短編



あーあ。めんどうくさい。

私は背中を丸めて頬杖をつく。机の左端は日差しに焼かれてやたらに暑いから、座っている椅子ごと体を右に寄せた。
窓際の最後列のこの席が、嫌いだった。皆いいなって言うけど、私には何がいいのか理解ができない。夏の昼前。かんかんと照った日差しが、私の左足をちりちりと焼く音が聞こえてくる。左腕はカーディガンを羽織っているから、まだセーフ。しかし日焼けを理由に移動することも許されず、黙って五十分を六回繰り返す間、ここに座り続けているしかないのだ。
あいにくと席を変えてくれるような仲のいい友達もいない私は、静かに鞄の中から薄手のブランケットを取り出した。暑さと日焼け。天秤にかけるまでもない。
ごそごそと膝の上に広げると、すこしばかり暑さが和らいでいくのが分かる。薄ピンクの真新しいブランケットは、日差しを見事に跳ね返してくれているらしい。本当は白がいいのだろうけど、ピンクは譲れない。絵具で白とピンクを混ぜたら薄ピンクになるからまあいいかなって、それだけの理由で選んだこの色だけど、ピンクには変わりないから可愛いし、気に入ってる。
その時一緒に買ったピンクの傘は、まだ一度も使っていない。だって梅雨のくせに、雨が一向に降ってこないから。雨って天気は嫌いだけど、その憂鬱な気分をすこしでもましにしようと思って買ったのだ。まだタグさえ切っていないような気がするそれは日傘にするにはいささか大きすぎて、やはり雨が降らないと役目は回ってこなさそうだ。その日は一体いつになるのやら。お弁当箱におかずを詰め込む傍らで眺めた今週の天気予報には、ずらりと晴れマークが並んでいた。
頬杖をつくと顔の輪郭が歪むって昨日テレビで言っていたのを思い出して、急いで頭を持ち上げる。夏ってだめ。暑いし、日差しは強いし、授業はつまらない。授業がつまらないのはいつものことか。そうやってまた頬杖をつきそうになるのを、私は寸でのところで気が付いてやめる。
窓の向こう。チョークで引いたような白く細い飛行機雲が、空を二分していた。
ぜーんぶ夏のせい。やっぱり膝裏がすこし汗をかき始めたのも。黒板に書かれた筆記体が読めないのも。アイドルは汗腺くらいコントロール出来ないといけないのに。
下の学年が体育の授業ではしゃいでいる声が、窓を破って聞こえてくる。こんな暑い日に体育なんて可哀想ね。なんて思ったけれど、時間割通りなら明日は三限目に体育がある。洗濯した長袖のジャージを忘れないようにしなければいけない。私は真っ白なノートの端に、「体操着」と書き込んだ。英語のノートなのに書き込む言葉は日本語って、なんか間抜け。仕方なしに板書を書き写しにかかると、先生に指名されて音読を始める、聞き慣れた滑らかな発音が耳を揺すった。
希って、英語だけは出来るのよね。
何故か英語だけ。何度も言うけれど、英語だけ。それ以外の教科は私とどんぐりの背比べみたいなものだ。というのは主観で、本当のところはどうだか知らない。英語が得意な時点で、希は十分なアドバンテージを獲得していると思う。アドバンテージって英語だっけ。最近は英語みたいな片仮名が世に溢れすぎていて、どれがどれだかもよく分からない。それもまあ、絵里から見れば底辺の争いみたいなものだろうけれど。
絵里のクラスって、三限の授業なんだっけ。同じ学年でも、クラスが違えば時間割はがらりと変わる。教室の雰囲気もそう。同じポスターが全く違うところに貼られていたり、掲示板のカレンダーにこの教室にはない落書きが施されていたりして、落ち着かない。同じ学年でも流れている時間が違うというのは、すこし変な感じだ。一年生ならひとクラスしかないから、みんな同じなんだろうけど。

はい。そこまで。ありがとう。

先生の声が、ピリオドで区切りをつけた希の音読を遮る。床と椅子の足に付けられた古びたゴムのいびつに擦れる音が大きく響く。他二九人と紛れるみたく腰掛けた希は途端にシャープペンシルを手に取って、何かをノートに書き始めた。ちょっと。去年まであんたも私と一緒だったじゃない。やめなさいよ。そういう真面目なの、似合ってないわよ。
 
あーあ。めんどうくさい。

三年生に進級してからというもの、先生は勉強と受験について話を延々と繰り返すロボットのようになった。進級さえぎりぎりだった私は、それと反比例するようにやる気を失くしていく。反比例なんてやさしいものじゃない。グラフに起こせば、って所まで考えて、ろくな例えなんて出て来やしない。とにかくすごい急降下。数時間前に数学のノートに書いたやつ。
 
あーあ。
 
黒板には、象形文字みたいな筆記体がつらつらと連なっていた。なにあれ。何回くねくねしてんのよ。開いた教科書の頁で、外国人がめちゃくちゃいい顔で笑っているし。なにこの人。にこのこと笑ってんの、ってちょっと不愉快になって、また頬杖をつきそうになる。あーあ。ライブがしたい。ライブがしたいなあ。
そんな思考をふっ飛ばすみたく、窓の外で白球が気味の良い金属音とともに空へ弾丸のごとく高く高く打ち上がった。


 ×××


かっきーん。
 
うそ。かよちんすごい! 
高く高く打ち上げられた球は、けれど長い時間をかけて落下したのちキャッチャーミットに収まった。でもでも、あんなに完璧なキャッチャーフライがあるだろうか。やっぱりかよちんってすごい。
四回表。完全試合続行中の凛の魔球を見事に打ってしまったのだから。と言ってもフライだったんだけどね。もっと言えばかよちんは目を瞑ってバットを勢いよく振っていた。それで当たってしまうんだから、それも運だ。かよちんは運がいい。つまり、すごい。

ナイバッチー!
 
敵なのに、つい叫んでしまった。かよちんはものすごく恥ずかしそうにバットを握り締めたまま、Bチームの輪の中へ戻っていく。あ、次のバッターの子困ってるよ。だから凛はかよちん、ってもう一度叫んだ。そうしたら気が付いたかよちんはバッドを申し訳なさそうに次の子に渡して、照れたように笑い返してくれる。
 
ごめんね。
 
かよちんの口が、そう動いているのが見えた。もう。謝ることなんにもないのに。でも、そんなかよちんも好き。
凛の手にはすこし大きくて、硬いボールを握り締める。ろくに洗われてもいないのだろう。埃臭さがもやもやと指先に染みついていくように思えた。フォークの構え。深く握り込んで、限界まで開いた指の間が切れそうで痛い。そもそもこれでどうやって投げるんだろう。分からないから、ボールを一度宙に放る。ぱしり、と硬いそれが手のひらをうった。ソフトボールなのに硬いって、なんかおかしい。どこがソフトなんだろう。親指で押したところでろくにへこみもしないボールを、ソフトとは呼ばないように思う。
でもソフトボールって、夏のスポーツみたいでこれも好き。グローブは使い古されてしなしなだから、ボールを取ったときの衝撃が直に手のひらに響いてびりびりするのだ。でも、それも好き。やっぱり夏って感じがする。
昼前の三限。太陽の光が、痛いくらいに剥き出した腕を刺してくる。風もろくに吹かない今日、背中に滲む汗が消えない。人工芝が熱を吸っているせいで、足元がやたらに熱かった。
体育が終わって次の古文も終わればお昼だ、って思うともっと楽しくなる。今日は暑いし、購買でアイスでも買おうかな。ラムネの入ってる、ソーダのアイス。お財布にやさしい百八円。
三塁側。ちらりと見やった真姫ちゃんは退屈そうに腕を組んで、髪の毛の先を弄っていた。真姫ちゃんとソフトボールって似合わない。その指に、ソフトボールなんて硬い球は不釣り合いのように見えた。やっぱり真姫ちゃんにはピアノ、って感じがする。もっと言うと夏の日差しとか、やたら萎びてはげたグローブとか、そういうのも全部似合わないなって思った。
そうやってほんの数秒、いや数秒にも満たない間見ていただけなのに、真姫ちゃんは早く投げなさいよ、って視線を投げ返してくれる。早く終わらせて日陰に入りたいのかもしれない。分かる。凛も暑い!
見上げた太陽があまりにも眩しくて、一秒だって見ていられない。前に秋葉原でライブをしたときは、こんなに暑くなかったのに。そこまで考えて、あ、ライブがしたいなってぱっと思いついた。夏といえばライブだ。どうして誰も言い出さないんだろう。凛もどうして忘れてたんだろう!
バッターが構えた。キャッチャーも構える。さて、凛の投げる番がやってきた。
頭の中で、コンバットマーチが流れ始める。かっとばせ! 星空凛! あれ、ピッチャーなのにかっとばせって、なんか違う。なんだっけ。ナイピッチ? まあいいや。
当然だけれど、サインなんてない。あったらかっこいいのに。そうだとしても、投げられるのはひとつだけ!
ピッチャー、星空凛選手。決め球は渾身のストレート!


 ×××


穂乃果ちゃんは、歌が上手だ。
音程が、とかそういうことじゃなくて、もっと感覚に近い部分でああ、歌がうまいなって思う。ライブで聞く歌声とは、また違ったファルセット。自分の順番までまだまだあるから、私は穂乃果ちゃんの歌声にただ耳を澄ませていた。次の次が海未ちゃんで、出席番号がずっと後ろの私はもしかすると次回に持ち越しかも知れない。その方がいいな。ひとりで歌うのは、あんまり得意じゃないから。
音楽の時間。今日は歌のテストが行われる日だった。サンタルチアか、野ばら。そのどちらかを選んで、ひとりずつ前に出て歌うっていうのがその内容だ。どっちにしようかな、ってすこし悩んだけれど、同じソプラノの穂乃香ちゃんも海未ちゃんもサンタルチアにするって言うから、私もそうした。
蓋を開けてみればソプラノの子は大体サンタルチアを選んでいて、アルトの子は逆に野ばらを選んでいる。音程的な歌いやすさで分かれているのだろう。
空に白き、月のひかり。
音程と表現力で点数を付けると先生は言っていたけど、何を表現すればいいのか私には分からない。多分、ここにいる生徒全員が分かっていないと思う。理解できるのはこの曲は夜だ、ってことだけだ。月の光が白いっていうのは、やはりすこし分からない。私は黄色じゃないかなって思うから。
順番がきっと回ってこないであろう歌のテストよりも、さっき休み時間の移動中に穂乃果ちゃんが口にした言葉の方が、今の私には重要だった。ライブがしたいね、ってそのひと言。それなら新しい衣装を作りたい。夏だから、シフォンとか。今流行りのオフショルも可愛い。最近買ったオフショルの白いトップスを、私はすごく気に入っている。こうやってどんな布と型を使おうかなって考えただけで、わくわくして仕方ない。
ライブするならどこがいいだろう。講堂、校庭。いつもの場所でもいいけれど、夏だから、海とか。さすがにそんな所に人を集めるわけにはいかないから、妥協してプール? プールでライブって新しいなって思ったから、あとで穂乃香ちゃんに提案してみようと思う。
こんな暑いのに、音ノ木坂はまだプール開きをしていない。再来週くらいだっただろうか。去年は七月の真ん中くらいにようやく水着を持ち出したような気がするから、多分。
プールでライブするなら。衣装は水着を模したものがいいな。なんて言えば、海未ちゃんは怒るだろうか。絶対に可愛いのに。
そのとき海未ちゃんは、先生に名前を呼ばれた。テストの順番が回って来たのだ。はい、と返事をしてからピアノの横に立つその後ろ姿を、綺麗だと思った。海未ちゃんのしゃんとした立ち姿は、そうやっていつも私の印象に残る。しかし緊張しているのだろう。声がすこし震えていたから、心の中で頑張れ、って何度も応援した。
かきん、と窓の向こうから聞こえた高い金属音が、そんな海未ちゃんの歌声の邪魔をする。視線を向けた折ちらりと見えたのは、白い何か。ボールだろうか。多分、ボール。こんな暑い日に体育なんて大変だ。屋外も屋内も。早くプールが解禁されるべきだと思う。
ふと、今朝蝉の声を聞いたことを思い出した。もはや聞き慣れたと表現するのも足りないくらいだから忘れていたけれど、今年初めて聞く蝉の声がそれだった。どれだけ暑くても、どれだけ肌が日に焼けても。やはり蝉の鳴き声が一番に夏の訪れを実感させる。
残り十五分。やはり、私の番はどうやっても次回に回されるだろう。 
空調の整った音楽室は涼しい。けれど暑いな、って思う。夏は暑い。暑いのが夏だ。
サンタルチア。最後の歌詞を、海未ちゃんのファルセットがなぞる。サンタルチアってどういう意味なのか、そういえば知らない。あとで調べてみようと決めた。


 ×××


いつものように部室の扉を開けると、ライブをしよう、という穂乃果の威勢のいい声がいの一番に聞こえてきた。
ちょっと、それにこが先に言おうと思ってたんだけど。というのは口に出さず、いいんじゃない、と言いながら鞄を机の上に置く。腰掛けたパイプ椅子がひんやりしていて気持ちがいい。
見ればホワイトボードには既に場所の候補がいくつか書かれていた。屋上。校庭。体育館。講堂。プール。プール?
プールってなによ。
おまけにその横には赤い丸がついている。明らかに特別ですって感じの主張。どうやら二年生の間では、すでに話はまとまっているらしい。
絵里も希も、夏季休暇中の部室使用許可申請用紙を掻き集めに行っているせいで、ここにはいない。一年生はホームルームが長引いているのだろうか。同じく姿は見えなかった。 
プール。プールか。
日焼けするなあ、とか水着着るなら痩せなきゃなあ、とか。そんなことより。そんなことより、楽しそうだと思った。いいんじゃない、と放った返事は、投げやりではない。いいアイデアだ。そもそもプールだからって水着になるとは限らないし。
なにより、リーダーと衣装と作詞がやる気を出しているのだから。どんな形であっても、実行されることになるだろう。あとは作曲が首を縦に振るかどうかだけれど、それは取るに足らないことだと思う。あの子が常に曲を作り溜めているのを、私は密かに知っている。
夏の言葉をひたすらノートに集めている三人を少しの間眺めていると、そのうちに一年生三人組がぞろぞろと揃ってやってきた。夏だよ穂乃果ちゃん! 開口一番それなのね。ライブだライブ、ライブをしたいと部室をうろつく凛は件のホワイトボードを見つけると、犬のように飛びついた。犬? おのれのキャラクターが崩壊しかけている事実を無視して、花陽を巻き込んだ凛は見えない尻尾をぶんぶんと振っているように見えた。加えてすこし日に焼けているように見えるのは、私の思い違いだろうか。
向かいに座った真姫ちゃんは、頬杖をつきながらいつもみたく髪の毛先をくるくると弄りつつその光景を眺めている。頬杖つくと顔の輪郭が歪むんだってさ。ライバルは蹴落とされるべきだから、あえて教えてやらないけれど。
前向きと前向きを掛け合せたみたく加速する夏のライブの話し合いの中、プールは生徒会に申請して許可が下りないと使えないはず、という冷静な指摘は紛れもない目の前にいる真姫ちゃんによるものだった。しかしそれは、だから絵里に頼もうという至極前向きな意見で、なんだあんたもすっかりやる気じゃないって、先の不安とも呼べない不安は木端微塵に吹き飛んでもう跡形もない。
その生徒会長様こと絵里は、話がすっかりまとまった頃に希とともにやって来た。
今年のプール掃除の当番が、アイドル研究部に回ってきたという知らせを携えて。



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