かなたの話をしよう
一番気温の高くなる時間帯にスケートリンクにいれば、きっと涼しい。そんな名案のもと僕たちはのんびりと朝食を済ませ、庭の草むしりを手伝い終えた昼前に支度を始めた。といっても昼食用におにぎりをいくつかこさえて、スケート靴とタオル類その他を鞄に詰め込むだけの作業だ。
紐を結んだままのスニーカーに足を入れる。立ち上がったところで、ヴィクトルがスマートフォンを忘れた、と言うものだから、手持無沙汰になった僕は外に立てかけてある笹を眺めていた。
昨日よりも、すこし短冊の数が増えたように思う。そのうちの二枚は僕たちが昨晩書いて飾ったものだ。健康第一。最も無難な願いを刻まれた僕の緑の短冊は、目線よりもすこし低い、目立たない位置に隠れている。反対にヴィクトルの短冊はほとんど笹の先端のような高いところに掛けられて、揺れていた。
結びが甘いのか、強い風が吹けば飛んでしまいそうな青色のそれ。筆記体のあまり浸透していないこの国では、彼が何を願っているのか分かる人は少ないだろう。そうでなくともヴィクトルの書く文字は癖が強くて、僕だって時折読めないことがある。
ユウリが金メダルを獲れますように。
掛け直そうと手に取った折、目に入った彼の願いについ口を緩めた。おのれが刻んだ願いのくだらなさを思い返すと、僕も彼を見習うべきだろうかと考えてしまう。
ヴィクトルはいつだって、僕のことばかりだ。それを生徒として嬉しく思うべきなのか、不安に思うべきなのか分からない。
彼には彼でいてほしい。
ヴィクトルがそうありたいと望むのなら、僕はそれを否定しない。否定できない。それをいつか本人に願ったのは、他でもない僕なのだから。
熱気を帯びた風が、掛け直した彼の短冊を躍らせる。一瞬裏返ったそこに、まだ文字があることに気が付いた。
表側とは異なる、キリル文字の筆記体。
知らなければ、これがヴィクトルのサインだと思うだろう。彼が普段書いているサインがただの文字の羅列ではないことくらい、彼を長年追いかけている人なら、僕ならわかる。けれどここでは、それを知る人は少ない。
何が書いて、あるのだろう。
ひとつひとつの文字が独立していれば、読むことは出来るのだが。こうもひとつながりにされてしまえば、勉強を始めて日の浅い僕には理解できない。元より、それが意図なのかもしれないけれど。
内緒。
橋の上。サングラスに隠された瞳。頭の中で、ヴィクトルの声が一度響いた。
木か壁か、どこかに張り付いて鳴く蝉の声を、やたらと近く感じる。鳴き声の海に飲まれながら呼吸を一拍忘れた僕の体を、太陽が変わらずに焦がしていた。
数秒。ヴィクトルの声が、止まっていた僕の時間を再び動かす。
「お待たせ、ユウリ」
瞬間、誤魔化すみたく短冊から手を離した。サンダルこれ借りていいかな。そう言ってヴィクトルは気にすることもなく、靴棚から適当な一足を選ぶ。
「うん。どうぞ」
「さっき草むしりしたから、手がすごい草の匂いする。ユウリはしない?」
選んだクロックスをつっかけて、ヴィクトルは僕の横を抜けていく。ほらほら、と見せつけるみたく、おのれの手のひらを僕の前に振った。
「ええ、分かんないよ」
表情がうまく動かない。だから太陽が眩しいふりをして、顔の前に右手を翳す。確かに瑞々しい草の匂いが、するかもしれない。しかしどろりとぬるい夏の香りに混ざって、それはすぐに分からなくなる。ただ爪先に詰まった土の茶色を親指でこそぎ落とすように掻いた。
ヴィクトルにはヴィクトルでいてほしい。
そう願ったのは、他でもない僕なのに。
彼の白い肌を反射する陽の光が、ひたすらに眩しかった。
これじゃあ僕のことばかりを考えている彼を、笑えないじゃないか。
なぜなら僕も、ヴィクトルのことばかり考えている。
×××
半年ぶりやって来たアイスキャッスルも、半年ぶりに会った優ちゃんも西郡も、当たり前だけれど何も変わっていなかった。
土曜日。暦表では休日の今日、リンクでは十数人のクラブの生徒が滑っていた。置いた赤いコーンの間を、するすると波を打つように抜けていく。そのさまを、僕たちは扉の陰から眺めていた。
昔、僕あれ苦手だったんだよね。そう呟くと、ヴィクトルは心底可笑しいとでもいうように片手で口元を覆う。どうしてか、と問われても、今はその理由も思い出せない。半べそをかきながら、あのコーンに一直線にぶつかっていった記憶はあるけれど。スケート靴を履き始めて間もない頃のことだ。出来るようになると途端にどうして出来なかったのか、その理由が分からなくなる。
「ヴィクトルにも、出来ないことあったでしょ」
「俺? もう忘れたよ」
「ずるいなあ」
そうやって軽口を叩き合いながら、リンクを一度後にする。クラブのレッスンはあと一時間ほどで終わるらしい。ウォーミングアップをするには十分な時間だった。
広々とした更衣室。緑色のロッカーに、刺さった赤いプレートの鍵が懐かしい。着替えるために脱いだシャツは汗でしっとりと濡れていた。もう一度着る気にはなれないから、練習着のまま帰宅することになりそうだ。
お互いするすると着替える傍らで、先から続く他愛もない会話に相槌を打つ。例えば部屋に新しく観葉植物を置いただとか。戯れに作ったジャムが美味しかっただとか。明後日からの商店街の七夕祭りに興味があるだとか。
行ってみる? と尋ねてみれば、彼は行く、と即座に言葉を返した。最も盛り上がりを見せるのは七夕当日の七日だけれど、その日はサンクトペテルブルクへ戻らなければならない日だ。朝の早い便を予約しているから、夕方からの祭りに参加することはできない。それに人ごみがあまり得意ではない僕は、すこし空いている前日の方がありがたい。
「何時までやってるんだい」
「日付跨ぐぎりぎりまでやってるけど、次の日飛行機早いからそんな時間までいられないよ」
オーケーオーケー。彼の言うその言葉にはいささか不安があって、例えばビールを片手にした彼に引き留められれば、流されるまま遅くまで付き合う僕が容易に想像できてしまう。寝不足のまま搭乗することにならなければいいけれど。
脱いだハーフパンツを丁寧に畳んで、ロッカーへ仕舞う。サンクトも夏に祭りがあるんだ、と語る彼の横顔は、普段と何も変わらない。
「そうなんだ。これから?」
「六月だから、終わったばかりなんだよ。行くなら来年だね」
今から一年後の未来を、僕は想像さえしていなかったことに気付く。あと一年、僕と競技生活続けてください。そんなことを言った手前、容易に頷いていいものか悩んでしまう。本心はもっと、別のところにあるのに。素直になるのが怖い僕は、その本心ごとロッカーに収めて、鍵をかけた。
サンクトの祭りは、劇場で夜通しやってるんだよ。
ストレッチのスペースを確保するために、やや重い長椅子を持ち上げて動かす。既にヴィクトルが運んだひとつの横へ並べるようにそれを置いた。
「いいな。行ってみたい」
「来年ね。連れて行ってあげるよ」
本心に素直になれば、きっと彼に迷惑をかけることになる。
一年後。遠くて、それはとても近いのだろう。未来が分かればいいのに。見ることができればいいのに。
そうすれば、今が続くことを願わずに済む。
すっかり人の捌けたリンクは懐かしくて、どうしてかひどく安心する。人生の大半はこの場所で過ごしてきた。ホームリンクという言葉の通り、ここは僕のホームだった。僕のふたつ目の家。
既につけられた傷に時折エッジを引っかけながら、氷上を周回するようにブレードを操っていく。何を踊ろう。入念にストレッチをしたおかげか、体内に籠る熱が身体を擦る冷気を打ち消してくれる。
「この間のショー、チケットありがとな」
ぐるりと一周回った僕を、西郡がリンクサイドで迎え入れる。この間、というのは先月頭に名古屋で行われたアイスショーのことだ。出演者だった僕は、チケットを西郡夫妻と三つ子に送っていた。ステージ全体が薄暗くて客席はよく見えなかったけれど、後から送られたメッセージで来てくれたことを知ったのだ。
今シーズンのショートプログラム。それを、あの場で初めて披露した。サルコウを失敗した、というすこし苦い感触が、僕の中にはまだ残っている。
「あ、うん。来てくれてありがとう」
「ショートはあのままなんだろ。フリーは何滑るんだ」
練習着に身を包んだヴィクトルは、リンクへ下りてこようとしない。コーチの目をしていた。見定めるような、鋭い瞳。天井の光を透かした銀の睫毛が白い肌に溶けて、いっそ人間離れした風貌を際立たせる。
「フリーは」
「踊ってみれば?」
そうやって、ヴィクトルは僕の言葉を遮ってみせる。薄く微笑むその顔。やはりヴィクトルにはどうしたって氷が似合う。張りつめた冷気の漂うところが、本当によく似合う。
見る? そう聞けば西郡はいいのか、と一度伺うような表情を見せたけれど、いいよ、と言うとそのまま大声で受付にいるであろう優ちゃんを呼んだ。焦らなくてもいいのに。名の通りのその豪快なさまがすこし可笑しくて、僕は笑う。
「こっち、いつまでいるんだ?」
「七日。朝の飛行機取ってる」
「そういえばアサイン見たぜ。十一月は大阪だろ」
見に行く、と西郡は僕の肩を叩いた。
ええ。いいよ。いつもの僕なら、きっとそう言っていたのだろう。ショーの時はチケットを知人に送ることはあっても、大会の観戦を促すようなことはしたことがない。ミナコ先生が密かに観戦に来ているのは知っているけれど、それだけだ。失敗する姿を晒すなら、人数は極力少ない方がいい。そもそも大会の観戦チケットは身内であっても高価であるし、そうそう促せるようなものでもない。
「うん。頑張るよ」
けれど僕は、ヴィクトルを超えてみせないといけないのだから。失敗に怯える時間が惜しい。十一月。まずはヴィクトルと戦う舞台の切符を手に入れるための大会。ここで負ければ、彼と戦える大会がひとつ減る。今はその方が怖かった。
目標があれば。夢があれば、強くなれる。ヴィクトルに勝ちたい。金メダルを獲りたい。それは、到底おのれの力だけでは叶えられるものではないと知っている。それを支えてくれるコーチがいて、応援してくれている人がいると知っている。だから頑張ろうと決めた。目標を支えてくれている人を倒そうだなんて、すこしおかしな話だけれど。
「ヴィクトル。曲、これに入ってるから」
「クワドは駄目だからね」
「分かってるよ」
スマートフォンを受け取ったヴィクトルは念を押すようにそう言って、設置されたスピーカーへ繋げに向かう。
分かってるよ。
ヴィクトルは時折、僕を信用していない節を見せる。けれど僕だって彼のことを信用していないことがあるのだから、これに関してはきっと大概なのだろう。ヴィクトルの言う「オーケー」や「多分」が信じられないのと同じように、彼も僕の言う「分かった」が信用できない。
考えてみれば可笑しくて、リンクの中央へブレードを滑らせる傍らひとりで口元を崩していた。
大丈夫だよ、ヴィクトル。
四分三十秒。きっと近く、あなたを超える僕を見ていて。
昨シーズンは「僕」を演じたから、今シーズンはおのれではない誰かを演じたい。そう考えて持ってきたプログラムに、ヴィクトルはいつか面白そうと頷いてくれた。
明確に、原曲に沿った誰かになりきるというのは、僕自身の初めての試みでもある。曲から想像した物語を表現するか、あるいは想像した物語の登場人物になるか。そのどちらかでプログラムを作っていたから、あらかじめ個が存在する、というのは新しい。
眼鏡を介さない視界は頼りないけれど、安心する。心が乱されるくらいなら、誰の表情も見えない方がいい。例えそれが幼馴染たちの顔であっても。
私はあなたの音楽の天使。
そのフレーズをひとつ越えて、俯かせていた顔を持ち上げる。音楽の天使。夜毎に歌手である想い人へ歌を囁くその男は、手にした仮面でおのれの顔を覆った。弦楽による不吉の予感で覆われたリンクをただ、駆ける。
それは嘘だ。想い人を振り向かせるための、嘘。本当は天使なんかじゃないのに。
クワドは駄目だからね。気を抜くと、その言葉を忘れてしまいそうになる。
インサイド。遠心力に沿わせた体を、右脚で蹴り上げる。着地と同時に湧くオーケストラは、この演劇を語る上で重要な役割を持っている。
フリップ。あの助走のままの勢いを受けていたら、確実にクワドを跳んでいた。今日は流れを披露すればいいから、ルールは見ないふりをすると決めたばかりなのに。
本番ではないところで本番通りの構成を跳べば、怪我に繋がりかねない。この体を長く使うために、無理をしなくていい場面ではしっかりと手を抜く必要がある。
その裏に潜むのは怪物だ。ファントム。その人へ抱くどろどろとした感情は、覆った仮面ではすでに隠しきれない。
会いたい、会いたい。見てほしい。
想い人を誘い惑わせる右手と、歌声。この仮面に、触れてほしい。醜いものを隠したこの仮面に。慰めるように、おのれの仮面を右手で撫でた。彼女ならば、一体どのように触れてくれるだろう。指先、その温度、爪の形、柔らかさ。
誘うようにもう一度伸ばした腕の先に、ヴィクトルがいた。いつか町一番の美女だった僕は今、劇場に棲む怪物に生まれ変わってもなお彼を誘惑し続ける。
ゆっくりと、巧みに。音楽はあなたを抱きしめて離さない。
高く伸びたテノールが、リンクを衝く。それが止むと同時に、ファントムは伸ばした手で彼女の手を掴んだ。ほんの一瞬生まれた音のない世界を、振り上げた右足が切り裂く。着地した右をアウトサイドに切り替えて、左脚の先で氷を抉る。セカンドを降りた折一瞬止まった視界に、やはり彼が映った。
祝福のファンファーレにも似たトランペットが響き渡る中を、駆けていく。手を取ってくれたその人を連れて。ふたり、まるで踊るかのように。
この演劇の結末は、本当はもっと別のところにある。それは悲恋だった。結ばれることのない恋。引き裂かれる運命の恋だ。彼女の亡き後もひとり思いを抱え生きるその姿は、既に天使とは程遠い。
けれど四分三十秒の中で僕が演じるのは、醜い怪物にかかる喜びだ。悲恋を捨てて、物語の前も後ろも切り取って。コーチと僕のふたりで、新しい解釈を生み出した。
そしてファントムに魅入られた女性は、その歌声を開花させていく。
ジャンプの難易度を大幅に下げているからだろう。いつも以上に疲れはない。演技終盤。その分上体を大きく使って、リンクの端から端を目指して滑る。
まるで、僕のようだ。
着氷した脚をそのままに再度跳び上がり、左脚を着けた。インサイドに体重を乗せて、一瞬のうちに僅かでも遠心力を生み出す。いける。そのまま躊躇いもなく跳び上がった。間もなく体に乗った重力を、開いた左脚で散らす。膝がすこし重い。けれど、流れ続ける音楽は待ってはくれない。
ヴィクトル、今の怒るかな。
けれど、制限されたのはクワドだけだ。三連続に関しては何も言われていない。
僕のコーチはきっと、僕のこういうところを信用していないのだろう。いける、と思えば、止められない癖。またユウリは。俺の言うことが聞けないね。そうやって叱ってくれないと物足りなくなってしまう僕はもう、どこかおかしくなってしまったのかもしれない。
神様が気まぐれのように掬い上げたのは、限りなく地を這っていた僕だった。本当の僕は、決してファントムなんかじゃない。当然、音楽の天使でもない。
僕に手を差し伸べたのは、ヴィクトルだ。それを最初は戸惑いながら、今はもう離すことが出来ないのも、僕だ。
魅入られた、なんてとても自惚れることはできないけれど。才能を開花させた、なんて驕ることもできないけれど。
僕の、スケートの天使さま。
僕はその手をまだ、掴んでいたい。
×××
七時をすこし超えた頃だというのに、外はまだ随分と明るい。
今の時期のサンクトに似てるね。そう言うと、同じこと思ってた、とヴィクトルは笑う。違うのはまとわりつくような湿気と気温だ。いくら景色が似ていても、過ごしやすさは比べ物にならない。しかしどちらが好ましいか、という話でもなく、僕はぬるいだけの湿気を腕に張り付けて歩く。
賑わう商店街の入り口には、色とりどりの短冊を背負った笹が飾られていた。長谷津中の願いと祈りを一身に受けたそれは、重たげに首をおろしてそこにいる。
「あれ、俺たちのもあるのかな」
「あると思うよ。商店街が集めてるって言ってたし」
天井から下がる花紙で作られた飾りを、ヴィクトルは楽しそうに潜っていく。そういえば小学生の頃に授業の一環で似たような飾りを作って、寄贈した覚えがある。あちこちに飾られている大掛かりな装飾には、やはり学校名や団体名が入っているものが多い。
ずれた黒いキャップをかぶり直した彼は、並ぶ屋台の屋根の文字をなぞる。先のはげたそのキャップは僕が中学生のころ使っていたものだ。ヴィッちゃん頭小さいけん、とお母さんが選んだそれを、拒むことなく被っている。
「プーレク、って何だろう」
「クレープね。反対から読むの」
「どうして?」
「そういうものだから」
食べる? と尋ねると、彼はすこし悩んだ挙句、ポケットから財布を出した。実のところ僕たちは晩御飯を食べてから来たのだが、僕の方は今日一日の食事量を考慮すると積極的に食べようという気にはならない。
ヴィクトルの後ろについて、注文するさまを眺める。外国人がきた、ということに目を丸めるお姉さんは、それがヴィクトルだと気がつくとますます目を丸くする。
あ、えっと。途端に日本語まで怪しくなってしまうその人に向けて、ヴィクトルは手書きのメニュー表にあるひとつを指差した。バナナとイチゴとカスタードに、チョコレートのかかったクレープ。
おひとつですか。
オヒトツデス!
威勢のいいその声にお姉さんはちいさく笑うと、代金を受け取ってからクレープを作り始めた。鉄板に垂らしたたねを薄く伸ばして、その上にカスタードクリームを広げていく。置いたバナナとイチゴにホイップクリーム絞って、チョコとキャラメルのボトルを手に取った。
「キャラメル、食べられます?」
「平気だと思います」
「じゃあ、サービス」
そう言って、二色の線をするするとクレープの上に落としていく。食べるのは僕じゃないけれど。サービスだって、とヴィクトルの腕をつつけば、彼は英語でありがとう、と返した。日本では最も馴染んでいる英語だ。伝わらないわけがない。
お待たせしました。そうしてくるくると巻かれたクレープを受け取ってから、人の波に揉まれるように歩き出した。一歩進めば知らぬ人にぶつかりそうになる空間。流れに従っているのか、逆らっているのかさえ分からない。
ヴィクトルは一口齧ったクレープを、こちらに差し出す。
「食べる?」
「いいんですか、コーチ」
「いいよ。今日は特別」
だからその手ごと引き寄せて、端の方をちいさく齧った。ちいさすぎてバナナもいちごも食べ損ねてしまったけれど、それこそ祭りの雰囲気も相まって、ひどく美味しく感じた。
すこし汗ばんだ彼の手の感触がやたらに指先に染み付いて、気になる。ついさっき、肩を擦り合わせたあの人よりも。たった今腕にぶつかった子供よりも。
「すごい人」
「ね。長谷津にこんなに人がいたんだ」
「わりと有名なお祭りだから、遠くから来てる人もいるんじゃないかな」
顔にかかる花紙飾りをかき分けながら進むうちに、ヴィクトルは僕の先を行ってしまう。人混みの中すこし強引に足を早めて、追いついた彼のシャツを掴んだ。コンパスが長いと、こういう時に困る。
「あ、ごめん。歩くの早かった?」
「いや。一瞬逸れそうになって」
もし逸れたら連絡して。そう言って、掴んで皺になってしまったシャツを離す。
「掴んでてもいいよ」
「え、別に」
「なんなら手でも繋ぐ?」
サングラスの奥。かすかに見える瞳が、いたずらのように細められていた。繋がないよ。そう言えば、彼の笑い声の中でその瞳はさらにぎゅう、と細くなる。知ってた。ヴィクトルは中身を失くしたクレープの包み紙を、その手でくしゃり、と丸めた。
「何食べようかなあ」
「ビールもあるよ」
「本当かい」
「ほどほどにね」
そうやって彼にアルコールを勧めるあたり、結局明日の飛行機の心配なんて野暮だと思う自分がいることに気付く。
例えば、明日が来るのを怖いと思う時がある。一日一日が終わっていくのを、惜しく思う時がある。帰省したあの日も、今だってそうだ。
今がずっと続けばいいのに。そう思うからこそ、この瞬間に水を差したくはない。
「あれ、魚? 小さいね」
「やってみれば?」
「取ってどうするんだい」
「あ、ほら。あの子うまい」
実のところ、僕も金魚すくいは得意なのだが。掬うときに尾ひれを外すんだよ、と説明しても難しいだろうから、掬い続ける少年の後ろに立ってその様子を見ていた。
屋台独特の光のもと、金魚の鮮明な赤が美しく映える。混ざる黒の出目金に、小学生の頃教科書で読んだ赤い魚の話を思い出した。赤い体を持った魚が集まって、悪い魚を追い返す話。黒い体の魚は目として、仲間を先導していたように思う。
アメイジング。密かに呟く彼の手には、既に小銭が握られていた。
「ちなみに、取ったら育てるんだよ」
「へえ。何匹持って帰れるかな」
「コーチ。明日帰るから、持ち帰りはできません」
「あ、そうか。でもやるだけ」
そうしてヴィクトルは、屋台のおじさんに小銭を渡す。代わりに受け取ったポイを珍しそうに眺めては、水にすこしだけ浸けた。濡れて頼りなくなった和紙に、金魚は容赦がない。ぱしゃり、と尾で水面を弾くと、そのかすかな飛沫で再びポイが濡れていく。
食べ物ではないから、いいか。
「あれ、ユウリもやるのかい」
「うん。実は結構得意」
六号。ポイの入っている箱にはそう書いてある。随分良心的な屋台だけれど、たくさん取れたところで持って帰ることができないのが惜しい。
「本当? じゃあ多く取れた方が勝ちだ」
「何か賭ける?」
「後ろの屋台の赤いやつ」
振り向けば、竹串に刺さったりんご飴がつるりと丸く輝いていた。
×××
ちりちり、と鈴の音に似た声を上げて、虫が鳴いていた。
タイマーを設定した冷房はとうに切れて、室内には眠る前と変わらない熱気が篭っている。足にかかるブランケットの感触が鬱陶しくてたまらない。
暑さを誤魔化すみたく一度、寝返りをうった。月明かりだけが頼りのがらんとした部屋。頬に張り付いたシーツのぬるさに眉を顰めていると、布団で眠っていたはずのヴィクトルがいないことに気が付いた。ただ捲れたままのブランケットが残されているだけで、彼がどこかへ行ってしまったのだということだけは分かる。
枕元に置いたスマートフォンのボタンを押した。午前一時過ぎ。唐突に光を発する画面に、瞼を数回擦る。その裏に浮かぶのは、数時間前に見た祭りの光景だ。光の落とされた商店街。賑やかな、そして熱気を纏う色鮮やかな屋台。人の流れ。先のはげた黒いキャップ。金魚の赤。一点の窪みもなく輝く、りんご飴。
水を飲みに行こう、と下ろした足裏に、畳がひたりと張り付く。
ヴィクトルは、どこへ行ったのだろう。枕元には充電ケーブルを繋いだスマートフォンが放置されたままだ。トイレか、僕と同じく喉が渇いて、台所にでもいるのかもしれない。
がらり、と音が立つのも気にせずに戸を引くと、ひとつ開いた戸板の間に見慣れた姿が腰掛けていた。気が付いたそのふたつの瞳が僕を捉えて、美しく歪む。ユウリ。
「寝ないの?」
「うん。暑くて」
どこへ行くのか、と投げられた問いに、水を飲みに行くのだと返す。するとヴィクトルは飲んでいいよ、とこちらに冷水ボトルを差し出した。冷蔵庫から持ち出してきたらしいその表面はやや汗をかいていて、ぽつりと落ちた雫が床に水たまりを作る。
「あ、コップこれしかない」
「いいよ、別に」
とくとく、と注がれた透明な液体を受け取ると、それを一気に飲み干した。すっかりぬるくなってしまっているかと思ったけれど、喉を過ぎていく感触が心地いい。
戸板を押して、人がもうひとり座れるだけの空間を作る。僕はそこに、ヴィクトルの隣に腰かけた。足置きの石が、飲み干した水よりもずっとひやりとしていて冷たい。
ちりちりと、虫の鳴く声が鮮明に響く中を、僕たちはボトルから落ちる雫みたくぽつぽつ、と言葉を落としていく。
「シーズンオフも、もう終わりかあ」
今年は早いなあ。体を支えるように突っ張った腕をつくと、床板がぎしりとちいさく鳴いた。目に映る夜空は擦り硝子を通したかのごとく不明瞭で、けれど月がやたらにくっきりと浮かんでいることは分かる。月明かりが邪魔をして、きっとこれでは星なんて見えやしないだろう。折角明日は七夕なのに。
「僕も。今年はなんか、すぐに終わっちゃったような気がする」
「やっぱり? もう年なのかなあ。最近一年がやたらと早い」
足置きに投げ出した四つの足。どれも月に照らされて、治りきらないいくつもの傷跡が浮かび上がる。短く切り揃えられた爪も。親指の付け根の出っ張りが変色してしまっているところも。似た特徴を持った、しかし大きさの揃わない二足。
嫌だなあ、とその言葉通りの声色に、僕はつい笑いを零した。
「やめてよ。まだそんな年齢じゃないでしょ」
「ユウリはいいよ。俺なんてもう三十に片足突っ込んでるみたいなものだからね」
そうして彼は空いたコップに水を注いで、それをひと口だけ飲んだ。心地のいい夜風が、いっそ粘りつくような夏の暑さを拭ってくれる。
「僕だって爪先くらいは浸かってるよ」
「慰めにもならないね」
微かにヴィクトルが笑う声を聞きながら、足の指に力を込めた。爪先と片足では、確かに。僕は物に例えるのがうまくないらしい。
こつん、とガラスのコップが床板をうった。
「三十までにユウリが金メダル取るところ、見たいなあ」
隣に僕が座っているというのに、それはまるでひとりでに呟いた祈りのように聞こえた。ちらりと見た横顔は、流れる前髪に隠されてうまく伺えない。僕のコーチは、ヴィクトルという人は、すこしずるい。
「半年後には叶ってるよ」
「ナショナル?」
「グランプリファイナル」
約束したじゃん。そう言えば、ヴィクトルはもちろん覚えているよ、と静かに答える。
それは密かに、グランプリファイナルでは金メダルを渡さないと宣言されているようにも聞こえて。ひどい話だと思う。けれど昨年、ひとつしか彼の元へ金メダルを運んでくることができなかった僕の方が、きっとずっとひどい。四大陸はオタベックに奪われてしまったし、ワールドはヴィクトルでさえ頂上には手が届かなかった。
そしれ彼にとってナショナルでの金メダルは、金メダルには数えてくれないのだ。
「早く、俺を倒しにきてね。ファントムさん」
それなのに彼は、おのれを倒すのはあくまでも僕であれと言う。
右肩にヴィクトルの頭がやさしく乗った。ほのかに覚えた違和感はきっと、普段から彼の重さを左で受けることに慣れているからだ。飛行機に乗るときも。ソファに腰掛けるときも。決めたつもりもないのに、気付けば彼はいつも僕の左側に居る。故に右はまだ、ヴィクトルの体温には慣れていない。
「手抜いたら許さないから」
「俺がそんなことすると思ってるのかい」
彼の声がほんの近くで聞こえるせいか、虫の声がずっと向こうで響いているように感じる。ヴィクトルは、そんなことはしない。しないと言い切れてしまう。思わないなあ。そうして自然と口を衝いた言葉に、また彼が笑う気配がした。
「ちゃんと笹にお願いした?」
「うん。したよ」
そうして僕は、息をするみたくでたらめを口にする。
本当の願いなんて、書けるわけがない。笹なんかに託せるわけがない。いつだってそうだ。いつだって本当のことは口に出せない。あのときだって、本当は金メダルが欲しかったのに。今もそれは変わっていない。けれど、それ以上に。本当はヴィクトルと。本当は。本当はもっと。
それなら大丈夫だね。
そうやって彼は、探った僕の右手の指輪を柔くつつく。ヴィクトルはもっと、おのれの心配をするべきだと思う。僕のコーチという肩書だけではなくなったのだから、心にもうすこし自分のことを考える余地を作るべきだと思う。
「ヴィクトルは、僕のことばっかり」
それは先ほど彼がひとりでに祈りをこぼすさまに似ていた。しかし異なるのは、僕の方は叶わない祈りであるということだ。悲しいことに。なぜなら僕には彼が次に口にする内容を容易に想像できてしまう。もう何度も聞いてきた、あの言葉たち。
「だって俺、ユウリのコーチだからね」
「でも、ヴィクトルも選手でしょ」
僕はヴィクトル・ニキフォロフのスケートを。
愛しているんだよ、と言いかけて、けれど気恥ずかしさに耐えきれず言葉を変えた。好きなんだよ。口にした直後、それではあまりにも意味が軽すぎることに気付いて後悔する羽目になる。やはり僕はいつだって、本心を口に出すことができない。
「分かってるよ。ありがとう」
ヴィクトルはふわふわと笑うように、しかし穏やかに、そうやって言葉を夜に溶かす。
乗せた彼の頭をそのままに息をついて、肩に入っていた力を抜いた。それきり僕たちは交わす言葉をなくして、ただお互い訪れた静寂に身を委ねる。
目を閉じると、瞼の裏に思い出す。ワールドの、あの表彰台での光景を。こんな穏やかな夜が悪いのだ。生まれた空白をぴりぴりと鳴く虫が埋めてくれる夜。それでもまだ多すぎる隙間に、思考は勝手に巡っていく。
これではまるで矛盾だ。僕はヴィクトルを超えたい。越えなければならないのに。彼にはずっとずっと高いところに居てほしい。このふたつをうまく両立させる方法を、どうしたって思いつかない。
言葉がないまま、どれくらいの時間が過ぎただろうか。沈黙を破るのは、すこしだけ勇気がいる。
「ヴィクトル、寝るなら部屋に戻ろう」
右の肩を揺らしてみせると、起きていたのか眠っていたのか、彼はやはり静まり返った海のような静けさでもうすこしだけ、と囁くように口にする。
「いいね、ここは。本当に居心地が良い」
「明日飛行機早いんだよ」
明日というよりも、既に今日だ。あと何時間も眠っていられないのに。しかし言葉とは裏腹に、僕の体もここに根付いたように動こうとはしない。本当に居心地が良い。十数年もこの家で過ごしてきたはずなのに、彼が隣にいるだけでこんなにも違う。
帰りたくないなあ。
その呟きが、僕の耳に染みついて離れない。肯定するのも何か違う気がして、再び訪れた静寂をしばらく受け入れるだけだった。
「マッカチンが待ってるよ」
「うん。それなら帰ってあげないとね」
お互いナショナルが終わったら、また来よう。すると彼はそうだ、と思い付いたように声を上げる。
「今度はナショナルで獲った金メダル、ふたりで持ってこようよ」
「プレッシャーかけるのはずるい」
「大丈夫だよ」
いつもは信用に欠けるその言葉が、今日はひどく頼もしく聞こえる。大丈夫。まるで、魔法の言葉のように。演技に関して彼がそう後を押してくれれば、怖いものなんて何もない。去年のナショナルの前日も、電話口で聞いた彼の言葉をお守りのように頭の中で繰り返していたのを覚えている。
「じゃあヴィクトルも、大丈夫」
「俺はいつでも大丈夫だよ」
「はは、なにそれ」
ちいさく肩を揺らした分、乗せられたヴィクトルの頭も揺れる。今口にしたそれに関して、僕は信用しきれる自信がない。むき出したままの足裏がどうにもむず痒かった。急かされているようで、落ち着かないのだ。
「ユウリさあ、」
「なに?」
「俺がワールドで金獲れなかったの、ずっと気にしてるだろ」
おのれの血液がごうごうと流れる音を、耳の奥で感じていた。手のひらにかいた汗を、ハーフパンツを握って誤魔化す。
そうだ。ずっと気にしている。ヴィクトルが何も言わないから。あの眼がいつも、心の内を騒がしくする。ずっとずっとあの日から。僕に迫って止もうとしない。
「うん、すこしは」
「きみはいつからそんなに優しくなったんだい」
これは僕の我儘で、ヴィクトルを困らせたくない我儘で、言葉に出来ないから黙っているだけだ。気に掛けるなんて、そんなやさしいものじゃない。僕は決して、やさしくなんかない。
ヴィクトルはううん、と一度、ちいさく唸った。
「俺はやさしいきみが思うより、ずっとひどい男なんだけど」
「うん」
「そこは否定するところだよ」
「え、うん」
相槌を肯定と受け取った彼はしかし、まあいいや、と柔く笑うと、その先を続ける。
「俺のスケートを好きだって言ってくれるのは、すごく嬉しい」
「それは良かった」
「ありがとう。俺もユウリのスケートを愛してるよ」
だから、とそこからの言葉を、彼は探しているように見えた。愛してる。どこであれ向けた好意をまっすぐに伝えることのできる彼を、すこし羨ましく思う。
だから。その続きは、何だろう。一にも二にも転ぶような気がして、僕はただ耳を傾けて待つことしか出来ない。緩めた拳の中で、ハーフパンツがくしゃくしゃに歪んでいた。
左手で、ヴィクトルはおのれの右手の指に収まっている指輪に触れる。そしてくるりくるり、と回すように緩く撫でた。
「だから。ううん。これでいいかなって、思うんだ」
「これで?」
「うん。ユウリのスケートを見て、俺も自分のスケートを愛してやることが出来たら、それだけでいいんじゃないかと思う」
ごめんね。これからの俺は、きっときみの理想になりきれない。
息が詰まる。聞きたいことと、言いたいことがない交ぜになって、うまく選ぶことができない。虫の声がうるさい。耳の奥が、うるさい。
彼には彼でいてほしい。この言葉は決して嘘じゃなくて。でも。
「僕、ひどいあなたより、もっとひどいことを言うかもしれない」
「いいよ。聞かせて」
答えを出すことが出来ないなら、ひとりで抱えることが出来ないなら。僕は、もうひとりに縋るように頼る方法しか知らない。僕は、我儘なのだ。我儘だから。
「ヴィクトルには、やっぱり一番高いところに居てほしいんだ」
それにも関わらず、まるでいつか過ぎたあたたかな春の日差しに目を細めるような。何かを慈しむような。そんな声色に包んだ言葉を、彼はそっと返してくれる。
「ユウリが我儘なことくらい、知ってるよ」
「でもヴィクトルにはヴィクトルでいてほしいって言ったのも、嘘じゃない」
ずっと競い合っていたい。高みで待つ彼に、挑み続けたい。その末に金メダルを獲りたい。いつまでもそうやって過ごしていたい。のに。そんな未来は、永遠には続かない。
あの表彰台で見た彼の眼は。それはきっと、安堵の表れだったのだろう。安寧のしるしだったのだろう。順列も、優位も。競技者として復帰をして、それら以上におのれが滑る意味を見つけた彼に、やはり僕はひどいことを言っている。ただの我儘を押し付けている。
言葉にするのは難しい。母国の言葉でさえうまく操れないのに、それをひとつひとつ間違えることなく彼が分かる言葉に置き換えることなんて、きっと出来やしない。
「うん。そう言ってくれたのは、ユウリが初めてだ」
「なんで。怒ってよ」
「怒られたいの?」
ユウリはおかしなやつだなあ。
やはり彼の声は、どうしたって静かなままだ。僕の手のひらは拭ったばかりだというのに、既にしっとりと汗ばんでいた。触れた床板はぬるくて、何の慰めにもならない。
そんなに言うなら、とヴィクトルは寄せていた頭を持ち上げてこちらを見る。
「そんなに言うなら、怒ってあげるよ」
「うん」
「やっぱり君はね、優しくない、いつものユウリだ」
「うん。ごめんなさい」
「一番を目指すことをやめるだなんて、俺はひと言も言ってないのに」
ぱちりと乾いた目を、一度のまばたきで潤す。俺をそんなに簡単に引き摺り下ろそうとするなんて、ユウリは本当にひどいね。言葉とは裏腹に、ヴィクトルはやはり笑っていた。可笑しいことなんて、何もないはずなのに。
鈴を転がしたような虫の声が、ただ響き続けていた。こんな闇の中では、どこに居るなんて分かりはしない。それよりも、それらに散らされた思考を掻き集めるのに、今は忙しい。
僕は、ヴィクトル・ニキフォロフを信じている。言葉のあやだ。信用していないと言ったのは。僕が彼を、信用していないわけがない。彼に憧れ、追いかけ、挫折し、今があるのに。彼にまつわる出来事に関して、あらゆる感情を滾らせてきたというのに。ただの一度その座を下りたくらいで、どうして彼を信じることをやめてしまえるのだろう。
「それとも俺が俺のまま獲った金メダルじゃ、ユウリは不満なのかな」
「そんなこと、あるわけない」
あるわけない。あるわけがないのだ。どれだけ言葉を強めたって、伝えきれない思いが惜しい。
よかった、とヴィクトルは起こしたおのれの頭を、再び僕の右肩に沈めた。
「ユウリはあれだね。いつも怒られたがってる」
「そんなことないよ」
「そう? 行きの飛行機でも何か言ってたの、俺覚えてるよ」
「あれは。ああ、うん。あれは忘れて」
「君はもっと、あらゆることを願った方がいい」
先のヴィクトルの仕草を真似るように、おのれの右手の指輪に触れた。たかだか一センチ幅の円環は、それなのにひどく心を落ち着かせてくれる。
言葉にしないだけだ。本当のことを口に出せない僕だから。願いなんて、数えきれないほど抱えているのに。
そしてその抱えきれない願いをひとつ、ヴィクトルに押し付けてみる勇気をたった今、彼から貰った。あらゆる願いの、何よりも大事なひとつだ。僕の我儘と同じくらい大切なひとつ。
「僕、短冊に健康でいられますように、って書いたんだ」
「そう。とても大事なことだね」
「でも本当は、もっと違うことをお願いしたかった」
喉が、からからに乾いていた。これじゃあ恰好がつかない。水が欲しい。のに、ボトルもコップも、ヴィクトルのそばにいる。手を伸ばせば届くだろうけれど、今はそれをするべきではないことくらい容易に分かる。
「今が」
「うん」
「ずっと続けばいいって、書けばよかった」
茶化してくれていい。笑ってくれていい。惑ってくれていい。けれどそれを否定することだけは、しないでほしい。
数拍置いたのち、ヴィクトルはすう、とちいさく息を吸う。
「ユウリはどうしようもなく、俺を生かしてくれるね」
僕の右手の甲を、彼の長い指が撫でた。人さし指。中指。そして薬指に触れて、付け根の指輪を爪先で静かに弾く。瞼を下ろして、その感触を直に感じていた。
「いいよ。このまま」
ずっと、このままで。
その声色はまるで、夢の中にいるようだった。都合のいいところだけを切り取った、あまい夢。まろさに漂わせた思考が、ただひたすらに心地よかった。いっそ、泣きたくなるほどに。
「寝てる? ユウリ」
「ううん。起きてる」
ほんのひと端。おのれの手に重なっているだけの彼の指を、指先で掴んだ。僕はこの指を、この手を、まだ掴んでいたいのだ。いつかのかなた、終わりが来るその瞬間まで。
開いた目に、彼の右手の円環がまるで欠けた三日月みたく輝いて映る。
「きみにひとつ、隠していることがあるんだ」
ふと見上げた月が美しかった。そのまま首を傾ければ、柔らかな髪が頬に触れる。伝わる柔い温度をすこしだけ。すこしだけ、愛しく思いながら目を瞑る。再び下ろした瞼に、月の光がうすく透けていた。
「俺は、同じことを書いた」
きっとユウリには読めなかっただろうけど。
その声はゆりかごのようなやさしさで、僕の心の内を揺らす。掴んだままの指先にわずかに力を込めた。目の奥に、じわりとした熱を溜めながら。
瞼の下。笹の先で、青色の短冊が風を受けてひらひらと揺れている。翻った裏に刻まれた、あの文字の並び。
「願う相手が間違ってるよ」
「そうだね」
例えば、明日が来るのを怖いと思う時がある。一日一日が終わっていくのを、惜しく思う時がある。未来が分かればいいのに、と思う時がある。
それでも僕は、まだ見ぬ明日を待ってみようと思う。ヴィクトルがそこにいるのなら、明日が来るのもきっと怖くはない。
なぜなら僕も、あなたに生かされているのだから。
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