二年生編

第五章 見目麗しき亡霊

ドビーと別れたあと、ハティは閑散とした城内を歩き回った。
身軽なのはいいことだ。いつもなら教科書の詰まった鞄を抱えて歩くが、今日の荷物は黒クルミの杖のみ。ただそれだけで、ホグワーツ城の景色が違って見える。

厨房でもらったバスケットは、最後のサンドイッチを食べ終わると同時に、手元から消え去っていた。

「ねえ、君も食べない?」

ほんの十分前の話だ。埃だらけの椅子が積み上がった部屋で、ハティはドビーにサンドイッチを差し出した。

「きゅうりは好きだけど、こんなにたくさん食べてしまったら、森トロールみたいになっちゃうよ。それともローストビーフの方が好みかな?」
「あ、ありがとうございます!ですが、ドビーめはお腹がすいておりませんので」

ドビーが尊敬の眼差しをもって、見上げてくる。両目にはコップ一杯分の涙が蓄えられており、ともすれば感激のキスをされかねない状況だった。

「ハティ・フォウリーはおかしな魔法使いですね!」
「ああ、よく言われるよ。君のとこの坊ちゃまによるとね、『平等主義者』は鼻つまみ者なんだってさ」

ハティはバスケットから空のティーカップを取り出した。取手に指を引っかけた瞬間に、ほかほかの紅茶がカップの底から湧き出てくる。屋敷しもべ妖精のすばらしき魔法だ。

「でも僕からしてみれば、マルフォイ家のハウスエルフの方が変だ。ご主人様から隠れて、ハリー・ポッターを守ろうとするなんて」
「あなた様はご存じないでしょう。ハリー・ポッターが『例のあの人』に打ち勝った時、わたくしどもの生活がどれほどよくなったか」

コップ一杯分の涙が、耐えきれず乾いた頬を流れていく。「もちろん、ドビーめは今でも卑しい奴隷でございます」と、哀れな屋敷しもべ妖精はつけ加えた。

「ハリー・ポッターは希望の光でございました。まるで、日の出の輝きのように……」
「魔法使いにとってもそうだった」
「でしたら、お分かりくださるでしょう。ハリー・ポッターをホグワーツに留まらせてはなりません!そのためなら、ドビーめははみだし・・・・者になったとしてもかまわないのでございます」
「はみ出し者か」

ハティは思わず笑みをこぼした。マルフォイ家のハウスエルフときたら、いじらしいことこの上ない。

「僕も最初はスリザリンのはみ出し者だった。……いや、今もかな」

ルシウス・マルフォイは損をしている。ドビーの長所を把握できていないのだ。下僕らしい健気さとらしくない信念の強さ。そして、そこから垣間見えるわずかな反抗心。屋敷しもべの理想像からはかけ離れているが、ハティが愛情を抱くのには十分だった。

「はみ出すついでに、少し勇気を出してくれ。秘密の部屋の鍵は誰が持っているの?」

ドビーの瞳から涙がすっと引いた。

「言えません、ハティ・フォウリー!」
「僕に協力してくれるんじゃなかったのかい?」
「名前を言うことはできないのです」
「ご主人様からの言いつけか」

ドビーは恐怖を露わにし、丸椅子の上で小さくなった。おどおどとしたその姿を見ていると、ある人物を思い出す。今は亡き『例のあの人』の操り人形、クィリナス・クィレルだ。

ハティはため息をついて、腕時計をチェックした。

「そろそろ競技場に行かなくちゃ。ハリーに会いたいんだろう?『姿くらまし』をしてもいいよ」

ドビーは待っていましたとばかりに丸椅子から立ち上がったが、失望した様子のハティを見ると、歩みを止めた。

「ハティ・フォウリーもご一緒に?」
「いいや、気が変わった。せっかく人が少ないんだ。思いきって城の中を探してみるよ。君の邪魔をしたくはないし」
「秘密の部屋に鍵穴はございません」
ふぁふぃなに?」

最後のサンドイッチと格闘しているハティを、ドビーはしごく真面目な顔で見つめた。

「秘密の部屋を開く人が鍵であり、鍵は秘密の部屋の継承者なのです」
「ドビー、悪いけど謎々はごめんだよ。いつも母さんに言ってるんだ。レイブンクローに組み分けされなくてよかったって──」

パチっと大きな音が部屋に響く。ドビーはすでに姿をくらましていた。せかせかと急ぐクモたちとともに、ハティは薄暗い空き部屋から出た。

部屋というだけならば、ホグワーツには何百もの空き教室が存在している。ほとんどが教授陣やピーブズ、甘ったるい言葉を囁き合うカップルによって認知されているが、鍵穴のない部屋となると話は別だ。

ハティは石の壁を小突いた。ちょうど一年前、ハティ自身がだまされた「扉もどき」の壁だった。

ドビーから得た情報が正しければ、秘密の部屋は特殊な扉によって守られているらしい。開錠の呪文で開くようなものとはわけが違う。手当たり次第に探してもむだだ。

幸いヒントは一つだけではない。ドラコが言っていた。秘密の部屋は五十年前にも開かれたのだと。

半世紀前の出来事なら、まだ当時のことを知る人がいるはずだ。例えば、口の固い高齢の先生たち。かつて生徒だった大人、そして──。

「ゴースト」

ハティは自らの出した答えに満足した。今日は勘が冴えている。山のようなサンドイッチと濃いめの紅茶のおかげだ。

もちろん、三階の廊下に人がいるはずがないので、ハティは堂々と女子トイレに入ることができた。

「マートル?」

燭台の方へ杖を向ける。いつもは頼りなげに揺れている炎が、完全に消えてしまっていた。

「マートル、いるかい?君が生きていた頃について聞きたいんだけど」

返事はない。どうやら、またヘソを曲げてU字溝に引っこんでいるようだ。

ハティは辺りを見回した。言葉にするには微妙な、わずかな引っかかりが直感をくすぐっていた。
いつも以上に空気が淀んでいるし、蛇口が傾いている。手洗い場の前には、明らかに誰かが足を踏み入れた形跡が残っていた。

床は灰まみれだ。蝶番の外れかかった扉の個室から、跡になってずっと続いている。

「スコージファイ、清めよ」

ゴシゴシ呪文で全てを拭い去ったあと、ハティは無意識に息を止めた。灰の出どころは、自分が置いたナップサックからだった。ついにアッシュワインダーが生まれたのだ。

女子トイレをくまなく探してみて、残念ながらこの場所には留まっていないことが分かった。居心地のいいナップサックを出るだけでは飽き足らず、産卵に適した場から去ることを決意したらしい。

余命一時間の蛇にしては大胆な行動だ。

ナップサックを背負って、ハティは女子トイレから出た。

灰の跡は来た道と反対の方向へ続いている。「幻の動物とその生息地」には、アッシュワインダーは暗く隔離された場所を探すと書いてあった。
ところが女子トイレで産声を上げた蛇は、だんだんと開けた場所へと進んでいっている。まるで息苦しい小部屋から逃げ出すように。

このままだと、天文台の塔へ向かうことになりそうだ。螺旋階段を登る途中で、ハティは上から降りてきた女子生徒とぶつかった。

「ごめんなさい」

相手は何も返してこない。スリザリン寮生に対して謝罪は不要、ということだ。
思わず振り返ると、鮮やかな赤毛の頭が目に入った。ジニー・ウィーズリーだ。みんながクィディッチに熱狂する中、天文台で空を見上げていたらしい。

「ウィーズリー、ここは立ち入り禁止だよ」

例えばハリーなら、「そっちこそどうなんだ」と返してくるだろう。機嫌の悪いロンなら、「黙れよ、腐れスリザリンめ」だ。

ところが、ジニーはこれに対しても無言を貫いた。ハティになど目もくれず、階段を降りていく。

ハティはすごすごと階段を登った。目下のところ、関心はウィーズリーよりもアッシュワインダーの方にある。塔を燃やし尽くして、シニストラ先生から大目玉を食らいたくはない。

真昼の天文台には、夜とはまた違った景観が広がっていた。重く垂れこめた灰色の雲の空、それを突き刺すようにして聳えている山の峰。眼下にはくすんだ色の芝生が広がっている。

風に乗って、湿った香りが口の中に広がった。雷が鳴りそうだ。今は蒸し暑くとも、迫りくる冬の吐息が確実に植物たちの命を奪っていた。

「ご機嫌よう」

ハティは備えつけの天体望遠鏡に向かって、声をかけた。傾いた筒の上に、小さな白色の蛇がとぐろを巻いている。

「初めて見るホグワーツはどうだい?綺麗なところだろう」

蛇はむすっとした表情で、絶景を見下ろしていた。瞳がめらめらと燃えるように赤い。自然と輝きを放つさまは、純度の高い宝石のようだ。
柵の向こうで、かすかに風の吹きすさぶ音が聞こえてくる。マフラーを巻き直すと、ハティはにっこり笑った。

「君に会えてよかった。もうずいぶんと待ったんだよ。おかげで炎の呪文が上手になったんだ」

アッシュワインダーは急に首をもたげた。そして、ハティの顔を見つめたかと思うと……。燃える塵となって、風に吹かれていった。

ハティは思わず手を伸ばした。あまりにも突然のことで、掴むことすらできなかった。

生命の散り際は切ない。例え、生まれてから一時間ほどしか経っていない蛇であったとしても。

ハティはやや沈んだ気持ちで、腕を下ろした。ここからだと競技場の様子がはっきりと見える。高価な双眼鏡を使えば、試合を追うことだって可能だろう。

ジニーは特等席からハリーの活躍を見守っていたのかもしれなかった。ハティが生み出した、小さなアッシュワインダーとともに。

「呼び寄せ呪文を使うといい」

不意に背後から声をかけられる。

「卵が欲しいんだろう?アクシオを使えばすぐに手に入る」

声の持ち主は、きゅっと口角を上げて微笑んだ。ハンサムな男の子だ。どの角度から見ても、まるで非の打ちどころがない。

ただ、好青年にも欠点はある。彼の身体はうっすらと透けていた。滑らかな額越しに、雨雲が押し寄せてきているのを見ることができる。ローブは腰の下からすっと消えており、下半身は絵筆で馴染ませたかのように、背景に溶けこんで見えなくなっていた。

つまり、生身の人間ではないということだ。ハティは曖昧な愛想笑いで応えた。

「僕の記憶が正しければ、呼び寄せの呪文は四年生で習うはずだけど」
「知識を吸収するのに、早すぎるということはない」

半身のみの少年は、落ち着いた声でいった。

「少なくとも、僕はそう思っているよ。さあ、杖を出して。僕の手首の動きをよく見るんだ」

彼の熱意に押されて、ハティは杖を出した。黒クルミの杖は相変わらずのじゃじゃ馬だったが、少年は粘り強く指導し続けた。

「そうカリカリしないで。初めてで成功する方が珍しいんだから」

ヤケクソになっているハティに、彼は優しく笑いかけた。

「呪文は記号じゃないし、言葉には必ず意味がある。言い換えれば、言葉こそが呪文なんだ。そうと分かれば直すべきところがあるはずだろう」
「発音」
「他には?」
「卵を呼び寄せる強い思い──かな」

少年の笑みがますます深くなった。女の子なら、ぽぅっと浮かれてしまうような笑顔だ。

「教科書の受け売りも悪くないけど、大事なのは体に落としこむことだよ。さて、お手並み拝見といこうか」

ハティはハンカチで杖を拭うと、再び握り直した。ニュート・スキャマンダーはアッシュワインダーの卵について、どう表現していただろうか。鮮やかな赤色で、高熱を発する。しかるべき呪文で凍結しないと、数分以内に辺りを発火させてしまう……。

「アクシオ、アッシュワインダーの卵!」

次の瞬間、スニッチも羽を畳むような速さで、真上から丸い何かが降ってきた。ハティは咄嗟に杖を突き出した。

「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」

何度も練習したかいがあったものだ。今にも床に激突しそうだった卵が、ふんわりと宙に浮いた。親蛇の目にそっくりの真っ赤な色で、磨きあげられた石のようにつるんとしている。大きさは鶏の卵よりも二回りほど小さかった。

ハティは胸を撫で下ろした。

「グレイシアス」

卵の表面が曇り、あっという間に真っ白な霜に覆われていく。こちらも成功だ。

「悪くないね」

少年は組んでいた腕をほどいた。

「けど、詰めが甘い。君の杖はずいぶんと気が強いんだな」
「友だちも同じことを言ってたよ」

ハティは慎重に卵をナップサックの中へしまいこんだ。

「杖が不安定だから、呪文のかかりが悪いって」
「へえ。君のスリザリンのお友だちは優秀なんだね」

少年が、何でもないことのように言ってのける。胸元のエンブレムから見抜いたらしい。お返しに彼のネクタイを見ると、ハティと同じエメラルドグリーンだった。その上、ローブには監督生のバッジがきらめいている。

通りで優しいわけだ。彼の口調はフランクで、面倒見のいい教師のような響きがあった。

「杖の材質は?」
「黒クルミ。芯はニーズルのヒゲ」
「それは珍しいな。オリバンダーはこだわりが強いことで有名だけど」
「特注品なんだ」

ハティは手のひらの上に杖を乗せた。持ち手の部分に繊細なツタ模様の装飾が施されている。

「一族の何人かは同じ芯を使ってる。おかげで、名前を言うたびに嫌な顔をされるようになったよ」

監督生の顔に、あからさまな好奇心の色が浮かんだ。

「そういえば、まだ名前を聞いてなかったね」

ハティはいつものように、控えめに微笑んだ。

「フォウリー。ハティ・フォウリーだ」
「フォウリーか」

思案の一瞬。ハティにとっては慣れ親しんだ沈黙だ。

「僕の知っているフォウリーなら、代々ハッフルパフに組み分けされるはずなんだけど、君は違うんだね」
「帽子と気が合わなくて。それに多分、血筋も関係してるんだと思う」
「血筋?」

ハティは頷いた。どうしてだろう。初対面だというのに、この青年には何もかもを打ち明けたくなってしまう。

「僕の母はロジエール家の出身なんだ。君も名前くらいは聞いたことがあるんじゃないかな」
「それは……。知っているどころの話じゃないな」

半透明の上半身が近づいてくる。

「ロジエールは僕の友人だ」
「君の?」

真っ黒な眼差しが、頭からつま先までを撫でていく。ハティはどんどん頬が熱くなるのを感じた。

「でも、君の知っているロジエールが僕の母さんとは限らないだろ」
「その通り」

少年はふっと笑った。古めかしいデザインのローブを身にまとい、ネクタイをきっちりと締めている。ザビニの言葉を借りるならば禁欲的な姿だが、その質素さがかえって端正な魅力を引き出していた。

「年代的には、君のお祖父さんかお祖母さんに当たるはずだ。さて、君はエバンとドゥルーエラ、どちらの孫かな」
「さあ。どちらでもないかも」
「いずれ分かるだろう」

彼が離れていくとともに、ハティの心臓の鼓動は安定し始めた。

しかし、こんなに人当たりのいい人がご先祖様と仲良くしていたとは。ドラコが誇らしげに語るくらいだ。ロジエールは純血主義の家系なのだろう。付き合う人間は限られているに違いない。

少年は望遠鏡の前に浮かび、ホグワーツの庭を見下ろしていた。ローブはたなびいているものの、やはり脚が見えない。

「君はゴーストなの?」
「そんなところかな」
「けど、大広間で見かけたことがないよ」

そう、例えば新学期が始まる日のディナーには、城中のゴーストがテーブルの方へやってくる。

「ずっと囚われていたんだ」

少年は自らに言い聞かせるように呟いた。

「遠い昔の記憶にね。やっと外へ出る時がきた」
「土地に縛られているゴーストなら、『ゴースト、あるいは悲惨な死に方』で読んだけど──」

ハティは口を噤んだ。風に乗って、何やら騒がしい声が聞こえてくる。下を見ると、競技場からぽつぽつと生徒たちが出てきていた。
黒いローブを着こんだ姿はアリのようだ。どうやら、クィディッチの決着がついたらしい。

「そろそろ帰った方がよさそうだね」

彼のいう通りだ。ここにいたことが先生方に知られでもしたら、軽く二十点は引かれてしまうだろう。
ハティは慌てて、ナップサックを背負い直した。

「ええっと、呼び寄せ呪文を教えてくれてありがとう」
「どういたしまして」
「それじゃ、また今度ね。君の名前は……」

黒髪の少年は、出会ってから一番の笑みを顔に浮かべた。

「リドル。トム・リドルだよ。君と同じスリザリンの出身だ」
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