あなた



今年は例年よりも早く、桜の開花が見られるかもしれません。
液晶の向こう側にいるリポーターが高らかにそう告げたものだから、ボクはついその画面に目を向けた。水族館で行われるイルカショーだとか。デパートの屋上で開かれているヒーローショーだとか。そんな場所で耳にする演技じみた声色と笑顔を浮かべたリポーターは、身ぶり手ぶりもどこか忙しない。
三月上旬。日本には春が訪れようとしていた。いや、もう訪れているのか。長袖のカットソーにボアのベスト。それだけの服装で歩いた道のりは、ひどく心地の良いものだった。

「そういえば、志保姉。卒業おめでとう」

ここへ来るとき、袴に身を包んだ女子を見かけた。えんじ色の矢絣柄の小振袖と、濃紺の袴。ボクとすれ違うように駅へ向かって行ったから、きっと今日が卒業式なのだろう。はいからさんがなんとやら。ハーフアップにした髪をリボンでまとめた後姿は、そんな昔の漫画だかアニメだかを連想させた。タイトルと主人公の見た目くらいしか知らないけれど。
だから思い出したのだ。目前に座るこの人も、もうじきひとつの区切りを迎えるということを。

「卒業式は再来週よ」
「でも単位も取ってマスターの論文も出したんだろ。同じことだよ」

志保姉は音もなく、ティーカップに口を付けていた。ボクの目の前にも同じものが置かれている。志保姉が淹れてくれた紅茶だ。カップをあたためて、茶葉を蒸らして。ボクの粗雑なやり方とはまったく異なり、この紅茶にはそういった手間が掛けられているのだろう。故にしっかりと香りが付いていて美味しい。普段ボクが淹れる紅茶なんて、ティーバッグに直接お湯をぶつけただけの赤茶色の汁でしかない。
この公園には、千本の桜の木が植えられているんです。リポーターの声に混ざって、カップとソーサーが控えめにぶつかる音が響く。

「何?にやにやして」
「んー。別に。ていうか、ピアス開けたんだね」

いいな、と言うと、促されるかのように、志保姉はその白く細い指でおのれの耳にさがる飾りに触れた。きらきらと揺れ、輝く金色。不揃いに振れるそれらから、涼しげな音が聞こえてくるように錯覚してしまう。そう思うのは外観がなんとなく、あれに似ているせいに違いなかった。ほら、なんだっけ。長細い金属がいくつも垂れ下がったあの楽器。そしてボクが引き出す例えには、いつもセンスが欠けている。
にやにやして。そんな顔をしていただろうか。意図的に歪めた口の端を、右手で抑える。いいな、っていうか、前に会ったときから知っていたけど。もっと言えばボクの鞄には、未開封のピアッサーがふたつ入っていた。ここへ来る途中に思いついて、薬局で購入したのだ。今日、志保姉に開けてもらおうと思って。ひとりで身体に穴を開ける作業を行うのは、すこし怖い。

「あなたもすればいいでしょう」
「ひとりでやるのって、なんか怖いだろ。志保姉は自分でやった?」

そう。だって自分でやると穴が曲がってしまうかもしれないし。位置が左右で対称にならないかもしれないし。そういう言い訳をいくつか用意して、ボクは今ここに座っている。この家の主である博士という人は、すこし前に町内会の寄合へ行くと言って出かけてしまった。この広い空間にはボクと志保姉しかいない。あとは勝手に話し続けるテレビが一台。

「人に頼んだわ」
「へえ。蘭くんか、園子くん?」

あのふたりのどちらかと言われれば。ボクの頭に、ピースの形を取った人さし指と中指を開閉する園子くんが現れる。いえーい、と律儀に声までつけて。なるほど。彼女は流行に敏感だから。ひとり納得しかけていたボクの前で、志保姉はふたたび伏し目がちに金色の飾りを撫でる。
よく知っているその表情。そのまなざし。今彼女の脳裏に誰が浮かんでいるのか、ボクにはすぐに分かった。
ふーん、と呟きを鼻の奥で鳴らす。ちょっとだけ面白くない。志保姉のうすい耳朶に指をかけて、石を飾り付けたそいつ。思い浮かんだそのさまに、舌打ちのひとつでも零したくなる。

「まだあの男のところに居るんだ」

お茶請けに置かれていた皿から、クッキーの包みを取った。びり、と破ったなかから出てきたラングドシャを齧る。ほろりと容易く割れて、欠片がくちびるに付いた。

「居るけど」
「あんな男のどこがいいんだかなあ」

ボクには家族がいた。ママと、尊敬している秀兄と、つい頼りにしてしまうキチ兄。志保姉は従妹だけれど、彼女も含めて、ボクは家族のことが大好きだった。だからだ。だから、あの男のことは好きになれない。安室透。いや、フルヤという名前の、いけ好かない男だ。
秀兄とそいつのあいだに何があったかは知らないけれど、自分の好きなものに敵意を向ける存在を許せる奴なんて稀有だろう。ボクに向けるあのさげすんだようなまなざしも好きじゃない。初めて言葉を交わした日からずっと。
ボクって意外に単純な性格なのかも。思いながら、不格好な三日月形になったラングドシャを口に放り込む。
ボクが「あんな男」呼ばわりをしたというのに、志保姉は何も言わない。膝に頬杖をついてテレビを見ながらも、その穏やかな顔を崩さない。
顔の輪郭に掛かる指。ゆるく巻かれた後れ毛。どこか憂いを乗せた瞼。緑がかった茶色の瞳に、窓から入る光が映っていた。うつくしい横顔だ、と思う。彼女と同じ血がボクにも僅かに流れているという事実が、まるで嘘のように。

「どうせあの男、卒業式にも来ないんだろ」
「来るわけないじゃない。教えてないもの」
「なんだ。教えてやればいいのに」
「あなた、言ってることが滅茶苦茶よ」

会うたびに、はかなさだけを増していくひと。そして彼女をそうさせているのは他でもない、あの男なのだろう。これは推測ではなく、ただの揺るぎない事実だ。
志保姉とあの男に何があったのかも、ボクはよく知らない。分かるのは、ふたりのあいだにはボクが入り込むことのできない世界があるということだけだ。ボクだけじゃない。きっと志保姉を娘のように思っている博士だって、ボクと同い年の名探偵だって、秀兄だって。ふたりを繋ぐ世界を理解することはできない。
卒業式にも来ないのに。しかし志保姉にとってそれは、ほんの些細なことなのだろう。当事者ではないボクの方が気に掛けていて、まったく馬鹿らしい。

「卒業式って、やっぱり袴?」
「まあ、そうね。写真あるけど」

そう言って、志保姉はテーブルの上に置いていたスマートフォンを操作し始めた。指を数回タップさせて、画面をスクロールさせるような動き。それからあった、と声を上げるのに十秒とかからなかった。
差し出されたスマートフォンには、私服の上から小振袖と袴を簡易的に身につけた彼女と、背後の鏡にスマートフォンを構える誰かの姿が反射して映っていた。大学院の友達だろうか。紅を基調とした小振袖が色白な志保姉によく映えている。細く長い首が際立っているおかげか、まるでひとを精巧に真似て作られた人形のように見えて仕方がない。店内の白色蛍光灯の下でだって、志保姉は変わらずに綺麗だった。
ざまあみろ、安室透。じゃなくてフルヤなんとか。お前は志保姉が着飾るその日を、あると分かっていながら見逃すのだから。

「ボク、行こうかな。卒業式」
「博士が来るから、あなたはいいの」
「ええ、だって写真撮りたい。この志保姉と」

ちいさな液晶に釘付けになっているボクの前で、志保姉はゆるやかに足を組んだ。アンクルパンツから覗く華奢なくるぶしが、一瞬ボクの前に露わになる。ボクにだってくるぶしはあるけれど、こうも目を惹く振る舞いの一部にはならない。

「しかもあなた、そんな暇ないでしょう」
「だってボク、自由業だし。月末までこっちにいるしな」

逆に時間が余って困っているのだと、笑いながら彼女にスマートフォンを返した。その折に触れた指先がひやりと冷たくて。本当に、まるで人形のような人だと思いながら、ボクも同じように足を組む。その拍子に爪先に引っかけたスリッパが床に落ちた。ふうん、と志保姉はティーカップに指を掛ける。

「何よ。さっきから、にやにやして」
「だってさあ」

最近は、日帰りで無人島に行くのが流行っているみたいですね。テレビのなかのコメンテーターたちが大層気になる話題を扱っているけれど。それよりも、ボクには彼女がティーカップからくちびるを離すまでを眺める方が大事だった。

「志保姉、本当に綺麗だなあって」

ボクのこの厄介な癖毛は、志保姉が美しくなるための犠牲なのだとしたら。やたらに割れやすい爪は、彼女の一挙手一投足を映えさせるための生贄なのだとしたら。それさえ納得してしまえるくらいには、ボクはこの宮野志保という存在に魅かれていた。懐いている、と言えば、それも正しいのだと思う。
大きなガラスケースに飾られた、ほんのひとしずくの宝石。実のところボクの癖毛も爪も、まったく関係ないことくらい分かっていた。あの男だ。彼女を自分以外の手の届かないところへ攫ってしまったのは、あの男なのだから。だからボクはひとり密かに、いじけた子供みたくぎりぎりと奥歯を軋ませる。

「何か欲しいものでもあるの」
「うわ。何で分かったんだよ。いや、でも違うって。本心だし」

けれど、ボクは志保姉のことが大好きだから。大好きな人が愛してしまっている人間のことを、心底疎ましく思うこともできない。何故ならそいつは、彼女に安寧をもたらす存在であるからだ。フルヤと名付けられた彼女の安寧を、どうして否定することができる。志保姉の幸福を心から願っているボクに、その存在をどうして嫌ってしまうことができる。
訝しげな視線を浴びつつ、ボクはとなりに放ったままのボディバッグに手を入れた。家の鍵とスマートフォンと、ぺたぺたの財布。通常それくらいしか持ち歩かないものだから、イレギュラーに詰め込んだあるふたつを手探りで掴むのに、時間はかからなかった。
じゃーん、と掲げた未開封のそれたち。シンプルなシルバーボールのファーストピアス。ちょっと鋭い針が付いていて、一種の拷問器具のようにも見える白。耳朶に穴を開けるのだから、ある種そう捉えても間違いではないのかもしれない。志保姉は両の眼をすこしだけ開かせて、そのふたつを見ていた。

「私に開けろって言いたいの」
「頼むよ。ひとりだとなんか怖いんだって」

そしてボクの手から抜き取ったひとつを、まじまじと眺める。裏返したそこにあるちいさな文字の並びを、目で追いかけていた。

「失敗しても責任とれないわよ」
「いいってば。急に頼んだのボクだし」

呆れたように一度ため息を吐くのは、了承と同義であるボクは思っている。志保姉、と初めて彼女を呼んだときも。この家の地下室に篭りきりだった志保姉を、少々強引に買い物へ誘ったときも。同じように今日も、彼女はやや伏せた眼とともに息を吐く。だからそれを合図に、ボクはやった、とパッケージの封を遠慮なく破った。ちいさくちいさく折り畳まれた取扱説明書を、こじ開けるようにして広げる。

「あとで卒業式の場所と時間、教えてよ」
「博士に聞いてちょうだい」

一度ソファから立ち上がった志保姉は、油性ペンを手にテーブルへと戻ってきた。彼女が腰掛けられるように、ソファの端へ寄りスペースをつくる。幸福の滲むそのまなじり。恋だとか、愛だとか。それって、そんなに良いものなのかと思いながら、折り目まみれの説明書に目を通す彼女を見ていた。
金色のピアスが、受けた光で僕の眼を刺しにくる。志保を面倒に巻き込むな、とあの男の声が聞こえるような気がした。



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