短編(CPなし)
台風が去った次の日は、どうしてこうも暑くなるのか。
十月一日。秋と称するに十分な時期だというのに、そこかしこから蝉の声が聞こえそうなほど、蒸せた日だった。
通学路から蝉が居なくなったのは、何時だっただろう。じんじんじわじわ、と。うるさいその声が聞こえ始めた頃、夏の訪れを随分嘆いたように思うけれど、終わってしまえば呆気ないものだった。だった、と言うのもまだ早いのかもしれない。夏の出がらし。太陽は今、最後の力を振り絞っている最中なのだから。
暑さに耐えかねて外していた、シャツの第二ボタンを閉める。成績がそこそこに優秀で、人当たりもいい自分のような人間が、生徒指導の恰好の餌食になると知っていた。ああいう大人は、言えば従うこどもにしか注意を促さない。すべてこの高校の夏服のシャツが悪いのに。夏服と名を冠しておきながら、通気性をまるで考慮していないところが特に。久しい熱気が、背中に汗を浮かべてくれる。
かすかに開けられた裏門に、体を滑らせた。錆びついて凹凸を帯びたそれが、左腕にうすく引っ搔き傷を残す。誤魔化すみたく摩ったところで赤く細い痕は消えやしない。この程度、痛くも痒くもないけれど。きっと裏門を断りもなしに使っている自分への罰に違いない。住んでいる家の場所からして、わざわざ正門をくぐるなんて遠回りは面倒だった。日陰のろくにない通学路だって、俺に近道をしろと唆している。
校舎裏は、昨晩の台風の影響で存分に荒れていた。折れた枝と深い緑の葉が、まだ乾ききらないアスファルトの上に散る。花壇も土に花弁が乱れていて、花は茎がぽきりと折れてしまっているものもあった。
その花壇から転げたみたく、アスファルトに落ちた黄色の球体。やはり強烈な雨風に耐えきれず、枝から取れてしまったのであろうそれを拾う。生物の教師が密かに育てていると聞いた果実だった。葉脈がうっすらと刻まれた、つるりとした葉。ぶつぶつと不規則にちいさな窪みを携えた、瑞々しい檸檬。
指先で弾いたそいつから、小言みたく鈍い音が返ってきた。しっかりと実が詰まっている証拠だ。食べ頃であったのかもしれないのに。腐らせてしまうのが勿体なくて、俺は何気なく拾い上げたそのひとつを手にしたまま、昇降口に入った。
右からみっつめの棚。向かい合って右からむっつ、上からふたつめ。特別に名札もついていないその箱を開けて、薄汚れた上履きを取り出す。同じく薄汚れたすのこの上で、その草臥れた白がたたん、と音を立てて跳ねた。代わりに履いていた黒いスニーカーを入れて、閉める。
英作文は終わらせた。数学は、テストの直しがまだ一問だけ残っている。百点殺しこと、最後の応用問題。百点殺し。やたらに格好つけたその名前が、去年数学の教師の口から聞いたきり、頭から離れて消えない。ロールプレイングゲームなら一撃必殺間違いなしの技名だろう。シューティングやアクションゲームの方が、俺は好きだけれど。
まるで硬球を扱うかのようにその黄色を宙に放って、手のひらで受ける。重さで手首がぐん、と沈んだ。ぱちりと手を打つその音が、吹き抜けのこの空間にいやに響く。
三階。の、一番奥。そこまでの短い距離を歩くあいだに、気が付いたことがひとつだけあった。うすく傷のついたおのれの左腕。夏を過ぎて、随分日焼けしたように思う皮膚。俺のシャツには、袖が足りない。十月一日。衣替えのことを、すっかり忘れていたのである。
あ、と声に出した時にはもう遅い。今日は視界も気温もどこか暑苦しいと感じていたのだ。そう。台風が去った次の日は、どうしてこうも暑くなるのか。中学生の頃に習ったように思うけれど、その覚えがあるだけで、記憶にはまったく残っていない。
生徒指導が担任するクラスの前を早足で抜ける。不本意だが校則に反している自覚があるのに、わざわざ指摘を受けるのは癪だ。幸い生徒指導は教卓の上に立っていたものの、自分の存在には気が付かなかったようだ。腕まくりしている奴らに紛れて、思いのほか目立たないのかもしれない。
八時三十分。がらりと開けた教室を軽く見渡す。自分と同じ間違いをやらかした生徒は、見たところ居ないようだった。衣替えなんて年に二度の目立たない行事を、どうして皆覚えていられるのか。
窓際。一番後ろ。ぺたぺたと床を鳴らしながらおのれの席へ向かい、肩に掛けた鞄を机に乗せた。今日も変わらず目前に腰掛ける薄茶色のあたまは、俺の登校に気が付いていない。背もたれに体重を預けきった姿。袖をまくった長袖のシャツに、首元から覗く紺のネクタイ。その眼は振り返ることもなく、文庫本の活字を追い続ける。
耳からさがる黒いコードは、机上に放られたMDプレイヤーに繋がっていた。この間は白だったのに、知らぬ間に買い換えていたようだ。何を聴いているのだろう。何を読んでいるのだろう。精一杯目を凝らしたが、開いた頁に刻まれた文字はちいさすぎて、ひとつだって読み取ることができなかった。
同じく置いた黄色い果実は弧を描くように転がって、すぐに止まる。とん、と一度その肩を叩けば、特別驚いた様子も見せずに、そいつは右のイヤホンを耳から抜いた。
「はよ」
「ああ、おはよう」
降谷は振り向くなり、すぐに机上の球体に目を付けた。椅子の背もたれに肘をかけて、なんだよこれ、と指でつつく。鞄を机の横に提げ、椅子に腰掛けるまでのあいだ、降谷は珍しそうに手にしたその檸檬を回し見ていた。
「爆弾を手に入れた」
「爆弾?」
八時三十二分。ホームルームが始まるまで、まだ三分ほどあった。一限目は現文で、二限目は数学。それまでに、降谷に百点殺しの戦い方を教えてもらえば、今日のクエストはクリアだ。
「今現文でやってるだろ。そういう話じゃなかったか」
それはある男が果物屋で買った檸檬を爆弾に見立て、本屋に置いていくというただそれだけ話だった。それ以上もそれ以下も起伏もなく、故に面白くもない話。しかし道中巡り合った檸檬に惹かれ爆弾に見立てるという男の行為が、まさに今の自分と一致していることに気付く。心境が一致しているかと問われれば、思案する隙もなく答えはノーだ。
降谷は左手に持ったままの文庫本を、ちいさく掲げて見せた。
「これ、今読んでる」
「え。なんでだよ。面白い?」
別に普通、とスピンを挟んで、茶色いカバーのかけられた表紙を閉じる。
もう人生の半分は降谷と過ごしているけれど、降谷について知らないことは多い。例えば、読む本の基準について。ある日は児童向けの探偵小説を読んでいるかと思えば、数日後には黒板消しほどの厚みをもったミステリを読んでいることもある。それが今日は、俺が拾った果実と同じ名を持った本を読んでいたのだから、何らかの運命を感じてしまうところだ。ただの偶然に過ぎないのだろうが。
その薄青の眼が、袖の欠けた夏服をなぞる。十月だぞ、と。今日の俺に生じた異変に、こいつは誰よりも早く気が付いてしまう。
「いくら今日が暑いからって言ってもなあ」
「素で間違えたんだよ。ていうか宿題、一か所分からないとこある」
改めて指摘されると、途端に周囲から浮いたように思えて、落ち着かない。手の甲に油性ペンで「冬服」と書いておけば、忘れずに済むだろうか。生憎俺のペンケースに、水で洗っても消えない類のペンは入っていない。
机のなかを探る降谷の、左耳。依然としてささったままのイヤホンから、絶えず音楽が流れているに違いなかった。何聴いてんの、と問えば、昨日買ったやつ、と降谷は淡泊に言う。俺は所在無げに揺れる右のイヤホンに手を伸ばした。そんな自分を、降谷は一切咎めることがない。ふたたび振り返ったその手には、青い一冊のキャンバスノートがあった。数学。降谷零。何かに引きつられたような、右上がりの文字。
「二限だろ。使えば」
「いや、どちらかというと教えてほしい」
「写せば分かるだろ。あとイヤホン、こっち使え。体勢きつい」
写せばって。そういうことじゃないんだよなあ。降谷は挿していた左のイヤホンを取ると、俺に差し出した。右を降谷に返しつつ、その左を耳に挿す。ピ、ピ、とリモコンの操作音が聞こえて、直後に始まった一曲。
鼓膜を揺らすのは、降谷にまったく似つかわしくないユーロビートで、歌詞を追いかけながら俺はつい吹き出していた。嘘だろ、ゼロ。よくこれを聞きながら本が読めたな。
「これ、おまえが買ったの? 好きだったっけ」
「嫌いじゃないよ」
「アメリカ? へー。あ、テレビで聞いたことあるかも」
ほら、こういうところとか。やはり俺は降谷について、まだ知らないことが多くある。こんなに長く一緒にいるのに。俺にはそれが面白くてたまらなかった。そもそも嫌いなら聞かないだろ。降谷は時折、斜め上の回答を寄越してくれる。
開いた青のノートには、数式が淡々と並んでいた。エックス。アルファ。シグマ。数字のなかに時折現れるギリシャ文字が、今日も頭の良さそうな形を成している。良さそう、ではなく良いのだ。自分もなかなかの成績を保ってはいるけれど、降谷のそれにはまったく適わない。
CD貸そうか、と降谷は正面を、俺からすれば右を真っ直ぐに見据えながら言った。反対の左耳が、ホームルームが始まる前の喧騒を捉えている。本鈴直前、呑気に教室へ入ってくるクラスメイト。廊下に並んだロッカーの閉まる音。誰かの上履きがリノリウムを叩く。
「おお。ありがとな」
「明日持ってくる」
MDは絶えず回り続けて、学びの場に似合わない曲を俺たちの耳に届けていた。すこしだけ癖のついた黒いコードが、俺とゼロを繋いでいる。それを目で辿っているあいだに、始業のチャイムが鳴った。しかし担任はやって来ない。いつもそうだった。いつも二分ほど遅れてやって来る。
「なあ、降谷。この檸檬さあ」
その球体を指先でつつく。押して、引いて。されるまま、机の上を転げる檸檬。教室の空気を吸ったぬるい黄色。
降谷は何も言わずに、なんだよ、とその眼で言葉の続きを促す。インスパイア。最近教科書に新単語として出ていた英語を、左耳が捉えた。
「今日、弁当?」
「ああ」
「じゃあ昼飯のとき半分にして食おうぜ。こいつ」
包丁は家庭科室で借りればいい。無ければ最悪、手で割ればいい。割れるのだろうか。檸檬を実のまま食ったことないな、そういえば。
「別にいいけど」
「そんで、元のとこに種植えて育ててさあ。自給自足」
「檸檬育てるのに何年いると思う」
「さあ。二年くらい?」
言えば降谷は呆れたように半ば眼を閉じて、息を吐いた。うわ、傷つくなその反応。向日葵とか、朝顔とか。俺の知っている植物といえば数ヶ月育てていれば花が付き、勝手に種になっているものだから、果実なんて想像もつかない。林檎も蜜柑も、言われてみれば木に成っているのに、檸檬はまるで観葉植物のような出で立ちで花壇に植わっていた。やはり思うほど時間はかからないのでは、と思い至ったところでもう一度、頭のなかでゼロがため息を吐いた。
「まあ、でもさ」
言いかけたとき、担任がようやく教室の扉を引いて現れた。やはり今日も二分の遅刻だ。今日も二分のボーナスタイム。俺もその恩恵に一度だけ肖ったことがある。このクラスにやけに遅刻者が少ないのは、そういう理由があるからだ。
俺はDメロに入ったばかりの曲を諦めて、外したイヤホンをゼロに返した。ゼロはそのコードをぐるぐる、とやや手荒にプレイヤーに巻きつけて鞄に仕舞う。早くノート写しとけよ。それきり薄茶色のあたまは黒板の方へ向き直ってしまった。
卒業した後も、たまに様子見にくればいいじゃん。
遮られてしまった言葉を反芻しながら、ノートを該当箇所まで開き進める。黒鉛が刻まれたノートは、送るたびにぱりぱり、と気味よく鳴いた。そう離れた大学に進学する予定はないし、不可能ではないと思うんだけどな。水やりは雨に任せて、裏門から花壇を眺めれば、不法侵入にもならない。不審者にはなり得るかもしれないが。
襟にかからないよう刈られた襟足。背もたれに体を預けたせいで皺の付いたシャツ。その背中があ、とちいさく声を上げるのを、俺は聞き逃さなかった。ヒロ。振り向いた降谷の視線が、俺の両の眼をつかまえにくる。学校中で俺のことをそう呼ぶのは、降谷だけだった。
「今日、部活は」
「ない」
「昨日ヒロんちに、充電器置いてった」
「本当か。取りに来る?」
聞けば降谷は、そう問われることがあらかじめ分かっていたかのように頷いた。担任が進路希望用紙の提出を急かしている。来週までに出さなかったやつは名指しするからな、と冗談めいたように脅し、誰かが用紙自体を失くしたと今になって騒ぐ。ふたたび向き直った降谷はしかし、興味を失くしたように黒板から眼を逸らして、半端に水溜りの残るまだら模様のグラウンドを見下ろしていた。その横顔を、もう何度後ろから眺めたことだろう。
ゼロの言葉を聞いて、今朝部屋に見慣れないアダプタが落ちていたことを思い出した。あれは降谷の充電器だったのか。最近携帯のバッテリーの持ちが悪いのだと、以前零していたことも同時に浮かぶ。
晩飯食ってくかな、ゼロ。後で聞いて、そしたらおばさんに連絡を入れておこう。そうでなくともおばさんはゼロのことをいたく気に入っていて、家へ連れて行けば必ず晩飯へ招こうとする。ゼロが頷くかは今のところ五分五分だ。昨日は首を振られたから、確率で考えれば今日は頷いてくれる可能性が高い。やはり先に連絡を入れておいた方がいい。
檸檬に押し付けた指先を、円を描くように動かす。どんな味がするのだろう。強すぎる酸味にひと齧りでお手上げ、なんてことになるのは、あまりにもこの檸檬に悪い気がした。
目前の、不自然な皺が刻まれたシャツ。それを迷路のごとく目で追いかける傍らで、俺は弁当のおかずにから揚げが入っていることを願っていた。
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