短編



気付かぬうちに春が来て、怒涛のように去っていったと思えば、今度は知らぬ間に夏が来ていた。きっとこれもすぐに過ぎてしまうのだろうということを考えていると、一日の大半が終わっている。
窓枠に切り取られた日差しが、リノリウムの床に落ちていた。暴力的なほどに鋭そうなそれを爪先でだって踏みたくなくて。右足を一歩ひょいと外らすと、隣を歩いていたえりちにぶつかった。咄嗟に口をついた謝罪を、えりちは大丈夫よ、という優しさで結んで返してくれる。

「虫でもいたの?」
「んー? うん」

今日は肩に掛けた鞄が軽かった。比例するように、気分もどこか清々しい。というのも、つい先ほどその原因を担任に押し付けてきたからに他ならない。しばらくの間鞄の隅に丸くなっていじけていたそいつの名前は、進路希望用紙という。担任からの催促と、えりちによるまだ持っていたの、という驚嘆に屈して、先ほどついに提出する運びとなった。面倒事をひとつ蹴り飛ばして、鼻歌でも歌いたい気分だ。

「にこっちがね」
「にこ?」
「うん。こーんな暑いのに膝にブランケット掛けて授業受けてたんよ」
「寒がりなのかしらね」
「窓際だから、日焼け対策だって」
「にこらしいわ」

この廊下の窓から見えていた桜の木は、すっかり緑の葉に覆われていた。それが再び薄桃色の花をつけるとき。そのときがこの学校を去るときだということに、春を終えてから気が付いた。揃いの花を左胸に携えるその日はまだ、どこか遠い未来の話のように思える。
そういえば、にこっちのブランケットも薄桃色をしていた。薄だろうが濃だろうが、桃色の似合う女の子はすこしだけ羨ましい。

「私、これを生徒会室に置いてくるけど」

希はどうする? そう尋ねるえりちの右手のクリアファイルには、紙が六枚挟まっていた。夏季休暇部室使用許可申請用紙。適当にレ点と返り点を打てば漢文になりそうなそれを集めるのに、二十分もかからなかった。鬼の生徒会長さまはさすがだ。鬼と呼ぶには近頃、いささか角や牙の鋭利さが物足りないようにも思うけれど。
真ん中に折り畳まれた跡がついているもの。端が折れているもの。ぴしり、と曲がった跡さえ見えないもの。
受け取ったそれらに、各部活の長の性格が現れていて面白い。

「うちも行くよ」

昨日、脱いだままのベストを机の上に置いたまま帰宅してしまった。今日は特別暑かったおかげか着なくとも気にはならなかったけれど、普段身につけているものが無いとやや落ち着かない気持ちになる。肩にかかる数百グラムの重さは、自分にとって日常だった。今日は鞄が軽いから、特に。
とんとん、と階段を上るふたり分の足音が響く隙間から、合唱部の歌声が聞こえた。彼女たちはライブをしないのだろうか。いや、合唱部の場合はライブではなく、コンサートと言うのか。やればいいのに。あれほど楽しくて幸せな時間以上のものは、これまでの人生のうちどこを探しても見つからない。これからも、きっと。

「そういえば、進路希望用紙出してきたよ」

上りきった先の踊り場の隅に、埃を被った真っ赤な消化器が立っていた。エマージェンシー。今日音読した英文の中に、同じ単語が入っていたことを思い出す。あの先生は何の脈絡もなく突然に自分を指名してくるものだから、まともに聞いているふりがうまいだけの自分は苦労している。しっかり聞いていないと、すぐにどの行を読んでいたのか分からなくなる。

「そう。何か言われた?」
「特には」
「良かったじゃない」

そう、良かったのだ。良かった良かった、と大きく二歩踏み出して、生徒会室の扉に手を掛けた。直後に鍵が締まっていることを思い出して、鍵を手にしたえりちに扉の前を譲る。
絢瀬絵里という人は、随分丸くなった。この二年間、とくに生徒会長になってから張って尖った肩と肘を、誰かがやすりでまあるく綺麗に削ってくれたのだ。そのやすりを高坂穂乃香とも呼ぶし、アイドル研究部とも呼ぶし、μ’sとも呼ぶ。
前のえりちなら、「良かった」なんてきっと言わなかった。生徒会副会長でありながらふらりふらりと綱の上を歩いたり飛び跳ねる自分を、すこしくらい咎めてくれただろうに。角の取れた絢瀬絵里の言葉は今や、誰を責める為にはない。
しかしどちらであろうと、自分は絢瀬絵里のことが好きだ。にゃー、と頭の片隅で、凛ちゃんが声を上げる。そう。自分はどっちのえりちも好きなのだ、にゃー。
生徒会室の机の上で、ベストがスポットライトみたく陽の光を浴びていた。白でよかった。黒や紺だったら、日差しに燃えてただの滓になっていたかもしれない。
すっかり温くなったそれを着る気にはなれなくて、鞄の中に仕舞い込む。財布と空の弁当箱と、ペンケースとタロットカードくらいしか入っていない、ぺたぺたの学生鞄。
えりちは棚から承認印の入ったケースを持ち出してから、パイプ椅子に腰かけた。きし、と値段なりに軋む音が、静かなこの部屋の中に立つ。自分も同じように腰を下ろせば、やはり同じように椅子が鳴いた。背中に受ける日差しがすこしだけ痛い。

「先に行ってもいいのに」
「ううん。待ってるよ」

椅子の向きを変えて、からからと開けた窓枠に肘をついた。帰宅する生徒たち。歌を歌う生徒たち。グラウンドのトラックを周回する生徒たち。それらが、今この景色にすべて収まっている。下唇を右の親指の爪で掻いた。今日も直に終わる。来たる明日は、もうすこし涼しければいいと思う。

「なあ、えりち」

背後でぽんぽん、と承認印にインクを乗せる音が聞こえた。きっと書類の下には、律儀にスタンプパッドを敷いているのだろう。その姿は容易に想像出来てしまえる。

「何?」
「えりちは進学するん」
「そうね。そのつもりよ」

そっかあ、と言葉を放った先で、薄い雲が静かに流れていた。雲はいい。おいしそうだし、軽いし、何より空を飛べる。
たったの六枚。一、二分もあれば終わるだろうか。その間に、目前の雲は一体何センチ、いや何十メートル流れていくだろう。

「希は?」
「うちも。一応だけど」
「そう。決めたのね」

温い風が、夏の訪れを知らせてくれていた。
気付かぬうちに春が来て、怒涛のように去っていったと思えば、今度は知らぬ間に夏が来ていた。きっとこれもすぐに過ぎてしまうのだろうということを考えていると、今日も部室に向かう時間に近づいている。

「えりちー」
「どうしたの? さっきから」

そういえばいつからだろう。学校に来ることを楽しいと感じるようになったのは。朝が来るのを待ち遠しく思うようになったのは。

「卒業しても、仲良くしてなあ」

明日がもうすこし涼しければいいのに。それと同じくらい、自分にもうすこし学力があればいいのに、と思う。そうしたら、恐らくえりちの行こうとしている大学とやらに、自分も行けたかもしれない。
なにもかもが今更だ。今更なことは、些末として片付けるに限る。無い物ねだりを諦めるのは、昔から得意としていることだった。タロットカードで占うよりも。英語の教科書を音読するよりも。

「何言ってるの」

当たり前じゃない。言いながらえりちは、承認印を収めたケースをぱたりと閉じる。
ほらね、もう終わった。片や自分はたったそれだけの肯定が嬉しくて、ただ青い空に向かって笑った。もう。変な笑い方しないで。口の端から零れる声を、両手の指先で押さえつける。だからわたしは、えりちのことが好きなのだ。

「ほら、行くんでしょう」
「はいはーい」

まとめた書類をファイルに収め直して、えりちはそれごとを学校提出用の箱に入れた。ぺたぺたの鞄を手に、椅子を元の位置に収め直す。

「あ、ねえ。希」
「んー」
「これ、どれかひとつ選んでくれないかしら」

呼ばれて見れば、えりちの手にはお菓子の缶のようなものがあった。やや大ぶりの、多分ご家族で食べてくださいね、なんて言われながら渡されるような缶だ。
しかしその中に入っていたのはお菓子ではなかった。折り曲げられた白い紙が、六つ。使われている裏紙が、透けそうな中の文字を邪魔していた。
くじ引き。仮にそれだとして、何を目的にしたものなのかは今のところ見当もつかない。

「なにこれ」
「当たりが出たら、豪華景品?」
「ほんま!」

どれにしようかと迷うことなく、その中からひとつを持ち上げた。たとえそれがはずれなのだとしても、自分が選べばその瞬間「当たり」に書き換わる。それくらいのくじ運の良さを自負していることを、えりちだって知っているはずなのに。百パーセントの確率で渡すことになる豪華景品とやらに、あえてくじを引かせる理由。それを自分は考えもしていなかった。
山折り谷折りを直すこと数回。てっきり簡潔に当たり、と書かれているものだと思っていたそこには、アイドル研究部、という全く異なる文字が並んでいた。自分は当たりを、引いたのだろうか。

「何て書いてある?」
「アイドル研究部」
「さすが。運の良さは相変わらずなのね」

えりちはそう苦笑いしながら、手にした赤ペンでカレンダーに文字を書いた。七月の第一週目の、土曜日。つまり今週末だ。

「なあ、これ。何が当たるん」
「今年のプール掃除当番」
「うげ」

自身の部活動に押し付けられる面倒事を不正で回避しようとしないところはやはり、それが絢瀬絵里という人だからなのだろう。
プール掃除・アイドル研究部。油性マジックで書かれたそれは、もう誰にも消すことは出来ない。
じゃあ行きましょうか、と鞄を手に扉へ向かうえりちの後ろで、くじが入ったままの缶を睨む。なるほど。あの六枚にはそれぞれ部活動の名前が記してあったのだ。当たればプール掃除。ちっとも嬉しくなんてない上に、すこしも豪華ではない。

「もー。最初からそう言ってくれんと」

うち、パワー発揮しちゃうやん。ぺたぺたの鞄を、振り子のように揺らす。施錠されたのを確認してから、揃って生徒会室を後にした。変わらずに奥の部屋から微かな歌声が漏れて聞こえる。

「でもいいじゃない。楽しそうよ」

その横顔には、言葉通りの表情が浮かんでいた。つん、と高い鼻。変わっていくことの方が多かった二年半、この特別に綺麗な横顔はずっと、変わらなかった。いや、やはり変わったのだ。微笑みを覚えてから、もっとずっと綺麗に変わった。

「まあ、九人いるもんなあ」
「そうね。九人いるもの」

ふたりが九人になってからだ。毎日学校に来ることを楽しいと感じるようになったのは。朝が来るのを待ち遠しく思うようになったのは。
だから一日でも長く九人で過ごせますようにと、毎朝あの神社で手を合わせて願っている。「当たり」を引いてしまったのは、その因果なのかもしれない。やはり大神さんは侮れない。

あんなに大きなプールだって、九人でかかればすぐに終わる。
楽しくてきっと、すぐに終わってしまうのだろう。



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