LIFE
体重を左足にぐん、と乗せる。氷を削る感触が、靴を超えてかかとに響いた。力の限り脇を締めて、体の線を限界まで絞る。遠心力を最大限に利用して、右足も力いっぱい振り上げて。僕は今日も宙を跳ぶ。
がくん、と左の爪先がリンクを抉った。四方に飛び散る氷のかけら。やば。転ぶ。咄嗟に出た右足が、どうにか転倒を堪えてくれた。まただ。はあ、と膝に両手をついて頭を垂れる。軌道まみれの銀板が、割れた鏡みたく僕の顔を歪めて映した。
端から聞こえたコーチの声に、顔を上げる。
「最近転ばないね」
「それだけじゃあ」
駄目なんだよなあ。口にした日本語に彼は首を傾げた。いくらすこし距離があるからといって、コーチの視力は侮れない。不満たらたらの僕の顔を見て、にこにことその表情を変える。彼はとびきりに眼がいいのだ。性格にとびきりな問題を抱えてもいるが。僕が悩んでいる姿を見ると、嬉しそうに笑うのだ。
「右足に頼りすぎ」
アクセルとは違うんだから。そう助言を述べて、ヴィクトルはシルバーのボトルを差し出した。水分補給をしろ、という合図。従うように、すいすいとリンクサイドまで氷を掻く。こめかみに垂れた汗を手の甲で拭った。体内の水分なんて、燃えるような熱が簡単に飛ばしてしまう。
「転ぶと転ばないじゃあ差は大きいよ」
誰かに教わった? 言いながら、僕の肩にタオルを掛ける。
ボトルのお茶は温かい。今朝用意したままの温度をしっかり保ってくれていた。寒さで動きがちいさくならないように、温かい飲み物でひたすら体内を燃やす。既に熱くても。リンクに漂う冷気は、容赦がない。
寒いのに汗をかいて、どちらが正しいのか分からなくなる。ただ黙っていても溢れてくる汗を、拭く。靴の中に籠った熱が逃げていかない。それを意識し始めるとすこし気持ちが悪くて、落ち着かなくなる。足の指の間が汗で湿っていた。
「まさか」
「だよねー」
「ああでも、」
冷えた空気を十分に含んだタオルで、顔を撫でまわす。ぐしゃぐしゃになった前髪を適当に元に戻して、ケースから一枚、ティッシュを引き抜いた。ず、と鼻をかむ。グローブについた氷が頬に触れて、冷たい。
「前、ユリオにちょっと教わった」
「ユリオ?」
「ほら、温泉オンアイスのとき」
「ああ」
ユリオ、体軽いからなあ。丸めたティッシュをヴィクトルは受け取って、数メートル先のゴミ箱にひょい、と放る。綺麗な放物線を描いて、紙くずはそこに収まっていった。ナイッシュー。なんとなく、片手でハイタッチを交わし合う。
「珍しい。ヴィクトルに褒められてる」
「焦ってるでしょ」
「そんなことは、ないけど」
ブレードに張り付く氷を叩いて、落としていく。鏡のように照明を反射したそこに一瞬、自分の顔が映りこむ。どこもかしくも、鏡だらけだ。焦っているような顔を、していただろうか。嫌だな、ってブレード越しに、その顔を叩いてやった。
昨日の夜、眠る前のことだ。何度跳んでも完成の気配が見えないジャンプ。もしずっとこのままだったらどうしようって考えて、背筋が冷えた。どろりと重い雫のような嫌な予感が、ゆっくりと背骨を伝っていくのが分かった。
失敗を考えるなんて、と馬鹿にされるだろう。考え始めたらどこまでも沼にはまってしまうのが、僕だ。自分が一番よく分かっているのに。気に入りの曲でも聴きながら、眠ればよかった。けれど失敗を重ねるうちに擦れて出来た肉刺が、痛くて。そこがちくちくと鳴くたびに、嫌な予感が浮かんで消えていかない。
フィギュアスケートは表現競技だ。一方で点数競技でもあるのだから、失敗してしまったときの想定は、ある程度しておく必要がある。と思う。僕のコーチはあまりよく理解していないところだ。
三度しかチャンスのないジャンプは、規則にぎちぎちに縛られている。ひとつだって取りこぼせない。間違えられない。もしひとつ目を失敗したら。ふたつ目を失敗したら。みっつ目を失敗しようものなら、得点を根こそぎ失うことになる。去年の自己べストにだって、届かないかもしれない。
あのエキシは、あの形式だったから勝てた。きっと、大会なら点数で負けていた。ヴィクトルがジャッジだったから、とは思いたくはないし、思ってもいない。でも、もしも試合だったら。試合なら本当のところ、どうだっただろう。
ジャンプひとつのミス。転倒。回転不足。オーバーターン。エッジエラー。それだけが、十点でも十五点でも、スコアに影響を及ぼす。差を生む。順位を生む。優劣を生む。人生を決める。
思うたび、真っ黒な円に足元から飲まれていくような感覚に包まれる。胃の底を撫でる不安を拒むように、背中を丸めた。
だって、誰も助けてくれないんだ。誰も守ってくれないんだ。リンクの中央で泣くのを堪えながら頭をさげる僕に、拍手なんて余計なもので煽ってくれる。その手のひらで、僕のことをぺらぺらになるまで叩きのばしてくれたら、どれだけ良いか。
怖い。怖い。怖くてたまらなかった。
だから、跳ぶしかない。加速で増した遠心力と一緒に、負の思考も飛んでいけばいい。練習は裏切らないなんて、そんなことは綺麗ごとだと知っていても。
上手くなるかなんてそんなこと、僕には分からない。けれど練習は安定剤だ。跳ぶほど、回るほど、安心する。跳べたから。飛んでいったから。それなら、僕は大丈夫。まだ戦える。戦う意志は、まだ燃えている。
あと一回ずつ通したら、今日は終わり。
ボトルの蓋をぎゅ、と締めた。もう一度、額の汗を拭い取る。肩に力を入れて、脱力。もう一度力を入れて、脱力。繰り返しながら、リンクの中央へ進んだ。
じゃあ曲かけるよ。その声に視線で頷いてから、集中。熱が立つ。眉をすこし持ち上げて、目の奥に力を入れた。数秒後。鳴り響く曲の予感に、右手の指先を擦り合わせる。
ジャッジが見てる。ヴィクトルが見てる。
見てる。見てて。見てろ。
×××
帰り支度を終えてからふたりで受付へ向かうと、入口に座り込んでいる愛犬を優ちゃんが撫でていた。ふわふわの耳を持ち上げて、遊んでいる。
「今日もありがとう」
「終わり? お疲れだね」
彼女の声はいつも明るい。きっとどんな人ごみに紛れていても、聞き取ることのできる類の声だ。突き抜けるような。それに僕もつられてしまいそうになる。
「マッカチン!」
ヴィクトルが呼ぶと、それはもう嬉しそうに愛犬は、マッカチンは、彼の元へ駆けて行く。グッドボーイ。ぐしゃぐしゃに撫で回されるのも嬉しくてたまらないというように、しっぽを振り回す。千切れてしまいそうだ。
アリガト、ユーコ。シーユートゥモロー。
散々犬を撫で回してから、ヴィクトルはそう言って優ちゃんに頭を下げた。ありがとうとお辞儀はセットだよ。と教えて以来の、彼の習慣だ。最近角度が深くなってきているような気がする。長い前髪が、糸の束のように垂れ下がる。四十五度の方は忘れているのかもしれない。
「はい。また明日」
シーユートゥモロー。優ちゃんが笑って手を振って、ヴィクトルも同じように手を振り返す。そして今すぐにでも走り出さんばかりの犬に向かって、叫んだ。
「オーケー、マッカチン! ゴー!」
ひとりと一匹は、自動ドアが開くと同時に駆け出して行った。僕が行くまで駐車場で遊んでいるのだろう。いつものことだった。嵐のような外国人。いつか前、真利姉ちゃんがぽつりとこぼした言葉が過った。
また明日、で思い出した。と、彼女は手のひらを打つ。
「やっぱりおじさん、明日の朝に整氷来るって」
「ああ、うん。分かった。じゃあ昼過ぎに」
また腰痛めちゃったみたいでね、今日は病院行ってるんだって。優ちゃんは心配そうな表情でそう言って、頬に左手を当てる。
ここの通い始めた頃からの、顔馴染みのおじさん。年齢的にはもうおじいちゃんなのだろうが、おじさんはおじさんだ。腰痛が悩みの種の、おじさん。
「じゃあね。気を付けて」
「うん。また明日」
ヴィクトルにしたのと同じように、彼女は僕にも手を振る。
突き抜けて明るい笑顔。それに僕も、笑って返した。
夏が来た、と思うのは、建物から一歩出た瞬間。正確にはドアを開けて、舞い込んだ熱気が体に触れた瞬間だ。
外は熱がねっとりと纏わりついて気持ちが悪い。数時間氷の上に過ごしていたから、余計だ。寒さには充分な耐性がついているものの、暑さにはからっきしだった。
まだ六月だというのに。いや、じきに六月も終わる。あと一週間もすれば、正真正銘の夏がやってくる。僕がますます氷の上へ引きこもる季節。あそこは、涼しくていい。
裏の駐車場へ向かうと、ひとりと一匹はやはりそこにいた。
「お待たせ」
「バイクが」
「自転車?」
「タイヤが潰れてる」
「あれ、本当だ」
見れば後輪の空気が抜けて、ぺしゃんこに潰れていた。もしかすると穴が開いているのかもしれない。来た時は平気だったのに。
といっても長らく放置していた自転車に空気を入れて使っていたから、いつ駄目になってもおかしくはなかった。むしろよく二か月と少し、もっていたものだ。その空気入れも壊れかけだったものだから、どうにかこうにか工夫して空気を詰めたあと、処分を頼んでしまったような気がする。
もうひとつあったかなあ。呟く僕の周りを、マッカチンがぐるぐる回っている。早く帰ろうよと、急かしている。は、は、と息を吐くその姿が、なんだか暑そうに見えた。
「後で空気入れ探してみるから、今日は歩いて帰ろう」
がしゃん、と蹴ってスタンドを外す。根元が錆びついていて、動きが悪い。一緒に油も注そうと決めた。
「日本はもっと治安の良い国だと思っていたよ」
「こんな古い自転車、誰がパンクさせるんだよ」
転がすたびにリムがタイヤのゴムを踏みつけて、しゅるしゅると奇妙な音を立てる。やたらに上げられたサドルが、古びたマウンテンバイクの外見には相応しくない。僕が跨いだら、爪先がぎりぎり地面に届くくらいだろうか。少なくとも乗れたものではないのは確かだった。
だってタイヤって、使い捨てでしょ?
ヴィクトルがそう言い切ってみせたのは、自転車を押しながら歩き始めてすぐのことだった。タイヤが潰れるのは、どこかに誰かが穴を空けたから。そのやたらに物騒な発言にあんぐりと口を開けたのも、数分前のことだ。
おかげで僕はタイヤはバルブから空気を詰めれば何度も使えるのだという、当然の認識を説明する羽目になる。穴が空いていない限り、ということをひたすらに強調して。
しかしそのひん曲がった思考を完全に矯正するには至らなかったようだ。まだ誰かが穴を空けたと思い込んでいる。ロシアとはそんなに治安の悪い国なのだろうか。日常茶飯事的にタイヤに穴が空くような国なのだろうか。
「日本は暑いね」
「これからもっと暑くなるよ」
「ノー。溶けてしまう」
橋の上。燃えるような西日が僕たちの横顔を照らしつける。溶けてしまう。氷の上の表現者である彼にも、そして僕にも、まさしくふさわしいのかもしれない。
マッカチンも暑いよね。後ろを歩く愛犬に問いかけると、まるで人の言葉を理解しているようにわん、と一度吠えた。茶色の毛に覆われた耳が揺れる。確かに、あんなにもこもこの毛に覆われた体は暑いだろう。手足をつけている、このアスファルトも。刈ってしまうわけにもいかないから、犬は大変だと思う。
「明日昼から来て、って優ちゃんに言われた」
「なにかあるの?」
「整氷のおじさんが朝来るんだって」
「アー。オーケー」
今度会ったらお礼を言わなくちゃ。
アリガト。そう言って、四五度以上のお辞儀を、おじさんにもして見せるのだろうか。おじさんは驚いてしまうんじゃないかと思う。こんなかっこいい外国人さんがって、きっと腰を抜かしてしまう。腰痛が悩みの種なのに。
後ろから走って来た赤い車が、僕たちをあっという間に追い抜いていった。黒い排気ガスを薄く吐き出しながら。愛犬が、また吠える。自分も走る、と僕たちの前へ走り出る。
オーケー、マッカチン! ゴーだ!
それを合図に、マッカチンは弾丸のように駆け出した。ヴィクトルもそれを追って走り出す。どちらもなかなかに早いから、まばたきの間に後姿がどんどん小さくなっていく。自転車を押して歩く僕を、置いて行く。
×××
翌朝、僕は再び後輪の潰れた自転車を押していた。
結局物置に空気入れはなくて、近所の自転車屋まで持って行くほかなかったのだ。急な坂道を超えた、向こう。目的地に至る前に、すでに息は切れ始めていた。
じりじり、と太陽が背中を焦がしていく。あたたかいが暑いに変わって、それがさらにうっとおしいに変わるのに、時間はかからなかった。まだ六月なのに。白は光を反射するという科学的事実があるけれど、それは嘘だ、と思う。だって白いシャツを着ているのに、こんなにも暑い。
昔、潰れたタイヤのまま自転車を転がすのはあまり良くない、と言われたことを思い出した。それならこの状況で、どう運ぶのが最善なのだろう。持ち上げるのは形態的にも体力的にも不可能に近い。だから僕は最善を諦めて、しゅこしゅこと自転車を転がし続ける。
いかんせん坂道が長いのだ。ひとりで上るならまだしも。自転車を押しながらとなると、足のおかしなところに力がかかる。しかしこれもトレーニングの一環だと思えば。思えば、楽しいのだろうか。今はあまり、楽しいとは思わない。
ひい、ふう。ついに上りきると、すぐそこに目的地が見えた。インクの掠れきった看板。サイクルなんとか。前は、なんて名字が書かれていただろう。このマウンテンバイクはその昔、ここで買ったものだった。
一回二十円の錆びた黄色い電動式空気入れが、変わらずに入口に置かれていた。ご自由にどうぞ。黒の油性ペンで書かれた文字も、揃いのように掠れている。
それを目にしながら、すいません、と奥にいるであろうおじさんを呼んだ。ここで自転車を買うと、いつでも無料で空気を入れてくれる。たかだか二十円。されど二十円。ただしおじさんが買った本人の顔を覚えている間に限り、である。
がらがら、とすぐに引き戸が開いて、見覚えのある顔と目が合った。
「あら。勇利くんか」
「お久しぶりです」
忘れられていたらどうしようかと思っていた。五年、いや、最後にここに来たのはもっと前のことになるはずだが、おじさんは僕のことを覚えてくれていた。
「顔くらいすぐ分かるよ」
駅に行けばいつでも会うしな。そう言われて、僕はやめてくださいよ、と返すしかなかった。あんなにたくさんのポスター。選挙でもないのに、長谷津駅はやや過剰だ。
「すいません。空気抜けちゃったみたいで。穴が空いてるかも」
「ああ、いいよ。見る見る」
おじさんは電動空気入れを手に取って、栓を抜いたバルブの口に押し付けた。ふしゅう、と空気が擦れる音が聞こえて、見る間にタイヤが膨らんでいく。数秒後、ぱんぱんに膨らんだのを確認すると、空気入れをバルブから離した。生き返ったそれをくるくると回し、親指で押してはまた回し、押してはまた回していく。
「穴は空いてねえみたいだけど、ちょっと危ないかもなあ」
前も入れとくな。僕がお礼を言う前に、おじさんは素早く前輪のバルブの栓を抜いて、再び空気入れを押し付けた。
「勇利くん、今あれなんだろ。外国人に教わってんだよな」
「あ、はい。そうです」
外国人。まさしくヴィクトルのことを指しているのだろう。チェレスティーノも外国人だが、おじさんが言うのはきっとヴィクトルだ。それくらい、あのロシア人は長谷津に浸透している。名前の方は長くて難しいから、あまり浸透していない。
ヴィクトル・ニキフォロフ。十年よりももっと前から、僕がそらで言えた名前。
ふしゅ、と空気が溢れた。バルブから離して、素早く栓を閉める。
「じゃあ英語ぺらぺらだなあ。すげえや」
俺なんてハロー、しか分かんねえ。はじめはみんなそうだ。僕だってそうだった。会えて嬉しいです、さえ書き取れない子供だった。しかしそんな言葉をおじさんは待っていないだろうから、ただ笑って誤魔化すだけだ。
「ん。オッケー。後輪ちょっと擦れてて危ねえけど、やばくなったらまた持って来な」
「ありがとうございます」
穴が空いていた時に備えて財布を持ってきたけれど、どうやら必要なかったようだ。
生き返った自転車に跨ると、タイヤに詰まった空気が体を押し戻すみたく弾んだ。これならどこまでも走っていけそうだ。しかしサドルを調節しないと、やはり足元が心許ない。
あ、ちょっと待って。そう言うとおじさんは引き戸の向こうに消えていった。その間に、サドルの位置を調節する。すこしするとスプレー缶とアイスの袋を手に戻ってきた。
「油さしてやるから、一回下りな」
缶の蓋を取って油を拭きかけると、行き渡らせるようにペダルをぐるぐると回す。反対も同様に。気になっていたスタンドの根元にも、油を注してくれた。
「はいよ。お待たせ」
じゃあ、気を付けてな。と、おじさんは持っていたアイスを僕へ放り投げた。思わず掴んだそれは外気に逆らうみたくきんきんに冷えていて、袋には薄く露が張っていた。早く帰らないと、溶けてしまう。
「あ、ありがとうございます」
「外国人さんにも、よろしく言っといてくれ」
おじさんの笑顔は、にか、という効果音がよく似合う。そうだ、これはヴィクトルが乗る自転車だ。しっかりよろしく伝えておこう。
「スケート頑張ってな」
はい。ありがとうございます。ありがとうございますって、僕、何度口にしたんだろう。きっとすいませんと同じくらいに、口癖なのだと思う。典型的な日本人なのだから、仕方がない。
回りの良くなったペダルをぐんぐん漕いで進んで行く。肌をすべる向かい風が、ひたすらに気持ちよかった。
×××
行きとは打って変わった快適な下り坂を走り抜けて帰った僕を、ひとりと一匹が出迎えてくれた。その頭には、端がぼろぼろの麦わら帽子が乗っている。薄い素材の館内着が、涼しげに見えた。
「おかえり。自転車アリガトー」
「どうしたの、それ」
「ヒロコがくれた」
四十五度以上のお辞儀。その拍子に、帽子がぱさりと土の上に落ちる。現れた髪が陽の光をはじいてきらきらと輝いた。白い首すじが、眩しい。氷の上の表現者。髪色と肌が相まって、彼の周囲には氷の粒がゆらゆらと漂っているような気がして。いや、ただの錯覚だ。
「食べる?」
おじさんがくれたものだからといっても、体重制限を厳しく課している僕は食べることができない。ほんの溶けはじめのそれを差し出すと、ヴィクトルは嬉々として受け取ってくれた。拾い上げた帽子を被りなおす。
おじさんがよろしくだって。告げればハイハーイ、と手をひらひらさせて、彼は縁側に腰掛けた。
ヴィクトルって、どうしてだろう。夏が似合わない。白い肌が、太陽を拒んでいるみたいだ。
「アイス? じゃないね。あれ、アイス?」
「アイスだよ」
正確に言うと、ちょっと違う。アイスクリームではなく、本来の意味のアイスだ。スケートと同じ。氷。破った袋から取り出したソーダ味の氷菓を、珍しそうに回して見ていた。ふたつの違いをどう説明しようかと思っている間に、ヴィクトルは氷菓に齧りつく。百聞は一見にしかず。見るものではないけれど。
「これは、なにをしようとしてたの?」
庭にはひとりと一匹の他に、水道から繋がった青いホースが土の上に寝ていた。それを見てなんとなく、やろうとしていたことが理解できた。マッカチンが期待の目で僕を見ている。飼い主は縁側で氷菓を齧っている。フクースナ。それは良かった。
「マリが、マッカチン暑そうだっていうから」
きゅい、と蛇口を捻った。すこしすると、ホースの先から温い水が溢れてくる。それが段々と冷えてくるころ、すんすん、と顔を寄せたマッカチンは、その水を舌で掬い始めた。飲めるのか、この水。いやこれから浴びせるのだから、飲んだとしても。それに僕も昔飲んだことがある。多分。
「水浴びさせればいいんでしょ?」
「その通り!」
びしり、とヴィクトルは食べかけの氷菓を突き付ける。齧りついたそこから、棒の先端が覗いていた。
マッカチン、ステイだよ。言うとやはり言葉を理解しているかのように、愛犬はその場に行儀よく座り込んだ。本当に賢い犬だと思う。
ふわふわの頭にじゃばじゃばとホースの水をかけていく。毛がみるみる萎んでいって、頭、こんな小さかったんだって、面白くなった。足も、こんな細いんだ。それなのに、あんなに早く走れるんだ。
サンダルに履き替えてくればよかった。使い古しのスニーカーの爪先に、水が染みていくのが分かる。
いいや、脱いでしまおう。かかとから落とした二足を掴んで、縁側へ放った。ヴィクトルのサンダルとぶつかって、転がる。幼い子供の方がもっと礼儀よく靴を並べるだろうに。といっても、ヴィクトルだって気にしていない。ついで脱いだスニーカーソックスは丸めて、ポケットに突っ込んだ。
ぶるぶると、マッカチンが頭を勢いよく振る。そのしずくが眼鏡に飛び散って、視界を歪ませた。踏みつけて跳ねた泥がふくらはぎを汚す。白いシャツに茶色の水玉模様を続々とつけていく。
水浴びをしているはずなのに、すこしずつ汚れているような。マッカチンも足の裏をどろどろにして、ホースから出る水を、僕を追いかけている。水浴びって、どうやるんだっけ。少なくともこんな風に追いかけっこするものではない気がする。
その勢いのままマッカチンは体当たりをしてくるものだから、耐えきれずに体が傾いた。右足が泥に取られてずるり、と滑る。あ。声も出ぬ間に、重力と犬が僕を押し倒す。どしん。視界が一瞬揺れた。後頭部をしっかり打ち付けて、眼の奥がきゅう、と絞られるように痛む。いっ、たい。舌を噛んでしまったかと思った。
倒れた拍子に眼鏡がずれる。右目と左目。視力の差で、漂う雲がやたらにぼやけて映る。午前十時過ぎの太陽が、ひたすらに眩しい。じょろじょろ、と耳の横でホースから水が流れ続けていた。そのゆるい波紋が、長くもない髪を揺らす。
腹にのしかかる重さに、う、と押し出されるみたく声が漏れた。マッカチンは泥で汚れきった足を、ぺたぺたと僕の腹に押し付ける。犬の足のスタンプなんて、可愛いものなら良かったのに。
重い。水浸しに、泥塗れ。もう、どうにでもなれ。
「ユウリ!」
やたらに慌てた声が端から聞こえてきたと思うと、声色の通りの表情を貼り付けたヴィクトルが、僕の腕を引っ掴んで起こしてくれた。ぶつかった帽子のつばが鼻先をつぶす。すこし痛い。
「大丈夫か? 頭痛くない? ここがどこだかわかる? 今日は何月何日だ? 自分の名前は? 俺の名前は憶えてる?」
「頭痛いに、決まってんじゃん」
まだ微かにぐわぐわと揺れているような感覚が残っている。大丈夫。血は出ていない。後頭部を摩った手のひらには、茶色い泥が付いているだけだった。それをホースの水で洗い流す。いい加減、尻が冷たくなってきた。
「大丈夫だよ。心配しないで」
「痛そうな音がした。脳震盪でも起こしてたらどうするんだ」
「平気だって。僕は勝生勇利で、あなたはヴィクトル・ニキフォロフだ」
「ここは?」
「家の庭」
「昼からどこに行くんだっけ」
「リンク。練習するんでしょ」
「五年前の俺のプログラム、覚えてる?」
「鐘。二度目のファイナル優勝おめでとう」
そこまで言ってようやく、ヴィクトルは安心したようにはあ、と肩の力を抜いた。強張っていた頬が、息を吐いたのちに緩んでいく。
奔放に見える彼の珍しく焦った表情に、僕は驚くというか。ああやっぱりアスリートなんだって、再認識をしていた。
些細な怪我。侮ればそれが、選手としてのいのちをいとも容易く縮めてくれる。
むしろここまで故障らしい故障をしてこなかった僕やヴィクトルは、恐らく、奇跡の部類なのだと思う。だからこそ、たかだか転んだくらいの小さなことを見過ごせない。小指の骨は案外簡単に折れるし、脳はわずかな衝撃で揺れる。それを知っている。そういう人を、たくさん見てきた。
もう残り少ないいのちを、簡単に縮めるわけには、いかない。
泥の跳ねた眼鏡を、ヴィクトルは水でじゃぶじゃぶ、と洗ってくれた。これじゃあどっちが水浴びをしているのか、分かったものではない。
しずくが垂れたままの眼鏡を、彼ははい、とうまくかけ直す。水の這ったレンズの、なんと見にくいこと。いや、一度拭こう。何でもいいから。汚れたこのシャツの端でいいから。これなら裸眼の方がまだ見える。落として踏むと怖いから、と断りを入れて外した眼鏡を、襟ぐりに引っかけた。
「あれ、ヴィクトル。アイス、」
「アイス? もう食べちゃったよ」
その手には、ただのごみになり果てた氷菓の棒が握られていた。
食べたかったの? ひと口だけあげたのに。その棒を折り曲げて小さくしようとするヴィクトルに、思わず叫ぶ。待って。反射で彼の肩がびくり、と揺れた。何、って顔をして、すこし目を見開く。奥行きのあるターコイズブルー。帽子のつばが、その瞳に影を作っていた。
それ、当たってんじゃん。
×××
例えばさあ。
スケートって、テストに似てる。テストって、バッジテストのことじゃあないよ。学校とかでやる、試験のこと。書くやつね。
ああ、まずい。やらかしちゃったって思うこと、ユウリにもあったでしょ。
とりあえず書いたけど、あれは絶対に間違えてるとか。結局何も書けなかったから、あの部分はゼロ点だとか。それで思い返した答案用紙に、頭の中でいくつもバツをつけていって。大体これくらいかな、って出した得点にもう一度まずい、って思うんだ。あったでしょ、ユウリにも。そんなこと。
フィギュアスケートもさ、そんな感じだよね。ジャンプで何かしらを失敗して、頭の中で基礎点から何点引かれるとか、焦りながら考えて。大体このくらい、って出した点数に、どうしようって思ったりしてさ。そんなこと考えているから、次のジャンプも覚束ない。
じゃあ考えてみようか。
回転が足りない? まず七割だ。出来栄えなんてそもそもないから、いくつ減点なんて考えるのも恐ろしい。ステップアウト。美しくない。僕なら迷わず、出来栄えマイナス三だね。セカンドがシングル? これも恐ろしいミスだ。クワドならまだしも、トリプルでいくつ点が稼げる? その十の指が、何本折れる? フリップなら三本、ルッツならせいぜい四本ってところだね。
さて、たった三回しかないジャンプを全て失敗した君だけど、これでテクニカルは一体何点になるでしょう。例えプログラムコンポーネンツが五十点だったとしても、総合点はどうなるかな。考えるのも恐ろしくて、縮こまっちゃう気持ちも分からなくはない。観客の励ましの声に、情けなくて顔を挙げられない気持ちもまあ、分かる。これが、去年までのユウリだ。
でもさあ、まずいって思ったテストほど、意外に普通の得点だったりするんだよね。
どうしてだろう。きっと最悪を想像していたからかな。その最悪から十点でも十五点でも高ければ、最悪は普通になれちゃうんだよ。そういう想像をしている人ほど、案外簡単にワンランク上に上がれちゃうんだよ。
つまりさ、ユウリ。試合でもない今、最悪を想像している君は、常に最悪を想定して練習している君は、きっと試合では普通になれるんじゃないかな。
だけど負けず嫌いのユウリは、普通じゃまず満足できないよね。
俺、知ってるよ。ユウリが負けず嫌いなこと。全然隠せてないよね。だから君は練習してる。ヘッタクソなサルコウを、一日に何回も跳んでる。
あ、ヘッタクソっていうのは言いすぎたよ。未完成。これでいこう。
何が言いたいかって? 言ったじゃないか。最悪なんて意外と起こらないって。そう言う人ほど普通になれるって。ワンランク上にいくのなんて、意外と簡単なんだって。
なら普段から普通を想像していれば? 普通を想定して練習していれば?
試合では、最高になれるってこと!
たん、と気味の良い音が、リンクの中央から響く。
口早にそう言い切って、仕上げとばかりに跳んだループ。着氷後の、背筋が伸びて美しい。
どうして美しいんだ。美しすぎて腹立たしい。その指先も、首の長さも、右足も左足も。銀盤を写したような白い肌も。まるで、フィギュアスケートのために用意されたもののようで。フィギュアスケートをするために、生まれてきた身体のようで。
それでもなお、磨き続けた。痛めつけて、叩きつけて。
美しい。だから、こんなにも美しい。
フリーレッグを伸ばしたままの姿勢で、お、って顔をしながら、ヴィクトルは先の軌道を目で追う。右足のエッジを内に外に切り替えて、氷の上を移動していく。
「なんで試合でループ跳ばないの」
彼の分かりにくい例え話を聞くのに必死で、回転まではしっかり見られなかったけれど。例えばさあ、と切り出したわりに例え話がうまくないとは、一体どういうことなのか。
しかしおそらく、あのジャンプは完成していた。ヴィクトルのそれは、そういう意味の表情なのだと思う。
「たまに回りきれない」
「今の、出来てたじゃん」
「そう。珍しい」
俺ももう年だからさあ。脚力がどうしてもねえ。言いながら、ヴィクトルは乱れた髪を適当に撫でつけた。
跳べるジャンプを全部教えてくれ。そう言ったのは、すこし前のことだ。不安定なサルコウ。フリップ。未開のルッツ。一度ずつ回り切れるようになるまでは見てくれたけれど、そういえばループだけは教えて貰えなかった。
跳べるジャンプを。教えなかったということはつまり、あれは跳べないジャンプということだ。どうしてよく見ておかなかったのだろう。教えてくれないのなら、目で見て盗むまでだというのに。
十分休憩。その声を聞いてリンクサイドに下りてから、半分ほどの時間が過ぎた。吹き出す汗と熱は、もうすっかり落ち着いていた。今は余熱のような心地よさとなって、僕の身体を覆ってくれている。
最初は、鐘だった。昼前にあんなことを言ったから、思い出したのかもしれない。僕が休憩している間に、彼はよくリンクの上で音もなく踊っている。いつかの自身のプログラムであったり、全く見たことのない踊りを、くるりくるりと舞ってみせる。
今日は、五年前のプログラムから始まった。鐘。首元までの漆黒の衣装を纏ったヴィクトル。からすみたい。そのプログラムを初めて見た時、僕はそう思った。動くたび、衣装が細かく煌めいて。それが、より黒いからすを連想させた。陽の光をきらきらと翼に浴びて飛び立つからす。広げた彼の長い腕が、まるで翼のように見えたのだ。
「もしかして、俺の言ったこと聞いてなかった?」
「いや。聞いてたよ」
真っ黒のからすが、跳ぶ。人の声をかき消すように。不吉の予感が、跳んでいく。
何だっけ。そうだ。試合は、試験と同じ。
ああ、確かにそうかも。思いながら、僕はリンクサイドの手すりに頬杖をついた。いや、すこし違うような。なんだか、うまく丸め込まれているような。しかし言わんとしていることは、なんとなく分かる。そういう感覚を、理解できる。共有できる。
「ヴィクトルもテストとか受けてたんだね」
「ユウリって酷いよね。俺の話に興味がないところとか」
去年の全日本。それが僕の最悪だった。もうあんな目にはあいたくないし、あわせない。そう思いながら、練習している。いつだってあの時の記憶を振り払うように、跳ぶ。回る。舞う。
それなら普通って、何だろう。何が僕の普通なんだろう。
考えようとすると、ヴィクトルが僕の邪魔をする。いつだって、ジャッジへのアピールを欠かさない。くそ。かっこいい。
「GOEプラス三百万」
「わお。ゴールドメダルだね」
ジャッジってすごいなって、時折思う。あんな表情のヴィクトルに迫られているのに、顔色ひとつ変えないのだから。差し出された花を、まるで見えていないかのように振る舞うのだから。実際、花なんてどこにもないけれど。それでも彼の手には、それがある。あるように見える。優しいピエロ。全く、笑顔を引き出すのがうまい。憎いくらいに。
「ヘッタクソなサルコウで悪かったね」
「未完成だって。言い直したよ、俺」
左足。体重を乗せて、軌道を曲げる。ぐん、と生まれた一瞬の遠心力を、かけらだって逃さない。右足を振り上げる。脇を締める。全てを力に変えて、跳ぶ。ゴールドのエッジが、輝きをひとつ落としていった。
着氷の姿勢こそ、すべて。頭。首。腰。寸分の乱れもない真っ直ぐな線を、その三点で描け。指の先で、重力を操れ。いつか昔、そんなことを言われた。
回転なんて、誰も見ていない。ジャッジ以外は。見ているのは、分かるのは、着氷だけだ。美しいと判断できるのは、姿勢だけ。
ああなるほど、って、それを聞いたいつかの僕は、勝手に頷いていた。線を描け。重力を操れ。言葉を繰り返すたびに、繰り返した分だけ、思う。出来る。出来る。僕には出来る。僕なら出来る。僕だから出来る。
なんて、美しい。頭。首。腰。髪の流れさえ、その直線を支えているように見えて、口の端が上がった。グローブを嵌めた右手で、それを隠す。頬の内側を柔く噛む。寒さじゃない。体を駆けた疼きに、鳥肌が収まらない。アメイジング。マーベラス。叫びだしたいよ。僕は、もう。
跳びたい。跳びたい。美しく。
「っていう感じ?」
「うん」
跳べる。跳べそうな気がする。出来る。出来る。僕なら出来る。僕だから、出来る。
さて、休憩終わりだね。
うずうずする体を止められなくて。彼がサイドへ下りる前に、リンクへと駆け出した。
見ててよ、ジャッジ。
もう、きっと。絶対、転んだりはしない。
×××
聞き馴染んだフリーの曲が、今日はやたらと頭の中で繰り返される。どうしてだろう。ジャンプがようやく完成したからだろうか。落ち着かない僕は、部屋の隅に置き放しにしていた電子ピアノを、畳の上に持ち出していた。
元々これは、ピアノを習っていた真利姉ちゃんのものだった。やめてからは置き場所に困って、気付けば僕の部屋に移動していた。寝る以外はろくに居もしない、物置のような部屋。あっても場所を取るようなものではないから、いつまでも立てかけたまま、捨てることさえ忘れていた。
僕も時折触れていたけれど、それもデトロイトに行く前までの話だ。もう五年、誰もこのピアノには触れていない。その証拠に、しつこく積もった埃は一度指を這わせたくらいじゃあ取れてはくれない。文字だって、所々掠れて読めやしない。
まだ動くのだろうか。結び癖のくっきりついた電源アダプタを、コンセントに挿し込む。横のスイッチを押すと、すぐに赤いランプが点灯した。よかった。まだ壊れてはいないようだ。
埃の乗った鍵盤。ためしにひとつ押してみると、オルガンの音色が想像以上に大きく響いた。びくり、と驚きで肩が震える。そりゃあ電源を入れている以上、音が鳴るのは当たり前だ。ふう、と一度落ちつけて、音量のつまみをゼロまで下げる。机の上から引き抜いたティッシュで、鍵盤を軽く拭いた。
よく見ると、端にイヤホンプラグがついている。いつも使っているイヤホンを挿してみたものの、壊れているのかどの鍵盤を押しても音は聞こえてこなかった。仕方なく音量を最小にして、演奏モードをノーマルに切り替える。
ぽん、ぽん、とピアノの音が飛んだ。右手と左手。かつての感触を呼び起こすように、指を軽く揉む。ええと、どの音から始まるんだっけ。頭の中で今一度、あの曲を流す。ゆっくりと。
そうして拾えた音を、ひとつひとつ指先に乗せていく。右手と左手。紡ぎ始めたメロディは彼女がくれたものよりずっとずっと遅くて、まるで違う曲のように聞こえた。だめだ。難しい。けれど、楽しい。
調子が変わる。鍵盤を押し間違えて、探り当てた音からまた指を流していく。頭の中では滑らかに曲が流れていくのに、鍵盤に落とそうとするとうまくいかない。同じフレーズを何回かさらい直して、次のフレーズもまた何度もさらい直す。
僕の競技人生。始めの追うように駆けるピアノが、いっとうに好みだった。それなのに弾いてみれば、鍵盤が思いのほか遠くて。
これは、厳しい。曲の調子をまるで無視して、右手だけを数回追いかけた。よし、いける。そこに左手をつけてみる。のろのろとした、覚束ないメロディ。
これでは、聞く人の不安を煽ってしまうだろう。まるで習いたての子供の演奏発表会だ。保護者が手に汗を握ってしまうような、あの感じ。どの感じだろう。僕には子供なんていないのに。おかしな話だ。
そもそもこの曲は二本の腕では間に合わない。ひとりで弾くものではないと分かっている。分かっていても、試してみたくなったのだ。
拙すぎる演奏になんだか恥ずかしくなって、息を吐く。
ピアノって、難しいんだ。あの子には、殊更に感謝をしなければならない。
「ユウリ」
「うわ!」
机のすぐ横の襖を開けて、いつの間にかヴィクトルが顔を覗かせていた。びっくりするじゃないか。驚いた拍子に腕がぶつかって、繋げたアダプタを引き抜いてしまった。赤のランプが消えていく。
「ピアノが弾けるんだね」
「どこが。聞いてたでしょ」
「ンー」
何やら機嫌の良さそうに、ヴィクトルはいそいそと襖をすり抜けて僕の部屋へ侵入を果たす。寝ていたのだろうか。起こしてしまったのなら申し訳ない。しかし彼は何も気にしてはいないというように、僕のとなりに座り込んでアダプタを繋げ直す。再び赤いランプがついたのを確認すると、白鍵の上に人さし指を弾ませた。ぽん、と音が鳴っただけなのに、彼は新しいものを見つけた子供みたくおお、と声を上げる。
ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド。それから順に、音の階段へ指を歩かせていく。
「いいね。ユウリ。他には何が弾けるんだい」
「無理だって。猫ふんじゃったくらいしか出来ないよ」
「キャット? なんだいそれは」
「えっ。知らないの」
あんなに有名なのに。いや、日本でやたらに有名なだけで、海外での様子はよく分からない。そう思って鍵盤に指を乗せてみたものの、いかんせん僕ももう覚えていない気がする。えっと、そう。確か、黒鍵だ。
弾きはじめれば意外に覚えているもので、指がするすると動いていく。コミカルな曲調が、畳の敷かれた和室には似つかわしくない。見ていたヴィクトルはすぐに、これ知ってるよ、と僕の肩を揺らした。
「知ってるけど、キャットじゃない」
「ええ、猫だよ。間違ってない」
「ロシアは犬だよ。犬のワルツ」
ワルツ。言葉を変えるだけで、いやに洒落た雰囲気を醸す。しかしやはり、猫の方が合っているように思う。
猫の尾を踏む。慌てたように駆け回る姿。痛そうだ。かわいそう。ちゃんちゃん。そんな映像が、二十年近く僕の頭にはしみ付いている。
「でも、曲は同じなんだね」
「多分。弾けないけど」
「じゃあ、ヴィクトルはなにが弾けるの」
尋ねればヴィクトルはンー、と口の端に人さし指をあてて考えていた。彼の癖。気が付いているかは、知らない。
「ピアノ、あんまり触ったことない。ユウリ。さっきの教えてよ」
「猫ふんじゃった?」
「犬のワルツ」
「同じじゃん」
えーっとねえ。鍵盤が若干足りないけれど、仕方がない。低い方をヴィクトルに譲って、僕は反対の端に寄った。
抑えた黒鍵を真似るように、彼も二オクターブ向こうの黒鍵を押し込む。
次はここ。左手はこれ。一緒に押すの。そう、同時に。
見て、聞いて。ヴィクトルはきっと耳が良いから、一度聞いてしまえば容易くさらえてしまう。低音の不穏な犬のワルツ。高音のコミカルな猫ふんじゃった。時折ずれて、しかし時折合わさって騒がしい。
ぼすん、と横の襖が暴れた。ヴィクトルが抜けてきた隙間から、マッカチンの茶色い前足が出ている。ぼん、ばん、ぼすん、と体当たりで、器用に襖を開けていく。何か楽しそうなことをしてる。そんな目をした愛犬が、僕たちのまわりをぐるぐると回り始める。音に合わせて跳ねるように。踊るように。
「なんだい。マッカチンも弾いてみる?」
その手で弾けるかなあ。笑いながら、ヴィクトルはもう一度同じ低音をさらい始めた。
ああ、なるほど。踊ってる。確かに犬だ。犬の、ワルツ。
跳ねるたびに、ふわふわの尾が背中に当たってくすぐったい。その短い爪が、しゃくしゃくと畳を掻く。なんだか。朝水浴びをしたせいだろうか。マッカチンから太陽のにおいが漂ってくる。陽だまりのにおい。包まれれば眠くなってしまう、いいにおい。
マッカチン、いいにおいしない? する! するよね! ユウリ!
ヴィクトルはもこもこの体を抱きしめて、愛おしそうに鼻を埋める。子供のように目尻を下げて。その顔があんまりにも幸せそうだったから、そうだね、って僕もつられて笑った。
涼しい夜だった。すこし騒がしい、夜のことだった。
もうじきに、夏がやって来る。
最初で最後の、夏が来る。
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