かなたの話をしよう



ヴィクトル・ニキフォロフが氷上に膝をつくところを初めて見たのは、二年前。フリーの演技を翌日に控えた、グランプリファイナルの公開練習でのことだった。
通し練習の最中である彼の邪魔にならぬように、僕も他の選手も皆リンクの端を使って、振りやジャンプの入りを確認している。
背後ではあの曲が流れていた。大会で歌声の入った曲の使用が認められたのは、さらに三年ほど前のことになる。記憶している限りでは今シーズン、彼は初めて歌声の入った曲を使用している。
テノールが高く伸びて、会場を広く覆っていく。どこの国の言葉だろう。それさえも分からない僕には、この歌の歌詞なんて到底理解できない。離れずにそばにいて。けれど多分、そういう歌なのだと思う。
どうしてヴィクトルはこのプログラムを作ったのだろう。そんなことを考えながらおのれを眺めている僕のことなんて、きっと彼は知らないに違いない。蹴るたびに散る氷の破片。次のエレメンツは、確か。
ヴィクトルは滑りながら背後を確認する。誰かにぶつかってしまわないか、視線をよこす。エッジを傾けるのと同時に左足を振り上げるのを、僕は見た。その瞬間を目に焼き付ける。
ああ、美しい。
けれどそう思ったとき、ヴィクトルは転倒した。類を見ない金色のブレード。それが、氷に弾かれて倒れている。
眼鏡に頼らない視力では、ヴィクトルの表情はまるで分からない。しかし彼はさも何事もなかったかのように立ち上がり、一度途切れた世界をその身に纏い始める。
ヴィクトル・ニキフォロフが転ぶところを僕は今、初めて見た。
テレビの中の彼があまりにも美しく舞うものだから、忘れていたのだ。ヴィクトルだって練習中に何度も転んで、何度も足や腕に痣を作るということを。あまつさえ流血もして出来た瘡蓋の上に、再び切り傷を重ねるということを。ヴィクトル・ニキフォロフだって、人間だということを。
ヴィクトルも、転ぶんだ。
そんなことを考えながらおのれを眺めている僕のことなんて、きっと彼は知らない。一度転倒すれば跳ぶのが怖くなってしまう僕のことなんて、知らないだろう。きっと知らない。知らなくていい。
曲が終わり組んだ腕を解いた彼は、左手で前髪を浚いながらコーチのもとへと捌けていく。
その頃の僕は金色の輝きをこぼすブレードを、ただ見ているだけだった。

 
 ××× 


「今長谷津に行ったら、暑いかな」

ヴィクトルの傍にしゃがみ込むと、膝がぱきり、とちいさく鳴った。それを聞いて彼は微かに笑う。膝を折ると高い頻度でこうなるんだ、といつか告白をしたときはもっと笑われた。それに慣れた今はもう、何食わぬ顔でやり過ごしてしまえる。

「六月は、そうだね。暑くなり始めって感じだと思う」

持ち上げた腕。グローブについた氷の欠片が、ぱらぱらと白銀の髪の上に落ちていった。僕は傍の手すりに置いたティッシュボックスを手に取って、すん、と鼻をすするヴィクトルに差し出す。

「早く起きないと服が濡れますよ、コーチ」
「何、畏まって」

一枚引き抜いたティッシュで鼻をかみながら、彼は言う。
長谷津は今、梅雨に突入した頃だろうか。しかし近年は雨量がめっきり減っているから、梅雨の時期を鬱陶しく思うことも少なくなった。そもそもリンクの中にいれば、雨も湿度もあまり関係なくなるけれど。それでも外を走る時は極力晴れていてほしいし、帰り道から見る夕焼けは綺麗であってほしいと思う。
六月のサンクトペテルブルクに夕焼けはない。同時に、朝焼けもない。日の沈まない薄ぼんやりとした白い世界に、僕は今いる。
まるで隔離されたような、浮世離れした世界。しかし彼はそれこそが日常なのだ、と笑っていた。僕はそうやって彼との暮らしの端々で、これまで生きてきた世界との違いを知っていく。
どこか幻想のような景色に囲まれて走りに出る日々は、けれどすこしずつ僕の日常に溶け込み始めている。そしてそれを、心地よく思う。

「去年の夏は暑くて暑くて」

リンクに仰向けに倒れていたヴィクトルは、体を横に起こすと頬杖までついてみせる。まるでベッドにでも寝転がっているみたいだ。一方の僕も、しゃがんでいた足を崩して胡坐をかく。一度ブレードとブレードをかつん、とぶつけたのち、腿の下に足を収めた。爪先についた氷の塊が腿の裏へ染みていく。

「思い出すとさあ、暑くなるよね」
「休憩ですか。それともサボタージュですか」
「ユウリ、畏まるのはやめよう」

サボタージュかなあ。あはは、と軽快にちいさく笑う後ろでは、スポーツクラブの生徒数人分の声と氷を削る音がこだましていた。シーズンオフはリンクも人が減る。それが六月となればなおさらだった。だからそのちいさな笑い声が、今日は掻き消されずによく聞こえる。

「ルッツ見てくれるって言った」
「ちょっと待って。背中が痛いんだ」
「ヴィクトルコーチ」
「何だい、ミスターカツキ」

ヴィクトルは手本にと見せてくれたルッツを先ほど一度成功させて、もう一度とせがんだ二度目を転倒した。踏み切る直前、リンクのやたらと抉れた箇所にトゥを引っかけたのだ。おかげでタイミングがずれた。回っている最中に軸も傾いて、着氷した折エッジで体重をうまく受け止めることが出来なかったのだ。
きっとぶつけた肘は痣になっているに違いない。しかしそれが、僕たちの日常でもある。

「エレメンツにルッツは入れてないはずなんだけどなあ」
「練習するくらいは許してよ」

ショートもフリーも、エレメンツは随分前に決めた。ピアノを介して言葉を交わす、男女の物語。ショートに使用するのはその劇伴だ。静かに押し寄せては引いていく、風に浚われる波のような旋律。旅立ちの前、未来にある出会いを予感させるような。そして知る、本当の恋の歓びと切なさ。そんな曲にクワドルッツはすこし目立ちすぎる。
フリーの方はどうだろう。しかし変更するにしても、まだ大会で使えるほど安定もしていない。ヴィクトルが跳べるから僕も跳んでみたいだけだ。彼が跳べるジャンプの中で、僕はまだルッツとループには手が届かない。
そのとき、背後から突然頭の上にずしりと重い何かが乗った。耐えきれず、背中側に倒れそうになるのをこらえる。僕の頭の上に腕を乗せていたユリオと一瞬、目が合った。

「ダセー。転んでんのかよ、オッサン」
「ユリオもさっき転んでたじゃん」

というのはつい十数分前にみた光景だけれど。ユリオが跳ぼうとしていたジャンプの種類まで、僕は鮮明に覚えている。クワドループ。ヴィクトルさえ試合で取り入れていないジャンプ。

「ループ練習してるの?」
「別に」

試してただけだっつの。ふん、と鼻を鳴らすと、ユリオは傍の手すりにどかりと寄りかかった。出会った頃の長さに切り戻された髪を雑にかき上げると、彼はリンクにかかとのエッジを刺す。削られた破片が端に当たって、四方に飛び散っていった。ほら、そういうことをするから踏み切りに失敗して転倒する人が出てくる。

「あれ、ユリオ。おじいさんはどうしたんだい」
「風邪っぽいんだとよ。だから来週に延期した」

尚更帰ろうとしたのに、断られた。と、ユリオは再びリンクをかかとで抉る。照明も吸収する漆黒のブレード。靴の裏にちいさくプリントされた国旗は、ヴィクトルのシューズを真似たのだろう。
確かに、ユリオは今週の頭にモスクワへ帰省するのだと、ミラから聞いていたような気がする。そのミラも旅行と称して家族で出かけているらしく、ここ数日は姿を見ていない。

「お前、帰んねえの。ここ来るたび見かけてる気ィすんだけど」
「僕? 考えてなかった」

そう。考えてなかった。デトロイトにいたときも五年間一度も帰省しなかったし、むしろそれが当たり前なのだと思っていた。
ユリオと同じことを、以前同室だったピチットくんにも言われたことがある。その時はすこし悩んで、結局帰ることはしなかったけれど、今は違う。そうじゃない選択肢が、じわじわと僕の中で存在を主張し始めている。彼に指摘されて初めて気が付くというのも情けない話だ。帰省の機会を散々塗り潰してきた僕には、そんなことさえ難しい。
ふとヴィクトルを見ると、彼も同じく僕を見ていたようで視線が合った。コーチの言葉を聞かずに勝手に帰省するという選択肢は、それこそ持ち合わせていない。その視線にすこしの伺いを混ぜること数秒。彼はよいしょ、と体を起こし、その長い足を折り畳んで僕と同じく胡坐をかいた。薄灰色のシャツの右わきが濡れて、濃灰色に滲んでいる。

「いいよ。というか、俺もユリオと同じこと考えてた」
「なんだ、言ってよ」
「ンー。まあ、そこはユウリに任せるっていうか」

でも、そろそろオンセン入りたい、と彼は顔を綻ばせる。確かに、帰省するなら今がいい時期だ。来月になれば本格的に体力トレーニングとプログラムの見直しに入らなければならないし、ジャパンオープンに向けて調整する時期に入る。シーズンオフはもうじき終わりだ。
しかし長谷津を出たのがわずか半年前だというのに、もう帰省というのは早すぎやしないだろうか。そして僕は、五年間顔を見せにも行かなかった薄情さの方に身が慣れているのだと気付く。普通なら。いや、普通って何だろう。僕にはその普通が如何なるものなのか、よく理解できていない。
ただユリオに指摘されなければ、ヴィクトルが温泉に入りたいと言わなければ。僕はまた機会を逃してしまうところだったに違いない。
七月。戻ってからでも、調整は十分に間に合う。

「じゃあ、来月の頭に帰ろうかな。ヴィクトル仕事は?」
「オーケーオーケー。多分平気」
「ちゃんと確認して」
「大丈夫大丈夫」

言いながらひらひらと右手を振り、ヴィクトルは立ち上がる。腿と尻に付いた氷をはたいて落とし、ブレードに被ったそれらもグローブで拭う。銀糸のような彼の前髪が、重力に従って垂れていた。ヴィクトルの言い放つその言葉には、不安要素が多すぎる。

「ユリオも来る?」
「行きてえ。けどじいちゃんとこ居るから多分無理」
「そっか。お土産買ってくるよ」

何がいいかと尋ねれば、ユリオはふん、と鼻を鳴らしてリンクの向こうへ行ってしまった。ヤコフコーチが戻って来たのだ。ばたん、と音を立てて背後の扉が閉まる。
何をしていたんだっけ。そうだ、ルッツだ。ルッツを見てくれるって言ったのに。しかしサボタージュの時間は終わってしまった。時計を見れば、リリア先生と約束をしているバレエのレッスンのまで、あと三十分も残っていない。

「ヴィクトル。僕、そろそろ時間だ」
「あ、リリアのところね。お昼はそのあと?」
「うん、多分」
「終わったら連絡して。食べに出よう」

前に話した美味しいところ。時折彼はそうやって、昼食を理由に僕を外へ連れ出す。高い頻度でユリオがついてくることもあるし、そこそこの頻度でミラがついてくることもある。ギオルギーさんがついてきたことは、そういえば一度もない。今日はどうだろう。ふたりだけの昼食というのは、久しい。
エッジカバーを嵌めてから、リンクを下りる。ベンチに腰掛けてシューズの紐を解く傍ら目をやったリンクでは、ヴィクトルがユリオの肩を叩いていた。早速昼食に誘っているのだろうか。それとも、先程転倒していたループのことだろうか。
実のところ、彼は周囲をよく見ている。自身の背後で転倒していたユリオのことにも、きっと気が付いていたのだろう。
そういえばヴィクトル、転んだところ大丈夫かな。
履き替えたスニーカーの中はすっかり冷えていて、癖のように足の指を擦り合わせる。
彼のロッカーの扉に、持ち合わせの絆創膏と湿布を貼り付けておこうと決めた。

 
    ××× 


ヴィクトルと僕をひと言で表すとすれば、そこにどんな言葉が当てはまるのだろう。そう考えたことが、もう何度もある。
腰掛けているソファにずるり、と体重を預けて、背もたれに首を乗せた。
さんさん、と窓を叩く雨の音を聞きながら、僕は今ある映画を観ている。ギオルギーさんの新しいプログラムの曲が気に入ったと本人に伝えたところ、それが使用されている映画とサウンドトラックを貸してくれたのだ。
空いた時間に再生し、ぼんやりと眺めること数日。物語はようやく中盤に差し掛かったところだろうか。
交通事故に遭ったある恋人たち。男性の方は死に、一方で生き残ったものの一部記憶を失った女性は、あの日の出来事をすこしずつ思い出していく。
雨のシーンが多い、と思った。まるでそれがまだ正体の掴めない女性の悲しみを表しているようで、すこしだけ胸が痛くなる。雨に打たれながら帰った今日、その雨粒のぬるい感触が、まだ僕の腕に張り付いている。
映像から視線を外し、部屋の洒落た照明を眺める。それから目を閉じれば、焼き付いた残像がすこしだけうるさくて。集中がいまいち続かないのは、背後のキッチンから漂う夕食の気配が、僕を現実へ引き戻そうとするからだ。
結局あのあと、時間通りにレッスンを終えてからふたりで外に出た。リリア先生は人にも生徒にも、自分に対しても時間には厳しい。ヤコフコーチとの約束では時間を守る方が珍しいヴィクトルでさえ、リリア先生の前では時間厳守を貫いているのだから。きっとふたりには、僕の知らないうんと昔に何かがあったのだろうと密かに考えてる。
そう、考えていたのだ。僕とヴィクトルの関係について。人の思考は時間も距離も、物理法則でさえ無視をしてすぐにどこかへ飛んでいってしまう。
あなたのその、恋人? そんなこと知ってどうするのよ。
でも、知りたいんです。最後の思い出まで、知りたいんです。
ショートカットの、つり目に眼鏡を掛けた女性はその言葉を聞いて、面倒くさそうに後ろ髪をぐしゃりと掴む。体を締める灰色のスーツが女性により一層きつい印象を与えていた。
恋人。そう例えられたことが、ある。もちろん否定したけれど、その人の中ではきっと、ヴィクトルと僕はそういうことになっているのだろう。一度植え付いてしまった他者の認識を変えることは、難しい。しかし今までそういう意味で人と関わったことがない僕には、肯定するのだって難しい。恋人と言えば手を繋いで、抱き合ったりキスをしたり。そういう認識からすれば、やはりノーと否定せざるを得ない。
だって、違うのだ。違う。日本語という言語は、時折単語が不足していると感じることがある。正しく、今のように。

「まだ見てるんだ」

ヴィクトルはいくつかの皿を腕に両手にと器用に乗せながら、キッチンから出てきた。まだ、というのは彼がこの映画をあまり好みではないという理由で僕をソファに残し、夕飯を作りに行ってしまったことに起因している。

「うん。折角貸してくれたし」
「ギオルギーはいつもそういう映画ばっかり」

曲は俺も好きだけどね。受け取ったスプーンに一瞬映る、逆さまの僕。湯気で曇る眼鏡を外して、テーブルに置いた。途端に不明瞭になった件の恋人たちの記憶。ややしんみりとした空気の映像は、夜の食卓には似合わない気がした。

「いつもって」
「いつもだよ。本当、変わらないんだよなあ」

ヴィクトルがとなりに腰掛けた分、すこしだけソファが沈む。瑞々しいレタスにフォークを刺せば、しゃく、とちいさく悲鳴が上がった。
ギオルギーさんとヴィクトルは、あのリンクの中でもとりわけ古いふたりだと聞く。具体的にいつからリンクメイトとして滑っているのかは知らないけれど。それなのに、ふたりが親しげに話しているところをあまり見たことがないように思う。どちらかといえば、ギオルギーの良き友人の立場にあるのはミラの方だと感じる。
ギオルギーさんとヴィクトル。やや収まりの悪い組み合わせに首を傾げている間、咀嚼していたレタスは随分と細かくなった。

「何? 変なものでも入ってた?」
「いや。ギオルギーさんとヴィクトルって組み合わせ、なんか想像つかない」
「そう? まあ俺もギオルギーも、お互い良い意味で無関心なところがあるから」

そしてその発言にも首を傾げながら、逃げるトマトにフォークの先端を押し付ける。丸々としたそれを口に運べば、取り損ねた蔕の感触がざらり、と舌に転がった。ヴィクトルに関しては恐らく良い意味と悪い意味、そしてそれ以外の多くを含んでいるのだろうが、本人に自覚がないというのも恐ろしい話だと思う。

「なるほど」
「あとはお互い、恋人と長続きしないっていうところも似てるね」

机の中に仕舞い込まれた黒い布。手に取りそれを捲ると、中にはすずらんの簪が眠っていた。細長い金具で繋げられた、数個のちいさな花弁。きっと大切なものだったのだろう。しかしそれが、何なのか思い出せない。大切に仕舞うだけの出来事が過去に起きているということは分かるのに、それが何であるか思い出せない。
その苦しさに、女性は蹲って泣いていた。記憶という形のない、当たりようのないものに対する苛立ちを涙として流すことしか出来ないもどかしさ。
一方で彼らのように、涙を流す隙もない人たちだっている。いや、ギオルギーさんの方はその隙はあったようだけれど、僕のとなりに座っているこの人はどうだろう。愛の形とは人それぞれである、というのを、僕は今しがた実感している。

「ギオルギーさん、早く相手が見つかるといいね」
「あれ、俺は?」

手にしたスープの器が掴めないくらいに熱くて、僕は一度手を引いた。その折に見えた、金の指輪。あの日から、どうにも右手を眺める機会が増えた。以前は自分の手に欠片の興味も無かったというのに。ただひとつ装飾品が増えただけで、こんなにも美しく見える。愛しく見える。

「早く相手が見つかるといいね?」
そう言うように促したのはヴィクトルだというのに、彼はどうかなあ、と煮え切らない言葉を返す。

「誰かさんがくれた指輪、仕舞っておくには勿体ないからね」
「付け替えてもいいよ。左に」
「そうしたらユウリも左に付け替えてくれる?」

別に、どの指に嵌めるかなんて重要ではないのだ。購入したあの店が主に薬指に嵌める指輪を取り扱う店であったから、この指輪だって薬指に収めるしかなかっただけの話だ。ためしに人さし指に嵌めてみたこともあるけれど、きつくて第二関節より下に届くことはなかった。

「今度は僕の相手が見つからなくなっちゃうじゃん」

ヴィクトルは僕の言葉に貼り付けたみたくにこりとした笑みを返すと、作りたてのスープをスプーンで掬った。それ、まだ熱いよ。言おうとしたけれど、彼は熱くとも冷たくとも口に放り込んでしまうことを思い出して、開きかけた口を閉ざした。あ、スープ美味しい。音もなく、そうやって彼は静かに器の中身を消費していく。
なに、その顔。
たとえばそれは、練習中に僕をやさしく問い詰めるときの表情に似ていた。
十五分休憩って言ったのに、どうしてもう始めているんだい。
今のはよくないね。まずは構成通りにって言ったよ、俺。
相変わらずコーチの言うことが聞けないね、ユウリは。
言われれば僕はごめんなさい、と言葉を返すしかなくなるものだから、大抵は丸く収まるのだが。今については何に対して謝るべきなのか、分からない。そもそも謝るべきことなのかどうかさえ分からずに、一秒、また一秒と時間だけが過ぎていく。
かき混ぜたスープが、ゆるく渦を巻く。その中でくるくると、野菜たちが惑うように踊っていた。


    ×××


白い壁に、白い光を発する照明があまりにも眩しくて。
バスタブの白さも相まって、ヴィクトルの家の風呂場というのは僕にはすこし落ち着かない。温泉を身近に感じているからだろう。デトロイトにいた頃もシャワーだけの入浴にやや物足りなさを感じていたけれど、それならバスタブがあればいいのか、という問題でもないらしい。風呂という空間に対して、僕はいささか多くを求めすぎている。
その照明の眩さに目を逸らすみたく、ぶくぶくと唇をバスタブに沈めた。そして弾けた飛沫を目に浴びる。
ヴィクトルは、選手を辞めるのか。
すこし前にギオルギーさんとそんな話をしたことを、ヴィクトルは知らない。それは三か月ほど前に行なわれた世界選手権の、バンケットでのことだった。終盤、予め指定されていた椅子から皆好き勝手に移動し、選手もスポンサーもない混ぜになった頃。丁度空いた僕の右隣の椅子を引いたのは、ギオルギーさんだった。

『ひとりか。ヴィクトルはどうしたんだ』
『向こう。挨拶に連れて行かれたまま帰ってこない』

僕たちがリンクメイトになってから、三か月とすこし。打ち解けると言うには過言だけれど、彼とは年齢が近いこともあり、敬語が外せるくらいには距離を縮めることが出来たように思う。

『ヴィクトルに用?』
『いや、そういうわけではないんだが』

そう言って、ギオルギーさんは手にしたシャンパンを一度口に含んだ。
正直なところ、僕は人付き合いが得意ではないし、好きでもない。どんな集まりでも喧騒を端で眺めているうちに、いつの間にか全てが終わっている。このバンケットもそうだ。例外ではないと思っていたけれど。

『元気がないな』
『そう見える?』

疲れちゃったのかも。はは、と笑ってみせた僕をちらりと一瞥すると、ギオルギーさんはもう一度、シャンパングラスに口を付けた。僕と同じように、言葉を交わしあう人々を眺めながら。ユリオ、眠そうだな。壁に凭れてピチットくんたちと話す傍ら、手の甲で何度か目を擦るさまを視界に捉えた。
ギオルギーさんがグラスをテーブルの上に置くまで。それまでの時間、僕らの間に言葉は無かった。
ヴィクトルに用件ではないのなら、きっとこちらに何かあるということだ。その用件とやらには皆目見当もつかない、と言えば嘘になる。ただ今はあまり、触れてほしくない。それのおかげで昨夜、僕はあまり眠れていないのだ。故に疲れている。考えすぎることは、体を酷使するよりも体力を消耗すると知った。
向かいのテーブルに乗ったいくつもの皿に、すこしだけ料理が残っていること。設けられたステージ上の弾幕が、ほんのわずかに右にずれているということ。今しがた触れたクロスの端がちいさくほつれているということ。
会場をぼんやりと眺めていると、そんな下らないいくつものことに気が付く。しかし僕を呼ぶギオルギーさんの声が、意識を引き戻してくれる。

『これは聞くべきか迷ったんだが』

ギオルギーさんはアルコールに強い。そう聞いていた通り、顔を赤らめることなくしっかりとした口調の彼はそして、先の疑問を僕に問うた。
手元のシャンパングラスの脚の根元を、指の間に挟む。静かにちいさく回せば、中のシャンパンが一拍遅れて揺れ始めた。

『どうして、そう思う?』
『表彰台での奴の眼を、見たか』

手を動かすのをぴたり、と止める。慣性に従って揺れ続けるシャンパンは、やはり一拍遅れて元に戻っていく。
僕と同じだ、と思った。同じように、僕も忘れられない。ヴィクトルのあの眼を、あの表情を、忘れることができない。
結論だけを言うと、世界選手権でヴィクトルは金メダルを獲れなかった。ユーリ・プリセツキー。それを手にしたのはひと回りも年下で同国同門の、彼の弟弟子だった。ヴィクトルは負けたのだ。僕の目の前で。
それなのに、彼は表彰台で銀メダルを掲げながらひどく穏やかな顔をしていた。
悔しさ。それをどこかへ置いてきてしまったかのような、元より備えていないようなあの眼。
僕はリンクサイドから、そんなヴィクトルだけを眺めていた。ヴィクトルのその眼だけを、その表情を、ずっと見ていた。
だから忘れることができない。その表情の理由も、思い付かない。否。本当は分かるのに。昨晩は考えすぎて、だからもう考えないようにしているだけだ。今だって。考えないようにしていただけだったのに。

『憶測で話すのはよくないよ』
『奴の口から何か聞いていないのか』
『やめてってば』

ろくにアルコールも飲んでいないのに。いささか強く出たおのれの声で目前の幾人かが振り返る気配がした。

『いや、すまない』
『ごめん。そうじゃなくて、いや。うん。僕もごめん』

ヴィクトルが近い将来選手を辞めてしまうとして、それはそれで仕方のないことなのだと思っている。むしろ、彼ほどの年齢でまだ競技を続けている方が珍しいのだ。だから彼が明日選手を辞めると言い出しても、何もおかしいことはない。そんなことくらい、分かっているのに。
でも。
湯から出した指先に、雫が滑り落ちていく。それが水面を揺らすさまをほんの近くから眺めていた。沈めた唇に、ゆるい波紋がぶつかって解ける。
僕はコーチに。ヴィクトルに勝つことを約束しているのに、まだ果たせないままだ。
そして扉を隔てた向こうから、僕を呼ぶ声がする。

「ユウリ―。バスタオル新しいのにしたから。これ、ベージュのやつね」
「分かった。ありがとう」

言いながら背後のバスタブに頭を乗せた。晒した喉に伝う湯が、鎖骨を通って胸まで落ちる。
今日に限って外し忘れた金の指輪。掲げてみれば、眩しすぎる照明が僕の右手を陰で覆ってくれる。
金メダルに、キスがしたい。
半年前、ヴィクトルはジャパンナショナルで獲得した金メダルにまあ当然だよね、と言いつつも、嬉しそうにキスをしてくれた。一方の彼は同様にナショナルで獲得した金メダルを僕に見せることもなく、どこかへ仕舞ってしまったのだが。
今にして思えば、僕もキスがしたいと、言ってみるべきだったのかもしれない。いや、言ってみるべきだったのだ。
濡れた指輪を一度、柔く噛んだ。熱を吸ってすこし熱くなったそれに、おのれのくちびるを触れさせる。
僕は、ヴィクトルを越えてみせないといけない。のに、ヴィクトルが表彰台の高いところに上る光景をもう一度。もう一度だけ、見たいと願ってしまう。
ふたつがいっぺんに叶えばいいのに。世界はそんなに優しくないことくらい、知っている。
そして残された時間はきっと、もう少ないことも知っている。


    ×××


遠征以外でヴィクトルと飛行機に乗るのは初めてだということに、離陸をしてから気が付いた。ジャパンナショナルを前に彼はひとりでサンクトへ戻ってしまったし、僕がここへ来るときも、ひとりで飛行機に乗って向かった。
迎えはいらない、と伝えていたのだが、朝早くからひとりで空港のソファに腰掛けて待っていたらしい。うとうと、と揺れる彼の頭をつついたあの日から、既に半年以上が経過している。
上のクラスを促した僕の言葉に無視をして、ヴィクトルは今日も長い足を窮屈そうに折り畳み、律儀に僕の隣に座る。いつもの通路側。いつもの左隣。
すこし違うのは、競技会直前みたく気が張り詰めていないというところだろうか。失敗したらどうしよう。最下位になってしまったらどうしよう。ショートを一位通過しても、その後失敗してしまったらどうしよう。僕は長いフライトの間、いつも頭にそんな思考を詰め込んでいた。
心臓が破裂しそう、とはよく言うけれど、僕の場合それはきっと頭だ。空気を詰めすぎれば、簡単に破裂する風船のように。思考を詰めすぎたこの頭は、演技直前になると大抵は破裂寸前だった。どうしよう、どうしようと。順位が上だろうと下だろうと何かにつけて嫌な想像をする、嫌な癖。
ごうごうとエンジンが音を立てる。窓枠に肘をついて外を眺めていると、その音に紛れるかすかな鼻歌が聞こえた。ヴィクトルがおのれのショートプログラムの曲をちいさく口ずさんでいたのだ。
ひたすらに青い景色。サンクトペテルブルクは灰色の雲に覆われていたけれど、雲の上に天気なんてものは存在しない。

「向こう、晴れてるといいね」
「予報見なかったのかい」
「見ようと思って、忘れてた」

内耳が圧力に負けて、ヴィクトルの声がくぐもって聞こえる。代わりに僕の声が耳の奥でひどく響いた。
確かに向こうは梅雨の季節だから、傘くらいは持ってくるべきだったのかもしれない。ここにいると、すぐに日本のことは分からなくなる。機内に持ち込んだ荷物を見るに、ヴィクトルもきっと傘を持っていない。

「ヴィクトル、傘持ってきてないでしょ」
「ないね。どうして?」
「向こう、雨降ってるかも」
「本当? よく分かるね」
「梅雨っていうのがあって」

ふうん、と彼はサングラスを外して、襟に掛ける。あらわになった瞳を、僕は何度見ても美しいと思ってしまう。

「知ってる。それ、ロシアにもあるよ」
「へえ。初めて知った」
「ウラジオストクだから、ここからはずっと離れるけどね。行ったこともないし」

知識として知ってるだけ。そうして、目前の座席に嵌め込まれたモニターを弄り始める。放送中の映画の一覧を確認して、しかし好みのものが無かったのかすぐに指を画面から離すと、彼は背もたれに背中を預けた。

「ユウリはあまり、ハセツに帰りたがらないね」

俺なんていつも帰りたいと思ってるのに。ぽん、と軽快な音を立てて、シートベルト着用サインが消えた。それを合図に立ち上がり、飛行機の後方へと歩いていく幾人の波。左隣に視線をやると、問いかけてきたのは彼のはずなのに、何、って顔をして、僕の顔を見返す。

「どうしてだろ」
「俺に聞くんだ」
「いや。そういうわけじゃないけど」

そういうわけじゃないけど。頭の中でもう一度繰り返したのは、先のヴィクトルの問いかけに対しての答えだった。
別に、帰りたくないというわけじゃない。僕だって本当は帰りたかったのに。でも、そうすることをしなかったのは。それが出来なかったのは。
ヴィクトルはちいさなあくびをひとつこぼしてから、眠たげに目を擦る。俺、昨日はあんまり寝られなかったんだ。というのは先の地下鉄での移動中に聞いたことだ。着陸までは一時間半ほどあるから、軽く睡眠を取るには十分だろう。そもそもヴィクトルはフライト中に起きている方が珍しい。
僕さあ。エンジン音に忍ばせるように呟いた言葉を、それでも彼は聞き逃さない。うん、と眠気にやさしく包まれた相槌。ヴィクトルが眠りにつくまでのわずかな間に、聞いてくれればいい。戯れでよかった。起きた時に、忘れてくれていてもいい。
翼が質量のない水蒸気の塊を切りつけるさまを、視界の端に捉えた。

「怒られてるような気がして、怖かったんだ」
「怒る?」
「長い間スケート続けてるのに僕、成績全然残せてなかったから。申し訳なくて」 

知っているのに。本当は誰も僕を責めたりしないことなんて、知っているのに。
すべては僕の思い込みなのだろう。思い込みが思い込みであると気が付くのに、五年もかかった。そうであると分かってからも、残滓が僕の中でくすぶっている。嫌な癖だ。本当に。

「でもヒロコたちはユウリを褒めていたよ」
「知ってるよ。だから余計に、なんか」

申し訳なくなる。そこまで言うと、ヴィクトルは顎に手を当てて考えるような素振りを見せた。きっと彼には縁遠い感覚なのだろう。理解出来なくても、無理はない。
窓に反射した自分は、面白いほどに情けない顔をしていた。気圧に負けて、耳が遠い。唾を一度飲み込むと、よく分からないけど、と言う彼の声がやたら鮮明に聞こえた。

「もしも本当にそんなことがあったら、俺も一緒に怒られてあげる」
選手の失敗の責任はコーチにあるからね。よく分からないなりの彼の言葉に、僕はちいさく吹き出した。それって、心強いかも。実際今こうして長谷津に帰省できるのも、ヴィクトルが傍にいるからなのだと思う。ひとりは、すこし怖い。けれどふたりなら。ヴィクトルなら。

「うん。ありがとう」

そう言うと彼は満足したように瞼を閉じる。冗談のような白い絨毯が広がる、雲の上。左肩に伸し掛かるヴィクトルの重さとその温もりを、今日は頼もしく感じていた。


    ×××


福岡空港からおよそ一時間半。昼をとうに過ぎた長谷津は、梅雨を忘れたみたくすっかり晴れていた。十数時間前のサンクトペテルブルクがまるで嘘のように暑く、そして明るい。晴れてるじゃないか。晴れてるね。まるで合言葉のように言い合い、ふたりして一枚羽織っていたカーディガンを鞄に仕舞い込んだ。 
サングラスを掛け直すと、ヴィクトルは先を歩き始める。その目に日本の日差しは強すぎるのだろう。アスファルトに照り返す陽の光が、僕の目にも眩しく映る。
熱気と、風に揺られて漂う潮の香り。半年ぶりに戻って来たこの場所は、すっかり夏の匂いを帯びてその様相を変えていた。

「日本はやっぱり暑いね」
「タクシー拾ってもいいよ」

いや、歩きたい。はたはたと彼がシャツの襟元を仰ぐ傍らで、僕はポケットから電源を落としたきりのスマートフォンを取り出した。あと十五分ほどで着いてしまうけれど、お母さんに連絡を入れておこうと思ったのだ。
画面が立ち上がるとすぐに、一件のメッセージを受信した。ユリオからだ。土産についてひと言触れたその内容に、僕はつい笑いを零してしまう。

「なに?」
「ユリオから。お土産、あのサイダーがいいんだって」
「サイダー? 子どもだなあ」
「ね」

風呂あがり。大人はビールで、子供はコーヒーかフルーツ牛乳か、サイダー。ゆーとぴあかつきに置いている瓶のサイダーを、ユリオはいたく気に入っていた。確かに暑い今の時期にはいいのかもしれない。
ユリオのメッセージに返信をしてから、もう一度新規メッセージを立ち上げる。そこにそろそろ着きます、と一文添えてから、今度はお母さんに送った。電話の方が良かったのかもしれないと気が付いたのは、その直後だ。しかしお母さんはスマートフォンを持ち歩かない。きっとどちらにしても変わらないな、と思えば、スマートフォンをポケットへ押し込む手に躊躇いが無くなる。
橋を歩いていると、波の音が聞こえた。一層強くなる潮の香り。ふいにあの、浜辺に打ち捨てられたピアノのことを思い出した。ここよりもっと広くて、もっと細やかな白砂の散る浜辺。孤独なピアノが奏でる、静かな波のような旋律。

「商店街の方、随分賑やかだったね」
「ああ、七夕が近いから」

タナバタ? と、ヴィクトルは語尾を持ち上げる。普段静かな商店街も七夕の前後を含めた三日間、その通路自体が祭りの会場となるのだ。商店街中に施された七夕の装飾は確かに華やかだったけれど、あれはまだ序の口に過ぎない。
そういえば、僕が高校生くらいの時にはどこかから仕入れた笹を玄関に置いて、お客さんから集めた短冊を飾っていたような気がする。久しく見かけないものだから、すっかり記憶から抜け落ちていた。僕がいなかった間のことはわからないけれど、少なくとも去年は置いてはなかった。

「願い事書いて笹に飾ったり。まあ、お祭りだよ」
「笹が願いを叶えてくれるのかい」
「えー。いや、飾るだけ、みたいな」

うんと昔の僕が短冊に何を書いたのかは、もう覚えていない。スケートが上手くなりたいだとか、一番になりたいだとか。もしもそんなことを書いていたのだとしたら、願いはまだ叶っていない。そもそも叶えてもらうものではなく、それは自分で叶えにいかなければならない願いだと分かっている。

「じゃあ、ユウリの願いは何?」

僕の願い。フィギュアスケートを続けること。今がずっと続くこと。コーチと、ヴィクトル・ニキフォロフと共に、氷の上に生きていたいということ。

「たくさんありすぎて、決められないよ」

夏の日差しが容赦なく、空から僕たちを焼きつける。ヴィクトルは、と尋ねれば、彼は顎に手を添えてううん、と一拍考え始めた。薄らと汗ばんだ腕が、横を歩くヴィクトルにぶつかる。暑さで互いに足取りがすこし危ういのだ。こめかみに伝う汗を手の甲でぐい、と拭った。
例えばこんな会話には、何の意味もないのだと思う。ただ空いた隙間を、おのれの声と相手の声で頼りなく埋めているだけだ。それを心地良いと思う。燃えるような暑さの中。頬が割れてしまいそうなほど冷たい風が吹く中。どこにいようが、ヴィクトルの隣はいつも僕に安寧をもたらしてくれる。

「内緒」

その瞳はサングラスの奥に隠されて、伺うことは出来なかった。


    ×××


しばらく歩いたのち到着したゆーとぴあかつきの玄関に、先程話題にしたばかりの大きな笹が立てかけてあった。縦長の色画用紙を既にいくつかぶら下げて、瑞々しい緑を放ってそこにいる。

「ただいま」
「タダイマー」
「あれ。おかえり」

玄関に停めた車へ、真利姉ちゃんが空いたビール瓶とケースを運び出していた。咥えた煙草から白く細い煙がゆらゆらと立ち上る。

「笹すごいね」
「久しぶりに商店街がくれた。祭で飾るから短冊集めてくれって」

あとであんたたちも書いといてよ。開いた引き戸の先に、短冊の束とペン立てを置いた机が見える。ヴィクトルは珍しげにぶら下がった黄色の短冊を手に取っていた。裏返したり捲ってみたり、忙しい。現状維持、とだけ書かれたその短冊は、ヴィクトルが読むにはすこし難しいのだろう。

「あたしこれ返してくるんだけどさ、母さん厨房にいるから」
「メール送ったんだけど、読まれてないかな」
「多分ね」

そしてトランクを閉めて運転席へ乗り込んだ真利姉ちゃんは、灰色の煙を吐き出す車を従えて、門の向こうへ消えて行った。

「ヴィクトルもそれ書いて、だって」
「願い事? 日本語じゃなくてもいいのかい」
「平気だよ」
 
むしろ僕も盗み見されるのは好きではないから英語で書こうかな、と思いさえしたほどだ。しかしそうすると、ヴィクトルには読むことができてしまう。上手く両立させる方法を今のところ思いつかない。

「日本の神様はカンヨーだね」
「神様だからね」

脱いだ靴を揃えて、靴棚に仕舞った。空調の管理された室内が汗ばんだ体を冷やしてくれる。ヴィクトルは靴棚の一番高いところにおのれの靴を置いた。お客さんの邪魔にならないよう配慮してくれているのだろう。別に、いいのに。
あと何度、彼とこうしてあの門をくぐることができるだろう。この玄関で彼が靴棚に靴を収めるさまを、あと何度眺めることが出来るだろう。
去年はそんなことを考えもしなかったのに。慣れというのは恐ろしいもので、一年前の僕はそこに制限があるということに気が付いていなかった。何百回あるうちの九割は既に終えているのかもしれないし、もしかすればまだ五割分残っているのかもしれない。そうだといい。そうであってほしいと思う。
現状維持。その四文字が刻まれた鮮やかな黄色が、脳裏を過る。


    ×××

 
今日はアイキャッスルへ行こうと決めて、目覚めた朝。
見慣れた白い天井が今日は木造のそれに変わっていて、一時夢を見ているのだと勘違いを起こす。
そうだ。帰ってきたのだ。長距離移動で体内時計がすこし狂って、昨日は食後ふたりとも倒れるように眠ったことを思い出した。布団のやや硬い感触。草のほのかな匂い。そばがらの枕が耳に擦れる感触が、懐かしい。
陽の光にすっかり蒸されて熱気の篭る部屋の中、見ればヴィクトルはまだ眠っていた。カーテンの隙間から射す陽の光が、彼の髪を透かす。身につけさせたシャツがどうにも暑苦しそうに見えた。目を擦った手のぬるい温度さえ、この部屋ではやや鬱陶しい。
隣の部屋にあった大きなベッドもソファもテーブルも、今はもうない。一年前は居場所であった広い空間にひとり布団を敷くのは寂しいという理由で、ヴィクトルは僕の部屋にいる。くしゃくしゃに丸まったブランケットと、ヴィクトル。こちらに背を向けて眠る姿は、やはり和室にはひどく不釣り合いに見えた。
ヴィクトル。僕もう起きるけど。そう言って体を揺すってやると、彼は寝返りをうったのちふわふわと欠伸をこぼす。

「暑い」
「でしょ。向こう行こ。クーラー効いてて涼しいよ」

横たわる彼の体を超えて、締め切っていたカーテンを開けた。いっそ暴力的なほどの夏の陽射しが僕の目を刺してくれる。気休めに窓を開けたところで、室温と変わらない空気が頼りなく漂ってくるだけだった。どうやら今年の六月は本当に梅雨を忘れてしまったらしい。
ヴィクトルは寝そべりながら、まだ夢を見続けているかのようにゆるりと口を緩めて笑っていた。

「何笑ってんの」
「懐かしいなって、思ってただけだよ」

喉乾いた。ご飯食べよう、ユウリ。そう言ってすとん、と呆気なくベッドから下りて彼は、すこし癖のついた髪を撫でつけながら部屋を出る。
噎せ返る暑さの中、喘ぐような蝉の声が部屋の中に響いていた。



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