さよならはいらない
さよならはいらない
レオくんが来ている、と言われて窓の外を覗くと、門の前にはたしかにあいつがいた。すこし姿勢を崩して、花壇に咲いている花を眺める姿。視線の先には恐らく、つい先日花を付けたばかりのマーガレットがいる。呼んだというわけでもなく、約束をしたわけでもなく。ベストの釦を留めながらしばし観察していると、あいつは俺に気付いたのか恥ずかしげもなく両手を大きく振り始めた。そういえばれおくんは特別に目が良かったのだということを思い出す。
「いーずみーくーん」
近所迷惑というものを考えたことがないのか、あいつは。無視を決め込んでカーテンを締めれば部屋は途端に薄暗くなり、合わせ目から漏れるひと条の光が際立つ。中途半端に隙間のできたカラーボックス。すっかり片付いた机の上。必要なものはフィレンツェに借りた部屋へ送ってしまったから、この部屋はすこし寂しくなった。
ていうか何、いずみくんって。一度もそんな呼び方したことないじゃん。薄ら寒さを感じながら、一年を共にした深緑色のネクタイを結ぶ。最初は見慣れなかったというのに、気が付けばすっかり馴染んでしまって、もう赤や青の若々しさは似合わない。二年前に比べれば髪型も多少変わって、体系や顔つきも大人に近づいたと思いたいところではある。悔やまれる点があるとすれば、期待していたよりも身長が伸びなかったことだ。二十歳を超えても成長することを信じているあいつに、今だけは同調してしまう。
持ち手の擦れた鞄を取って、カーテンの隙間からふたたび外を覗いた。あいつはほとんど変わらない姿勢でそこに立っていて、恐らく俺が出てくるのを待っている。
雨が止んでいて良かった、と思う。門出の日は何より、太陽が顔を出している方が心地良い。
×××
最後の日の始まりくらいは挨拶から入ろうと思っていたのに、いざれおくんを前にするとやはり疑問の方が口を突いて出てしまう。きい、とまだ乾かない門を開ける。濡れた手を軽く振り、水滴を飛ばした。
「なんで来てんの」
着込んでいたパーカーを脱ぎ去って、同じく深緑色のネクタイを巻いたこいつ。改造に改造を重ねたあの姿は昨日で見納めであったらしい。れおくんは手のひらを掲げる仕草でもって、俺に待てだか止まれだかを伝えようとしていた。その眼は花壇の一点に向けられている。
「ちょっと待って! 今占ってるから!」
「はあ。何を?」
「好きか嫌いか」
白く細い花のなかに雨粒が溜まっていた。道路にもちいさな水溜りができていて、昨日からの雨はすこし前に上がったのだということが見て取れた。珍しくあいつが革靴を履いていると思えば、表面には白い砂粒のようなものが付いていたから、あの海岸をいつものように歩いて来たに違いない。まったく頓着しない男は今日も今日とて身軽だった。そのポケットに自宅から学院まで往復できる分の硬貨なり、紙幣が入っていればいいけれど。
「先行ってるからねえ」
湿り気を帯びた春の空気は、なんだか不思議なにおいがする。陽射しは暖かいのに、風はまだすこし肌寒い。待って、と慌ただしく追いかけてくる足音にも構わず、俺は進み続ける。
「セナひどい。せっかく待っててやったのに」
「誰も頼んでないでしょお」
こいつは何時からあの場所に立っていたのだろう。入れ違いになったらとか、もし俺が昨日学校に泊まっていたらだとか。そこまで思考が及んでいないところは、いかにもこいつらしい。もっとおのれの強運と数多の幸福によって生かされているのだということを自覚した方がいい。
「あれ、バイクは?」
ひょい、と水溜まりを飛び越えるのに伴って、その身体から硬貨の擦れる音が聞こえた。良かった。卒業式の当日に駅の改札前で狼狽える卒業生なんて、ちょっと格好がつかない。
「昨日の夕方雨降ったから。乗れなくて置いてきたの」
ただただ一直線に進むだけだというのに、後ろ向きに歩き始めたり、突然足を止めたりして忙しない。とはいえそんなこいつを見る機会も今後格段に減るのだと思うと、真っ直ぐ歩きなよ、と投げようとした小言をつい飲み込んでしまう。
なるほど。呟いたあいつの頭上を、一羽の雀が過ぎて行った。ごくごくありふれた朝の光景だった。あいつの胸元に下がるネクタイが、太陽の下でつるりと光る。それに違和感を抱いて目を凝らすと、その下に黄色の線が入っていないことに気が付いた。れおくん、と空を見上げながら後ろ向きに歩くそいつを呼ぶ。口が無防備に開いていて、なんとも間抜けな顔をしていた。
「ネクタイなんか違くない?」
「あ、やっぱ分かる? 持ってなかったから、父さんのやつ付けてみました!」
じゃーん、とネクタイを摘む指。さらによく見れば全体にうすく線が入っていて、学校指定のものとの差異が目立つ。ブレザーの前を締めて黄色の線が入っていないことを悟られなければ、ひとまず誤魔化せそうだが。えー、と不満を漏らす声を無視してブレザーの釦を留めてやる。ついでに緩み過ぎているネクタイをすこしだけ締め直した。どうして俺がこいつの身だしなみにまで気を遣ってやらなければならないのか。
「セナと一回登校してみたかったんだよなあ」
優等生の身なりに近付いたれおくんは、ところどころ欠けた白線の上を歩く。両手をスラックスのポケットに押し込んで。
俺はこれといって、学生のあいだでしか作れない特別な思い出に拘る人間ではないのだが、最近の行動を見ているとこいつの方はどうやら違うらしい。ふうん、と呟きながら、最後だしなあ、と故意に昼休み開始直後の購買に駆け込んだり、節分祭で豆をまき散らしていた姿を思い出す。
今日もあちこち飛び跳ねているこいつの後ろ髪を、すぐにでも整えたくて指先がうずく。昨日の雨で落ちてしまったらしき瑞々しい葉を踏んだ。
「おまえ、いつあっち行くの?」
錆びのついたカーブミラー。空き地に置き去りにされた自転車。後ろから車が迫ってきているのが分かったから、俺はれおくんのブレザーを掴んで引き寄せた。
「来週の頭」
「すぐじゃん」
つい先週も同じことを聞かれて、同じことを答えたように思うのだが。意外とすぐなんだなあ、と返ってきた言葉は表情と同じくへらりとしていて、締まりのないものであったことも覚えている。
ぴたりと並び合って信号が青に変わるのを待つ。今度さあ、と歩行者用の信号ボタンを何度も押し込むいたずらな指先。かちんかちん、と乾いた音を聞きながら、俺は車が一台も通らない静かな道路を見つめていた。
「おれもそっち行くかも」
「え、何しに?」
「普通に仕事ー」
頭の頂に雫が一滴落ちてくる。見上げればそこには電線が巡っていて、すこし先にはからすが一匹停まっていた。首が動くたびに線が振れて、肩にもう一滴、雨の名残が染みていく。
そしたらセナんところ泊めて。ピースサインにした人さし指と中指を開閉させながら、こいつは遠慮というものをまるで知らない顔をして言った。そのうちに信号が青に変わって、俺はれおくんよりも先に横断歩道へ歩き出す。
好きにすれば。一瞬過ったそれは喉を過ぎることなく、他の言葉に変換された。そう言ってしまえば、あいつに甘えようとする俺を俺自身が認めてしまっているようで、なんだか悔しかったのだ。
「宿借りればいいじゃん」
えー、だって。後ろから迫るれおくんの足音が今日は軽い。並ぶ桜の木から花弁が一枚舞い落ちてきた。俺を追い越したあいつは、はらはらと不規則な軌道を描くそれを両手で挟むようにして掴む。
「だってセナといた方が楽しいし」
ちゃりんちゃりん、とポケットのなかの硬貨が暴れた。開いた手のひらにはうすい花弁が張り付いており、あいつはそれを指先で摘んですこし吟味したのちに風に流した。
はあ、と大仰にため息を吐いてみせる。そんな俺だからこそ、こいつのこういうところを羨ましく思ってしまうのだ。多分、とても好意的な意味で。
「あんたってほんと、変わってるよねえ」
こいつの場合、変わっているなんてひと言で済まされる程度ではないのだが。がらがらと、閉まっていた店のシャッターが開いた。赤と青と白の三色のネオンポールが回り出す。音に驚いた雀たちは、桜の木から一斉に飛び去って行った。
「わはは。なんだなんだ、今更だな!」
「まあ、そういうとこ嫌いじゃないよ。俺」
たいした重さのない鞄を握り締める。靴の先に湿った桜の花弁が張り付いていた。たたんたたん、と電車が通過していく音がする。最寄駅に快速急行は停まらない。
「セナに褒められてる?」
「いや、素直に喜びなよ」
信号のある、ほんの短い横断歩道をふたたび渡った先に駅はある。そこに吸い込まれるように歩く大人の装いも、すっかり春めいていて軽やかだった。点滅を始めた青信号に促され、駆け足で数歩分の距離を超える。
「セナに好きって言われるとびっくりする」
「そこまでは言ってないでしょお」
「でもさっき花占いしたら好きって出たし」
エスカレーターにほとんど飛び乗るようにして足をかけるあいつ。俺は一段開けてそこに続く。壁の隙間からは電車を待つ人々が並んでいるプラットフォームが見えた。
花占いなんて、そんな信憑性のないもので俺を量らないでほしい。あ、セナのつむじかわいい。そんな下らないことをのたまうあいつを、俺はぐんと目つきを悪くして睨みつける。
「人の家の花で勝手に遊ばないでよねえ」
「じゃあセナママにお花ありがとうって伝えといて!」
ていうか腹減ったからコンビニ寄っていい? 俺が良いも悪いも言わぬうちに、あいつは上りきった先に構えられたコンビニへと向かって行く。電車の到着時刻が迫っていたけれど、一、二本乗り遅れたところで問題はなかった。外で待ってる、と声を掛けた背中が、店内へと足早に消えていくのを見送る。
コンビニの壁に背を預け、右のかかとでその壁を叩いた。次々に流れていく人の群れを眺めながら、あいつが俺の住まう国を訪れるなら、車を用意するよう言っておこうと思い付く。最後だからとあいつの真似をするつもりはないけれど、れおくんの車に乗ってやってもいい、と言ったのは俺なのだから、曖昧に終わらせるつもりはなかった。たとえ、あいつが覚えていなかったとしても。
行く先は芸術の都だ。秋までにあちこち飛び回ったらしいあいつは、既に巡ってしまったかもしれないが。そうしたらいつか、別の国へ向かえばいい。俺もあいつも、まだ知らないどこかへ。最後の通学路をゆっくりと歩きながら、れおくんの運転する車で向かう、うつくしい場所の話をしよう。
さよならなんていらない。
俺たちはきっと、いつまでもこんな風にして、繋がりを失わないでいるだろうから。
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