二年生編
第二章 鼻くそチョコと穢れた血
夏休みはあっという間に過ぎ去り、ホグワーツへ戻る日が刻々と近付いてきた。飼い猫のソルティは、ガールフレンドとの再会に向けて丁寧に毛繕いをし、ハティは教科書を開いて予習を始めた。
グリムはテーブルの下へ隠れることが多くなった。サラマンダーの入った瓶を抱えて落ちこんでいる弟の頭を、ハティはそっと撫でた。
「ねえ、今から泣くことはないだろう。僕たち、あと三日は一緒にいられるんだから」
涙に濡れた目が、哀れっぽく兄を見上げる。
「クリスマスには戻ってきてくれるよね?」
ハティは答えられなかった。今年はホグワーツでクリスマスを楽しみたいからと、両親に伝えたばかりだったのだ。
罪悪感を打ち消そうと荷造りに励んでみたものの、こちらもなかなかに重労働だった。新しい教科書──、特にロックハートの本──。はスペースを取る一方だったし、トランクの掃除もしなくてはならなかった。
ふくろうの羽、キャンディの包み紙、ウナギの目玉。とるに足らない思い出の残りカスが、ゴミ箱へと送り込まれていく。ハティは教科書と衣類、学用品、貴重品が入った赤と緑のシーツ袋を手際よく詰めこんだ。
最後にキャンバス紙の包みを入れて、トランクを閉じる。彼が喜んでくれるといいのだが。
「坊ちゃま、お夕食の時間でございます」
開いたドアから、キーキー声が聞こえた。屋敷しもべ妖精のマギーだ。パステルブルーのバスマットを体に巻きつけている。
「今行くよ、マギー」
ハティは彼女と一緒に階段を降りた。
「三日後にはホグワーツだ。あそこのランチを味わう前に、君のサンデーローストを頂かないとね」
最後の三日間は瞬きをする間に消えていった。ご馳走をこれでもかというほど食べ、弟につきっきりの時間を過ごしたあと、ハティは再び9と3/4番線のプラットホームに立った。
「さすがに人が多いな」
フォウリー氏がぼやく。両親は顔見知りの人たちに引き止められてばかりで、先ほどから同じような挨拶を何度も繰り返していた。
ハティは、トランクをホグワーツ特急の入り口に持ち上げながら唸った。
「へんてこな論文を発表するからだろ」
「分かってないな。マートラップは可能性に満ちた生き物なんだ。もう少し研究を重ねれば、きっと──」
言葉がふっと消える。父は別の方向を見ていた。
「アーサーだ」
視線の先には、燃えるような赤毛の大家族がいた。監督生のパーシー・ウィーズリーと双子、その妹と思わしき女の子が慌てて走ってきている。隣にいる背の高い男性と、ふくよかな女性が彼らの両親だろう。
ハティは目をこらした。変だ。ロナルド・ウィーズリーがいない。
フォウリー氏が妻の腕をつついた。
「マーナ、あとで挨拶に伺おう。彼とはもう随分と顔を合わせていない」
「ええ、そうね」
フォウリー夫人は、栗色の髪を後ろに払った。
「でも、その前に貴族の責務を果たさないとね。……ルシウスがこっちへ来るわ」
ハティは反射的に背筋を伸ばした。ウィーズリー家とは反対側の方向から、マルフォイ家の面々がゆっくりと歩いてくる。双子の呪いをかけたような父と息子、今度はほっそりとした母親も一緒だ。
フォウリー氏は完璧な朗らかさをもって、彼らを迎え入れた。
「やあ、ルシウス!久しいね」
「これはこれは、ガルム。スポア氏のパーティーでお会いして以来ですな」
ルシウス・マルフォイは、ひんやりとした優雅な微笑みを唇に浮かべた。
「月日というものは矢のように過ぎていく。先日、細君とご子息を我が館にお招きしたが──」
薄い灰色の瞳が、ハティの顔へ向けられた。
「──すばらしいひと時だった。マーナにハティ、我が家の紅茶には満足して頂けたかな?そこにいる小さな君が、弟のグリムだね。妻のナルシッサとドラコだ。ガルム、息子に会うのは初めてだろう」
ドラコはためらいながらも、フォウリー氏に対して礼儀正しく挨拶をした。ハティには笑いかけるどころか、目を合わせようともしない。顔を見れば、嫌味を飛ばしたくなってしまうからだろう。
その後ろでは、ナルシッサ・マルフォイが静かに佇んでいた。気難しそうな顔にうっすらとした愛想笑いを滲ませている。
彼女はフォウリー夫人を見ると、口を開いた。
「マーナ」
「シシー。何年ぶりかしら」
二人の奥方はそれ以降、口を開かなかった。ただ咲きかけのバラのように、曖昧に微笑んでいる。
「思い出話はあとだ。まずは我が子たちを送り出さねば」
フォウリー氏が、腕時計をチェックしながらいった。
「坊や、元気でな。大いに学んで、大いに遊ぶんだよ。先生の言うことをよく聞くように」
「うん」
ハティは素直に頷いた。隣ではドラコが同じように、母親からさよならのキスを受けている。
フォウリー夫人が息子の前髪を撫でた。
「お友だちと仲良くね。危険なことには首を突っこまないのよ。つまらないのが一番平和なんだから」
「もちろん。上手く立ち回って、安定した日々を送るさ……。僕はスリザリン寮生だからね」
そう答えたあと、ハティはマルフォイ夫妻の方をちらっと見た。なぜだか、彼らがにっこりと笑ったような気がしたのだ。
グリムが泣きそうな顔で袖を引っ張った。
「手紙、いっぱい送ってね」
そういって、胸の中へ飛びこんでくる。弟をなぐさめるように抱きしめたあと、ハティはホグワーツ行きの汽車へ乗った。
コンパートメントは隙もなく、生徒たちで埋め尽くされていた。そこかしこから花火の音やふくろうの鳴く声、興奮した囁きが聞こえてくる。
軋む通路を歩きながら、ハティは先を行くマルフォイに声をかけた。
「こうして乗ってみると、ワクワクしないか?もうすぐホグワーツに戻るんだって」
ミャウ、とソルティが短く答える。メロン色の目が、過ぎていく景色を捉えていた。
「ねえ。僕たち、これからどうしようか」
「僕たち?」
マルフォイが振り向く。眉間にしわが寄っていた。
「勝手にしろ。僕はクラッブとゴイルを探す」
「あれ?僕と仲良くするんじゃなかったのかい。君のお父さんはそう望んでいるようだけど」
「まさか」
青白い顔に、いつもの嘲笑が戻る。
「父上はそれなりの対応をなさっただけさ。フォウリー家の好意がなくたって、マルフォイ家は上手くやっていける」
「どうしてすぐに、家の話に持っていくのかなあ」
ハティはため息をついた。やれ家柄だの、誰の血をひいているかだの、そういった類の話にはうんざりだ。退屈極まりない。
「そんなに血統が大事なら、ロングボトムに会いに行けよ。純血の革命児だろう」
「ふん。お次は誰だ。アボット家のお嬢様か?」
「アーニーかもしれないね。『純血一族一覧』を参考にするのなら」
マルフォイは鼻で笑うと、気取ったように歩き始めた。
「マクミランはハッフルパフだ。まあ、それでもグリフィンドールの連中よりはマシだけど。貧乏人のウィーズリーや、傷モノのポッターなんかと比べれば──」
話している最中に、ドラコはつんのめった。プラチナブロンドの後頭部が、勢いよく倒れてくる。巻き添えをくらったハティは、彼と一緒にトランクの上へ尻もちをついた。
「貧乏人のウィーズリー?」
搾り出したようなか細い声が聞こえる。赤毛の女の子が唇を震わせて、二人を見下ろしていた。フレッドやジョージと一緒にいた子だ。
「威張ってばっかのマルフォイよりはマシだわ。あなたなんて、は、ハリーと比べたら……」
丸いほっぺたがトマト色に染まる。女の子は何も言えなくなり、そのままくるっと踵を返して走り去った。
「……ウィーズリーのチビめ。お下がりのローブしか着れないくせに」
マルフォイが毒づく。ハティは服についた埃を手で払った。
「ロナルド・ウィーズリーの妹か」
鳶色の勝ち気な目を思い出す。トレードマークの赤毛はともかく、高い鼻は確かにロンとそっくりだった。
「何て言えばいいか分からないけど、きれいな子だね」
「君、正気かい?」
「きれいな子の話なら、まずはこの僕を呼んで然るべきだと思うんだが」
予期せぬ第三の声が、二人の会話に割って入った。ブレーズ・ザビニが、コンパートメントの扉の隙間から顔を出している。
「君たちはなんで床に転がってるんだ。喧嘩でもしたのか?」
「かもね」
ブニャブニャ文句を垂らしているソルティを抱えて、ハティは立ち上がった。
「マルフォイが一発貰ったみたいだよ。マシュマロみたいな、柔らかいやつ」
ザビニは、ちょっと意地悪そうな顔で喜んだ。
「へえ、そりゃあ見ものだな。やったのは君か?どうせなら、僕の前でいがみあってくれよ。お坊ちゃま同士の殴り合いなんて面白そうだろ」
「殴るのはごめんだね。手を汚したくない」
前髪を乱したマルフォイが、憤然と扉に手をかけた。
「それで、僕をコンパートメントに入れるつもりはあるのか?」
「どうぞ。君のお友だちも、頼んでもないのに居座っているからな。……フォウリー、君も入れよ」
キャラメル色の手が、横開きの扉を滑らせる。どうやら、コロンを変えたらしい。ミステリアスなサンダルウッドの香りで、背伸びどころかつま先立ちをしたような雰囲気だ。
コンパートメントの中には、親愛なる小さな子分たちがいた。ハリー・ポッターが言うところの「トロールよりバカなやつら」、ビンセント・クラッブとグレゴリー・ゴイルだ。
「探したぞ」
マルフォイの声に君主じみた響きが混じった。
「向こうに車内販売のカートがある。ついて来い」
クラッブとゴイルがのそのそと立ち上がる。ハティは慌ててポケットの中を探った。夏の間にとっておいた包みがある。
「お菓子なら持ってきたのに。ほら、『ドラゴンの鼻くそチョコレート』。みんなで食べようよ」
遠ざかる岩のような背中に、粘り強く声をかける。
「スウェーデン保護区で買ったんだ。選りすぐりのカカオを使ってて──」
「お菓子はただの口実さ」
ザビニが向かい側の席に座りながらいった。すっかりしょげてしまったハティを、興味深そうに見つめている。
「やつら、ポッターどもを探しに行ったんだろう。マルフォイは『生き残った男の子』に熱を上げているからね。……そんなことより、その鼻くそとやらを僕にくれないか。ドラゴンのアレにしちゃあ、おいしそうだ」
鼻くそチョコを食べながら、二人は夏休みにあった出来事を話し合った。どこに行って、誰と出会ったか。最大のニュースは何か。
ザビニの母親は、新しい恋人の頭を誤って吹っ飛ばすところだったらしい。わざとなのか、うっかりなのかはマーリンのみぞ知る、だ。
話題がロンの妹に移った時、彼は露骨に嫌な顔をしてみせた。
「いくら可愛くても、あの赤毛の妹だろう?僕はナシだな。ウィーズリー家ってだけで、『自分はブサイクです』って言ってるようなもんだ」
「君も、血を裏切る者には厳しいんだね」
「当たり前だろ」
ザビニが唇を開いて催促する。チョコレートは宙で弧を描き、形のいい口の中へ収まった。
「穢れた血の肩を持つような連中なんか、アズカバンにぶちこまれたらいいんだ」
「けが──、何だって?」
双方の表情が凍りつく。失言だと気付くのにそう時間はかからなかった。ザビニはチョコを咀嚼しながら、じろじろとハティを眺め回した。
「『穢れた血』だよ、フォウリー。君とはほど遠いものさ」
「そうかな」
視線が針の先のように鋭くなる。ハティはドラゴンの鼻くそチョコレートを差し出して、強張った笑みを繕った。
「僕の両親は博愛主義でね。鼻くそに免じて許してくれないか」
「君のことはそこまで嫌いじゃない」
ザビニはやけに穏やかな声で、言葉を刻んだ。
「スリザリン寮生で、マルフォイに噛みつける人間はそうそういないからね。頭は回るようだし、顔もまあ……。目を背けるほどではないし」
「どうも」
「だから、今回だけは知らないふりをするよ。気付いてないようだから教えてあげるけど、欲張るのが君の悪い癖だ。バカな考えは捨てることだな」
ザビニはチョコレートを受け取って、ぼそっと呟いた。
「それに、ノットにも限界がある」
「……え?」
その時、勢いよくコンパートメントの扉が開いた。ポッター狩りに出かけたはずの三人が、早々に戻ってきたらしい。クラッブとゴイルは腕にいっぱいのお菓子を抱えていた。
ザビニは普段の高慢な調子をとり戻した。
「収穫はあったのかい?」
「いや」
マルフォイの顔は明らかに不満を訴えていた。
「でしゃばりのグレンジャーだけだ。あの二人はいない」
「ポッターとウィーズリーが?」
ハティは、プラットホームでウィーズリー家を見かけた時のことを思い出した。
「そういえば、姿を見ていないな。他のウィーズリーの子はいたはずだけど」
「やつら、乗り遅れたんじゃないのか?」
ザビニが愉快そうにいう。たった今、通路を通り過ぎていった三年生の女の子に目を奪われていた。
「ポッターはいかれマグルと一緒に住んでるんだろ?きっと、物置小屋に閉じこめられているのさ」
「だといいけどね」
マルフォイは皮肉っぽく笑ったが、やはりどこか物足りなさそうだった。ハティは三人にチョコレートを渡した。
「ねえ、マルフォイ……」
ノットを見かけなかったか。そう聞きたかったのに、言葉が出てこなかった。ザビニの言ったことが頭の隅に引っかかっていたのだ。
ハティは首を横に振った。
「ごめん、なんでもない」
鼻くそチョコはまずまずの評価だった。もっとも、クラッブとゴイルは蛙チョコとの区別すらついていないようだが。
マルフォイは汚いものを触るような手つきで、チョコレートを指でつまんだ。
「ドラゴンの鼻くそだって?君のセンスはとことん壊滅的らしいね。わざわざスウェーデン保護区にまで行って、買ってくるのがこれなのか」
「仕方がないだろ。フェリックス叔父さんが勧めてきたんだから」
ハティはソルティを押さえつけながら唸った。ゴイルが開けた、百味ビーンズのカレー味を横取りしようと暴れていたのだ。
「それ、見た目が本物みたいだから、いつも売れ残ってるらしいんだ」
「要するに余り物じゃないか。僕はいらない」
マルフォイはクラッブにチョコを投げ渡すと、ふと動きを止めた。
「フェリックスって、ロジエール家の?」
「そうだよ、母さんの弟なんだ」
「ふーん」
彼は気のない返事をすると、窓の方へ注意を向けた。急に田舎の牧場に興味が湧いたらしい。流れる景色を険しい目つきで追っている。
ザビニは立ち上がると、優雅に伸びをした。
「そろそろローブに着替えた方がいいな」
そういって、クラッブとゴイルに挑発的な一瞥をくれる。
「ちょっとそこの小さなお二人さん、悪いんだけど出てってくれないか?君たちがいると、狭っ苦しくてかなわないよ」
ホグワーツ特急が停車したあと、小さな駅は大混乱に陥った。猫という猫がしきりに騒いでいるし、ふくろうはホーホーいって、羽をばたつかせている。遠くでは、森番のルビウス・ハグリッドがカンテラを振って「イッチ年生」を呼んでいた。
人波に流される中、ハティは頬が緩むのを感じた。とうとう帰ってきたのだ。歴史ある素晴らしき学び舎、ホグワーツ城へ。
ぬかるんだ馬車道へ出ると、見知った顔がちらほらと現れた。
「ご機嫌よう、フォウリー」
お茶目なトレイシー・デイヴィスがひらひらと手を振ってくる。マルフォイはさっそく、取り巻きのパンジー・パーキンソンに捕まっていた。
「ちょっと、何であなたがドラコと一緒にいるのよ」
パグ犬よろしく、鼻息荒く噛みついてくる。ハティは軽くお辞儀を返した。
「僕も会いたかったよ 、パーキンソン。やあ、ダフネ。元気にしてたかい?」
儚げなハニーブロンドの女の子、ダフネ・グリーングラスがはにかんだ。
「もちろん。あなた、ちょっと背が伸びたわね。ハティ」
マルフォイが、新しく発売されたニンバス2001のうんちくを語っている間、ハティはキョロキョロと馬車道を見回していた。後ろに並んでいるのは上級生ばかりで、二年生の顔はない。
「安心して。ノットなら、ちゃんとホグワーツ特急で見かけたから」
様子を見かねたダフネが、落ち着かせるように囁いた。
「きっと大広間で会えるわよ。……ほら、馬車が来たわ」
ひとりでに動く馬車に乗って、ハティたちは明かりがきらめくホグワーツ城へ向かった。正面玄関の樫の木の扉をくぐり、広々とした玄関ホールに出る。大広間に入ると、何百という蝋燭が宙に浮かんでいた。去年と同じように天井には満点の星が輝き、四つの長いテーブルには、金の皿やゴブレットが置かれている。
ハティはスリザリンのテーブルについた。生徒たちが次々と座り始めた時、向かい側に座っていたザビニが肩を叩いてきた。
「見ろよ。愛しの彼のご登場だ」
ノットは六年生の群れに混じって現れた。ホグワーツの黒いローブをしっかりと着こなして、唇をきつく結んでいる。
彼はハティの姿を認めると、静かに隣の席へ滑りこんだ。
「……やあ、久しぶりだね」
ハティは努めて明るい声を出した。
「汽車の中で君を探したんだけど、見つからなくて。──はい、これ。君の分の鼻くそ」
ノットはピクリと眉を動かしたが、大人しくチョコレートを受け取った。特段いつもと変わった様子はない。無口な優等生のセオドール・ノット、ハティの知るノットだ。
そうこうしているうちに、歓迎会が始まった。一年生の寮の組分けが終わり、新しい先生の紹介。お次はアルバス・ダンブルドアの挨拶だった。
「新学期おめでとう!ごちそうで頭がぼーっとなる前に、言っておかねばならんのう」
ダンブルドアはキラキラ輝く眼差しを、生徒たちに注いだ。
「そーれ、わっしょい、こらしょい、どっこらしょい!……以上じゃ」
スリザリン寮生が無反応を貫く一方で、ハティはこっそりローブの裾で口を覆った。この風変わりな魔法使いが好きだ。もちろん、寮対抗杯の恨みは忘れていないが。
お待ちかねのディナーが現れた時、パリパリのソーセージを食べながら、ザビニが顔を寄せてきた。
「新しい先生の顔を見たか?」
「ああ、うん」
ハティはベイクドポテトを味わいながら、頷いた。
「ハンサムな人だな。ちょっと抜けてそうだけど」
「ちょっとどころじゃない。あいつは天性のアホだ。僕の勘が正しければだが」
「そういえば、スネイプ先生はどこに行っていたんだろう」
ハティは教職員のテーブルの方へ目を向けた。土気色の顔のセブルス・スネイプが、ローストビーフを噛みしめている。ホグワーツの料理はどれも絶品なはずなのに、まるで石でも食べているかのような表情だ。
「マクゴナガル先生やダンブルドア先生もバタバタしてたみたいだし」
「何だお前、知らないのか?」
見下した口調で割りこんできたのは、六年生のマーカス・フリントだった。この上なく性根が悪そうな顔に、意味ありげなニヤニヤ笑いを浮かべている。
ハティは冷めた目で、クィディッチのキャプテンを見据えた。
「何を?」
「ポッターとウィーズリーの噂だよ。やつら、呪文のかかった車に乗ってホグワーツにやって来たんだ」
フリントはクシャクシャの紙くずを尻ポケットから取りだした。「夕刊予言者新聞」で、見出しは「空飛ぶフォード・アングリア、訝るマグル」となっている。
ハティは微笑みそうになるのをこらえて、新聞をつき返した。
「へえ、悪くないね」
「今ごろ、あいつらは退校になっているだろうな。グリフィンドールはシーカーを失っちまったってわけだ。ウッドのやつ、きっと泣き叫ぶだろうぜ」
「それ、本当かい?」
ドラコが興味津々に参加する。フリントはますます得意顔になった。
「間違いない。先公どもが騒ぐのを見たんだ──」
ありえない、とハティは思った。もしハリーが退学になったのなら、スネイプは満面の笑みで席についているはずだ。ダンブルドアが肩入れをしなかったというのも信じられない。
「ねえ、どう思う?」
ノットはステーキを切り分けながら答えた。
「どうもこうも、スネイプ教授を見れば分かるだろう」
予想は的中した。ハリーとロンは退学の窮地をなんとか免れたらしい。ただし、無傷とまではいかなかったようで、ロンは母親から真っ赤な吼えメールを送りつけられていた。
ハリーの方はというと、カメラを持った一年の小坊主に追い回されている。しかし、最も彼を悩ませているのが……。
「私だ」
「闇に対する防衛術」の最初の授業でのこと。ブロンドのギルデロイ・ロックハートが、ウインクをしながらいった。
「ギルデロイ・ロックハート。勲三等マーリン勲章、闇の力に対する防衛術連盟名誉会員──」
長々とした自慢が終わり、ミニテストの答案が回収される頃には、クラスの全員が蔑むような目で彼を見つめていた。もともと教師陣にとって、スリザリン寮生は扱いやすい生徒ではない。端的に言うと、利益を与えてくれる人間にしか心を開かないからだ。
ただ、このロックハートも凡庸なナルシストではなかった。
「おやおや、君たちは勉強が苦手なのかな?」
彼は特大のスマイルを教室内に撒き散らした。
「『狼男と大いなる山歩き』をもう少し、しっかりと読まなければいけない子がいるようだね。第十二章で書いているように、私にとっての最高の贈り物は魔法界と非魔法界のハーモニーで──」
本を衝立代わりにして、マルフォイがゲーゲー吐くジェスチャーをやってのけた。
「──このように、満点を獲得した人はいないわけですが、授業では復習をすることにしましょう。……そこの君」
「はい?」
ハティは気の抜けた返事をした。あまりにも退屈だったので、「呪文学」で取ったノートを見返していたのだ。
ロックハートは百点満点の笑顔で聞いた。
「君、名前は?」
「フォウリーです」
「よろしい。ミスター・フォウリー、ここに立ってトランシルバニアの青年の役をやりなさい。心をこめて演じるんだよ」
同情と嘲りの混じったクスクス笑いが、辺りに沸き起こる。
「もちろんです、先生」
ハティは「狼男と大いなる山歩き」を持って、立ち上がった。
「ところで、先生の学生時代についてなんですけど。自分宛にラブレターを何百通も送ったというのは本当なのですか?大広間は、ふくろうの糞でめちゃくちゃになったと聞きましたが」
その後の「魔法薬学」の時間では、幾分かすっきりとした空気が、スリザリン寮生たちの間に流れていた。
「あの時のロックハートの顔ときたら、最高だったな」
ザビニが笑いを噛み殺しながらいう。
「僕の言った通りだろ……。あいつは正真正銘のバカなのさ。運よくきれいな顔で生まれたから、チヤホヤされてるだけでね」
「その顔だけのバカに、僕は罰則を言いつけられたわけだ」
ハティは苦々しい顔で、クモの足を刻んだ。
「笑い者もいいところだよ。人生で初めての罰則が、ロックハートからのお達しだなんて」
「自業自得だ」
珍しくノットが口を挟んだ。薬を煮詰める片手間に、「ポリジュース薬」についての説明を羊皮紙にまとめている。
ハティは肩をすくめた。
「いいさ、みんなに笑われたって。ダフネが慰めてくれたんだ。それだけでも怒らせたかいがあるね」
「我輩としては、笑うわけにはいきませんな。君は寮の貴重な点数を十点も減らした上に、材料を台無しにしようとしている」
低く柔らかな声が、背後から聞こえる。寮監のスネイプ先生が音もなく手元を覗きこんでいた。虚ろな目には、光一つ写っていない。
「諸君。無駄口を叩く暇があるのなら、目の前の作業に集中したまえ。フォウリー、クモの足を刻みすぎだ」
先生が杖を振ると、ぐちゃぐちゃになった足は跡形もなく消え去った。
「新しい分と取り替えてこい」
そう言い残すと、別のテーブルに移る。一部始終を見ていたグリフィンドール寮生が、贔屓だと愚痴をこぼしたが、ザビニが鋭い舌打ちをもって黙らせた。
このように出だしはつまずいたものの、順調に日々が過ぎていった。少なくとも、去年よりはスリザリンの空気に馴染めているような気がするし(その分、他寮の生徒からは避けられるが)、先生方からの評価もそこそこだった。
銀のスナップボタンをつまんで、マクゴナガル先生は厳格に頷いた。
「いいでしょう。スリザリンに五点を差し上げます。理論をよく理解できているようですね」
ハティは照れながら、小さくお礼をいった。学ぶことに対して貪欲でいられるのは、優秀な友人がそばにいるからだ。ノットは授業の開始十分でコガネムシをメタルボタンに変え、ハティよりもさらに多くの点数を稼いでいた。
何もかもが思い通りに進んでいるが、冷や汗をかく場面がまったくなかったわけではない。
その週の金曜日、「薬草学」でマンドレイクとの格闘を終えたあと、ロックハートの罰則を受けにいった。ファンに対する愛の文句を百通り考えるというもので、フィルチとデートをした方がマシだと思えるような時間だった。
次の日、ぐっすりと寝入っていたハティは、騒がしい声で目を覚ました。どうやら、談話室が大いに盛り上がっているらしい。
顔を出してみると、火のついていない暖炉の前に人だかりができていた。
「何の騒ぎ?」
寝ぼけ眼をこすりながら、近くにいたトレイシーに聞く。答えはすぐに返ってきた。
「クィディッチメンバーに、新しい箒が届いたんだって。新型のニンバス2001だよ……。それも全員分!」
彼女の声は興奮でうわずっていた。
「あんな最高級の箒が手に入るだなんて!パンジーから聞いたんだけど──」
「ああ。どうせ、マルフォイのお父さんが支援してくれたんだろ」
トレイシーは興を削がれたような顔になった。
「どこで聞いたの?」
「ミスター・マルフォイからだよ。この前会った時に、クィディッチの話になったんだ」
ハティはグーグー鳴っているお腹を撫でた。朝食を逃したせいで、恐ろしいほど腹ぺこだ。厨房に行けば、焼きたてのトーストにありつけるかもしれない。
談話室を横切っていると、人だかりが割れてクィディッチチームのメンバーが現れた。他の選手よりも小さなその姿は──。何とマルフォイだ。選手用のローブに身を包み、ピッカピカの箒を手にしている。
彼はハティを見つけると、自慢げな笑みを引っこめた。薄青い瞳に、わずかな警戒の色が現れる。
「フォウリー」
「おはよう、マルフォイ。とうとう選手に選ばれたんだね」
年齢的に二年生の抜擢は珍しいはずだが、彼ならありえなくもない。「飛行訓練」の授業では、周りの生徒をバカにできるくらいには上手だった。
気になるのは、フリントが選ぶメンバーにしては小柄すぎることだ。
「ただの選手じゃない。シーカーだ」
尖った顎が、威嚇するように上向いた。
「父上が最新型の箒をくださってね。フリントは僕に対する認識を改めたらしい。もっとも、僕からしてみれば正当な評価だ。ポッターみたいに贔屓で選ばれたわけじゃない……。あの穢れた血は、納得してなかったようだけど」
背中にひやっとしたものが流れ落ちる。ハティは目を逸らさずに、唇だけを動かした。
「誰なんだい?そのマグル生まれは」
「ろくに箒も乗れないくせに、出しゃばってくるようなやつだ。確か、ウィーズリーと一緒にいたな」
ハーマイオニーだ。有頂天になっているドラコに、まっとうな意見をぶつけたのだろう。グリフィンドールのクィディッチメンバーは、お金ではなく純粋な才能で選ばれている、と。
そして、結果がこれだ。ロンはさぞや激昂したに違いない。
「君に文句を言うのは、グレンジャーだけじゃないだろう?」
「ウィーズリーなら、今ごろナメクジまみれになっているだろうね」
マルフォイの口元に、せせら笑いが浮かんだ。
「新しい杖も買えないような貧乏人には、それくらいがお似合いだ」
ハティは微動だにせず、その場に立ち尽くしていた。去年の今ごろなら、真っ向から彼に言い返していたはずだ。「ハッフルパフに組分けされるはずのフォウリー」は、差別的な言動を見逃しはしない。
けれど、今の自分は?何人かの生徒が、ちらちらとこちらを盗み見ている。椅子に座ったザビニが、残酷な好奇心をむき出しにして傍観を決めこんでいた。
「……二年生でシーカーに選ばれたんだ。きっと、君の腕は確かなんだろう」
ハティは限りなく目を細めて笑った。
「才能は資力を上回る。おめでとう、ドラコ」
エメラルドグリーンの肩を叩いてみせる。仲裁をしようと身構えていたジェマ・ファーレイが、ぴたりと足を止めた。暖炉の近くでは、何人かの同級生たちがほっとしたようにため息をついている。
マルフォイの顔が怪訝そうに歪んだ。
「いったい、どういう風の吹き回しなんだ?」
「べつに。スリザリン寮生として応援してるだけさ」
ハティは顔をしかめて、胃のあたりをさすった。
「ところで、サンドイッチか何か持ってたりしない?朝食を食べ損ねたんだ。こんなこと、滅多にないんだけどね」
やがて緊張の九月は過ぎ去り、この上なく平和な十月がやってきた。冷たい雨が降り続く毎日で、窓から見える湖の中は暗く濁っていた。
ディナーまでの束の間、ベッドの上で本を読んでいたノットが、ふと顔を上げた。
「それ、ここでやらないといけないのか?」
ハティはクリスタルの瓶を、杖の先で叩いた。ジャンク屋から仕入れてきたお古だが、強度はばっちりだ。
「談話室ではやるなって、ファーレイに言われたんだ。何だか怪しく見えるんだってさ。スリザリンじゃ誰も気にしないだろうにね」
瓶の横には、ノットのくれた月球儀が置いてあった。今日は齧られたような三日月だ。銀のもやを纏って、淡く輝いている。
「インセンディオ、燃えよ」
杖の先から赤い火が出て、瓶の中で燃え上がった。飛び移った火は羊皮紙を拠り所とし、次第に安定した炎へと形を変えていく。
ハティはその瓶を、ドラゴン革のナップサックの中に入れた。スウェーデン保護区で買ったもので、「検知不可能拡大呪文」を施してある。引き伸ばされた袋の中には、同じような魔法の炎が五つほど揺れていた。
ノットは本のページに視線を戻した。
「アッシュワインダーを生み出して、何に使うんだ」
「卵がほしいんだよ」
袋の口をきつく縛って、ハティは満足げにベッドの下に隠した。
「生徒用の棚にはないからね。魔法薬の材料はできるだけ揃えておきたいんだ」
アッシュワインダーは通常、人の目のない場所で生まれる。何時間も燃え続けた炎の燃えさしから、今度は卵を産むために薄暗い場所へ這っていくのだ。卵は早急に凍結呪文をかけて回収せねばならない。
彼らにとって、ナップサックの中はこの上ない楽園のはずだった。ドラゴンの革を使用しているから、卵の熱にも耐えられるだろう。
しかし、待てど暮らせど蛇は生まれてこなかった。後で分かったことだが、卵の発火を恐れたルームメイトが、こっそり火を消していたのだ。
「落ち着いて実験できるところを探さないと」
ハロウィーンの夜、ハティはキャベツ入りマッシュポテトを口につっこんだ。
「ねえ、いい場所を知らない?」
同級生たちは思い思いに適当な答えを口走った。「ロックハートの部屋に火をかけてこい」だとか、「フィルチのパンツの中に隠しておけよ」だとか。
そんな中、ラムチョップを貪っていたクラッブが、冴えた閃きを口にした。
「……ビンズ先生の部屋」
一同は目を瞠 った。確かに、すでに死んでしまっているゴーストなら、火を恐れることはないだろう。
「あの人たち、熱さを感じるのかしら」
ダフネが「血まみれ男爵」を見ながらいった。ちょうど、一年生たちの体をすり抜けていったところだ。赤毛の女の子が、酷く青ざめた顔で震えている。
ホグワーツ特急で出会った子だと、すぐに気がついた。少し前まで「元気爆発薬」のお世話になっていたはずだが、まだ風邪を拗らせているのだろうか。
「ちょっと、フォウリー。聞いてるの?」
パーキンソンが苛立った声を出した。
「何が?」
「だから、三階の女子トイレよ。あそこなら、火事が起きたって心配ないわ。そうよね?」
隣にいた、ミリセント・ブルストロードが頷いた。茹でたポテトを少しずつ、フォークでつついている。
「『嘆きのマートル』がいるから、誰も入りたがらないの」
「女子トイレか。そりゃあ目立たないだろうね。僕、男の子だし」
ハティはそういうと、ゴブレットのかぼちゃジュースを一気に飲んだ。頭蓋を貫くような冷たさが、喉の奥をするすると下っていく。
パンジーは呆気にとられた顔で、その様子を見ていた。
「あなたに、デリカシーなんてものがあるの?」
「もちろん」
「じゃあ、聞くけど」
ミリセントが口を挟んだ。パーキンソンと目を合わせて、互いに頷きあっている。
「あんたのところの猫、女子寮に出入りしてるよね。その辺はどう思ってるわけ?」
分の悪すぎる戦いを終えて、ハティは大広間をあとにした。
「女の子ってやつはずるいんだよ。すぐ同盟を組むんだから」
負け犬の遠吠えは、生徒たちのざわめきの中へ呑まれていく。勝ち誇った顔のパンジーが、ハッフルパフの子を押しのけてマルフォイの背中を追っていった。
「おかげでパンプキンパイを食べ損ねたよ。次に出るのはいつだっけ?」
「もう出ないだろう」
ノットが無情な正確さで答えた。
「明日からは十一月だ」
彼のいう通りだった。石の廊下には影が落ち、そこら中に殺伐とした冷気が漂っている。そろそろ湖の表面が凍り出す頃だ。
巨大イカはどこへ逃げるのだろうか。そんなくだらないことを考えながら、ハティはあくびを抑えた。
「ねえ、ノット。寮に帰ったら、君に渡したいものがあるんだけど」
その時、急に集団の歩みがとまった。背の高い、レイブンクロー寮生たちが、何やら戸惑った様子で立ち往生している。前方で事件が起こったらしい。
「ミセス・ノリスが……」
誰かの呟きが、耳に届いた。ハティはノットの方へ身を寄せて囁いた。
「あのガリガリ猫、今度は何をやらかしたんだろう」
「さあ」
「継承者の敵よ、気をつけよ!」
突如、静けさを破って誰かが叫んだ。
「次はお前たちの番だぞ、『穢れた血』め」
マルフォイの声だった。ハティは意を決して、人ごみをかき分けた。三階の廊下の真ん中に、何人かがぽつんと立っている。あのくしゃくしゃの黒髪は、ハリー・ポッターだ。ロンとハーマイオニーもそばにいる。
三人の背後の壁に、松明の明かりに照らされてちらちらと文字が光っていた。
秘密の部屋は開かれたり
継承者の敵よ、気をつけよ
そして、松明からぶら下がっているものは……。間違いない、ミセス・ノリスだ。
ハティは苦いものが胸にこみ上げてくるのを感じた。
「なんだ?何事だ?」
騒ぎを聞きつけたフィルチが、水たまりの床をビシャビシャといわせながらやってくる。彼はぶら下がったミセス・ノリスを見ると、あまりの恐怖に後ずさった。
「ミセス・ノリス!私の猫だ!ああ、彼女にいったい何が──?」
「失礼、通らせてくれるかの」
静かな声に、何人かの生徒が飛びのいた。アルバス・ダンブルドアが先生たちを従えている。
ハティは道を譲った。射抜くような真っ青な瞳と目が合った。
「お前だな!お前があの子をやったんだ!私の飼い猫を殺した……。殺してやる!私がお前を──」
「アーガス!」
今にも飛びかからんとするフィルチを、ダンブルドアが止めに入る。ハリーの顔は血の気を失っていて、紙のように白くなっていた。
ハティは強く唇を噛んだ。
まただ。どうして、ハロウィーンの日は何かが起こってしまうのだろう?
愛してやまない平穏は破られてしまった。チョコレートの包み紙のように、あっけなく。甘い香りを残して。
夏休みはあっという間に過ぎ去り、ホグワーツへ戻る日が刻々と近付いてきた。飼い猫のソルティは、ガールフレンドとの再会に向けて丁寧に毛繕いをし、ハティは教科書を開いて予習を始めた。
グリムはテーブルの下へ隠れることが多くなった。サラマンダーの入った瓶を抱えて落ちこんでいる弟の頭を、ハティはそっと撫でた。
「ねえ、今から泣くことはないだろう。僕たち、あと三日は一緒にいられるんだから」
涙に濡れた目が、哀れっぽく兄を見上げる。
「クリスマスには戻ってきてくれるよね?」
ハティは答えられなかった。今年はホグワーツでクリスマスを楽しみたいからと、両親に伝えたばかりだったのだ。
罪悪感を打ち消そうと荷造りに励んでみたものの、こちらもなかなかに重労働だった。新しい教科書──、特にロックハートの本──。はスペースを取る一方だったし、トランクの掃除もしなくてはならなかった。
ふくろうの羽、キャンディの包み紙、ウナギの目玉。とるに足らない思い出の残りカスが、ゴミ箱へと送り込まれていく。ハティは教科書と衣類、学用品、貴重品が入った赤と緑のシーツ袋を手際よく詰めこんだ。
最後にキャンバス紙の包みを入れて、トランクを閉じる。彼が喜んでくれるといいのだが。
「坊ちゃま、お夕食の時間でございます」
開いたドアから、キーキー声が聞こえた。屋敷しもべ妖精のマギーだ。パステルブルーのバスマットを体に巻きつけている。
「今行くよ、マギー」
ハティは彼女と一緒に階段を降りた。
「三日後にはホグワーツだ。あそこのランチを味わう前に、君のサンデーローストを頂かないとね」
最後の三日間は瞬きをする間に消えていった。ご馳走をこれでもかというほど食べ、弟につきっきりの時間を過ごしたあと、ハティは再び9と3/4番線のプラットホームに立った。
「さすがに人が多いな」
フォウリー氏がぼやく。両親は顔見知りの人たちに引き止められてばかりで、先ほどから同じような挨拶を何度も繰り返していた。
ハティは、トランクをホグワーツ特急の入り口に持ち上げながら唸った。
「へんてこな論文を発表するからだろ」
「分かってないな。マートラップは可能性に満ちた生き物なんだ。もう少し研究を重ねれば、きっと──」
言葉がふっと消える。父は別の方向を見ていた。
「アーサーだ」
視線の先には、燃えるような赤毛の大家族がいた。監督生のパーシー・ウィーズリーと双子、その妹と思わしき女の子が慌てて走ってきている。隣にいる背の高い男性と、ふくよかな女性が彼らの両親だろう。
ハティは目をこらした。変だ。ロナルド・ウィーズリーがいない。
フォウリー氏が妻の腕をつついた。
「マーナ、あとで挨拶に伺おう。彼とはもう随分と顔を合わせていない」
「ええ、そうね」
フォウリー夫人は、栗色の髪を後ろに払った。
「でも、その前に貴族の責務を果たさないとね。……ルシウスがこっちへ来るわ」
ハティは反射的に背筋を伸ばした。ウィーズリー家とは反対側の方向から、マルフォイ家の面々がゆっくりと歩いてくる。双子の呪いをかけたような父と息子、今度はほっそりとした母親も一緒だ。
フォウリー氏は完璧な朗らかさをもって、彼らを迎え入れた。
「やあ、ルシウス!久しいね」
「これはこれは、ガルム。スポア氏のパーティーでお会いして以来ですな」
ルシウス・マルフォイは、ひんやりとした優雅な微笑みを唇に浮かべた。
「月日というものは矢のように過ぎていく。先日、細君とご子息を我が館にお招きしたが──」
薄い灰色の瞳が、ハティの顔へ向けられた。
「──すばらしいひと時だった。マーナにハティ、我が家の紅茶には満足して頂けたかな?そこにいる小さな君が、弟のグリムだね。妻のナルシッサとドラコだ。ガルム、息子に会うのは初めてだろう」
ドラコはためらいながらも、フォウリー氏に対して礼儀正しく挨拶をした。ハティには笑いかけるどころか、目を合わせようともしない。顔を見れば、嫌味を飛ばしたくなってしまうからだろう。
その後ろでは、ナルシッサ・マルフォイが静かに佇んでいた。気難しそうな顔にうっすらとした愛想笑いを滲ませている。
彼女はフォウリー夫人を見ると、口を開いた。
「マーナ」
「シシー。何年ぶりかしら」
二人の奥方はそれ以降、口を開かなかった。ただ咲きかけのバラのように、曖昧に微笑んでいる。
「思い出話はあとだ。まずは我が子たちを送り出さねば」
フォウリー氏が、腕時計をチェックしながらいった。
「坊や、元気でな。大いに学んで、大いに遊ぶんだよ。先生の言うことをよく聞くように」
「うん」
ハティは素直に頷いた。隣ではドラコが同じように、母親からさよならのキスを受けている。
フォウリー夫人が息子の前髪を撫でた。
「お友だちと仲良くね。危険なことには首を突っこまないのよ。つまらないのが一番平和なんだから」
「もちろん。上手く立ち回って、安定した日々を送るさ……。僕はスリザリン寮生だからね」
そう答えたあと、ハティはマルフォイ夫妻の方をちらっと見た。なぜだか、彼らがにっこりと笑ったような気がしたのだ。
グリムが泣きそうな顔で袖を引っ張った。
「手紙、いっぱい送ってね」
そういって、胸の中へ飛びこんでくる。弟をなぐさめるように抱きしめたあと、ハティはホグワーツ行きの汽車へ乗った。
コンパートメントは隙もなく、生徒たちで埋め尽くされていた。そこかしこから花火の音やふくろうの鳴く声、興奮した囁きが聞こえてくる。
軋む通路を歩きながら、ハティは先を行くマルフォイに声をかけた。
「こうして乗ってみると、ワクワクしないか?もうすぐホグワーツに戻るんだって」
ミャウ、とソルティが短く答える。メロン色の目が、過ぎていく景色を捉えていた。
「ねえ。僕たち、これからどうしようか」
「僕たち?」
マルフォイが振り向く。眉間にしわが寄っていた。
「勝手にしろ。僕はクラッブとゴイルを探す」
「あれ?僕と仲良くするんじゃなかったのかい。君のお父さんはそう望んでいるようだけど」
「まさか」
青白い顔に、いつもの嘲笑が戻る。
「父上はそれなりの対応をなさっただけさ。フォウリー家の好意がなくたって、マルフォイ家は上手くやっていける」
「どうしてすぐに、家の話に持っていくのかなあ」
ハティはため息をついた。やれ家柄だの、誰の血をひいているかだの、そういった類の話にはうんざりだ。退屈極まりない。
「そんなに血統が大事なら、ロングボトムに会いに行けよ。純血の革命児だろう」
「ふん。お次は誰だ。アボット家のお嬢様か?」
「アーニーかもしれないね。『純血一族一覧』を参考にするのなら」
マルフォイは鼻で笑うと、気取ったように歩き始めた。
「マクミランはハッフルパフだ。まあ、それでもグリフィンドールの連中よりはマシだけど。貧乏人のウィーズリーや、傷モノのポッターなんかと比べれば──」
話している最中に、ドラコはつんのめった。プラチナブロンドの後頭部が、勢いよく倒れてくる。巻き添えをくらったハティは、彼と一緒にトランクの上へ尻もちをついた。
「貧乏人のウィーズリー?」
搾り出したようなか細い声が聞こえる。赤毛の女の子が唇を震わせて、二人を見下ろしていた。フレッドやジョージと一緒にいた子だ。
「威張ってばっかのマルフォイよりはマシだわ。あなたなんて、は、ハリーと比べたら……」
丸いほっぺたがトマト色に染まる。女の子は何も言えなくなり、そのままくるっと踵を返して走り去った。
「……ウィーズリーのチビめ。お下がりのローブしか着れないくせに」
マルフォイが毒づく。ハティは服についた埃を手で払った。
「ロナルド・ウィーズリーの妹か」
鳶色の勝ち気な目を思い出す。トレードマークの赤毛はともかく、高い鼻は確かにロンとそっくりだった。
「何て言えばいいか分からないけど、きれいな子だね」
「君、正気かい?」
「きれいな子の話なら、まずはこの僕を呼んで然るべきだと思うんだが」
予期せぬ第三の声が、二人の会話に割って入った。ブレーズ・ザビニが、コンパートメントの扉の隙間から顔を出している。
「君たちはなんで床に転がってるんだ。喧嘩でもしたのか?」
「かもね」
ブニャブニャ文句を垂らしているソルティを抱えて、ハティは立ち上がった。
「マルフォイが一発貰ったみたいだよ。マシュマロみたいな、柔らかいやつ」
ザビニは、ちょっと意地悪そうな顔で喜んだ。
「へえ、そりゃあ見ものだな。やったのは君か?どうせなら、僕の前でいがみあってくれよ。お坊ちゃま同士の殴り合いなんて面白そうだろ」
「殴るのはごめんだね。手を汚したくない」
前髪を乱したマルフォイが、憤然と扉に手をかけた。
「それで、僕をコンパートメントに入れるつもりはあるのか?」
「どうぞ。君のお友だちも、頼んでもないのに居座っているからな。……フォウリー、君も入れよ」
キャラメル色の手が、横開きの扉を滑らせる。どうやら、コロンを変えたらしい。ミステリアスなサンダルウッドの香りで、背伸びどころかつま先立ちをしたような雰囲気だ。
コンパートメントの中には、親愛なる小さな子分たちがいた。ハリー・ポッターが言うところの「トロールよりバカなやつら」、ビンセント・クラッブとグレゴリー・ゴイルだ。
「探したぞ」
マルフォイの声に君主じみた響きが混じった。
「向こうに車内販売のカートがある。ついて来い」
クラッブとゴイルがのそのそと立ち上がる。ハティは慌ててポケットの中を探った。夏の間にとっておいた包みがある。
「お菓子なら持ってきたのに。ほら、『ドラゴンの鼻くそチョコレート』。みんなで食べようよ」
遠ざかる岩のような背中に、粘り強く声をかける。
「スウェーデン保護区で買ったんだ。選りすぐりのカカオを使ってて──」
「お菓子はただの口実さ」
ザビニが向かい側の席に座りながらいった。すっかりしょげてしまったハティを、興味深そうに見つめている。
「やつら、ポッターどもを探しに行ったんだろう。マルフォイは『生き残った男の子』に熱を上げているからね。……そんなことより、その鼻くそとやらを僕にくれないか。ドラゴンのアレにしちゃあ、おいしそうだ」
鼻くそチョコを食べながら、二人は夏休みにあった出来事を話し合った。どこに行って、誰と出会ったか。最大のニュースは何か。
ザビニの母親は、新しい恋人の頭を誤って吹っ飛ばすところだったらしい。わざとなのか、うっかりなのかはマーリンのみぞ知る、だ。
話題がロンの妹に移った時、彼は露骨に嫌な顔をしてみせた。
「いくら可愛くても、あの赤毛の妹だろう?僕はナシだな。ウィーズリー家ってだけで、『自分はブサイクです』って言ってるようなもんだ」
「君も、血を裏切る者には厳しいんだね」
「当たり前だろ」
ザビニが唇を開いて催促する。チョコレートは宙で弧を描き、形のいい口の中へ収まった。
「穢れた血の肩を持つような連中なんか、アズカバンにぶちこまれたらいいんだ」
「けが──、何だって?」
双方の表情が凍りつく。失言だと気付くのにそう時間はかからなかった。ザビニはチョコを咀嚼しながら、じろじろとハティを眺め回した。
「『穢れた血』だよ、フォウリー。君とはほど遠いものさ」
「そうかな」
視線が針の先のように鋭くなる。ハティはドラゴンの鼻くそチョコレートを差し出して、強張った笑みを繕った。
「僕の両親は博愛主義でね。鼻くそに免じて許してくれないか」
「君のことはそこまで嫌いじゃない」
ザビニはやけに穏やかな声で、言葉を刻んだ。
「スリザリン寮生で、マルフォイに噛みつける人間はそうそういないからね。頭は回るようだし、顔もまあ……。目を背けるほどではないし」
「どうも」
「だから、今回だけは知らないふりをするよ。気付いてないようだから教えてあげるけど、欲張るのが君の悪い癖だ。バカな考えは捨てることだな」
ザビニはチョコレートを受け取って、ぼそっと呟いた。
「それに、ノットにも限界がある」
「……え?」
その時、勢いよくコンパートメントの扉が開いた。ポッター狩りに出かけたはずの三人が、早々に戻ってきたらしい。クラッブとゴイルは腕にいっぱいのお菓子を抱えていた。
ザビニは普段の高慢な調子をとり戻した。
「収穫はあったのかい?」
「いや」
マルフォイの顔は明らかに不満を訴えていた。
「でしゃばりのグレンジャーだけだ。あの二人はいない」
「ポッターとウィーズリーが?」
ハティは、プラットホームでウィーズリー家を見かけた時のことを思い出した。
「そういえば、姿を見ていないな。他のウィーズリーの子はいたはずだけど」
「やつら、乗り遅れたんじゃないのか?」
ザビニが愉快そうにいう。たった今、通路を通り過ぎていった三年生の女の子に目を奪われていた。
「ポッターはいかれマグルと一緒に住んでるんだろ?きっと、物置小屋に閉じこめられているのさ」
「だといいけどね」
マルフォイは皮肉っぽく笑ったが、やはりどこか物足りなさそうだった。ハティは三人にチョコレートを渡した。
「ねえ、マルフォイ……」
ノットを見かけなかったか。そう聞きたかったのに、言葉が出てこなかった。ザビニの言ったことが頭の隅に引っかかっていたのだ。
ハティは首を横に振った。
「ごめん、なんでもない」
鼻くそチョコはまずまずの評価だった。もっとも、クラッブとゴイルは蛙チョコとの区別すらついていないようだが。
マルフォイは汚いものを触るような手つきで、チョコレートを指でつまんだ。
「ドラゴンの鼻くそだって?君のセンスはとことん壊滅的らしいね。わざわざスウェーデン保護区にまで行って、買ってくるのがこれなのか」
「仕方がないだろ。フェリックス叔父さんが勧めてきたんだから」
ハティはソルティを押さえつけながら唸った。ゴイルが開けた、百味ビーンズのカレー味を横取りしようと暴れていたのだ。
「それ、見た目が本物みたいだから、いつも売れ残ってるらしいんだ」
「要するに余り物じゃないか。僕はいらない」
マルフォイはクラッブにチョコを投げ渡すと、ふと動きを止めた。
「フェリックスって、ロジエール家の?」
「そうだよ、母さんの弟なんだ」
「ふーん」
彼は気のない返事をすると、窓の方へ注意を向けた。急に田舎の牧場に興味が湧いたらしい。流れる景色を険しい目つきで追っている。
ザビニは立ち上がると、優雅に伸びをした。
「そろそろローブに着替えた方がいいな」
そういって、クラッブとゴイルに挑発的な一瞥をくれる。
「ちょっとそこの小さなお二人さん、悪いんだけど出てってくれないか?君たちがいると、狭っ苦しくてかなわないよ」
ホグワーツ特急が停車したあと、小さな駅は大混乱に陥った。猫という猫がしきりに騒いでいるし、ふくろうはホーホーいって、羽をばたつかせている。遠くでは、森番のルビウス・ハグリッドがカンテラを振って「イッチ年生」を呼んでいた。
人波に流される中、ハティは頬が緩むのを感じた。とうとう帰ってきたのだ。歴史ある素晴らしき学び舎、ホグワーツ城へ。
ぬかるんだ馬車道へ出ると、見知った顔がちらほらと現れた。
「ご機嫌よう、フォウリー」
お茶目なトレイシー・デイヴィスがひらひらと手を振ってくる。マルフォイはさっそく、取り巻きのパンジー・パーキンソンに捕まっていた。
「ちょっと、何であなたがドラコと一緒にいるのよ」
パグ犬よろしく、鼻息荒く噛みついてくる。ハティは軽くお辞儀を返した。
「
儚げなハニーブロンドの女の子、ダフネ・グリーングラスがはにかんだ。
「もちろん。あなた、ちょっと背が伸びたわね。ハティ」
マルフォイが、新しく発売されたニンバス2001のうんちくを語っている間、ハティはキョロキョロと馬車道を見回していた。後ろに並んでいるのは上級生ばかりで、二年生の顔はない。
「安心して。ノットなら、ちゃんとホグワーツ特急で見かけたから」
様子を見かねたダフネが、落ち着かせるように囁いた。
「きっと大広間で会えるわよ。……ほら、馬車が来たわ」
ひとりでに動く馬車に乗って、ハティたちは明かりがきらめくホグワーツ城へ向かった。正面玄関の樫の木の扉をくぐり、広々とした玄関ホールに出る。大広間に入ると、何百という蝋燭が宙に浮かんでいた。去年と同じように天井には満点の星が輝き、四つの長いテーブルには、金の皿やゴブレットが置かれている。
ハティはスリザリンのテーブルについた。生徒たちが次々と座り始めた時、向かい側に座っていたザビニが肩を叩いてきた。
「見ろよ。愛しの彼のご登場だ」
ノットは六年生の群れに混じって現れた。ホグワーツの黒いローブをしっかりと着こなして、唇をきつく結んでいる。
彼はハティの姿を認めると、静かに隣の席へ滑りこんだ。
「……やあ、久しぶりだね」
ハティは努めて明るい声を出した。
「汽車の中で君を探したんだけど、見つからなくて。──はい、これ。君の分の鼻くそ」
ノットはピクリと眉を動かしたが、大人しくチョコレートを受け取った。特段いつもと変わった様子はない。無口な優等生のセオドール・ノット、ハティの知るノットだ。
そうこうしているうちに、歓迎会が始まった。一年生の寮の組分けが終わり、新しい先生の紹介。お次はアルバス・ダンブルドアの挨拶だった。
「新学期おめでとう!ごちそうで頭がぼーっとなる前に、言っておかねばならんのう」
ダンブルドアはキラキラ輝く眼差しを、生徒たちに注いだ。
「そーれ、わっしょい、こらしょい、どっこらしょい!……以上じゃ」
スリザリン寮生が無反応を貫く一方で、ハティはこっそりローブの裾で口を覆った。この風変わりな魔法使いが好きだ。もちろん、寮対抗杯の恨みは忘れていないが。
お待ちかねのディナーが現れた時、パリパリのソーセージを食べながら、ザビニが顔を寄せてきた。
「新しい先生の顔を見たか?」
「ああ、うん」
ハティはベイクドポテトを味わいながら、頷いた。
「ハンサムな人だな。ちょっと抜けてそうだけど」
「ちょっとどころじゃない。あいつは天性のアホだ。僕の勘が正しければだが」
「そういえば、スネイプ先生はどこに行っていたんだろう」
ハティは教職員のテーブルの方へ目を向けた。土気色の顔のセブルス・スネイプが、ローストビーフを噛みしめている。ホグワーツの料理はどれも絶品なはずなのに、まるで石でも食べているかのような表情だ。
「マクゴナガル先生やダンブルドア先生もバタバタしてたみたいだし」
「何だお前、知らないのか?」
見下した口調で割りこんできたのは、六年生のマーカス・フリントだった。この上なく性根が悪そうな顔に、意味ありげなニヤニヤ笑いを浮かべている。
ハティは冷めた目で、クィディッチのキャプテンを見据えた。
「何を?」
「ポッターとウィーズリーの噂だよ。やつら、呪文のかかった車に乗ってホグワーツにやって来たんだ」
フリントはクシャクシャの紙くずを尻ポケットから取りだした。「夕刊予言者新聞」で、見出しは「空飛ぶフォード・アングリア、訝るマグル」となっている。
ハティは微笑みそうになるのをこらえて、新聞をつき返した。
「へえ、悪くないね」
「今ごろ、あいつらは退校になっているだろうな。グリフィンドールはシーカーを失っちまったってわけだ。ウッドのやつ、きっと泣き叫ぶだろうぜ」
「それ、本当かい?」
ドラコが興味津々に参加する。フリントはますます得意顔になった。
「間違いない。先公どもが騒ぐのを見たんだ──」
ありえない、とハティは思った。もしハリーが退学になったのなら、スネイプは満面の笑みで席についているはずだ。ダンブルドアが肩入れをしなかったというのも信じられない。
「ねえ、どう思う?」
ノットはステーキを切り分けながら答えた。
「どうもこうも、スネイプ教授を見れば分かるだろう」
予想は的中した。ハリーとロンは退学の窮地をなんとか免れたらしい。ただし、無傷とまではいかなかったようで、ロンは母親から真っ赤な吼えメールを送りつけられていた。
ハリーの方はというと、カメラを持った一年の小坊主に追い回されている。しかし、最も彼を悩ませているのが……。
「私だ」
「闇に対する防衛術」の最初の授業でのこと。ブロンドのギルデロイ・ロックハートが、ウインクをしながらいった。
「ギルデロイ・ロックハート。勲三等マーリン勲章、闇の力に対する防衛術連盟名誉会員──」
長々とした自慢が終わり、ミニテストの答案が回収される頃には、クラスの全員が蔑むような目で彼を見つめていた。もともと教師陣にとって、スリザリン寮生は扱いやすい生徒ではない。端的に言うと、利益を与えてくれる人間にしか心を開かないからだ。
ただ、このロックハートも凡庸なナルシストではなかった。
「おやおや、君たちは勉強が苦手なのかな?」
彼は特大のスマイルを教室内に撒き散らした。
「『狼男と大いなる山歩き』をもう少し、しっかりと読まなければいけない子がいるようだね。第十二章で書いているように、私にとっての最高の贈り物は魔法界と非魔法界のハーモニーで──」
本を衝立代わりにして、マルフォイがゲーゲー吐くジェスチャーをやってのけた。
「──このように、満点を獲得した人はいないわけですが、授業では復習をすることにしましょう。……そこの君」
「はい?」
ハティは気の抜けた返事をした。あまりにも退屈だったので、「呪文学」で取ったノートを見返していたのだ。
ロックハートは百点満点の笑顔で聞いた。
「君、名前は?」
「フォウリーです」
「よろしい。ミスター・フォウリー、ここに立ってトランシルバニアの青年の役をやりなさい。心をこめて演じるんだよ」
同情と嘲りの混じったクスクス笑いが、辺りに沸き起こる。
「もちろんです、先生」
ハティは「狼男と大いなる山歩き」を持って、立ち上がった。
「ところで、先生の学生時代についてなんですけど。自分宛にラブレターを何百通も送ったというのは本当なのですか?大広間は、ふくろうの糞でめちゃくちゃになったと聞きましたが」
その後の「魔法薬学」の時間では、幾分かすっきりとした空気が、スリザリン寮生たちの間に流れていた。
「あの時のロックハートの顔ときたら、最高だったな」
ザビニが笑いを噛み殺しながらいう。
「僕の言った通りだろ……。あいつは正真正銘のバカなのさ。運よくきれいな顔で生まれたから、チヤホヤされてるだけでね」
「その顔だけのバカに、僕は罰則を言いつけられたわけだ」
ハティは苦々しい顔で、クモの足を刻んだ。
「笑い者もいいところだよ。人生で初めての罰則が、ロックハートからのお達しだなんて」
「自業自得だ」
珍しくノットが口を挟んだ。薬を煮詰める片手間に、「ポリジュース薬」についての説明を羊皮紙にまとめている。
ハティは肩をすくめた。
「いいさ、みんなに笑われたって。ダフネが慰めてくれたんだ。それだけでも怒らせたかいがあるね」
「我輩としては、笑うわけにはいきませんな。君は寮の貴重な点数を十点も減らした上に、材料を台無しにしようとしている」
低く柔らかな声が、背後から聞こえる。寮監のスネイプ先生が音もなく手元を覗きこんでいた。虚ろな目には、光一つ写っていない。
「諸君。無駄口を叩く暇があるのなら、目の前の作業に集中したまえ。フォウリー、クモの足を刻みすぎだ」
先生が杖を振ると、ぐちゃぐちゃになった足は跡形もなく消え去った。
「新しい分と取り替えてこい」
そう言い残すと、別のテーブルに移る。一部始終を見ていたグリフィンドール寮生が、贔屓だと愚痴をこぼしたが、ザビニが鋭い舌打ちをもって黙らせた。
このように出だしはつまずいたものの、順調に日々が過ぎていった。少なくとも、去年よりはスリザリンの空気に馴染めているような気がするし(その分、他寮の生徒からは避けられるが)、先生方からの評価もそこそこだった。
銀のスナップボタンをつまんで、マクゴナガル先生は厳格に頷いた。
「いいでしょう。スリザリンに五点を差し上げます。理論をよく理解できているようですね」
ハティは照れながら、小さくお礼をいった。学ぶことに対して貪欲でいられるのは、優秀な友人がそばにいるからだ。ノットは授業の開始十分でコガネムシをメタルボタンに変え、ハティよりもさらに多くの点数を稼いでいた。
何もかもが思い通りに進んでいるが、冷や汗をかく場面がまったくなかったわけではない。
その週の金曜日、「薬草学」でマンドレイクとの格闘を終えたあと、ロックハートの罰則を受けにいった。ファンに対する愛の文句を百通り考えるというもので、フィルチとデートをした方がマシだと思えるような時間だった。
次の日、ぐっすりと寝入っていたハティは、騒がしい声で目を覚ました。どうやら、談話室が大いに盛り上がっているらしい。
顔を出してみると、火のついていない暖炉の前に人だかりができていた。
「何の騒ぎ?」
寝ぼけ眼をこすりながら、近くにいたトレイシーに聞く。答えはすぐに返ってきた。
「クィディッチメンバーに、新しい箒が届いたんだって。新型のニンバス2001だよ……。それも全員分!」
彼女の声は興奮でうわずっていた。
「あんな最高級の箒が手に入るだなんて!パンジーから聞いたんだけど──」
「ああ。どうせ、マルフォイのお父さんが支援してくれたんだろ」
トレイシーは興を削がれたような顔になった。
「どこで聞いたの?」
「ミスター・マルフォイからだよ。この前会った時に、クィディッチの話になったんだ」
ハティはグーグー鳴っているお腹を撫でた。朝食を逃したせいで、恐ろしいほど腹ぺこだ。厨房に行けば、焼きたてのトーストにありつけるかもしれない。
談話室を横切っていると、人だかりが割れてクィディッチチームのメンバーが現れた。他の選手よりも小さなその姿は──。何とマルフォイだ。選手用のローブに身を包み、ピッカピカの箒を手にしている。
彼はハティを見つけると、自慢げな笑みを引っこめた。薄青い瞳に、わずかな警戒の色が現れる。
「フォウリー」
「おはよう、マルフォイ。とうとう選手に選ばれたんだね」
年齢的に二年生の抜擢は珍しいはずだが、彼ならありえなくもない。「飛行訓練」の授業では、周りの生徒をバカにできるくらいには上手だった。
気になるのは、フリントが選ぶメンバーにしては小柄すぎることだ。
「ただの選手じゃない。シーカーだ」
尖った顎が、威嚇するように上向いた。
「父上が最新型の箒をくださってね。フリントは僕に対する認識を改めたらしい。もっとも、僕からしてみれば正当な評価だ。ポッターみたいに贔屓で選ばれたわけじゃない……。あの穢れた血は、納得してなかったようだけど」
背中にひやっとしたものが流れ落ちる。ハティは目を逸らさずに、唇だけを動かした。
「誰なんだい?そのマグル生まれは」
「ろくに箒も乗れないくせに、出しゃばってくるようなやつだ。確か、ウィーズリーと一緒にいたな」
ハーマイオニーだ。有頂天になっているドラコに、まっとうな意見をぶつけたのだろう。グリフィンドールのクィディッチメンバーは、お金ではなく純粋な才能で選ばれている、と。
そして、結果がこれだ。ロンはさぞや激昂したに違いない。
「君に文句を言うのは、グレンジャーだけじゃないだろう?」
「ウィーズリーなら、今ごろナメクジまみれになっているだろうね」
マルフォイの口元に、せせら笑いが浮かんだ。
「新しい杖も買えないような貧乏人には、それくらいがお似合いだ」
ハティは微動だにせず、その場に立ち尽くしていた。去年の今ごろなら、真っ向から彼に言い返していたはずだ。「ハッフルパフに組分けされるはずのフォウリー」は、差別的な言動を見逃しはしない。
けれど、今の自分は?何人かの生徒が、ちらちらとこちらを盗み見ている。椅子に座ったザビニが、残酷な好奇心をむき出しにして傍観を決めこんでいた。
「……二年生でシーカーに選ばれたんだ。きっと、君の腕は確かなんだろう」
ハティは限りなく目を細めて笑った。
「才能は資力を上回る。おめでとう、ドラコ」
エメラルドグリーンの肩を叩いてみせる。仲裁をしようと身構えていたジェマ・ファーレイが、ぴたりと足を止めた。暖炉の近くでは、何人かの同級生たちがほっとしたようにため息をついている。
マルフォイの顔が怪訝そうに歪んだ。
「いったい、どういう風の吹き回しなんだ?」
「べつに。スリザリン寮生として応援してるだけさ」
ハティは顔をしかめて、胃のあたりをさすった。
「ところで、サンドイッチか何か持ってたりしない?朝食を食べ損ねたんだ。こんなこと、滅多にないんだけどね」
やがて緊張の九月は過ぎ去り、この上なく平和な十月がやってきた。冷たい雨が降り続く毎日で、窓から見える湖の中は暗く濁っていた。
ディナーまでの束の間、ベッドの上で本を読んでいたノットが、ふと顔を上げた。
「それ、ここでやらないといけないのか?」
ハティはクリスタルの瓶を、杖の先で叩いた。ジャンク屋から仕入れてきたお古だが、強度はばっちりだ。
「談話室ではやるなって、ファーレイに言われたんだ。何だか怪しく見えるんだってさ。スリザリンじゃ誰も気にしないだろうにね」
瓶の横には、ノットのくれた月球儀が置いてあった。今日は齧られたような三日月だ。銀のもやを纏って、淡く輝いている。
「インセンディオ、燃えよ」
杖の先から赤い火が出て、瓶の中で燃え上がった。飛び移った火は羊皮紙を拠り所とし、次第に安定した炎へと形を変えていく。
ハティはその瓶を、ドラゴン革のナップサックの中に入れた。スウェーデン保護区で買ったもので、「検知不可能拡大呪文」を施してある。引き伸ばされた袋の中には、同じような魔法の炎が五つほど揺れていた。
ノットは本のページに視線を戻した。
「アッシュワインダーを生み出して、何に使うんだ」
「卵がほしいんだよ」
袋の口をきつく縛って、ハティは満足げにベッドの下に隠した。
「生徒用の棚にはないからね。魔法薬の材料はできるだけ揃えておきたいんだ」
アッシュワインダーは通常、人の目のない場所で生まれる。何時間も燃え続けた炎の燃えさしから、今度は卵を産むために薄暗い場所へ這っていくのだ。卵は早急に凍結呪文をかけて回収せねばならない。
彼らにとって、ナップサックの中はこの上ない楽園のはずだった。ドラゴンの革を使用しているから、卵の熱にも耐えられるだろう。
しかし、待てど暮らせど蛇は生まれてこなかった。後で分かったことだが、卵の発火を恐れたルームメイトが、こっそり火を消していたのだ。
「落ち着いて実験できるところを探さないと」
ハロウィーンの夜、ハティはキャベツ入りマッシュポテトを口につっこんだ。
「ねえ、いい場所を知らない?」
同級生たちは思い思いに適当な答えを口走った。「ロックハートの部屋に火をかけてこい」だとか、「フィルチのパンツの中に隠しておけよ」だとか。
そんな中、ラムチョップを貪っていたクラッブが、冴えた閃きを口にした。
「……ビンズ先生の部屋」
一同は目を
「あの人たち、熱さを感じるのかしら」
ダフネが「血まみれ男爵」を見ながらいった。ちょうど、一年生たちの体をすり抜けていったところだ。赤毛の女の子が、酷く青ざめた顔で震えている。
ホグワーツ特急で出会った子だと、すぐに気がついた。少し前まで「元気爆発薬」のお世話になっていたはずだが、まだ風邪を拗らせているのだろうか。
「ちょっと、フォウリー。聞いてるの?」
パーキンソンが苛立った声を出した。
「何が?」
「だから、三階の女子トイレよ。あそこなら、火事が起きたって心配ないわ。そうよね?」
隣にいた、ミリセント・ブルストロードが頷いた。茹でたポテトを少しずつ、フォークでつついている。
「『嘆きのマートル』がいるから、誰も入りたがらないの」
「女子トイレか。そりゃあ目立たないだろうね。僕、男の子だし」
ハティはそういうと、ゴブレットのかぼちゃジュースを一気に飲んだ。頭蓋を貫くような冷たさが、喉の奥をするすると下っていく。
パンジーは呆気にとられた顔で、その様子を見ていた。
「あなたに、デリカシーなんてものがあるの?」
「もちろん」
「じゃあ、聞くけど」
ミリセントが口を挟んだ。パーキンソンと目を合わせて、互いに頷きあっている。
「あんたのところの猫、女子寮に出入りしてるよね。その辺はどう思ってるわけ?」
分の悪すぎる戦いを終えて、ハティは大広間をあとにした。
「女の子ってやつはずるいんだよ。すぐ同盟を組むんだから」
負け犬の遠吠えは、生徒たちのざわめきの中へ呑まれていく。勝ち誇った顔のパンジーが、ハッフルパフの子を押しのけてマルフォイの背中を追っていった。
「おかげでパンプキンパイを食べ損ねたよ。次に出るのはいつだっけ?」
「もう出ないだろう」
ノットが無情な正確さで答えた。
「明日からは十一月だ」
彼のいう通りだった。石の廊下には影が落ち、そこら中に殺伐とした冷気が漂っている。そろそろ湖の表面が凍り出す頃だ。
巨大イカはどこへ逃げるのだろうか。そんなくだらないことを考えながら、ハティはあくびを抑えた。
「ねえ、ノット。寮に帰ったら、君に渡したいものがあるんだけど」
その時、急に集団の歩みがとまった。背の高い、レイブンクロー寮生たちが、何やら戸惑った様子で立ち往生している。前方で事件が起こったらしい。
「ミセス・ノリスが……」
誰かの呟きが、耳に届いた。ハティはノットの方へ身を寄せて囁いた。
「あのガリガリ猫、今度は何をやらかしたんだろう」
「さあ」
「継承者の敵よ、気をつけよ!」
突如、静けさを破って誰かが叫んだ。
「次はお前たちの番だぞ、『穢れた血』め」
マルフォイの声だった。ハティは意を決して、人ごみをかき分けた。三階の廊下の真ん中に、何人かがぽつんと立っている。あのくしゃくしゃの黒髪は、ハリー・ポッターだ。ロンとハーマイオニーもそばにいる。
三人の背後の壁に、松明の明かりに照らされてちらちらと文字が光っていた。
秘密の部屋は開かれたり
継承者の敵よ、気をつけよ
そして、松明からぶら下がっているものは……。間違いない、ミセス・ノリスだ。
ハティは苦いものが胸にこみ上げてくるのを感じた。
「なんだ?何事だ?」
騒ぎを聞きつけたフィルチが、水たまりの床をビシャビシャといわせながらやってくる。彼はぶら下がったミセス・ノリスを見ると、あまりの恐怖に後ずさった。
「ミセス・ノリス!私の猫だ!ああ、彼女にいったい何が──?」
「失礼、通らせてくれるかの」
静かな声に、何人かの生徒が飛びのいた。アルバス・ダンブルドアが先生たちを従えている。
ハティは道を譲った。射抜くような真っ青な瞳と目が合った。
「お前だな!お前があの子をやったんだ!私の飼い猫を殺した……。殺してやる!私がお前を──」
「アーガス!」
今にも飛びかからんとするフィルチを、ダンブルドアが止めに入る。ハリーの顔は血の気を失っていて、紙のように白くなっていた。
ハティは強く唇を噛んだ。
まただ。どうして、ハロウィーンの日は何かが起こってしまうのだろう?
愛してやまない平穏は破られてしまった。チョコレートの包み紙のように、あっけなく。甘い香りを残して。