あなた
東都の空は低い。
口のなかに転がした飴玉が、喉に人工的な清涼感を送ってくれる。人の蠢く駅前。ビルの天辺に掲げられた巨大モニターはひたすらに音を響かせており、どこもかしくも見ているだけで忙しい。
東都の空もロンドンの空も、高さはどこだって変わりはしないのに。何故日本の空は総じて低く、そして狭く感じてしまうのか。是非そこに、今年の日本の五月はどうしてこうも暑いのかという謎も加えておきたい。湿度はまだ夏よりも低いけれど、すこし走れば背中に汗が浮いてきそうなほどに蒸せている。
コンクリートジャングルとはよく言ったものだと思う。日本の街並みには灰色と黒が多い。建物もアスファルトも。電線も電柱も。上も下も。空を低く感じてしまうのは、右も左も薄暗い物体に覆われているせいだ。もっとポップな色合いにすればいいのに。だからと言って、この街のように電飾だらけの看板とか、ひとりでに話し続ける両腕を広げても足りないほど大きなモニターとか、色鮮やかなポスターがそこかしこに貼られていてほしい、という意味ではないが。
ただ、見上げれば時刻を伝えてくれる何かがあるというのは有り難い。一二時四十分。約束の時間まではまだ二十分の余裕があった。遅刻は依頼人の、というより人の信用をもっとも落とす行為である。信用を生業にしているボクには、何事も余裕を持とうとするきらいがある故、人との待ち合わせにはそれが顕著に表れてしまう。そのおかげで煙草を嗜むだけの時間が生まれるのだから、早起きは三文のなんとやらだ。特別早起きをしたわけではないけれど。
透明な硝子で囲われただけの、狭い空間。東口を出てすぐのところに喫煙所が設けられていて、なかに入れば性別も職業も年齢も何ひとつ一致しない数人が、ぷかぷかと煙を吐きながら一様にスマートフォンを弄っていた。
入口から遠い隅へ向かいがてら、ジーンズのポケットからジッポを取り出す。一緒になって出てきた飴玉は、つい先ほど道端で配られていたものだ。すこし皺の付いた青緑色の包み。新商品だと謳われたこいつは、きつすぎない薄荷と程よい甘さの後味がうまく合わさっていて悪くない。煙草の煙と一緒に吸い込んだら、きっととても美味しいのだろう。
ボディバックに詰めた煙草を掴む。振ってみれば、すっかり萎んだパッケージのなかには三本しか残っていなかった。一日二日は保つだろうが、あとでこの国の煙草の銘柄を調べて買い足そうと決めた。日本の煙草は安価であるから、複数箱買い溜めしておくべきかもしれない。
ジッポの蓋を、親指で弾いて起こす。やや傷のついた銀の身体が、今日の強い陽射しを鋭く跳ね返していた。ホイールを擦れば現れるちいさな火柱に、咥えた煙草の先端を合わせる。パパと秀兄が昔使っていたものだ、とママがくれたジッポだった。真鍮の、表面に鷹の彫刻が施されたそれ。なかの綿にオイルを含ませて、フリントと芯を交換すれば、ただのインテリアと化していたこいつはすぐに使えるようになった。女のボクにはすこし厳ついけれど、ボク自身が気に入っているのだから何も問題はない。
吸い込んだ煙が飴玉のほんのりとした甘さを巻き込んで、肺に貼り付いていくのが分かる。喉の奥で味わうように、ふかふかと煙を吐き出した。青空を漂う灰色は、白い雲のなかに際立って浮いていており、そしてどこか薄汚く見える。
やはり、東都の空は低い。巨大なモニターが、地上を歩む人を音の濁流に包んでいく。同居していた恋人の女性を、首を絞めて殺害。その後に自首。動機は。警察の動きは。今朝、ホテルに備え付けのテレビで見たニュースと同様のものが、モニターに映し出されていた。そんな物騒な内容を滝の如くスピーカーから垂れ流しているというのに、見上げて歩く人は少ない。
ギターケースを傍に置いた女の子。中年のサラリーマン。今にも折れそうなヒールの靴を履いた女性。ボクの隣に立つ、帽子を目深に被った薄茶髪の男。イヤホンから流れる音楽に合わせて、頭を揺らす青年。誰も彼も自身のことに夢中で、他のことには目も向けない。日本人って、そういえばこうだった。吐きつけた息が、また空の青を汚す。
愛しているから、殺した。と、そういえば誰かが言っていたのを思い出す。昔関わった事件の犯人がそう話していたのかもしれないし、何かの本で読んだだけだったかもしれない。犯人の動機なんて、余程のことがない限り覚えたりはしない。むしろ積極的に忘れるようにしているくらいだ。理解不能な動機なんてものは特に。だからどこでその言葉に出会ったのかは、もはや定かでなかった。しかし扼殺、と聞くと、反射的にいつもこの言葉を思い出す。パブロフの犬のように。そんな事件に出会った覚えはないから、やはりいつか本で読んだものが記憶に残っているだけなのだろう。
辛味のある煙が舌先を焼く。ジッポの蓋を弾きながら、目前に聳える灰色のビルを眺めていた。あれが日本文化の中心だ。カメラを覗き、写真に収めんとする外国人観光客を捉える。あのなかに現代の流行とかわいい、がひたすらに詰め込まれているのだ。一二時四十五分。きん、と蓋の弾ける音が心地良い。
やがて、ジーンズのポケットに差したスマートフォンが震えた。画面には今日待ち合わせをしている人物の名前が表示されている。早く着きすぎてしまったから、周辺を散策している、といった内容のそれに、了解、とだけ打ち込んで返した。待ち合わせ場所は、この喫煙所と生垣を挟んだ背後にある、モニュメントの前だ。移動に時間はかからない。
「あのさ、」
きん。弾いた親指で、彫刻を掻く。右手にジッポ。左手にスマートフォン。煙草を咥えたままでは、満足に口を動かすことも出来ないから、ボクはジッポの方を右ポケットに仕舞い直した。
「アンタは殺したいと思ったこと、ある?」
志保姉のこと。
ギターケースの女の子が、ボクに視線を向けたのが分かった。声は潜めたつもりだったけれど。唐突にひとり言を零し始めたボクを、訝しく思ってくれただけだといい。現にその子は、ふたたびスマートフォンの画面に忙しく指を這わせ始めてくれた。見て見ぬふり。臭いものには蓋。彼女も、やはり根からの日本人なのだろう。
ないよ、と隣の男は言った。いつかの昔に聞いた、そのままの声で。笑いがてら吐き出した息に、煙が混ざる。飴玉のすこしの甘さに、その辛味はすぐに打ち消されてしまった。
「だよなあ」
恋や愛は、人を狂わせる。それらに未だ縁のないきっと正常なはずのボクは、だから狂ってしまったその犯人をどこか可哀想に思ってしまった。そんな感情抱かなければ、悪に手を染めることもなかっただろうに。どんな理由であれ悪事を働けば、人の命を奪えば、罪に問われる。恋は盲目。恋の病。患えば、現実さえ見えなくなってしまう。
「ていうか、なんでいんの」
煙を吸う。喉を通して肺に被せる。煙を吐く。この男の一連の動作も、動作にかかる時間も、正しく喫煙者のそれだった。ボクの知っている数年前のこの男は、喫煙者ではなかったはずだ。ボクもその頃は未成年だったから、当然のように喫煙者ではなかったけれど。その横顔に、半分ほど体積を失った煙草が似合うようで、似合わない。この灰色みたく、もっと濁った眼をしていないと。
この男は、降谷零という名前を持つ男は、昔からボクに対してやたらに冷然とした態度を取る人間だった。安室透という名がかろうじで剥がれない程度の棘を言葉に含ませて、ボクのことを刺しにくるような。安室の皮を剥いだ今、表情も声も露骨なものだ。今だって、平気でボクの言葉を無視してくれる。だから内心、だよなあ、と投げやりに笑ってやった。
そんなにボクの皮膚の下を流れる赤井の血が憎いのだろうか。お前の大好きな志保姉にだって、わずかに赤井の血が流れているというのに。恋は盲目。恋の病。どいつもこいつも、患ってばかりだ。国は早急にこの面倒な病を完治させる薬を作った方がいい。
ボクだって、好きでこんな男に話しかけたわけじゃない。志保姉が言うからだ。すこしは仲良くしてみたら、と予想以上に熱くなったティーカップを冷ましながら、彼女がいつか、そう言ったからだ。端から無理、と口にすれば、志保姉はきっと誤魔化したように笑ってくれるだろうが、内心どこか寂しく思ってしまうに違いない。何事も否定するにはそれに至る事実が必要だ。何が原因で、それを駄目だと思うのか。何が理由で、成し得ることが出来ないのか。そういった事実を作るために今、この男に話しかけている。ボクはあのうつくしい表情が歪んでしまうのを、まったく持って良しとしない。可能な限り志保姉の願いを叶えてやりたいけれど、こればかりはこの男の妥協が無ければ成り立たないのだ。
「このあと、この裏で志保姉と待ち合わせしてるんだけど」
消灯していたスマートフォンの画面が明るくなる。一瞬遅れたバイブレーションが手のひらをくすぐった。着いたら連絡して。彼女らしい簡素な文面だ。時間ぴったりぐらいに着くよ。焦げていく煙草の先端を視界の端に捉えながら、送信ボタンをタップする。
志保姉には今日、ボクの買い物に付き合ってもらう約束をしていた。安定したであろうピアスホールに付ける、新しいピアスを選ぶために。
「もしかして、付いてきた?」
指紋のこびり付いた液晶を、ジーンズで拭う。見当違いも甚だしい、とでも言いたげな視線を傍らに受けながら。おお怖い、とおどけるみたく、心の内で口笛を吹いた。折角綺麗な色の眼をしているのに、そんな使い方をしていては勿体ない。志保姉の前でだけうつくしければそれでいいのか、この男は。愛しているから殺したのだと。その言葉が脳裏を過る。
そんなくだらない私情ごとで人を付けるような男ではないと、流石のボクも知っていた。何かがあるのだろう。この街で。何かが。ボクにせめてできるのは、この男の本当を名前をうっかり口にしてしまわぬよう、気を付けることくらいだろうか。ボクはやさしくないから、この男の身が危険に晒されようと構いはしないのだが。
「志保姉がさあ」
舌の上で、煙を被っていく飴玉。徐々に体積を減らすそれは、もはや歯で噛めば容易に砕けそうなほどちいさく、脆い。
「アンタと仲良くしろだって」
とおりゃんせ。とおりゃんせ。喫煙室の向こうの交差点から、懐かしいメロディが響いて聞こえた。無数の足音が犇めくなかで、それでもどういうわけか電子音は、鮮明さを損なうことなくここまで届く。
「何の為に」
志保姉の為に。そう答えようとしたけれど、実のところボクの方には仲良くする気はまったくないのだから、嘘に彼女の名前を持ち出すのは躊躇われた。何よりこの男と今会話をしているのは自分のためだ。ボクのために、と言えば何かこじれるような気がして、だからボクは志保姉に聞きなよ、と吐いた煙とともに肩の力を抜いた。
ていうか、好きな女の要望をそんな風に一蹴する男って、なかなか酷いな。
がりがりと飴玉を咀嚼しながら、ボクはそう思っていた。しかしふたりは、そこいらで見かける男女とは、きっと違う。この男が志保姉に愛を囁いているところなんて想像もつかないし、志保姉も志保姉で、そう、なんというか、やはり想像がつかない。それでも志保姉は満ち足りた日々を過ごしているようだし、やっぱりボクには愛だとか、恋だとか、そういったものの良さも何もかもすべて、理解出来なかった。まして愛しているから殺しただなんて、そんな身勝手な話があるのか、とさえ思えてならない。だってボクは、悪が嫌いだ。そんなものに囚われた奴らは、残らず制裁を食らうべきだと思う。
ああ、じゃあさ。
サラリーマンが喫煙所から出て行くのが見えた。入れ変わるように、首から下げた社員証を胸ポケットに入れた女の人が、ヒールを鳴らしながらやって来る。水色のストライプシャツに、膝下丈のタイトスカート。膨らんだ胸ポケットから、手早く煙草とライターを取り出す。
「逆は?自分が殺されてもいいと思ったこと」
交わることのない視線。降谷さんはとっくに火の消えた吸殻を左の指先で弄びながら、スマートフォンの画面を眺めていた。他の大多数と同じように。
それにしても、やたらに暑い日だった。ロンドンはようやく春の盛りといった頃であるから、日本の陽射しの強さには辟易してしまう。照り返すアスファルトも、ごった返す人の群れも。暑さが環境的にも視覚的にも増長されて、あちらの季節観が身に染みているボクにはどうにも馴染まない。それなのに人々の服装は未だ春めいていて、既に袖を失ったボクの服装はそのなかでやたらに浮いて見えた。
足元の、うすく山なりになったコンクリート。頂点がひび割れているそのさまは、フィナンシェを想像させる。焦がしバターの香りが特徴的な、金塊型の焼き菓子。やはり、灰色はよくない。ただ色が違うだけなのに、こうも不味そうに見えてしまう。
「本望ではないが」
耳を凝らさなければ逃してしまいそうなほどのちいさな声が、口早にアスファルトへと落とされていく。それが先の問いに対する返答だと気が付いたとき、伸びきっていた吸殻がぽとり、とスニーカーの先で跳ねた。
悪くも思わん。
そう言って、そいつは煙草を灰皿に押し付ける。浅黒の指先。くだらないことを聞くな、と睨んでくるかと思っていたのに。珍しく会話が成立したと思えば、ふつふつと、胃の底で不快感が煮えていくのが分かった。
愛しているから、殺した。愛しているから、殺されてもいい。言ってしまえば、それは需要と供給の関係なのだと思う。片方が失われれば、ただの殺人となり得る関係。あの事件はもしかすれば、単なる殺人ではないのかもしれない。死人に口は無いから、真相はあの犯人にしか分からないのだろうが。了承したうえで殺されたなら、それは殺人罪にはなり得ない。愛しているから、殺されてもいい。立派な嘱託殺人だ。前例なんていくらでもある。警察がどう動いているかは知らないけれど、しかし何ひとつだって、ボクには関係のないことであるのは確かだった。
煙草で詮をした唇の内で、ふうん、と呟きを篭らせる。
「人間だったんだ。アンタ」
ボクは感情のまま、皮肉めいたようにそう零した。なぜならボクは、この男を人として見ていない。だってこいつは、目的を果たすためなら何だってする。何だって使う。人も、自分さえも。すべて元通りに帰したようにみせたって、当事者にしか分からないような禍根を残して去っていくのだ。それを分かった上で、躊躇うことなくあらゆる手段を実行してしまえる。
状況があって、感情があって。そこではじめて適切な処理方法を選ぶのが人間の型だろう。けれどこいつには、感情がまるで通じない。最善を尽くすためには、時として犠牲が必要だときっと信じている類の人間だ。そこに挟まる感情ほど邪魔なものはないと、言い切ってしまえる類の。
人として、どこか必要な要素を欠いた化け物。だからこいつは、ボクの定義するところの人とは違う。今も。昔も。その認識に変化はなかった。
「思い上がるなよ」
その凄んだような声色は、今のボクには何の効果も成さない。いっそ逆効果だと言ってもいい。
ボクの知るずっと昔から、こいつの手は黒に染まりきっているのだろう。悪に浸かりきっているのだろう。それなのに、志保姉の前では綺麗でいようとするその魂胆が。彼女の前でだけ人であろうとする精神が、ボクはひたすらに気にくわなかった。非道の怪物。その汚れた手で彼女に触れるのも。多くの人間を唆したその口で、彼女に語りかけるのも。ボクは、何もかもを良しとしない。悪に手を染める人間を、容認したりしない。
「違うって。ただ最初から、ボクの目に狂いはなかったって話さ」
この男に、関わってはいけない。もしも関わってしまったのなら、決して敵に回してはいけない。そう言い聞かせていたというのに、紆余曲折を経て結局は敵に回してしまっていることに気付く。しかしここもロンドンも平和すぎるくらいに平和であるから、多少は敵がいた方が緊迫感があっていいのかもしれない。いいや、平和な街に扼殺死体なんて出てくるはずがないのだが。少なからずボクの周りは今、穏やかなものだった。個人の想像する世界なんてものは、見渡せてしまうほどにちいさい。
スマートフォンのアプリを立ち上げて、メッセージを入力する。ちょっと早く着いたから、向かうね。穴の開いたジーンズに指を通しながら。唇で、煙草の先を揺らしながら。送信したのち、その煙草をスタンド灰皿に押し付けた。ちり、と橙のちいさな燃え滓が落ちていくのを見届けて、不格好に歪んだそれを屑入れに放る。
それきりこいつは、何も言わなくなった。苦味の残る舌を誤魔化すために、ジーンズのポケットから同じ飴玉を取り出す。破れて塵となった包装を、同様に屑入れに捨てた。誰かの吐いた煙が、副流煙となって鼻をくすぐる。
この男とは、どうしたって馬が合わない。今日、多くの事実から導いた結論がこれだ。
「志保姉に見つかるよ。早く移動すれば」
この男の身が危険に晒されようと、構いはしないのに。ボクはやさしいから、多少苛立っていても忠告をしてやれる。ほとんど嫌がらせのような忠告だけれど。どうしようもなく人間であるのは、実のところきっと、ボクの方なのだろう。
点いたままの画面に、志保姉からの返信が表示される。分かった、とそのひと言を見たのち、ボクは壁に預けきっていた体重を脚に乗せ直した。一二時五十五分。朝、適当にパンだけを詰めた胃袋が、新たな食糧を求めて鳴く気配を覚える。
じゃあな、と踏み出した足を、この男が引き止めてくれた。おい、と絞ったような低い声とともに。ボクに用があるなんて、滅多なこともあるものだ。反射的に振り返った視線の先に、帽子のつばに眼を隠したそいつがいた。
「なんだよ」
「あの子を面倒に巻き込むなよ」
それは、どこかで聞いたような言葉だった。いや、ボクのなかにいるこの男が、いつか頭のなかでそう言ったのだ。冷えた指先が、耳朶を這った春。ダージリンの香り。履き潰されたスリッパの感触。
誰が。どの口が。アンタが。考えてみれば、考えなくても可笑しくて。いっそ腹を抱えて笑いたくなるのを、もしくはこいつの胸倉を引っ掴みたくなる衝動を堪えた。何にしたって、目立つ行為は控えたい。こいつのためじゃない。ボクの性分がそう言っているからだ。
こういうときほど、法律が邪魔だと思うこともない。気に入らないやつを殴れば、警察が飛んでくるであろうところとか。そういえば、こいつ自身警察官だったな。公共の安全を守るおまわりさん。その公共が示す民間人の範囲に、ボクは含まれていないらしい。守るのでなく、どちらかと言えば攻撃対象に含まれるのだろう。物騒なものだと思う。
言葉という武器は、大した武力をもたない。殊、この男に関しては。だから、は、と最大限の侮蔑を乗せたため息を吐いて、思いのままに捨てた。それは。
「こっちの台詞なんだけど」
睨みつけたって、その帽子のつばが邪魔をする。すこしだけ足音を騒がしくして出た喫煙所の外は変わらずにうるさくて、女子高生が横に列を成して歩いているのが邪魔で、スマートフォンを嵌めた棒を掲げた外国人が道を塞いでいて、周囲から届く取り留めのない会話がひたすらに不快だった。
それでも待ち合わせの場所には向かわないといけなくて、ボクは皺の寄っているであろう眉間を親指で強く押し込んだ。生垣ぐるりと回り込んだ先にある、モニュメントの前。見れば志保姉はすでにそこに立っていて、手首に嵌めた時計を眺めていた。すこし大きな文字盤を持つ腕時計が、華奢な手首に重たげに巻きつく。
青い小花がちりばめられた丈長のワンピースに、クリーム色のスニーカー。金色のかざりでひとつにまとめた髪と、やわらかに波打つ後れ毛が、風に吹かれてなびいている。ボクとはまったく対称の服装をした彼女を目に入れた瞬間、少々荒れていた心の内が鎮まっていくように思えた。
距離を詰めていくボクを、志保姉はすぐに捉えてくれる。そして挨拶を軽くかわしたのち、袖が半分失われたボクの服装を見て、まだ春よ、とひと言漏らした。でも今日、暑いし。そう返したおのれの声が、普段と変わりないことに安堵する。
本当に、あんな男のどこがいいんだか。
お昼まだでしょう、と問う彼女の耳には、あの日と同じピアスが下がっていた。いいお店があるんだけど。ショルダーバッグからスマートフォンを取り出すその動きに伴って、ピアスがさらさらと揺れる。志保姉のおすすめ?気になる。行きたい。画面上に地図が表示されるすこしのあいだ、ボクはその金色の描く軌道を眺めていた。
今日の志保姉も変わらずに綺麗で、ボクとは顔も身体もつくりがまるで異なっていて、どこか異世界のいきもののようにうつくしかった。だって彼女は宇宙に住んでいるから。攫われてしまったその場所で、たったひとりにしか触れることができぬよう、丁重に飾られているのだから。傷がついてしまわぬように。何時でも眺めることができるように。その彼女は今日、宇宙船という名の環状線に乗って、はるばる地球まで下りて来てくれた。
傾けた液晶に伴って回転する地図に、志保姉は困惑したように笑う。並んで歩くと歩幅の差が際立って、容易に距離が生まれた。彼女の歩幅は、ボクよりもすこし狭い。意識しながら踏み出した足を、かすかに手前へ引いて歩く。
だから彼女をこんな風にしたあの男を。ボクは、心底嫌いになることができない。