そのぬくもりに名前はあるか



あなたがいつも見る夢が、今日こそ幸福なものでありますように。
そうやって、祈りながら眠りに就く。
けれど眼を開ければいつだって、そこには涙の伝う寝顔があった。


×××


二番線、ドアが閉まります。
階段に足をかけた背後で、無機質なアナウンスが流れていた。同じく列車を下りたばかりの幾人の後姿を眺めながら、私も先を上っていく。
一番線の側の改札を抜ける為には、わざわざ階段を昇降しなければならない。それがこの最寄駅の最も不便なところであると言えた。もうひとつ挙げるとすれば、各駅停車の列車しか停まらないところだろうか。段差に履いていたヒールを引っかける。よろけた身体を咄嗟に掴んだ手すりへ寄せた。
二十二時過ぎ。帰宅時間は今日もさして変わらない。毎日同じ電車に乗って大学へ向かい、同じ電車で帰路につく。今の私の人生は、反復したそれらで構成されていた。まるで円を描くように。ぐるりぐるり、と線の上をなぞり続けるように。
そして大抵はひとりで歩く帰路に、今日は殊珍しく同行者が付くらしい。大抵に含まれない少数の例外によって、正しく辿っていたはずの線がずれる。円になり損ねたのは、今日で何度目になるか。これは以前から気まぐれに起こる、回避しようのない誤差のひとつだった。
迎えに行きます。そのメッセージを確認したのは数十分前、大学の研究室を出た頃のことだ。私はそれに既読の印を付けたのみで、返事をしていない。しなくともいつもの場所に向かえばきっと居て、投げられる言葉に適当な相槌を打っていれば、そのうちに部屋に着いている。片道十数分。住んでいるマンションは、駅から随分歩いた所にあった。
下りの階段を使うことはせずに、エレベーターを待つ。そのあいだに駅に着いたことを簡潔にメッセージで送った。文字数にすればたったの五文字のそれに、間を置かずに既読が付くのを確認する。ドアが開きます。ひとりでに喋るエレベーターに乗り込み、背後から誰も来ないのを確認してから扉を閉めた。
エレベーターは、この世界とどこかにある別の世界を媒介する乗り物だという。嵌められた格子硝子の奥。灰色のコンクリートが上へ上へと消えていくのを眺めているあいだ、無意識に頭に浮かぶのはそれだ。しかし扉が開けば広がるのは、いつもと変わらぬ夜の景色だった。
蛍光灯が切れかけているコンビニエンスストアの看板。閉店作業中のスーパーマーケット。黒く聳(そび)え立つ建物の数々。駐輪場にぽつりと残された、誰かの自転車。
そのなかで、かつん、と踏み出したおのれの足音が響く。アスファルトにぶつかって伝わる鈍い振動に、随分前から踵が音を上げていた。早く脱いで、地に足をつけたい。十センチ弱のヒールの靴なんて、普段は履かないのに。選んだのはこの服装に似合うか、似合わないかの二択に沿った結果である。どうせ研究室に着けば指定のつまらない靴に履き替えてしまうのだから。服だって、釦の取れかけた試験薬付きの作業着に、首元から脚を覆われる。だから通学時間くらいは自分の好きな服を着ていたかった。年の三分の二もの時間、汚れた服を纏わないといけないなんてつまらないにも程がある。結果、足に負荷がかかるとしても。しかし明日は、踵の低い靴を選ぼうと決めた。
彼はいつものように、大きく時計の掲げられたちいさな広場にいた。黒い帽子を被り、星の隠された空を眺めている。ちいさい広場とは、よく考えれば矛盾した言葉だと思う。けれど駅前広場と銘打たれている以上、どう言おうとそこは広場になるのだろう。ちいさな駅に似つかわしい、ちいさな空間。
そしてその人は私を目で捉えるなり、おかえりなさい、と人好きのする笑みを添えて言った。ぶん、と彼の頭上を、蠅だか蛾だかの羽虫が過ぎる。ひとつ置かれた灯りに照らされているせいで、その軌跡だけがよく追えた。
ただいま、でもお待たせ、でもなく。ええ、と返した私の言葉に、彼はそれなのに満足そうに目を細めて、帰りますか、と立ち上がる。
味気ないその灯りが、帽子から出た彼の髪を透かしていた。


×××


今日の服、よく似合ってますね。
彼は、降谷さんは隣を歩きながらそう言った。千切れた灰色の雲に邪魔をされた夜空。明日は雨が降るのだろうか。持っているレインブーツは、軒並み踵が低い。レインと言わず、晴れの日でも履くことができる優れものたちである。
「あなた、いつもそう言うじゃない」
「おかしいな。本心なのに」
まったくわざとらしいと思いながら、私は腕を組む。右肩に提げたトートバッグが指先に掠めた。
例えば今日のように並んで帰路に着くとき。例えば玄関を開けて、同じく帰宅したばかりの彼と顔を合せたとき。例えば出がけを見送ってくれるとき。降谷さんは毎度必ず口にする。今日の服、よく似合ってますね。特別に脚が出ているわけでも、特別凝った髪型をしているわけでも、特別化粧に拘ったということでもないのに。
ハイウエストの黒いパンツ。ボリュームを持たせた袖のトップスは切り替えになっていて、シフォン素材に肌色がかすかに透ける。髪は後ろでひとつにまとめて、雑誌にあったアレンジを見真似で施しただけの今日も。おかしな人だ、とそのたびに思う。

「珍しいのね」
「何がですか」
「迎えに来るなんて」

随分暇そうじゃない。言えば、彼は確かに久しぶりですね、と思い出したように返した。背後から走って来た車が、月の代わりに夜道を照らしてくれる。速度制限のある道路で、その車はややその数値を上回って走行しているように見えた。彼は何も言わないけれど。行くときも、帰るときも。曲がり角にある家から、いつも線香の香りが滲む。
暇そうじゃない。隣の男に宛てるのに、この言葉よりふさわしくないものはないだろう。
私は彼が何者であるか、または何者であったかを知っている。逆もまた然りだ。彼も私が何者であったかを正確に理解している。私は普通の女の子に戻った。数年が経過し、そして普通の女性へと成長した。その数年のあいだの私を、彼はずっと見ている。観察という名目が失われたあとも続くこの今は、単純に利害が一致しているからという理由に過ぎない。少なくとも、私はそう認識している。

「僕、ちょっと心配してるんですよ」
「あら、何を」

一方で隣の男は何も変わらずに、きっと今も普通ではない何かに手を染めている。それらに関して、私が知ることはひとつもない。それでさえあくまで推測に過ぎず、今の私が彼について知り得るのは、住民票一枚を取り寄せれば誰でも覗くことのできる情報くらいだ。あとはすこしの嗜好と、得手不得手。これも偽りの姿だと言われれば、沈黙するより他はない。探ろうとすればするほど答えが遠のくなら、最初から何も探らなければいい。何も知らないふりをしていればいいと、数年前に私自身がそう決めた。

「ここ、街灯少ないから。墓地は近いし道は狭いし」

心配だと言っておきながら、こうやって肩を並べて夜道を歩く日は、明日以降しばらくはやって来ないのだろう。本当におかしな人だ、と思う。言葉と行動が一致しない。
彼の心配事とやらを、私は余計なお世話だ、と一蹴した。通りがかったコインランドリーから漏れるあたたかな空気が、柔軟剤の良い香りを含んで漂う。何度でも吸い込みたくなる香りだった。市販のどんな洗剤や柔軟剤を用いても、この香りは再現できない。
いつもよりすこしだけ暑い夜だった。日中いくら気温が上がろうと、陽が落ちればまだ肌寒い。しかし今日は湿り気を帯びた風が、首元を心地よく過ぎていく。伴うように、揺れる後れ毛が頬を撫でた。

「夜、何か食べましたか」
「いいえ」
「シチューの残りでドリアが作れますけど」
「そう。任せるわ」

買ったばかりの圧力鍋を試そうと、昨晩作ったシチュー。降谷さんは昨日、帰ってこなかった。食べ切れずに多く残されたそれを、彼は冷蔵庫のなかに発見したのだろう。
風に吹かれて、空のビニール袋が目先の道を泳いでいく。傍から見れば歩いている猫のようにも見えて、目をしばたたかせた。やがて知らない家の囲いにぶつかって、くしゃり、と平らにひしゃげる。
もしかすればこの男は、明日居なくなっているかもしれない。死んでいるかもしれない。
例えそうなろうと、私には彼という人間に踏み込もうとする意思はなかった。世界やおのれに訪れた平穏は今も続いているけれど、彼の日常にそれが訪れることは、彼が何者であることを辞めない限り、ずっとない。
「圧力鍋を買ったんですね」
「あなたも使っていいわよ」
「本当ですか」
角煮が簡単に作れる、と表情が伺えないなかで、降谷さんの声がやや浮き立っているのが分かった。彼の作る料理は、何であれ美味しい。強いて言うなら、その料理たちが明日突然消えてしまったら。
そんなことがあれば、私はそれを悲しいと、すこし思う。


×××


リビングでポストに投函されていた夕刊に目を通しているとき。音量を落としたテレビはスポーツの、特に野球の話題を続けて取り上げていた。目で追えないほどの速度の球が、鋭く打ち返された先。フェンスの向こうに落ちたそれが、跳ねて大きな弧を描く。
沸き立つ歓声に被せて、志保さん、と背後から私を呼ぶ声があった。振り返れば、リビングへ続く扉から半身を出している彼と目が合う。

「何?」
「シーツ、洗濯しましたよね」

まだ乾いてなかったんですけど。シーツ。そのひと言を聞いたのもやはり久しぶりだったものだから、言葉を返すのにまばたきふたつほどの間を要した。逆転サヨナラホームラン。灰色の頁を占める見出しが、これ以上にないほど大仰に主張をしている。彼の言葉に、私はそう、と頭を縦に揺らした。どこもかしくも野球ばかりで、面白くない。
それは私と彼のあいだで用いる、暗号のようなものだった。降谷さんは洗面所に吊るされたシーツを見かける度に、その暗号で私を誘う。単純に、だから今日は僕の部屋で寝ませんか、というそれだけの意味を含んだ暗号。
本当に乾いていないのかはさておきだが。確かに今朝、洗濯をして濡れたシーツを、洗面所に吊るしてから家を出た覚えはあった。
週に一度ほどの頻度で洗濯かごに放り込むそれと、彼が顔を合せる確率はそう多くはない。日をとうに跨いだ頃に帰ってくることもあれば、まるきり帰ってこない日も、朝起きてリビングに出ると、ソファで寛いでいることだってある。どうしてか今日のように早い時間に帰宅していない限り、彼が生乾きのシーツを目にすることはないのだ。実際に彼の口からその単語が出てきたのは、最後が思い出せないほど前のことだった。
第三者に悟られないようにするためのサインを、人は暗号と呼ぶ。この部屋には私と彼と、それ以外に誰もいないのだから、つまり暗号は暗号として成り立つことはないはずなのに。それなのに彼はシーツというひと言を、その度に用いる。単純に嗜好の問題なのだろうか。彼という人について、分からないことは多い。
さて、嬉しいニュースは野球だけじゃないんです。テレビのなかのスポーツキャスターが、声高に次の映像を促す。野球に似た白球が空へ高く上り、今度は緑色の芝を跳ねて転がった。ぱちぱち、とそこにまばらな拍手が弾ける。
日付を跨いでから、三十分ほどが経過していた。明日は普段よりも早く家を出なければならない。昼から夜まで。朝が不得手である私は、研究室でのコアタイムがそう定まっている。しかし明日は学部生の授業で、同期の代わりに朝から補佐をひとつ頼まれていた。院生が遅刻や寝坊をしていては面目が立たない。
やっぱり乾燥機が欲しいですね。半分開いたままの扉の向こうで、彼は言う。肯定も否定も求めていないと分かっていたから、返事をすることなく新聞を捲った。
もしもそんなものを買ったら、シーツが乾いてないなんて言えなくなるのに。


×××


とうに成人を迎えたふたりが収まるには、シングルベッドはいささか狭すぎる。そんな不満を抱きつつ、今日も私は背後から彼の腕に抱かれて眠る。何をするわけでもなく、ただ背中に、腕に足に、他者の体温を感じるだけの夜。
私、明日早いのよ。口元を埋めたブランケットのなかでそうぼやけば、降谷さんは悪びれもなくそうなんですか、珍しい、と返してくれた。普段よりもひとつ落ちた静かな声色が、耳をこそばゆく撫でる。わざとやってるんじゃないでしょうね。いつも彼の、本当のところにある意図は掴めない。

「そういう時は断るべきなんですよ」

腰に落ちていた彼の右手が、私の右腕を滑る。そうして行き着いた手首を、親指の腹が数度撫でた。視線をわずかに落とせば、まさに絡もうとしている彼と、私の手がすぐそばに見える。吐く息で呼吸の間隔を計られてしまいそうなほど、近い。
静かな部屋に沈黙を流したまま、私は一度瞼を下ろした。しかし彼の手はそこで意思を失くしたかのように留まり、おのれに熱を与え続ける。生まれた黒い世界で、その温度は際立って仕方がなかった。ふたたび瞼を持ち上げたところで、その温度は消えてはくれない。人と人が触れ合うと、本当に、どうしてかあつい。

「本当は嫌よ。あなた硬いから、寝心地悪いの」
「それは。はは」

勘弁してください。降谷さんはそうやって、暗闇をやさしく揺らすみたく、かすかに笑った。顔は見えないけれど、きっと今、困ったように眉尻を下げている彼の表情が容易に想像できる。
降谷さんは眠るとき、就寝灯を点けない。反対に点けて眠る私は、だから暗闇に包まれた部屋が、いつもすこし落ち着かなかった。足元にかかる、いつもとは異なった生地の感触も。同時にひとりで眠るのに慣れきった身体が、他者の熱にじくじくと侵されていくような感覚にも。
おのれの体の深いところで、心臓が確かに揺れているのを感じていた。部屋から持ち出した枕の具合が、唯一変わらないでいてくれる。そういえば、以前にこうしたとき、彼とは観葉植物の話をしたことを思い出した。

「飽きないのね。あなたも」
「も、とは」

毎朝水やりをしているサボテンが、濃桃の花を付けたのだ、と。それは彼から唯一頼まれている日課だった。リビングに置かれているサボテンの水やり。告げたとき、その植木鉢は以前働いていた喫茶店で貰ったものなのだと、彼は教えてくれた。
私も。そう言うように誘導されているような気がして。素直に口にしてやる義理も道理もない。

「そういうの、揚げ足取りって言うんじゃない」
「こんなことでからかったりしませんよ」

サボテンの開花期間は短く、いくつかのちいさな花たちはすぐに枯れてしまったけれど。調べてみると、うまくやれば来年も花を付けてくれるらしい。その次の年も、さらにその次の年も。だから私は霧吹きを数度押し込むだけの作業を、一日たりとも忘れていない。写真を撮り損ねてしまったのが、今も心残りなのだ。
今宵は取り立てて、話すべき内容が見つからなかった。こうでもないと、彼とまともに話す機会もないのだが。だから私は、件の暗号を断ることはしない。この男と話をするのは本当のところ、嫌いではなかった。
しかし思えば、こんなこと互いに何の利益にもならないのに。重なりかけたふたつの手に触れるのも構わず息を吐けば、肩の力が自然と抜ける。身体に乗る右腕が、それに伴ってかすかに上下した。一挙手一投足、誤魔化しが効かない。

「最近、何か変わったことはありませんか」
「何かって、」

同じことの繰り返し。円環の上を歩く日々。今日はまだ、そのサイクルを閉じきれていないけれど。昨日特別な何かがあったわけでも、明日特別な予定があるわけでもなく。誰もが皆そうであるように、私の毎日もまた淡々と過ぎていく。強いて言うなら、と考えて、やはり思い当たることはなかった。
しかしひとつだけ。変わったことと言うよりも、引っ掛かっていることがある。それを目近で見てしまったときからずっと。誰に聞くべきことでないとも分かっていたし、彼に聞くのは一番の間違いであることも分かっていた。だから、長いあいだひとりで抱えたままでいる。
別に、何も変わらないわ。これ以上相応しい返答を、私は持ち合わせていない。嘘を吐いたのだ。大した嘘ではないけれど。

「良かった」

言葉は安堵のそれであるが、しかしまるでかけ離れた声色で彼は言った。その様子に、間を置かずに尋ね返す。

「どういう意味」
「僕は基本的に、貴方を信用していないので」

貴方に何か起きると、ちょっと困るんです。
信用。そのふた文字が、こんなにも軽々しく鼓膜を突く。彼の口からそんな言葉が出てくるのがすこしおかしくて、ついちいさく鼻先で笑った。私と彼を繋ぐのに、なんて似つかわしくない言葉なのだろう。言葉に起こすのもいっそ馬鹿らしいとさえ思う。それは言われずとも、充分に理解していることだった。この頭で。骨の髄まで。それは彼を彼たらしめる、理のようなものだ。この世に、彼の信用を完全に得られる人間はいない。

「それならあなたは、随分不用心な人なのね」

信用もしてない人間を、自身の寝床に誘うなんて。これはただの、つまらない意趣返しのつもりだった。けれど言いながら、その言葉がおのれにも降りかっていることに気が付いていた。信用もしていない人間の寝床に入り込むなんて。さらに背後を取らせている分、私の方が余程不用心だと言える。

「その言葉、そのままお返ししますよ」

不意に、部屋に明かりが差し込む。タイヤがアスファルトを踏みしめて、大通りの方へ抜けていく気配がした。マンションの前の道に車が通っているのだ。漏れるヘッドライトが、細く天井に模様をつくって、すぐに消えていく。
きいん、と耳の奥で、静寂と静寂が擦れ合って響いた。しんと静まり返った水面を、わずかにだって波立たせないように。でも、僕は嬉しいんです。彼はそんな声色を纏わせた言葉を、ゆっくりと落としていく。

「志保さんがこの部屋に、跡を残してくれるのが」

こんなに静寂にまみれていて。こんなにふたりのあいだが失われていると、空気を揺さぶるその気配が、感触が、手に取るように分かってしまう。彼が細く静かに、息を吐いたのも。
人とは、どうしてこんなにもあたたかい。いつの間にか、彼から与えられる熱が体に馴染んでいたことに気付く。私も同じいきものであるはずなのに。

「あなたと話していると、言葉数が増えるわ」
「楽しいからですか」
「いちいちどうして、って聞く手間が面倒ってことよ」

部屋。跡。嬉しい。その三点が、頭のなかでばらばらと散ってまとまらない。そうですね、分かりやすく言うと。ブランケットの下で動かした脚が、彼の脚に触れる。

「だって昔の志保さんは、目を離すとすぐに何処かへ消えてしまいそうだったから」

ここよりも遠くで、虫が鳴いていた。りんりん、と鈴を転がし続けるような声で。もうじきに、蝉も鳴き始める時季がやって来る。夏。暑くてうるさくて、好むには程遠いところにいる季節。
それはもう、うんと前のことなのに。彼の言う昔とは、きっとまだ病院のベッドに縫い付けられていた頃の、数年前の私を指している。私が私を取り戻して、まだ日も浅い頃のことだ。
いつの話をしているのよ。何の変哲もない毎日を歩いているうちに、かつてのそれらは随分遠くに行ってしまったような気がする。

「だから信用してないって。言いましたよ」

大きな皿に移した、冷蔵庫のシチュー。買ったばかりの圧力鍋。確かに花のついたサボテン。洗面所に干した白いシーツ。机の上に放ったままの夕刊。
生んだもの。残したもの。今も残るもの。時の流れに逆らえずに消えたもの。あらゆるそれらを、彼は嬉しいのだと言う。知らなかった。知りようもなかった。こんな時でしか、彼の本当の心を知ることができない。だから私は、彼からの暗号を断ることもできない。

「生憎、私もあなたを信用していないの」
「知ってますよ。そんなことは」

空いている左手で、シーツの上に散る毛先に触れた。すっかり肩に触れる長さにまで伸びた髪。暑くなる前に幾らか切ってしまおうか。毛先を首元で短く切り揃えれば、またあの頃の自分に戻るようで。切れば、彼は驚くだろうか。それでも、よく似合っていると、いつものように言うのだろうか。
知っていますよ。さも当然のように言い切った声が、耳の内にまだ残っている。
跡。これから先に残すもの。曖昧になった互いの肌の色を見つめながら、ほとんど口も動かさずに問うた。ねえ、それって。

「抜け殻でも、喜んでくれるの」
「貴方はやっぱり、意地が悪い」

拘束するその手を抜けて、そのひとつひとつの皺を確かめるように指先で彼の手のひらをなぞった。そんないたずらを諌めるように、彼は私の指ごと、その手をかすかな力で握り込む。でも。呟かれたそこに言葉が続くまで、あやすような親指が、手の甲を三度叩いた。まるで眠りに誘うようなやさしさで。

「志保さんがそれを望むなら、」

ちゃんと喜ばないといけないですね。
暗闇に馴染んだ眼(まなこ)で、部屋に浮かぶ輪郭を辿る。この部屋には、物が増える気配がなかった。左から右へと繋ぐ視線を妨げる障害物も存在しない、つまらない空間。明日引っ越しを控えていると言われても、違和感のない部屋だ。随分前から、私にはそうとしか見えていなかった。

「本当、明日にでも死にそうな人が、よく言うわ」

どれほどちいさく発しても、闇に溶け込むことのないおのれの声。意地が悪い。正しく、言葉の通りだと思った。
例えば私の持つ技術を用いて、今の彼が何者であるかを探るのは、恐らく不可能ではない。百の機会があれば、一程度の確率かもしれないけれど。そして得られた情報が、すべて偽物である可能性もあるかもしれないけれど。
何よりそれを行動に起こせば、彼がこの場所から居なくなってしまうような気がして。別に、そんなことはどうでもいい。どうでもいいと思うのに。このやたらに重い腕から、やわらかく包んでくれるこの手から。私はいつの間にか、抜け出すことができない。
もしかすればこの男は、明日居なくなっているかもしれない。死んでいるかもしれない。もしそうなったとして、私にはその原因さえ知ることは出来ないのだろう。居なくなったというひとつの事実だけが、目の前に残るだけなのだろう。

「そんな風に見えているなんて、心外です」
「私も、同じ台詞を返したいところよ」

短く切り揃えられた爪を、自分のもののようにごく間近から眺める。お世辞にも綺麗とは言えない、無骨な男の手。その大きな手に隠された、おのれの指たち。比べてみれば随分細くちいさくて、簡単に折られてしまいそうだと、思った。指と指のあいだに滑らせた爪先を、彼は応えるように掴む。絡まりあった指の根が、すこし窮屈だと嘆いていた。私はそれに、知らないふりをする。
枕と髪が擦れて、耳元でやたらに響く。後ろを取られるのは、不用心だから。身動きもろくに取れない距離にいること自体、既に間違っているのかもしれないけれど。
重ねた手を携えて向き直る先で、カーテンの隙間から外の光がほんのかすかに漏れていた。空を覆っていた雲が捌けたのだろうか。夜でさえ、完全な闇を生み出すことはできない。いつだって、どこかで光が邪魔をする。
彼はほんの一度だけ、正面から私を強く抱いた。肩甲骨と肩甲骨のあいだから、腰までを静かに指先を這わせてから、数度背を叩く。そのあいだ、私は彼の部屋着のシャツを握っていた。皺になればいい。握りしめて、その胸元に頬を寄せる。
互いの存在を、確かめ合うだけの夜。言い訳を用意して、ふたつの体温を分け合うだけの、夜。
彼は嘘つきなのだと思う。歯磨きをしながら触れたシーツは、やはり隅まで綺麗に乾いていたのだから。
馬鹿ね、あなた。私なんかに人生を使って。
聞こえなくてもよかった。ほとんど息混じりに口を動かしただけの言葉たちへ、それなのに彼は馬鹿でいいんです、と私へ、そしておのれに聞かせるように言う。その声が鼓膜を揺らす感触が、ひどく心地よくて。
その厚い身体の奥底で、血液がごうごうと巡るその中心で。私は、いのちが燃える確かな気配を感じていた。彼は生きている。明確にちいさな音を立てて、その存在を叫んでいた。
寝静まった夜を起こしてしまわぬように。ひそめた声と声を、ほんのちいさな距離を埋めるみたく交わし合う。ただの、おやすみ、というひと言を。体に右腕の重さを携えながら。人のぬくもりに身を寄せながら。
そして今日も、私は彼の腕に抱かれたまま、眠りに就く。



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