そのぬくもりに名前はあるか



小学生の時、同じクラスにレイって名前の女の子がいたんです。

彼は、声をひそめてそう言った。静まり返ったこの夜から、隠れるみたく落とされたその声色は、懐かしく私の鼓膜を揺らす。ほんの二か月とすこし。懐かしいという言葉を使うにはせっかちだけれど、そこにはおのれの内心を多く含ませてある。私は彼の鼓動を、この耳で一日でも早く確かめたかったのだ。

「あなたと同じ名前ね」
「そう。だからからかわれたんですよ。男なのに女と同じ名前なんて変だ、って」

彼が息を吸うたびに、布一枚の奥にある胸が、すこし膨らむ。それが私の頬と重なっては、すぐに離れて体温が遠くなっていく。何十回。何百回。今宵は既に何度繰り返しただろう。さらにその奥で、彼の心臓が今日も確かに動いている気配がする。
降谷零という名前のうつくしさについて。ベッドに横たえしばらくしたのち、私は現在その名を冠している本人に向かって語ったのだった。あなたの名前って、綺麗ね、と。しかし本人からの返事は予想していたものと大きく異なっていた。僕、昔は自分の名前が嫌いだったんです。ありがとうございます、と笑みを携えながら言う姿を想像していた私は、思わずその理由を尋ねざるを得なかった。

「小学生からすれば、そうね。からかいの対象になりやすいのかもね」
「まあ、僕の場合は髪色とか目の色とか。他にも色々あったんですけど」
 
「零(ぜろ)」と「零れる」というふたつは、同じ文字を書くということに気が付いたのは、夏に入る前のことだ。ごく当たり前な物事ほど、実は意外な発見が隠されている。全く関連のないように見えるこれらが、どうして同じ文字を用いて表されているのか。調べればその理由は単純だった。零れれば、無くなるから。すなわち、零になるから。なるほど、と納得すると同時に、言葉に隠された遊び心と、それの持つ印象のちぐはぐなさまが、ひどくうつくしいもののように思えてならなかった。
零れ流れていくものの瑞々しさ。三つ目の、彼の名の読みであるふた文字は清潔を纏って並んでおり、それを冠した男は文字の持つ儚さを失わせることなく、しかし毅然なものに昇華させている。まるで空高くに瞬く星たちを連想させた。暗闇のなかでも輝きを、そのいのちの所在を束の間に叫び続ける星。

「それで、あなたはなんて言ったの」
「何も言いませんよ。喧嘩するだけです」

淡々としたその口調に、私はつい口の端を持ち上げた。彼は昔、もしかすれば随分と腕白な子供だったのではないか。頬や膝に絆創膏を貼り、瘡蓋をいつもどこかにこさえているような。自身だけではなく、ランドセルの表面も傷だらけにしているような。
重ねた手の指先に触れる。日中見た通り、そこにはまだ何かを隠した絆創膏が貼り付いていた。

「ねえ」
「はい」
「これ、どうしたの」

言いながら、その絆創膏のついた指先をおのれの人さし指と親指で摘む。ああ、これですか、と彼は私の手を慰めるように包んでくれた。

「鯵ですよ。ぜんごがあるでしょう。皮を剥くときにそれで切ったんです」

気に留めていたのがまるで無意味だったと言いたくなるほどに、それは些細な要因だった。傷をつけたのは、彼以外のものであったけれど。私が思うより、彼はずっと普通の人間と変わらぬ暮らしをしているのかもしれない。包丁で手を切ることもあれば、ソファで寝落ちてしまうこともある。私が知らないだけだ。私が見ていないところで、それらはきっと起きている。何であれ物事を悪いように捉えてしまうのは、おのれの悪い癖であると言えた。
何の話をしてましたっけ。ああ、なんだか。その言葉がやや眠気を帯びているように聞こえる。今日は特別大きな運動をこなしたわけではないけれど。ひどく疲れていたのだろう。今までも。今日くらい、早く眠ってしまえばよかったのに。

「あなたが喧嘩ばかりしてたって話よ」
「いや。ああ、そうだ。それで。それでね、僕には幼馴染がいたんですけど」

彼はその大きな手を、私の頭に添えた。指で髪をゆるくかき分けて、その形を確かめるように触れる。まるで皮膚の下に隠した骨のかたちまで暴かれてしまいそうで、背中が落ち着かない。初めての感触だった。彼が頭に触れるのは。なおのこと、その胸に頬を寄せる。掴んでいた部屋着のシャツを深く握り込んだ。

「自分の名前が好きじゃないって言ったら、彼があだ名をくれて」
「あだ名?」
「はい。読み方を変えて、ゼロって」

れい。ゼロ。存在しない存在。どちらにしても、その名は彼の生き様をこれ以上ないほどに表しているように思えた。ゼロ、と舌の上で転がすみたくその名を呼ぶ。そうするほどに、無きものとするはずの彼の存在を呼び起こしてしまうようで。やはり、彼の名前は口にすべきではないのだ。うつくしく思うものを声に出せないことが、こんなにも惜しい。

「そう。日本の戦闘機と同じ名前でかっこいいだろ、なんて」

そしたら悩んでたのがなんか、馬鹿らしくなって。
彼も小学生の頃は、どこにでもいる年相応の子どもだったのだろう。かっこいいと囃されれば、無条件に気分を高揚させるところなんて。今の彼からは、ちょっと想像がつかないけれど。
彼とお姉ちゃんは、幼馴染だったと聞いた。それならお姉ちゃんは、彼の幼馴染とも親しくしていたのだろうか。その性格故にお姉ちゃんには友人が多かった。私とは対照的に。

「その幼馴染の人とは」

髪というのは不思議で、ほんの先端を捩っただけでも、触れられたということが分かってしまう。猫はきっと、いつもこんな気持ちなのだろうと思う。頭を撫でられながら細まる眼(まなこ)が、やがて閉じて眠りへと落ちていくあの姿。

「今でもちゃんと、仲良くできてる?」

私はその時、過去に付き合いのあったちいさな友人たちのことを思い出していた。他者に聞いておいて、自分自身がそうであるかと問われれば、答えは否である。別れを告げた日から、一度も姿を見ていない。博士の家には、時折訪れているけれど。博士は知らぬ間にしっかりとした料理が出来るようになっていて、髪の量がやや減っていて、そして最近はすこし痩せたように思う。
彼らは確か、小学校の高学年に上がったはずだ。あの頃から一体、どのような成長を遂げたのだろう。身長がうんと伸びただろうか。難しい言葉を覚えて、大人びた会話をするようになっただろうか。嫌いなものを食べられるようになっただろうか。
髪に絡んだまま静止した指。まるで眠りに落ちてしまったかのような身体。もう片方の手をそっと掴めば、その手は一度ぴくりと震えた。

「仲良く、そうですね。今は会えないので、分かりません」
「どうして」
「随分遠いところに行ってしまったから」

それはとろとろと、夢のなかに溶けてしまいそうな声をしていた。遠いところ。比喩なのかもしれないし、その人は物理的に本当に遠いところに居るのかもしれない。眠りに誘われている彼を現に引き戻してまで、問いたいことではなかった。
見上げた先。半分落ちた瞼に隠された眼。闇と同化して、薄青はその透き通るさまを潜めていた。

「眠いんでしょう」
「眠くないです」
「うそ。明日も誘われてあげるから、早く寝なさい」

言えば、その胸板が揺れた。ふ、と彼が薄く笑ったのだ。優しいな、志保さんは。やさしくなんてないと、今日も思ったばかりなのに。彼の鼓動も手も、声色も。その方が余程やさしい。目前の身体に額を寄せる。
明日、彼がこの部屋に帰ってくる保証なんて、どこにもない。明日も誘われてあげる、だなんて。夜に紛れて迂闊に口を滑らせてしまったことに気付く。彼が寝息を立てはじめたような気配は、まだない。

「あのね、志保さん」

すこしの沈黙のあと、彼はふたたび口を開いた。今にも切れてしまいそうな糸のように。張って張って、言葉を零すごとに、その細やかな繊維がひとつひとつ途切れていく。眠るよう促したのは私だけれど、今日はまだその声を聞いていたい。まだ彼という人間を、感じていたかった。

「僕、貴方の名前も好きですよ。志を保つ、って」

文字のままだけどね。志を保つ。お父さんとお母さんの願いを込めたの。そういう人間に育ってほしいって。
それは二十歳の、最後のカセットテープだった。最後のひとつの、最後の言葉だった。その時初めて知ったおのれの名の由来を、それを語ったお母さんの声を、ずっと覚えている。誕生日が来るたびに。そうでない日だって、何度も繰り返し聞いた言葉を、だから覚えている。
時折聞き返すカセットテープの束のなかに今、お母さんは生きていた。磁気テープに焼かれた声。すべてに平穏を与えるような声色は、これまでのおのれの人生の端々で手を貸してくれた。
私は両親が望んだような生き方ができているだろうか。自信なんて、ちっともないけれど。志なんて大仰なものを、掲げて歩いているなんて言えないけれど。
私は、私の幸福のありかを知っている。それを守りたいと思う。もうすこし先の未来で、そうできる人間になりたい。私の生きる理由はそれでいい。それ以外にはないのだと、今日になってようやく気付くことができた。

「そう。ありがとう」
「はい。僕に一番必要な名前だと、思うんです」

身体はただ、一定の間隔で呼吸だけを繰り返す。じゃあ、おやすみなさい。また明日。掠れた声で彼は呟く。おやすみなさい、と返したおのれの声に、返事はなかった。ああ、明日があるのか。思いながらその手を握る。余程堪えていたのだろう。すこしするとかすかな、かすかな寝息が聞こえてきた。
明日、もし彼が言葉通りにこの部屋へ戻ってきたら。今日のような夜を過ごすことができたら。カセットテープのことを、彼に話してみようと思う。最後に聞いた日からあまり経っていないけれど、私もまた、お母さんの声を聞きたいと思った。
シャツ越しに、彼の胸へくちびるをそっと押し付ける。
その奥で、私の幸福のありかが揺れていた。



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