あなた



目に入る光が眩しくて、私は右手でおのれの両目を塞いだ。
身体の下に敷かれたブルーシートがぱりぱり、と乾いた音を立てる。伸ばそうとした脚に、何か硬いものが触れた。蓋の取れた扇風機。キーの戻らないタイプライター。液晶の割れたモニター。起き上がって見渡せば、がらくたはさらにその数を増やしていた。庭を埋め尽くすそれらは、見てくれだけで故障していると分かるものばかりである。
どさり、とまたひとつ、がらくたの増える音がした。珍しく白衣を脱ぎ去った博士は、その代わりに灰色の埃をそこかしこに携えながら腰を叩く。その姿はいつか見た名探偵の姿を思い起こさせた。

「済まんなあ。手伝わせて」

がらくたはすべて、地下にある博士の部屋に収まっていたものたちだった。町内会のフリーマーケットに出せそうなものを探すついでに、部屋の掃除をしているのだと。この家はちょうどそんな様相で、訪れた私を迎えてくれた。
ただ、博士の様子を見に来ただけだというのに。玄関に積まれていた物品の山々を片付けなければ、家に入ることさえできない。唐突な労働にすっかり体力を消耗した私は、家に入るよりも先にブルーシートへ身体を投げていた。

「定期的に掃除しないとだめね」
「欲しいものがあったら、好きなだけ持って帰っていいぞ」

博士はいつもみたく豪快に笑いながら、籠のなかのものを広げていく。割れた鏡。埃だらけの写真立て。塗装の剥げた置き人形。よくここまで様々な品を集めたものだ。持って帰ろうにも六畳しかない私の部屋には、これ以上物を置く余裕もないのだが。
やたらに古びたがらくたのなかに、封の切られていないカメラを見つけた。手動でフィルムを巻いて使う、使い捨てのカメラだ。インクの薄れた価格シールが貼られたままの姿で、塵同然に転がるそれ。裏面に記された有効期限は半年前の日付を示している。二十七枚という数字をやたらに強調した包装。スマートフォンのカメラアプリやデジタルカメラが普及している現在、この種類のカメラを持ち歩いている人を見かけることもなくなった。その緑色の封を破けば、なかから黒のプラスチックが姿を現す。シールの巻きついた簡素な外観が、見るに久しい。
親指で右端のダイヤルを回しているとき、そういえば、と博士は思い出したように声を上げる。

「歩美くんが、しきりに君に会いたいと言ってるんだが」

覗き込んだファインダーの中心に、薄いちいさな十字が見える。中心の定まらない、真っ青な空。どこを映そうかと、しばらくレンズを彷徨わせながら、私は歩美ちゃん、とかつての友人の名を呟いた。
じゃあ、お姉さんのヒーローって、どんな人?
今度会ってしまったら、私はそのことを彼女に話さなければいけないらしい。しっかりと約束として記憶に刻んだ彼女は、だから私のことを博士に尋ねているのだろう。彼女は今日、帝丹中学校で行われている球技大会に参加しているのだと聞いた。過度に汗をかくことも、涼しすぎることもないこんな日は、運動をするのにうってつけだ。だからといって、がらくた運びという名の労働を肯定しているわけではない。

「まあ、うまく誤魔化しておいて」
「なんじゃ。喧嘩でもしたのか」
「もうそんな仲じゃないでしょう。私たち」

太陽が強い光でもって、ファインダー越しに眼を貫きにかかる。私は目をほとんど閉じながら、その景色に向かってシャッターを切った。かしゃん、と安価な音が手に馴染んで懐かしい。
彼女の声を聞いたのは、もう二か月以上も前のことになる。桜が咲き切る前の、三月の中旬。桜の木がすっかり緑色に変わった今、もう新しい生活には慣れただろうか。彼女のなかに棲むヒーローを超える誰かを、見つけることができただろうか。

「ねえ、博士」
「おお」
「あの探偵団バッジって、まだ直せる?」

このあいだ工藤くんの家で手にしたバッジは記憶していたよりも随分軽く、そしてちいさく見えた。そこに寂しさを覚えてしまったのは、その分自分が成長したのだということに気が付いたからだ。そこにある彼女たちとの隔たりが、目に見えてしまったからだ。
同じ学び舎で。同じ制服を着て。同じように年を重ねて。私はその可能性を振り切って、元の姿に戻ることを選んだ。名探偵ほどではないけれど。分かっていて、吉田さんの傷になることを選んだ。

「ああ。電池を替えるだけだから、すぐに直せるぞ」

そういえば最近、新一も直してほしいと言って持ってきたなあ。言いながら。博士はたくわえた白髭を指先で伸ばす。ブルーシートの上に広がるスカートに、埃が乗っていた。指先で摘んだそれを、たった今吹いた追い風に乗せて流す。

「工藤くんが?」
「腕時計と眼鏡と、あと変声機も一緒にな」

まだ使えるかな、とあの名探偵は言葉通りに、かつての道具たちの修理を博士に任せていたようだった。腕時計があれば、銃刀を携帯する犯人を眠らせて捉えることができる。バッジと眼鏡が揃えば、逃走中の犯人の追跡に役立つ。どれだけ現場に踏み込めば気が済むのかと問い質したいところだけれど、そんな名探偵の性に幾度となく救われた身としては、ただ閉口せざるを得ない。
もし工藤くんが、探偵バッジを携えてあの家に戻ってくるようなことがあれば。そのときにもし、探偵バッジを持ち歩いているあの子が、この家に居たら。
今すぐバッジに向かって話しかけるよう、あの子に連絡するのに。
そんな些細な思い付きが実現してしまう可能性は、あるのだろうか。過った思考に乗せられて、それなら今度、とファインダーを覗いたまま、気が付けば私は博士に声を掛けていた。こんなものはただのお節介だ。私らしくもないと、自分自身が一番よく分かっていたから、博士の顔を見ることもしない。

「吉田さんのバッジも、直してあげてくれない」

じこじこ、ともう一度ダイヤルを回す。薄暗い地下室を出て、久方ぶりに外の空気に触れたであろうがらくたたちが、心地よさそうに日浴びをする庭。夏に向けて深くなりはじめた緑が鮮やかで、私はふたたび、その色をフィルムに焼いた。現代機器に慣れすぎた私にとって、即座に写真映りを確認できないことを不便に、しかしその手間をどこか好ましいとも思う。今の時代はどうにも、便利なものが溢れすぎている。

「なんだ。何か企んどるのか」
「何も。ただの罪滅ぼしよ」

私の意思であの子の大切な友達をひとり、失わせてしまったことに対しての。あの子の前に、ふたたび姿を見せようとしないおのれの薄情さも。第一に、あの子のヒーローを生むきっかけを作ってしまったことも。
私が余計なことをしなければ、あの子は何も知らぬまま暮らしていくことができたのに。憧れも。寂しさも。もう居ない人間へ感情を抱き続ける切なさも。発端を作ってしまったのは、すべて私だ。私が彼女の人生にひとつ、ひずみを作ってしまったのだ。
だからせめて、と半端に舞台を整えたところで、何かが唐突に変わることはないと分かっていても。ただ流れる時間に、身を委ねるしかないと知っていても。これは私のわがままに過ぎない。ただ、ちょっとした奇跡が起こればいいと。他のすべてを天命に委ねた、私のちいさなわがままに。もうひとつには、名探偵の困った顔が見たいという個人的な欲もある。こういうところで顔を出すおのれの性格の悪さが、私は嫌いではなかった。

「博士。このカメラ、貰ってもいい?」
「いいぞ。そんなもので良ければな」

この町は、今日もよく晴れていた。きっと今日の朝焼けも、とても綺麗なものだったのだろう。球技大会を終えたあの子たちがやって来ないうちに、私はこの家を出ていく。今日もひとりで、山の向こうに消えていく円を眺めながら帰路に着く。
けれど、と私は首を反らして空を仰いだ。あの名探偵なら。引き寄せてしまった事件と同じくらい、奇跡を引き起こしたあの男なら。その手足で。その頭で。数多の人間に救ってきた彼であれば。
この程度の奇跡なんて、容易に起こしてしまうのではないかと思うのだ。


×××


彼から電話がかかってくることは珍しく、私は閉めかけの門に手をかけたまま、スマートフォンの液晶を操作していた。不在着信が一件。数分前に残されたそれに折り返そうとしたとき、再度彼から着信が入る。手のうちをくすぐるバイブレーションにせき立てられるみたく、赤色のボタンに触れた。もしもし、と零の距離で鼓膜を揺する彼の声が、私にはすこしくすぐったい。

「何?」
「今どこにいますか」

尋ねたのは私の方だというのに。彼は問いを問いで返す。しかしその声色は急いているわけでも、こちらを急かしているわけでもなく。まるで近況を尋ねるかのような口調でもって、私に答えを促した。

「博士の家。帰るところだけど」

庭から溢れるがらくたの山が、この場所からでも伺える。要るものと、要らないもの。後者に分別されたそれらは、庭で陽が落ちるのを待っていた。扇風機に結ばれた薄汚いすずらんテープが、風に吹かれて揺れているのが見える。

「よかった。それなら、米花駅まで迎えに行ってもいいですか」

とん、と靴のかかとでアスファルトを叩いた。春の始まりに新しく買った靴だ。厚い底がやたらに重く、まだ革も硬い。こうして短い時間の外出でなければ、出番のない黒いウィングチップのドレスシューズ。

「どうしたの」

優しいじゃない、と肩から落ちかけたトートバッグの紐を握る。高い位置で括った髪の先が、首元に擦れた。博士の作業を手伝っていたらどうにも暑くなってしまって。まだ先にいる夏の気配を薄らと感じながら、風に混ざる毛の束を指先で解いた。彼はいつだってやさしいのに。私はそうやって、思ってもいない嘘を吐く。
違いますよ、と彼は電話口の向こうで笑う。何が違うというのだろう。電話なんてかけてくるほどの用件が、私にとって余程不都合なものであるなら話は別だが。

「夕焼けを見に行くのにいい時間だな、と思っただけで」

服の袖をたくし上げて、左腕の時計を見た。それから西の空に浮かぶ、まだ白い光を放つ太陽を。日はさらに延びていたようで、夕方と言っても差支えの無い時刻だというのに、空はまだ明るい。
その約束を交わしたのは、いつだったか。煙草のにおいが漂うベランダで。土埃でうすく汚れた素足。収まりきらない春の大三角形と、ダイヤモンド。目を閉じて耳を傾けていた彼の話を、今となっては殆ど覚えていない。ゆらりゆらりと、ゆりかごを揺するようなやわらかな声だけが、まだこの耳に残っていた。

「すいません。予定があるのなら、また今度でも」
「特にはないけど」

あとはただ、ひとりで歩くだけの道のりなのだから。薙ぐように、鉄の格子にゆっくりと右手の指を走らせた。た、た、と規則的な振動が、指先に鈍く響く。
じゃあ、駅で待っていてもらってもいいですか。
背後に延びるおのれの影を見つめながら、私は分かった、と首肯を返した。そうしてぷつりと通話が途切れたことを、連続する無機質な電子音が教えてくれる。
彼というのは、律儀な男なのだ。どんな些細であろうと、自分から取り付けた約束を反故にしない。期待しないで待っている、と私はその度に言うけれど。まったくの本心であるその言葉の裏に、私のために無理を押す必要はないのだという意図が含まれていることを、彼は理解しているのだろうか。
スマートフォンをトートバッグに仕舞い込んで、とうに歩き慣れた道を進む。あれから随分と時間が経ったというのに、この景色に大きな変化はない。秋になれば実をつけるあの家の木も。時折中身の入れ替わる掲示板も。家の並びも。人の気配が無い、隣の家も。
あの頃、私は降谷零という男をただ恐れるだけの対象として見ていた。固い意志を宿した言葉のひとつひとつが、私の心臓を止めにかかってきているように聞こえて。数多の思惑をたくわえて、こちらを支配せんとする薄青の眼。私の動きを鈍くさせるそのふたつが、特別に不得手であったはずなのに。
まったく人生とは、どう転ぶか分からない。それが面白いのだと、誰かたちは知ったように言う。
裸足で駆け抜けたこの道を。水たまりを幾度も踏み潰して。横たえた体に刺さる雨粒の刃。神も奇跡も、この世にありはしないのだと。
薄れゆく意識のなかで、心の底から憎んだ世界を。
今はこの眼に、目映いものとして映り込む。


×××


ばたり、と車の扉を閉じた目の前に、落ちかけの太陽がいた。逆光に晒された黒い雲の群れ。赤々とした光を真っ直ぐに受けて、私は反射的に眼を細くする。はたはたと揺れる丈長のスカートの端を抑えるように摘んで、束ね損ねた髪を耳に掛けた。
まだ上に行けるんですよ、と彼が私の手を引くものだから、その先導に従って段差に足を乗せる。円周に沿って緩やかに曲がる幅広の階段。すこし厚い靴底に引っ掛けてしまわぬように注意しながら、ひとつふたつと進んで行った。

「博士の家で、何をしていたんですか」

やや重たげなドレスシューズの足音と、白いスニーカーの軽やかな足音。橙の光に染まった足が、規則的にコンクリートを踏んでいくさまを、後ろから眺める。空いた左手で触れた手すりは日中光に当たっていたせいか、随分とあたたかかった。彼の左手よりも、ずっと。

「いつものボランティアよ」
「なるほど。有意義ですね」
「ええ。えらく使われたわ」

今日の労働は、正しくボランティアと言い換えても差支えのないものだった。その対価は、右肩に掛けたトートバッグのなかに入っている。本当は車内に置いていこうと思っていたけれど、わざわざ持ち出したのは車上荒らしに注意喚起を促す掲示を見たからだ。財布に定期券。ポーチ、財布、家の鍵。それらの質量を受けた肩に、バッグの紐が食い込む。
階段を上りきった先にはちいさな公園が構えられていたけれど、この時間はただ遊具たちが無人のなかに佇むだけだった。ブランコと、半分埋め込まれたタイヤが点在する公園。屋根のついたベンチには、誰かが置き忘れたなわとびが置かれている。
高い所に上ったおかげか、街の様子がよく伺える。がたがたと揃わない高さの建物が、一様に橙を帯びているさま。あのビルの屋上も。家の屋根も。細い棒のように見える電柱も。糸のように張り巡らされた電線も。太陽があの山にかかるには、もうすこし時間がかかるだろうか。じきに陽が落ちきれば、街には別の光が宿る。ここから眺める漏れた光の集まりも、きっと綺麗に違いない。
はたと思い付いた私は、彼の手を解いておのれの鞄を探った。黒い厚みのある、プラスチックの使い捨てカメラ。じりじりとダイヤルを巻いて、ファインダーを覗き込む。山を右に。街並みを下に。焼ける空で大半を埋めたこの景色を収めるべく、衝動的にシャッターを切った。

「どうしたんですか。そんな懐かしいもの」
「博士がくれたの。期限は切れてるけど」

きいん、と頬に、機械の些細な振動が伝う。そのまま左を向けば、柵に肘をつく彼がファインダー越しに現れた。距離がごく近いせいか、うまく焦点が合っていない。橙を映した薄青の瞳が、しかしそのなかでもいっとうに存在を放っていて、私はつい、シャッターを切ってしまいそうになるのを堪える。まだダイヤルを巻いていないから、ボタンを押したところでその一瞬を切り取ることはできないのだが。
彼もきっと、こちらを見ているだろうに。ただ一枚の硝子を隔てただけで、互いの視線のありかが曖昧になる。そして思い付きのように伸びてきた手が、構えられたカメラに触れた。彼はそれを容易く浚ってしまうと、慣れた手つきでダイヤルを巻く。そのとき、ひときわ強く風が吹いて、私はつい目を瞑った。風の唸りに混じって、かしゃん、とシャッターの下りた音が聞こえる。今の一瞬を、彼は写真に収めてしまったのだろう。ちょっと、と反射的に口を突いた言葉を、彼は何ですか、ととぼけたような顔をして応えた。わずかなあいだで、ほんの数歩分距離を取った彼の機敏が、何とも憎らしい。使い捨てカメラは自らが移動しなければ、対象物と焦点が合わない。

「あのね、無駄遣いしないでくれない」
「何を。無駄じゃないですよ」

からりと笑いながら、彼は離れた数歩分を埋め直す。撮るならもっと、綺麗なものにするべきだ。同じものは二度とない、変わりゆくものを。たとえばこの夕焼けを。
残数を一枚分減らしたカメラ。差し出されたそれを受け取って、手すりに肘を乗せた。どこか遠くでからすの鳴く声を聞きながら、私は親指の爪で顎を掻く。

「綺麗。朝焼けみたい」
「確かに。似てますね」

あの日見た夕焼けは。今でも思い出すあの赤は、ずっと私を問い詰めていた。なぜ生きているのか。なぜ殺したのか。なぜ逃げたのか。なぜ生きていられるのか。どろどろと溶けだす色が足元を侵して、汚して、私が背負わねばならない罪悪というものを、いつだって思い出させてくれた。その血のような光は容赦なく、私の罪悪をひとつひとつ、余すことなく照らし出していた。
シェリー。私の心臓を直に撫でる、あの声が聞こえた。けれど今はもう、それがただの幻想であると知っている。あの男は死んだのだ。だからきっと、私はまぼろしを飼っているのだと思う。男の声がまだ、私のなかに生きているのだから。

「ねえ」
「なんですか」
「聞きたいことがあるの」

それなのに、今日はその赤がどこか遠い。色とは裏腹に、どこかやさしげなぬくもりを与えてくれる光。目を背けることなく、今はその輝きを美しいとさえ思える。
右手にしたカメラのダイヤルに、爪を掛ける。力を加えれば。それはかすかに反時計の方向に回った。彼は沈黙でもって、私に言葉の先を促す。

「ジンを殺したのは、あなた?」

憎しみで人を殺すことができたら。それはどれほど幸福であると言えるだろう。恨みの分だけ苦痛を与えることができたら、どれほど救われただろう。唯一の家族を手に掛けたあの男に向かって、引き金を引くことができたら。
ぽつん、とそこに、すこしの空白が生まれた。会話の選択を誤ったのだろうということは明白で、しかしこの沈黙が、私にとっては心地いい。沈黙が苦ではない相手はそういない。彼はそれに該当する、数少ない人間と言えた。
けれどやさしい彼は、そんなわたしの気まぐれのような会話にだって、言葉を返してくれる。

「どうしたんですか。突然」
「夕焼けを見ると思い出すの。あの男のこと」

真下に見える、黒のセダン。そのボンネットに落ちた空の色が、すこしずつ藍を帯びていく。私をここまで連れて来てくれた彼の車だ。彼は愛車であるはずの白いスポーツカーを、滅多に用いようとはしない。あの車は彼が彼であるという証のようなものだ。この国においてやや目を惹きがちな外観のそれでは、彼の職務を妨げてしまうこともあるのだろう。私もあの車には、数えるほどしか乗せてもらったことがない。
薄闇のなかで、いくつもの建物の灯りが映え始める。太陽の端が黒い山の頂上にかかっていた。私の背後は既に紫色が濃くなっており、あたりには夜の気配が漂いはじめる。

「誘わない方が良かったですか」

その言葉から明確な後悔の意が伺えて、私は分かりやすいくらいに首を振る。いいえ、と声まで付けて。彼に負の感情を持たせてしまったという事実ごと、否定してしまいたかった。

「綺麗なものは好きよ。それにあの男は、」

誰かがもう、殺してくれたんでしょう。そっと伏したうすい瞼の向こう側に、あの日の自分を見ていた。小石を踏んで擦れた足。髪も息もぐちゃぐちゃに乱して。浮かび流れる汗に張り付いた白衣の不快感。その裾を踏んで、何度も転びかけたことを。
ほの暗い影を纏った手のひら。数多の人間の命を奪ったこの手なのに。たったひとり。あの男を息の根を止めることだけは、叶わなかった。

「殺したのは、僕ではありません」

彼は目下に広がる街へ、ぽつりと言葉を落とした。誰が殺した、という話ではないのだということ。あの男は、建物の崩落に巻き込まれて死んだのだということ。回収した骸は頭蓋が砕け、四肢が潰れ、無残な姿であったということ。まるで今までに重ねた罪悪のすべてを一身に受けたような状態で、あの男は発見された。
幹部を根こそぎ失った組織は、瞬く間に崩壊していったのだと言う。あの男は他の幹部の人間でさえ知り得ない情報を網羅していた、たったひとりの人間だった。生きて捉えた構成員から得た情報のうち有益なものは少なく、組織については今も不解明なところが多い。

「捉えられませんでした。法で裁くべき男だったのに」

彼はまるで、昨日のことのようにそれらを語る。彼もまた、視線の先にあの日の記憶を映しているのだろう。もしかすれば彼は、現場に居合わせていたのかもしれない。ただの骸に成り果てた男の姿を、そのうつくしい眼に映したのかもしれない。

「私も残念だったわ。この手で殺すことができなくて」

どれだけ凶悪な犯罪者であろうと、法の下で罪を償わせようとするのがこの国だ。余程のことがない限り、その場で殺してしまうことはしない。それなのに、あの男はあっけなく死んだ。ずっと、誰かに殺されたのだと思っていたのに。かつては構成員であったからといって、事の全貌を知らされることはない。むしろ反逆を起こさせぬよう、徹底して情報を遮断されていたと言ってもいい。
薬の開発者として、何故父と母が選ばれたのかも。何が目的で、私に薬の研究を続行するよう命じたのかも。まるで未完成のパズルだ。まだたくさんの穴が空いているというのに、肝心のピースが何処にもない。しかしこれで完成だと言わんばかりに、そのパズルは六年とすこし、ずっとそこにあり続けている。
ゆるく握りしめた拳。それは、心臓と同じ大きさをしているのだという。守りたかったそれと、停めてしまいたかったそれ。どちらも成すことの出来なかった私の心臓は今、何のためにある。

「志保さん」
「何?」
「これは、僕の勝手ですが」

私は、生きなければいけないのだと思う。死んでしまったお姉ちゃんの分まで。たとえひとりぼっちになってしまったとしても、お姉ちゃんが罪を犯してまで救おうとしてくれたこの生を、無駄にしてはいけないのだと思う。それに私が死んでしまったら、お姉ちゃんが本当にこの世界から消えてしまう気がして。だから私はもう、いつかの頃みたくおのれの命を簡単に投げ出すような真似はしない。私の心臓は、生きるためにある。絶望も憎悪も抱きしめて生きていくことが、私の人生の意味になる。
恋人のひとりでも作りなさいよ、と。お姉ちゃんは最期にそう言った。懐かしい彼女の快濶な声が、記憶のなかにずっとずっと沁みついている。

「僕は、良かったと思います」

貴方が殺すことにならなくて。黒々とした山の先が、時間をかけて太陽を侵していく。こうして見ていると、太陽は本当にじっくりと、じっくりと動いているのが分かる。いや、動いているのは地球の方だ。地平線の奥に消えた恒星は、また地球上のどこかを煌々と照らしに向かっている。
どうして、と尋ねた私の声に、抑揚はない。可能であったかは別として、故意に人を殺めたいというその願望を、彼が肯定するはずがないと分かっていたからだ。彼はやさしい人だから。手を汚すのは、その役目にある人間だけでいいのだと。そんな理念をもとに行動を起こす人間だからだ。
だって。光に模られたその横顔があまりにも綺麗で。盗み見るように寄越した視線を、すぐに逸らした。

「志保さんには傷ついてほしくないから」

とん、と靴の先でコンクリートをうつ。踵を揺らすと、かかとが厚底の重さを受けてより振れた。足首を変に捻りそうになるのが怖くて、ざり、と砂を巻き込みながら地に足を着け直す。

「傷つけたのは私よ」

色々な人間を、薬で殺したのは私だ。数えきれないほどの命を奪ったのは。名探偵から長いあいだ、身体を奪ったのは。世良真純の兄から、義兄を奪ったのも。もっとひどいのは、そのうちの大半の名前を、既に覚えていないということだ。

「そうだとしてもです」

いつまでも。いつまでも。あの日の夕焼けみたく、私のことを責め続けてくれたっていいのに。何もかも無かったように日々を過ごそうとする私を、咎めてくれたっていいのに。この世界の人たちは、誰もそれをしなかった。私に罪を着せることをしなかった。

「あまり私を甘やかさないでって、前に言ったじゃない」

多分私は、裁かれたかったのだと思う。立ち直ることができなくなるほど、誰かに傷を付けてほしかったのだと思う。そういうところを含めてずっと私なのだと、彼は言った。何年経とうとも変わらない、私の性なのだと。
それに、彼だけではなかった。私の周りの人間は皆、いつも私に厚意をくれる。

「ただの同情だと思いますか」

私はその問いへ、咄嗟に肯否を返すことができなかった。彼がくれる言葉のすべてがそれによるものではないということは、理解しているけれど。ただ、その問いを完全に否定してしまえるくらいの根拠が無い。あらゆる人間と、そして物にさえ、感情を共有できる彼だから。同情を同情でないように見せかけることくらい、きっと呼吸と等しく容易なのだろう。もし根拠があるとするならば、それは本当に、ただの自惚れだ。
肯定と否定を乗せた秤が、ぴたりとその中間で動きを止めている。そのさまを、私はただ眺めるだけだった。おのれで答えを導いてみろと、突き放されたように思えて。呆然とした気持ちだけが、今は心の内に揺れている。

「分からない」

こん、とカメラの底が柵を打った。ほんの些細な振動は増幅されて、私の腕を鈍くくすぐる。例えば今ここでダイヤルを回して写真を撮ったら、どんな景色が撮れるのだろう。私の目線では決して見ることのできない風景を、収めることができるのかもしれない。

「前に僕も言いましたよ。貴方がそういう人だからって」
「答えになってないのよ。それ」

大多数の恨みを買うような一面が、彼にあるのだとしても、それが私に向けられることは、きっとない。だから私は、私に都合のいい彼だけを受け入れるしかない。受け入れることしかしない。それだけで十分だと思っている。そのやさしさが、同情からくるものであったとしても。与えられるものが同じであるのなら、どこに由来していようと構いはしない。ただ、そこにあればいいのだ。永遠に。永久に。偽りであったとしても、騙していてくれればそれで良かった。

「志保さんは昔、僕のことが嫌いだったでしょう」

まるで追いやられた部屋の隅で、他者を睨みつける犬のように。そんな眼を、彼に向けたこともある。まだ私が、私の姿を取り戻していない頃の話だ。
私は誤魔化すこともなく、そして言葉に起こすこともなく。ただ頭をそっと、縦に揺らした。

「苦手だった、と言う方が正しいけど」
「同じようなものです。僕は必死でしたよ。あれでも」

築き上げてきたものをすべて捨てて、もう一度初めからやり直すべきか。決めたはずの心が揺れるたびに、宮野志保として送るはずであった人生がまた一日死んでいく。彼が身ひとつで博士の家を訪ねてきたのは、ちょうどそんなときだった。まだ寒さの残る春の始まり。新しい人生を始めるにはうってつけの季節に、彼は警察庁の人間としてではなく、降谷零個人として、私の前に現れた。

「僕は誰に誤解されてもいいんです。でも、貴方には。貴方にだけは、正しく知ってほしかった」

宮野志保を、待っている人間がいるのだということを。
あの頃の、空の色を閉じ込めたような眼には。そして声には、どこか孤独が滲んでいたような気がして。決して従わせるような眼ではなく。口調でもなく。降谷零は灰原哀に語りかけていた。けれど大半はくだらない話だったように思う。ある日は天気の話を。ある日は、自身の生まれの話を。ある日はかつて営んでいたという探偵業の話を。
バーボンはそうやって故意に隙を見せて、相手から情報を抜き出すことを得手にしていると知っていた。しかし、黒ずくめの組織は絶えたのだ。バーボンという探り屋の男だって、もうどこにもいないはずなのに。それでは今ここにいるこの男は、一体何を目的にここへ来た。何故私に語りかけようとするのか。彼が言うように、その内心を正しく理解できるほど当時の私は、灰原哀は冷静ではなかった。恐怖という私情が、あまりにも邪魔をしすぎていた。
けれど、それでも私が宮野志保としての人生を選んだのは。

「僕は嬉しいですよ。心から。貴方が宮野志保でいてくれることが」

だから、ありがとうございました。その眼に、かつての彼への印象を抱くことはない。闇に飲まれつつある世界のなかで、それでも光を蓄えたような薄青の。
消える灰原哀の人生を惜しむ人と同じくらいに、まだ始まってもいない宮野志保の未来を望んでくれる人がいた。優作おじさんに、有希子さん。メアリーさん、世良真純。連邦捜査局。工藤新一。博士。そして。
だから私は、机の奥に仕舞っていた解毒剤を飲んだのだ。

「いつの話をしてるのよ」
「今のことです。僕にはずっと」

そのまなざしに、偽りが含まれているようには見えなかった。彼の言葉はあまりにも大げさで、その受け止め方を知らない私は、ふたたび夕焼けを見るふりを続ける。
宮野志保という個人に対して、何故彼がそんな感情を寄せるのか、私は知らない。彼は完全には否定しなかったのだ。私が存在しない方がいいと、考えたことはあるか、という問いに。一度は秤に乗せた私へ、彼はどうして手を伸ばすのだろう。

「あなたは、」
「はい」
「どうしてあなたは、宮野志保に会いたいと思ったの」

大方を欠いた太陽の光は、その鋭さを失いつつある。地上に宿る光の数が、気付けば増えているように思えた。
ひと回りもふた回りも大きくなった手のひらも。見上げれば近づいたように思える天井も。椅子に腰掛ければ、地に届く両脚も。身に纏っても引き摺ることのない丈長のスカートも、ワンピースも。瞬く間に変化したおのれの身体にはじめは戸惑ったものの、慣れるのに時間はかからなかった。
覗き込んだ鏡の向こう。そこに映る自分の顔が情けなく歪んでいたのは、もうあの日々に戻ることはできないという現実を悟ったからだ。思っていたよりもはるかに、自分があの日常たちを愛していたのだと知ってしまったからだ。
時間を戻すことは誰にもできない。それを痛いほどに実感して、灰原哀を選ばなかったことを後悔した日もあった。けれどまやかしは、魔法は、いつか必ず解かなければならないときが来る。それが今なのだと、あの頃はおのれに言い聞かせていたけれど。一体、いつの頃だっただろうか。そんなことを考えることもなくなったのは。

「どうしても確かめたかったんです。貴方が生きていることを」

私は一度、彼の前で死んだ。黒焦げの、ばらばらになって。彼の思惑とは裏腹に燃え落ちていく私の肉片を、彼はどんな思いで、どんな眼で見ていたのか。もしかすれば叫びたかったのかもしれない。泣きたかったのかもしれない。
彼は、とても強い人間なのだと思う。こちらがやりきれない感情を抱えてしまうほどに。だから私はその背中を、この手で撫でてやりたくて仕方なかった。そう、と代わりに吐いたため息が、渦巻く感情を緩めてくれる。

「あなたの期待に応えられたかは、分からないけど」

望まれた人生を望まれた通りに歩んだとは、決して言えないけれど。たくさんの選択をして、それ以上に捨ててきた選択肢のなかに、もっと良い道があったのかもしれないけれど。そうして作られた私という人間が。果たして望まれた通りのものなのかどうか、自信はないけれど。

「まだまだですよ。貴方にはまだ、幸福が足りていない」

彼ははっきりとした口調でそう言い切ってみせた。幸福とは、何だろう。何が私の幸福なのだろう。おのれでさえ明確にできないことを、彼は見透かしたように言う。あの頃に比べれば、何もかも満たされた日々を送っているはずなのに。それ自体が幸福でないのなら、一体何を幸福と呼べばいい。

「我儘ね。どうせ、死んだら地獄へ行くのに」

言葉の通りだ。彼は強く、そして我儘な人間でもあった。結果として数多の人間の命を弄ぶこととなった私が、いつまでも安寧のなかに居られるはずがないのだ。私の意向のもとに犯した罪でないとしても。誰が私を責めようとしなくても。

「知っていますか、志保さん。自らの意思で大罪を犯さないと、地獄に行くことはできないんですよ」

光が、うんとあたたかい。ほとんど消えかけの光なのに。風に晒された額を、そのぬくもりが触れていた。

「それならいつか、あなたを殺すことにしようかしら」

言えば彼はすこし目を瞠ったのちに、ちいさく声を上げて笑った。こんな物騒な殺害予告のどこに彼の感情を揺らす要素があったというのだろう。もちろん本心から告げた言葉ではないから、私はひとりでに笑う彼に、訝しげな視線を送るだけだった。手すりに頬杖をついて。色素の薄い髪に、自然光が反照するさまを見ていた。

「何が面白いの」
「いえ。ちょっと驚いただけです。まあ僕も、」

僕も、来世はそこに生まれるのかもしれません。地獄なんてものが本当に存在するかどうかは知らないけれど。科学的に証明されていないものを、私は基本的には信用しない。だから地獄へ行くと言うよりは、ろくな死に方をしない、と言った方が正しいのかもしれない。

「心当たりでもあるの」
「どうでしょう。そもそも、心当たりのない人間なんていませんよ」

彼はそうやって、おのれの背負う罪の自白を免れてくれる。大でも小でも、人は皆罪人なのだと。彼はその言葉で私を慰めていた。
闇に手を染めている自覚が無ければ、地獄という言葉がその口から出てくるはずがない。彼がいかに多くの人間から恨まれていようと。万物を敵に回していようと。偽りの善人であるかもしれない彼のことを、私は。
背後に、ほとんど消えかけの影がふたつ浮いている。身長よりもずっと長い影は、ベンチによっていびつに歪められていた。私はファインダーを覗いて角度を調節すると、そのふたつをフィルムに焼いた。そうだ、とひとつ思い付いて、先ほどの彼を真似るように、数歩後ろへ下がる。

「ねえ。そこから動かないで」

山に大半を欠いた太陽を右に。こちらに背中を向ける彼を左に。空以外の物々が、黒く塗り潰された世界。現像したらきっと撮り損じみたくなるであろうその景色に向かって、私は一度シャッターを切った。

「さっき僕が撮った写真、現像したら貰ってもいいですか」

ちいさなファインダーに収まる彼は、私へ振り向いて言う。安価なプラスチックが、その姿をやや霞ませていた。
光を焚いていなかったから、写りが悪いかもしれないのに。そもそも使用期限の切れた使い捨てカメラだ。うまく現像されるかどうかも分からない。それでも彼は、ただ私を写しただけの一枚を求める。

「いいけど。うまく撮れてるか分からないわよ」

あの太陽が完全に沈めば、じきに夜がやって来る。そうして現れる星たちは、今日もきっと綺麗に見えるのだろう。二十二まで減らした窓の数字。その星空を写真に収めたいけれど、このカメラではああも弱い光の粒たちを捉えることはできない。

「写っているのが志保さんだと、僕が分かればいいんです」

私だけが、分かっていればいい。そこに居るのが彼であると、私だけが分かればいい。そんな理由で、私も不明瞭な彼の姿をフィルムに焼いたのだ。そう、と素気なく返した言葉は彼に届いただろうが。その心の内までは、彼に届かなくていい。永遠に知らないままでいい。この感情に、名前を付けないままでいい。
このまま星も見られそうですね、と彼は、数歩の距離を埋め直す私に言った。ベランダでは見切れてしまったアークトゥルスも。途切れた春の大曲線も。ダイヤモンドも。この場所なら、何に遮られることなく見渡すことができるだろう。
トートバッグにカメラを落として、私は彼の手に触れた。そうして、その腕に身体を寄せる。彼の服が頬にやわらかく擦れる感触に、すこしだけ早くなる鼓動を感じた。
これでも充分、しあわせなのよ。私。
ただ添えただけのようなおのれの手を、彼は確かな力で握り返してくれる。呼吸を。その皮膚の下を流れる血液を。瞼を下ろした世界のなかで、彼の身体をかすかに揺らす生の気配を捉えていた。
決して偽りではなく。強がりでもなく。あなたが望んだ宮野志保の人生を、私は愛しているのだと。そして、灰原哀としての過去も同様に、今も愛おしく思っているのだと。この生は、最期に何処へ行き着くのだろう。それがどんな場所であろうとも、私は歩んできた道を後悔したりはしない。後悔のないように生きたいと思う。じん、と混ざりあう互いの手のひらの熱に、その想いを忍ばせた。

それならずっと、そうであってください。

それは、まるで祈るような声だった。もうかけらしか見えない太陽へ、密かに捧げるような。いつまでも。いつまでも。この熱がそばにあればいい。この手が繋がっていればいい。そんな願いが叶うのなら、私の幸福はきっと、彼の望む通り永遠のものになる。
けれどこの世に、永久のものなど存在しないと知っているから。絶対的な時間の流れに逆らえるものなどない。人はいつか死に、物質は朽ちて、やがて太陽だって燃え尽きる日がくる。
だから彼の願いが。そしておのれ自身の願いが、すこしでも長く続くよう。
私は彼のぬくもりを左手に得ながら、空を色づかせる残光に祈っていた。



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