そのぬくもりに名前はあるか
立ち上がったのは、これ以上傷つきたくなかったからだ。のろのろと、まるで陽炎のように。この場から離れて頭を冷やさなければ、きっと彼のことだってもっと傷付けてしまうと思ったからだ。
急な血圧の変動で視界が眩む。よろけないように間を待って、眼を歪めながらやり過ごした。痺れる足に、血液が正しく巡り始める。
すべて暑いのが悪い。夏が殊更に嫌いになりそうだった。
「ごめんなさい。全部忘れて。冗談だから」
段差に置いたおのれの荷物と、花の入った紙袋を掴む。黒色のリュックはすっかり熱を吸っていて熱い。たいした物も入っていないそれを背負う気にはなれなくて。持ち手を掴んで、段差を下りる。やや痺れの残る足が笑っていた。視界がざらついているのは、立ち眩んでいたせいに違いなかった。唇の内側を噛む。痛くて、自棄に食い千切ることも出来ない。ここに来なければよかったと、思いたくなかった。
「志保さん!」
なんだか、安っぽいドラマみたいね。早歩きで歩く女を追いかけた男が、離さないとばかりに女の腕を掴むのだ。正しく、今のように。引かれたはずみで、私は紙袋を放す。石ころの上に倒れたそれを、彼は私の手首を掴みながら、空いた方の手で拾い上げた。その拍子に、被っていた帽子が逆さまに落ちる。
陽の下に晒された青。いっそ取り出して、光に透かしてみたいとさえ思う眼。
忘れません。彼は掴んだ帽子を深々と被りなおして、その瞳を隠す。
「忘れたら、それも全部僕の後悔になる。だから嫌なんです」
おのれの片方の眼からふたたび零れそうになる涙を堪えずに、彼に見せることができたら。こんなに簡単なことはないのに。夏に苦しむ生命たちの喘ぎをただ、立ち尽くして聞くことしかできない。
受け止めきれない深い悲しみがある。反対に、溢れるほどの喜びもある。人が涙を流す理由にはもうひとつ、身に余る悔しさがあることを知った。
もとより浅黒い皮膚を纏った彼の腕が、私の白い手首を掴んでいる。強い光のなかに立つと、その差が一層際立って見えた。何故、私なのだろう。彼は何故、人生の最後に浮かべるものに、私を選んだのだろう。
からからに乾いた口内。一度口を付けただけのペットボトルの質量が、やたらに重く左腕にかかる。その拘束を解こうと、すこしだけ力を込めて腕を引いた。抜け出す気なんてさらさらなかったけれど。繋がる腕と腕が、ふたりのあいだでちいさく揺れる。身体のうちで血液が忙しく巡っているのが分かった。伴って早まる鼓動を鎮めようと、息をひとつ吐く。
「降谷さん」
「はい」
「どうして私なの」
巻きつくその手指は大きくて長くて、容易におのれの手首をひと回りしてしまう。右手の、中指。そういえば、絆創膏を貼っている理由を知らないままだ。
彼の名を模ってしまったくちびるを結ぶ。やわらかなそこに歯が食い込んだ。
「貴方が心配だからに決まってる」
まるでそう答えることを決めていたかのように、彼ははっきりとそう言い切ってみせた。決まってる。誰が決めてほしいなんて言ったのよ、そんな勝手なことを。あなたは私に、心配さえさせてはくれないのにね。
「だったら、」
その声に、思わず力が篭る。だったら。掴んだリュックの持ち手を、殊更に握り締めた。だったら。だったら。
「志保さん、聞いて」
ひとりにしたくない。そう言いながら、例え話のなかで、仮定のなかで。彼はどうして、私をひとりぼっちにさせるのか。
その手に込められた力は、その強さの分だけ、まるで逃すまいと言っているように思えた。決して逃げたりなんてしないのに。そういえば、彼も私を信用していないのだった。お互いさまだと心のなかでひとり笑う。
「僕だって、ずっと貴方を見ていられるならそうしたいですよ」
キャップに遮られたその下。美しい色の眼が今は、どんな形をとっているのだろうか。追いつめられたように歪んでいるのか。ただ敷き詰められた石を見ているのか。それともただ真っ直ぐ、つば越しに私のことを見ているのか。
「でも絶対だなんて約束が、僕に出来るわけがない。言った通り、僕は勝手な人間です。そんなの自分が一番よく分かってる。今だけじゃ駄目なことだって」
それは静かな叫びのようだった。苦痛をはらんだ心の内を今、私は正面から受けている。初めてのことだった。彼がすこしだけ声を荒げているのも。私のことを、直に見ようともしないことも。私の言葉の一切を、待とうとしないところも。
「いつか言いましたね。貴方がそれを望むなら、残された抜け殻だって喜ぶって」
ひそめる必要もないのに、低く柔く、耳元へ落ちる夜の声。今の彼の声色とは、まるで正反対のところにあるそれ。おやすみなさい、とその声は記憶のなかで囁くものだから、私はつい、左の耳を抑えた。手放したリュックはとさり、と重力に従い落ちてへたる。耳朶からさがるピアスが、手の甲に触れた。
「そんなのは嘘だ。喜べるわけがないじゃないですか」
だって、僕は。
今にも消え入りそうなちいさな声。聞き逃さぬように、呼吸さえ止めて。たった今吸い込んだ熱気が、拍動を急かす。どくどくと、耳の裏側がやかましくなった。
傷つけまいとしているのに、どうしたって、彼の穴だらけの体に爪を立てることをやめられない。彼の言葉に手放しで喜んでしまえるような、単純な女なら良かったのに。沢山の彼にぶつけたい言葉が浮かんでは、そのひとつひとつが頭から抜け落ちていく。飽きるほどの夏の気配。それらが、生まれた沈黙を埋めてくれていた。
おのれを責め立てるように、吐露された言葉たちは頭のなかに響き続ける。彼もまた、彼自身が言うようなただの自分勝手な男であれば良かったのに。そうしたらこの手を無理矢理にでも振りほどいて、ここから立ち去ることができたのに。それが出来ないのは、彼があまりにも愚かだからだ。我儘になりきれず、後悔なんて言葉を借りなければ、自分の内面さえさらけ出すことが出来ない臆病な人間だったからだ。
なんて愚かで、なんていたわしいのだろう。彼をこんな風にしてしまったのは、私に違いなかった。爪は鋭く研げば、引かずとも立てるだけで傷を残せる。既に私は、今日も彼に傷を負わせていたのだ。
頭を垂れ続ける彼はまるで、母親にしかられたあとの子供のように、ひどくちいさな存在に見えた。
「ごめんなさい」
口を突いたのは、予てから告げなければならないと思っていた言葉だった。
「どうして謝るんですか」
キャップのつばに貼られた丸い銀のシール。ホログラム様のそれが角度によって煌めき、色を変える。
「あなたにちゃんと謝ったこと、なかったから」
泣きたくなるほど、心地の良い夜のぬくもり。繋いだ手に、消えない熱が宿る歓び。合わさる歩幅のあたたかさ。自分勝手と呼ぶには、彼はあまりに優しい。優しくて、臆病で。そんな彼を責めようとする言葉の一切なんて、もう手放すより他はなかった。
だったら、と。代わりに先ほど述べようとしていた言葉が、頭を過る。同時に彼にはひとつ、私に返すべき借りがあることも。
浮かんだのは、約束なんて偽物の言葉を纏った呪いだ。最初から頷くしか選択肢のない呪いだった。これが魔法なんて、可愛いものであればよかったのに。どうあっても私は、彼を癒す魔法つかいにはなれないと知る。
こんなにもつりあいの取れない貸借があるのだろうか。そう思って躊躇うくちびるを、沈黙がそそのかしてくれる。これは、私のためか。彼のためか。どちらのためのものなのだろう。どちらのためでもあるのだと。躊躇いを踏みつけるのに、すこしかかった。
ねえ、と呼びかける。返事を聞かないまま、言葉を続けた。
「思い付いたら、いつでも言っていいのよね」
「貸しの話ですか」
「そうよ」
「はい。僕にできることなら」
好きなブランドから新しく販売された、皮のリュックが欲しかった。ブランドの意匠を施した大きなミラープレートのついたそれが、今一番気になっていると言っていい。あとは、テレビ番組を録画できる機器も欲しい。机に積んだ本を収納できる、大きな本棚も。そういえば、一昨日通販サイトで見た、変わった踵をした靴もお気に入りに登録したばかりだった。
貴方は自分を我儘な男だと言った。しかし本当に我儘なのは、ひどいのは。
黒い布一枚の奥に隠した、瞳を射抜く。
「じゃあ、約束して。あなたが死ぬときは必ず、私のことも連れて行くって」
そして、ようやく覗いた彼の眼が揺れる。虚を突かれたという顔を隠すこともしない。初めて見た。彼のこんな表情を。この顔を、私は生涯忘れることはない。明日以降、二度とこんな表情はさせまいと誓う。堪えていた涙はとうに乾いて、鮮明な視界の中心で薄いくちびるを閉じた彼を捉え続ける。
「嫌だ、と言ったら」
「聞くわけがないじゃない。貸しでいいなんて、簡単に言った自分を恨むことね」
掴まれた手首。その先に繋がる、行き場を失くしたおのれの手を握る。拒否権を奪った約束こそが、本当の我儘なのだと思う。その見返りはもっと、もっと平和なものに換えたかった。時折作ってくれる夕飯に、デザートをつけてくれるだけで良かった。眠る前にいつもより長く背中を撫でて、私の家族の話をしてくれるだけで良かった。毎日の服装を、もうすこし具体的に褒めてくれるだけで良かった。力を込めれば、皮膚に伸びた爪が刺さる。けれどこうでもしないと、あなたはきっと頷いてはくれない。彼よりもずっと、私の方がひどい人間だった。
彼の手に、殊更力が篭る。どくどくと打つおのれの脈を感じ取れるほど、その手は私の手首を締め付けた。
「僕は貴方に生きてほしい。極力幸せに。それは僕自身の傍から離れたところで、という意味です。僕に関わっていたら、貴方は幸せになんかなれない」
「私の抜け殻は嫌なんでしょう」
「嫌ですよ。だけど貴方が幸せになる方が、僕にとっては大切なんです」
だから。どうして、僕なんて選ぼうとするんだ。
幸せ、と彼は言う。私の幸せとは何だろう。深く考えたこともなかった。素直になるのと同じくらいに、私には縁のないものと思っていたからだ。
私はまだ生きていて、今日と同じような明日が来ることを疑わない。ずっと遠い未来、このいのちが尽きるその瞬間、その日々たちのことを想うのなら、それが私の幸福だったのだと言えるのではないのか。
どうして。そうだ、私は彼から貰った最初の問いに、まだ答えていなかった。
もし明日、生死の境を彷徨うことがあったとして。その瞬間、何を一番に後悔するか。
「だって私も、あなたのことを考えるから」
その瞬間に、あなたが心残りだと思うもの。
私と彼は、幾らか似ているところがあるように思う。あまり幸福とは呼べないところで。わたしはそれでいいけれど、彼にはもうちょっとだけ、幸福を与えられてもいいのではないかと思う。それなら彼の幸福とは、何だろう。彼の幸福とは、何処にあるのだろうか。
彼は、その場にずるずるとしゃがみ込んだ。手首を引いたまま。つられて、私もすこしだけ屈む。ろくに筋肉の付いていない腿が、すぐに悲鳴を上げそうな気配を感じて、やはり同様にしゃがみ込んだ。腕に額を押し付けて、彼はその表情を隠す。キャップのつばがずれて、そのまま敷石の上に落ちた。
「馬鹿ですよ、志保さんは。僕の傍に居て良かったなんて思ったこと、ないくせに」
摘んだキャップは、色故に熱を溜め込んでいてぬるい。晒された金糸の上にそれを被せ直した。大きな身体はかすかに震えて、すぐに大人しくなる。
「あなたは、あるの」
「ありますよ。貴方の声を貴方の口から聞いた日から、ずっとそう思ってる」
「随分病的ね」
「何とでも言って下さい。僕は、今の志保さん自身に聞いているんです」
例えばひとりで眠っているとき。ひとりで道を歩いているとき。彼のことを思い出す。彼が与えてくれるぬくもりの数々を、ふとした時に思い出すのだ。その存在を覚えてしまった私に、どうしてそんなことが言えたのか。どうしていつか失う未来を思わせようとするのか。どうしてそんな、残酷な真似をさせるのか。
「そうね。美味しい料理が食べられることって、幸せの大半を占めると思うけど」
幸せになりたいと、口々に人は語る。人の数だけ幸せの違いがあって、だから彼と私が考えるそれの形は、きっと随分異なるのだと思う。私はサボテンに花が付いたことさえ幸福の一種だと捉えるし、彼にとっては台所のシンクの下に圧力鍋を発見したことの方を、ちいさな幸福と思うのかもしれない。どうでもいいことが互いの幸福で、どうでもいいことこそが幸福だ、と。昔、誰かが言っていたような気がする。
キャップに施された刺繍の端を、指先で縫う。どれだけ暑くとも。呼吸さえ苦しい熱のなかでも。この行為さえ私は、私の幸福のひとつと呼ぶ。
「結果がどうでも、私は多分、」
あなたの傍にいることが、あなたの言うそれになるんだと思うわ。
この暑さに、焼き切れてしまいたい。未だ手首に張りつく彼の右手の指を、ひとつひとつ除けて剥がした。関節ひとつぶんほどの差がある手のひらを、おのれの右手と合わせて握り込む。力を無くした浅黒い手はされるがまま、握り返すことをしない。
彼の友人達。死神。望みを伝える相手はそこではなくて。もうずっと、目の前に居たのに。
「ね、お願いよ。私をひとりにしないで」
垂れたままの頭を、黒くてやや硬い布越しに撫でた。震えも揺れもしない肩が、呼吸に伴ってうすく上下している。目立った反応を得られずに、まるで石にでも向かって話しかけているようだと思ってしまう。だからぼんやりと、私は石になってしまった彼が顔を上げてくれるのを待っていた。
幾本もの電線が揺れている、向こうの空。絡まっているようにも見えるそれを、視線のなかで解いていく。一本、二本。見落として、もう一本。重なった影からもう一本。この線が繋がる先。その分だけ、人の営みがある。たった今見上げている上空には黒い五線譜も、コンクリートの円柱も見当たらない。ここ生者は住んでいないからだ。
そういえば以前、石ころと人間に関するひとつの話を読んだことがある。とても大切な人が、言葉も交わせぬちいさな石ころに変わってしまったとして、それを愛することが出来るかという記述が印象に残っている本だった。
外見に面影が無くなってしまったとしても。石になったその人をなおも想えるのなら、それがその人の思考と意思を心から愛している証明になる。そんな残酷でありながらも美しい物事の計り方を、目前の彼を眺めながら考える。
愛するだとか、想うだとか。その言葉はよく分からないけれど。でも出来れば、彼とはまだ、言葉を交わしていたい。だから石に変わってしまったら困る、というのが、その記述に対する今の私の答えだ。そういった物事の見方を美しく思える反面、私は非科学的なことに関しての想像力が足りていない。いつも、そこに願望を含めすぎてしまう。面白味を欠いたおのれの答えは、そのものさしをより美しくしてみせた。理解の及ばないものはいつだって、高尚に思えてならない。
やがて大きく息を吐いてから、彼は沈めていた顔を静かに上げる。いっとうに存在を放つ薄青の瞳。てっきり濡れているものだと思っていたのに。思いもよらぬ力強い視線を真っ直ぐに受けて、私はつい目を瞠る。
「泣いてるのかと思った」
「泣くわけないじゃないですか」
覚悟を決めていたんです。膝の裏にかいた汗が、脹脛を這う。しばらく見ていれば、虹彩の模様さえ伺えそうなほど、彼の瞳は鮮明に美しかった。
「覚悟?」
「貴方との約束を果たさないために、しぶとく生きる覚悟ですよ」
左腕に嵌められた時計の秒針が、一定の間隔をもって進み続ける。ちくちくと、焦れるほどの歩幅で。彼がどれだけ言葉をゆるやかに紡ごうが、時の流れは変わらない。一秒が今死んで、ふたたび別の一秒が産声を上げては死んでいく。
「志保さんの言う通りだ。貸しでいいなんて、自分から言うものじゃないですね」
そうして観念したように、はは、と笑った。握る指先で、彼の手の甲を叩く。応えるみたく、ようやく彼は私の手を握り返してくれた。絆創膏の巻かれた指が、おのれの手の甲にやさしく食い込む。小指の付け根にあるちいさな黒子。それは絡まる彼の小指に隠れて、見えなくなった。
「だからもう一度、言わせてください」
「何かしら」
「志保さんは本当に、馬鹿です」
今まで生きてきたなかで、私のことをそう称した人間は少ない。私自身おのれの頭脳には一定の価値を見出しているのだから、彼のその言葉を認めるのは不本意であると言えた。けれど。
「いいの。だって、あなたもそうでしょう」
いつか彼に放ったその言葉が、自分に返ってくるとは思ってもいなかった。そして、同じ言葉を返すことになるとも。やはり私と彼は似ているところがあるのだと思う。それなら馬鹿だと言われるのも、悪くはない。
「しばらくは、貸したままにしてあげる」
「意地悪だなあ。やっぱり。志保さんは」
彼が愛している、白いスポーツカー。壊しては修理に出し、またすぐにどこかおかしくさせては、修理に出す。愛するものにしてしまったひどい仕打ちの数々を、いつかの夜に聞いたことがある。その白は、マンションの付近にある何処かの駐車場にいるはずだ。今も変わらずに、彼の傍をその鋼の身体で守ってくれている。
まるで、彼はそれのようだと思った。どれだけ傷ついても、運良く戻ってくるところ。端から何事もなかったかのように平然と振る舞えてしまうところ。
左肩。左腕。そこに、大きな傷痕を隠していることを知っている。銃創と、何かで深く切りつけたような痕。おのれの左肩にも、同じく塞がった穴の痕があった。人間は意外に、穴が数個空いたくらいで死んだりはしない。それとも、私は運が良かっただけなのだろうか。こう何度も死に損なう人間なんて、いないように思うけれど。
意地悪だと投げられたそれが、まるで八つ当たりみたく聞こえて、私はつい笑いを零す。合わせた手を、駄々をこねるみたく揺すっているところも。あなたって、時々子供っぽいところがあるのよね。言えば彼はまるで不意を突かれたような表情で、私のことを見る。言い出せば可笑しくて、ほんのすこしのあいだ彼の眼に見張られながら、私は緩む口元を手で隠しつつ肩を震わせていた。
「貴方って、本当に綺麗ですね」
やがて口元を整える傍で、彼はそう言った。眩しいものを見るように。慈しむように。その類のない眼を細めて。
「あら、意趣返し?」
子どもっぽいと揶揄したことへの。しかしまるで関係ないというように、彼は首を横に振った。
「いいえ。本心です。笑うとますます綺麗なんですね、貴方は」
その視線に背中がすこしだけ痒くなって、つい目を逸らす。そういえば彼は、そんな望みをいつか口にしていた。こんなもの、笑ったうちに入らないのに。そうやって大げさなところもやはり子どものようだと思わなければ、どうにも面映ゆくて仕方がなかった。
「荷物。あそこに置き放しにしてるけど」
「ああ、本当だ。待っててください。取りに行ってくるので」
「もういいの?」
「はい。大丈夫です、もう」
ちょっと待っててくださいね、と彼は再度言い残して、早足で友人たちの集う場所へと戻っていく。私は敷石の上に転がしたリュックを掴んで背負った。熱を振るい落とすように、軽く揺らす。同様に拾った紙袋の手元が、汗でわずかに毛羽立っていた。
また来る。かすかにここまで届いて聞こえたのは、去り際に友人たちへ向かって掛けた彼の声だった。足音と共に、からから、と手桶と柄杓のぶつかる音が近づく。リュックの脇に挿した日傘。引き抜いたそれの留め具を外し、広げる。
「そういえば」
黒いトートバッグと手桶をひとまとめに持った右手。そうして空けた左手を、彼はこちらへ差し出す。
駅の近くに美味しいかき氷の店があるんですけど、寄っていきませんか。
紙袋と、日傘。それらを左手にひとまとめに持って、右手でその手を掴む。行く、と頷けば、彼は返事の代わりに繋いだ手を、振り子みたく一度振った。日傘の露先を、彼の二の腕にぶつけぬように、注意しながら歩く。
「かき氷、好きなの?」
「いや。志保さんが好きかな、と思って」
彼がさも当然のように私の名前を出すものだから、思わず何よそれ、と緩ませた表情を、慌てて日傘のなかへ隠した。綺麗だと、頭で反芻するその言葉だけで、今は充分だった。
「好きじゃなかったら、どうするつもりだったのよ」
「忘れたんですか。僕、これでも一時期は探偵だったんですよ」
推理は今も得意分野です。頭上を覆う白い世界の外側で、きっと彼は得意げな表情をしている。肝心な問いの答えにはなっていないけれど。いつだってそうだ。彼は欲しい答えを簡単にはくれない。
それからふ、と彼の口元が綻ぶ気配がした。すこしだけ傾げた傘。光を宿したその瞳を見る私は間違いなく、世界で一番彼に近い。
それにね、志保さん。そして一番近くで聞くその声は、今この瞬間だけ。今だけは、私へ語りかけるためにあった。
「僕は貴方のことを、もう随分昔から知ってるんですよ」