あなた
そのとき私は夢のなかにいて、不自然に揺れる体に違和感を覚えて目を覚ましたのだ。
半端に開かれたカーテン。天井が不気味に赤く色づいていて、今は何時なのだろうかと目を擦った。羽毛の布団が裸足に馴染んで心地良い。このあいだ、部屋着の衣替えをしたばかりだった。半袖のカットソーから出る腕に、程よい温度を纏った布地が擦れる。
志保さん、と聞き慣れた声が私の名を呼んだ。身体を揺らしていたのは彼であったらしい。それはひどくやわらかな声色をして、私の耳をくすぐる。何、と返そうとした声が、乾いた喉のなかで潰れて不明瞭な音になった。多分、朝が来たのだろう。そうでなければ、彼が隣にいることはない。
そう。夢を見ていた。眠る前に読んでいた小説に感化されたような、突拍子もない夢だった。朝日が綺麗ですよ、と思い返す映像のなかに紛れたその声が、私の意識を呼び戻す。赤と混ざった薄茶の髪が禍々しく、しかし起き抜けの眼には、それがやたらと儚げに映った。
ぼんやりと起こした体。その視線の先に、紫色の奥で輝く赤が見えた。空に燃える炎のように、たなびく雲がその色を映す。まるで作り物めいた景色に、私はしばらく目を奪われていた。この時間の空は、いつもこんな色をしていたのか。黙々とベッドに潜り込むだけの夜明け前。その裏にこのような景色が用意されていようとは、知る由もなかった。
綺麗ですね。同じく起きたばかりの彼の声はやや低くて、私の耳に新鮮な音として届く。すこし絡まって膨らんだ髪を揺らすように、彼の言葉に頷いた。目覚めた彼は、いつも一番にこの景色を眼に映しているのだろうか。薄青の中心で照る赤。盗み見た彼の横顔から、ふたたび始まる一日への期待が伺えて、私は密かに息を吐く。
いい季節だ、と思う。程よくあたたかくて、寝起きに凍えることも寝汗に不快感を覚えることもない。いつも五月の初旬であればいいのに。地球の公転を停めることなど、誰にも出来やしないのだ。
すいません、わざわざ起こして。そうして彼はぬくもりを残して、朝焼けに背を向ける。背中に皺の寄った部屋着。紐の垂れたスウェットパンツ。彼がベッドから腰を上げるまでを、私は窓から剥がした眼で見つめていた。左右に跳ねた後ろ髪が霞む。気を付けて、と瞼を擦りながら、その背中に声をそっと貼り付ける。いつも静かに居なくなる彼の背に。この箱庭の主が、ふたたびここへ戻ってくることができるよう。ふたたび、彼が眼に朝日を映すことができるよう。
カーテンの隙間から、まっすぐに伸びる光。それを頬に受けながら、彼は口の端を持ち上げて、やんわりと目を細くした。はい、おやすみなさい。その声が、静かに閉じられた一室に残る。
私はふたり分の体温が染みついた布団を身体に乗せて、ベッドの上に横たえた。朝日に刺激された瞼が眠るのにすこしうるさくて、羽毛布団に顔を埋める。
眼には、まだ光が焼き付いていた。この部屋では初めて見た景色だったけれど。私はあの光を、あの赤色をよく知っている。べったりと、頬に塗りつけられた熱の不快感を。裸足で駆ける私を、建物の隙間から責めるように見ていたことを。
引き寄せた羽毛布団を、両の腕に抱き込めた。おやすみなさい。彼の声が、頭のなかで徐々に薄くなっていく。
すっかり閉じられた扉を見つめながら。私はもう一度だけ、彼の声を聞きたいと思った。
×××
殺したいと思うほどに、憎んでいる男がいた。
透明な緑色の容器の内で、液体が揺れている。すぐ先に見える街灯に翳せば、容器の表面についた細やかな傷跡が浮き彫りになった。どこにでも売っている安価なライターだ。それは草臥れた煙草の包装に収められていて、私はそこから取り出した煙草を一本、遊ぶように口に咥えた。記憶にいる喫煙者たちの見真似だ。例えば駅前にいたサラリーマン。例えば大学時代の友人。例えばこのあいだ見かけた、喫煙所の女性。例えば、殺したいほど憎んでいた、あの。
左手の人さし指と中指で挟んだ白。その先端に、灯した安上がりな紅を近づける。風のない夜だった。左右に揺さぶられることなく、炎は確かに紙と草を焦がしていく。確かに紅を侍らせたのを見て、私はライターの火を消した。
ためしに一度吸い込めば、煙を拒むみたく喉がひゅう、と細くなり、堪えきれずに咳込んだ。何度喉を整えようにも、わずかに入り込んだ煙の違和感は拭えない。喫煙者は何を好んでこんなものを気管に通そうとするのか。舌を焼く辛味を、唾液で無理矢理に誤魔化す。指先で摘んだその先端から、煙がゆらりと立つのを見ていた。薄らと潤んだ眼に、星の瞬きが一層映える。
殺したいと思うほど憎んでいる男がいた。それを過去のものとして表現するのは、男がもう、この世には存在していないからだ。息絶えた瞬間をこの目で見届けたわけではないけれど。名探偵も、連邦捜査局も。彼でさえ口を揃えて言うのだから、私は今もあの男の死を信じるより他はない。それに工藤新一が隣街でのうのうと生き続けているということが、男の存在を否定する事実になり得る。あれから六年とすこし。この身体には、男につけられた銃創だけが残っていた。
手すりに肘をついて、目先に煙草を掲げる。ちいさく輝く橙が、まるで夜空に煌めく星のように見えた。周囲には煙の匂いが満ちていて、汚れた空気を仕方なく吸い込む。
よくある煙草の匂いだった。彼の部屋に忍ばせるみたく隠されていたものを持ち出してきたけれど、一本を無駄にしてしまった。ひとつ減ってさらにひしゃげた包装に、彼は気が付くだろうか。怒るのだろうか。彼が感情を露わにしたところなんて、見たことがないけれど。なぜなら彼は、私に甘い。こちらが危機感を抱いてしまうほどに、彼は私の前では善い人間であり続ける。
私はいつだって、何も知らない。彼が煙草を好む人間だったということも。あの男も、煙草をひどく愛していた。傍を過ぎるたびに香った煙の匂いを、今でも思い起こすことができる。これとはまた異なる煙の匂いだった。単に銘柄の違いか。もしかすればそれは硝煙の香りだったのかもしれない。以前は、鼻に残るその匂いが嫌いだったのだ。まだ傍に、あの男がいるような気がして。いくら死んだと聞かされていたって。それをいくら頭で理解していたって。反射のように染みついてしまった感覚は、そう簡単には消すことはできない。
吸うことをやめた煙草の火が、まもなく消えようとしていた。抗うかのように紙を侵食する橙。その命が尽きていくのを、ほんの目近で黙って眺める。
やがて真下の駐車場に、車が一台入ってくるのが見えた。黒のセダン。見慣れた形のそれは、彼がおのれの愛車とは別に使用している車のものであったから、私はつい隠れるようにベランダの隅にしゃがみ込んだ。土埃のこびり付いた室外機に肘を軽く打ち付ける。その拍子に右手からライターが抜け落ちた。かつん、と軽い音を響かせて跳ねた長方形を、ふたたび右手で握る。コンクリートへ直につけた素足の、開放的な心地よさが好きだった。星の綺麗な夜は特に。
ばたん、と運転席の扉が締まる。車から出てきた人影は、エントランスへ真っ直ぐに向かうだろう。そして三階までの階段を上って、端からふたつめの扉に鍵を差し込むはずだ。この部屋の扉は、あとどれくらいで開くのだろうか。頭のなかで秒を数えながら、私はじっとその時を待っていた。
そのうちに玄関扉が開く音が聞こえた。時間にして、一分に差し掛かろうとしていた頃だ。とんとん、とフローリングを打つ彼の足音が、そう広くはないリビングへと伸びる。そういえば、窓を締め切るのを忘れていた。だから気まぐれのように吹いた風が、きっとカーテンを揺らしてしまったのだと思う。やけに慌ただしくなった足音が近づいて、背もたれにしていた硝子戸ががん、と音を立てて揺れた。
その眼は珍しい。焦燥を隠さない瞳。闇を侍らせた薄青のふたつが、隅で膝を抱える私を捉えていた。
「おかえりなさい」
「何をしているんですか」
強いて言うのなら、何もしていない。ただ星空を眺めていただけだというのに、彼はすこしの困惑を含んだような声色で、私に答えを求めていた。
「どうしたの。妙な顔」
「居なくなったのかと、思って」
この部屋以外に、行くあてなんて無いというのに。まさか、と揶揄する私を無視して、彼はベランダ履きに目もくれず、靴下のままコンクリートに足を乗せる。私の手には、ただ先端の焦げ付いた煙草が握られていた。彼はそれをやや手荒に奪うと、その先をコンクリートに押し付けて、ひとおもいに歪めてしまった。骸になった白い身体には、ただ夜の色が映る。煙草は決して安価ではないのに。そうやって数十円の価値が、今目の前で潰れた。
「勿体ないじゃない」
「志保さん。きみはね、」
彼は呆れを放つように、そう言葉を漏らす。もう一度火を点ければ、きっと吸いきることが出来ただろうに。しかしそれは、まるで子供を叱りつける前振りのように聞こえて。私は押し付けた手のひらのなかで密かに笑った。彼はその大きな手を、私の方へと差し出す。
「ほら。返して下さい」
その要求は所有者が彼であるという、紛れもない証拠に違いなかった。それを受け入れることなく、私は歪みきった白い骸を指先で転がす。
「似合わないものを持ってるのね」
「ただの飾りですよ。こんなものは」
似合わないもの。彼と害のある嗜好品を結びつけるのに、いささか抵抗があるのはどうしてだろう。しかし洗練された容姿と、劣らぬほどに澄んだ名前を煙が汚していくのかと想像してみれば、ただ決めつけてしまうのも惜しいように思えた。彼がどのように煙草を手に取るのか。どのようにして煙を吸うのか。そしてどのようにしてそれを吐くのか。その絵を見てみたいと湧いた好奇心が、私の左手を唆す。
包装を逆さまにすれば、数本がまとめて右手に落ちる。そのうちの摘んだ適当な一本とライターを、彼の手のひらに置いた。吸ってみて、と告げられた彼の顔が、みるみる訝しげなものに変わっていくのが分かる。
「何のためにですか」
「私が見たいから」
室内の火災報知機が作動してしまわぬよう、からからと背後の硝子戸を閉めた。しかし我ながらに素直な要求だ、と思う。彼にしても私にしても、受けたところで特別に失うものは何もないのだから、要求と言うのも過言だが。ただ煙草を一本、ふたたび失ってしまうだけだ。
彼は渋々と言った様子で、手のひらに乗った煙草を口に咥える。ろくに風も吹かないというのに、壁を作るみたく翳した手のなかでライターの火を起こした。それはきっと、彼の癖なのだろう。こうして私は、知らない彼を知っていく。瞬く間に熱を移された先端から、ゆらりと煙が立ち上る光景をそばでじっと見ていた。
人さし指と中指の中ごろに、煙草を挟み込んだ右手。口元を覆うようにして添えられた手が離れたとき、彼の口の端から吸いきれなかった煙が零れて消えた。聞かせるようなため息に乗せて吐かれた白色は、周囲の空気と混ざってすぐに見えなくなる。
一本だけですからね、と彼は言う。頷いた私に視線を寄越すことなく、彼はもう一度右手を口元に宛がった。吸い込むたびに先端に赤い光が宿り、白の身体がわずかに短くなる。淡々と作業をこなすかのように煙を吐いていく彼から、片時も視線を外すことができずにいた。彼と害のある嗜好品。それが鮮明に結びついていくさまが、どうにも珍しく思えて仕方ない。濃くなっていく煙の匂いを、気に留めることもなく。見られているとやりづらいのだ、と。彼がそう言い出すまで、私はちりちりと焦がす光を、眼に焼いていた。
昔は、この匂いが嫌いだったのに。今は漂うその香りを、身体が拒絶することはない。周囲が平穏であることに、随分慣れてしまったようだった。六年とすこし。それが身体に馴染むのに、十分すぎる時間が流れていた。
じきに一日が終わる。たった今煌めきを強くしたひとつの星に目を凝らしながら、ねえ、と煙を吸う彼を呼んだ。それを吐ききったころに、彼ははい、と返事をくれる。
「明け方に私を起こしたのは、あなた?」
夢のなかにいた私の身体を揺すって、朝焼けを見せてくれたのは。はっきりと覚醒してからしばらくは、あの景色さえ夢だと錯覚していたのだが。夢と夢のあいだのつなぎに、彼が現れたのだと。そう覚え違えるところだったのだ。しかし眼を刺す赤い光は、まぼろしにしてはあまりにも鮮明で。冷蔵庫に収められた朝食を温めながら、あれは現の出来事だったのではないかと、しばし記憶を探っていた。
あれと同じ色をした景色を、私は知っている。裸足で駆けたアスファルトの感触。幼児化して間もない身体。感覚の掴めない歩幅に惑い、息を切らす私の横顔を、沈みゆく太陽が照らしていた。赤く赤く。血のようなどろりとした生ぬるさを、頬に塗り付けて。記憶だけを頼りに、目的の場所まで走っていたあの日。あの瞬間。
「ほかに誰がいるんですか」
とん、とコンクリートに立てたライターを、指で弾いて倒す。また立て直しては、倒す。手癖のように繰り返しながら、彼は煙草をただの灰に変えていく。
次に来るものの違いだ。朝焼けと夕焼けは。続けて太陽が上るのが朝焼けで、夕焼けはその代わりに月がやって来る。ただその一瞬を見ただけでは、どちらかなんて区別はつかない。どちらがやって来るかなんて、分かりはしない。薄紫のなかで、血を吐いたような恒星のゆらめき。
「綺麗だったから、夢だと思ってたの」
朝焼けはあまり、見ることがなくて。膝の上に顎を乗せる。右手に掴んだままの煙草の箱の角で、足の爪をつついた。私が目を覚ます頃には、太陽は既に東の空に上りきっている。目にするのはいつも夕焼けだ。帰り道の電車の窓から。研究室の窓から。この部屋のベランダから。いつもひとりで、もしくは私ひとりだけが、その存在に目を奪われている。
「今日は夕日も綺麗でしたよ」
そして今広がっている、この星空も。今日はよく晴れた日だったのだろう。私は一歩も外に出ていないから、一日の空模様を知らない。アークトゥルス。スピカ。デネボラ。みっつを繋いだ三角形が、南西の空に浮かんでいた。もっともこのベランダは視界が限られていて、アークトゥルスが見切れてしまっているけれど。
「そう。見れば良かった」
ぐしゃりと、彼はすっかり短くなった煙草をコンクリートに押し付けた。まだちいさな光を灯す灰が砕けて、その命を終わらせていく。そして彼は私の左手から煙草の包みを攫っていった。ライターを収め直したそれを、上着の内ポケットに隠し込む。
「ずっと先に、綺麗に見えるところがあるんですけど」
すっかり空いた手のひらで、両の膝を抱えた。それはこちらを曖昧に誘うような口ぶりであったものだから、その意思を明確にするべく、私は彼へ尋ね返す。
「連れて行ってくれるの?」
「貴方がよければ」
私に対して、この人は果たせない約束を交わさない。今はまだ提案だけれど、私が頷けば約束になる。彼は近いうちにきっと、夕焼けを見せるために私を外へ連れ出すのだろう。この箱庭の外へ。
「そう。期待しないで待ってるわ」
殺したいほど憎い男に背を向けて走り続けていたら、こんな所まで来てしまった。今ではもう、殺すことも叶わない。私ではない誰かによって、あの男は手の届かないところへと消えてしまった。シェリー。口のなかで噛み潰すように私を呼ぶその声を、よく覚えているというのに。
志保さん、と彼のそのくちびるが、私の名前を模る。ちらりと見やった彼はしかし私ではなく、目前の星空を眼に映していた。春のダイヤモンドがありますね。見切れた三角形に、四角形。立ち上がってもうすこし覗き込めば、きっと北極星にも目が届くけれど。
コンクリートに腰を下ろしたまま、彼がぽつぽつと告げる星の話にただ耳を傾ける。春の星座を探すには、北斗七星を目印にすればいいということ。北斗七星の延長線上には、スピカとアークトゥルスがいるということ。そうして繋いだ曲線には、春の大曲線という名が付いているということ。
既に知識としてある事柄にも。未知の事柄にも。
ただ頷くだけのこの時間が、いつまでもそばにあってほしいと思う。