そのぬくもりに名前はあるか
最初に白と清潔感をイコールで結んだのは、一体どんな人間なのだろう。
大きな窓から入り込む陽の光が、床に落ちてひたすらに眩しい。天気のいい日だった。背中を壁に預けきった姿勢のまま、頭だけを傾けて外を見る。青。雲ひとつない空。宇宙から見ても地上から見ても、地球の色は変わらない。担当の看護師は、だから今日、私を外出に誘ったのだ。
潔白。清潔。平和。
目前の白い壁には、ちいさな染みや汚れが付着していた。ひとつふたつとそれらを数える。古い病院であるが故に、目を凝らせばいたるところに劣化の跡が伺えた。例えば私が今腰掛けている長椅子も、合皮が破けてなかの緩衝剤が剥き出している。
あたたかな日だった。院内はいつも過ごしやすい気温を保っているけれど、今日は外からの光がいやに心地良い。目を閉じれば、このまま眠ってしまいそうなほどに。
ごめんね。ここですこし待っててね。数分前、看護師はそう言付けて足早に何処かへ向かってしまった。随分信用されたものだ、と思う。戻ったとき、私がここから居なくなっている可能性を考えないのだから。実際当の私には動こうという気力がないことを、あの看護師は感謝するべきだ。左手首を覆う真っ白な包帯に触れる。今朝、看護師が綺麗に巻き直してくれた。
誰かの靴が、リノリウムの床を叩く音。手押し車を引く音。人の話し声。引き戸が開く音。
瞼で視界を遮ると、いくつもの人の営みが聞こえてくる。ためしに息をつけば、そのかすかな音でさえ喧騒の一部となって、耳に届いた。とんとん、と。そのなかでひとつ、こちらへ向かう音に気が付く。
その足音は明確な意思を持って、私のすぐそばで停まった。看護師が戻って来たのだろうか。隣、座ってもいいですか。瞼を開ける前に降ってきたのは、こちらへ問いかける男の声だった。
白いシャツ。黒いパーカー。ベージュのハーフパンツにスニーカー。見れば声の主は、ひどくくだけた格好でそこにいた。彼もここの病院の入院患者なのだろうということは、ひと目で分かる。灰のカットソーに七分丈のカーキのパンツ。私もおよそ似たような格好をしていた。
「ええ。どうぞ」
三人掛けの長椅子。言えば名も知らぬ彼はありがとう、と言って、やや間を開けた隣に腰掛けた。古びた長椅子がきい、と軋む。同じような椅子はすぐそこにもあるのに。もっと言えば、向こうの方が状態が良い。破れていないし、解れもない。
この男は、どうして私の隣を選んだのか。けれど、怪しい人ではないのだと思う。病院に不審な人物がそう容易く入って来るとは思えない。あの看護師と同じだ。随分病院を信用したものだな、と、そんなおのれを心の内でひとり笑う。
この男が誰であろうと、どうでもよかった。仮に今刃物で刺されようとも、首を絞められようとも。同じく、私にはどうでもいいことだった。
男はやや時間を空けてから、いい天気ですね、と言った。窓の向こうの手すりに、雀が留まる。首を機敏に動かして、ちいさな鳥は何かを探していた。ぴいぴい、と細く高く鳴く声が、硝子一枚を超えてここまで響く。
いい天気。先ほどそう思ったばかりであるから、私はその言葉に否定することなく頷く。
「ここで何をしているんですか」
別に、何も。答えようとして、瞬間口を閉ざした。やはり、すこし怪しい人なのかもしれない。大きなガーゼ。鼻の上の絆創膏。瘡蓋。ちらりと見やった横顔は傷にまみれていて、よく観察すればそれは手や脚にも広く及んでいた。喧嘩でもしたのか。髪色がほとんど金のような茶であるところを見るに、不良同士の諍いに巻き込まれた結果だと言われても、納得できる。ここは病院だ。諸事情で頭の螺子を失った人が話しかけてきた可能性も、零ではない。
「聞く前に、まず名乗ったらどうなの」
私は言葉に存分な棘を纏わせて返す。伸びた前髪が先ほどから目にかかってうっとおしい。
「僕ですか。そうだなあ」
それなのにその人は、ちっとも効いていない様子で間延びしたような声を上げる。指先で顎に触れながら、何かを考えているさまだ。これから彼の口から出てくる名前は、紛れもなく偽名であると断言できる。名乗るのに時間を要する理由なんて、それくらいしかない。
「じゃあ、ユウヤってことで」
ユーヤ。ユウヤ。でまかせに出てきたであろうそれは、しかし外見に一致したような名前だった。最後にヤ、のつく名を持つ人は大抵軟派で、髪を明るい色に染めていて、だらしのない恰好をしている。まさに、隣のこの男のように。あくまでも私の偏見だけれど。
変わらず、陽だまりが眩しい。伸ばした爪先に、発光した白がかかった。ボトムスから覗くおのれの脚は、不健康なほどに青白い。壁。光。包帯。肌。私は今、白に囲まれて生きている。
「君は?」
今外には、どんな花が咲いているのだろう。病室に飾られた見舞いの花は、既に見飽きてしまった。誰が置いたのか分からないような花を愛でる心は、生憎と持ち合わせていない。
私も偽名を名乗ろうか、と思った。知り合いもろくにいない私の脳裏に浮かぶ日本人の名前は、もう会えない姉のものくらいだ。それは私に貼り付けるには、あまり似合わない名前だった。何故なら明るくもなければ、特別美しくもない。
志保。呟くように零した言葉を、男は聞き逃さない。へえ、いい名前だね。人の名前にあえて欠点をあげる人間が、この世の何処にいるというのか。いや、事実私がそうだと気が付いて、伸ばしていた脚を仕舞う。ヤ、のつく名前を持つ人間は大抵軟派。それにしてもやはり、胡散臭い男だという印象は拭えない。
男は脚に肘を置いて、手を組んでいた。右の親指で、おのれを慰めるように左の親指を撫でている。
多分、コントラストの問題なのだと思う。この男の肌がやたらに黒く見えるのは。明るいもののそばにあるものは、相対的に暗く見える。視覚は正確ではないから、時折そうやって錯覚を起こす。
「私に、何の用」
「いいや。特には」
綺麗な子が腰掛けてるな、と思って。返されたのは、外見に似つかわしい軽率な答えだった。垂れた髪を耳にかけ直す。早く看護師が戻って来てほしいと、願うばかりである。
「残念だけど、軟派な人には構わないようにしてるの」
「ひどいな。人は見かけに依らないものなんだよ」
からから、と。そうやって笑うさまは、まるで風に回るかざぐるまを連想させた。子供のように笑う男だった。その横顔を懐かしいと、どうして今思うのか。
姿勢を正して、壁に体重を預け直す。病室のベッドは柔らかいのに、この椅子は硬い。指で押し込んだところで、大したへこみも生まれやしない。
男はすこしの間、何も言わなかった。どこを見ているのだろうと思ったけれど、先ほどの私と同じように、ただ正面の白い壁を眺めているだけのように見えた。ひとつひとつ、汚れを数えるみたく。変色した剥がし損じのセロテープ。そこには以前、どんなポスターが貼られていたのかを想像する。薬物防止のポスター。カレンダー。イベントや勉強会の告知。どれでもよくて、どうでもよかった。
「喧嘩でもしたの」
先にしびれを切らしたのは、私の方だった。それがこの男の狙いだったのかもしれない。数々の軽率な言動立ちとは裏腹に、その横顔はどこか寂しげに見えて仕方なかった。こんにちは。お散歩ですか。離れた先で、患者であろう老人と看護師の会話が聞こえた。続いている喧騒を、遠巻きに眺める。
「君が?」
「あなたが、よ」
右手で頭を撫でると、指の間に抜けた髪が引っ掛かっていた。手も指も、甲も。普段窓越しにしか陽射しを浴びないと、人はこんなにも不健康な色になる。おのれ自身のことであるのに、いっそ感心してしまえるほど。誰かが傷をつけたような、でたらめな皺の刻まれた手のひら。小指の付け根に黒子のある手。
握りこぶしを作ったとき、隠れるような位置に黒子があると、幸せになれる。随分昔に何処かから得た情報を思い出す。
「ああ、うん。いや、事故かな」
それで入院。男は笑いながらそう言った。短い髪を乱すように、頭を右手で撫でつける。かざぐるまが、ふたたびゆっくりと回りだした。決して笑えるようなことではないのに。大抵の人間はそうだ。取り返しのつかないもの以外を、おのれ自身で笑って誤魔化す。
それはお姉ちゃんだったかもしれないし、昔会った誰かかもしれないし、学校の先生だったかもしれない。指をゆっくりと折り曲げて、こぶしを作る。皺に巻き込まれて、黒子は簡単に見えなくなった。幸せの掴める黒点。多分、根拠もない子供だましの迷信だったのだろうと、今は思う。
君は。左に視線だけをやると、こちらを見ていた男と一瞬、目が合った。
「どうしてこんなところにいるんだろう」
背後の壁に頭を凭れさせれば、ほんの鈍い衝撃が骨に響く。わたしは癖のように、左手の包帯を掻いた。こんなことをしているから、日に何度も誰かに巻き直して貰う羽目になる。治りかけの傷というのはどうにも、むず痒くて仕方ない。
どうして。そんなもの、私が知りたいくらいなのに。
「生憎だけど、軟派な人間には教えられないの」
「それはそれは」
男は、綺麗な瞳を持っていた。純粋な日本人と日本人の血をかけ合わせただけでは、決して発現することのない色。私も似たようなものだけれど。しかし四分の一の混血では、これほど奥行きを持った眼にはならない。強い光のもとで、緑がかった茶色であることが分かる程度だ。
「僕ばかり口を動かして、不公平だと思わない?」
「本名を名乗ってから動かしてほしいものね」
「おや。いい推理だね」
何が推理だ。馬鹿馬鹿しい。私は男に聞こえるように、分かりやすく溜息をついた。
いくら白色が清潔な印象だからといって、壁も天井もそれに染め上げてしまうのは、如何なものかと思うのだ。日々目にして過ごす患者の側にも立ってほしい。見飽きる、というのがまずひとつ。それに白に囲まれた世界なんて、まるで天国のようだというのが、ふたつ。陽が十分に照っているというのに、蛍光灯は仕事をするのをやめない。
けれどここは、きっと天国ではない。何故なら私は、天国へ行きそびれた人間だった。二度も。自らの力では、心臓ひとつ止めることも叶わなかった死に損ない。
勝手に動いた口が、あのね、と言葉を紡ぎ出す。二本あるうちひとつの蛍光灯の両端が、黒ずんでいるのが目についた。じきに、あの管は光を灯さなくなる。
男が早々に去ってくれるのではないかという、希望を込めて。
「死に損ないなの。私」
しかし紛れもない、事実でもあるけれど。ふらり、と脚を揺らす。床と靴底が擦れて、きゅ、と不快な音を立てた。視界に広がる天井には、蟻の巣のような模様が描かれている。それはいくつもが不規則に連なって、ずっと奥まで続いていた。
「随分他人事だね」
「だって、覚えてないんだもの」
一度目は手首を切って。二度目は、薬を大量に飲み込んで。要りもしなかったいのちはそれでも私の中に返されて、その代償とでもいうように、勝手に記憶を抜かれた。一時的なものだろうから、じきに戻るはずだと、担当の医師は言う。まだ一週間も経過していない、同じようによく晴れた日のことだった。
「あなた、私の面会に来たんでしょう」
どうして私は、天国なんかに魅せられていたのか。不完全になった今の私には、かつての私を理解できなかった。しかし、理解しようという気にもならなかった。
病室に置かれた花たち。折り紙の詰められた紙袋。包装紙さえ破っていないギフトボックス。
誰かも分からない人間から贈られたもので、おのれの部屋が埋まっていく。それは、ちょっとした恐怖だった。宮野志保という一個人にそうするだけの価値が、いつ、どこで生まれたというのか。すべてを思い出せば、分かるのだろうか。
違うよ、と男はおどけたように否定してみせる。芝居を打つかのように、無理矢理に色を付けたその声。かざぐるまはぴたりと、動きを止めたままだった。
「本当に、ただの通りすがりなんだ」
そしてほんの一瞬、瞳が翳りを帯びたのを見逃さなかった。
その言葉が真であろうが嘘であろうが、実のところはどうでもよかったのだ。私のこれから先の人生と、同じくらいに。ただ、元は友人であったはずの人間を傷つけてしまうことを、申し訳なく思っただけだ。
誰かの記憶から自身が消えてしまったという事実は、それだけ悲しみを生む。失くした方も。失くされた方も。しかし私は、どうやらその心さえ失ってしまったらしい。詮を閉じ忘れた湯船のように。湧く悲しみが、咀嚼する間もなくするすると抜け落ちていく。いつだってそこは空だった。満たすものは何もない。
「それに僕が本当に知り合いなら、名前なんて聞いたりしないよ」
見上げている天井は、手を伸ばせば届きそうなほど低いところを覆っていた。天国には、きっと天井なんて視界を遮るものは存在しない。私だけが偽りの白に閉じ込められて、空を見上げることも叶わないでいる。そうまでしてしがみつきたい生では、ないというのに。
「確かに、そうね」
「そうだよ」
もう会えない人たちを前に、私は、こんなにも薄情だった。ろくに思い出もない両親。大好きだったお姉ちゃん。嘲笑うように、口の端を持ち上げる。しかし埋まることのない虚しさだけが、浮き彫りになるだけだった。
どうして私は、ここにいるのだろう。この世界に。出口のない迷路の中心に、ただ立ち尽くしているようだった。目的を失くした生というものは。
乾いた指先。かすかに擦り合わせて生まれた温度は、まるで自分のものでないように思える。あたたかい日だった。それなのに、身体はどこか薄らと冷たい。
ごめんね。
それは本当に、ちいさな声だった。長く息を吐いた先で、男がそう呟く。この距離でなければきっと、聞き逃していたであろう声。
「何が、」
金糸のように垂れた前髪が覆うせいで、男の目元は伺えない。陽の下に出れば、その髪はきらきらと光を零すのだろう。そのさまは、とても。
「長々と引き留めてごめんね、ってことさ」
さて、と男は長椅子から立ち上がる。唐突に人を失ったそこはわずかに窪んでいて、皺が寄っていた。初めは気に留めていなかったけれど、背の高い人だ、と思う。そのスニーカーの右の紐が、解けそうになっているのが気に掛かった。口に出すことはしないけれど。
ああ、そうだ。思い出したように、男は言う。
「最後に、ひとつだけ」
何かしら、と返す代わりに、首をひとつ傾げてみせた。さいご。最後。最期。彼の口にした三文字には、一体どちらの漢字が充てられているのか。もう会うこともないのだから、どちらにしたって変わりはしないけれど。
「君みたいな綺麗な子が死ぬのは、勿体ないと思うよ」
男に抱いた第一印象は、最後まで覆ることはなかった。例えば目前に印象の良い人間がいたとして、面と向かって褒めに向かえる人間はそういない。私も。あの看護師もきっと。大層得な性格をしている。その得とやらは、私にあまり効果を成さないのが無念でもある。
それを生きる理由にするには、なんてくだらない。
「まるで、私が近いうち死ぬような言い方ね」
「違うのか」
「違うわよ」
「なら、良かった」
言いながら、男はこちらに向かって瘡蓋だらけの右手を差し出した。爪先がささくれ立って荒れている、大きな手だった。どういうつもり、という意味を込めて、その瞳を見返す。
「約束してくれるんだろ」
握手を待つその手に思わず右手が浮いたのは、経験から来る反射だ。まるで他所の家の犬を撫でるかのごとく、静かに右手を近づける。噛みつくこともなく、吠えることもなく。その手は、私から触れに来るのを、動くこともなく同じところで待っていた。
ゆっくりと重ねて、ゆっくりと力を入れずに握る。ただそれだけのことなのに、男は笑い損ねたように目元を歪めた。やわらかに下がった目尻。細くなった眼が、ほんのかすかに揺れる。ひとの手がこんなにもあたたかいということを、私はこの時、思い出していた。
ごめんね。それは、私が口にするべき言葉だったのではないかと思う。もう使われてしまったから、私が用いることは出来ない。他に何か言葉を探したけれど、特別にいいものは見つからなかった。だから代わりに、その手を長く握っておくことにする。手の甲を一閃する瘡蓋が、おのれの指先に触れていた。
「じゃあ、またね」
宮野志保ちゃん。そして男は手を離すと、何事もなかったかのように背を向けて立ち去って行った。ありがとう、とひと言を残して。
すれ違うように、看護師が早足でこちらへ戻ってくるのが見える。ごめんね。電話が長引いちゃって。申し訳なさそうに眉を下げる看護師に、私は大丈夫、と労わりを返した。
男の後姿は、目を離した隙に廊下から消えていた。ほんのわずかに動いた床の陽だまり。あの瞳は、そうだ空の色をしていた。今の時刻よりももっとずっと薄い青。朝を迎える頃の、白んだ空の色。太陽が顔を出す前の、一瞬の景色。
苦しそうに笑んだあの表情が、眼に焼き付いて消えない。