二年生編

第四章 秘密の同盟

やがて寒さの厳しくなる十一月の後半に入ると、単純な子どもたちはクィディッチの話題に夢中になった。マグル生まれの子がいつ襲われてもおかしくはないというのに、空を飛ぶ七本の箒の方がよっぽど重要らしい。

ミセス・ノリスの件は趣味の悪いいたずらだったのでは?──そんな能天気な噂まで流れ始めた。もちろん、重く受け止めている生徒もいる。頭でっかちの監督生に、マグル生まれとその友人たち。

そしてハティ・フォウリーだ。

「何だって?ハリーたちがここに?」

三階の女子トイレの個室。ナップサックの中を確認していたハティが、裏返った声で叫んだ。

「そんな……。ここは君がいる女子トイレだよ。よっぽどの変人じゃない限り、近付かないはずなのに」
「あなたが言えることじゃないと思うわ」

マートルが不機嫌に返した。

「私だって、追い返すために頑張ったのよ。でも、あいつらったら、どれだけ泣きわめいても平気な顔で居座るんだもの。仕方がないじゃない」
「困ったな。最高の隠れ場所なのに」

こんな場所で三人組と鉢合わせたくはない。ただでさえ、パーシー・ウィーズリーやスネイプ先生の目が厳しくなってきているというのに。

「どうにかして、出くわさない方法を考えないと。でも、ここで何をしているんだろう」
「ポリなんとかがどうって言ってたわ」

マートルの小さな目がきらきら光った。

「私、こそっと上から覗いてみたの。何だかすっごく気持ちの悪い本を読んでたわ。体が裏返しになってるような絵が載ってて……」

おそらく禁書だ。教授陣のサインがないと借りることはできないはずだが。物騒な本を抱えて、彼らは何を企んでいるのだろうか。

スリザリン寮生に一杯食わせるつもりでなければいいけれど。天文学の授業中、ハティは文字通り本物の星空を見上げた。

「この様子だと、明日は晴れそうだな」

銀の砂をばらまいたような空の下、空気は驚くほど澄んでいて冷たい。
つい漏れでた独り言に、トレイシー・ディヴィスが反応した。

「へえ、ようやくクィディッチの面白さに気付いたってわけ?」
「多分ね。明日はグリフィンドールとだろう?」
「そう。私としては、ポッターをぎゃふんと言わせてほしいところだけど」
「さあ、どうかな」

怒気を孕んだエメラルド色の瞳を思い出す。ぐらぐらと沸騰していて、ルビー色に染まりかねない剣幕だった。

「彼、負けたとしても降参はしなさそうだけどね。……ねえ、ノット。僕と一緒にクィディッチを観に行く気はあるかい?」
「ノーだ」

ノットが星座早見盤をいじりながら答える。トレイシーは大きな目をことさら大きく見開いた。

「本気なの?」
「うるさいのは嫌いだ。それに、今年は荒れそうだから観たいと思えない」
「クィディッチはいつだって荒れてるものだよ。せっかく、マルフォイのお父様がニンバス2001を買って下さったんだから──」
「箒を見るくらいなら、空を観察した方がよっぽどためになる」

ノットの答えには容赦がない。ハティはぐうの音も出なくなったトレイシーに向かってニヤリとしてみせると、友人の肩を叩いた。

「君は星空の方が好みなのかい?」
「箒と暴れ球よりかはね」
「じゃあ、こういうのはどうかな。あっちでりゅう座ドラコが見えるよ」

指差した先には、うとうとしているドラコがいた。頼もしい大型犬のような手下に挟まれ、短い眠りを貪っている。

「黄金のりんごの木を守っていた竜だ。スニッチだって、簡単に奪われたりしないさ」
「君も星に興味があるとはね」
「忘れたのかい?僕はりんごが一番好きなんだよ。まあ、一番の専門は月だけど」

空に浮かぶ月は痩せ細っていて、小さな引っ掻き傷のようだ。ノットがふっと白い息を吐いた。

「シニストラ先生によれば、月は星の輝きを潰してしまうらしい」
「その点はご心配なく。ハティが丸ごと飲みこんであげるから」

ノットの唇が三日月のように弧を描く。静かに笑い合う二人を見て、トレイシーがあんぐりと口を開けた。

「君たちって、いつもこんなつまらない話で盛り上がってるの?」

翌日。冬用の外套を身につけ、マフラーでぐるぐる巻きになったハティが、ノットを見下ろした。

「本当に来ないのかい?」
「うん」
「君の幼なじみが試合に出るんだよ」

ノットは湯気の立つ紅茶を口に含んだ。

「ドラコは気にしない」

言葉も終わらないうちから、本の世界に入りこんでいる。ハティは背中の後ろにキャンバス地の包みを隠して、もじもじと立っていた。ルームメイトはとっくに競技場の方へ向かっており、部屋には自分たちしかいない。

思わせぶりな沈黙が続いたあと、気配を察知したノットが助け舟を出した。

「忘れ物か?」
「うん、そう……。一つだけ忘れていたことがある。今日は君の誕生日だ」

本を持つ手に、無理やり包みを押しつける。相手が口を開く前にハティは叩きつけるようにいった。

「おめでとう!」

ノットがラッピングを解いてしまう前に、さっさと男子寮を出た。時刻は十一時を回っており、ホグワーツ城にはまったく人の気配がない。
試合はすでに始まっているはずだ。お腹の虫が消え入りそうな声で鳴いた。

……そうだ、パスティをつまみながら観戦をするのはどうだろう?確実にトレイシーには叱られるが、悪くない発想だ。

そこで厨房に赴き、食料を調達することにした。バスケットにサンドイッチが詰めこまれていくのを、ハティはのんびりと観察していた。ベーコンにスモークサーモン、クリームチーズ。数々の茶色い腕がご馳走を用意しようと腕まくりをしている。

奥の方に引っこんでいた一人が、バターの入った皿をひっくり返した。新入りだろうか。どうも不慣れな動きをしているし、全体的に小汚い。緑色の目はこぼれそうなほどに大きく、コウモリの羽のような耳がついていて……。

「ドビー?」

間違いない。マルフォイ邸で出会った屋敷しもべ妖精だ。彼(もしくは彼女)は飛び上がり、見ている方が気の毒になってしまうほどガタガタ震え始めた。

「お、お許し下さい!お許し下さい!フォウリー家の坊っちゃま!ドビーめはどうしてもホグワーツに参らねばならなかったのです。お仕置きならこの通り──」

ドビーは長い十本の指を広げて見せた。乾燥した皮膚が赤く腫れて、ひどく焼けただれている。
ハティは眉間に深くしわを刻んだ。

「君がどこにいようが、僕に罰する権限はないよ。その火傷はどうしたの?ミスター・マルフォイからお叱りを受けたのかい」
「とんでもございません!ドビーめが自分でお仕置きをしたのでございます。ドビーめは自分の手にアイロンをかけなければなりませんでした」

そういい続けている間も、小さな体は絶え間なく震えていた。騒ぎに気付いた屋敷しもべ妖精たちが、大きな耳をパタパタさせながらこちらの様子を伺っている。

「どうぞ、するべきことを続けてくれ」

魔法使いの魔法の一言で、杖を振るまでもなく全てが元通りになった。ハティは右手でバスケット、左手でドビーのか細い腕を掴んだ。

「まずは手当てが先だ。医務室へ行こう」
「まあ、なんと優しい方なのでしょう!」

ドビーが感極まった声で叫ぶ。

「魔法使いのあなたが、ドビーめを気遣って下さるとは。しかし、フォウリーの坊っちゃま。ドビーめは医務室へは行きません。競技場へ戻らねばならないのです」
「だったら話は早い。僕も今からクィディッチを観に行くところだったんだ。君はどうしてここに?」

満月のような瞳がわずかに揺らいだ。

「……ご主人様の代わりでございます。ドラコ坊っちゃまの初めての試合ですから」

ハティはドビーの腕から手を離すと、視線が同じ高さになるようにしゃがみこんだ。

「僕が知るミスター・マルフォイなら、何としてでも試合を観にくるはずだけどね。息子の晴れ舞台を、ハウスエルフ一人だけに任せるとは考えにくいな」
「ド、ドビーめはご命令に従うだけです」
「それなら、どうしてそんなに怯えているの?」

骨に皮を貼りつけただけのような手首を両手で包む。ドビーは「ひぃ」と哀れな声を出した。

「命令に従っているのなら、自分でお仕置きをする必要もなかったはずだ。君は自分の意思でここにやって来ている。そうだろう?」
「いいえ、ドビーは……。ドビーめは──」

ドビーはハティの手を振りほどくと、厨房の古い石造りの壁の方へと歩いていった。そして、あろうことか仲間たちの目の前で、その灰色のゴツゴツとした石に頭をぶつけ始めた。

「ドビーは悪い子!ドビーは悪い子!」
「ちょっと君!」

ハティは慌てて、ドビーが身につけている薄汚い枕カバーを引っ張った。

「脳みそをバラバラにするつもりかい?そんな調子じゃ、いくつ頭があっても足りないよ!」

何という力だろう。か弱そうな見た目によらず、かなりの腕力を持ち合わせているらしい。事態を見かねたハウスエルフたちが止めに入ったが、ドビーはひたすら頭を打ち続けていた。

両親に研究対象を増やすよう提言しなければ。ハティは静かに息を吸い、まぶたの裏にルシウス・マルフォイの姿を思い描いた。

「ドビー、やめてくれ」

ドビーのみならず、その場にいた全員の動きが止まった。ハティは冷ややかな調子で続けた。

「お仕置きは中止だ。君は言うことを聞かねばならない。僕はフォウリー家の息子だから、へりくだった態度には慣れていないし、君が自分を傷付けるのを見るのは……、えーっと……」
「お好きでない」

誰かがこそっと囁いた。

「そう、お好きではない。魔法使いの命令に従うのが、屋敷しもべ妖精の本分のはずだ。ドビー、君は僕についておいで。他の子たちはいつも通りに。サンドイッチをどうもありがとう」

ハティは再びバスケットを持って、薄暗い大理石の廊下を進んでいった。ドビーはといえば、怯えた様子で後をついて来ている。両手をお腹の前で組み、背中を丸めて歩く姿は奴隷のようだった。

いや、違う。奴隷のよう・・ではない。奴隷なのだ。ハティは頭の中で訂正した。

ほとんどの魔法使いの家で、屋敷しもべ妖精はボロ雑巾のごとく扱われている。今からやろうとしていることを知れば、旧家の人たちは驚くはずだ。

ハティは椅子ばかりが積み上げてある、埃の積もった空き部屋に足を踏み入れた。

「よし、手早く済ませよう。まずはそこに座って」
「す、座って?」

ドビーが上目遣いに見上げてくる。ハティは頷くと、足の取れかけた丸椅子を指差した。

「手の傷を見なきゃ。きっと君は、こういうことには慣れていないんだろうけど」
「ええ、ええ。もちろんです!フォウリー家の坊ちゃま」

大きな緑色のギョロ目が涙で曇った。

「ドビーめに座ってなどと言って下さったのは、坊ちゃまと偉大なるお方だけでございます。あのハリー・ポッターがお声をかけて下さった時は──」
「ハリー・ポッター?」

ハティが鋭い声で遮った。

「ハリーと会ったことがあるのかい?ドラコ・マルフォイの邸に仕える君が?」

ドビーはしまったという風に、両手で口を塞いだ。止める暇もなく、積み上がった椅子の方へと一目散に駆けていく。

「ドビーは悪い子!すっごく悪い子!」
「その通り、悪い子だ。魔法使いの言いつけに背いてる」

ハティは「ミスター・マルフォイモード」で話しかけた。

「お仕置きは禁止。今すぐそこに座って、両手を差し出すこと。『姿くらまし』もダメだ。さあ、こっちにおいで」

ドビーは大人しく指を広げてみせた。魔法使いの命令には、頭よりも先に体の方が動いてしまう。屋敷しもべ妖精の本能だ。

ハティはポケットから小瓶を取り出した。

「これ、ルームメイトがくれたんだけどね。マートラップの触手液を加えてみたんだ」

爛れた指に丁寧に塗りこんでいく。冷たい軟膏が皮膚に触れるたびに、やせ細った体が小さく震えた。

「でも、君たちに効くかどうかは分からないな。包帯は外さないでね。ほら、できた」

ドビーは小さな声で何度もお礼を口にした。目の前の魔法使いがご主人様にそっくりな態度をとったので、完全に萎縮してしまったらしい。

そうなると少し可哀想に思えてきて、ハティは口調を和らげた。

「ハリーはこんな風に命令はしなかっただろう?彼はマグル育ちだから」
「ハリー・ポッターはお優しい方です」
「競技場に行きたがっているのは、彼に会いたいからかい?」

ドビーはあからさまに飛び上がった。どうやら図星のようだ。

「大丈夫だよ。ドラコには言わないでおく」

ハティはカビの生えたロッキングチェアに座り、杖を振った。ラタンのバスケットが空中に浮かび、ふよふよと漂ってくる。

「差し支えなければ、なぜ君がハリーと知り合ったのかを聞きたいな。『生き残った男の子』と会うなんて、それなりの事情がありそうだし」

ドビーは俯いた。包帯を巻いた指が、薄汚れた枕カバーの端をきつく握りしめている。

しばらく黙りこんでいたが、ハティが三個目のサンドイッチに取りかかった時、ついに口を開いた。

「ハリー・ポッターは、ホグワーツに戻ってはいけなかったのです。ドビーめはそう申し上げました。けれど、ハリー・ポッターは……」
「ろくでもないマグルと住んでいる」
「ええ。ハリー・ポッターはお聞き入れになりませんでした。ドビーめが9と3/4番線の入り口を塞いだ時も──」
「9と3/4番線の入り口を、君が?」

黒クルミの杖がピクリと反応する。バスケットが静かに床の上に落ちた。

「じゃあ、ロンとハリーが空飛ぶ車に乗ってきたのは君のせいなのか?」
「ああ、フォウリー家の坊ちゃま!ドビーめはハリー・ポッターをお家にお帰ししようとしただけでございます」
「言いたいことは分かるけど、ハリーたちは退校処分になるところだったんだよ。彼から魔法を取りあげるなんて、あんまりじゃないかな」

ハティの指摘に、ドビーは涙で喉を詰まらせながらも、しっかりと背筋を伸ばした。

「ハリー・ポッターがご無事でいらっしゃるのなら、ドビーは何回でもお仕置きを受けます!」
「ご無事ねえ」

ハティは椅子に揺られるがまま、背もたれに身を預けて天井を見上げた。

「それ、『秘密の部屋』と何か関係があるの?」

天井のシミが動いたような気がして、目を凝らしてみる。小さな汚れだと思っていたものはクモだった。それも一匹だけではなく、脚の長いものから赤みがかった背中のものまで、多種多様のクモが扉を目指して歩いている。

視線を元に戻すと、ドビーは唇を震わせていた。瞳ばかりが印象的なその顔に、ハティは微笑みかけた。

「僕はスリザリン寮生だ。ドラコ坊ちゃまはあんな性格だからね。聞き出すのは難しくなかったよ」
「……恐ろしい罠です」

ドビーはか細い声を絞り出した。

「世にも恐ろしい、闇の罠が仕掛けられているのです。歴史が繰り返されようとしているのですから」
「確かにマグル生まれにとっては悪夢だな。でも、ハリーは半純血だよ。襲われる理由がない」
「ああ、どうぞ聞かないで下さいまし!」

ドビーは大きな耳を両手で塞いだ。

「もう、これ以上お尋ねにならないで。ドビーめはお答えできません。ハリー・ポッターはそれに関わってはいけないのです」

頑なな態度だ。もしかしたら、ルシウスから口止めをされているのかもしれない。
ハティは唇を噛んだ。この場を支配しているのは自分だが、ドビーのご主人様はあくまでもミスター・マルフォイだ。

「君はハリーを守りたいんだね」

ドビーが激しく頷く。

「僕は継承者が好き勝手するのを防ぎたいんだ。だから、こういうのはどうだろう。お互いに協力し合わないか?ホグワーツの平和のために」

急に差し出された右手に、屋敷しもべ妖精は不安げな表情を見せた。

「ですが、フォウリー家の坊ちゃま。ドビーめはご主人様から聞いたことがございます。坊ちゃまがドラコ坊ちゃまと同じスリザリンの生徒さまで──」
「単なる噂なら信じなくていい。ご主人様は君のご主人様であって、僕のご主人様ではないからね」

ハティは空いている方の手を、ローブの胸の上に置いた。

「君に紹介するよ。僕の主君、ハティ・フォウリーだ。僕が初めてホグワーツ特急に乗った時、一番に話しかけてくれたのはマグル育ちの子だった」

そう、ディーン・トーマスは未だに挨拶を返してくれる。スリザリンとグリフィンドールという寮の隔たりがあるにも関わらずだ。

「友だちを秘密の部屋の犠牲者にはしたくない。お願いだ。僕と同盟を組んでくれないか」

寒々しい部屋に沈黙が落ちる。ドビーはひどく怖がっていたが、震える指でハティの右手を握った。

「もちろんです。もちろんですとも……。ドビーめはハティ・フォウリーのお手伝いをします。ハリー・ポッターとこのホグワーツのために」
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