そのぬくもりに名前はあるか



黒いハイカットのスニーカーと、買いたての底が厚いスニーカー。
どちらを履こうかと迷わせた指先に、前者を引っかけた。靴紐を解くことなく足を入れて、爪先を合わせる。比較的よく履くこの靴は、おのれの足によく馴染んでいた。
すこしの荷物を詰めた小ぶりなリュック。ポケットに挿し込んだスマートフォン。アイロンを通した服。忘れ物は何もないはずだった。すべてを確認したのちに扉を開ければ、途端に頬を熱気が包んでくれる。その不愉快な感触に、つい顔を強張らせた。そこかしこから、暑さに喘ぐ生物たちの声が聞こえる。じんじん、じわじわ、と。マンションの近くに植えられた木に、いつも多くの蝉が留まっていて騒々しい。
二週間ほど前に受けた彼からの頼みのために、普段より早く起床した休日だった。いや、あまり眠ることが出来なかったと言う方が正しいか。朝食を体に詰め込み、化粧を施し、それでもなお抜けきらない眠気に目を擦りたくなる。左右で絶妙に均衡のとれたアイラインを描けた今日、おのれの指先で歪ませる真似はしたくない。目一杯に力を込めて閉じた瞼を、眠気を散らすように開いて、ふたたび閉じる。そしてもう一度開いた視界の端に、かすかな違和感を捉えた。
廊下の隅。薄汚れた排水溝に、一羽の蝶が引っかかっている。美しい色の羽をもつ蝶だった。南国の海を映したような。まるで博物館の壁に丁重に飾られているような。
近づいてしゃがむと、蝶はかすかに羽を揺らしているのが見て取れた。しかしそれは自らの力で動かしているのではなく、蝶の体の周囲を徘徊しているちいさな蟻たちによるものだと気付く。蝶はすでに死んでいるのだろう。
しかし嘘のように綺麗な羽を持っているものだから。首を左右に動かして、人影を探す。死骸だとしても、このさまを独占するのは惜しい。
その時、丁度部屋の扉が開いた。お待たせしました。言いながら出てきた彼は、締めた扉に鍵をかける。大きめな白のシャツに、ダークデニムのボトムス。髪を隠すように被せた黒のキャップと黒のボディバッグ。

「何してるんですか」

財布に部屋の鍵を落とした彼は、なおも変わらぬ体勢の私に問うた。たかが数分そうしていただけなのに、膝の裏に汗をかきそうなほど暑い日だった。

「別に。綺麗だなって、見てるだけ」

私の頭上からひょい、と排水溝を覗き込んだ彼は、本当だ、と賛同したように声を上げる。本当に、あとはただ朽ちていくだけなのが、勿体ないほどに。
ふうん、と呟いたのち、横から伸びた手が蝶の羽を持ち上げた。その羽の大きさに見合わぬ細く黒い体躯も、同様に宙へ浮かぶ。小指の先にも満たない大きさの蟻たちを残して、その死骸は彼の両の手に収まった。銀の腕時計が、重たげに左腕を滑る。

「何する気」
「何もしないですよ。ただ、こんなところに居るより」

そして彼は、早足でマンションの階段を下っていく。私は普段と変わらない速度で歩きながら、その後を追った。壁に張り付く大きな虫を、極力見ないようにしながら。
エントランスを抜けると、すぐ隣の植え込みに立つ彼を見つけた。整えられた深緑色の植物が、陽の光の恩恵を存分に受けようと根を張る土壌。そこに先ほどの蝶が横たえられていた。こうすると、まるで作り物めいたそのさまがより際立って見える。子供が置き忘れた玩具のように。生きて動いていた姿を、まるで想像できない。

「あんなところに居るより、土に還れるところがいいと思って」

玄関を開ける度に、欠点の増えていく亡き骸を見るのは寂しい。彼の言うそれは、純粋なやさしさを含んでいた。蝶に対しても。私たち自身に対しても。
さて、行きましょうか。彼の言葉を合図に、私は脇に抱えていた日傘を開く。陽射しが直に当たらないというだけで、暑さが和らいだように思えた。ほんの、ほんの気休め程度だけれど。
切り放しのデニムのショートパンツに、柄の入った深緑色のシャツ。黒のソックスと黒のスニーカー。ふたつのみつ編みを施した髪。
駅まで歩く傍らで、彼はいつものように言った。
今日もよく似合っていますね、と。


×××


日曜日の昼間。多くの路線が入り乱れるこの駅は、今日は殊更に人で溢れかえっていた。サラリーマン。家族連れ。制服。コーヒーショップのプラカップを片手に笑い合う少女たち。少年たち。
その流れに従うように、時には逆らうように私たちは進んでいた。彼が先を切るその後ろを、一歩さがってついていく。先ほどの電車を降りる際に、乗り換える、と言っていたから、どこか別のホームへ向かって歩いているのだろう。立ち止まることも、頭上に吊るされた案内板に目を呉れることもしない。目的地までの道のりを、彼は完全に覚えているということだ。
時折こちらを振り返りながら、降谷さんは歩く。心配せずとも黙って消えたりはしない。既に数回、彼の視線にその意をこめて返している。
左に曲がった先。エスカレーターに足を乗せる彼に倣い、一段開けて私もその自動階段に乗った。黒い絨毯を敷いたような道は長く長く、高く先まで続いている。

「志保さん」

名を呼ばれて見上げると、彼はキャップのつばを持ち上げてこちらを見ていた。前を向いていないと危ないでしょうに。けれど終着点がやってくる気配は、まだない。

「次は一番線に来る電車に乗ります」
「そう」

後方で話す子供の声が、トンネル様の空間に跳ねるように響いていた。夏休みに浮き立つ高い声。先の路線の終点は確か、遊園地の最寄駅だったはずだ。恐らく、子供が向かう場所はそこなのだろう。私も小学生だった頃に行ったことがある。数年前の話だ。
あの部屋から歩いた分を含めても、まだ一時間と掛かっていない。空調が過剰に効いていた地下を歩いていたものだから、手が不自然に冷えていた。この空間はこんなにも蒸されているのに。気温差に戸惑う肌が、べたついて気持ちが悪い。
目線の高さの、すこし下。無防備に提げられた彼の右手。その中指の第二間接に、絆創膏が巻かれているのが目についた。何かで切ってしまったのか。白くちいさな長方形のガーゼには、血が滲んでいる様子はない。ただ紙で切ってしまっただとか、水膨れを潰してしまっただとか。指を絆創膏で覆ったのは、そういう理由であればいい。彼以外の人間によって、傷付けられたものでないといい。
エスカレーターを上りきると、その先はふたつに分かれていた。右と左。彼はこっちです、と一番線の蛍光板が光る左へ、迷うことなく歩みを進める。
スマートフォンの画面を点けて、時刻を見た。発車時刻までは、あと五分ほど余裕がある。通りかかった窓の下。二対の線路と架線が真下に広がって、ずっと先まで続いていた。
また短いエスカレーターを乗り継いで、ようやくホームに出る。人の数はまばらだった。すこし歩いた先の車両停止位置に、私たちはひと組目として並ぶ。彼はシャツの襟をはたはた、と風を送るように煽っていた。

「暑くないですか」

目前に聳えるビルの群れが、この空間をより閉鎖的に見せているせいか。まだ緑の多い最寄駅よりも、ここは格段に蒸し暑く思えた。蝉の声なんてろくに聞こえてこないのに。呼吸をするのも躊躇われるこの気候は、酷暑と呼ぶに相応しい。
彼は返答がひとつしか用意されていないような問いを、今この場で平気な顔をして投げてくれる。

「暑いに決まってるじゃない」
「水とか、足りなかったら、」
「保護者みたいなこと言うのね」

細身のショルダーストラップを握り、背負っているリュックを揺らした。ペットボトルの水は、まだ未開封のままこのなかに入れてある。しかし随分とぬるくなっているであろうことは、飲まずとも分かっていた。夏という季節は本当に、人間が生活するには適していない。過ごしにくく、あらゆる食物は腐敗しやすい。早く秋が来ればいいのに、と思う。
一番線。電車がまいります。高らかなアナウンスが響き始めたその向こうから、関節をくねらせた銀色の車両がやって来るのが見えた。
保護者って。車輪と線路が擦れ合う音が近づくなかで、彼はそう言いながら笑った。そして速度を緩めた先頭車両は、熱気を押しのけて目前を通過していく。それは顔に、首元に。熱風となって私たちを巻き込む。

「何?」
「いや。すいません。口うるさくて」

やがて電車は、きい、と音を立てて止まった。窓に映る彼と、私の姿。こうして見ると、保護者というより兄妹と表現した方が正しいように思えた。
吊革に掴まる人。扉の横に立つ人。混み合ってはいないが、空いていると表現するのも過剰な車両。ぽん、と声を発しながら開いた口から、人がひとりだけ降りてくる。
冷気が漏れ出る車内。彼に続いて、私も車両に乗り込んだ。


×××


改札を抜ければ、そこには田舎とも都会とも取れぬ、何の変哲もない街があった。サインポールがくるくると回る美容院。歯科医院。紅い暖簾のさがったラーメン屋。準備中の居酒屋。コンビニ。商店街と書かれたアーチの奥に、そんな店が並んでいるのが見える。
南口を左に出ると、彼はまず二軒先に構えられた花屋に入った。白線で区切っただけの歩道。歩行者の妨げにならぬよう、控えめに外に出された植木鉢たちが精一杯に花を咲かせている。日傘で膨らむおのれの影は、遠慮もなくそんな花弁たちを黒く染めた。
あまり広いとは言えない空間にも、鮮やかな色の花たちが並ぶ。店内には彼の他に、エプロンを付けた店員がひとり居るのみだった。ひと目見ただけでは名前なんて分からないけれど、花はどれも季節を表したかのように彩度が高く、瑞々しい。
彼を待ちながら、私は店頭に並ぶ植木鉢をぼんやりと眺めていた。背の低い、けれど大きな花をつけた向日葵。香りを放つラベンダー。受けきれず、鉢から溢れるアイビー。桃色のダリア。
そのひとつひとつには、人の手によって書かれた花言葉が添えられている。可憐なもの。愛溢れるもの。すこし怖いもの。誤魔化すことなく、メッセージはその花が持つ性質と花言葉の関係を教えてくれていた。
さらにその端には、狭い屋根の影を被ったサボテンが並ぶ。種類はすべて異なるようだが、どれも似たような外観で区別がつかない。あの部屋にあるサボテンも、ここにあるものとはまた別の種類なのだろう。そういえばあれの名前も知らないことに気付く。
すこしすると、彼は紙袋を携えて外へ出てきた。お待たせしました、とキャップを被り直して、今日も一段と燃える太陽を見上げる。夏の気配を、一様に弾き返す白いシャツ。今日の彼は、なんだか眩しい。

「ねえ」
「はい」

先は、ほんの緩やかな坂になっていた。その奥に目的の場所が見える。コンクリートのブロックが積まれた左の壁面には、蝉の抜け殻がひとつ張り付いていた。背中が綺麗に割れた、まるでお手本のようなそれ。いのちが確かに羽ばたいた跡。今年初めて見かけた夏の象徴を後目にして、私は彼に尋ねた。

「部屋のあのサボテン。なんて種類なの」
「ああ、あれですか」

あれは確か。二足の足音が、短い道のりにまばらに響く。遮るものが何もない一直線のこの道は、アスファルトからの照り返しが厳しい。暑いという概念を超えて、いっそ痛いほどの陽射し。日傘で作った即席の影だけが、唯一頼りだった。

「猩々丸、とかいう種類だった気がします」
「変わった名前ね」
「だから買ったって言ってましたよ」

覚えてますか。ほら、前に喫茶店で僕と一緒に働いてた、若い女の人。
その人のことなら、一度か二度か。片手でも余るほどの回数しか見たことがなかったけれど、覚えている。当時の友人たちが口にしていたその名前も。快濶で明るく、表情が豊かであった人。
梓とは、ある樹木を指す言葉だ。折れない心。丈夫であるさま。その人を見て、名は体を表すものだと、ひとり密かに納得したことも覚えている。

「あなたが買ったものじゃなかったのね」
「よく世話をしてたのが僕だったので、貰ったんですよ」

みんみん、じわじわ。目前に構えられた門が近づくにつれて、蝉の声が大きくなる。この距離でさえ見えるあの大きな木なんて、かっこうの棲家になっているに違いなかった。植え込みも芝も木々も、これ以上ないほどに緑を深くしてそこにいた。
門をくぐると、彼はそばに構えられた管理事務所へと寄った。待っていてください、とひと言を言いつけられ、私は茂みを吟味するように飛ぶ虫を見る。全身が黒に染まったその虫は、光を吸ってただ暑かろうに。吟味というのは誤解で、実際のところその熱にやられているようにも見える。その軌跡はどこか覚束なく泳ぎ続けて、私の視界から外れていった。草いきれの混ざる熱気。都会では感じることのできない匂い。
お待たせしました、というその言葉を聞くのは、今日で三度目になる。彼はふたつの柄杓に、柄が長く細いブラシと束子をひとつずつ入れた手桶を持って出てきた。空のそれを背後の水道から出る水で満たしていく。溺れる茶色の束子が、揺れる水面に歪んで映った。冷えた水に浸されてさぞかし気持ちが良いことだろう。
大幅に質量を増したはずの手桶を、それでも彼は軽々と右手に提げる。その拍子に溢れた水が、アスファルトの上に砕けた。散った飛沫が私の足首とスニーカーを濡らしたのを見て、彼はあ、と声を上げる。

「すいません」
「平気。すぐに乾くわ」

むしろ幾らか涼しくなったくらいだ。雫を拭って湿る指で、ショートパンツの裾を握る。爪先に、わざと解れされた糸が軽く引っ掛かった。
ボディバッグ。左手の黒いトートバッグと、花が顔を出す紙袋。加えて右手には手桶に柄杓。彼ばかりが荷物を抱えていて、なんだかきまりが悪い。しかしどれかを持つ、と提案したところで、彼は私の手には何も預けてはくれないことを知っている。
目的地にある、本当の目的地とする一か所。その場所も分からないのに、だから私は彼に背を向けて歩き出した。前。右。左。三つに分かれている区画を、直進する通路を選んで進む。足元を埋める小ぶりな石たちが、踏み出すごとに擦れて音を立てた。
乱れなく真っ直ぐに並ぶ直方体の石の列。しかし色や形、背の高さはひとつひとつ異なっていて、まったく同じものはない。その直方体を前に、屈んでいる人の姿がいくつか見受けられた。
どうして今日は、こんなにも暑いのか。背中に、汗がひとすじ下っていく感触。ハンカチを取り出す気力さえ、根こそぎ奪われたような。もしもこの場所にアスファルトが敷かれていたなら、そこかしこに陽炎がゆらめいていたことだろう。シュリーレン現象。見かけるたびに思い出すその仕組みを、脳が勝手になぞり始めた。

「志保さん」

やや離れた後ろから、彼が私を呼びとめる声が聞こえる。振り向けば、左手で左の方向を指差す彼が居た。こっちですよ、と。ビーカーの水に揺れて融解する食塩の結晶。そのさまを浮かべながら、生んだ数歩の距離を早足で埋める。身近なシュリーレン現象のひとつだ。そして私は、今度こそ彼の後ろをついて歩く。白いシャツから出た腕。彼も日焼けしたように見えるのは、錯覚ではない。
帰宅するときに漂う、あの香り。うだるような熱気のなかに、どこか懐かしい、線香の香りが混ざっていた。赤。黄色。白。桃。緑。灰色の空間を唯一彩る花が、彼の手元にも揺れている。
そのなかの、あるひとつ。本当の目的地の前で、彼はぴたりと足を止めた。段差に手桶を、紙袋とトートバッグは濡れないようにその一段上に置く。
数日前にここを訪れた人がいるのだろう。伊達家之墓、と記されたその墓石の花立てには、葉がかすかに萎(しお)れているものの、目立った綻びのない花の束が生けられていた。この暑さでは、中の水が蒸発するのも早いはずだ。水を失くした花は、何れ枯死するしか道はない。
燃えきった線香の滓。供物台の丸く残った錆の跡。根元が黒ずんだ竿石。しかし取り立てて傷もなく、灰色の直方体は艶を保って光を浴びている。
すう、と一度、彼が息を吸うのが分かった。それから志保さんは、と掛けられた声の続きを、日傘を傾けて待つ。キャップのつばが、彼の顔に影を作っていた。

「花を入れ替えてやってくれませんか」

それに分かった、という意味を込めて頷く。閉じた日傘は折り畳み、リュックの脇ポケットに挿した。途端に腕や首元が、第三者によって防ぎようもなく熱を持ち始める。ふと、昨晩炒めた野菜たちのことを思った。そうか、焦げるとはきっとこんな感触をしているのだ、と。
墓石の前にしゃがんで、花立てに腕を伸ばす。菊。一本引き抜いたその茎に、まるで産毛のような細かな毛が生えていた。指先をちくちくと刺すやわらかな感触を左手に、右手で花をひとつずつ抜き取っていく。管理事務所の奥に、合祀墓(ごうしぼ)への道が続いているのを見た。帰り際、その場所へ手向けに寄ればいい。まだ美しい花たちだ。捨ててしまうには、あまりにも勿体ない。
伊達家之墓。男の人か。女の人か。彼よりも年上なのか。年下なのか。友人なのか。私は何も知らない。文字の溝に塗装された白を見上げる。垂らされた水が、そこを伝い下っていくさま。しゃくしゃく、と束子が墓石を擦る音がした。前に訪れた人が余程綺麗に掃除をしたのか、それとも定期的に誰かが訪れているのか。その溝さえ丁寧に磨かれた墓石に、それでも自分たちが訪れた痕跡を残すみたく手を動かしていく。
買ったばかりの花が入っている紙袋を掴んだ。薄いビニールでまとめられたそれらを手に取り、花立てから抜いた花とともに、畳んだ紙袋の上に寝かせる。
私はもう一本の柄杓と柄の長いブラシを取った。花立てのなかをブラシで擦り、汲んだ水を溢れるまで中に注ぐ。
ねえ、と呼ぶと、彼はいつものようにはい、と答えた。墓石の後ろから。隣の花立ての汚れも、同様に落としていく。決まりきったやりとりだ、と思う。私は極力、この人の名を口にしない。彼の本当の名前は、今彼が持つ顔を容易に剥がしてしまうからだ。顔の種類を知らないうちは、だからその名を声にするべきではない。私の声は、間違えれば彼を殺す凶器になり得る。

「あなたとこの人、どんな関係だったの」

聞けば、彼は間を置くことなく友人だったんですよ、と答えをくれた。いつもと変わらない声色で。私はそのことに、どうしてか安堵していた。柄杓で掬った一杯の水を、花立てへすべて注ぎ落とす。銀の筒を満たす透明な液体。表面張力によりかすかに盛り上がった水面が、風に揺れて不安定に歪んだ。

「男の人?」
「そうです。学校にいた頃からの同期で、」

あ、学校っていうのは。それを皮切りに、彼はその人と自身の関係について話をしてくれた。
この人の他に、友人と呼べる人が三人いたこと。皆、同期だったということ。そして何年も前に別々の事件で、四人とも死んでしまったこと。この人以外の墓は遠くて、そう簡単には行くことができないということ。
だからここに皆、集まってくれてるといいんですけど。
薄灰の敷石が濡れて、濃灰へと色を変えていく。しゃくしゃく。しゃかしゃか。話をしながらも彼は、右手を止めることはない。そう、と私は相槌にもならない声を零しながら、今度は線香立てを引き抜いた。燃え残った線香と灰はブラシを使って取り除く。付近に散っていた線香の燃え滓を、水で綺麗に洗い流した。
彼も知っている。死者は決して生き返らないということを。すべて、終わってしまったことなのだということを。私と同じだ。しかし、だからといってそれらが清算されているとは限らない。お父さんと、お母さんと、お姉ちゃん。三人はひっそりと、私の記憶のなかに生きている。彼らは既に過去だった。過去にすることができた。故に、こんなにも冷静に浮かべることが出来る。
紙袋の上に寝かせていた花の束を手に取った。ビニールから引き抜いたひとつを、指先に転がす。
それなら、彼はどうなのだろう。彼のなかに、その四人はどのように生きているのだろう。今もまだ縋るものであるのか。冊子に貼り付けた写真を眺めるみたく、穏やかな思い出であるのか。どちらであるかは、私には分かりようもないことだった。
ゆっくり、ゆっくり。長い時間をかけて、その一本を花立てに挿す。その筒に歪んで映る、おのれの姿。茎の体積に押し出された水が伝い落ちて、その姿を濡らしていった。
お姉ちゃんに会いたいと思ったことがある。居なくなってからしばらくは、毎夜ひとりで泣いていた。けれど今は、彼女を思って泣くことはない。お姉ちゃんが居なくとも、大丈夫だと分かったからだ。ひとりじゃないと知ったからだ。
右に挿した一本と同じものを、左の花立てにも挿した。右、左、右、左。そうやって、左右が対称になるように生けていく。茎の長い花を中心に、外側から、赤、白、黄色。無意識に並べた色の連なりは、チューリップの歌を連想させた。
どうして彼は、眠りながら涙を流すのか。人が涙を流す理由には、受け止めきれない深い悲しみがある。反対に、溢れるほどの喜びもある。けれど眉を顰めるあの寝顔は、決して喜びを噛み締めているようには見えなかった。
最後の一本を挿して、空になった左手。左右で均等になるように、葉をいくつか毟る。
降谷零。知りうる限りで、彼という人間は孤独だ。昔も、恐らく今も。夢のなかでさえ、彼がひとりぼっちなのだとしたら。

「出来たわよ」
「本当ですか。じゃあちょっと、失礼しますね」

あ、綺麗だ。ありがとうございます。入れ替えた花立てを、彼はそうして褒めてくれる。花を包んでいた薄いビニールに寝かせていた花を入れ、紙袋に仕舞った。
その間に、彼は墓石の正面や供養台の回りに束子を滑らせる。大して動いてもいないのに、こめかみに汗が伝ってうっとおしい。ろくな風もないこんな日が悪いのだ。吹いたと思えばいやにぬるく、すぐに止んでしまう。暑いわね、と心の嘆きが無意識に口を突いていた。まあ、夏ですから。彼は竿石の頂上に水をかけながら言った。
ばしゃばしゃと、使い残しの水は周囲の植物たちに撒く。やがて手桶を端に寄せて、そこに束子を落とした。同じように入れた柄杓の柄が、手桶とぶつかって軽い音を立てる。さて。彼は水浸しの手を、乾いたタオルで拭っていた。

「どうですか」
「どう、って。最初から割と綺麗だったじゃない」

墓石に立てかけていたおのれの柄杓を、ブラシとともに手桶に入れる。掴んだトートバッグから彼が取り出したのは、線香の束と燐寸の箱だ。一本引き抜いた燐寸の頭薬を、横薬に素早く擦り合わせる。しゅ、と音を纏って灯るちいさな炎に、緑の頭に触れさせていった。熱の篭る空気に揉まれ、うすくたなびく細い煙。香炉立てに、気だるげに揺れるそれを立てる。あとは。白い線が空へ上っていくさまを、屈みながらそばで見つめる。

「志保さん」

周囲からうすく漂っていた香りが今、目前で濃くなる。鋭い光を跳ね返す、花立ての銀。

「ありがとうございました」

こんな所まで付いてきてくれて。頼りない風が、熱を伴って首元を拭う。あの海に連れ出された日は、こんなに暑くはなかったのに。まだ涼しさを伴っていた夏の始まり。貸しを作るほどの意義をそこに感じられないまま、あとは手を合わせる行程が残るだけだ。

「私は何もしてないわ」
「何かしてほしくて、頼んだわけじゃないですから」

私が居ようが居まいが、彼は滞りなくすべてを済ませていただろうに。そもそも、彼はきっとこの場所を何度も訪れている。ひとりか、はたまた今回のように誰かを携えて、か。物事には必ずしも目的があるわけではない。それが人間の引き起こすものなら、なおさらだ。私を連れてきたのはただの気まぐれか、それに類する何かなのだと思わなければ、そう、いつもの如く。意思の疎通も図れやしない。
私は何を語りかけるべきなのだろう。外見も声も、仕草も分からない彼の友人に。友人たちに。

「そういえば、貸しの見返りは何か思い付きましたか」

ああ、そうだ、と思い出したように、彼は燐寸の箱をふたたび開ける。そんなもの、最初から無かったことにしてくれて構わないのに。そういったところに関して、彼は誠に律儀な人間であると言えた。

「まだだけど」
「思い付いたら、いつでも教えてくださいね」

取り出したのは一本の細く、短い棒だった。先の尖った木製の針。よくよく見ればただの爪楊枝であるそれを、水気の拭った供物台の上へ寝かせる。罰当たりないたずらと捉えられてもおかしくはない行為だ。何よ、それ。行動の真意をはかるべく、私は彼に尋ねる。

「何って、そうだな。志保さん、僕の車分かりますよね」
「白い方?」
「そう。白い方。例えるなら多分、それだと思います」

その話を聞いて分かったのは、彼は例え話が全くうまくないということだけだった。あの車は彼にとって半身、または相棒のようなもので、一本の爪楊枝をそう呼ぶにはあまりにも過言な気がするけれど。
多分。思います。ふたつから、この友人が爪楊枝にかける拘りについて、彼は今も理解できていないのだろうと汲んだ。そうするよりも、別れの方が先に訪れてしまったのだと。
それから彼も墓石の前に、私の隣に屈む。肘と肘が触れそうなほどの狭い空間。表面に水を侍らせた墓石はいっそう艶めいて重々しく、厳かに映った。
彼の友人たちは今、何処を彷徨っているのだろう。もしも私が幽霊であったなら、こうも暑苦しい土地にわざわざ降り立とうとは思わない。そもそも幽霊なんて非科学的なものを、私はかけらも信じてはいないのだが。
供養と称して、生者は死者を縛り付けたがる。そうでなければ墓なんて立てたりはしない。逆もまた然りだ。彼が以前言っていた死神とは恐らく、この友人たちのことを指しているに違いなかった。死者だって、生者を縛り付ける。前者が物理的であるなら、こちらは精神的に。その記憶が綺麗なものであればいい。綺麗なものではないから、彼はきっと涙を流す。
どこか遠くで、電車が走行する音が聞こえる。たたん、と連続した気味の良い音を響かせて。

「悪い夢は、まだ見るの」

うすく汗ばんだ手のひらと手のひらを、胸の前で合わせる。あとは目を閉じて、頼みをひとつ聞いてもらうだけだった。顔も名前も知らぬ四人に。人間は本当に、いつだって自分自身に対して都合がいい。相手が実体をもたないのをいいことに、やれ家内安全だの。やれ一生健康だの。そんなものを押し付けられる神や仏に同情する反面、私も、仏様たちにひとつだけ押し付けようとしているのだから、人を笑うことはできない。

「その話、今持ってきますか」
「冗談よ。ほら。早くお参りすれば」
「ああ、そうですね」

そうして彼は瞼を下ろし、両の手を合わせた。横目でそれらを確認してから、私も倣うように目を閉じる。白色がうすい瞼を透かして、ただ不気味な赤に染まる視界。ちかちかとそこに浮かぶノイズが、一度気になると止まらない。堪らずに瞼を開けた世界のなかで、変わらずに一本の煙が上り続けていた。
私は、彼の悪夢を解く魔法つかいにはなれないから。どうしたって、彼の内を覗くことは出来ないから。見ていることしかできないから。
だって、死神というのは、生者の魂を連れ去るために訪れるのでしょう。
もしも本当に、友人だという彼らが今、この場所に集まっているのなら。瞼を下ろすことなく、この眼で灰色の竿石を見つめる。瞳が乾ききるまで。空気に触れ続ける眼が、痛みで瞼を下ろそうとする限界まで。
どうか彼を。彼をまだ、連れて行かないでほしい、と。顔も知らぬ彼らに望むのは、唯一、それだけだった。それだけしかなかった。
隣で深く瞼を閉じ、手を合わせているひと。かつての友人たちに、彼は何を語りかけているのだろう。やはり私には知る由もない。
ふたたびその眼が開くまで、だから私はお父さんとお母さんと、お姉ちゃんのことを考えていた。お父さんもお母さんも、骨さえどこにも残っていない。警察に引き渡ったお姉ちゃんの身体は、ここよりも離れた霊園の合祀墓に骨となって眠っている。だから羨ましい、と思った。こうやって死後も親族同士で身を寄せ合えることが。此処に、この一画に或るのだという、その確かな標を持っていることが。
なんて不謹慎なのか。竿石を眺めながら、まったくの他者へ思いを馳せているのだから。やはり私も、呆れるほどに自分に対して都合のいい人間であったと気付く。
今年の夏は晴天が多い。雲がひとつもないような日が、多い。まあ、夏ですから。先ほどの彼の言葉が、脳裏を過った。夏だからと言えば、なんだって許されると思っている。太陽も。気温も。湿度も。うんざりするそばで、人間以外のあらゆるものが夏という季節に踊っていた。
青い空に、出がけに見たあの蝶を思い出す。ああも美しく、おのれの亡き骸を残すことが出来たら。そうしたら彼は、いつもみたく言ってくれるだろうか。綺麗だと。もう喋ることのない魂の抜け殻に向かって、言ってくれるだろうか。
沈黙は思考を飛躍させる。そして夏は、そこに混沌を加える。私が死んだら、そういえば彼は本当にひとりぼっちになるのか。適当に泳がせていただけなのに、その思考が行き着いた結論は、おのれの呼吸さえおろそかにさせる。
志保さんは。そして唐突に、彼は私の意識を呼び戻した。つい驚いて、反射的に肩を揺らす。

「あ、すいません」
「いや。何?」

手を合わせ終えたであろう彼はただ、墓石に刻まれた白い文字を眺めているように見えた。その表情が、いつか見たものたちに重なる。待ち合わせのちいさな広場。立ち尽くして、海と空の境界線を見つめる輝きのない瞳。被ったキャップが、眼を影で覆っているせいだと思いたかった。組んだ両腕を両膝に乗せて、前を見たまま語り続ける。

「これはくだらない例え話なんですけど」

墓石の背後。長く雨風に晒されて、くすんでしまった卒塔婆(そとば)の並び。そのなかでもっとも新しく見えるのが、降谷さんの友人のものであるはずだ。天国での名前を記した札。誠という文字が含まれているのが読み取れる。

「もし明日、生死の境を彷徨うことがあったとして、」

その瞬間、何を一番に後悔すると思いますか。
彼の問いはいっとうに奇妙で、友人の墓石を前に語るにはまったく相応しくないと言えた。いや、むしろ逆に相応しいのだろうか。仮に私が幽霊なら、自分の墓を前にこんな話をしてほしいとは思わないけれど。
どこか焦るような、急かされるような。抱き始めたもどかしい感情が、すこし丸めた背中に覆い被さって離れていかない。
後に悔やむと書いて、後悔。それを思ったときにはもう、何もかもが遅い。

「どうしてそんなこと聞くのよ」
「いや。ずっと考えてたんです。手を合わせながら。自分ならどうだろうって」

お姉ちゃんが死んだと分かったとき。月並みだけれど私は、もっと話をすれば良かったと思った。もっと写真を撮って、彼女が生きた明確な証を残しておけばよかったと。何年も前に発行された新聞記事くらいしか、写真は残っていない。そこにちいさく楕円に模られたお姉ちゃんの顔は、まるで遺影のようだと、今も思う。
もし明日、私が死ぬようなことがあれば。しかしやり残したこともやりたかったことも、考えてみれば浮かぶものがないことに気付く。元より数年前に捨てそびれたいのちだ。生きることは、決して悪いことではない。そのことに気が付いたからといって、何か特別、未練が生まれるというものでもないらしい。
ああ、でも。後に悔やむことではなくて。心残りなら、ひとつだけある。私を置いて進むその世界の時間のなかで、生きる続ける人へ。

「あなたはどうなの」
「僕ですか。僕は、」

交わらない視線。遠巻きに聞こえる蝉の悲鳴。指先に、丸い敷石が触れた。そのひとつをそっと摘んで、帯びた丸みを確かめるように握る。手放せば、かちん、と硬質な音をかすかに響かせて、足元の多数に混ざっていった。

「気が付いたんですよね。僕は結構、我儘な人間だったんだ」

黒い帽子の隆起を辿って、彼の横顔の輪郭を目でなぞる。ほんのすこし反らされた喉を。白いシャツの皺を。折り曲げた膝を。きつく結ばれた靴の紐を。
心残り。彼は。降谷零というひとは、唯一、きっとわたしのそれになる。

「そんなの。知ってるわよ」

そうでなければ私の事情を考えずにおのれの寝床へ引き込むことも、海へ連れ出すこともしない。そう言えば彼は、はは、と笑った。その声が物寂しく感じて、私はスニーカーの先を撫でる。薄らと汚れた白。すべやかなそこが、どことなく落ち着かない心の内を鎮めてくれる。

「貴方は僕に優しすぎる」
「そうかもね」

じりじりと減っていく細い緑。燃え続ける橙が、灰色の面積を増やしながら下り続ける。燃え尽きるまでのおよそ二十五分。ただでさえ短いそのいのちが、刻々と失われていくのを見る。
肯定しておきながら、彼にとっての優しさとは何なのだろうかと、考えていた。導かれるまま、彼の腕に抱かれること。不平をこぼしながら、波打ち際を歩くこと。どれも私が望んだことだ。彼の言葉を受け入れるのは、私もそれを望んでいるからだ。別に、やさしくなんてない。私は、生きたいように生きているだけなのだから。

「だから、そうだな。志保さん。僕は多分、」

向こうの通りを過ぎていく家族。両親に手を引かれる子ども。どうして夏は暑いのかと問いかける、無邪気な声。困ったように笑う父親。どうしてだろうね、と共に笑う母親。子どもは冬の方が好きだと声高に話し、それを母親は冬生まれだもんね、とやさしく宥める。暑いから飲み物でも買おうか。父親の提案に、子どもはカルピスが飲みたいと喜び、ほら転ぶから、と母親は言ってきかせた。
彼らの声が遠ざかって聞こえなくなった頃、彼はふたたび口を開いた。けれど出てきたのは、先ほどの言葉の続きではなかった。

「貴方はさっき、僕に聞きましたね」

悪い夢はまだ見るのか、と。私は確かにそう尋ねた。だから、ええ、と一度頷く。自身の視界を狭めるようにして、彼はキャップのつばを指先で引き下げる。こめかみに垂れる一筋の汗が、首の下へと消えていった。

「それの答えは、はい、です」

力なく、膝の上に傾げられた手首。キャップから覗く髪。あの日から、海へ連れ出されたあの日から、彼の身体に触れていない。彼の鼓動を聞いていない。彼の涙を見ていない。それでも彼が悪い夢を見続けているのだろうということは、容易に想像できた。ただの一度人に打ち明けたくらいで解決するものを、悪夢とは呼ばない。

「いつも言うんですよ。皆。早くこっちに来いって」

いっそ寒気を覚えるほどの、熱。靴のなかで丸めた足の指先。体重をかけ直した足に、踏みつけている丸石が小言を返すように鳴いた。
死神たちに会っているのだと、彼は言っていた。夢のなかで。何を語りかけてくるのかと聞いて、彼はそれに大丈夫だとうすく笑った。波の音。髪を絡ませる潮風のぬるさ。光を弾く海の青。私はそれらを、鮮明に思い出すことができる。
大丈夫。大丈夫。あの時彼は、どうしてそんな嘘を吐いたのか。
死神たちはどうやら、私が思うよりもずっと本来の死神の姿をしていた。手にした黒い鎌を、彼のいのちに突き立てようとしていた。眼の裏がひりひりと焦げていくのが分かる。彼らに託した私の望みなんて、この線香の煙よりももろくあっけなく、意味のないものではないか。幽霊と一緒だ。願いや祈りなんて非科学的なものを、どうして信じてしまえる。

「あなた、」
「行けるわけがないじゃないですか」

挟もうとした声は、逆に彼によって遮られてしまう。それはまるで、そこに居る友人たちに誓っているように聞こえた。あなた。そこに繋げるべき言葉が分からない。口が動いたのは、きっと本能だ。そんな言葉は、ただの音と変わらない。大丈夫という言葉と同じくらいに、何の意味も成さない。

「貴方を残して行けるわけが、ないじゃないですか」

服の上から、皮膚の上から、右手で心臓を握り締めた。厚く隆起した脂肪の下で拍動する核の気配。吸えば早まって、吐けば緩慢になるその感覚。おのれの手でさえ触れられない部分を、死神は如何にして止めようというのだろう。
彼は視線を逸らしたまま、私に関する何かを語り続ける。

「だからそれがきっと、僕の後悔になる。貴方を」

志保さんをひとりにしてしまうことが。
まるで、明日それが起きてしまうから。だから後悔なんて言葉を纏った呪いで、また私を永遠に縛ろうとしている。そんな風に聞こえてならなかった。生者は、生者だって縛り付ける。あとに残される人間の気も知らずに。
後悔を口にできるのは、いつか先立つと分かっている人間だけなのだと思う。私はその日が来るのが怖いから、言霊にならぬように、声に乗せることさえ躊躇ってしまうのに。我儘。彼が自分をそう称した理由が、分かった気がする。なるほど彼は、それに相応しい男だった。

「あなたって本当、自分勝手な人間ね」
「知ってくれてたんじゃなかったんですか」

蝉の声の喧しさ。内耳の奥までこびり付くような熱。繋がりを失ってしまうのが怖いから。誰かの生を掴もうと手を伸ばすことは、不毛だと分かっているから。分かっているなら、はじめからひとりで居た方がいい。本当に、そう決めておけばよかった。
眠る前、頬に、耳朶に感じる彼の熱。重ねた手の大きさ。やわらかな声色。時折困ったように下がる眉。
彼は本当に、ひどい男だった。どうして私に、こんなものを与えたのか。どうして私は、それらを受け取ってしまったのか。

「でもあなたは、私をひとりにするでしょう」

きっとすぐにあなたは、私をひとりにするでしょう。
別に、それでも良かった。ひとりになるのは慣れているから。けれどそれは終わりがあると知っているからだ。どれだけ間を置こうとも、彼がふたたび部屋のあの扉を開けることを知っているからだ。永久に終わらない孤独なんていらない。暗くて、怖くて。毎夜涙を流していた日々なんて、もう欲しくない。
肯定も否定も、聞こえてはこなかった。膝に左肘を置いて、頬杖をつく。左の眼から零れそうになる涙を誤魔化すために。本当に、みつ編みなんてするんじゃなかった。横顔を晒すような髪型なんて。

「だったらそんな、無責任なこと言わないで」

今、彼は生きている。それだけで良かった。彼の心なんていらない。移してくれる体温も、抱き留めてくれる腕も手も。優しげな眼も。包むような声もいらない。私はただ、彼の生が欲しかった。決してひとりにはしないと、その証が欲しかった。
右腕にとまった一匹の蚊。痺れて感触が無くなりつつある足。抱えた膝と、手のひらのあいだで滲みかけている汗。今はすべて、どうにでもなればいい。

「しません。今は、ひとりに」

辺りを埋める蝉の声が。風の音が、電車の走行音が。ほんの一瞬、止んだように思えた。けれどそれらはまたすぐに活動を始める。たたん、と車両の列は駆けて、蝉は喘ぎ、ただ風だけが止んだ。
左手の、人さし指の先がわずかに濡れている。この暑さでは、汗も涙も区別なんて付きはしない。

「うそ」
「嘘じゃない」
「あなたのこと、すこしも信用してないって言ったじゃない」

忘れちゃったの。責めるように吐き捨てたかった言葉が、思うよりも震えていた。最初から何も探らなければいい。知らないふりをしていればいい。そうやって抑制するほど欲が深まることに、どうして気が付けなかったのか。まるで子供みたくいじけているようで、自分で自分が嫌になる。決して彼を困らせたかったわけではないのに。



4/6ページ