あなた
お姉さんは好きな人、いる?
たいして汚れてもいないティーカップに、泡のついたスポンジを滑らせる。博士には定期的にスポンジを取り換えるという習慣がまだないらしい。萎び切っていたそれを交換したばかりだから、新品特有の硬さが洗いものをするのにやや不自由だった。
水を宛がうと、泡と混ざった液体が硝子のなかに溜まっていく。気泡が忙しなく動き回り、上り詰めていくさまを見ていた。じゃあね。また会おうね、と玄関先で手を振っていたあの子の姿を脳裏に浮かべながら。吉田さん。歩美ちゃん。そういえば、彼女のことを初めて名前で呼んだことに気が付いて、思わず苦笑する。慣れない音を発した舌がまだ違和感を覚えているけれど、決して悪いものではなかった。
じゃあ、お姉さんのヒーローって、どんな人?
初めて会った頃から、最後に聞いた頃から、やや鋭さの薄らいだ声。しかし、変わらぬ無邪気な声だった。ばかな約束をしてしまった、と思う。あの子はもう小学校一年生ではないから、記憶違いなのではないか、と約束を躱すことも出来ないのに。
蛇口を閉じて、水まみれのふたつのコップとソーサーを軽く振る。水きりの蓋を開けたとき、背後から足音が聞こえた。やたらに重たげな、履物に含まれた空気を悉く踏みつぶしているような。この家の家主はちょうど、そんな特徴的な足音を持っている。
「しかし、珍しいのお」
その人は驚いたような口調で言いながら、マグカップを片手にキッチンへやって来た。茶色の筋がこびり付いた陶器。拭いたばかりの手で、ふたたびスポンジを手に取る。自らで洗うつもりだったのだろう。博士はああ済まない、と申し訳なさそうに零して、ケトルのスイッチをぱちん、と起こした。
「何が?」
「君はてっきり、あの子らとはもう会う気が無いのかと思っていたからの」
黒。青。緑。赤。並べられたそれらのうち、博士は赤い蓋のガラス瓶を取る。あの頃と変わっていなければ、中身はキリマンジャロであるはずだ。ケトルのなかの水が、しゅうしゅう、と沸き立ち始めている音がする。
「避けていたつもりはないけど」
乾いた布巾で、すっかり水気を取ったマグカップ。それを受け取った博士は、なかにスプーン一杯の粉末をさらりと入れる。それからああそうだ、と思い出したように一番上の棚を開けた。そこには包装紙の巻かれた箱がふたつ入っていて、博士は両方とも引き抜いてから扉を閉める。静岡名物、と崩した文字で書かれた菓子の箱。先週博士が出席した研究会の会場は、そういえば静岡の某所だったことを思い出す。同時に、吉田さんにお菓子を出そうとしていて忘れていたことも。通りで見つからなかったわけだ。あんなところへ意図的に隠すように仕舞われていては、気付かなくとも仕様がない。
「ほれ。持って帰るか。それとも食べながら続きでもしようか」
博士はそのうちの片方をこちらに差し出して言った。見たことの、聞いたことのある名前の店だ。確か、有名なもなかを取り扱っていたような気がする。それならコーヒーよりも、お茶の方が合うだろうか。流石は茶の生産量が国内最多なだけはある。ついでに茶葉の方も一緒に買ってきてほしかったけれど、というのは口にはせずに、私は黙って急須の蓋を開けた。引き出しに収められていた茶葉を適量入れて、ケトルの湯が沸くのを待つ。
「食べながらにしましょ。持って帰っても、ひとりだと量が多いもの」
「降谷くんがいるじゃろうに」
「あの人はノーカウント」
スイッチの点滅が消えるまで待っていると、湯が飲めないほど熱くなってしまうことを知っている。ほどほどに温まったであろうケトルを引き上げて、博士のマグカップに湯を注いだ。ゆらりと立ち上がり、霧散していく湯気。残りの湯を急須に注ぎ入れれば、丁度良いところで中身が無くなってくれた。
「もう片方は誰に?」
「ああ。お隣さんじゃよ」
お隣さん、と言えば浮かぶのはあの男の家であり、博士が時折口にするその言葉も、正しくそこを指している。年の大半は無人であったあの家は、今も変わらずに人の気配がないと思っていたけれど。あの男が戻って来たという話は久しく聞かないから、恐らくは両親の方が帰宅しているのだろう。有希子さんと、優作おじさん。ふたりには随分世話になったから、届けがてら近況報告をしに行くのもいい。
「ご両親、帰ってたのね」
「いいや。新一の方じゃよ。またすぐ居なくなると言っていたが」
とくとく、と湯呑を満たしていく緑。甘いお菓子には、渋すぎるくらいが丁度いい。じ、と熱をもった湯呑と急須を盆に乗せた。噂をすれば影がさす、とはまさにこのことを言う。そもそも私たちがしていたのは男の小学生の姿であって、今の彼のことではなかったのだが。
「ねえ。そのお土産、あとで私が届けに行くわ」
踏み出すたびに、湯呑のなかの液体が揺れる。部屋に着いてから淹れればよかったのだ。お隣さん、から始まった会話に気を取られて、手元が疎かになってしまった。
「用でもあるのか」
「出来たのよ。さっきね」
地下へと伸びる階段を、まったく異なるふたつの足音が下っていく。ぎゅうぎゅう、と博士の体重を受けて、やはり履物が悲鳴を上げていた。
ねえ。頬を赤らめて、私に問うた女の子。傍から見れば、そういった話を扱いたがる年頃の女の子の、可愛らしい疑問だ。そんな単純な事柄であれば良かったのに。白衣を纏う博士の丸々とした背中を追いながら、あの子の声を思い起こす。
そう。嘘を言ったつもりはなかった。かといって何が本心なのか、自分自身、よく分からないままでいるのも確かだった。
×××
インターホンを押し込むと、しばらくの間を置いたのちに機械化された素っ頓狂な男の声が聞こえた。それから玄関の扉が開くまで、数秒。廊下を思い切り駆けたのだろうか。息を切らしたその男は私の姿をみとめるなり、玄関から門までの短い道のりを早足で踏む。つっかけただけのスニーカー。踵を履きつぶされて歪んだそれが、私の目にはかわいそうに映る。
「灰、じゃねーや。宮野? 何してんだよ」
「どうも」
焦ったり。驚いたり。久しぶりに顔を合せた男は、すこし忙しい。もうすっかり春めいているけれど、夕方頃は上着を羽織らないとまだ肌寒いようだ。かしゃん、と男は背の高い門の錠を解く。白いシャツ。埃がいくつも付いた紺色のカーディガンを見るに、部屋の掃除でもしていたのか。
最後にこの男を見たのは確か、二年ほど前のことだったように思う。同じように博士の家を訪れたとき、私と入れ違うように玄関先で出会った。頼んでいた精密機器の修復が終わったから取りに来たのだ、と。しかし時間がない、とろくに会話もせずに男は出て行ってしまい、それきりだ。それきり液晶画面のなかか、または紙面でしか姿は見ていない。
そうだ。同じく二年ほど前、突然メールを送ってきたかと思えば、一件だけプロファイリングを頼みたいのだとデータを寄越してきたこともあった。結局それを何に用いたのかは分からないが、後日、頼んでもいないというのに博士の家に私の名前宛で封筒が届いた。入っていたのは一枚のカードで、記載されたコードを専用のサイトに入力すれば、好みの商品を選んで購入できるというものだった。かつては対価に小学生の彼には到底買うことのできない品々を要求したこともあったのに、自ら進んで報酬を用意するようになるとは。これが時の流れか、と同封のメッセージカードに印刷された男の名を眺めながら、感慨に耽ったものだ。
世良真純より余程、この男の方が厄介事を持ち込む可能性が高いと言える。しかしながら私がここを訪れたのも目的があるからであり、まずは単純な博士のお使いの方を果たすべきだ。片手にしていた菓子箱を差し出す。
「これ、博士がお土産だって」
「ああ、サンキュー」
背後のガラス窓には珍しく灯りが灯っていて、家主の帰還を分かりやすく伝えてくれている。博士曰くまたすぐに居なくなるようであるから、ふたたびお化け屋敷の名を冠する日も遠くなさそうだ。
箱を裏返して賞味期限を確認したらしい男はやがて、ひらめいたように顔を上げた。その眼には何かしらの高揚が含まれているように見えて、まさか、と顔をひきつらせたくなるのを堪える。
「なあ、おまえ。今時間あるか」
とん、とその箱で、手のひらをうつ。数センチ跳ねる包装紙の緑。映画やアニメーションなどで、よく見かける表現だ。頭の上に現れた電球が、ぱ、と光を宿すあの瞬間を、私は今目の当たりにしている。
幸い、時間なら消化しきれないほどにあった。人生でこれほど時間を余らせているのは、大学入学を待っていたあの頃振りだろうか。その猶予も、あと一週間もしないうちに終わる。来月の一日から、新しい生活が始まろうとしていた。
「用件によるわ」
「いいものを見つけたんだよ」
いたずらっぽく笑いながら、この男は言う。この類の表情をしたとき、否応なしに面倒事に巻き込まれるということを、私はあの一年で身をもって知った。長らく人の居なかった家だ。なかから身元不明の白骨死体が見つかっただとか、床下に鑑定不可能の財宝が埋まっていただとか。はたまた隠し扉を見つけて、これから探索に出ようと思っていたところだとか。そういった不穏な類の事項を、その顔からいくつも予想することができる。
「また危ないことに関わってるんじゃないでしょうね」
「いいや、全く」
そもそも俺の家に危険なんてねえよ。訝しがるわたしの視線を、男はそのひと言で一蹴してみせた。そう、大抵の家には危険なんて無いのだ。余程家主が機巧を好み、家に施しをしていない限りは。多分、以前彼に言われたことが効いている。危ないことに関らないで下さい、と嘆願を込めた声色。宥めるように撫でつけた、薄茶色のやわらかな髪。
「とりあえず上がれよ。ちょっと散らかってるけど」
男は私の反応を伺う前に門から手を離し、玄関へと歩みを戻し始めた。勝手な人間だ。誰も彼も、あの頃から何も変わっていない。それを喜ばしいと思うべきなのか、嘆くべきなのか。一方でどこか懐かしさを感じてしまう私がいるのも、事実だった。
赤く染まった空。高い木々の奥で、夕日が燃えている。緑を黒く焦がす赤。またすこし長くなった日に、春の確かな訪れを感じた。
私が後ろに続いているのを確認した男は、これ、食う?とお土産を掲げてみせる。さっき食べたばかりだから、と首を振れば、それだともてなせるものが無えんだけど、と頬を掻いた。
一体いつからそんな気遣いが出来るようになったのか。ひとつ年下の男の、そんな些細な変化がやたらに面白くて。どうせすぐに帰るから、と言いつつ、私は顔の下に薄らとした笑みを隠した。
この家を訪れたことは、過去に一度だけある。否。訪れた、という表現には語弊があり、侵入したと言う方が正しいのだが。今日は家主から正式に招かれる形で、照明の点いた廊下を歩く。敷物の色も、調度品もどこか見覚えがあったけれど、六年前はいかんせん部屋が薄暗く、各々の所在を確認する余裕も興味もなかった。しかし意図せずとはいえ、その被験者と関わりを持つようになるとは。そんな予想もしていなかった。
「そういえばこの間の、ありがとな」
とんとん、と室内履きを被せた足で階段を踏む。敷物が吸収してくれているおかげか、ふたり分の足音はどこか鈍い。
「この間?」
「二年くらい前に頼んだやつ」
ちゃんと礼言ってなかったから。男は最後の段差に足を掛けながら、手すりの先にある円形の装飾を掴む。この男にとって二年前とは、この間という時間のくくりで纏められるようだ。まるで昨日の起きたことのように話してくれるから、私も脳内時計を二年前に巻き戻す。
「久しぶりに弄ったから、むしろ抜けがあったら悪かったわ。有り難く報酬も受け取ったし」
「捜査の依頼とか、あんま受けてねえの」
廊下のところどころには埃が溜まっていて、住人が不在であった期間の長さを伝えてくれている。見下ろすシャンデリアに蜘蛛の巣でも張っていれば、それこそ本当にお化け屋敷だ。荒れ果てた洋館よりも、小奇麗で人のくらしの伺えない薄暗い洋館の方が、不気味さは増す。
「受けるメリットがないもの」
「そっか。まあ、危ないことに自分から首突っ込む必要ないもんな」
そもそもあの頃だって、依頼主はちいさかったこの男か、または博士が主だったのだ。前者がこの世から消えてしまった今、私の持つ技術を求める人間はきわめて少ない。いない、と言い切ってしまってもいい。博士の妙な仕事を依頼と呼ぶには、あまりにも自主性が過ぎる。博士を手伝うのは私の趣味のようなもので、依頼なんて大層な名の付くものではない。
メリット、と勝手に口が紡いだ言葉を、頭のなかで反芻する。基本的に人間の行動の根幹にあるのはそれだ。それが人を動かす。それならあの当時、私は何に対して利を見出していたというのか。何のために時折命を危険に晒すような真似までして。単純に自分が生きる為だ、と言い切れないのは、そこにある違和感の存在に気が付いたからだ。答えはうすい紙一枚を隔てた、すぐ隣に見えるのに。掴もうとして掴めないもどかしさに急かされて、些か具合が悪い。
閉めかけの扉。そこを開けると、先には壁があった。本の壁だ。円状の壁に沿って嵌められた棚に、秩序を持って並んだ本たち。赤。青。緑。黒。その並びはまるで、博士のキッチンにある瓶を思い起こさせる。床には棚から引き抜いた本や段ボールが無造作に置かれていて、下手をしたら踏んでしまいそうなほどに足の踏み場が無い。ここも同じく、カーペットには埃がこびり付いていた。ところどころに凝縮された埃の球が浮かんでいる。
「捨てるの?」
「違えよ。引っ越したから、家に持って行くんだよ」
同じの買うのも、なんか勿体ねえし。男は段ボールを手で避け時折足で避け、私が通れるように短い通路を作ってくれた。もしも今強い地震が起こったなら、落ちてきた本で死、とはならずとも、多少の怪我はするだろう。二メートル以上の高さから落下する五百グラム超のハードカバーは、充分凶器になり得る。
「へえ。蘭さんも一緒に?」
立てかけられた木製の梯子がぐらつかないことを確認して、段差に腰掛けた。窓がないこの部屋は、埃も相まってかどうにも篭って見える。照明が古ぼけているせいもあるのだろう。しかし程よく暖められた室内は過ごしやすく、読書が、とくに推理小説が好きな人間からすれば、この場所は間違いなく楽園そのものだ。
「妃先生が完全に戻ったら来るって言ってたけど。まあ、急いでねえし。それよりおまえ、」
あれ、どれだっけ。男は段ボールの閉じかけの蓋を開けて、なかを覗いた。目的のものではなかったのか手近にあったもうひとつを伺うが、どうやらそれも違ったようだ。きょろきょろと顔を左右に向けたと思えば、棚に収めていたひとつのちいさな段ボールを定めて、あった、とひとりでに零した。
「何よ」
「いや、降谷さんは元気かなと思って」
木製のはしごは硬くて、背もたれにするにはすこし痛い。よ、と大股で段ボールを避ける男の細い背中。あの頃、どうしようもなく大きく見えていた背中だ。まるで立ちはだかる壁のように。その壁は私たちのことをいつも、危険から遠ざけてくれていた。
「知らないわよ」
「なんだ。博士が宮野はそこに居るって言ってたんだけど。やっぱ嘘か」
居るけれど、知らないことだってたくさんある。だから一緒にいるけど、と答えを返すのに間が要った。
まあ多分、元気なんでしょうね。少なくとも数日前の彼は、私の眼には良好に映っていた。夜明け頃にベッドから起き上がった彼の背中を見ただけではあるが。扉までのほんの数歩の足取りは、しっかりしていたように思う。それで何が分かるということではないけれど、それでしか判断が出来ないのだから仕方がない。嘘を吐いているつもりはなかった。
ふうん、と男は鼻の内で声を漏らす。
「でも平気か、おまえ。降谷さんって言ったら」
「あら、意外に可愛いところもあるのよ。あの人」
人類に共通して、耳朶はやわらかい。何を考えているのか読めない彼のそれだって然りだ。不良少年が捨て猫を世話しているさまに、胸を締め付けられるような気持ちを抱くのと、どこか似ている。自分はそれを可愛い、と思えてしまう単純な女であることを知った。
妙なものを見てしまった、という面持ちの男は、その腕に小ぶりな段ボールを抱えてこちらへと戻ってくる。
「そういえばあなた、あの人のこと苦手だったわね」
「言うほどじゃねえよ。今会えば、印象も違うかもしれねえし」
剥がしかけのガムテープが、ひらりひらりと宙になびいていた。注意書きも何もない、真っ新な茶色。
「それが見せたいもの?」
とん、と床に置かれたそれ。音からして、大した重さではないのだろう。焦らすわけでもなく、男は蓋を開く。顔を出した赤。もうひとつ、赤。加えて白と黒。真っ先に目についた色たちだ。そう。懐かしいよな、これ。言いながら彼は細長の赤を摘んで、持ち上げた。
「今見ると小さいな、やっぱ」
あの頃のように、彼はその赤を口元に寄せた。眼鏡がふたつと、萎びたスニーカー。潰れたサッカーボールに探偵バッジ。サスペンダー。ベルト。あとは今、工藤くんが手にしている蝶ネクタイ。段ボールに収まっていたのは、あの頃の彼の面影だった。まるでどろん、とその身だけが消え失せてしまったかのように、当時彼を装飾していたものたちだけが、そのままそこに収まっていた。
博士に直してもらったら、また使えっかな。言いながらダイヤルを回して確かめる男を横目に、私は眼鏡をひとつ手に取った。ためしに掛けてみるけれど、顔の幅が合わずに、つるが肉に食い込んで痛い。蝶番に仕込まれたボタンを押したところで、アンテナが立つ気配も液晶が動く気配もなかった。完全に壊れてしまっているか、それとも電池が切れてしまっているのだろう。ただの伊達眼鏡になってしまったこれに、しかし私も随分助けられた。言う通り修復して再利用すれば、男の関わる事件の捜査に有益をもたらしてくれることは間違いない。
「さっきまでね、」
レンズ越しに、部屋をぐるりと見渡す。汚れや傷があまり見られないレンズの向こう。長いあいだ密閉されて、本当に誰も触れることがなかったのだろう。この眼鏡にはまだ、ちいさな名探偵のぬくもりが生きているような気がした。誰にも上書きされていない、彼だけのぬくもりが。
おお、と男はベルトの具合を見がてらに、曖昧な返事を寄越す。
「吉田さんと話してたの」
「吉田さんって、歩美ちゃん?」
「そう。歩美ちゃん」
馴染まない名前をもう一度、声に起こした。背表紙に刻まれた、銀の英字。マーダーオブザオリエントエクスプレス。そのまま視線を左にずらせば、刊行順にポアロの作品が並んでいた。水色の背表紙の群れの隣に、文庫の翻訳本がこぢんまりとまとめられている。
「本当か。よく会ったな」
「もう時効じゃない。人の顔なんて、そう何年も覚えてないわよ」
あの子からすると、そうではなかったみたいだけれど。年を経てすこし落ち着いた声が紡ぐ、かつての想い。どうだろ、と彼女は軽い口調で答えた。ひと回りも下である女の子の心情をただ可愛い、とだけ評するのは、あまりにも彼女に酷な気がした。あの子はきっとこれから、たくさんの苦労を覚えていく。この男のせいで。だからひとつふたつ、彼女の代わりに文句でも言いつけてやろうと、そんな目的を持ってここへ来た。
「で、何を話してたんだよ」
「あなたのこと」
「は?」
私を見るその顔があまりに間の抜けたものだっただから、つい相の悪い笑みを浮かべてしまう。こんな顔をした男が、今でもあの子のヒーローなのだという。しかし人とは見かけに依らないものだ。現にこの男の頭脳を求めている人間は日本中に、いや、世界中そこかしこにいると言っても過言ではない。
じゃあ、お姉さんのヒーローって、どんな人?
そうやって好奇心をふんだんに乗せた、久しい眼。ちいさな眼鏡を顔から外せば、窮屈さを訴えていた側頭筋が寛ぎを得て弛緩していくのが分かる。
「嘘よ。四月から中学生なんだって」
「なんだ。へえ、でもそっか。もうそんなか。早えなあ」
この左眼のレンズの奥で、鋭く光っていたあのまなざし。彼の指紋が残っているであろう蝶番に、もう一度触れた。なあ、灰原。おい、灰原。そうやって呼びかけるあの声は、もう失われてしまったのだ。もう誰にも発することはできない。あの声を持つものは、この世界のどこにもいない。同じ遺伝子をもつ人間は、今目の前にいるというのに。
男はふたたび蝶ネクタイ型変声機を手にすると、ううん、と唸りながらダイヤルを捻り始める。
「おまえは? 今何してんだよ」
「四月から社会人。マスター取ったの。二年で済むとは思ってなかったけど」
言いながらつるを畳んだ眼鏡を差し出すと、男は黙ってそれを受け取った。その折に触れた手はしっかりと温度を持っていて、私は密かに安堵する。見つめ返したおのれの手のひら。青色の血管が幾本も浮き出た甲に、枝のような指たち。無理矢理剥いてしまったささくれの瘡蓋。
この部屋を埋めるのは、本当に洋書ばかりだった。時折場違いのように邦書が入っているけれど。それもほとんど翻訳本なのはやはり、男のというよりも、優作おじさんの拘りが詰まっている故なのだろうか。
適当に引き抜いた一冊は天がすっかり黄ばんでいた。やや草臥れた深緑の背表紙。知らない題名の小説だった。読まずとも、推理小説なのだろうということだけは分かる。
「それも公安の指導?」
「大学まではね。大学院は私の意思よ」
「降谷さん、なんか言ってただろ」
「逆に喜んでたわ。理由は知らないけど」
大学院への進学を考えている。それを伝えたときに見せた表情がただの演技によって作られたものなら、彼は本当に役者だ。私の目に狂いがなければ、彼は確かに微笑んでいた。その柔和な目尻は私を安堵へ導くのには十分で、もし彼が役者であるとすれば、今現在に至るまで、私は彼にものの見事に騙されていたということになる。騙された、といっても、こちらに不利益など一切ないのだから、言葉を改める必要があるのだが。
害のないものに対しては、基本的に優しさを見せる。それが私の持つ、彼に関する見解のひとつだ。たとえば時間が許せば、道に迷っている人を付近まで案内してやるような。両手に荷物を抱えたお年寄りの手伝いを、進んで買って出るような。道端に咲いたちいさな花の存在にいち早く気が付くような。あの人は、どうしようもないほどの善人ではないかと思うときがある。様々な事情がそれを見え難くしているだけで。あらゆる人間、はたまた世界の幸福を祈ることのできる、希少な性を持つ人間なのではないか、と。
彼が私を害のないものとして見ているかどうかは、知らない。少なくとも私自身は、私を既に害のないものとみなしているから、その事実だけで今は良かった。
「理由も何も、嬉しかったんだろ。おまえ昔、もう人生どうでもいいみたいな顔してたし」
「そうかしら」
「そうだよ」
とぼけてみせたけれど、男の言葉は正しい。あの頃、死ぬ機会ならそこかしこにあった。けれどそのひとつひとつを潰してくれたのは。言葉で私の頬を殴りつけてくれたのは、紛れもなくあの名探偵だった。彼がいなければ、私は今、きっとこの場所には居ない。この姿と、この名前をふたたび手に入れることもなかった。多くの奇跡を時に強引に引き寄せて、結局彼は本来の目的を果たすために消えてしまったけれど。
どんな難しい謎も事件も、全部絶対に解いてしまう。その姿に何度心を救われたか、最後まで伝えることができなかった。その機会が永遠に失われたまま、時間だけが過ぎていった。
おい、灰原。
唐突に聞こえるはずのない声が傍から聞こえたものだから、私は驚いて目を瞠る。跳ねた心臓に、身体が焦りを訴えていた。声は私の足元付近から起きたはずだ。そこには床に胡坐をかいている男しかいない。簡単なからくりだ。男が蝶ネクタイ型変声機に声を吹き込んだ。ただそれだけの話だった。
「ねえ。嘘。それって、電池式じゃないの」
「と、思うだろ。スピーカーがオフになってるだけだったよ」
こっちが猫被ってる時の声。ひひ、といたずらが成功した少年のように、男はダイヤルを切り替えては懐かしい音を発する。それは頭のなかで薄れて、ほとんど別物になってしまった彼の声の輪郭をなぞってくれる。濁りも雑音もないその声が、久しく私の耳を揺らしていた。
ヒーローは私も好きだ、と。そう答えるのが精一杯だったのだ。
だってまさか、ちいさな名探偵があんなにも、あの子の心に棲みついてしまっているなんて、思ってもいなかったから。同じく私の心に今も棲んでいるのだと、あんなタイミングで気が付くなんて思わなかったから。叶わないものだと懸命に蓋をしていたおのれの想いを、今になって思い出すなど。思い出すなど。
「工藤くん」
「ん?」
「降谷さんは、どうして嬉しかったんだと思う?」
不毛な想いだった。初めから何も実ることがないと分かっていた想いだった。それでも彼の役に立ちたくて。すこしでも。すこしでも、彼のなかに居場所がほしくて。彼からの頼みを小言を零しつつ応えていた理由は、ただそれだけだった。もちろん探偵団のあの子たちのことも常に頭にあったけれど。そんな動機と呼ぶには不純な欲のために動いていた、浅はかな子供だった。可哀想な子供だった。
男は変声機をすっかり口元から離すと、すこし考えるような素振りを見せた。しかしそれは謎を解き明かそうとしているのではなく、答えを言いあぐねているようにも伺える。事実男から戻ってきた返事は、明確な解を伴っていなかった。
「それは俺に聞くより、宮野の方が詳しいんじゃねえの」
この部屋には、愛がある。こんなにもうつくしい本棚だ。本立ての代わりのように、斜めに寝かされている本がひとつも見当たらない。経年による劣化はあるにしても、それでさえ、その本の持つ個性のように見えた。ひとつひとつにしっかりと居場所があって、そこに収まるべきものが確かに収まっている。ここには偉人たちが残した文学作品に対する敬意と、そして愛がひたすらに込められているように思えた。
危ないことに関わるな、と。どうして彼は、しきりに私に言うのか。どうして彼は、私に熱を移してくれるのか。私はそれらをすべて偽りだと、どこかで疑ってさえいるというのに。どうして待ち望んでしまうのか。思い当たる節をひとつひとつ指先で押し込んで、数えていく。夜闇で、彼の声が私の名を語った回数を。私の髪を梳いた指先を。
情報を集めるのは得意だった。けれどそこから推測し、隠れた真実を得るのは私の得意とする分野ではない。おのれ自身のことさえ完全には把握しきれないというのに。人間というのは、本当に欠陥ばかりだ。理解できないものが多く、理解できないまま死んでいく。
どうして、と男に解を求めたのは私だ。それなのに解を委ねられた今、さじを投げるのも、やはり私だ。
「あの人は、私の都合良く解釈していい人じゃないわ」
「はは。懐かしいな。おまえのそういうところ」
いいんじゃねえの。人間そんなもんだろ。そう言って、男は探偵バッジを照明のもとに掲げた。もう、誰に繋がることもない通信機。確かこれは電池式だったように思うけれど。そうでなければ、今すぐあの子にバッジに向かって話しかけるよう連絡するのに。けれど私だって、吉田さんに連絡する手段はもう無いのだ。偶然という誰かの気まぐれが、私と彼女を博士の家に引き合わせてくれる以外には。
「まあ。おまえが楽しそうにしてんのが分かって、よかったよ」
口調。癖毛。仕草。当時の影を残すこの男に、おのれでも掴めないものを見透かされているのが悔しくて。私はその言葉に、反応を寄越すことはしなかった。
本当に、ばかな約束をしてしまった。眼鏡を掛けていて、頭が良くて。どんな難しい事件だって絶対に全部解決してしまう、ホームズのファン。
私のヒーローも彼女と同じく、あのちいさな名探偵だったのだから。
×××
灯りが点いたと同時に、部屋に入った彼はうわ、と珍しく驚嘆の声を上げた。同居人と言えど他者がおのれの部屋で、あまつさえベッドに寝転んでいたのだから妥当な反応なのだろうが。彼にあまり似つかわしくない声色を聞いて、私は心の内でひとり笑む。
暗闇のなかにただ横たわりながら、すこし考え事をしていた。けれど、半分くらいは眠っていたのだと思う。やや飛躍しがちになっていた思考は、夢に攫われていたせいに違いなかった。
「驚かせないでくださいよ」
言いながら彼は首に掛けたタオルで髪を擦る。そうやって乱れさせた髪はところどころで跳ねては、ゆっくりゆっくり、もとのところに収まっていく。
こち、こち、と。秒針が進む音がただ響いていた。深夜一時。風音も、車の走行音さえ聞こえてこない、静かな夜だった。時計がその内で歯車を回している些細な音さえ、この耳に届いてしまいそうなほど。この時計は音がすこしうるさい。眠るときに、それが気になってうまく寝付けないことがある。
「おかえり」
「ああ、はい。寝るなら布団くらい掛けないと」
確かに、今日は少々肌寒い。長袖の部屋着にやや厚手のカーディガンを羽織ったくらいが丁度いい頃合いだ。彼は季節を無視したように既に半袖の、ゆとりのあるカットソーを纏っている。寒くないのだろうか。布団に入ってしまえば、すべて同じとでも思っているのだろうか。冬に着ていたはずの黒い厚手のプルオーバーパーカーは、ここ数日のあいだ、いつの間に脱ぎ去られてしまっていた。
ベッドにもうひとり分の体重が乗ったおかげか、この身体がかすかに揺れる。すぐ目前に浅黒の腕が立って、視界をわずかに遮ってくれた。自身の体を支えるようにして、ベッドに押し付けられた手のひら。丸い爪を携えた、すこし太い指たち。その一端に触れて、滑やかな爪のふちを辿る。冷え切ったおのれの指を受けて、彼のそれがほんのわずかに震えるのを感じた。
懐かしい時間を、ひたすらに思い返した日だった。そして最後に行き着いたこの温度が、私の心を現に引き戻してくれる。ようやく触れた安寧に、この身体を浸らせた。徐々に緩んでゆく気を、元に戻すことは難しい。工藤新一を覚えているか、と滑らせた口を、止めることができない。
「覚えてるも何も」
彼のことは、よく耳に入ってきますよ。彼のその言葉の通りで、工藤新一の活躍は、様々な媒体を通して知ることができる。全国各地の事件解明に手を貸して、何度県警から表彰されているか。時折メディアで見かけるその姿はもう、珍しいものではない。加えて、インスタントラーメンが完成するのを待つあいだにウェブを巡れば、少なくとも彼の個人情報の大半を入手できてしまえる。そう、だから、人は見かけには依らないのだ。
「聞いてほしい話があるの」
「何ですか」
母親に失態を隠す幼子の如く。私はベッドの隅に寄せた身体を小さくして、前髪の奥に眼を隠した。彼がわずかでも振り向けば、見つけてしまうから。寂寥に揉まれて、頼りなく揺れる眼を。
「昔ね、私」
江戸川くんのことが好きだったわ。
あのちいさな段ボールのなかには、当時の彼の匂いが、そのまま残っているような気がした。かわいそうな子供。未だ私のなかに眠る、報われなかったかわいそうな子供が、目を覚ましてしまった。だから眠れない。落ち着かない。心の底がざわついて、ざりざりと、目の細かい鑢で撫でられているような感触を覚える。
「何を言い出すのかと思えば」
ひそかに視線を持ち上げると、赤茶の髪が遮るその向こうに、ただ前を見据える彼の後ろ髪が映った。最近短くされたばかりのえりあし。視線の先にはただのクローゼットの引き戸がある。収納という用途もろくに果たせていないその空間には、一本のギターだけが眠っているのを、私は知っていた。頬骨の奥で、すう、と高い鼻の先が顔を覗かせている。綺麗な輪郭だ、と思う。
「彼と話をしたから」
「会ったんですか。工藤新一に」
「ええ。今日ね」
掴んだその腕に、額を押し付ける。熱を溜めた額に当てる氷が、ひどく心地良いように。まるでその逆だけれど、彼の熱は、私の心に安息をもたらす。鑢でささくれた底を癒して、均してくれる。私のなかで、背中を丸めていじけている子供。この子をあやすのに、わたしひとりの力では到底かなわない。
「工藤くんは、元気でしたか」
瞼を閉じた先に浮かんだのは、淡い陽の光を受ける彼女の横顔だった。ソファから伸びる、ラグに着けた足。コップを掴む手も。背を伸ばそうと努めた口調も。純粋さの裏に、焦がした心の跡が残るそのまなざしも。ただただ、大きくなった。子どもを成長させるのに、この六年間は充分すぎたのだろう。けれど私のなかのこの子供は何も変わらないまま、ずっと同じところに居る。
彼の言葉に頷けば、左頬に敷いたおのれの髪が擦れた。腕にかかってしまわぬように、細く息を吐く。
「最近、米花町の隣に引っ越したって」
「へえ。すぐそこじゃないですか」
私たちの住んでいるところは、ほとんど隣町との境にある。すぐそこ、と言っても最寄駅が異なる可能性は十分にある故、そうそう出会ったりはしないように思う。しかし退き引きならぬ理由以外で隣町へ行くのは、極力避けようと決めた。なぜなら工藤くんと屋外で出会うと、高い確率で事件に巻き込まれるからだ。
じっとりとした眼を携えたこの子の頭を、そっと撫でる。愛されたかったのだろうか。この子は。ちいさな名探偵の心が欲しかったのだろうか。振り向いてほしかったのだろうか。それが夢でも起こり得ないと知りながら。
サンキュー、と。喜ばれるのがただ嬉しかった。なあ、頼むよ、と。頼りにされるのが嬉しかった。私の技術と頭脳を、手放しで褒めてくれる彼が、私の光だった。
けれど、好意と呼ぶには、そこにあまりにも歪みがありすぎた。本当はただ、誰かに正しく認めてほしかっただけなのかもしれない。人殺しと烙印を押されたこの才能を、それでも誰かに褒めてほしかったのかもしれない。この頭脳は、私自身はここに居ていいのだと、生きていていいのだと。誰かに、そう言われたかったのかもしれない。
あの頃はその感情の熱量に好意という名を付けてしまったけれど。随分経った今、その言葉を、まだまともに理解できるような気がした。
「降谷さん」
はい、と声はすぐに降ってくる。ふたたび開けた視界のなかで、羽毛布団が波を打っていた。ひとつの呼吸で身体が膨らむ。一時十三分。秒針は止まることを知らない。
「あなたは、私が存在しない方がいいと、考えたことはある?」
馬鹿げた問いだ。しかし昔の私ならきっと、首肯されるのが怖くて、尋ねることも出来なかっただろう。けれど自分の価値は、自分で決めなければならない。自分の評価を他人に委ねてはいけない。今の私へと導いてくれた戒めだ。私の存在価値は、誰よりも私が一番知っている。それを知っているから、今は何が起ころうとも揺らぐことなく立ち続けることが出来る。
けれどこの子は。ありもしない言葉の裏を探って、自ら傷つこうとするこの子は。
どうしてか、彼はふ、とちいさく息を漏らして笑った。
「志保さんはすぐに、僕から必要なものを奪おうとする」
言葉とは裏腹に、しかし彼はどこか楽しげに見える。苦笑とはまた違った感情を含んだ声だった。表情と声色が一致して初めて、人は他者の感情を認識できる。一方を失った今、私は彼の感情を理解することが難しい。しかしそれは彼も同じなのだろうが。
不快にさせていなければいい。一方で私がした問いかけは、どれもそれに当てはまるものが多いと気付く。それでも彼は彼なりの解を与えてくれるものだから、私はそういった彼のやさしさを、いつも宛てにしてしまう。
「聞いただけよ」
「まあ、そういうところも含めて、ずっと貴方なんでしょうね」
ぜんまいの切れかけた人形にも似た声で、先の問いの肯否について回答を急かしてみる。渇いた喉から出る、掠れた音。答えなんて無くともよかった。けれど私はできるだけ長く、彼と話をしていたかった。今日、彼の声を聞いていたかった。
「ない、と完全には言い切れません」
子どもが、じっと耳を澄ませている気配がする。ひたすら、心臓に脈を打たせながら。彼の温度を受けてもなお、今日はすこし手が冷たい。汗が引きかけた手のひらみたく、熱が奪われていってしまう。でも、と彼は言葉を続ける。
「今までの貴方を否定することは、今までの僕自身を否定することになるから」
あんまり、僕をいじめないでやってくれませんか。
親が子の無邪気な疑問を、ひとつひとつ紐解こうとするような。彼はやはりそんなやわらかさをもって、私の問いかけに答えをくれた。そうやって彼自身も気付かないうちに、この子供の背中をやさしく叩いてくれる。ほら、早く眠ってしまえばいい。夜は人を寂しくさせてしまうから。静けさにのまれて、泣きたくなってしまう前に。すべて忘れて眠ればいい。
「あなたはすぐに私を甘やかす」
「そんなことはないですよ」
彼が分かりやすいくらいにとぼけてみせたものだから、私も彼に分かりやすいように笑ってみせた。やはりこの人は、どうしようもなく善人であるのだと。その片鱗を窺うことがあると、どうにも苦しさばかりが背中を這う。喉をぬるく焼くほどの熱がこみ上げてくるのを、いつも感じる。
人間はそんなものだと、工藤くんは言った。皆、常に他者を自分の良いように解釈しているのだと。けれど私はまだ、実のところその出発点にさえ立てていないのだ。彼を私の枠に当てはめて解釈するというその行為自体に、想像さえ及ばないのだから。すべては彼の気まぐれだと、根付いたその結論が足元に絡んで、動けない。動く気すらなかったのに。吉田さんの、彼女の懐かしい好奇心に触発されてしまったとでもいうのか。
ごく目近で、彼の手の甲に刻まれた皺の数を数える。それなら、と言い止めた続きを促すように、彼がこちらを振り返る素振りをみとめた。
「あなたは私の未来を、喜んでくれるの」
お姉さんって、好きな人はいる?向けられた純粋なまなざし。照れを隠しきれない、可愛らしいあの視線。あの子の方が、余程その感情に真っ直ぐに向き合っていると言えた。それを羨ましく、そして眩しく思う。私に無いものを持っている人間は、いつだってそうだ。いつだってこの眼には、一際にまばゆく映り込む。
「喜ばなかったことなんて、一度もありません」
彼の温度と同化した指先。違うの、と誤魔化すように笑ったのは。
好ましいと思っているのは、事実だった。彼の仕草も。その薄茶色の髪も。耳朶も。手のひらも。背中も。彼を構成するひとつひとつ。けれど私は、彼の心を知らない。知り得ない。私が好ましいと思っているところはすべて、彼の張りぼてに過ぎないのかもしれない。そんな人形に感情を寄せてしまうことの滑稽さ。本物の心を知らずして、どうして好ましいと思えてしまうのか。そんなものを肯定して、一体何になるというのか。
「ほら。またそうやって」
そうやって、私を甘やかして、欲しい言葉を全部くれる。ここは、あなたの箱庭だった。そして紛れもなく、私の楽園でもあった。仮初めかもしれない。それこそ、張りぼてかもしれない。けれど、ここに住まうことを、私自身が決めた。滑稽であり続ける自分を、私自身で認めた。騙されたままでいいのだと。それを望んでいるのは紛れもなく、私だ。
「はは。貴方だから、つい」
そうやって頬を撫でる彼の指先たちを。やはり私は好ましく。否、愛しいとさえ思ってしまう。