そのぬくもりに名前はあるか
目が覚めて白い天井を見上げながら私は、おのれが何者であるかをいつも考えている。
晴れか。雨か。はたまた曇りか。閉ざしたカーテンの端から光が溢れて、壁紙に模様を作っていた。
それから今日の曜日をなぞって、光を受け入れ始めた眼を擦る。きっと、昼が近い。休日の過ごし方なんて、大抵がそうだった。昼前にベッドから起き上がって、朝食と昼食を合わせたような食糧を胃に詰めて、陽が暮れるのを怠惰に待つ。また適当な食糧を詰め込んで、惰性に日付を超えるのを待つ。
身体を起こせば、クッションたちが四方(よも)に散っているのが目についた。枕元に行儀よく並んでいたはずのそれらを掴んで、元の場所に置き直す。撫でつけた髪には少々厄介な癖がついていた。適当に混ぜたところで、何の誤魔化しにもならなくて。ラグの長く太い繊維が足指に絡まる。しかし誤魔化すべき相手もいないのだから、構うこともない。
剥き出た脚に、肩に。貼り付く湿度が、今日はやたらに気に掛かった。この部屋には空調設備がない。蒸された部屋で目を覚ますことの不快さ。本格的な夏がすぐ近くまで迫っていることを、そうして知る。
部屋の扉を押し開けてからまず不可解に思ったのが、付け放しのテレビだった。ほとんど音を発することもなく、バラエティ番組を映すだけの機械。しかし手前のソファにはひとり人間が腰掛けていたものだから、犯人の特定はあまりにも容易い。
数歩部屋に後ずさりをして、昨晩脱ぎ去った半袖のカットソーを拾い上げた。被るように腕を通しながら、今度こそ部屋を出る。
「どうして居るのよ」
締め切られたおのれの部屋よりも、リビングは幾分か涼しい。空調が効いているからだ。言葉を放ったまま、習慣の通りに洗面所へ向かった。開いた蛇口から出た水で口を濯ぎ、顔を洗う。おはよう、志保さん。その隙間から、犯人の声が聞こえた。乾いたタオルで顔を拭い、洗面台に置いたままのヘアゴムで髪をまとめる。二分にも満たない滞在時間を終えてリビングへ戻ると、彼はふたたびおはよう、と言って手元の本から視線を持ち上げた。日に日に過ごし難くなる気候に抗って、彼の目元はやわらかい。
「ええ。今日は」
「こんにちは?」
「今、何時だと思ってるの」
「まあ。そうですけど」
棚に置いた霧吹きを手に取って、数度サボテンに吹きつける。隣の時計は十一時を過ぎた時刻を指していた。その言葉を使うには、既に時刻が遅すぎる。昨日眠りに就いたのが三時頃であったはずだから、正常な八時間睡眠だ。通りで体が軽い。
リモコンを操作して、テレビの音量を上げる。四、から徐々に数値を増やして、十二のところで留めた。休みの日は時折見ている、ファッションチェックのコーナー。かたり、とリモコンを置いて、どさり、とソファに腰掛ける。弾みで体が揺れた。何度見ても名を覚えられないコーディネーターと、センスがいつも一致しない。
「どうして居るのよ」
先ほどと同じ問いを、隣に腰掛ける彼に投げた。その指が文庫本の頁を捲る。昨晩の私が明日の、つまりは今の私へと読み残した本だ。スピンは昨日挿したそのままの位置で留まっている。残り三分の一ほどだろうか。彼は逆に、三分の一にも満たない箇所を読み進めていた。
「志保さん。もしかしてこの『先生』っていうのは、」
「ちょっと。私が読み終わってからにしてくれる」
それは何も変哲のない話に思えて、けれど所々に染み出た狂気に、脳が警報を鳴らしているような。すこし変わった話だった。夏の話だ。爽快さとはかけ離れた泥臭い、暑さ故に腐敗したあらゆるものの匂いを纏った物語。
今自分がこうして清潔な空気を吸い、脚を伸ばしてソファに腰掛けていることを幸福だと思える。ただの繰り返すだけの日常こそが、幸福なのだと。人間の思惑が絡み合った話を辿っていると、ふと顔を上げた瞬間にそう思う。
面白いか、と問えば、彼は間髪入れずに面白いですよ、と本に対して賛辞を述べた。
「それで、聞きたいことがあるの」
「何でしょう」
彼は手近にあった新聞紙の端を千切ると、読みかけの頁にそれを挟んだ。昨晩読み切った夕刊だ。古紙回収用の箱に入れるのを忘れていた。
「どうして居るのよ」
「どうしてって。まあ、」
ここ、僕の家ですから。彼はなんてことはないように、そう言い切ってみせた。私が得たい回答は、彼の言うそれとは異なっているのだが。聞きたいのはそこに至った理由であって、結論ではないのに。彼はいつもそういった話し方で、欲しい答えをくれない。呆れを込めて息を吐くついでに、背もたれに体を預けた。おのれが解釈した彼を彼自身だと思わなければ、意思の疎通も図れやしない。この人にも休日と呼べるものが存在するのだと、とりあえずはそう解釈しておくことにする。
しかし彼のまるで何処かへ外出するかのような出で立ちに、私は違和感を覚えていた。紺のポロシャツに、黒い九部丈のボトムス。すこし草臥れた部屋着に馴染む彼を知っている分、その服装は部屋のなかで少々慣れないものがある。
「今日はいい天気ですね」
言葉を返す前に、遠慮もせず欠伸をひとつ零した。脳が活動を開始するための酸素を必要としているのだ。画面の向こうで動き回るコーディネーターが、起き抜けの頭に騒がしい。
「ええ。引き籠るにはうってつけね」
曲げた右脚に、添えた両の手を滑らせる。膝から足首までを撫でてから、硬い膝に顎を乗せた。右手の指を、脚の指と指のあいだに埋める。どれだけ日焼け止めを塗ろうが、腿と腕では肌の色に差が生まれてしまう。気に留めるほどではないけれど、比べれば違いは明確になる。
乗せた顎をぐりぐりと動かしながら、伸ばした腕の先にある手を眺めた。研究室でエタノールなんて使うことがなければ、好きな色で爪先を染めているところだったのに。
「さて、志保さん」
彼はテーブルの上に置かれていた鍵を掴む。よくよく見ればそれは車の鍵のようだったが、通常玄関先に提げられているものとは形が異なっていた。黒い革のホルダーとちいさなリモコンを提げた鍵ではなく、銀のプレートが付いた鍵だ。
いい天気。確かに、太陽が顔を出していなければ、自室にあれだけ熱が篭ることもない。レースカーテンの奥に、水色が覗く。いや、空色と言うのか。空と水。まるで反対ように見えて同じ色を指すのだから、言葉と言うのは不思議だ。
白、陽射し。手の黒子。男の声。言葉。
そして彼の言葉に、先ほどまで見ていた夢のことを思い出す。
「何よ」
レースは今年のトレンドですから。インナーに持ってきた黒が上半身を引き締めてくれますよ。
それなら、黒い丈長のタイトスカートを合わせればいいのに。どうして深緑のフレアスカートなんて選ぶのだろう。ミモレ丈に靴下の組み合わせは可愛いけれど、レースとの相性はとにかく良くない。折角の上品な印象が台無しだ。
「今日これから、ドライブに出掛けませんか」
ややの苛立ちを募らせているおのれの横で、彼は唐突にそう言った。
×××
ドライブだなんて言うものだから、てっきりアウトレットパークだとかすこし遠いショッピングモールにでも連れて行ってくれるものだと思ったのに。今私の目前に広がっているのは、窪みもへこみもない水色の地平線だった。地球の七割を覆う大いなる、そして未知なる水溜り。上から降る光が身体を刺す感触を、風が上手く相殺してくれていた。潮の香りが腕に脚に、首元に纏わりついて離れない。
踏み出すごとに、砂が足の甲にかかる。熱を帯びたそれらはひたすらに温くて、ただ歩きづらかった。ビーチサンダルを履いた足で、堂々と薄荷色の硝子片を踏みつける。
どうして海なのか、と車を下りるときに、私は彼に尋ねた。蝉の声がこだまする林の前。数台の車が並ぶ駐車場の端。それらを見るに、今ここに集う人間の数よりも、木々に張り付く蝉の数の方がきっと多い。暑い日にわざわざ陽射しを浴びにこんな所まで来るなんて、酔狂な人間のすることだと思っていた。正しく、今鳴き喚いている蝉たちのように。
夏には海だと思って。後部座席に乗せた荷物を漁りながら、彼は言った。まあ、世間一般ではそうだとしても、だ。私と彼と、海。不釣り合いにもほどがある。
「人が少なくて良かったですね」
そんな所を敢えて選んだのは、降谷さんでしょうに。海岸の入り口付近には、駐車場に停められた車数台分の人たちがいた。家族であったり、恋人であったり。降谷さんはそんな人を避けるように、歩みを進めていく。他者が生む喧騒を背にして。やがて声たちは、簡単に聞こえなくなった。
「人がいたら、困ることでもあるの」
数歩先を行く背中に投げた声は、波と風に揉まれて正しく届いたのかも分からない。広い海岸のなかでは、いくら声を張り上げようとも力なく、すべてを跳ね返されたように思えてしまう。
「だって志保さん、人の多いところ苦手でしょう」
ふくらはぎに、サンダルで蹴り上げた砂が跳ねる。私は後部座席に置いてきた、黒いショートブーツのことを思っていた。今日の服装にビーチサンダルはあまりにも間抜けで、恰好がつかない。どこに行くのか教えてくれれば、もうすこし準じた服装にしたというのに。代わりにビーチサンダルだけは用意してくれているという抜け目のなさだ。有難いと思いつつ、すべてを合算すれば正と負がぴったりと合わさって零になる。そういう気持ちで私は、彼の後ろを付いて歩いていた。
まあ、そうだけど。砂に落ちた濃灰の影。日傘に施されたレースの模様を違うことなく模って、おのれとともにゆっくりと東へ進む。影でさえ光に照らされて、完全な黒になり損ねる。
加えてここまで私たちを運んでくれた車も、通常彼が乗っているスポーツカーではなかった。ナンバープレートの平仮名から見るに、恐らく何処かから借りた車だ。彼が私を連れて移動するとき、ほぼ百に近い確率であのスポーツカーを用いない。曰くあの車は人目を引く故、急ぎ以外で人を乗せるときは極力使わないようにしているのだ、と。以前彼は、そう言っていた。
はたはたと、潮風に彼のポロシャツがはためいていた。日傘をくるりと回しながら、彼のつけた足跡を辿っていく。広い歩幅。ショートブーツなんて履いたままだったら、追いかけるのも大変であったろう。
「あのね。降谷さん」
呼べば、彼は足を止めてこちらへ振り向いてくれる。降り注ぐ光を、その髪がきらきらとかすかにはじき返していた。大層海の似合う外見をしている。サーフボードを片手に良い波を待っていそうだと思ったけれど、今彼がやわらかな目元を携えて待っているのは、ただの私の言葉の続きだ。立ち止まったままの彼の横を通り過ぎる。靴の踵で背丈を誤魔化していないと、こんなにも彼に届かない。
「私、今日は本を読んで過ごそうと思ってたのよ」
「そうですか。はは。すいません」
反省なんて微塵も感じられないような言い種で、彼は風に乱れた髪を抑えていた。金糸が風になびくそのさまを、純粋に綺麗だと思う。夢のなかでも、そうだ、同じことを考えていた。すっかり輪郭をうしなったその内容のほんの一部が、溶け残りのように浮び上がる。
砂は白いような灰のような色をもって、足元を埋め尽くしていた。目の前の世界があまりにも広く遠くて、つい目を細めてしまう。どこまでも見通すことが出来そうで、何も見えない水色の景色。
「海なんて、久しぶりに来たわ」
この姿に戻ってから、そういえば初めて砂浜を歩く。押し寄せた波が、しくしくと音を立てて引いていった。
都会に近いこの海には、砕けた珊瑚もやどかりもいない。強いて言うなら、幾分か先に大きな流木が寝ているくらいだ。まるで海に設置されたベンチのように。ブランコがあればいいのに、と思う。浜辺の大きな木に吊るされたブランコ。小説や映画のなかによく現れるのなら、現実の世界にも存在してくれていたっていいのに。
ふたつみっつと、自身の足に視線を落としながら歩く。そのうちに砂を踏む音が、ひとつしか聞こえないことに気が付いた。それは紛れもないおのれのもので、歩みを止めても後ろからついてくるはずのもうひとつが、やって来ない。
ためしに振り返れば、もうひとつの持ち主は随分後ろで歩くのをやめていた。遠く遠くを見つめながら、ただ立ち尽くしていた。水色と青の境界。先の見えない空の色は、彼の瞳の色によく似ている。その足に、押し寄せた波が被さろうとも。砂を交えて引こうとも。まばたきさえ忘れたかのように、彼は動き出すことをしない。揺れている髪と服だけが、その景色のなかで生きていた。
「降谷さん」
手の届かない空に。先の見えない海の広さに。おのれがほんのちいさな存在だったのだということを、知る。声が届いてくれないというそれだけのことが、どうしてこんなにも心細くさせる。確かないのちの拍動が、波の音に混ざって今、耳の奥で響いていた。
どこかの遠くを見つめる彼を、怖いと。時折、そう思うことがある。待ち合わせのちいさな広場で、時には星空を。時には曇りの空を光のない瞳でもって眺めている姿を。ベランダの手すりに肘を掛けて、外を見やる背中を。今を。
私は、ほとんど一定の間隔で刻みつけた足跡を、踏みつぶして戻る。一瞬風に煽られた日傘の手元を、落とさないように握りながら。飾りの大きなピアスが、耳元で擦れてちりちりと音を立てる。そして辿り着いた彼の左手を、空いた右手で掴んだ。腕をうんと伸ばして掲げた日傘で、彼の頭上に陰を作る。
その見開かれた眼が、ようやく私の姿を捉えたとき。おのれがどうしようもなく矮小な存在であるという事実に、どうしてか、ひどく泣きたいような気持ちを抱いた。
「どう、え。どうしたんですか」
「暑いの?」
走りさえしなければ、汗もかかない夏の始まり。重ねた手と手のあいだに生まれた温度の方が、余程熱い。彼の大きな手が、私の親指だけをやさしく握り返す。その仕草はまるで、夜のぬくもりを思い出させた。
重ねたままの手のひら。寝息。夜明けの頃。見上げた寝顔。その閉じられた瞼の際から滲むのは。
「いえ。何もない、ですけど」
言葉通りの、否、そこにすこしの驚きを含んだ表情。しかしそれをすぐに崩した彼は日傘をそっと抜き取ると、私の頭上に差し直してくれた。志保さんこそ、暑くないですか。受け取りながら、暑くないと、呟く。何もない。彼の声が、波紋のように広がって、心の内を揺する。
そして彼は掴まれたままの手を眺めて、まばたきをひとつ落とした。
「離した方がいいですか」
振り払われようとも、離す気はない。今だけは。どうしても。素直とは無縁の生活を送っていた私にとって、ただ首を縦に振るだけの動作さえ難しい。落とした視線の先。深爪をした親指を、痛そうだと思うだけだった。
「すきにすれば」
ひたひたと、波が足元を濡らしていく。互いにサンダルに履き替えておいてよかった。私は合皮のブーツだからいいけれど、彼のスニーカーはぐしゃぐしゃになっていたに違いない。
「じゃあ、好きにします」
そして、彼の手に引かれるまま歩き出す。一度解いて、まるでそうするのが自然なように、探るように指と指を絡めあった。陽に灼かれた腕は擦れ合えば熱くて。太陽はうんと遠い所にあるのに、その距離をまるで無視して過剰な熱を寄越す。夏はこんなにも暑い季節だったのだということを、今更になって思い出した。
「あそこに、大きな木があったの」
「ブランコですか」
「ただのベンチだけど」
「いいですね。夏らしくて」
つぶしたばかりの軌跡を、ふたたび辿って歩いて行く。海とは反対側の空に、まるでスプレーから盛り出したクリームのような積乱雲が上っていた。絵に描いたような縦長の雲。夏の象徴。
そうやって、おかしなところで彼は唐突に口を開くのだ。今日の服、よく似合ってますね、と。その言葉は、服装がすべて揃っているときに聞きたかった。例えば出がけの時とか。一番に気に入っているあの黒いブーツに、その言葉を聞かせてやりたかった。
「これ、あなたの服よ」
言えば、彼はえ、と戸惑うように声を上げた。
オーバーサイズの白いシャツに、黒地に薄い白のストライプが入ったタイトスカート。髪はフィッシュボーンでひとつにまとめて右に流し、耳には大きな金色の飾りが垂れるピアスを付けた。そして全てを台無しにするビーチサンダルが、足元を飾る。
シャツの合わせを見れば、これが女物ではないことくらいすぐに分かるだろうに。
「気が付かなかった。いつの間に」
「違うわよ。要らないって、前に言ってたじゃない」
ほんのちいさな染みのついたそれは、ただ捨ててしまうには勿体ないほど、形がなんだかかわいくて。染み抜きを施せば容易に落ちてくれたものだから、アイロンで抜き襟様に新しく癖を付けた。大きく膨らんだトップスのシルエットが、かえって身体の線を際立たせてくれる。
からからに乾いた流木。表面はほとんど白くなっていて、本当に人が腰掛けるためのもののように、緩やかに湾曲しているそれ。先立って腰を下ろした彼に倣って、私も流木に座った。白と言えどやはり熱を吸っていて、じっとりとした熱が服を超えて腿の裏に伝わる。夏らしい。彼は先ほどそう言っていたけれど、海に落ちているものなんて、大抵をそう錯覚するものだ。凢電(ぼんでん)や硝子の破片。流木に貝殻。どれも海から離れれば、塵に分類されそうなものばかりだ。海に落ちているというそれだけで、途端に価値のあるもののように思えてしまう。
「ああ。確か、ちょっと前に言ったかもしれません」
「言ったのよ。だから貰ったの」
可愛く出来たでしょう。白波立つ海が、光を受けてまばらに輝くさまを見る。伸ばした足先はすっかり砂がついて、汚れていた。陽に焼けてしまわぬよう、すぐに作った陰のなかに引き込む。
どうせ、彼は肯定しかしない。それを分かっていて、同様に分かりきった言葉を受け取るだけだった。はい。とても。前を見据えたまま、彼は言う。褒めることしかしない男は飽きられやすいだとか、彼にもものを可愛いと思う基準が存在したのか、とか。前者は私にとって無意味な俗説であり、後者は考えるだけやはり無駄な疑問に過ぎない。
風。波。飛行機。遮蔽物もない空間に沢山の音が入り混じって、前後不覚に陥りそうになる。ごうごうと怖いくらいに音を立てる飛行機が、向こうの空へ飛び立っていくのを待った。
「最近ね、」
「はい」
「よく夢を見るの」
ビーチサンダルのかかとで、砂を抉る。帰りに足を洗い流せる場所はあるのだろうか。レンタカーを砂で汚してしまうのは忍びない。乾いて逆立った木の皮。指先に刺さったら、きっと痛いはずだ。
「どんなですか」
海には終わりなんて見えなくて、頭上は高く、果てもない。なぜならこの惑星は丸くて、宇宙は今もなお広がり続けているからだ。
掲げた日傘の、白い内側。縁取るレースの隙間から、太陽が鋭い光でもって私の瞳を刺しにくる。繋いだ手のひらに、汗なんてかきたくないのに。
「別に。ちょっと死神に呪われるだけよ」
どんな。ただ白い箱のなかで、呪いをかけられる夢だ。死んでしまうのは勿体ないと、くだらない理由を付けて。そしてそれは実のところ夢ではなく、脳が古い記憶を反芻してくれているだけだとも、知っている。
「物騒ですね」
「そうね。まあでも、そんなに悪くないの」
数年前に起きたある出来事を。十分にも満たない短いやりとりを。そんなこと、誰も頼んでいないのに。人は神経系の中枢に支配されて生きている。記憶と、感情と、思考と。もうひとつ。そこに呪いが加わって、私がいる。生きろ、という呪いを打ち付けられた私が。
視界を遮るものは、何もない。雲さえ漂わないこの場所は、あの頃馳せていた天国というところに、思えばよく当てはまる気がした。同じように黒装束と呼ぶには雑な服を着た死神が隣にいて、あの日打ち付けた呪いを反故にしてしまわないか、今日も見張っている。
いつからだろう。ありもしない死後の国を想うことをやめたのは。自分の足で立って歩くのは、悪くないことだと気が付いたのは。
ひとつ、私には知っていることがある。彼について。知っていて、黙っていることがある。
「なんだ。悪い夢でも見て、眠れないっていう話かと」
「悪い夢を見ているのは、あなたの方じゃないの」
傘をすこし傾けると、光を透かした青い眼と視線が合った。髪がゆるい風に煽られてなびく。やや見開かれた眼とうすく開かれた口のまま、彼はほんのすこしの間時を止めたように動かなくなった。その後に呟かれた声は、風に波に消されることなく、おのれの耳に確かに届く。
「どういう、」
「気付いてないの?」
「あ、いえ。いや」
今まで通り、ずっと知らないふりをしていればよかったのに。立ち尽くしている彼を見てしまったからだ。青色の海に、飲み込まれてしまいそうな彼を見てしまったからだ。
彼について知っていること。彼が私を腕に囲いながら、眠りながら、ひとり静かに涙を流しているということ。
繋いだ手が、やたらに熱い。この太陽に灼かれた砂浜よりもきっと。手を重ねているとき、彼はいつも親指の腹で、私の親指の付け根を撫でる。今度は私がそうする番だった。なめらかな人の肌の感触。じりじりと熱を帯びた、灼けつつある皮膚。
彼は空いた右手でくしゃり、と前髪を歪ませた。えー、っと。らしくもなく、言葉を掴み損ねているような。そうさせたのは、紛れもない私であるのに。
反時計回りの方向に手元へ力を加えると、伴って日傘が回り出す。同じ形をした丸い露先が、目の前を何度も過ぎては現れた。繰り返せば、容易に目が回ってしまいそうだ。
やっぱり、と彼が口を開いたのは、手元にもう二度、力を加え直した頃だった。
「いや。泣いてたのかな、と思ってて。前から。寝てる間のことは、僕には分からないから」
ぴたり、と緩やかな回転を引き止める。役割を失くした留具が、慣性に従って振れていた。
きっと、いつもひどい夢でも見ているのだろう。このあいだだって。夜明けの頃、必ず一度目を覚ます私の前に、時折あるもの。空が白む気配と、濡れた彼の寝顔。しばらく目を凝らしていると、溢れた雫は重力に逆らうことなく静かに落ちて、枕に染みを作る。そんなさまを、初めて彼と寝床を共にした日から、何度も見ている。
「どうして、気が付いたんですか」
「いつも明け方になると目が覚めるの。私。眠りが浅くて」
彼が涙を流しているとき。私は、薄暗いなかでそれを見ているだけだ。その背を撫でることを。その涙を拭うことをしないまま。彼が紛れもなく生きているのだということを、この身で感じ取りながら。
「そうですか」
ううん、と。そうだなあ。まるでうわの空のような声色が、私の耳を責めるように揺らすものだから。つい、砂まみれの足先をぎゅう、と丸める。
均整のとれた横顔。前髪に隠れた目元が、あの日の彼に似ていた。夢のなかに映る、あの姿に。そして違わず、長くゆっくりと息を吐く。ごめんね。今なら、その言葉の本当の意味が、理解できる。本当に謝らなければならなかったのは、やはり私の方であるということも。
「志保さんには一番、知られたくなかったのになあ」
「なら早く乾燥機でも買うべきね」
母のこと。お姉ちゃんのこと。私自身のこと。あの日々たち。あのひと言には、かつての彼にはどうしようも出来なかったたくさんのことについての罪悪感が含まれていたのだろう。
別に、いいのに。何もかも、終わってしまったことだから。死者は決して、生き返ることはしないと知っているから。後ろを見ているうちに、目前にあるひとつを零してしまうことの方を、今の自分は恐れているのかもしれない。おのれ自身のことなのに、そう言い切ってしまうことさえ、すこし怖い。
私は、彼を。自分のものよりも余程、彼の生に固執している。いつ失くなったと知らされるかも分からない、彼の生に。呪いを打ち付けた死神の生に。
「僕もね、多分死神たちに会ってるんだと思います」
壁は高くて強固で、頑丈で。それなのに降谷零という人間には、いつ崩壊してもおかしくないほどの、無数の穴があいている。それでもほとんど奇跡のような均衡のなかで、今も外観を保たせているのだと思う。
数年前、私はその身体にひとつ、穴を加えてしまった。加えかけてしまった。今はもう埋まっていようとも、被せた痕は必ず残る。草の生えた土地は、一度掘り起こせばもう元には戻せないように。
だから私は、あの時彼に謝らなければいけなかった。記憶が無くとも。この世から、消えてなくなろうとしたことを。
「なんて言ってるの」
「え?」
水面が散らす輝きが、この目にあまりも眩(まばゆ)かった。奥歯を噛み締めて呼吸をやめると、途端に眼の奥がひりひりと熱を持ち始める。彼がそんな夢を見てしまうことが、どうしてかすごく嫌だった。
「その死神さんたちは、あなたに何を伝えに来たの」
背中が冷たい。素肌に触れる服の感触に、居心地の悪さを感じていた。ただの夢の話をしているだけなのに。
長い沈黙だった。何であれ私の問いに言葉を返してくれる彼が、初めてこうも長い空白を生む。濡れていた足が乾いて、気まぐれに振ればぱらぱらと付いた砂が落ちていった。
夢は深層を映す。幾重にも隠した奥底を。誰にも触れることが出来ないから、私は、こんなにも言葉を探している。彼の身体にあいた無数の穴を埋める言葉を。
「はは。ただの夢ですよ。大丈夫」
それはまるで、彼自身に言い慰めているように聞こえた。大丈夫。あの夜から、それほど経ってもいないのに、彼はもう忘れてしまったのだろうか。私は彼を信用していないのだということを。真っ先に信用できないそんな言葉を、私に対して使うべきじゃない。
「すいません。本当はね、志保さん」
今日貴方を連れて行きたかったのは、こんなところじゃなかった。
砂浜につけた四つの足跡の線。風に吹かれ波に揉まれ、明日にはきっと消えている。こんな穴にも満たないわずかな窪みであれば、自然の力でさえ元に戻すことは容易なのに。
言葉の続きを目線で促せば、彼はわずかに逡巡したのち、ひとつの目的と目的地を告げた。それは海からはまるでかけ離れた所にあって、ここよりもずっと住んでいる場所から近い。
本当に、どうして海なんてやって来たのか。尋ねれば、海は二番目に行きたかったのだと言う。たまには志保さんを、綺麗な所に連れて行きたくて、と。
「それで、これは頼みになるんですけど」
「一緒に来いって言いたいのかしら」
「貸しにしてくれて構わないです」
海もなかなか私には不釣り合いだけれど、彼の口にしたそこは、海よりも余程私とってつながりのない場所と言えた。何か物事を頼むとき、彼の口から貸しという言葉が出てくるのは、初めてのことだ。
「私はいない方がいいんじゃないの」
「それは志保さん次第ですから」
彼からの頼みや誘いは、こちらにとって不利ではない限り断ることはしない。といっても、これまでに何か負の要素を持った約束事や誘いを取り付けられたこともないのだが。貸しを付けるということは、それだけ断られたくないということなのだろうか。ふうん、と呟きを流したのちに、私はその頼みに頷くことを決めた。ありがとうございます。感謝なんてされる謂れはないのに、彼は律儀に礼を述べる。そして、おのれを嘲(あざけ)るように笑った。やっぱり僕はだめですね、と。
「志保さんに、いつもそんな顔しかさせてやれない」
それは、私も同じだ。笑い損ねたような顔。私だって彼に、いつもそんな顔しかさせてやれない。たくさんの表情の彼を知っているけれど、そのどれもこれもがやさしさで作られた仮面だということに、気が付かないほど愚かではなかった。
その下に隠した彼の本当の顔。ごく稀に透けて見えるそれは、いつだって同じ表情をしていた。身体中にあいた穴の痛みに、それでも偽物の笑顔を貼り付けて、堪えているような顔。
「元々こういう顔なの」
「僕はもっと綺麗な貴方を知ってます」
例えば、と問うと、彼は砂を抉りながら太陽の下に足を投げ出した。ううん、とまた考えるような、間を持たせるような声を上げて。空色の瞳が、同じ色の空を映す。深く考えないで欲しいんですけど。右手で何かを誤魔化すようにうなじを擦りながら、続ける。貴方がまだ病院にいたとき。
「本当に綺麗だったんですよ。抜け殻みたいに腰掛けてた、貴方の姿が」
だから死ぬなと。あの時彼は、私にそう言った。だから話しかけたのだと。大層軟派だと思っていたその理由は、紛れもなく彼の本心から来るものであったらしい。
なんてくだらないのだろう。気まぐれのようなそんな理由で、私は今も生きている。けれど、そうやって軽薄なものであったからこそ、背負っていた荷物を下ろしきることが出来たのだと思う。明日の朝食が楽しみだとか。帰宅したら本の続きを読みたいだとか。生き続ける理由は、そんな些細なことでいいと知った。
「あなたのせいよ」
背中から吹いた風が、ばたばたと余りのあるシャツを膨らませる。波が一度往来する音を聞いた。
「私がこうして、生きているのは」
奥の林で蝉がわんわんと鳴く声が、こんな所まで漏れて聞こえる。揃いきった役者たちが、これ以上ないほどに夏を演出してくれていた。まだ始まったばかりだというのに。
ふ、と彼が笑う気配がした。呪いをかけた死神が、今もなお効力を発揮しているおのれのそれに、喜んでいるような笑み。もうずっと、消えることはないのだと思う。彼に見張られている限り。彼くらいしか、私を見てくれる人はもういない。
「投げ出したいと、今でも思いますか」
「言ったじゃない。悪くないって」
あの時の瘡蓋も、包帯も貼り付けたガーゼも痣も。今はもう、跡もなく綺麗に消え去った。けれど本当になくなって欲しいものは、目には見えない。彼にあいた内側の穴が、目に見えるものであれば、どれだけ良かっただろう。ただ血が流れるだけの傷であれば。涙を流すその背中を、撫でてやることができたら。
私にそれが出来ないのは、いつか置いていかれる自分が、傷ついてしまうのが怖いからだ。触れれば触れるほど想いが募りそうになるのなら、最初から触れなければいい。何も知らないふりをしていればいいと。もっと早くからそう決めておけばよかった。
そうですか、と彼は心底安堵したような、そんな言葉を溜息とともに深々と吐いた。
「志保さんがまたおかしなことを考えてるんじゃないかって、ちょっと焦ったんですよ」
「理由がないじゃない」
「僕は普段の貴方をよく知らないから」
それこそ、あなたの方でしょうと言いたくなるのを、堪える。あなたの方こそ、おかしなことを考えているんじゃないかって。濁されようものなら、誤魔化されようものなら。心が余計に波立ってしまうのがやはり嫌だから、堪えた。私は彼の帰りを待つことしか、彼の帰ってきたであろう痕跡を見ることしかしない。彼が生きていてくれれば、私にはそれでよかった。それだけでよかった。
「心配性」
「はは。そうかもしれません。でも、僕は」
志保さんが笑ってるところを見たいんです。
陰からはみ出させた爪先。光の下に晒しただけで、こんなにも熱を持ったように感じてしまう。些細な胼胝(たこ)がところどころにできた足先。手には出来ないけれど、帰宅したら足の爪先に色を乗せよう、と思った。置物と化した未開封のマニキュアたち。そうしたら今年は、たくさんサンダルを履けばいい。
「知ってるでしょう。笑うのは苦手だって」
「まあ、いいんですよ。いつかで」
そんなちいさなことが、もし、穴だらけの彼の身体を埋める助けになるのなら。彼が流す涙の量を、すこしでも減らすことができるのなら。今すぐにだって、そうするべきだと思うのに。
足元に落ちていた、薄緑色のちいさな硝子片を拾い上げる。原型が予測できないほどに砕けてしまったそれ。元は一体、何の一部だったのだろう。酒瓶。器。水槽。装飾品。太陽と重なるように掲げれば、直視できないほどの強い光を遮って、その輪郭を映してくれた。白色をした恒星は、軒並み表面温度が高い。その最たるは、薄い硝子の奥。今、目の前にある。
いつか。彼が、こんな風に砕けてしまう前に。崩れてしまう前に。けれどそんな日はきっと、永遠に訪れることはないのだと思う。彼は脆い。けれど、どうしようもなく強い。その歪んだ認識が、おのれのなかにある限り。
ああ、やっぱり。
私は。