あなた
久方ぶりに目にした白い凶器は手のひらに収まるほどちいさく、そしてあまりにも軽かった。
折り目によってやたらに山を作った、でこぼこの取扱説明書。こんな紙切れを読まなくとも、使い方はとうに知っていた。外観を眺めれば、想像することだって容易い。針を押し当てて、力を乗せた親指で押し込めば、一秒にも満たない速さで身体に穴を作ってくれる。シルバーボールを携えた穴を。
ひとりだと怖いのだ、と彼女は言った。そのくせ、耳朶にマーキングを施した彼女の表情には、恐怖なんて微塵も伺えない。揺らした足をソファにぱたぱたとぶつけて、どこか楽しんでいる気配さえする。つるりとなだらかな彼女の肩。その前には、中身を失くしたティーカップがあった。口に合っていたのなら、嬉しい。
「なんで志保姉は、ピアス開けようと思ったの」
ますます髪を短くした彼女は、以前にも増して少年の面影を濃くしていた。しかし顔や身体の輪郭や指先、それらが本来の性別を醸しており、青年ではなく少年じみているのは、きっとそのかみ合わないところに由来しているのだろう。このピアスはこれから、彼女をさらに女性たらしめるひとつの要素になるに違いなかった。
「すぐ取れて失くなるからよ。イヤリングは」
両耳にちいさな穴を開けたのは、夏ごろのことだ。お気に入りのイヤリングの片方をどこかに落として、腹いせのように薬局へ立ち寄ったのがきっかけだ。穴に通して、キャッチで留める。たったそれだけの違いで、飾りを紛失することはなくなった。
もっと早くそうしておけば良かったのだ。あのイヤリングたちは、今どこに居るのだろう。自販機の下で埃を被っているか。それとも車に轢かれて、粉々に砕けてしまっているか。不自然に空間を残したケースを見るたび、今もすこし悲しくなる。
もっとも、穴を開けたのは私ではないけれど。僕がやるんですか、と困惑を顔に浮かばせていた午前零時。勇気が出ずに、器具を手にしたまま鏡の前で何時間も立ち尽くしていたことを覚えている。
そうなのか、と彼女は眼に期待を輝かせて言う。すこしだけ厚みのある耳朶。痛みを伴うのは私ではないのに、手のひらには汗が滲んでいた。これから指に伝わるであろう、肉を破る感触。それを想像すると、指先がなおのこと冷える。
「あ、開けるとき言ってくれよ。心の準備するから」
「はいはい」
ピアスなんて開けたことないので、責任は取れませんよ。彼は言いながらも、その指で私の髪を丁寧に耳にかけてくれた。この黒い点に合わせればいいんですよね。耳朶に触れた指があたたかかったことも。焦れるくらいの時間をかけて、器具を押し込んでいったことも。いつになく真剣な眼をしていたことを。今度は私にその役が回ってくるとは、思ってもいなかった。
あまり意味のない行為であると分かっていながら、短い黒髪に指を沿わせて、耳にかけてやる。金色の針を、耳朶の黒い印に合わせた。平行になっているかを確認して、静かに息を吐く。
「叫ばないでね」
「え、うそ。そんな痛い?」
「人によるらしいけど」
「なんだ。まあ、平気平気。どーぞ」
眼を細くしながら、親指に力を込めていく。ひとおもいに押し込めばいいのに。じりじりと、彼の行動を真似るよう、徐々に白みを帯びる指先を見ていた。
やがてばちん、と音を立てて、発条の伸びきった器具が彼女の身体に新たな穴を開けた。うお、とちいさな驚嘆がそこに混ざる。衝撃や痛みよりも、器具が作動した音に反応したのだろう。耳元で大きな音がすれば、どんな人間だって反射的に肩を竦ませる。
「びっくりした。へー。すげー」
あんまり痛くないかも。銀色の埋まった耳朶を確かめるよう触れる彼女へ、私は持っていた手鏡を差し出す。唐突に衝撃を受けたそこは薄らと赤くなっているけれど、しばらくすれば元に戻るはずだ。ソファに散った透明なカプセルを拾う。
「それでいいなら、次は左ね」
「うん」
そうしてばちん、とふたたび器具を作動させたとき、慣れてしまったのか、それとも堪えたのか、彼女は声を上げなかった。器具を退かして、耳朶に張りついたカプセルを取って。ほんのちいさな銀色の飾りなのに、それはやはり彼女に女性としての色を付けてくれているように思えた。
傷を負ったその耳朶を、一度だけ撫でる。彼がそうしてくれたように。言葉もなく、白い石の飾りを埋めたそこを見つめていた、あのまなざし。
「志保姉、手冷たいなあ」
はやく痛みが取れますように、と。もしかすれば彼は、あのときそう思っていたのかもしれない。今の私がそうであるように。ああも温い手では、逆効果だ。そんなことに、今になって気が付く。
「あなたのせいよ。突然こんなこと頼むから。緊張したの」
「そんなに?そっか。ありがとう」
マーカーと、ただの塵になった凶器がふたつ。それらを集めて手のひらに乗せる。ついでに紅茶を淹れ直そう。飲むか、と問えば、彼女はもちろん、と特徴的な八重歯を見せながら笑った。それは私には決して真似できない表情だった。
「これが取れたら、一緒にちゃんとしたやつ買いに行こうよ」
「いつになるか分からないわよ」
「いつでもいいんだって。ね、お願い」
そして大げさに、彼女は顔の前で手を合わせてみせる。そういう仕草を繰り出せるところは、他の女性より余程かわいらしい一面を持っていると言えた。
これからの休日について、今の段階で正確には掴めておらず、迂闊に約束を交わすわけにもいかない。年間休日数は聞いているけれど、社会人、まして研究職ともなれば、作業の進行に左右されて暦通りに休めないことも多々あるだろう。
頼む、ではなく、お願い。そう言われてしまえば、邪険に扱うことも出来ないではないか。それは聡い彼女にはきっと、もう知れている。
まあ、いいけど。そう返すと、ティーカップを乗せたトレイを運ぶうしろで、やった、と声が弾んだ。
×××
志保姉、絶対にだまされてるよ。
頭上に気配を感じて、微睡に浸らせていた瞼を開ける。志保さん、とその気配は、知った声で私の名を呼んだ。白色が眩しい。受け入れるのを拒むように、右の指で瞼を擦った。ぼやける輪郭は、逆光に邪魔されてより不明瞭に映る。しかし玄関の扉を開けることができるのは、私ともうひとりだけだ。誰であるかは考えるまでもない。
どれくらい眠っていたのか。彼は両の眉をすこしだけ持ち上げて、どこか幼げな表情で私のことを見下ろしていた。たとえ顔のパーツが上下逆さまになろうと、その造形が損なわれることはない。薄青の眼が一度、瞼の奥に隠れた。だまされてるよ、とあの子が、頭のなかでまた訴える。
「寝るなら部屋に行ったほうが」
「いつ帰ってきたの」
「今です。ちょうど」
見れば壁の時計は、日をとうに跨いだ時刻を指していた。今日は、時間的に言えば昨日はそうだ、博士の家に行って、世良真純に会ったのだ。ピアスを開けてほしいとせがまれて。夕方には帰ってきた博士と三人で夕飯を食べた。別れ際に夜道の真ん中で、またメールするからと手を振っていた彼女。その耳には新たに、ちいさな銀の飾りを埋め込んで。開けるのなら、本当は薄い耳朶のほうが映えるのだ。そう。まさに、こんな。
薄茶の髪が落ちる耳。伸ばした指先で耳殻を撫で、やわらかな耳朶を親指と人さし指で弄ぶ。まさしくこんな、すこし幅のある薄い耳朶が良い。
「寝惚けてるんですか」
「耳の形まで綺麗なのね。あなたは」
「まで?」
「あら。ごめんなさい。寝惚けていたみたい」
やわく耳朶を揉むおのれの指先を、重なった彼の手が咎めるように掴む。子どもであろうと、大人であろうと。善良な市民であろうと、殺人犯であろうと。死体でない限り、耳朶というのは全人類に共通してやわらかく、適度に冷えていてさわり心地が良い。細かに立った産毛の感触が愛おしかった。
「貴方はいつも、手が冷たい」
「生まれつきなの。言ったでしょう」
彼は私の四本の指をひとまとめに掴んで、熱を寄越してくれていた。世の中にはようやく春が訪れたようだけれど、どれだけ寒くとも暑くとも、彼の手は変わらず、年中あたたかい。
その指摘を、もう何度受けてきたことか。いつか急激な伸縮を起こした身体が、正常を保っていられるわけがないのだ。調節を繰り返した指輪と同じだ。長い時間をかけて疲労を蓄積した円環がある日突然、何の前触れもなく壊れることがあるように。無理をさせれば、必ずどこかに綻びを生む。その多くは目には見えるものではない。
これは、その綻びのうちのひとつだった。恐らく、自律神経系のどこかをおかしくしているのだろう。視床下部そのものか、それとも内分泌系か。だから私はずっと冬のなかにいる。春が訪れたこの国で、取り残されたみたく私だけ冬が続いている。だからといって死に至るわけではないから、特別視もしていないのだが。私にとって致死以外はすべて些細だ。それは掠り傷なのだと、誰かが言った。まったくその通りだと思う。
「今日、あの子に会ったわ」
「あの子?」
「世良真純」
だまされてるよ、と言うあの子。降谷零のもとで暮らしているのだと打ち明けた一年前。彼女は苦虫を噛み潰したような顔をしたあとに、言ったのだ。志保姉、絶対にだまされてるよ、と。以来彼女の顔を見るたびに、その言葉を声ごと思い出す。揺さぶられた肩に食い込む両の手を。焦りを浮かべた大きな瞳を。
多分、とてもいい子なのだと思う。だから私は彼女に弱い。悪に一切の容赦がない彼女のあり方は、私の眼には眩しく映る。そして、好ましくも映る。
すると今度は、彼がその虫を噛んでしまったかのように眉を顰めた。互いの名前を聞くと、まるで同じ反応をしてくれる。存外あのふたりは息が合うのではないかと、私は思っているのだが。
「あのね、志保さん。僕はあまりあれに関わってほしくないよ」
「そう。でもいい子よ。綺麗になってたわ」
「いい子?まさか」
騙されてやるのも、きみの良いところ言いたいですけど。彼は言いつつ、ラグを敷いたフローリングに胡坐をかいた。着たままのデニム素材のジャケットが、室内ではやや窮屈に映る。落ちかけたブランケットからはみ出た足。膝を引き寄せて、冷たいぬくもりのなかへ仕舞い込む。
やはりふたりは、いがみ合っているのが勿体ないと思えるほど、思考が似通っているのだと思う。小学生が小競り合いしているさまを眺めているようだ。形は異なるものの私はふたりのことをそれぞれ特別に思っている故、あまり互いを悪く言わないでほしいと思っていたけれど。現状これはこれで面白いものがある。
「何を笑うんですか」
「あの子も同じこと言ってたわ。私はあなたに騙されてるって」
あの子の言葉が事実でも良かった。指先を包む彼のこの熱が、虚構であったとしても。その不快を隠さない表情が、演技であったとしても。
彼は、心を殺しきることができる。最初からそんなものが無かったかのように、そして、最初からそうであったように。殺したものに代えて、偽りの心を充てることができる。だから本当のところ彼が私を憎んでいたとしても、私はそれに気が付くことができない。恐ろしいことだ、と思う。
「好きに言ってろと、次に会ったときに伝えて下さい」
「関わってほしくないんじゃないの」
「僕に制限する権利はありませんから」
私の周囲はすこし、私に優しすぎるきらいがある。ひとつくらいひどい嘘が混ざっていないと、送ってきたこれまでの人生に釣り合いが取れない。身体の機能異常程度では、到底足りないのだ。だからと言って、彼に憎まれていたいわけではないけれど。
「ねえ、降谷さん」
薄青の眼から目を離すことなく、私は彼に呼びかけた。彼も私の眼を捉えたまま、何ですかと目尻をさげて、律儀に言葉を返してくれる。このやり取りに意味がなくとも、おのれの舌でその名をなぞることは、私にとって何よりも特別な意味を持つ。私は彼の名前を呼ぶのが好きだった。彼の名前が、好きだった。
騙されていても、いい。その代わり騙すのなら、永遠に騙していてほしい。永遠に、偽りのなかに閉じ込めていてほしい。
「今度、卒業式があるの」
「いつですか」
「再来週。博士と、あの子も来るって」
手の甲を、親指が滑っていく感触。手癖のように行き来するその仕草を、閉じかけた眼で眺めていた。あの子、とすこし強く出てしまったのは、ちょっとした悪戯心だ。反射のように彼は眉間を歪める。
「志保さん、面白がっているでしょう」
「そうね。わりと」
私は彼の手を掴んで、おのれの頬へと導いた。ひたりと押し当てたその親指が、皮膚を静かに撫でてくれる。だから私は冬のままでよかった。こうやって、彼が常に雪解けをもたらしてくれるのだから。
お願いですから、と切り出す彼の言葉に、瞼を持ち上げる。昼方も似たような台詞を聞いたような気がする。そう言われてしまうと、どうにも弱い。ふたりが口裏を合わせている可能性は、限りなく零に近いのだろうが。
「危ないことに関わらないで下さい」
「大丈夫よ。本当に何もないの」
彼はいまいち信用しきれないといったため息をついて、額をソファの縁に沈めた。色素の薄く細い髪が、束となって垂れる。それらをかき上げるようにして、私は彼の髪を混ぜた。指に絡む幾本もの金糸がやわらかくあたたかく、もう一度だけ、その奥に潜む耳を摘む。
あなたは今日、何処に行っていたのだろう。そして明日は、何処へ行くのだろう。
私は何も知らないけれど。この部屋に、この身体に、春をもたらすその温度を、私はいつも待っている。
おめでとうございます。卒業。
やがて彼は額に前髪を張りつけ、こちらへまなざしを向けて言った。祝辞を述べるにはあまり相応しくない、じっとりとした感情を含んだ眼。真に信用ならないのだろう。あの子も。私のことも。
ありがとう、と緩みかけた口の端を堪え、指先で流してやった前髪。額を晒したその顔は、やはりやたらに幼く見えた。