアン・ピュシーが口を開いた。
「まるでグリフィンドールの談話室じゃないか。しかもこっちはボロ負けしたっていうのに、とんだバカ騒ぎだ。上品なスリザリンが聞いて呆れるよ」
ハティはいたたまれない気持ちになった。ピュシーは公正な人柄で、スリザリン寮生にしては珍しくフェアプレイを好む。いわば蛇の良心ともいうべきその人を、自分の不手際で怒らせてしまったのが申し訳なかった。
各々が俯いたその時、ビリッという嫌な音が聞こえた。クラッブが小さく唸っている。とうとうズボンが破けてしまったらしい。
間近で見ていたトレイシーが、悲鳴とも笑いともつかない声を出した。ゴム製のアヒルのおもちゃみたいだった。
「……まあ、いいか」
ピュシーは重いため息をついた。
「こんな時くらい笑えることがないと、やってられないよな」
凍りついた空気が溶けていく。選手たちは生徒の中に混じって、チェスの駒を回収し始めた。ハティはクラッブとともに散らばったポテトを集めていった。
一緒になった彼は少し恥じ入っていたが、ハティが丁寧に謝罪をし、クリスマスにお菓子の大箱を贈ることを約束すると、すぐに機嫌を直した。
「俺より、ドラコの方が大変だ」
クラッブはヒソヒソと囁いた。
「フリントがすっごく怒ってる。いっちばんのチャンスをむだにしたって」
ドラコは暖炉からほど遠いテーブルで目立たないように座っていたが、やがてふらりと談話室から出ていった。
「ドラコ!」
パーキンソンが甲高い声で叫んだ。両手にはおよそ似つかわしくない、ホグワーツの古書が握られている。
「ドラコ、待って!……フォウリー、これ」
「これ、って。君の本だろ。カバンにしまってこいよ」
「あなた、本気で言ってるの?」
パーキンソンは呆れたように目を回した。
「そんな埃くさい本、私が読むわけないじゃない。その辺にあったから使っただけよ。じゃあ、戻しておいてね」
それだけを早口でいうと、彼女は急いで談話室から出ていった。残されたハティは本を小脇に抱えて、せっせとチェスの駒を呼び寄せた。
「ドラコはかなり落ちこんでるみたいだね」
「ああ。ポッターと遊ぶのに必死で、スニッチに気づかなかったからな」
ザビニが嫌味たっぷりに返した。
「自業自得だよ。先を考えずに動くからこうなるんだ。少しは反省した方がいいと思うね」
「そうか」
それでも、試合で勝ちたいと思う気持ちに嘘はなかったはずだ。スネイプ先生と話していた時のドラコは真剣だった。箒に乗ることを純粋に楽しんでいて、喜びに満ち溢れていた。
ハティは彼が消えていった方を眺めた。何しろあんなに甘ったれなのだ。身内の人間に批判されたのは初めてに違いない。
クッションを直していたノットが、顔を上げた。
「先に言っておくよ。それは君の役割じゃない」
「……分かってるさ」
夕食の席にもドラコは現れなかった。もっとも、懸命な判断だったといえるだろう。グリフィンドールの浮かれ騒ぎのせいで、スリザリン寮生たちは早々にナイフを置くはめになったからだ。
シャワーを浴びて、まんべんなくピッカピカになったあと、ハティはアンティークのベッドに横たわった。
意識を失う前に、確かめておきたいことがある。蛇の卵は静かな眠りについていた。熱の名残を内側に留め、薄布のような霜をまとっている。瓶越しのひんやりとした冷たさが、指先に心地いい。
ソルティが瓶のにおいを嗅いだ。目の前の卵が、ポーチドエッグに値するかどうかを見極めているようだ。
ハティはそのオレンジ色の眉間をくすぐった。それにしても、せわしない土曜日だった。ノットの誕生日から始まって、ドビーとの再会、アッシュワインダーの最期、スリザリンチームの敗北。
チェス駒の反乱には興味をそそられたが、一番の収穫はあの監督生だ。トム・リドル、見たこともないご先祖様の友。次はいつ会えるのだろう。
チェス盤を膝の上に乗せ、一人でゲームを進めていたノットが、動きを止めた。
「まさかとは思うけど、それ、アッシュワインダーの卵か?」
「そう。すごいだろ」
ハティは得意げな顔で、クリスタルの瓶を掲げた。
「女子トイレで孵化したんだ。ホグワーツで成功させたのは僕だけだろうな。ほら、触ってもいいよ。君には特別に見せてあげる」
「哀れだな」
「何が」
ハティがいつもの無表情に戻ったのを見て、ノットは頭を振った。
「スネイプ教授だよ。目立たない問題児をあと五年も見張ってなきゃならないなんて、気の毒だ」
「心外だなあ。君、僕が引きずられるところを見たことがないだろう?それはそれは可哀想なんだから」
「僕が教授なら、君を禁じられた森に放りこむね。その方がずっと安全だ」
ノットは無慈悲な言葉で締めくくった。
「卵を量産しようなんて、バカな考えを抱いているのなら──」
「ご心配なく。これ一つで十分さ」
何しろ手間がかかりすぎる。卒業までスネイプの目をかいくぐる自信はないし、アッシュワインダーの最期はあまりにも儚かった。
「今度はバンディマンを捕まえようと思ってるんだ。僕の家はマギーが綺麗にしてくれるから、実物を見たことがないんだよ」
友人からは何も返ってこなかった。もはや呆れすぎて言葉も出ないらしい。
ハティは上機嫌で茶色い革の本を開いた。予期せぬ戦利品、パーキンソンから託された本だ。
「うぇっ」
表紙を開くと、ミイラも同然のクモが悪趣味な栞のように挟まっていた。その死骸の下に仰々しく標題が記されている。「ホグワーツ 荘厳かつキテレツな城を往く」、なんともまあ、退屈そうなタイトルだ。
ところが、いい意味で予想は裏切られた。著者はなかなかに優れた書き手だった。ホグワーツ城の建築構造、これは興味深い。著者によると、この城の八階には必要に応じて消えたり現れたりする部屋があるらしい。トイレは十八世紀にマグルの技術を取り入れてできたものだ。動く階段の厄介な魔法は、邪悪なユーモアをもって故意に仕掛けられた。
いったい、誰がこんな本を借りたのだろう。貸し出しの署名を見て、ハティは眉をひそめた。最後の名前は「サリー=アン・パークス」となっている。聞き覚えのない名前だ。
「『マグル学』でも専攻するつもりか?」
棘を含んだ声にハティは顔を上げた。ノットがベッドの柱にもたれかかっている。手のひらの中で、例のチェスの駒がキーキー叫んでいた。
「この本を知ってるの?」
「スリザリン寮生ならまず借りない代物だ。チャリティ・バーベッジが課題図書に選んでいるからね」
「でも、君は読んだことがある」
ハティからの反撃に、ノットはほろ苦い微笑で応えた。
「穢れた血に対して、あざ笑うだけで十分だと?」
「他の連中はそう思ってるみたいだけど」
「何にせよまずは知ることから始めるべきだ。排除するか、無関心を貫くかはそのあとで決めればいい」
「で、君は無関心をとった」
「ああ、やつらにそれほどの価値はないからな」
やはり彼は徹底した純血思想の持ち主だった。ある意味、ドラコよりも過激だ。「マグルといえば穢れた血だし、穢れた血といえばマグルだ。それ以上の意味はない」……。
ハーマイオニーの生き生きとした表情を思い出して、ハティは胸がきゅっと締めつけられるのを感じた。
「でも、考えてごらんよ。マグルの技術がなければ、僕らはフクロウのように垂れ流しだったんだよ。トイレどころかシャワーすらなかったんだから」
「自分の穢れさえ始末することのできない連中の技術だ。そんなものを評価する方がどうかしている」
「そうかな?」
自らの口調が反抗的になっていくのを、ハティは止めることができなかった。
「みんながみんな、僕のようにバカだとは限らないよ。例えば、ダンブルドアは偉大な魔法使いだ」
「ああ。それに、筋金入りのマグル贔屓だ。ドラコが追い出したがるわけだな」
ノットは静かに返した。子どもらしからぬ落ちつきぶりで、完璧に感情を飼い慣らしている。
彼は正確さをもって、ハティの痛いところを突いた。
「同じ理由で君のことも煙たがってる。真正面から言わないのは、君が上手く立ち回っているからだ」
「裏切り者には死を」。チェスの騎士が厳かに呟く。その時ソルティがすっくと立ち上がり、二人に向かってひと声鳴いた。まるで優しくたしなめているかのようだ。
それを合図に、ノットは自分のベッドへ戻っていった。
最後の明かりが消えた真夜中、ハティは落ち着きなく寝返りを打った。
先ほどは危うく口論になるところだった。ソルティには、山盛りのチップスを贈ってやらねば。クラッブの安心と談話室の平和を保つためにも。
夜の帷の中、エメラルドグリーンの世界は色褪せて闇に沈んでいた。絹をあしらったベッドの天蓋に、湖からの光がチラチラと揺れている。
ノットが変わったわけではない。彼は出会った時から血統を重んじていた。苛立っていたのはハティの方だ。ロジエール家の存在が、じわじわと心の中で大きくなりつつある。流れる血がどうであろうが、自分が自分であることには変わりがないはずなのに。
──さて、君はエバンとドゥルーエラ、どちらの孫かな。
リドルの面白がる声が聞こえてくるようだった。彼がこの葛藤を知ったら、何というだろう。やはり多くのスリザリン寮生たちと同じように、贅沢な悩みだと鼻を鳴らすのだろうか。
不意に天蓋に写っていた光が、さっと消えた。視界を覆うようにして、不恰好な影がこちらを見下ろしている。くるみ大の目玉が二つ、暗闇の中で瞬いた。
「こんばんは──」
ハティは素早く相手の口を塞いだ。パジャマのポケットに杖を差し、忍び足で部屋を出る。
談話室には誰もいなかった。ソファーの特等席も空っぽだ。
「インセンディオ」
オレンジ色の火花が杖の先から躍り出た。寒い夜には暖炉の炎が不可欠だ。とりわけ、薄着の屋敷しもべ妖精がそばにいる時には。
ハティは困惑の表情でドビーを眺めた。
「どうしたんだい?ここは君の坊ちゃまがいる寮なんだよ。誰かに見つかりでもしたら……」
「ドビーめはご報告に参りましたのです、ハティ・フォウリー!」
甲高い声が暗い地下室に響き渡る。ハティは人差し指を唇に押し当てた。
「シーッ。でも、そうだね。連絡手段を考えてなかったな。どうにかして方法を見つけなきゃ……。そういえば、変なブラッジャーがハリーをつけ回してたって聞いたんだけど」
ドビーは見る間にしおらしくなり、こちらの顔色を伺いながら、ポツポツと白状をし始めた。ブラッジャーに細工をしたこと、ケガをしたハリーに会いに行ったこと、秘密の部屋についてうっかり口を滑らしてしまったこと……。
ハティはめまいを起こしそうになった。あのハリー・ポッターに重要な秘密を分け与えてしまったとは。痛恨のミスだ。
「ドビー、ハリーは生粋のグリフィンドール寮生なんだ。ちょっとの危険じゃ怯まないよ。君だって、彼を殺したくはないだろう?」
「もちろんです!」
「だったら、僕の言うことを聞いてくれ。当分、ハリーの前に現れるのはやめた方がいい。ねえ、そんな顔をしないでよ──。君はミスター・マルフォイの動きを見張っていて。何かあったら僕に教えてほしい」
継承者の動向を知るためにも。そう続けていった時、ドビーの顔に緊張が走った。
「もう手遅れかもしれません、ハティ・フォウリー……。犠牲者が出てしまったのです」
「何だって!?」
今度はハティが注意される番だった。ドビーいわく、医務室でハリーと話していた時に、こちらへ向かってくる複数の声を聞きつけたらしい。
「その声は何て言ってたの?」
「はっきりとは聞こえませんでしたが、『石になった』と。トビーめはそのあとに姿をくらましたのでございます」
「ミセス・ノリスの時と同じだな」
それなら、命までは奪われていない。最悪の結果は免れたわけだ。
ハティは下唇をゆっくりと湿らせた。部屋の存在は伝説のまま、犯人の目処もついておらず、ヒントは以前にも開かれたという事実のみ。そんな状態で、ハリーが犠牲者の存在に気付いてしまった。
彼の勇敢さは止まることを知らない。必ずや秘密の部屋について嗅ぎ回るだろう。危険から遠ざけたいというドビーの願いは、叶いそうになかった。
「ありがとう、ドビー」
ハティは包帯を巻いた手を優しく握った。
「僕の方も頑張って調べてみるよ。しばらくは厨房で落ち合おう。あそこなら目立たないし、ハウスエルフたちも口が固いから」
ドビーはやはり恐怖に慄いていたが、しっかりと頷いた。
「どうかお気をつけて。ホグワーツは危険に晒されています!」
「大丈夫だよ、僕は純血だから。ついでにスリザリン寮生だし」
ハティの言葉を聞き終える前に、ドビーは姿をくらました。相変わらずせっかちだ。さよならの挨拶くらいしてくれたってかまわないのに。
ところが、寮への入り口が開いたのを見て、ハティはとっさに座り直した。ドビーは誰かの足音を聞いていたのだ。──しかも、現れたのはドラコだった。
「やあ、今日は冷えるね」
ドラコはじろっとハティを睨んだ。
「こんな時間に何を?」
いつも通りの彼だ。敗北はドラコの気力を奪いはしたが、弱音を吐くほど追い詰めてはいないらしい。
「眠れないから暖まりにきたんだよ。君も一緒にどう?」
「誰が君なんかと」
ドラコはそう吐き捨てると、回れ右をして男子寮の方へと戻っていった。後ろの髪の毛が整ったままだ。おそらく、まだ一度も横になっていないのだろう。
燃え盛る炎の前で、ハティは前下がりの髪を無造作にかき上げた。
マグル贔屓は嫌われ者だ。友人と考えを共有することも、傷付いた心に寄り添うことも許されない。
それでも、筋を通さねばならない時がある。
空が白み始めたころ、ハティは決然と立ち上がった。一秒でも早く、秘密の部屋の継承者を見つけ出さなければ。どのような理由が潜んでいようとも、純血思想の犠牲者などあってはならない。決して。
不思議な人だ。ハティは一段飛ばしで階段を降りていった。
見るからに優等生、それもスリザリンの寮の生徒だというのに、嫌味っぽさがまったくない。リドルは親しみやすく魅力的な一方で、深い謎に包まれていた。
彼は今までどこに「囚われていた」のだろう?恵まれた容姿ならば、それだけでも目立つのが常だ。ハッフルパフのディゴリーのように、噂になってもいいはずなのだが。
「ハニー、急いだ方がいいわ。次の舞台が始まる前に」
窓の近くにかかっていた絵画から、バレリーナが声をかけてきた。いつもなら眠っているか、トゥシューズと格闘している女性だ。
ハティはちょっと立ち止まって、頭を軽く下げた。
「外の様子はどうだった?」
「今日はずっと雨になりそうだ。そっちの調子は?」
「上々よ」
「よかった。この辺で誰かを見かけなかった?あの、フィルチとか」
おそるおそる尋ねると、踊り子は赤い唇を綻ばせた。
「心配しないで。ここには来ていないわ。私もあの人は嫌い。品性のかけらもないもの」
「じゃあ、ハンサムなゴーストはどうだい?」
「見てないわね。可愛らしい女の子なら、そこを降りていったけど」
踊り子は眉をひそめて、優雅なステップを踏んだ。
「きっとあの子、スランプに陥ってるんだわ」
「スランプ?」
「ええ、眠りながら歩いていたんですもの。間違いないわ。寝言も呟いてたし」
彼女は「当たり前でしょう?」といいたげに目を見開いた。
「表現者がかかる最初の病気よ。私の友だちなんて、毎晩いびきをかきながら踊ってるわ」
「ジニー・ウィーズリーがバレエ好きだなんて、聞いたことがないけどな」
もしそうなら、パーキンソンあたりが黙っちゃいないだろう。スリザリンにおけるウィーズリー家の扱いは、時にマグル生まれに対するものよりも酷くなることがある。
無事に塔から抜け出すころには、玄関ホールは熱狂する生徒たちでぎゅう詰めになっていた。グリフィンドールにハッフルパフ、何とレイブンクローの生徒までもが勝利の歌を口ずさんでいる。
結果は一目瞭然だ。
「残念だったな」
テリー・ブートがすれ違いざまに話しかけてくる。アンソニー・ゴールドスタインと並んで、弔いの花でも手向けてきそうな表情だ。
「君たちがそう言うってことは、今年も『生き残った男の子』が活躍したんだね」
「ま、正義の勝利ってとこかな」
「そこ、どいてくれる?」
二人の間を割って現れたのは、ミリセント・ブルストロードだった。
「やあ、ブルストロード」
ブートが穏やかに声をかける。ブルストロードはちらっと彼の方を見たが、反応を示さなかった。
「フォウリー、どこに行ってたの?トレイシーが探してたよ。今度こそどっちが勝つかあんたに賭けてもらうって」
「それじゃあ、君は得をしたな」
ゴールドスタインがポンポンと肩を叩いてくる。
「グリフィンドールが相手なら、どんな賭けだったとしてもボロ負けだ」
「そんなに酷かったの?」
「酷いも何も、完璧な敗北さ」
ブートがとうとう気遣いの心をかなぐり捨てた。興奮で頬がわずかに上気している。
「かたや最新型の箒で、かたや寄せ集め。おまけにグリフィンドールのシーカーにはブラッジャーがつきまとっていたから、かなり恵まれてたんだ。双子はポッターを守るのに必死でね。スリザリンは六十点リードしたんだけど──」
「もうけっこう」
早口でまくし立てていた彼を、ミリセントが恐ろしい形相で睨みつけた。
「悪いけど、あんたたちはお呼びじゃないの。消え失せて」
二人はさっさと逃げていった。ブルストロードが鼻息を荒くしている隣で、ハティは首を傾げた。
「ブラッジャーがつきまとってたって?」
「そう。うちの誰かが細工したんだと思う。ポッターは腕の骨をやられたのに、スニッチを取ったってわけ。大した根性よね」
そのあと、ロックハートに骨を抜かれたんだけど。とっておきの話のオチを、ハティは聞いていなかった。きっとドビーの仕業だ。次に会った時は諌めなければ。
「それで、僕ら以外は喜んでるのか」
「レイブンクローもお優しいわ。授業では媚びてくるくせに、すーぐ手のひらを返すんだから……。ちょっと、何よこれ」
地下への階段を降りようとすると、突如目の前を色鮮やかな火花が飛び散った。グリフィンドールの一年生たちが、入り口の上の手すりから派手な横断幕を掲げている。チカチカ光っているのは、真紅のローブを着たハリーの絵だ。その下には、「ポッターに
ハティは彼らに向かって、ハンカチを振り返してみせた。
「ずいぶんと謙虚な子たちだな」
「そりゃそうよ」
ブルストロードは挑戦的に顎を上げた。湿気で髪が広がっているせいか、いつも以上に手強そうだ。
「グリフィンドールが調子に乗らないなんてありえる?寮の対抗杯を奪ってからは、ずっとあんな感じでしょ。ダンブルドアもやってくれたものよね」
ハティの心にじっとりと苦いものが広がった。
あれはハリーのための救済措置だ。けれど、彼女の気持ちもよく分かる。あの晩、スリザリン寮生の努力は無かったことにされてしまった。クィレル先生は犠牲者ではなく、ちんけな悪者として葬られたのだ。
「今年は報われると信じてるよ。でなきゃ、他の寮の連中もダンブルドアも絶交だ」
「うちでダンブルドアを嫌ってないのって、あんたくらいしかいないけどね。まあ、いいんじゃない。ちょっとでも自分の寮を好きになれたんだったら」
「どういう意味?」
ブルストロードは、ガラス玉のような目をハティに向けた。
「フォウリー家はハッフルパフの名家だし、あんたはマグル生まれに優しすぎる。スリザリンを嫌がってても変じゃないでしょ」
「そりゃまあ、骨の髄まで愛してるとは言えないけどさ」
「どう思おうがあんたの勝手だけど、今日だけは大人しくしててよね。みんな落ちこんでるんだから。えーっと、合言葉は……」
「カエルヴァルジン、マーリンの砦」
合言葉をいい終わらないうちに、石の扉がするすると開いた。ザビニが腕を組んで立っている。見たところ、かなり苛立ちを募らせているようだ。
「君たち!どこをほっつき歩いてたんだ」
「玄関ホールでレイブンクローの連中を蹴散らしてたの。何か問題でも?」
ブルストロードがすました顔で答える。ザビニの目がますますつり上がった。
「問題があるかって?じゃあ逆に聞くけど、問題がないとでも思ってるのか?ブルストロード、君の猫が爪を引っかけてくれたおかげで、僕のローブはボロボロだ。トウィルフィット・アンド・タッティングで揃えた限定品だぞ!」
「あらまあ」
「それから、フォウリー。君にも言いたいことがある。飼い猫にガールフレンドをけしかけるなって伝えておけ。まったく、大した策略家だよ。あの毛玉は」
「ついて来いよ」。そう言うと、ザビニは早足で談話室の方へ向かった。残された二人は顔を見合わせた。
「『大した策略家』ねえ。しっぽのないソルティみたいなくせして、よく言うわ」
ハティは吹き出したが、その笑顔は談話室へ入った途端に消えていった。
こんなに荒れた部屋は見たことがない。絨毯の上、椅子の下、
そして、この
ハティはためらいなく杖をポケットから出した。
「テルジオ、拭え。……二日酔いの天使と取っ組み合いでもしたのかい?」
「悪魔だ。どう見たってあれは聖なる使いじゃない」
ザビニの目線が反対の方向へ移る。とっ散らかった部屋のど真ん中、クラッブがスリザリンの気高き猫たちと格闘していた。
「ああ、もう。勘弁してよ」
ブルストロードが呻く。彼女の猫はクラッブのズボンに爪を立て、今にも引き裂かんとばかりに尻からぶら下がっていた。ソルティはというと、肩の上に乗っかって残り少ない無傷のチップスを狙っている。
「ソルティ!」
ハティは野次馬をかき分け、大股でずんずん近づいていった。
「僕に尻拭いをさせるつもりか?よりにもよって、クラッブのランチに手を出すだなんて!」
「ランチじゃない。デザートだ」
口を挟んだのはクラッブではなかった。すぐそばのテーブルでノットが優雅に杖を振っている。
「何してるの?」
「君がくれたチェスの駒を調べてる」
ノットは鼻に目がけて飛んできたそれを、片手でキャッチした。
「僕の予想が正しければ、攻撃呪文がかかってるみたいだな」
よく見れば、床に散らばっているのはチップスだけではなかった。親指ほどのチェスの駒が、剣を振り回して生徒たちを追い立てている。スカートに飛びついてきたナイトを、パーキンソンが分厚い本で叩き返した。ゴイルはふくらはぎを標的にされ、狂ったように逃げ惑っている。
別の戦場では、ブルストロードがクラッブの腰にタックルをかましていた。熟考の末、力づくで飼い猫を引きはがす方法をとったらしい。
ハティは額に手を当てた。このまま倒れることができたなら、どれだけ楽になれるだろう。
「一番クールそうな君に聞くよ。いったい何があったんだい?」
「ザビニとチェスをしていたら、テーブルにクラッブが突っこんできた」
ノットの説明は簡潔だった。
「ブルストロードの猫に足首を噛まれたらしい。巻き添えでザビニも引っかかれてたけど」
「ああ、怒ってたよ。限定品のローブがダメになったって」
「皆の衆、進め!敵など恐るるに足りず!」
白磁の馬に乗った騎士が叫ぶ。そいつは剣を振り上げ、果敢にもノットの指を斬りつけようとした。
「タラントアレグラ、踊れ」
ノットはちょっぴり眉を上げて、呪文を唱えた。
「クラッブの方は放っておいてもいい。問題はこの駒だ。大抵の呪文は効くようだけど、フィニートだけが通じない」
「それは厄介だな。アクシオ、チェスの駒」
ハティは覚えたばかりの呼び寄せ呪文で、踊り狂っているナイトを手中に収めた。馬の蹄が激しくタップを踏み、乗り手もろとも上下に揺れている。
「こんな、ことでっ!それがしの……っ、意志は、揺らがんぞ!」
騎士が兜の中でゼイゼイ息を漏らした。
「ああ、そうだろうね。できればあと二時間は踊ってもらいたいところだけど。──フィニート・インカンターテム」
蹄の小気味よいステップが止まる。騎士は馬から転がり落ち、ハティの手のひらの上に両手をついた。
「敵に情けをかけられるとは……。何たる恥辱!」
「ほんとだ。君のかけた呪文だけが解除されてるな」
意思を持っているかのように見えるモノ、例えば一定の時間に歌い出す時計や、顔を映すたびに文句を垂れてくる鏡などは、魔法によって言葉を紡ぎだしている。本来ならその呪文を解いてしまえば、喋る無機物はただの無機物へ戻る、はずなのだが。
「もしかしたら僕、面倒なものをプレゼントしちゃったのかも」
ノットは黙ったままだ。ハティは慌てて、乗り物酔いでへばっているナイトを押しつけた。
「返品は受けつけてないからね。贈り物は気持ちが大事だ、ウン」
「呼び寄せ呪文」
「え?」
ノットはてきぱきと喚いている駒を片付けた。
「アクシオだ。四年生で習う呪文だから、君の杖には負担が重かったはずだが。いつ練習したんだ?」
「あー、最近かな」
ハティはダフネにまとわりついていた駒を呼び寄せた。
「そんなに難しい呪文じゃないんだ、多分。君だって、さっき使っていただろう」
「僕と君とでは習得の速さが違う。あの凍結呪文だって、悲惨極まりなかったはずだけど。ソルティのヒゲを凍らせたのは誰だったっけ?」
「あれは凍ってない。
「お二人さん、お熱いところ大変申し訳ないんですけどね」
ザビニがイライラと口を挟んだ。
「君たちのおかげで、かなり刺激的なムードになってるんだ。クィディッチチームの連中が帰ってくる前に、早いとこ片をつけないと──」
「俺らが何だって?」
マーカス・フリントのドラ声が響き渡る。生徒たちは一斉に身を硬くした。先ほどまでの騒ぎが嘘だったかのように、談話室が静かになった。
「何なんだ、この有り様は」
女子生徒から根強い支持を得ているチェイサー、エイドリアン・ピュシーが口を開いた。
「まるでグリフィンドールの談話室じゃないか。しかもこっちはボロ負けしたっていうのに、とんだバカ騒ぎだ。上品なスリザリンが聞いて呆れるよ」
ハティはいたたまれない気持ちになった。ピュシーは公正な人柄で、スリザリン寮生にしては珍しくフェアプレイを好む。いわば蛇の良心ともいうべきその人を、自分の不手際で怒らせてしまったのが申し訳なかった。
各々が俯いたその時、ビリッという嫌な音が聞こえた。クラッブが小さく唸っている。とうとうズボンが破けてしまったらしい。
間近で見ていたトレイシーが、悲鳴とも笑いともつかない声を出した。ゴム製のアヒルのおもちゃみたいだった。
「……まあ、いいか」
ピュシーは重いため息をついた。
「こんな時くらい笑えることがないと、やってられないよな」
凍りついた空気が溶けていく。選手たちは生徒の中に混じって、チェスの駒を回収し始めた。ハティはクラッブとともに散らばったポテトを集めていった。
一緒になった彼は少し恥じ入っていたが、ハティが丁寧に謝罪をし、クリスマスにお菓子の大箱を贈ることを約束すると、すぐに機嫌を直した。
「俺より、ドラコの方が大変だ」
クラッブはヒソヒソと囁いた。
「フリントがすっごく怒ってる。いっちばんのチャンスをむだにしたって」
ドラコは暖炉からほど遠いテーブルで目立たないように座っていたが、やがてふらりと談話室から出ていった。
「ドラコ!」
パーキンソンが甲高い声で叫んだ。両手にはおよそ似つかわしくない、ホグワーツの古書が握られている。
「ドラコ、待って!……フォウリー、これ」
「これ、って。君の本だろ。カバンにしまってこいよ」
「あなた、本気で言ってるの?」
パーキンソンは呆れたように目を回した。
「そんな埃くさい本、私が読むわけないじゃない。その辺にあったから使っただけよ。じゃあ、戻しておいてね」
それだけを早口でいうと、彼女は急いで談話室から出ていった。残されたハティは本を小脇に抱えて、せっせとチェスの駒を呼び寄せた。
「ドラコはかなり落ちこんでるみたいだね」
「ああ。ポッターと遊ぶのに必死で、スニッチに気づかなかったからな」
ザビニが嫌味たっぷりに返した。
「自業自得だよ。先を考えずに動くからこうなるんだ。少しは反省した方がいいと思うね」
「そうか」
それでも、試合で勝ちたいと思う気持ちに嘘はなかったはずだ。スネイプ先生と話していた時のドラコは真剣だった。箒に乗ることを純粋に楽しんでいて、喜びに満ち溢れていた。
ハティは彼が消えていった方を眺めた。何しろあんなに甘ったれなのだ。身内の人間に批判されたのは初めてに違いない。
クッションを直していたノットが、顔を上げた。
「先に言っておくよ。それは君の役割じゃない」
「……分かってるさ」
夕食の席にもドラコは現れなかった。もっとも、懸命な判断だったといえるだろう。グリフィンドールの浮かれ騒ぎのせいで、スリザリン寮生たちは早々にナイフを置くはめになったからだ。
シャワーを浴びて、まんべんなくピッカピカになったあと、ハティはアンティークのベッドに横たわった。
意識を失う前に、確かめておきたいことがある。蛇の卵は静かな眠りについていた。熱の名残を内側に留め、薄布のような霜をまとっている。瓶越しのひんやりとした冷たさが、指先に心地いい。
ソルティが瓶のにおいを嗅いだ。目の前の卵が、ポーチドエッグに値するかどうかを見極めているようだ。
ハティはそのオレンジ色の眉間をくすぐった。それにしても、せわしない土曜日だった。ノットの誕生日から始まって、ドビーとの再会、アッシュワインダーの最期、スリザリンチームの敗北。
チェス駒の反乱には興味をそそられたが、一番の収穫はあの監督生だ。トム・リドル、見たこともないご先祖様の友。次はいつ会えるのだろう。
チェス盤を膝の上に乗せ、一人でゲームを進めていたノットが、動きを止めた。
「まさかとは思うけど、それ、アッシュワインダーの卵か?」
「そう。すごいだろ」
ハティは得意げな顔で、クリスタルの瓶を掲げた。
「女子トイレで孵化したんだ。ホグワーツで成功させたのは僕だけだろうな。ほら、触ってもいいよ。君には特別に見せてあげる」
「哀れだな」
「何が」
ハティがいつもの無表情に戻ったのを見て、ノットは頭を振った。
「スネイプ教授だよ。目立たない問題児をあと五年も見張ってなきゃならないなんて、気の毒だ」
「心外だなあ。君、僕が引きずられるところを見たことがないだろう?それはそれは可哀想なんだから」
「僕が教授なら、君を禁じられた森に放りこむね。その方がずっと安全だ」
ノットは無慈悲な言葉で締めくくった。
「卵を量産しようなんて、バカな考えを抱いているのなら──」
「ご心配なく。これ一つで十分さ」
何しろ手間がかかりすぎる。卒業までスネイプの目をかいくぐる自信はないし、アッシュワインダーの最期はあまりにも儚かった。
「今度はバンディマンを捕まえようと思ってるんだ。僕の家はマギーが綺麗にしてくれるから、実物を見たことがないんだよ」
友人からは何も返ってこなかった。もはや呆れすぎて言葉も出ないらしい。
ハティは上機嫌で茶色い革の本を開いた。予期せぬ戦利品、パーキンソンから託された本だ。
「うぇっ」
表紙を開くと、ミイラも同然のクモが悪趣味な栞のように挟まっていた。その死骸の下に仰々しく標題が記されている。「ホグワーツ 荘厳かつキテレツな城を往く」、なんともまあ、退屈そうなタイトルだ。
ところが、いい意味で予想は裏切られた。著者はなかなかに優れた書き手だった。ホグワーツ城の建築構造、これは興味深い。著者によると、この城の八階には必要に応じて消えたり現れたりする部屋があるらしい。トイレは十八世紀にマグルの技術を取り入れてできたものだ。動く階段の厄介な魔法は、邪悪なユーモアをもって故意に仕掛けられた。
いったい、誰がこんな本を借りたのだろう。貸し出しの署名を見て、ハティは眉をひそめた。最後の名前は「サリー=アン・パークス」となっている。聞き覚えのない名前だ。
「『マグル学』でも専攻するつもりか?」
棘を含んだ声にハティは顔を上げた。ノットがベッドの柱にもたれかかっている。手のひらの中で、例のチェスの駒がキーキー叫んでいた。
「この本を知ってるの?」
「スリザリン寮生ならまず借りない代物だ。チャリティ・バーベッジが課題図書に選んでいるからね」
「でも、君は読んだことがある」
ハティからの反撃に、ノットはほろ苦い微笑で応えた。
「穢れた血に対して、あざ笑うだけで十分だと?」
「他の連中はそう思ってるみたいだけど」
「何にせよまずは知ることから始めるべきだ。排除するか、無関心を貫くかはそのあとで決めればいい」
「で、君は無関心をとった」
「ああ、やつらにそれほどの価値はないからな」
やはり彼は徹底した純血思想の持ち主だった。ある意味、ドラコよりも過激だ。「マグルといえば穢れた血だし、穢れた血といえばマグルだ。それ以上の意味はない」……。
ハーマイオニーの生き生きとした表情を思い出して、ハティは胸がきゅっと締めつけられるのを感じた。
「でも、考えてごらんよ。マグルの技術がなければ、僕らはフクロウのように垂れ流しだったんだよ。トイレどころかシャワーすらなかったんだから」
「自分の穢れさえ始末することのできない連中の技術だ。そんなものを評価する方がどうかしている」
「そうかな?」
自らの口調が反抗的になっていくのを、ハティは止めることができなかった。
「みんながみんな、僕のようにバカだとは限らないよ。例えば、ダンブルドアは偉大な魔法使いだ」
「ああ。それに、筋金入りのマグル贔屓だ。ドラコが追い出したがるわけだな」
ノットは静かに返した。子どもらしからぬ落ちつきぶりで、完璧に感情を飼い慣らしている。
彼は正確さをもって、ハティの痛いところを突いた。
「同じ理由で君のことも煙たがってる。真正面から言わないのは、君が上手く立ち回っているからだ」
「裏切り者には死を」。チェスの騎士が厳かに呟く。その時ソルティがすっくと立ち上がり、二人に向かってひと声鳴いた。まるで優しくたしなめているかのようだ。
それを合図に、ノットは自分のベッドへ戻っていった。
最後の明かりが消えた真夜中、ハティは落ち着きなく寝返りを打った。
先ほどは危うく口論になるところだった。ソルティには、山盛りのチップスを贈ってやらねば。クラッブの安心と談話室の平和を保つためにも。
夜の帷の中、エメラルドグリーンの世界は色褪せて闇に沈んでいた。絹をあしらったベッドの天蓋に、湖からの光がチラチラと揺れている。
ノットが変わったわけではない。彼は出会った時から血統を重んじていた。苛立っていたのはハティの方だ。ロジエール家の存在が、じわじわと心の中で大きくなりつつある。流れる血がどうであろうが、自分が自分であることには変わりがないはずなのに。
──さて、君はエバンとドゥルーエラ、どちらの孫かな。
リドルの面白がる声が聞こえてくるようだった。彼がこの葛藤を知ったら、何というだろう。やはり多くのスリザリン寮生たちと同じように、贅沢な悩みだと鼻を鳴らすのだろうか。
不意に天蓋に写っていた光が、さっと消えた。視界を覆うようにして、不恰好な影がこちらを見下ろしている。くるみ大の目玉が二つ、暗闇の中で瞬いた。
「こんばんは──」
ハティは素早く相手の口を塞いだ。パジャマのポケットに杖を差し、忍び足で部屋を出る。
談話室には誰もいなかった。ソファーの特等席も空っぽだ。
「インセンディオ」
オレンジ色の火花が杖の先から躍り出た。寒い夜には暖炉の炎が不可欠だ。とりわけ、薄着の屋敷しもべ妖精がそばにいる時には。
ハティは困惑の表情でドビーを眺めた。
「どうしたんだい?ここは君の坊ちゃまがいる寮なんだよ。誰かに見つかりでもしたら……」
「ドビーめはご報告に参りましたのです、ハティ・フォウリー!」
甲高い声が暗い地下室に響き渡る。ハティは人差し指を唇に押し当てた。
「シーッ。でも、そうだね。連絡手段を考えてなかったな。どうにかして方法を見つけなきゃ……。そういえば、変なブラッジャーがハリーをつけ回してたって聞いたんだけど」
ドビーは見る間にしおらしくなり、こちらの顔色を伺いながら、ポツポツと白状をし始めた。ブラッジャーに細工をしたこと、ケガをしたハリーに会いに行ったこと、秘密の部屋についてうっかり口を滑らしてしまったこと……。
ハティはめまいを起こしそうになった。あのハリー・ポッターに重要な秘密を分け与えてしまったとは。痛恨のミスだ。
「ドビー、ハリーは生粋のグリフィンドール寮生なんだ。ちょっとの危険じゃ怯まないよ。君だって、彼を殺したくはないだろう?」
「もちろんです!」
「だったら、僕の言うことを聞いてくれ。当分、ハリーの前に現れるのはやめた方がいい。ねえ、そんな顔をしないでよ──。君はミスター・マルフォイの動きを見張っていて。何かあったら僕に教えてほしい」
継承者の動向を知るためにも。そう続けていった時、ドビーの顔に緊張が走った。
「もう手遅れかもしれません、ハティ・フォウリー……。犠牲者が出てしまったのです」
「何だって!?」
今度はハティが注意される番だった。ドビーいわく、医務室でハリーと話していた時に、こちらへ向かってくる複数の声を聞きつけたらしい。
「その声は何て言ってたの?」
「はっきりとは聞こえませんでしたが、『石になった』と。トビーめはそのあとに姿をくらましたのでございます」
「ミセス・ノリスの時と同じだな」
それなら、命までは奪われていない。最悪の結果は免れたわけだ。
ハティは下唇をゆっくりと湿らせた。部屋の存在は伝説のまま、犯人の目処もついておらず、ヒントは以前にも開かれたという事実のみ。そんな状態で、ハリーが犠牲者の存在に気付いてしまった。
彼の勇敢さは止まることを知らない。必ずや秘密の部屋について嗅ぎ回るだろう。危険から遠ざけたいというドビーの願いは、叶いそうになかった。
「ありがとう、ドビー」
ハティは包帯を巻いた手を優しく握った。
「僕の方も頑張って調べてみるよ。しばらくは厨房で落ち合おう。あそこなら目立たないし、ハウスエルフたちも口が固いから」
ドビーはやはり恐怖に慄いていたが、しっかりと頷いた。
「どうかお気をつけて。ホグワーツは危険に晒されています!」
「大丈夫だよ、僕は純血だから。ついでにスリザリン寮生だし」
ハティの言葉を聞き終える前に、ドビーは姿をくらました。相変わらずせっかちだ。さよならの挨拶くらいしてくれたってかまわないのに。
ところが、寮への入り口が開いたのを見て、ハティはとっさに座り直した。ドビーは誰かの足音を聞いていたのだ。──しかも、現れたのはドラコだった。
「やあ、今日は冷えるね」
ドラコはじろっとハティを睨んだ。
「こんな時間に何を?」
いつも通りの彼だ。敗北はドラコの気力を奪いはしたが、弱音を吐くほど追い詰めてはいないらしい。
「眠れないから暖まりにきたんだよ。君も一緒にどう?」
「誰が君なんかと」
ドラコはそう吐き捨てると、回れ右をして男子寮の方へと戻っていった。後ろの髪の毛が整ったままだ。おそらく、まだ一度も横になっていないのだろう。
燃え盛る炎の前で、ハティは前下がりの髪を無造作にかき上げた。
マグル贔屓は嫌われ者だ。友人と考えを共有することも、傷付いた心に寄り添うことも許されない。
それでも、筋を通さねばならない時がある。
空が白み始めたころ、ハティは決然と立ち上がった。一秒でも早く、秘密の部屋の継承者を見つけ出さなければ。どのような理由が潜んでいようとも、純血思想の犠牲者などあってはならない。決して。
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