短編



購入したばかりの傘を畳むのは楽しい。
ぱちん、と留め具を外せば、力なくほどけていく白布の集まり。しっかりと折れ癖のついた布地は、手のひらを滑らせるだけで容易に纏まって、うつくしい円筒に収束していく。
まだ水を弾いたことのない真新しい折り畳み傘は、まるで純白のスカートのようで、それも好ましいと思う点だった。宙を舞う白。地面を蹴り上げて、翻る白。白は降伏の色だなんて、一体誰が決めたのだろう。極限まで光を浴びた、もしくはすべての光を弾き返す白は、いつだって私の眼にはこんなにも眩しく映るというのに。
ぽつん、しゅるしゅる。ぱちん。ぽつん、しゅるしゅる。ぱちん。
ひとりしかいないこの部屋に、おのれの手によって起こる規則的な音が響き続けていた。窓から入り込んだ陽の光が、傘の白と合わさって弾かれて眩しい。しゅるしゅると巻きつけて金具を留めたそれを、私は教科書とお弁当を詰めた鞄に入れた。だって今日は雨が降る。昼時から降り始めるその雨は日を跨ぐ頃に止んで、また明日、同じ時間帯に降り始めるのだ。枯れ落ちて、道の端に溜まった葉を濡らす雨。私はもう、明日の私が、乾き切らない湿ったアスファルトの上を歩いて通学することを知っている。
傘を入れた分、わずかに重さを増した鞄。引き上げた持ち手を指の腹で撫でながら、私はすこし前に見送った同居人のベッドを見つめた。丁寧に整えられたそこはいつだって無駄な皺など無く、まるで長いあいだひとり部屋であるかのような几帳面さでもって、反対側の壁に横たわっている。
日々を繰り返していると、暮らしにかかる時間が日毎に短くなっていくのを実感する。寮から学校までの道のりを歩く時間も。課題が終わるまでの時間も。ご飯を食べるのにかかる時間も。身支度を整える時間も。私はこれらの習慣たちを、もう眼を瞑っていたってきっと、すべて正しく終えることができるのだろう。
そうやって時間を余らせた私は、ぼすりとベッドを軋ませながら、その縁に腰掛けて脚を揺らした。振り子のようにベッドに脹脛を押し付けつつ、私は純那ちゃんが置いていったものたちの輪郭を眼でなぞる。


×××


「なな、どうして傘持ってるのよ」

白くて狭い空間を共有して早々、ローファーと靴下を濡らしながら、純那ちゃんは私にそう問うた。ぎゅう、と胸のなかに抱え込まれた鞄が窮屈そうで、私は私の領分を、すこしだけ純那ちゃんに分け与えてやるのだった。
どうしてってねえ。うすい布を隔てたその上。弾ける雨粒に会話を妨げられながら、私は風に揺れる果実のごとく、浮ついた声で純那ちゃんの言葉を繰り返す。たった今、そこで雨風に吹かれている木の葉よりも穏やかに。昨日まで地上に射していた陽射しよりも陽気に。純那ちゃんに合わせて狭く、遅らせた歩幅で刻むようにして、私は彼女に言葉を返すのだった。

「買ったばっかの物って、なんか持ち歩きたくなるんだよねえ」

言ってみれば、純那ちゃんはそうなの? と心当たりがないような顔をして、眼鏡の奥にあるおおきな瞳をかすかに開く。湿気で萎んだ前髪。肩口の灰色が濃くなってしまった制服のブレザー。踏んだ枯葉の欠片が爪先に貼り付いて、彼女のおろしたての革靴を汚していた。
それは不意に口を突いた嘘だったけれど。嘘と言うにはすこし身に覚えがあるものが多かったから、私は傘を持たない方の手でおのれの頬をやわらかく掻いた。
たとえば買いたてのハンカチや筆箱は、誰かに見せるために常に持ち歩きたくなるし、新しい革靴を履いた日は、すこし遠回りをして帰りたくなる。晴れた日にわざわざ雨具を持ち出すほど陽気な性格ではないけれど、みんなにかわいいと言ってもらえるならそれは嬉しい。そもそも初めて今日という日を過ごした過去の私は、どうして傘なんて持ち出そうと思ったのだろう。先日買ったばかりのこの傘の可愛さを、本当に誰かと共有でもしたかったのだろうか。正確な理由をもう思い出すことができないけれど、嘘を吐くときはすこしの本当を混ぜた方が信憑性が増すと聞く。何より、純那ちゃんがふうん、とそのうすいくちびるをわずかに尖らせて呟くものだから、事柄の真偽などは些細なものの一端に過ぎないのである。私の世界は、案外純那ちゃんを基準に回っていることを否めない。

「でもありがとう。助かったわ」
「えへへ。大場ななとの短い旅をお楽しみくださーい」

純那ちゃんが足を踏み出すたびに、その髪留めについた鈴がちりちりと鳴る。純那ちゃんの勤勉な指先が、傘の縁から覗く留め具を摘んだ。かわいい、と呟いて摘まれた、黄色の果実。やわらかな実の集まり。だから私はこの傘を買うのを、毎度やめることができないのだと思う。本当はもっと、汚れが目立たない色にするべきなのに。まるで光に誘われる虫の如く、私は弾かれる光たちに反して、その色に手を伸ばしてしまうのだろう。
ななってさ。踏み込んだ先の水溜まりをふたりで揺らして、露先から落ちた雫がまたその水溜まりの糧となる。朝はあんなに晴れやかだった水色の空が、今は終末を予期しているかのように暗く重い。そこに沈もうとしている夕陽の色さえ掻き消す灰色は、輝かしい再演中のこの舞台には、まったくふさわしいものとは思えなかった。

「ななって、未来を知ってるのかもって思うとき、あるわ」

ふ、とおのれが口にした冗談を茶化すようにして、純那ちゃんは笑う。純那ちゃんは真面目な生徒だった。授業中に絶対に居眠りなんてしないし、朝は目覚まし時計よりも早く起床する。課題だってすべて済ませてから眠りに就くような人間なのに、存在しないと分かりきっているものを頭に浮かべて、ひとりでに笑うこともあるのだ。そのすがたを知っているのは、始まって半年程度経過した高校生活のなかで、おそらく私しかいないのだろう。もったいないことだ、と思う。しかしそれが嬉しいと感じてしまう私は、図体ばかり大きな身体に反して、実に子どもじみた感覚の持ち主であることを実感する。
ゆらゆらと、傘を持つ手の内でストラップが揺れていた。白いビニール製のそれが、歩くたびに左右に振れる、誰かのポニーテールを連想させる。

「んー。どうして?」
「だって急な雨とか、いつも知ってるじゃない」

今日のは天気予報にも出てなかったのに。ぽつん、と電線から落ちたおおきな雨粒が、真新しい傘の上を滑り落ちていく。アスファルトを踏み締めるたび、濡れた革靴の感触が足指に伝わって気持ち悪かった。ふ、と吐いた息がかすかに白くなっていることに気付く。衣装ケースの奥に押し込んだマフラーを、そろそろ出してやらなければならない季節が近づいていた。
じゃあ、純那ちゃんはどうする? 口を開くたびに浮かぶ、うすい雲を眺めながら。雨に揉まれて砕かれて、すぐに消えていく儚い吐息を見つめながら、私は純那ちゃんに尋ねた。雲の灰色と混ざったそれが、誘われるように宙に昇っていくまで。私はその一連の流れを妨げないよう、ひそかに息を止めて、散っていく無数の粒子たちを見送った。

「私が本当に未来から来てたら」

通り過ぎた塀に張り付く蝸牛。そこから一歩一歩と踏み出して、すぐ先の通りに現れた青い車は、今日も深さのある水溜りの水を散らしながら、私たちの目前を通り過ぎていく。
別に、純那ちゃんになら見つかってしまっても良かったのだと思う。だって私はまだ、純那ちゃんに上掛けを落とされたことがないのだから。純那ちゃんがずっと純那ちゃんである限り。純那ちゃんがこのままずっと、私だけの純那ちゃんでいてくれる限り。もしも純那ちゃんがこの世界の本当を知ってしまったとしても、私の舞台に終わりが訪れることは、きっとないのだから。
純那ちゃんの声が、雑音に塗れた薄闇の空間に意志を持って広がる。純那ちゃんの歌声や踊りに滲む、その性格をあらわしたような意志の強さや、頑ななさまが好きだった。壁や天井を突くような、芯のあるそれを身に浴びることが私の歓びであり、いっそ誇らしいとすら思うこともあった。

「どうもしないわ」

ひゅう、と吹いた風に乗った雨粒が、剥き出しの脚に張り付いて冷たい。純那ちゃんはそのレンズ越しのまなざしで、露先で揺れる雫を見つめながら言う。傘に垂れ下がるちいさな雫が、まるでこの雨に凍える生まれたての子犬のように震えていた。

「だって、ななはななのはずよ」

違うのか、と伺うような視線を向ける純那ちゃんの眼はやさしい。それが偽りのやさしさではないことを知っているから、私はいつまでも、何度でも、まだ誰も知らないであろうその一面を独り占めしたくなってしまう。
雨粒の勢いに薄れてしまった夕食の香りが、どこかから漂ってはこの鼻をくすぐる。このままちょっとだけ寄り道をして、コンビニでおでんや肉まんなどを買い食いしても、純那ちゃんは怒らないでいてくれるのだろうか。もっとも、この場所から一番近いコンビニは、寄り道と言うにはすこし距離がありすぎているけれど。

「すごく悪い未来人かもしれなくても?」
「何? すごく悪い未来人って」

そうやって純那ちゃんは、寄りがちな眉間を緩めてまた笑った。すごく悪いかもしれない未来人に向けるにしては、あまりにもやわらかな笑顔。だから私は、むず痒さを覚えた背中を、ついしゃんと伸ばしてしまう。伸ばして、骨組みにぶつかったふたつ結びが乱れてしまっても、今の私はちっとも気にはならなかった。

「ていうかそれ、この前見た映画の話じゃない」

寮はすぐ先に見えていた。点々と灯りのつけられた私たちの住処。今日雨に濡れてしまったみんなは、その冷えた身体を各々の場所であたためて、労っているのだろう。だからコンビニになんて寄らなくても。そうやってみんなで、互いにぬくもりを与え合うように集まって食べるご飯が、今日も一番美味しいに違いないのだった。

「えへへ。うん。そう」

そうかも。頷けば、純那ちゃんは次は何を見ようか、とその細い指をひとつひとつ畳みながら、耳にしたことがあるような、ないような題名を次々に挙げていく。
純那ちゃんのおすすめが見たいなあ。私がそう言ったから、週末の夜は毛布にくるまって、古くて言葉の難しい映画をふたりで見るのだ。


×××


降り注ぐ雨粒を硝子扉の内側から眺めながら、次々に咲いていく傘の花たちを見送る。
もうすこし待っていたら、雨脚は弱まるだろうか。それとももっとひどくなって、雷まで鳴り出すのだろうか。光のさし込まない昇降口は、外から漂う湿気も相待ってどこか陰気だった。青春という道路に、標識のごとく引かれた白線。それらを失くしてしまったばかりの私に同調しているかのような天候が、よりいっそうこの視界の彩度を奪っていく。否、もしかしたら慰めてくれているのかもしれないけれど。それなら、思い切り晴れてくれた方がよかったのに。だって同情で涙を流されると、どうすればいいのか分からなくなる。それならまだ、太陽に笑われている方がましだった。私を咎めてくれるひとがこの場所には誰もいないものだから、太陽くらいにはそうされないと、なんだか釣り合いが取れないような気がして居心地が悪いのだ。
オーディション最終日の翌日に雨が降ることを、私は今日初めて知った。傘を持たない私はだから、職員室に寄って忘れ物の傘を借りてこようと引き返す。靴箱に入れたばかりの上靴に指をかけたとき、聞き慣れた声が私の名前を呼んだ。たんたん、とすのこを打つ軽快な足音が近付いて、私のすぐとなりに並ぶ。

「何してるの。忘れ物?」

純那ちゃんは一番下の靴箱から履き癖のついたローファーを取り出して、揃えたそれをアスファルトの上に置いた。本当のところそこは私の靴箱だったけれど、先月の頭、私の背丈を考慮してくれた純那ちゃんが、純那ちゃんだけが、場所の交換を申し出てくれたのだった。
だから私は、純那ちゃんがローファーを取り出すすがたを見るたびに、そのときの出来事を思い出す。もう繰り返すことのない思い出。来年の春も、同じことが起きればいいのに。一番上と、一番下。また同じ靴箱が割り当てられて、また同じように、私たちは靴箱を交換する。

「傘、忘れちゃったんだよね」

数分前と変わらぬ外を眺めながら言えば、純那ちゃんは珍しいこともあるのね、と言葉通りの感情を隠さない声色で言うのだった。その手には、鞄から取り出したであろうちいさな傘が収まっている。純那ちゃんがぱちん、と留め具を解けば、畳まれた布のそれぞれがうつくしく孤を描くように広がった。
それなら、と純那ちゃんはアスファルトにローファーの爪先を押し付ける。ひとの話し声がやたらに籠って聞こえるのは、きっと雨が壁となって、外の音を吸い込んでいるからなのだろう。それなのに純那ちゃんの声は、すのこの上を掛ける誰かの足音よりも、部活の始まりを告げる鐘の音よりも、鮮明な音となって私の耳に届く。

「それならちょうど良かったわ」
 
一緒に帰ろう、と純那ちゃんは言う。私はうん、と頷いて、背筋の伸びた綺麗な背中について歩いた。




春と夏の境目を行き来する五月末の空気は、やがて弾ける灼熱の予感をはらんで、身体に汗を滲ませる。
暑いなあ、と不意に口からこぼれた言葉は本心だった。もう数日経てば、衣替えの時期がやってくる。この厚手のブレザーは、梅雨も間近に控えた季節には、やや過剰な装備のように見えてならない。
鞄を抱えたその手で、純那ちゃんはおのれに向けてはたはた、と空気を泳がせる。もう夏ね。私に同調する彼女の言葉は、まるで線香花火でも眺めているかのように穏やかな響きをしていたものだから、私も純那ちゃんの視線の先で揺れる雫を見つめながら、うん、とちいさく頷いてみせた。
こうやって同じ傘の下で肩を並べて歩くときはいつも、背の高い私が傘を持つ役割を買って出る。思い返せば、私が純那ちゃんの傘に入ったことは、これまでに一度もなかったように思う。なぜなら私は明日を知っていた。純那ちゃんは天気予報をしっかり確認してから寮を出るような人間だった。だからひとつの傘を共有するような出来事は、片方の傘が壊れない限り、もしくは天気予報が嘘をつかない限り、頻繁には起こり得ない話なのだった。そう、ちょうど、去年の秋の日のことのように。

「純那ちゃんは秋が好き?」

側溝からも植え込みからも、すっかりすがたを消した桜の花弁。桃色だったはずの木は気付けば緑色に彩を変えて、今は雨に打たれて項垂れている。私は夏が好きだった。だって夏生まれだから。楽しいことを詰め込んだ夏休みだってあるし、何より黄色い果実は暑いところでよく育つ。
ちいさな純那ちゃんの傘。露先から落ちた雫が、私の鞄の表面に染みて色を変えていった。秋、と純那ちゃんは私の言葉を繰り返すみたく呟く。その視線の先。広がる傘の内側に金色にひかる星々が広がっていることも、私は今日、初めて知ったのだった。

「秋は好きよ」

指先で、純那ちゃんは赤縁の眼鏡を直しながら続ける。読書の秋とか、鑑賞の秋とか言うじゃない。その言葉に妙に納得をしてしまったのは、純那ちゃんには秋が似合うと、以前ふと思ったことがあったからだった。唐突に口をついて出たおのれ問いかけは、そんなかつての記憶が無意識に作用した結果であったのかもしれない。
なるほど、と相槌を打ちつつ、道に落ちているちいさな石を、爪先でつん、と蹴って転がす。思いのほか遠くへ跳んだそれは、マンホールの窪みにひっかかり、かんかん、とかすかな音を立てて動きを止めた。

「なんで人って、生まれたときの季節が好きなんだろうね」
「でもななは、あんまり夏って感じしないわ」

そうかなあ、と首を傾げながら、私は頭のなかでこれまで過ごしてきた夏の思い出を辿る。花火やキャンプ。お祭りやお泊まり。みんなで集まって遊ぶことのできる行事が多いから、夏生まれの私は、もちろん夏が好きだった。その時々で抱いていた高揚感や充実感は、ひとつだって嘘ではないと言い切ってしまえるはずなのに。
けれど春に生まれ直すようになってからは、やはり春が、私のなかではもっとも特別な季節であると感じてしまう。桜の花がまだ咲ききらない頃。肌寒さのなかに含まれた、どこか浮き足立つような始まりの気配。
時間とは、思い出とは、巻き戻すことができないからこそ愛おしいのだと、ひとは言う。もう愛おしむことしかできない思い出たち。この後に及んでもまだ、私は第九九回の春に囚われているのかもしれない。

「好きだよ、夏。バナナはあったかいところで育つのです」

にょきにょき、と爪立ちをしてみせれば、結んだ髪が傘の骨に当たって揺れた。ぱぱ、と散った雫が、鞄を抱える純那ちゃんの手に落ちる。あ、ごめん。ううん。短い言葉を交わしながら、私は瞼の裏に、終わってしまった舞台の景色を描く。きっと遠い未来で見返したとき、眼も当てられないほど拙いものであったとしても。まだ未熟な私たちが築き上げた青春の証左は、終わったばかりの今だって、まだ私のなかでこんなにも眩く燃えていた。

「でも、やっぱり春が一番好きかなあ」

光を吸って、深い緑色を帯びた葉。瑞々しく濡れたそれらが、アスファルトの上に落ちている。夏が来るのだ。それが過ぎたら秋になって、きっと気付けば冬も始まる。一と一を足せば二になるし、意識しなくたって呼吸は続く。それと同じように、誰に止めることもできずに四季はめぐるのだ。やがてやって来る春のことも、私はあの春と同じくらい、愛してやることができるのだろうか。
ちいさな空間のなかで触れ合った腕と腕。十五センチ上から見下ろした純那ちゃんはうすく眼を閉じて、眼鏡のレンズに擦れてしまいそうな睫毛がうつくしかった。

「羨ましいわ。去年の自分が」

停められた車の下で、雨宿りをする猫と眼が合う。金色の、まあるいふたつの眼。それがまるで、もう二度と着ることのない上掛けの釦を連想させて、私はつい眼を逸らす。

「だって今まで、そんな風に誰かに想われたことないもの」

ちょっとだけ妬けちゃう。宙に放たれたその呟きは、すぐに雨粒に砕かれて、間もなく余韻ごと掻き消されていく。
私は純那ちゃんの言葉に、もう一度謝罪を重ねるべきだったのだろうか。ごめんね、と今度は私が、そのちいさな身体を包んであげるべきだったのだろうか。けれど浮かぶひとつひとつがすべて誤りであるような気がして、私は噤んだくちびるを、すぐには動かすことができなかった。
勤勉で、真面目な純那ちゃん。私だけの純那ちゃん。これから先どんなふうに純那ちゃんが変わっていったって、私は純那ちゃんのことが好きだった。ずっと好きだと言い切ってしまえる。純那ちゃんだけではなく、他のみんなのことだって。これから時が進んでも、大切な宝物であることに変わりはなかった。
履き古したローファーに雨水が染みる。濡れた足の先がぬるくて、私は歩みを進めながらも、靴下のなかで足指をうんと丸くさせた。

「純那ちゃんは、ずっと純那ちゃんだよ」

ずっと純那ちゃんでいいの。見上げた傘の内側には、ちょうどふたつの星が並んでいる。私にはもう、それらを掴む権利はなかった。だからせめて、形が変わってしまっても。今ここにある安寧がずっと続けばいいのにと、目前に広がる星々に願うより他はないのだった。
ふ、と純那ちゃんは、眉尻を下げてかすかに笑う。最近の純那ちゃんは、私以外の人間にもよく笑顔を見せるようになった。本当は、それが正しかったのだと思う。絶対なる正しさなんて、きっとどこにもないけれど。笑顔を見せ合う間柄の人間が増えることを、悪と呼べるはずがなかった。だって、友達はひとりでも多い方が楽しい。それは私なりの正しさのひとつでもあったし、今まで星にかけてきた願いのすべてでもあった。
第一に、純那ちゃんが笑っているところを見るのが、私は何より好きなのである。

「いいの? 突然私の素行が悪くなっても」

かすかに声を震わせながら、純那ちゃんはみずからが作り出した夢のような物語の書き出しを告げた。純那ちゃんが不良になる。そのふたつの言葉の関連性がまったく見出せずに、私は頭に数多の疑問符を浮かべつつ考える。
朝寝坊をして、本鈴に間に合わない純那ちゃん。課題を忘れて、廊下に立たされる純那ちゃん。授業をサボタージュして、屋上で寝転がっている純那ちゃん。外出届も出さずに、夜な夜な寮を抜け出して街に繰り出す純那ちゃん。
想像したそのどれもが違和感に溢れていて、私も純那ちゃんにつられるかのごとく笑ってしまう。とん、とふたたびぶつかった腕と腕。ちいさな空間に漏れたふたり分の吐息は些細で、この雨粒たちを揺らすことはない。

「そしたらね、私が助けてあげる」

いいの? そんなふうに尋ねられなくても、私からしてみればそれは、とうに答えが決まっている問いだった。だって純那ちゃんが寝坊しそうだったら、私が毎朝起こしてあげるし、白紙の課題だってそっくりそのまま写させてあげる。授業から抜け出せないように毎日となりの席から見ているし、夜も勝手に外へ出ていかないように、一緒のベッドで眠ったっていい。
言えば、純那ちゃんは私の提案をひと通り聞いたのちに、やはり綺麗に笑いながら、大丈夫よ、とその身をすこしだけこちらに委ねるようにして言うのだった。

「もう、ななが守ってくれなくても大丈夫」

制服越しに寄せられた身体があたたかい。ぱつぱつ、とぬるい雨は相変わらず傘を打つけれど。耳をすませばどこかから蛙の長閑な歌声でも聞こえてくるように思えて、私はそのぬくもりに浸りながら、すこしのあいただけ眼を閉じた。ぴしゃりと踏みつけた水溜りも。靴下に染みてしまった雨水も。今は取り立てて、気になるようなものではなかった。

「そっか」
「うん」

そっか。口にしたばかりの呟きを、舌の上で転がして溶かして、些細な約束となった言葉の感触を確かめる。ちりちりと、鈴の音はちいさく鳴り続けていた。それは足音にわずかに遅れるようにして、私たちのあいだに流れる心地の良い静寂を、ひそかに埋めてくれているのだった。
あ、でも。オレンジ色のカーブミラー。私の声に立ち止まったふたつの影は、その丸い鏡に、やや湾曲して映り込んでいる。

「本当に困ったことがあったら、ちゃんと頼ってね」

雨合羽を着せられた犬が、私たちを見上げながら通り過ぎていった。振れる短い尻尾を見送って、純那ちゃんはやはりふ、と綺麗に笑いながら言うのだった。

「分かってるわ」

寮はもう、すぐ先に見えている。春を迎え、すこしだけ顔ぶれの変わった私たちの住処。灯された明かりが窓から点々と漏れており、今日もなかで暮らす生徒たちの営みを明らかにしてくれていた。
週末はどんな映画を見ようか、と、純那ちゃんは馴染んだように私に尋ねる。純那ちゃんのおすすめが見たい、と返すけれど、純那ちゃんはななのおすすめが見たい、と言う。答えの知らない問いを投げられて生まれたすこしの空白に、頭上に広がる人工的な星々が煌めいていた。
私にとって星とは掴むもので、成るもので、その煌めきが消えてしまわないように、大事に閉じ込めておくものだった。それに手が伸ばせなくなった今だからこそ、こうして見上げるだけの星も、決して悪いものではなかったことに気付く。
だって星はひとりしか掴めない。けれど眺めることはみんなでできる。綺麗だね、とみんなで眺めたその煌めきがきっと、白線を失ったおのれの道にひかる、これからの標となるのだろう。自分が一体何になりたいのかなんて、まだよく分からないけれど。各々、星の煌めきに感化されたみんなの眩しさに、負ける自分にはなりたくはないと、今は思う。
思いながら、私は頭に浮かんだいくつかの作品のタイトルを、ひとつひとつ純那ちゃんに伝えていった。
そのひとつひとつに頷きを返してくれる純那ちゃんの横顔は端正で、知らずに時間を巻き戻していたこれまでのおのれを、ほんのすこしだけ惜しく思ってしまうのだった。




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