あなた



ぽん。ぱちん。ぽん。ぱちん。
手にした黒い円筒は、まるで楽器のように音を生み出す。蓋を取ればぽん、と響いて、蓋を嵌めればぱちん、とまた軽く鳴る。なかには丸められた紙が入っていた。卒業証書と書いてある、クリーム色の厚紙。賞状とか、金の縁どりがある紙をあまり貰ったことがないから、この卒業証書はまだ短い人生のうちで、すこし特別なものになった。
ぽん、ぱちん。ぽん、ぱちん。
まるでそうするしか知らない機械のように、目前を歩く元太くんは筒の開閉を繰り返す。静かな住宅街に、その気味のいい音が響いていた。
今日はよく晴れていて、うすい雲の浮かぶ空が嬉しい。咲き始めた桜の匂いがそこかしこから漂うのも。春は好きだ。ピンクが好きだから、ピンクが似合う春が好き。桜の花も、桃の花も、お弁当に敷かれた桜でんぶだって、わたしは好きだ。
元太くんがあまりにもそれを繰り返すから、わたしもゆっくりと、手元の蓋を引き抜く。空気を揺らしたのはしかしあまりも頼りない発砲音で、特別に面白味を感じることもなく、蓋をぱちん、と嵌め直した。光彦くんは壊れちゃいますよ、と言うし、元太くんはそんなヤワじゃねえだろ、と黒い筒を振り回しながら答えている。
いつもの光景だ、と思う。三人並んで歩く道も。三人並んで向かう場所も。三人揃う理由はいくつかあって、例えばちょっとした事件の依頼だとか、博士のお使いだとか、宿題をするためだとか、色々だ。今日集まった理由は、そのどれとも違うけれど。
目的の場所はもうすぐ先に近付いている。小学校一年生の頃からお世話になっている、阿笠博士の家だ。卒業式に来られなかった博士に卒業証書を見せに行くのが今日の目的だった。元太くんと、光彦くんと、わたしの三人で。
次にここに来るときは恐らく、わたしたちは中学生になっている。だから今日は小学校生活で最後の、少年探偵団の出動日になるはずだ。


×××


玄関を開けると、ふたりはいつものように靴を脱いで、お邪魔しますと声を張りながら家に上がっていった。元太くんはやっぱり靴を揃えないし、光彦くんはぴっちりと揃えた靴を端に寄せるし、わたしは元太くんの靴も綺麗に揃えてから一番最後に上がる。上がろうとして、ひとつだけ気が付いたことがあった。靴の数が多いのだ。三人のものと、博士のやたらに大きな革靴。そこに加わっている、見慣れないスニーカーとヒールの靴が一足ずつ。
一体誰のものなのだろう。大きさからして、どちらも女の人のものに見える。もしかしたら、今日はお客さんが来ているのかもしれない。女性の知り合いがふたりも同時に尋ねてくるなんてことが、あるのだろうか。珍妙な発明品を取材しようと、どこかの雑誌の記者が訪ねてきている可能性が、無くはない。多分、この推理は的外れなのだろうが。わたしの頭は、推理をするのに向いていない。何よりそこに答えがあるのだから、最初からリビングに向かえばいいのだ。解決への近道を、寄り道せずまっすぐに進めばいい。
開きかけの扉から、女の人の声が聞こえた。あれ、君たち。久しぶりだね、と。芯のあるその声は、世良のねーちゃんじゃん、と部屋に響き渡る声を割って、わたしの耳を優しくつらぬいた。
元太くんの言葉の通り、リビングのソファには世良のお姉さんと、あとはもうひとり、わたしたちに背を向ける形で知らない女の人が腰掛けていた。大きな窓から入り込む光がまるで、空から迎えに来たのだと言わんばかりに、その人を淡く照らす。活発そうな世良のお姉さんと比べると、声も聞いていないその人があまりにも脆く見えて。わたしは手にしていた黒い筒を、つい握り締めた。
元太くんも光彦くんも、久しぶりに会った世良のお姉さんと話をするのに夢中で、あの人のことを気にもかけていない。わたしだけがただ、あの女の人を見ていた。
白く長い首に流した赤茶色の髪。耳からさがる銀色のピアス。同じく白い指が、テーブルの上のティーカップに伸びて。
ふいに、世良のお姉さんがわたしを呼んだ。何を見てるんだい、と。目前に立った世良のお姉さんは、昔よりもなんだか縮んだように思えて、否、わたしの背が随分伸びたのだ。歩美ちゃん、背が高くなったなあ、と感嘆の声を漏らすお姉さんの言葉に、照れ笑いを返した。
元太くんと光彦くんは、博士が地下に居ると知って、ぱたぱたと足音を鳴らして階段を下りて行く。わたしも倣って行くべきだったのだろうが、目前の謎を放置するのは、探偵団の一員として如何なものかと思うのだ。
言わずとも、お姉さんはわたしの視線に気が付いていたのだろう。わたしたちと違って、お姉さんは本物の探偵だから、そういった人間の機動に敏感だ。わたしは玄関先にあった二足の靴のうちの片方が、世良のお姉さんのものだったということにも気が付かない。既に六年探偵団を名乗っているけれど、実のところ探偵とは本当に難しい職業であると気付いている。
世良のお姉さんは依然としてソファに腰掛けるあの人を、シホ姉、と呼んだ。シホ姉。シホ姉。その四文字が、わたしの頭のなかであたたかなミルクをかき混ぜるかのごとくくるくると回る。あの人はシホという名前なのかもしれないし、シホコかもしれないし、名字の一部にシホが入っているだけなのかもしれない。わたしが世良のお姉さんと呼ぶのと同じように。世良のお姉さんは真純という名前だけど、真純お姉さんと言うよりは、世良のお姉さんと呼ぶ方がしっくりくる。
そんなことをふらふらと考えているあいだ、名を呼ばれてすこし困った顔を浮かべているシホお姉さんに、世良のお姉さんは何らかを話しかけていた。淡いピンク色のブラウス。手首から広がるレースの袖に、同じレースが首元を覆う。わたしはまだ子供だから、あんなに綺麗な服は着れないし、似合わない。
子供みたく世良のお姉さんに手を引かれたシホお姉さんは、わたしの前にやって来た。目近で見るその人は、わたしの方が照れてしまうほど、本当に綺麗な顔をしていた。その眼に映るわたしが、どうしてかとても恥ずかしい。思わず身を隠してしまいたくなったけれど、もうそんなことをする子供ではないから、好奇心を鼓舞させてこんにちは、と彼女に言ったのだった。世良のお姉さんのお友達ですか、と。
大きな眼を細めたその人は、自分のことを宮野志保、と名乗った。この子とは、世良のお姉さんとは従妹なのだとも。
すっかり自分の名前を言うのを忘れていたわたしは、吉田歩美です、と口早に付け加えた。歩美ちゃん。志保お姉さんはわたしの名前を一度、その口のなかに転がす。まるで知っているものを思い起こすようなしぐさで。歩美という名前のひとは比較的多くいるから、誰か他の知り合いのことを思い出したのだと思う。
歩美ちゃん。よろしくね。志保お姉さんが手を差し出すものだから、わたしは迷うことなくそれを握り返した。その手がとても冷たかったことを、今でもよく覚えている。


×××


部屋の鳩時計が壊れたことに気が付いたのは、昨日の夜のことだ。
一昨年の誕生日のプレゼントにもらったその時計は、朝の九時とお昼の一二時、それから夜九時までの三時間おきに、小窓から鳩が出てくる仕組みになっている。ピンク色の、花柄が塗装された花冠を被っている、可愛い鳩だ。けれど昨晩も今朝も、鳩は姿を見せなかった。時計だけは正確に動いているから、きっとこの木箱の内側に収められた難しい部分を、おかしくしてしまったのだろう。
お昼前に博士に電話を掛けると、今日は時間があるから持っておいで、と快く修理を引き受けてくれた。光彦くんと元太くんを誘ってみたけれど、ふたりとも今日は予定があって朝から家に居ないらしい。光彦くんは昨日から家族で旅行に行っていて、元太くんもお父さんとどこかの海へ釣りに出掛けたそうだ。だからわたしは久しぶりにひとりで、この道のりを歩いている。紙袋に入れた鳩時計を右手に提げて。
桜の匂いが、より一層強くなったように思う。そういえばテレビでは桜の満開が近いことを連日知らせてくれていた。次のお父さんのお休みの日に、わたしも家族で近くの大きな公園にお花見に行く。ちいさな動物園が併設されていて、そこにいるモルモットや二十日鼠がかわいいのだ。
博士の家の扉には錠がかかっておらず、随分不用心だな、と思う。この街は頻繁に事件が起こるというのに。多分わたしが来ると言ったから、あらかじめ開けておいてくれただけなのかもしれないけれど。と思いつつ前に三人で来たときも開いていたから、やはりただ不用心なだけだ。
玄関には博士の革靴とスニーカーが並んでいて、離れた隣にもう一足、前回と同じように知らない靴があった。踵があるから、女の人の靴だ。わたしの頭に過ったのは世良のお姉さんではなく、世良のお姉さんの隣に居た、志保お姉さんの顔だった。
世良のお姉さんなら、まだ分かる。博士とは昔、起きた事件で何度も顔を合せているから。だから世良のお姉さんがこの家に訪れる理由は、まだ分かる。
けれど志保お姉さんと博士は一体、どういう関係なのだろうか。知り合い。親戚。まるで人形じみたあの人は、もしかすれば博士の作ったアンドロイドなのかもしれない。やはりわたしは推理するには随分向いていないな、と思う。名探偵に聞かせればきっと、呆れたように肩を落とすに違いない。そう、名探偵に聞かせれば。
静かに開いたリビングの扉から、静かになかを覗く。そこはがらんとしていて、人の気配がなかった。ただスポットライトのような光の差し込むその部屋で、ちいさな埃だけがちらちらと舞っていた。こういうとき、博士は大概地下室に居る。だからそろそろと足音を立てないようにリビングを横切って、階段を下りた。いつもなら何かを削る音だったり、何かを叩く音だったり、騒がしい物音が漏れて聞こえるはずなのに、今日はやたらに静かだった。
おかしいな、と思いながらも、ノックしたすこし重い扉を開ける。博士、と呼びかけたその部屋には博士と、ソファに腰掛けている志保お姉さんがいた。博士はやたらに分厚い本をいくつも机に広げていて、志保お姉さんはそれと比較すれば随分軽そうに見える文庫本を読んでいた。ふたりして読書に勤しんでいたらしい。確かに、静寂は読書にもっとも必要なものだと言える。
待っていた、と歓迎してくれた博士は、わたしの手に提がった紙袋を見るなり、いい息抜きになると、凝った肩を回していた。多分、博士の手にかかれば三十分も経たないうちに鳩は元気に姿を見せてくれるようになるだろう。実際博士はリビング待っててくれんか、と言っていたから、わたしは頷いて部屋を出ようとした。リビングには漫画も置いてあるから、時間つぶしにはまったく困らない。ドアノブを捻って、ふたたび灰色の扉を動かす。
ただ閉じていくだけの扉を阻止したのは、白く細い志保お姉さんの腕だった。何か飲む?とお姉さんは茶色の瞳を薄らと細めて微笑む。
その顔が、やはりあんまり綺麗だったものだから、わたしはつい俯きがちになってしまう。ゆるいみつ編みを施した髪。ラベンダー色のゆったりとしたトップスに、丈長のワンピース。その人は、まごつくわたしの反応を待っている。
あまり人見知りする方ではないのに。この人を前にすると、どうにも表情がうまく作れなくなる。緊張しているのだと思う。芸能人が、例えばヒデが話しかけてきたら、言葉が出てこなくなってしまうあの感覚と似ている。
飲みます、とわたしはやや上ずった声でもって頷いた。そういえばお菓子を貰ったばかりなのだと零す志保お姉さんは、ストッパーの代わりにしていたおのれの腕を退けて、螺旋になった階段を上る。数段遅れて、わたしはお姉さんの後姿を追った。ばたり、と背後で、扉が締まる。ちょっとだけうるさくなった心臓。階段をやや強く足で叩いたところで、それはなんの誤魔化しにもならなかった。


×××


「志保お姉さんは、博士の知り合いなんですか」

わたしの前にオレンジジュースを置いてくれた志保お姉さんに、開口一番そう問うた。この家にコースターなんてものが存在していたことを、今更になって知る。博士が飲み物を用意してくれるときも、自分で注ぐときも、わざわざそんなものを使ったりはしなかった。
お姉さんは自分の前に紅茶の注がれたティーカップを置いて、ソファに腰掛ける。その横には先ほどまで開いていた文庫本もあったけれど、紙製のカバーが掛けられていて、何を読んでいるのかまでは分からなかった。

「そう。昔、すごくお世話になったの」

大人になったから、知らない人と会話をするときにはちゃんと敬語を使うようになった。志保お姉さんはまったく知らない人ではないけれど。容姿と名前が合致するだけの人は、わたしにとってはまだ他人だ。だって毎朝通学路で眺める選挙ポスターのおじさんだって、顔と名前は覚えてしまっているけれど、それこそおじさんとわたしは他人だから。そのふたつを知っているくらいでは、知人とも言えない。
そっか、と滑らせてしまった口を慌ててつぐむ。そうなんですか、と言い直したわたしに、志保お姉さんは不思議そうな視線を向けていた。

「いいのよ。変に畏まらなくて」
「でもね、自分のことは名前じゃなくて、わたしって言いなさいってお母さんが言うの」
「まあ、そうね。でも、今日くらいはいいんじゃない」

お姉さんは垂れた髪を耳にかけてから、ティーカップに口を付けた。真似るように、わたしもオレンジジュースをストローで吸い上げる。テーブルに広がる紅茶の香りが、鼻を包んでくれた。窓際に置かれた花瓶。知らぬ間に壁を飾る額縁にも、花が咲いていた。この家にも春が訪れている。

「志保お姉さんは今日、何をしに来たの?」

すこし不安だったけれど、いつものように口はよく動いた。それと好奇心なら、後者の方がやはり勝っているのだ。学校の通知表にもよく好奇心が旺盛だと書かれていたし、それを自分の長所のひとつめに挙げてもいい。

「卒業式の写真を印刷したから、届けに来たの」

それなら、先週よりもすこし前にわたしも終えたばかりだった。そう、その数日後に、初めてこの人に出会った。
卒業式で着たピンク色のチェックのスカートに、紺色のブレザー。スカートとお揃いの柄のネクタイ。流行のアイドルが着ている制服を模したその一式を、わたしはすごく気に入っていた。毎日着たいくらいだけれど、もうその機会はないのだろう。勿体ないな、と思う。四月になれば、それとは別に毎日制服を着ることになるのだ。紺一色の制服を。
お姉さんは見るからに、学校に通っている人には見えなかった。制服という、もっとも分かりやすい学生のしるしを、お姉さんが纏っているようには見えなかった。

「誰の卒業式?」
「私。大学院っていう、学校のね」

ダイガクイン。大学という場所は知っているけれど、それに院が付くと何が変わるのか、わたしは知らない。けれど大学は制服がいらない場所であるということは、知っている。
わたしも将来、その場所に行くのだろうか。中学校よりも先にある将来のことが、複雑すぎてうまく浮かばない。中間考査とか期末考査とか。文化祭とか、模試とか。複雑な文字の並びをいくつも聞いた。春から始まる中学生活でさえ、まったく想像がつかないのに。
小学校は楽しかったか、とお姉さんはわたしに言った。正直なところ一年生や二年生の頃の記憶が、今となってはもうあやふやだ。けれどあの頃は毎日のように厄介事や、事件に遭遇していたことは、よく印象に残っている。元太くんの靴箱にも時折依頼の手紙が入っていて、日々忙しく動いていた。放課後や休みの日も度々五人で集まって電車に乗り、人を追いかけたり刑事さんと話したり。まるで瞬く間に吹く強い風のような毎日だった。しかし二年生に上がる頃になると、どういう理由か風はぱたりと吹くことがなくなった。
きっかけは、転校だったように思う。眼鏡を掛けた男の子と、随分大人びた女の子。少年探偵団の二人がいっぺんに転校してしまった春。五人が三人に戻ったのを境に、探偵団の存在意義を揺るがしてしまうほど、周囲に平穏が訪れてしまったのだ。
依然としてこの街は物騒けれど、少なくともわたしたちの手の届く範囲で、目の届く範囲で、事件が発生することは無くなった。いっそ不自然なほどに。それが今、少年探偵団の抱える最大の謎と言えるだろう。発生から四年。迷宮入りも目前の謎だ。
水滴のついた自分の手を見る。氷の入った硝子のコップは冷たくて、スカートの裾でその指を拭った。

「楽しかったよ。いろんなこと、いっぱいあって」
「そう。中学は帝丹中?」
「うん。またみんな一緒だから、楽しみ」

天井で、ヘリコプターのプロペラみたいな装置が、くるくるとゆっくり回っていた。みんなじゃないけど、みんな一緒。あのふたりを除いて。
あの男の子も、あの女の子も、気が付けばよく博士の家に居た。ちょうどこのソファに腰掛けて、わたしや元太くんや、光彦くんにだって分からないような難しいことを、博士と三人で話しているのを、遠巻きに見ていた。
あのふたりは、何かが違ったのだ。決定的に、何かが。

「ねえ、志保お姉さん」

なんとはなしに本棚から持ってきた少女漫画を、まだ開いてさえいない。どうしたの、とお姉さんは黒いワンピースのなかで足を組んだ。いつもは点いているテレビが沈黙しているせいか、今日の博士の家はまるで違う空間のように思える。時間がゆっくりと丁寧に流れている様子が、この目に見えるようで。

「お姉さんは好きな人、いる?」

だって、こんなに綺麗なんだもん。綺麗なひとには大抵恋人がいるのだと、少女漫画のなかではそう場が決まっている。
お姉さんはこんな問いを投げられるとは想像もしていなかったのだろう。その指先で顎に触れつつ、すこし考え込む様子を見せていた。そして、ややの間を空けてから、いない、と言う。口にしたその答えを、自分自身訝しんでいるような、そんな表情をして。

「ええ。本当に?」
「どうして?」
「だってお姉さん、すごく綺麗だから」

女の人って、好きな人がいると綺麗になるって、聞いたことあるよ。
長い睫毛に縁取られた瞼が、一度落ちる。からり、とオレンジジュースのなかの氷が崩れた。紙製のコースターに、滑り落ちた水滴が染みを作る。
それからふ、と手で口元を隠すようにして、志保お姉さんは笑いはじめた。わたしの言ったことが、心底可笑しいというように。違うわよ、と笑いながら、その隙間に言葉を挟む。何か間違ったことを言ってしまっただろうか。わたしの発言のどこに、そんな仕草をする要素があったのだろう。大人とは難しい。わたしには分からないことばかりだ。
すこしのあいだ肩を震わせたのちに、志保お姉さんはもう一度違うのよ、とはっきり言い切ってみせた。

「まあ、いいの。私の話は」
「えー。気になるよ」
「いいの」

きっとこれ以上尋ねたところで、紅茶をふたたび口に含んだお姉さんは、何も答えてはくれないだろう。わたしがそれを問うたのは、お姉さんに聞いてほしい話があったからだ。世良のお姉さんでも、博士でもだめで、わたしのことを知らないこの人に、ひとつ聞いてほしい話があったからだ。

「歩美ね、好きな人がいたの」

言い出して、なんだか恥ずかしくなって、背中が熱くなっていくのが分かった。じわじわとそれは首をのぼって、顔にまで熱をもたせてくれる。告白をしているわけでもないのに、特定の誰かを好きだと口にすることは、こんなにも勇気がいる。

「そう。どんな子?」
「えへへ。同い年でね。すごく頭がよくて」

どんな難しい謎も事件も、全部絶対に解いちゃうの。テーブルについた傷を見据えながら、彼の後姿を思い起こす。同じほどの背丈で、同じほどの腕の太さで、同じほどの手足の大きさで。それなのに、いつもわたしたちを庇ってくれたその背中は、どうしてあんなにも大きく見えたのだろう。

「まるでホームズね」
「ホームズ! そう、その子、ホームズのファンだったよ」

彼は、紛うことなきヒーローだった。元太くんや光彦くんにとってどうであったかは分からないけれど。少なくとも、わたしにとってはヒーローだった。絶対に倒れることのない男の子。諦めることを知らない名探偵。
しん、と静まった広い室内に、車の走行音がかすかに響く。それが過ぎ去った頃、お姉さんはそうなの、とちいさく呟いた。

「ねえ。その子は、同じ中学に行くの?」
「行かないよ。随分前に転校しちゃったから」

元気にしてるかな、と熱ごとまとめて握っていた手を開いて、見つめる。汗がうすく滲む、皺と皺のあいだ。あのときの、彼の手もこうだった。こんな風に汗が浮かんで、確かに熱をもっていた。

「連絡してみればいいじゃない」
「連絡先、知らないんだ。何も言わずに急にいなくなったの」

昔から、ヒーローが好きだった。魔法少女とか、変身コンパクトとか。そういうのにも興味はあったけれど、わたしはやっぱり仮面ヤイバーのほうが好きだったし、颯爽と危機を救ってくれるヒーローに夢を見ていたのだ。
だから、そんなわたしの前に現れたヒーローを。眼鏡を掛けた名探偵という名のヒーローを、好きにならないわけがなかった。憧れとか、そういう好きではなくて、単純にあの頃のわたしは、わたしのヒーローに恋をしていたのだ。人生で初めての、恋をしていた。

「博士に聞いても、教えてくれないし」
「あの人時々呆けてるから」

彼らが遠くに行ってしまったのだということを、わたしたち三人は博士の口から聞いた。同級生のみんなよりも、すこしだけ早く。ふたりとも海外に住む両親のもとへ行くのだと、その理由は単純なものだった。理解はできても、そのときは感情が追いつかなくて。家に帰ってから夕焼けに染まる部屋のなかで、ひとり密かに泣いた。
ヒーローだけじゃない。女の子のことも、わたしはとても好きだった。かっこよくて、やっぱり頭が良くて。女の子だけれど、あの子もわたしにとってはヒーローだったから。
呼びかけたところで、探偵バッジから彼、そして彼女の声が聞こえてくることは、もうない。きっと、二度とない。

「歩美ちゃん」
「なに?」
「まだ、その子のことが好き?」

お姉さんはどこか触れるのを躊躇うようにそう聞いた。憧れているのか。恋をしているのか。抱き続けている感情が、どちらに振り分けられるのか、わたし自身もう、よく分からなくなってしまっている。
ただ手を握ってくれたことが嬉しかった。手放しで喜んで、心臓を高鳴らせていたあの頃が懐かしい。だって、ヒーローは画面のなかにしかいないと思っていたから。そのヒーローと言葉を交わすことができて、あまつさえわたしのことを一時でも特別に思ってくれたのだから。それを嬉しく思わないなんて、どうかしている。

「どうだろ。でも、ずっとわたしのヒーローだよ」

そう、とお姉さんは組んだ手に視線を落とす。絡まり合った、白く細い十の指。
けれど、今なら分かる。ヒーローは、誰かの背中を押すための存在だから。あのとき彼が、たった三十秒とすこしのあいだ手を握ってくれたのは、わたしの背中を押すためだったのだと。わたしを生かすために。少年探偵団のみんなを、犯人でさえ生かすために。

「私も、ヒーローは好きよ」
「本当?」

うんと昔の話だけれど、この手に。大きくなったこの手のひらに、まだ彼の温度は残っている。やや汗ばんだ手のひらの感触を、今だってよく覚えている。他のことはほとんど忘れてしまったのに。あの背中も、声も、すべて解き明かしたときのあの表情も。わたしは今も、ひとつだって忘れることができないでいる。それだけは確かだった。

「じゃあ、お姉さんのヒーローって、どんな人?」

きっと志保お姉さんの心の内にもヒーローが住んでいるのだろう。そうでなければ、わたしも、なんて言い方はしない。この程度、長年探偵団の一員を勤めていれば、容易に想像がつく。
本当の謎は、それが一体どんな人なのかということだ。こんなに綺麗な人の、ヒーローとなり得た人物とは。わたしのなかの好奇心が、ぐるぐると手を上げて踊っているのが分かる。

「秘密」

しかしというか、やはりというか。お姉さんはそうやって肝心なところを濁そうとする。わたしばかりが恥ずかしい思いをして、これではなんだか不平等ではないか。ええ、ずるい、とつい口をとがらせてしまったのは、まだ抜けきらない子供の癖だ。お姉さんのような大人になれる日は、まだまだ遠い。

「今度ね。また今度会ったら、教えてあげる」

伏し目がちな瞼に乗ったパウダーが、艶やかに煌めいて美しい。曲線を描く睫毛も。目尻ですこし跳ねたアイラインも。そうやって抱いた不平さえ、どうでもよくなってしまうくらい。お姉さんを構成するひとつひとつに見惚れてしまっているわたしがいた。
行き先も告げず、突然消えてしまったヒーロー。すぐ裏の庭に。このソファに。地下室に。染みついていた気配はもう無くて、それを寂しいと思う感情も徐々に薄れた今、残るのは思い出だけだ。初恋という、叶わなかった恋の切なさだけが、いつまでも胸の奥に焼き付いている。
せめて、この世界のどこかにいるはずの彼が、また誰かのヒーローになっていればいい。そうであってほしいと願う。好きな人が、世界中から認められることの誇らしさ。それがいつしか切なさを上回ってくれたから、わたしはヒーローがいなくなった世界でも、笑っていることができる。

「絶対ね。約束だよ」
「ええ。約束」

溶けた氷で、すこしだけ薄まったオレンジジュース。ぐるぐる。からから。かき混ぜて奏でる涼しげな音たちが、ほんのり火照った体を冷ましてくれるような気がした。
おおい、と地下に繋がる階段から、声がのぼってやって来る。直ったぞ、と姿を見せたその手に、わたしの時計が乗っていた。博士が持っていると、時計がやたらに小さく見えるのは何故だろう。博士のお腹は今日も出ていて、ちょっと草臥れたスリッパを履いていて、一か所目立った解れのあるセーターを着ていた。
ありがとう。お礼を言って受け取れば、手のひらにかすかな振動が伝わる。時計が生きている音だ。この部屋の時計とも、秒針がぴたりと合っている。時刻はあと三十秒ほどで三時を迎えようとしていた。
彼がいないから、わたしにはこの時計みたく正確に時を計ることは、もうできないけれど。鼓動を二回数えて一秒。わたしの心臓は今、一秒よりもすこし短いくらいの間隔で一度の鼓動を打っている。じっくり、ゆっくり。一二へと迫っていく秒針を見つめながら、重ねようとして重ならないふたつに、耳と目を奪われていた。
爆発とともに、瞬く間に過ぎてしまった三十秒。同じ間隔であるはずなのに、それが今、こんなにも穏やかなのは。いいや、きっと、ずっと穏やかだった。あの一瞬が、あまりにも特別になってしまっただけだ。尊い出来事として、今も鮮明に。
歩美ちゃん、と記憶のなかで何度でも、彼がわたしを庇うから。文字盤を覆うプラスチックに、照れたように眉を下げる自分が映る。彼を思い出話にするにはまだ、胸がちくちくと、すこしだけ痛くなることを知った。
ピピ、と箱のなかから、聞き慣れたメロディが漏れる。
午後三時。ぱたぱたと羽をばたつかせた鳩が、まるでわたしを慰めるかのように、窓から顔を出してくれた。



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